
調査行2日目
調査行初夜が明けて2日目となった。初日の疲れか夜更しか、2人して少々寝坊気味の開幕である。「悠長に鍋の残りで雑炊なぞ作っている場合か」と珍しく苛立つI氏であったが、結局2人して準備し、しっかり食した。その後、家内の諸々を片付け、出発したのは午前10時頃であった。現代の山陰道、国道9号線を更に西にして向かったのは、長者伝説と進家の本地、西伯地方であった。
写真は、後出する「長者原」の長者墓伝承地付近から見た「大山」。昨日分で掲げた北方からの景とは異なり、すっきりとした独立峰的山容は多くの人にとって馴染のものではなかろうか。しかし、名の通りの雄々しさ、そしてどこか無骨な様は保っている。
実は今回巡った地の中で、この長者原から望む大山の姿が一番力があり、また美しいものであった。長者原は、西伯一帯に勢力をはった紀氏長者の根拠地伝承を有すだけでなく、古代中央政権が一帯を治めるのに設置した官衙跡ともみられる場所であった。彼らは、この稀有な台地上に先端の殿舎を構え、大山の威を背に民心を収攬し、そして西伯に君臨したのであろうか。

長者伝承地「長者原遺跡」
八橋を出発して直に長者原を目指したのだが、その道すがら様々な旧跡に立寄った。先ずは八橋すぐ西の大山裾野丘陵上にある「狐塚」。八橋が属する琴浦町最大の前方後円墳で、古墳時代中期建造と見られる貴重なもの。その次は、八橋西隣の赤碕集落にある西日本最大級の自然発生海岸墓地「花見潟墓地」。展望見学のみで固有形式の鎌倉期石塔が見られなかったが中々の迫力であった。
その後は、隠岐から脱出した後醍醐天皇が上陸したという近くの海岸、そして更に西進して裾野西端地方の淀江古墳群や上淀廃寺跡にも寄った。時間の関係上、何れもあまり見聞は得られなかったが、興味深い場所なので再訪の機会があればじっくり巡りたいと思う。
そして、何とか約束通り、昼前に長者原に辿り着いた。約束というのは、ここの発掘調査を担当している「鳥取県教育文化財団」に、I氏が事前に見学を申し出ていたからである。台地麓にある調査事務所を訪ねると、文化財主事のS氏が別車にて案内してくださる事となった。
台地上に上り、先ずは「長者屋敷遺跡」から見学した。写真は、かつての発掘現場前にてS氏より説明を受けるI氏である。見渡す限りの耕地となっているが、奈良期建造の大型建屋遺構が発見されている。それらは、東西180メートル、南北130メートル以上の堀に囲繞されているという。S氏によると、台地上の広範囲に同時代の遺構が検出されており、それらを含めて、古代会見郡の「郡衙」関連施設の可能性が高いとみられるという。今は郊外の趣が濃厚だが、古代に於いては、ここが米子平野を含む会見郡の中心地であったことは疑いないようである。

長者の塔
次いで、そこから少し東にあった「坂長下屋敷遺跡」を経、更にその東の坂中(さかなか)集落只中にある「坂中廃寺」に案内して頂いた。
その、廃寺跡辺りという、さほど古くはない佛堂前にあったのが、写真の礎石であった。数個見えるが、手前側の最も大きなものは佛塔の「塔心礎」という。中央の凸部に佛舎利が納められたらしい。残念ながら未だ調査されておらず、詳細は不明とのことだが、古代の官寺と思われるらしく、郡衙とも関連するものらしい。
左奥の石碑は、江戸期に建てられたとみられる塔の供養(?)碑。現況では判読が難しいが、「紀成盛長者之塔 南無阿弥陀仏」などと記されているらしい。この地に於ける長者伝承の、古くからの存在を証するものといえよう。

S氏が何気に礎石近くの土塊を手にして発した言葉には少々驚かされた。何と、奈良時代後期(8世紀)の瓦片だという。縄目文が施された様をはっきりご覧頂ける写真のものがそれである。国内に於いてこれ程古い時代の遺物が地表に散乱しているのは珍しいことと思われる。相当な枚数が使われていたに違いあるまい。
S氏によると、郡衙の中心施設は未だ見つかっていないが、先ほどの長者屋敷遺構とこの廃寺の中間地点辺りが推定できるという。とうやら、その他の遺構の中心でもあるかららしい。因みにその範囲内には長者伝説との関連が濃厚な「長者屋敷」の地名(字名)が含まれている。口承などに比して、地名が正確かつ重要な歴史情報を宿している可能性が高いことについては後述するが、S氏と調査事務所も郡衙中心推定地と長者地名との符合に着目しているという。
律令体制崩壊の後、その地方支配の拠点を引き継いだ紀氏長者の影。確証的なものではないが、それが活躍した中世初頭の遺構も出始めているという。今度の調査進展が楽しみである。

長者墓伝承地「キサイさん」
I氏が紀氏後裔を称する進氏の出と知り、また紀氏長者の話が出たところで、S氏が「そういえば」と、車を走らせてくれたのが、台地西方にある写真の地であった。比較的新しいものと思われる開墾耕地の只中に大樹1本が残るそこは、古くから地元で長者の墓所と伝えられる場所「キサイ(紀宰・紀祭?)さん」という古跡。
確かに、ここだけ塚様の微高地になっており、大樹の根元には尊崇を物語る石佛も見え何か特別な雰囲気を有している。S氏によると、古墳の可能性があるらしく、樹の後方に積まれた平らな大石も古建築の礎石の可能性があるという。しかし、未だ調査は及んでおらず、伝承以外の詳細は明らかにされていないらしい。左方に見える石塔と石板は、その伝承を保持した近隣有志らが紀成盛長者を記念して近年建立したもの。
長者原一帯は台地という性質上、河川氾濫の堆積影響を殆ど受けない地の為、遺構面が極めて浅い場所にあるという。ならば、ここも比較的小さな労力で調査可能の筈である。早期の調査実現と、それに至るまでの現況保全を願うばかりである。
西伯の長者、紀成盛
ところで、この地の長者であった「紀成盛」とは何者であろう。成盛の名は承安年間(1171〜74)年、即ち平安末期に、霊峰大山を管轄する天台大寺「大山寺」に納められた鉄製厨子(現存。重要文化財)の銘文に初出する。また『源平盛衰記』や『玉葉』等の、中央の史料にも登場することから、その存在が確実視される。
それらによると、彼は「会東(会見郡の東半)の地主」であり、「(伯耆で)勢力ある武勇の者」であったという。また、大山寺の内紛や源平争乱と連動しつつ、東伯の有力者「小鴨(おがも)氏」と度々争い、伯耆をそれと二分する程の勢力だったらしい。経済的にも、大山寺の復興を単独で成しえるなど、長者としての姿が伝えられている。
成盛は厨子銘文の解析により、平安前期に文人公卿として中央で名を成した「紀長谷雄」の後裔とみられる。途中の系統は定かではないが、長谷雄の子「淑光」の系統に伯耆に住した「為任」があることから、その子孫ではないかとみられる。為任の伯父「致頼」や弟「成任」が国司として伯耆に赴任していることもあり、平安中期であるその頃、現地に土着したようである。
しかし、中央の任官を受けず、東伯は倉吉付近にあった伯耆の政治中心地「府中」からも遠いこの地に於いて、何故成盛は西伯を代表する長者と成り得たのであろうか。その謎は、彼の根拠地である会見郡という土地にあった。実は会見郡は伯耆は疎か、因幡を合わせた鳥取県内の郡で最も石高が高い郡であった。つまり実入りのいい地、儲かる土地だったのである。
石高統計は江戸前期以降しか伝わっていないが、土地条件や耕地面積の割合はそれ以前から、さほど変わっていない筈なので、成盛の頃もほぼ同じ状況だったといえよう。そして、更に西伯は鉄の産地でもあったので、それによる大きな利益も想定出来る。政治的には辺土であったが、大きな収益を生むここに平安中期頃土着して成長した紀氏の姿が成盛長者だったようである。

進氏ゆかりの「蚊屋島神社」
さて、長者墓伝承地を見学後、調査事務所に戻った。そして、そこで、出土遺物である古代の金床石等を見せて頂いた後、S氏と所長のK氏に見送られて、長者原調査を終了したのであった。そこからは、北方は海浜寄りの平野地帯、箕蚊屋平野へと車を走らせた。そこは、I氏の実家、即ち中世以降の進氏の居館がある地であった。
先に、この地を管轄する米子市の法務局に立寄って資料を入手した後、日吉津というところにある「蚊屋島神社」に向かった(写真)。ここは進氏、即ち成盛長者が創建したとの伝承を持つ場所だったからである。毎日鞍を新調した馬に乗り、長者原から専用道を辿って参拝した話や、毛利の大将杉原氏にここで伝家の宝刀を奪われたとの伝承が伝わっている。元は社務も司ったが室町後期より、伊勢から今の宮司家である田口氏を招いてからは、その補佐職となったという。ともかく、進氏にとっては元は氏神の如き存在であり、その後も密接なかかわりを持ち続けた社だったのである。
到着してみると、社地や社殿の意外な規模に驚かされた。それは、昨日見た一の宮、倭文宮を凌ぐ程に思われた。伝承によると社地は更に広かったという。社地後方には「裏山」と呼ばれる大きな土塁状の高まりが走っていた。社地の後方、即ち北方はかつて海岸だったらしいので、堤防だったのであろうか。しかし、土地の有力者とかかわりが深い社となると、中世に於ける城塞化の可能性もでる。
成盛長者後裔、進氏
ここで紀氏長者と進氏との繋がりをみてみよう。実は、現在のところ紀氏と進氏を結びつける明確な物証は見つかっていない。紀氏自体が、成盛以降、殆ど記録に姿を現さなかったからである。その空白を埋めるものとしては、江戸中期に進家当主が記した備忘家記『紀氏譜記』があるが、一次史料ではない伝記なので物証とは成し難い。しかも戦国期以前の記述は希薄でもあった。
しかし、西伯に於ける進氏の存在意義を考えると、強ちそれらの伝承も否定出来ない。西伯紀氏が進氏を名乗り始めた時期は諸説あって定かではないが、南北朝期である14世紀半ばの史料に初めてその名が見られることから、進氏自体はその頃には確実に存在していたと思われる。その文書は、「進三郎入道長覚」による布美荘(米子辺りの荘園)領家職横領の停止を命じたものであるが、米子市史の見解では、この横領は伯耆守護、山名氏の意向によった可能性が高いという。つまり守護による荘園侵略の代行であり、それを担った進氏は、守護の下で相応の地位を拝し得る有力国人であったのではないかと思われるのである。
そして、かの「応仁の乱」を記した重要な中央史料、『応仁記』には西軍山名側の重要な戦力「伯耆衆」の一員として南条、小鴨、村上らの有力諸氏と共に登場する。同時代のその他の文書の分析からも、この頃進氏は守護に次ぐ在地での有力者「守護代」であった可能性が高いという。しかも、前述2氏は東伯、1氏は淀江付近の勢力の為、進氏は正に平安末の紀氏同様、西伯随一の勢力だった可能性もでる。
これらの事実から、確証はなくとも進氏が長者後裔である可能性の高さが窺える。また、西伯各所に神社や城塞の建造伝承も伝わっており、広域での影響も窺えるのである。何より、古くから地元で長者家本宗であることを認知されているのも軽視できないのではなかろうか。なお、現在の進家は、戦国期に1度男系が絶えたあと、かの山陽の名家「赤松家」の血を受けた女系が継承したものだという。

箕進氏居館と屋敷絵図
蚊屋島社を後にして遅い昼食を途中の店で済ませ、いよいよ箕集落にある進家に辿り着いた。一度転出した為、古いものではないが、門構えある中々立派なお宅である。早速お邪魔して、I氏の父君、即ち第39代御当主(但し代数は赤松氏より。つまり村上帝からか)と面会した。そして用意した資料等を用いながら実地調査することとなったのである。
写真はその際見せて頂いた伝来の屋敷図。江戸後期である天保5(1834)年に、家相を見てもらった際に作られたものという。畳1枚程の大きな和紙に諸屋は無論、塀や排水溝、庭木などに至るまでの詳細が描かれている。今の家は、明治半ばに1度土地を手放した後かなりたってから規模を減じて再建されたので、本図は前近代の進家を知る上で実に貴重な史料といえる。
先ずこの絵図を見て目につくのが、屋敷を囲む太い緑の帯と水路である。緑の部分には「竹薮」の文字が記されている。これは屋敷を囲んだ土塁と水濠の跡に違いない。太平の世であった江戸期にこのような要害を成すことはありえない。よってこれは戦国期以前に成されたものの名残であることが判る。即ち、屋敷が廃滅した明治初め頃まで中世進氏の痕跡が残っていたことになる。前出の『紀氏譜記』にも、かつて屋敷が堀で囲われていたとの伝承が記されている。

上の画像は、屋敷図各部を拡大したものである。右上の部分は、敷地の右下、つまり東南の隅部分にあたる。緑の土塁跡内側にも水路と水溜りが描かれているのが解ると思うが、これは郭内の排水に用いられる「悪水抜き」であると思われる。この悪水抜きと外濠跡の存在から、当時土塁がまだ幾許かの高さを有していたことが判る。高さがなければ、水はそのまま外濠側に排水され、悪水抜きを機能させる必要はないからである。また、西側門下の土塁部分である左上拡大図には2、3段程の石垣も見られる。


現代に浮かび上がる進氏中世城館
上の2図は、先程寄った法務局で取得した古い地籍図(旧公図)である。進家が在る「土居之上」という小字(こあざ)を上下2枚(弐と一)に分けたもので、明治24年に作製された現存最古のもの。画像はモノクロコピーだが、現物は水路や道が彩色表現された和紙製であり、訂正の書込みや紙貼りが施され昭和40年代まで使用された。
この図を、上記の屋敷図を考慮しつつ見ると興味深いことが判った。それは、公図の製作以前に売却されていたと思われていた屋敷の痕跡が残っていたことである。即ちそれは土塁の在り処を示す線で、私が加筆した緑の実線がそれにあたる。線は同一地目の範囲や筆界を表しており、当該範囲は正に「山林」と記されている。平野の只中で、周囲の地目が田や畑となっている中に、ロの字形の山林があるのは、いかにも不自然であり、もはや土塁以外の何物も想定し難い。
あとは、この「ロの字」の内部全てが元は一筆であったことが訂正書きや紙貼りで判ることである。昭和中期に土地の残存を知らされ戻ってきた進家の今の屋敷地は、その西南隅である紫の部分である。よって、上記の発見と共に、「宅地」と記されたこの一筆の土地が、屋敷図に描かれた元の進家の在り処・規模であることが確かになった。この地籍図は、中世から続く進家居館の最後の姿を写し得た実に貴重なものだったのである。
更に興味深いことは、屋敷図がかなりの精度で作成されていることであった。拡大図左上には「南北三拾三間」と記された書込みが見える。これは土塁の各辺に記されており、各辺の長さ、即ち敷地の規模を示している。そして驚くべきは、絵図全体に一定幅を持ったグリッドラインが引かれていることである。拡大図に見える黄みがかった格子線がそれである。各辺の書込みとこのグリッドを検討して判ったのが、その幅がちょうど1間だったことである。この正確な方眼上に全てが描かれている。よって、地籍図に残った屋敷の痕跡と、このグリッドを照らし合わせれば、かなりの精度で遺構の位置が特定可能となる。皆「占い用程度」との認識であった屋敷図は、実は正確な方位や配置を知る必要があった占い用であったが故に、精確に作成されていたのである。
絵図の情報から算出された古の居館の規模は一辺約65メートル。16世紀前半の洪水に罹災する以前は、更にこの外側を幅5メートル程の外濠が囲っていたという。これはもう、個人の宅地としてかなりの規模、設備であるといえよう。加筆図を見て解る通り、現代の「土居之上」中心に、こうして在りし日の進氏城館の威容が浮かび上がったのである。
吉凶判定で消えた土塁の「張出し」と謎の階と石垣
屋敷図と地籍図による「古の発見」はまだ終らない。両図を比較したとき気になるのが、屋敷図左下(西南)にある土塁の「張出し」の存在であったが、地籍図には痕跡が見えないこの謎の解明手懸りは、実は屋敷図そのものの中に記されていたのである。
拡大図左下は、その張出し部分であるが、そこにはちょうどそれを切るかのように朱線が描かれている。これは家相を鑑定した卜師が記したとみられるものである。実は屋敷図には、庭木1本に至るまで、この朱墨による吉凶判断が書き込まれている。そして、正に張出し上の立木には全て「凶」字が朱書きされている。つまり張出しは、卜師の指示により撤去されたとみられるのである。
家相の鑑定結果に基づき屋敷が改変されたことが確かになった。しかも、その場所は土塁という、大きな労力が必要とされる箇所であった。そうなると、他の凶判定箇所も改変された可能性が高いといえる。例えば、張出し右側に見える「築山」と「泉水(池)」などである。恐らく、これらも地籍図の頃には存在しなかった筈である。
では、戦国期以前から天保5年頃まで存在したこの「張出し」は何の為に施されたのであろうか。残念ながら今それを解く手懸りはないが、やはり土塁に付随しているという性質上、居館防衛に関する施設であるということは言えそうである。通常の土塁幅より「張出し」の分広くなるので、天守台の如き望楼が置かれた可能性なども考えられる。ちょうど、「張出し」の右近くにある「築山」には用途不明の切石の階(きざはし)と石垣も見える(拡大図右下)。築山自体も含め、庭園装置としては少々重厚過ぎると思われるこれらも、その関連遺構である可能性があるのかもしれない。

居館の更なる広がりを窺わせる奇妙な痕跡
ところで、この進氏城館があった「土居之上」という字名であるが、それ自体が城塞址を示唆するものであることが、多くの類例により判明している。つまり今判明した箇所だけでなく、字全体が城館であった可能性も窺われるのである。その観点から再度地籍図を眺めると、また興味深いことが発見された。それは、「土居之上」上部(北)の左(西)に見られる奇妙な突出地である。
古代条里制の区画単位である、「坪」(約109メートル四方)に影響されているこの辺りの小字設定において、この様な変則は異様と言える。その原因として考えられるのは、この突出地が「土居之上」側と深いかかわりを有していたことである。可能性として挙げられるのが、土地所有者が土居之上と同一であったことや、そこから何らかの構築物が続いていたことなどがあろう。
この場合、突出面が不自然な弓なりを成しているので、所有耕地とするより、構築物の影響とみる方が妥当と思われる。そこで考えられるのが、城郭の防御施設、「出丸」である。出丸は、城塞の防御性と迎撃の安全性を高める為に城壁(土塁)の外側に張り出して設けられた小郭のことである。そこには専用の濠や防壁が設けられていた。但し、当該のものは半反程の広さしかないので、出入口部分に設けられた類似施設「馬出し」とすべきかもしれない。
地籍図には、ちょうどそこを囲う水路が見える。上掲の城館部拡大画像に加筆した水色の線がそれである。城館の東と南側の濠跡から続く水路が突出地を巡り北側へ流れ下っているのである。この水路は城館部分以外は側溝化して現存しているが、この存在からも、出丸説を往古復原考察の俎上に載せる意義があると言えるのではなかろうか。また、屋敷図に見える門の設置方角と、それが一致するのも見逃せない。しかし、方角こそ合えど、屋敷図の頃、即ち地籍図に現れた城館の門跡と、「馬出し」想定地は位置が食い違っている。また、城館に対するそれの過大さもバランスを欠いていると言わざると得ない。
往古屋敷地「2町四方」の伝承とその裏付
そこで考えられるのが、馬出しと現城館の設置年代のズレ、即ち「造り替え」である。実は、進家にはこれを裏付ける伝承が伝わっていた。それは、往古屋敷地が2町(218メートル)四方の規模を有していたというものである。地籍図上の「土居之上」は南北がちょうど2町である。ひょっとして、元の居館は字全体にあったのではないか。小字の名づけの原則からすれば十分有り得る話である。しかし、それだと東西が半町程足りなくなる。だが、その足りない側の東には、その不足分が存在した可能性が地籍図より窺える。
それは、東側に隣接する「勢勇」という不可解な名をもつ小字の存在であった。この名はそのままでは意味が通じないが、「贅疣(ぜいゆう)」と置き換えると、無用地を指す可能性が現れる。つまり、洪水等の災害により荒れ地化したと思われる場所である。地籍図には、河川影響を思わせる蛇行したそれとの境界が見える。実際それに沿った水路も描かれ、現在も存在する。よって、元は2町四方であった土居之上、つまり旧城館の東半町程が水勢により破壊を受け、放棄された可能性が窺われるのである。裏付には更なる検討を要するものではあるが、一考の価値はあろう。
また、現在多く見られる「土居之上」の宅地が、かつては少なかったことも重要である。特に地籍図の「弐」、即ち北側は進家しかなかったことが、図に記載された地目履歴から判明した。「土居之上」という字うちに於ける、進家居館の排他的姿も浮かびあがったのである。このことも、進家居館の更なる広がりを想わせる状況ではなかろうか。
今も残る往古屋敷地の痕跡
では、城館規模が更に大きかったとみられる時代そのものの痕跡はあるのであろうか。難しい問題であるが、1つその可能性を窺わせるものがあった。それは「弐」の図中央にある進家累代墓地から突出地中央に至る「墓道」である。もしこの突出が、出丸や馬出しであるなら、この道上に門、即ち木戸(城戸)が設けられた筈である。具体的な位置でいえば、墓道と南北道路が交わる箇所である。門を出た道は、南北路を用いて南北両側から城外と接続されるか、そのまま直進して馬出しの城戸から接続されたと思われる。つまり、この墓道は標準的な出丸・馬出しの機能とよく対応しているのである。
因みに墓道は南北路で終るが、筆界として更に西へ続いており、隣接の小字「岩屋畑」の中心にある小社、岩屋畑神社に達している。この社は、その規模や字内に於ける位置が進家累代墓地とよく似ている。それは、正に城壁を挟んで対称に配置されている観すら窺えるのである。城壁とその表門を間にして城主の精神要地を繋ぐ当時のメインストリート―。今は手懸りに乏しいが、往古の居館復原考察に於けるこの奇妙な符合発見は、調査に於ける新たな魅力を得た心地にさせられた。
進家城館の構築時期とその推進者
しかし、それにしても2町四方というのはかなりの規模である。もしこの規模が事実であれば、広域領主たる守護代の居城に相応しいものといえよう。しかも、これはあくまでも領主居館部分、即ち「本丸」部分なので、更なる外郭まで想定出来る。恐らくは箕集落全体が要塞化されていたのではあるまいか。現に、集落内には古城址を思わせる「上之代」や、軍事との関連を示す「的場」という小字名も残っている。
これらの城館が構築されたのは、進家が長者原から箕にやってきたとされる南北朝期辺りのことと思われる。しかし、地籍図に見られるような大規模な馬出しや土居濠が整備されたのは、やはり応仁の乱辺りからであろう。それは、世相上これらを構築する必要があり、そしてそれを実現するだけの力が当時の進家にはあったとみられるからである。それならば、この時代の史料に唯一姿を表す守護代と目される人物、「進美濃守」辺りがその推進者であろうか。
乱後、進家の名は歴史の表舞台から消えてしまう。代わって西伯に力を持つのは、かの八橋城主で、山名庶流ともいわれる行松氏である。この間の事情については何も伝わっていない。ただ、隣国出雲の尼子氏が進出してきた16世紀初期頃には既に神職としてその配下にあったことを『紀氏譜記』は伝えている。つまり戦国中期辺りには既に進家は武門であることを放棄し、在地の小領主化しているのである。恐らくは、乱後の在地動揺と、守護家の内紛や尼子の圧迫等の混乱により致命的な打撃を被ったのであろう。そういった意味では、城館も人為損壊を受けた可能性がある。
進氏最盛期、そして西伯紀氏第2黄金期の姿
これまで判ったことを整理すると、箕進氏の城館には少なくとも3期の姿が存在したとみられる。それは進家が初めて箕に入った際「上之代」に造られたとみられる最初期ものと、応仁の乱前後の世情不安定を受けて「土居之上」に造られた馬出し付きの大規模なもの、そしてその後それを改変して明治まで続いたものである。最後ものは更に洪水や占いによる部分改変も考慮することが出来よう。ともかく、2期目と3期目が進氏の最盛期、即ち西伯紀氏としては成盛長者以来の「第2の黄金期」の姿を伝えるものだといえるのではなかろうか。

では、こうした資料上の発見等を踏まえていよいよ実地調査を行う。先ずは地籍図に現れた居館部分である。写真は居館東南隅近くから西方、つまり現在の進家方向をおさめたものである。敷地界であるブロックの右側、特にビニールハウスの辺りの土地が高くなっていることを確認した。僅かながら土居の痕跡が残っているようである。I氏と御当主も、「なるほど」といって興味深げであった。
小道が見える左の低い方は濠跡である。地籍図にはそれを継承したとみられる水路があったが、今は埋められて無い。しかし、この下には往時の規模そのままの遺構が眠っている可能性が高い。

現進家居宅の南庭にある高さ1メートル程の「築山」
ご一家共々、屋敷図にあるそれと同一のもの思われていたが、諸図との照合で違うものであることが判明した。もし、あとで盛られたものでなければ、その位置から、土塁の遺構である可能性が極めて高い。

進家累代墓地
墓石は主に江戸期のものが多いが、桃山以前のものとみられる小塔類もいくつか見られた。左側一列に並ぶものがそれである。かつては左際にあった大木の根元にあったらしいが、その伐採の際、担当業者によって勝手に組み換え・並び換えされてしまったらしい。
この墓地は周囲とは異なり、起伏のある不思議な島状地となっている。これは前述した岩屋畑神社と同じで、かの「キサイさん」とも類似している。神社には地籍図のころ水濠の囲繞が見えるが、墓所も同様だったのかもしれない。江戸期に西伯を訪れた俳人の日記によれば、キサイさんも水濠に囲まれ、しかも道を挟んで対のものがあったという。「馬出し」の話でも関連したが、やはり何か特別な印象を受ける場所である。元は違う用途で造られたのであろうか。進家では、往古ここで「馬揃え」が行われたことを口伝している。

屋敷地北辺より、東方は墓地へと続く「墓道」を見る
今は畔程の幅しかないが、地籍図以前は広かったとみられる。御当主によると、道右端に見える小石の列が昔から存在するため、石垣の痕跡ではないかと思われているという。
道右側の畑は用途や所有の関係上、周囲と色が異なっているが、即ちそれが水濠の跡と思われる。その右隣にあった土居共々、痕跡は見る影もないが、土地の所有区分、即ち筆界に姿を留めていたのである。これにもI氏は感心の様子。

箕集落東端から見た、淡い夕照に霞む大山
このあと、箕集落のほぼ全域を巡って外郭の遺構等を探したが、明確なものは見つけることが出来なかった。しかし、進家居館を含め、大規模建設等による地下撹乱状況は認められなかったため全域遺構包含の可能性が高いことが判明した。かつては頻繁に洪水に遭った思われる洪積平野只中のここは、戦国期以降、かなりの土砂堆積に見舞われている筈である。よって、地表には見えなくとも、土塁基壇部等の居館関連遺構がそのまま地下に眠っているとみられるのである。早急な保全と調査が望まれるところである。
調査終了
さて、陽も傾いたのでここで調査は切上げとなった。2日に及んだ長者伝説調査行の終了である。実に興味深いものであった。少ない期間ながら中々の成果を挙げられたのではなかろうか。これからの発掘進展や、新史料の発見が楽しみである。そのような、充実と期待を胸に、我々は秋宵(しゅうしょう)迫る伯耆を後にしたのであった。
元は進家往古の痕跡の有無を巡り、私とI氏がそれぞれ史的見地と見在的見地を頼りに対立して始まったこの調査。やはり、私の史的見地に分があったことが明白となった。夕映えに晴れやかな大山もそれを祝してくれているようである(笑)。
冗談はさておき、お世話頂いた関係各位には末筆ながら深く謝意を表する次第である。
※2007年、絵図及びその他画像掲載について進家より承認済。
海陸の家も紀成盛さんを出自としているようです。紀成盛=海陸成盛らしいのですが、平安末期に戦に破れ、その一族が南九州、現在の鹿児島は南大隈町あたりに落ちてきて海陸を名乗ったらしいです。文献などにも進海陸兵衛紀成盛とあるようです。先祖にあたるであろう人物の事が勉強できました。有難うございました。
当サイトの記事閲読並びにご連絡有難うございます。
南大隈に進氏関係者が居られること、初めて知りました。九州北部には南北朝期に名和長年に従って転戦し、現地に土着した系統があることは伝えられておりますが、九州南端の大隈、しかも平安期に土着した一派があったとは驚きました。成盛長者が忽然として史料上から消え失せてしまう謎との関りを感じさせられます。
お名前の「海陸」とは、恐らく地元西伯や進宗家で「貝六兵衛」などと伝えられている長者通称より採られているかと思います。私見ですが、この呼び名は「進」という名が、官名の「大進・少進」から採られているのではないか、という説と関りが深いと思います。
それらの官名は官位でいうと六位に相当します。即ち「官位六(かんいろく)位の者」が「かいろくべえ」等に転化したのではないかと。成盛一族は、この、中央からの御墨付きとも言える官職官位に由来した当主名を地元や周辺に名乗り、権威づけを図ったのではないかと思われます。しかし、史料上では成盛を始め、後裔一族が中央よりの任官を受けた痕跡は見られません。
ここにも消えてしまった事実、歴史の謎が潜んでいるのかもしれませんね。
誤:名和長年に従って
正:名和氏に従って
宜しくお願いします。
連絡を取りたいのですが、もし宜しければコメント欄からご連絡頂ければ幸いです。以前ご記入頂いたアドレスに何度かメールを差し上げたのですが、ご返答がありませんので……。
身分を隠すため野にくだるで今の名字に変えたということ、現在の場所でかくまってもらっていまにいたるということです。
雄大な歴史の旅を楽しませていただきました。ありがとうございます。
当サイトの記事閲読並びにご連絡有難うございます。
想定はしていましたが、尼子配下の進氏についての具体的な情報は初めて知りました。名入りの史料まで存在しているなら、知られざる事実の再発見であり、「西伯紀氏後継進氏」の伝承を補強する有力な傍証となるかと思います。
お知らせの件、早速、進宗家へ伝えたところ、大変興味を持たれた様子でした。
詳細について、また連絡させて頂くかもしれませんが、その際は宜しくお願い致します。
先日久しぶりに、父と叔父を連れて蚊屋島神社に参拝してきました。子供の頃は、馬をつれて行って境内で遊ばせ、神社の縁側に転がって昼寝をしていたそうです、笑
ご返信並びに情報のご提供、有難うございます。
ご父君が蚊屋島神社に関係されてたということは、上月城付近ではなく、今も西伯にお住まいなのでしょうか。もしそうであれば、私の友人一家である箕進氏とも近いご関係ではないでしょうか。
頂いたご情報、一先ず進家に伝えておきます。