2012年05月05日
新緑峠会
貴重な好天での開催
のっけにトラブルも
新緑眩しい5月の連休一日(いちじつ)。去年に続いて左京区岩倉で実施した「峠会」が無事終了した。この時期としては珍しく天候不順の日が続いていたが、その当日は幸運にも貴重な好天に恵まれたのである。
しかし、のっけにトラブルが……。その原因は私にあった。何と寝坊して集合に遅れたのである。夜更かしと目覚ましの不作動が原因であったが、結果20分程皆を待たせることとなった。この場を借りて改めてお詫びする次第である。
さて、集合場所の出町柳駅から叡山電鉄で岩倉駅に移動し、現地集合の人とも無事合流(ここでも謝罪。苦笑)。ここから徒歩で大原までを踏破する峠会が開始されたのであった。
直前に、事故や体調不良・体力不安等により人員は半減したが、爽やかな晴天の下、程良い人数による和やかな雰囲気での始まりとなったのである。
上掲写真: 瓢箪崩山山頂(532m)木立より覗く大原の里と比良山地(中央奥)。賀茂川水系高野川と琵琶湖水系安曇川、そしてそれに沿って北方海浜へと向かう古道が貫く、「海道回廊」の眺めでもある。
大日本帝国陸軍陸地測量部編『仮製二万分之一地形図』(明治22〈1889〉年測。4図合成の一部に加筆)
古図に示す峠会ルート
先ずは、この地域を描いたものとしては史上初となる地形図上に示した今回の峠会ルート(実線トレース部分)を掲げたい。
山越えの区間を「寒谷越古道」と名付けているが、そこと、左下の京都市街の位置を考慮すると、現在主道となっている高野川沿いの八瀬ルートより距離効率が高いことが判る。
前近代、このルートを利用すれば、川幅が狭まる上流「小出石」辺りまで高野川を渡ることなく北上することが出来た。古来、河川渡渉は交通の一大障害であった。このことからも、この峠道の様々な史的可能性が窺えるのである。
峠へと繋がる旧道をゆく
今なお活きる愛宕灯籠
さて、岩倉駅を出て、山地へ向かって北上する。2車線歩道付きの広さを持つ、近年開通の新道「岩倉中通」である。しかし、今日の目的は古道たる峠道に親しむことなので、速やかにそれとの関連が深い旧道へと移動した。
写真は、嘗て岩倉東部の主要南北路であったその旧道で出会った古い常夜灯。火除け利益の総本宮「愛宕神社」への参詣者を導く「愛宕灯籠」である。場所は、古式の家屋が残る中集落(旧中村・現中町)只中。ちょうど丁字路の際に当り、傍には江戸期のものとみられる道標もあった。
明治図を見れば、この場所が、南北路と岩倉西部の中心集落(実相院等の所在地)を結ぶ東西主路の分岐であることが判明した。今は一面宅地で、新道も多いため判り辛いが、古図を参照することにより早速発見が得られた。峠道は南北路の延長上にあるものなので、その役割等を考察するには、これら古物の現存は重要な物証となる。
傍にいた地元の人によれば、この付近に点在する愛宕灯籠には、今なお、毎夜灯明が入れられるという。また、灯籠後方の神棚には今も輪番の住民が愛宕山山頂神社より求めた神札が祀られているらしい。何と、この愛宕灯籠は、徒歩旅行での参詣者が絶えて久しい現代に至っても、活きていたのであった。しかも、古式のままの作法・姿で――。
実に興味深く、そして驚かされる出会いであった。1度、夜間揺らめく灯火の様を実見してみたいものである。
峠道入口と飛騨ノ池
中集落を過ぎ、そのまま南北旧道を北上して長谷(ながたに)集落に入る。ここでも、灯籠や古い家々の姿が見られた。そして、その外れの山裾から峠道が始まった。
写真は、そんな峠への入口で出会った一景。地元で「飛騨ノ池」と呼ばれる灌漑用の溜池である。山の清水を直に貯水している為か、溜池らしからぬ美麗の水を湛えている。水辺に寄って休息などしたかったが、柵が張り巡らされていたため叶わなかった。
因みに、池の下手に広がる林は京都市より遺跡指定を受けており、それに関する碑も立つ。「岩倉長谷殿跡」と名付けられた、かの聖護院の前身寺院跡とされるもので、平安期の遺構である。聖護院以前には修験の祖「役小角」との関りが伝承されている寺なので、峠道と古代交通との関りも推察される。
池を過ぎると、道は植林帯に続く緩やかな登坂となる。未舗装だが、林業用自動車の轍により、古道というより「林道」と呼ぶべき観が強いものであった。ただ、路傍には古い石積などの痕跡もあって、決してその印象に止まらない風情もあった。
写真もそんな古道風情の1つ。谷の分岐にあった標(しるべ)らしき木と、その根元に備えられた祭祀痕跡である。樹種は、近世の街道一里塚などにも用いられた榎にも見えたが、如何なものか。
祭祀は三角錐様の自然石を用いた珍しいもの。詳細は不明だが、その丁寧な設え方から、厚い尊崇の様が感じられた。木の背後には斜面を切った小さな平坦地があり、古い石積も見られた。元は祠か何かが在った場所であろうか。
木漏れ日溢れる谷中・沢沿いに続く古道
寒くなく、暑くもない、ちょうど良い気温。しかも快晴。延期開催した甲斐あり、の感である。参加者全員、気分良く登坂の路程をこなす。
「車道」から「山道」に変化した峠道
車道消失。誤記か気づかずか
やがて、林道様の道が終り、山腹に取りつく急登の道となった。明治図では、谷をそのまま遡行する形で道が描かれているので、暫し採るべき進路を検討。これより先の道は荷車の通行にも適さず、古い感じもしないからである。
しかし、この道の他、峠へ上がる道跡はなく、現代図に記されているルートとも合致する為、一先ずは進むことにした。車道終点手前で分岐する谷遡行の古道跡に気づかなかったのか、それとも明治図の誤差か――。
体力負荷が大きくなった道を、休みやすみ上る。冬眠明けか、途中現れた山の蛙などの撮影もしながら無理せず……。
やがて、道は古道風情を取り戻した。「車行」も可能と思われた、積み石等で整備された痕跡を持つ、つづらの道が現れたのである。やはり、進路に大きな間違いはなかったようである。
途中の一部が近年崩落等で失われたのか。再度調査してみなければ今は解らない。写真は、つづらの古道。寒谷峠直下の場所である。
寒谷峠の人為痕跡
そして寒谷峠到着。標高約460m、岩倉と大原の境界である。眺望はないが、雑木林の中に開けた、気分良い場所である。正に休息好適地。ただ、風が抜ける場所なので、時季によれば、その名の通り寒さを感じるかもしれない。
峠上は、南側に偏った比較的大きな平坦地となっている。長谷からの古道は、その縁を削り、食い込む様に接続している。それらは、明らかに人為によるものと判別出来た。往古、茶屋か番屋の如き施設があったのであろうか。
寒谷峠から瓢箪崩山へ。岩多い尾根道の登坂
ちょうど良い時間となったので、峠にて昼食休止しようかと思ったが、折角なので近くの瓢箪崩山に移動することにした。峠での小休止後、皆の身体具合を確認して出発。
慣れない人には申し訳ないが、今暫くの登坂に耐えてもらう。
新緑の絶景、瓢箪崩山
峠より15分程で山頂着。標高532m。先ほど歩いた岩倉や、八瀬・大原の三方が開く素晴らしい眺望を得られた。前情報はなかったが、実に移動した甲斐があった。
写真は、山頂の三角点と、八瀬方面に開く林間から覗く比叡山。正に、新緑光る絶景であった。
またもや古道消失
瓢箪崩山での昼食休憩後、元来た道を下り、再度寒谷峠まで戻る。今度は、そこから大原側に下る進路を採るのである。
ところがここで少々問題が。峠上、岩倉からの道の対面にある筈の大原への下り道が見当たらないのである。あるべき場所にあるのは、自然に下降する谷筋だけであった。明治図は疎か現代図にも、峠からの下り道がその谷筋に記されているにも拘らず、である。
近年状況が変わったのであろうか。否、そのような痕跡は一切見られない。仕方がないので、道のない(図ではあることになっている)その谷筋を下ることにした。長谷からの途上の様に、先へ進むと何か判るかもしれない。
写真はその途中にて振り返り、峠方面を見たもの。水のない谷に石や倒木が散乱する。石段舗装路が崩壊したものとも思われたが、それでは「車行」が困難なため、同じ路線としての連続性に欠ける。
「巻き道」古道現る
暫く下っても明確な道跡は現れなかったが、やがて谷横斜面から谷筋へと下る、盛土状の道跡と出会った。写真のものがそれである。そして、ここから谷筋下手に古道痕跡が現れることも発見した。
古道はここから谷筋の進路を採らず、斜面を巻いて峠へ接続しているのではないか――。実は寒谷峠には、大原の方向とは違う、北向きの古道が接続していた。その道と、この盛土の道は道幅等の姿が極めて似ている。
嘗て北山の峠や古道を考察した研究家で著述家の金久昌業氏によると、寒谷峠と大原へ向かう道の接続は「巻き道」による、としている。事前調査にて、地形図を見ながら氏の記述に接した際、殆どイメージ出来なかったが、この発見によりそれが叶った。
2路の新旧・主客問題
あの北向きながら痕跡明瞭な道こそ、大原への古道であった――。しかし、そうなるともう1つの問題を呼び起こす。それは、2路存在する岩倉への古道の、どちらがより古く、主要であったか、というものである。
金久氏の聞き取り調査では、今日辿った長谷からの「谷道」が、大原への主要路であったと地元岩倉では認知されているという。しかし、大原への巻き道は、長谷南方にある花園集落から峠の南に接続する「尾根道」(前掲ルート図点線部)と良く対応しており、姿も似ている。
金久氏は、そのことと、尾根道全線の観察に基づき、逆に長谷の谷道の方が新しいのではないか、と推察している。私も、今日の見聞により、その説を支持したい。いづれ、今日選ばなかった花園からの尾根道も踏査し、その考察を深めたいと思う。
谷を更に下り、その姿が明瞭となった大原への古道。脱輪や浸水への備えか、路の両傍に石積や盛土の姿も見られた。薬王坂や比良山中の古道でも類型が見られるものである
麓に近づき、谷の大きさも広がる頃には、道の状態も良いものとなった。写真は、その様子である。林道的な道にも見えるが、自動車の轍もない為、風情は長谷の同様区間より秀でている。そのまま時代劇の撮影等にも使えそうである。
土塁関門。要路の証か
谷が大原盆地と接する谷口辺りに達すると、写真の如く谷を塞ぐ土塁が現れた。古道は、その右脇を貫いて下手へと続く。土塁の下手傍には、堰堤工事で廃されたとみられる旧河床が、土塁を援護するが如き様で残存していた。
古い時代の関門跡であろうか。山への侵入を防ぐ要所なので、可能性はある。その防御方向からすると、大原より岩倉側勢力による備えとも見られるが如何であろうか。何れにせよ、このルートの重要性を示唆する貴重な物証となり得るものと言えよう。
謎の関門より程なくして山間を抜け、田圃広がる平地へ出た。大原盆地到達である。写真はその時の様子。大原側最寄り集落である「井出」付近の一景である。
舗装された現代路と化したが、古道は井出集落を越えて更に北へと続く。予報通り、ここに来て少し天気が危うくなってきた。まあ、あとはバスターミナルへ向かうだけなので、もはや問題にはなるまい。
井出集落外れの古道沿いの民家庭に咲くヒメシャガ。庭の手入れをしていた、その家の婦人に峠会面々が招かれて――。暫しの庭園観賞である。こういった偶然や出会いも、屋外活動の醍醐味
大原盆地北方の高野川に架かる戦前製とみられる橋。旧道のものであるが、私が想定している岩倉からの古路線は、ここを渡らず北方と連絡する
大原BT着。峠会終了!
さて、古民家残る井出集落を抜け、古道を踏襲する現代路を辿りつつ大原盆地を縦断。やがて、終着地である大原バスターミナルに到着したのであった。ここからはバスに乗り京都市街に帰還。その後、市街の飲食店で打上げ食事会を済ませて日を終えたのであった。
今回は移動距離や高低差が結構あり、個人的には予想以上に疲労を感じた行程であった。それでも、良い天候と景色に恵まれ、皆と共に多くの知見・娯楽を得られたのは幸いであった。
皆さんお疲れ様でした。有難う……。
2011年04月10日
桜日峠会
春と平静の価値想う1日。「峠会」挙行
ほころぶ花で町中が包まれた4月10日の今日。震災や原発のことで、そんな春到来の様をめでる気は損なわれていたが、その分、変わらぬ季節の巡りと平静の暮しの価値を想う。そして、予てから予定していた峠会(とうげかい)の開催。社会は勿論、自分自身にも色々な問題があったが、先ずはこの様な催事を行える有難さを強く感じる1日となった。
絶好の桜日和、そして好天となったこの日の朝。出町柳駅に集合し、小振りで長閑な2両編成の私鉄線「叡山電鉄」に乗車して、市街北方の岩倉地区へと向かった。本来の開催日であった3月21日より参加者は減ったが、3人の外国人留学生も含めた良き顔ぶれでの挙行となった。楽しみにしてくれたにも拘らず、来ることが叶わなくなった人達には申し訳ないが、また次の機会を期待してもらいたい。
上掲写真; 京都市左京区の北郊山中にある静原(しずはら)集落の阿弥陀寺と桜。集落の中心である静原神社のそばから分岐する手前の道は明治期の最古の地形図にも見えるもの。近世末の面影を伝えるそれによれば、道はそのまま後背の山へと続く小道に接続する。小道は山中で途切れるが、主要な尾根筋に出るものなので、北方の集落(百井や近江安曇川流域)へと抜ける間道だった可能性が窺われる。これもまた、古の交流主体「峠道」の名残なのであろうか。
峠への道、村松街道をゆく
皆で乗り込んだ叡山電鉄の小列車に揺られること約15分。一行は岩倉地区の中心「岩倉駅」に降り立った。近年は地下鉄駅がある岩倉盆地南部の発展が著しいが、古代大寺「大雲寺」と岩倉村の集落があった嘗ての要地を、本日の出発地としたのであった。
無人の小さな駅を出ると、駅前に友人の建築家、森田一弥氏が現れた。これから向かう静原に住居兼事務所を構える氏は、今回の企画に多大の興味を示して参加してくれたのであった。皆との挨拶後、共に歩きだす。そして「古の地域間交流の痕跡、峠道を探る」といった今回の企画に沿うために、早速近くに残る静原への旧道へと移動した。写真は、「村松街道」とも呼ばれるその道を北上し、嘗ての岩倉村中心地辺りの丁字路に到達した際のもの。
集落を南北に貫通する街道から分岐して左(西)へゆく道は、大雲寺と、明治元勲岩倉具視の幽棲で今ではそれを凌ぐ知名度を持つ「実相院」に達するもの。つまり、門前の辻(十字ではないが)である。為か、写真にも見えるように、農村家屋とは様相の異なる家の姿も見られた。
村松街道と寺院地帯への分岐部に残る古い道標
意義ある遺産「隔夜聖の道標」
この古碑は「隔夜聖の道標」と呼ばれるもので、それ自身に享保12(1727)年に建立された旨が記されている。願主として、「如元」なる僧(聖)の名があり、彼が大雲寺と鞍馬寺でそれぞれ一夜交替で祈念して一千日を経る、という荒行を成し遂げた際に建てられたものと推測されている。下部が埋没し、約300年の風雨に曝されているにも拘らず、未だ文字判読が叶う貴重なものである。
正面に記されているのが「左 かんのおんみち」で、大雲寺観音院への案内、右面は「右 くらまみち」とあり、村松街道を北上して通じる「鞍馬寺」への案内を示しているという。街道経由の鞍馬道は、静原経由の可能性も考えられる為、今回の峠会にとっても大変意義のある歴史遺産といえよう。
岩倉の由緒伝える寺院地区見学
街道を更に直進する筈であったが、折角なので分岐に入って暫し寺院地区を見学することとなった。古の主役、大雲寺が今は寂れているので、実相院や石座神社(いわくら・じんじゃ)がその主体であった。特に石座社は、平安遷都の際選定されたとされる四磐座の1つで、岩倉の名の由来となった巨石を祀る場所、古代巨石信仰の面影残す場所として以前より興味を持っていた場所であった。
しかし、立寄った石座社は、境内が花に恵まれた良き社(やしろ)ではあったが、後代の移設であり、巨石との関りを見ることは出来なかった。巨石がある元の場所は、実相院南の山裾にあるらしいが、今は立入りが禁止されていて、見ることも叶わないという。
巨石の件は残念であったが、方々で桜等の花見る中での散策は、実に良いものがあった。京都市街より寒冷といわれるこの地に於けるそれへの期待は元より薄かったが、ここ暫くの晴天と温暖に因り、盛りと化していたのからである。一行は、色々な物や草花に目を奪われつつ、楽しく進む。写真は、満開の桜の下、同じく路端に顔を出した黄色の毒草「キツネノボタン」についての、K君の解説を聞く参加者。
峠の山「箕ノ裏ヶ岳」と堅城「小倉山城」
寺院地帯の北から村松街道に戻れば、田圃広がる郊外景と、北方の山塊が見え始めた。写真中央奥に開る(はだかる)のは、正にこれから向かう静原と岩倉を隔てる「箕ノ裏ヶ岳」(432.5m)。村松街道の延長に存在する「坂原峠」は、その稜線右側を下りきった鞍部上にある(右端から延び出た手前側の尾根との交点辺り)。
田圃景の中を振返ると、平野内に浮ぶ島の如き「小倉山」が見えた。旧岩倉集落に寄り添う様、守る様に横たわるこの小丘。実は岩倉や静原等の、地域の歴史を語る上では欠かせない存在であった。この山は、近世以前は全山が城塞であった。現在も郭跡などが良好に残存しているという
城主は時代によって変遷したらしいが、一応地元の土豪山本氏がその代表とされる。元亀4(1573)年に、かの明智光秀率いる織田軍に攻囲されるも、持ち堪えたという話が史料に記録されている。周囲の古地名「小字(こあざ)」に、「馬場」や「堀池」「出リ口」などの関連地名を見ることから、岩倉地区の中心的居城として、相応の規模・設備を有していたと考えられる。
峠名の由来地「坂原」
その後、岩倉盆地北端の住宅地、村松地区を経て、耕地が続く谷あいに入った。そのまま街道を北上したが、この辺りに来るとかなり道幅が細くなった。ひょっとすると、近代以前の道幅を踏襲したものであろうか。写真は、その様な谷なかに現れた分岐箇所。傍にちょうどいい木陰があったので暫し休憩とした。
休憩中、道幅を計ってみると、双方共約2.3mとの結果が。2台の離合は困難だが、一応荷車の通行は可能である。今回、旧道特定の為に明治22(1889)年に旧陸軍が測量製図した最古の近代地図『仮製二万分一地形図』を持参したが、そこに記された、近隣地区間を連絡する「聯路(連路)」としてのこの道の「仕様」に合致するものであった。
休憩後、分岐を左へと進む。地形図には左の道しか描かれていないからである。因みに、字図によると、この辺りは正に「坂原」という小字名であった。坂原峠の名は、それがある稜線鞍部の地名からではなく、途中通るこの山間平野から採られていることが判明したのである。
村松街道から続く旧道を北上するにつれ谷は狭まっていく。田圃は続くが、既に皆休耕地となっていた。写真は、休耕地と旧道の間にある小川を覗きこむ参加者。用水路・側溝としての改変を受けているため天然の趣はないが、沢蟹が多く見られた。
期待通りの古道風情現る
更に進むと耕地も消え、純然たる山中の谷地となった。舗装は途切れたが、幅を維持する旧道のみが変らずに続く。本来の姿、前近代の風情を感じる期待通りの場景となった。
初見。両路肩に残る石造側溝
ここで1つ発見が。それは、写真に見える苔むした2条の石列であった。道の端部に併置された石列の間には、土砂や落葉が溜まるも、明らかに窪みが見られた。恐らくは古い側溝であろう。傍に沢があるにも拘らず、それを設置するのは、路肩の保護を意図したものに違いない。マイナーといえる路線の装備としては随分立派なものである。
しかし、感慨はそれに止まらなかった。なんと、同じ造りの側溝が反対側である山手側の路肩にもあった為である。両方の路肩に石造りの側溝を備えた道といえば、古代の幹線道路「大道」が想い出されるが、それに似た造りとして少々驚かされた。これまで、京滋及び近県の、数多の山中古道を目にしてきたが、この様な姿を見るのは初めてだった為である。
近代以降の改変の可能性も考えられるが、一先ずは貴重なものとは言えまいか。
古道の証?石塔・石佛現る
やがて、道が峠に向かって傾斜を強め始めた。その時、道の傍ら方々に石佛や石塔が現れ始めた。その形式から、何れも近世以前の作であることが推定された。
これぞ古道の証か。その数や種類は、鞍馬と静原を結ぶ著名宗教古道、「薬王坂(やっこうざか)」を凌ぐ程であり、画像には写っていないが、畿内では稀少とされる古代・中世特有の石造物「板碑(板石塔婆)」と思われるものも幾つか見られた。もし、これらが後世他所から持ち込まれたものではなければ、この道は中世以前から少なからぬ往来を有して存在していたことになる。
幹線示す地名と古絵図描写の矛盾
この辺りから坂原峠にかけての字名は「車ヶ谷」。正に、人や車輌が頻繁に通行した幹線の存在を暗示する古名であった。事実、静原に抜ける幾つかの稜線鞍部で最も傾斜が緩く、距離効率も良い。しかし、実は当初この道を然程古くないものだと思っていた。それは、この道が、この地域の様子を初めて精細に描いたものとされる、310年前の実測絵図に記載されていなかった為である。
その絵図によると、村松に集落は無く、街道はそこへ達するまでに西へ曲がり、鞍馬街道が通る野中村(現市原北部)に接続する「繁見坂」方面へと向かっている。因って、絵図とほぼ同年代といえる「隔夜聖の道標」に記された「左くらまみち」も、そこへの案内だと解釈せざるを得なくなっていたのである。
しかし、目の前に現れた状況から、絵図に記された状況が一時的なものであった可能性を考えるようになった。
岩倉を始め、修学院などの洛北東部から静原に向かうには、昔からこの道が最も効率が良かった筈である。かの小倉山城城主山本氏も、静原と特に強い繋がりを有していたとみられ(山本氏は静原の城塞でも明智勢と合戦をしており、そもそも静原を足がかりに岩倉へ進出したとの説もある)、古代静原にあったとされる大寺「補陀落寺(補多楽寺)」への連絡・参詣の需要もあったと考えられる(寺への道は岩倉の東隣の集落「長谷」から北上するルートも考えられるが、この道の方が労力は少ない)。
よって、絵図が作られた近世初期頃に一旦この道が廃れていたのではないか、との考えが生じたのである。
今は何の確証もないが、1つ興味ある事実を発見した。それは、この道が旧村松集落辺りで「大道端」という小字に接していることである(絵図に道の描写がない場所)。同様の字名が街道を南下した岩倉駅付近にもある為、古のある時期、この道が地域の幹線路として認知されていたことがあった、と想像できるのである。勿論、それが後世の可能性もあるのだが……。
坂原峠への最後の詰めをゆく
短い区間ながら、結構傾斜が強いので慣れない参加者には少々辛い箇所であった。「車ヶ谷」の名の通り、車輌への便宜の為、明らかに人手によって改変された「切通し」の道となっていることが判明した。
坂原峠。峠の墓地とその故地「仮墓」
そして、間もなく坂原峠に到着。前情報通り、そこは静原集落の墓地入口として改変を受けていた為、古の風情を見ることは叶わなかった。
写真は、峠からちょっと墓地内にお邪魔して(通路を上って)、来た道である南方を眺めたもの。強い日差しと春霞により見辛いが、最奥にある低く細長い山の手前が岩倉地区、向こうが京都市街となっている。
なお、峠の標高は約260m。岩倉集落の標高が120m程なので、140m程上ったか。
峠にて少し休息後、岩倉に別れを告げ静原側へと下った。道は墓参用の車道として改変を受けていたため風情には欠けていたが、一応、明治図記載のルートをなぞっていた。写真は谷あいの森林を抜け、静原の田圃の広がりが見え始めた時のもの。
旧道を下った山際の、藪中にあった「仮墓」
森田氏が紹介してくれたもので、峠の墓が使用される以前の墓地だという。御所の上水となる、賀茂川上流のこの地の清浄を保つため江戸期に移転した後、埋葬者のない石塔のみが残されたらしい。
墓石をざっと確認すると、古いもので享保(1716〜1736年)の紀年があるものが見られた。下流の御所を憚って埋葬地を移した話は、北区にある雲ヶ畑集落等でも聞いたことがある。
旧路廃滅
地元静原に入ってから、自然と先頭を進む森田氏。やはり土地の人がいると、色々と頼もしい。
さて、明治図記載の旧道は仮墓を過ぎて暫く進んだ辺りから不明瞭となった。圃場整理で車道が別の場所に接続され、そこから分かれる形となった元の道が廃れてしまったようである。写真の通り、畔とも藪ともつかない、荒れた地面を暫し進む。
知られざる巨石と稲荷社の謎
やがて右方の山際に現れたのが、写真の巨石である。森田氏によると、里に於ける昔からの聖地であり、その上手と下手に社があるという。今は、ここからは見えない上の社のみ現存しているらしく、下のものは廃滅して台座のみとなっていた。
画像では判り難いが、岩の高さは数mあり、立体感があって中々の存在感を醸している。知られざる名巨石といったところであろうか。古来より人々の尊崇を受けたことが容易に推察される姿であった。森田氏の案内で林間にそれを認めた時、一同声を挙げた程である。
ところで、古図との照合により、ここに関して興味深いことが判った。それは、310年前の実測絵図のこの付近に、鳥居を擁する朱塗りの社が描かれていることである。静原境内では「氏神山王社」(現静原神社)と「天王社」(現天皇社)と共に描かれているので、それらとつり合う規模の社があったとみられる(現存する上の社は近年個人宅の社を移したものなので、この頃とは無関係)。
実測絵図に社名は記されていないが、それから85年経った天明の絵図には「稲荷社」と記されているので、今の社の前身であることは間違いないと思われる。しかも、面白いことに、建屋が2つ描かれ、地区の中核社、氏神山王社を凌ぐ体裁となっている。ひょっとすると、里人の記憶からは失われてしまった、稲荷社の別の姿、役割があったのかもしれない。
これも、古い「字(あざ)」情報や土地の区画情報を参照すれば、その推測を補強しつつ更に興味深いことを発見出来る可能性がある。だが、残念ながら今回は、静原に関するそれらの情報を用意出来なかったので、次の機会までの預かりとなったのであった。
300年前の姿伝える静原集落
興味深い稲荷の地から、また田圃と山裾際の荒れ地を行く。そして、暫くして古道を踏襲した舗装路を見つけ、そこに進んで程なく静原の集落に入った(実は稲荷手前に静原川を渡る小橋があり、そこから田圃中を集落へと向かう道が途中復活した旧道であった。巨石に気を取られてそこへの合流が遅れたのである。さては狐につままれたか。笑)。
集落手前で2車線の新道を横切ったが、それ以外の道の位置や接続状況等は、122年前の明治図のままであった。また、集落の規模や家屋の配置なども同様に感じられた。明治中期、いや、実測絵図も同様に見受けられた為、その辺りに関しては300年前からあまり変わっていないように思われた。
写真は静原川にかかる新道の橋より集落を見たもの。ここに来て初めて目にしたのか、外国人参加者から、折しも揚げられていた「鯉幟(こいのぼり)」に対する質問も出された。
静原集落下部(南部)を東西に貫く旧幹線道沿いに残る豪壮な古民家
幹線道は、大原と市原を結ぶもの。古代から存在することが確実と見られる、静原盆地随一の要路である。今日辿ってきた坂原の道は、集落手前(新道橋手前)でそれに合する。
改装古民家森田家での昼休憩
さて、時は既に昼過ぎとなっていた。森田氏の好意により、集落中心にある氏の自宅を、昼食と休息の場として提供してもらえることとなった。写真は、正にそこへと到着したところ。事務所スペースがある、即ち「森田一弥建築事務所」側より見たもの。
現在設備工事中とのことで、資材や道具類の仮置きが見られるが、古民家を上手く、そして瀟洒に改装して成された、羨ましい職住拠点である。
森田氏に昔ながらの床机を出してもらい、それをテーブルにして昼食を採り、後は皆で暫し歓談
氏や地元有志の人達が準備している「静原里あるきマップ」を見せてもらったり、氏の案内で自宅内を見学させてもらうなどして、楽しく和やかに過ごした。外国人参加者にもいい機会になった様子。
出発。静原社を経て鞍馬への峠越えへ
やがて森田家を出発することに。皆の状況や希望を確認し、更に別の旧道を進んで峠を越え、鞍馬まで行くこととなった。森田氏は来客予定等の為、ここにて終了。お茶やお菓子を振舞ってくれた奥さん共々、皆で厚くお礼を述べて、そこを後にしたのであった。
そして、程なくして到着したのが、森田家からも近い、写真の静原神社。これから向かう鞍馬への道とは逆方向であるが、集落中心の重要な場所なので立寄ることにした。桜等、周囲の花も実に美麗。京都市街より北方で、しかも標高も高い為、「開花具合は遅れ気味」と聞いていたが、今日の温暖で、一気に追いついたかの様な盛りぶりであった。
澄んだ空気の中、巨木と共に佇む静原社の姿も、実に良し。
箕ノ裏ヶ岳
石積みが特徴的な静原集落内の道をゆくと、家屋の間(はざま)に、かの「箕ノ裏ヶ岳」が顔を出した。岩倉側からの穏やかな姿とはまた違った、少々鋭角的な、雄々しさある眺めである。
「くらまみち」薬王坂をゆく
静原神社の鳥居前も通るこの道は、集落上部(北部)を東西に貫くもの。だが、今進んでいる西側は幹線旧道に寄り添うことなく、そのまま鞍馬への最短コース、薬王坂へと繋がる。即ち、静原やその東方の大原地区等にとっての「くらまみち」であった。
道は、やがて集落を抜け、田圃に達した。そして間もなくして、急な登坂路となった。
山間に入って暫くは、舗装されて周囲に荒れ小屋などを見る旧道らしからぬ風情であったが、やがて写真の如き古道の様も、所々に現れた。坂原より強い傾斜が続く為、さすがに息が上がる参加者も出た為、休息をとりつつ進む。
しかし、かの『平家物語』にもその名が見え、平安時代から存在することが確実視されている著名古道の荒れ様は残念な限り。これ以上悪化が進まないことを願うばかりである。
北山屈指の古碑「薬王坂弥陀二尊板碑」
登坂道の途中、少し開けたところがあり、写真の如き大木と、その根に抱かれた石碑が現れた。
碑は「薬王坂弥陀二尊板碑」と呼ばれるもの。貞治3(1364)年の紀年を持つ、確かな製作年が判るものとしては北山山中屈指の古碑である。正に古道の証。
薬王坂峠。奇跡伝える宗教古道の高致
やがて登坂を終えて峠に到着。古い時代に切通しにされたとみられるそこには、薬王坂の由来を記した案内板が据えられていた。それによると、その昔延暦寺を開いた伝教大師最澄が、鞍馬で薬王如来像を造って叡山(延暦寺)へ戻る途中、この道で如来に遭遇した為、この名が付いたという。
伝承の真偽はさておき、その話が暗示する通り、この道は天台密教の本山延暦寺と、それに属する鞍馬寺とを連絡する宗教古道でもあった。
なお、標高は370m程。静原集落が200m程なので、約170mの高さを上ったことになる。
資力・労力の跡見る良き古道
峠からは鞍馬へと下るのみ。静原側と違い、こちらはほぼ全区間古道風情が保たれていた。写真の如く、車輌の通行が叶う幅を持った道がひたすら続く。
転落を防ぐ為か、所々野面積みの古い石の側壁も見られた。路面は、多くが硬い岩盤を穿って整地したもの。官か、叡山の何れかが、多大な資力・労力を投じて開発・維持していたのであろうか。
安堵の鞍馬着
間もなく鞍馬へ下りきる。静原から1時間程の行程であった。標高差はあるが、距離はそれ程でもない。積み上げられた当地の名産「鞍馬石」の、茶色で慎ましやかな姿に迎えられ、無事の終了に安堵した。
写真は、鞍馬の集落を南北に貫く「鞍馬街道」より改めて薬王坂を眺めたもの。中央の小山部分の左肩鞍部が、先程通過した峠の場所である。
発見や出会いに恵まれた峠会終了
鞍馬では、初めて訪れた人の為に鞍馬寺門前辺りを少々見学してから帰途につくこととなった。交通は写真の鞍馬駅から。今朝の出発と同じく、叡山電鉄の長閑な車輌にてである。静原より更に標高が高く、山の冷気も強い鞍馬ではあったが、春到来を確かにする美麗な花々の見送りを受けられた。
そして約30分の乗車後、出町柳に帰着。それより用事のある人を除いて、近辺でささやかな打上げ食事会に臨んだのであった。
こうして、岩倉から静原、そして鞍馬へと、古宛ら徒歩にて臨んだ、峠越え古道を辿る踏査行は終った。地味な企画ながら、予想外の発見や出会いに恵まれ、中々良いものとなったのではないかと自賛する。
皆さんお疲れ様、感謝!