2021年08月28日

漸受抗原

新型コロナウイルスワクチン接種券に貼られたファイザーワクチンのシール

コロナ緊急事態4回目

1年以上を経て収まるどころか、記録を塗り替えながら続くコロナ禍。ここ京都市街も感染急拡大で、先週20日から緊急事態宣言適用地となった。

昨年春の初宣言以来、実に4回目の緊急事態宣言。3回目が6月21日で解除された後、下位の「蔓延防止措置」が7月11日まで続き、その後同30日からまた措置が再発出され、そのまま今回の宣言が出される事態となった。

7月半ばの蔓防措置の間隙も各種自粛要請が続いた為、実質非常時が続き、あろうことか、その効なく過去最悪の感染拡大を見ることになった。

東京では5000人、身近な関西・大阪でも2000人を連日超えるなど、全国的動向となり、京都府も過去最高の500人超えが続いている……。

本当に、もういい加減にして欲しい――。

こんな嘆息は私のほか多くの人が発しているに違いない。こんな事態になったのも詰まるところ場当り的な公儀の施策が主因と言わざるを得ない。

特に、変異株の危険が早くから警告されるも、それを防げなかった責任は重い。せめて「笊」と言われる水際対策だけでも強化されていれば結果は変わっていた筈である。

他の大陸国家等とは異なり、比較的入境管理がし易い島嶼国家(しかも一応医療・科学「先進国」で「経済大国」)として情けない限りであろう。

あとは国内対策。都市封鎖という極端を採らなくても、「お願い」ばかりで事実上野放しの現状よりマシな「中間策」がもっと探れる筈である。

今後もこのまま、宣言や措置という名のお願いだけが続くのであれば、コロナ3年目突入は必至であり、更なる経済・人的損失に繋がるであろう。

ワクチン圧力強まる

さて、その様にまた緊迫し始めた情勢下、親類・周囲から抗原接種の問合せ・促しが多くなった。即ち、感染・重症化予防のワクチン接種である。

実は未だそれを済ませていなかった(とはいえ同様の人も相当多かろう)。接種券自体は既に7月初旬に得ていたが、「中途半端」な年齢と世に役立たぬ人種故、その機会から遠ざけられていた。

しかし、リスク群への接種が進んだ結果、いつしか重症化または死亡する高確率群入りしたため、周囲から身の安全が危惧され始めたのである。

それ故、周囲のため、自身のために、当初はもう暫く様子見するつもりであった接種を考えるようになった。しかし、政府の杜撰なワクチンばら撒きに因る供給停滞等の影響を受け、その予約も難しくなっていた。

自治体の集団接種は未定、日頃行く近所の医院でも9月中旬以降の予約再開という有様である。友人が大阪での集団接種を教えてくれたが、人の多い遠方に行くこと自体感染リスクがあり、また副反応のことも考え避けた。

そんな中、こんな身でも予約可能な新会場が京都駅前に開かれ、17日から接種可能という知らせを受けた。よって受付開始の10日朝に予約することにしたが、間違えて主催の京都府ではなく京都市のサイトで別枠を予約してしまい、気づいて電話し直すも幾らかけても繋がらず仕舞いとなった。後で知ったところ、850人分の予約が、何と開始4分で完了したという。

自分の錯誤もあるが、これぞ、正に「二重行政の弊害」か……。

というより、接種が始まり既に日を経て経験を得ているにもかかわらず、相変わらずの窓口分散や早い者勝ち等の野暮な手法に呆れるばかり。これでは、まるで昭和のコンサートチケット争奪戦ではないか。

一応市の予約は出来たが(但し日時未定!)、あまりの腹立ちに接種自体を諦めることに傾き始めた。恐らくこの状況では年内の接種完了は無理であろう。こうなりゃ開き直って感染防御を強化し、米国の如く公儀から「1万円出すので頼むから打って」と言われるまで待とうとさえ思った(笑)。

そもそも、公儀は「基本かかりつけ医での接種を」などと言うが、持病等で通院する人以外に対する「かかりつけ医」の定義も曖昧であった。偶に行く近隣医院をそう呼ぶべきか躊躇する人は多いと思われ、私もその一人である。また、病院の方もその線引きに困惑しているのではなかろうか。

実際かかりつけと思っていた医院に予約を渋られ、その後も面倒を強いられたという高齢の親類もいた。また馴染みの医院で接種が行われているとの情報も全く無く、私自身、諦め半分で直接訊いて漸く実施を知ったほどであった。その辺りが明解であれば皆もっと早く接種出来たに違いない。

急転直下

とまれ、今朝の出来事で腹を据えかね不接種抗戦に入ろうとした時、突如電話が鳴った。

それは、正に近所の馴染みの医院からで、「28日の接種が可能になったが如何」との連絡であった。実は盆前に別件で診察を受けた際、接種について訊いていたのである。ただ、前記の通り、実施日時が選べない9月中旬以降との回答を得ていたが、それでも一応頼んでおいたのであった。

何事も試みておくべきものである。勿論、実施日が週末で、諸事都合も良かったため、承諾を即答した。

こうして、急転直下、最早諦めていたワクチン接種の予約が突如叶うこととなった。ただ、最後に一つ問題があった。

それは接種のリスク、即ち世にいう「副反応」のことであった。今のところ日本ではファイザー社製とモデルナ社製の2種のコロンワクチンが使われていたが、どうやら今回は前者が当たりそうな気配となったのである。

接種との因果関係が不明ということで殆ど報道されていないが、これまで国内でワクチン接種後に1000人程の死亡者が発生している。100万人当りのその内訳は、ファイザー製が20人弱、モデルナ制が1人強といい、圧倒的に前者で多く報告されている。ただ、周囲の状況では、休暇が必要な程の発熱や体調不良の事例はモデルナ製が多かった。

実は、私は昔ある薬剤で1万人に1人とかいわれた危険なショック症状を起こしたことがあった。直接ワクチンとは関係ない薬で、食物アレルギーや花粉症等とも無縁な基本強健な身であったが、そんな経験と特異(?)体質のこともあり、重篤な副反応を警戒していたのである。

因って、本来ならモデルナ使用が知らされていた自治体接種を強く希望していた。しかし、それが叶わなかったことは前記の通りである。

周囲の殆どが「かなり辛い」と言う、数日寝込む可能性の高いモデルナか、それより楽だが、死ぬかもしれないファイザーか……。

そんな究極的選択ながらも、やはり命には代えられないので、かかりつけ接種を断ることも一瞬過ったが、これを逃すと、それこそ年内接種が叶わぬことになりかねず、その間コロナで死ぬ可能性も高まるので諦めた。

また、コロナ禍長期化により世界中で接種を3回まで拡大する動きがあり、ただでさえ足りていないワクチンの争奪戦が激化しそうなことも恐れた。

1回目接種感想

そうして今日、接種の時を迎えた。前日あった確認の電話での案内通り、指定された時間の少し前に病院入りして時間通り接種を終えた。

応援の看護師か、いつもより職員が多かったが、実際に注射を打ったのは馴染みの病院長であった。平時の施療時間ではなかったため、接種用の時間を特別に設けていたようである。

一応事前に過去の薬害(当該医院が確認を怠ったため敢えてこう呼ぶ)について相談したが、ワクチンの成分的に問題なし、とされた。

接種の感想は、一瞬ではあったが、接種そのものが、かなり痛かった。それは、成人してから打った注射類のなかで最もと思われる程であり、小学生以下の子供には耐え難いないではないか、とさえ感じられた。

後で親類・知人にその話を言うと、皆が医師の技量問題を指摘した(笑)。まあ、院長氏は普段あまり自身では打たなさそうだから、その辺はある意味仕方あるまいかとも思った……。

さて、接種後、待合室で帰宅の許可が出るまで待つ。過去の副反応について報告していた所為か、同時に接種した人達より少し遅めで許可が出た。

こうして、紆余曲折はあったが無事(漸く?)自身のコロナワクチン1回目接種を終えた。今のところ体調に異変はない。敢えて言えば打った場所に少し痛みが残るくらいか。今後どうなったのかは、また逐次報告したい。


上掲写真 新型コロナウイルスワクチン接種券の1回目欄に貼られた、ファイザー製ワクチンのシール。


接種1日後追記

接種後まる一日経ったが、意外に異変は無し。強いて言えば、打たれた箇所が腫れて、少し痛むくらいか。とはいえ、触らなければそれを感じることはない程度である。

接種2日後追記

接種後まる2日後も特に異変は無し。昨日同様、注射箇所を触れば腫れと痛みを少々感じる程度。多くの例から、一応2日経って何もなければ、ほぼ大丈夫といえるだろう。

とはいえ、まだ2回目接種が終っていないので、油断禁物ではあるが……。

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2021年08月16日

盆火又縮

京都黒谷・金戒光明寺塔頭西雲院の蓮の花

蔓防最中の盆最終日

先ずは盂蘭盆会(うらぼんえ。お盆)期間に相応しい画像を――。

佛事にお馴染みの、また盛夏にお馴染みの蓮の花である。一眼レフなどの特別な機材ではなく、普段持ちの小型機にて撮影したが、近くに寄れたので案外綺麗に撮れた。

場所は自宅近くの黒谷(京都市街東部「岡崎」付近)にて。寺の境内参道に並べられた甕うちで丁寧に育てられたものを撮らせて頂いた。

思った通りのコロナ禍再拡大で遠出も叶わず(蔓延防止等重点措置適用中)、毎度近場の紹介ばかりで恐縮ではあるが……。


五山送り火の縮小開催準備中の当日夕方の大文字山火床

縮小でも有難い恒例行事

さて、盆期間とはいえ、今日16日はその最終日。

盆の最終日といえば、ここ京都市街では五山送り火の開催日。存知の通り、盆で帰還したお精霊(おしょうらい・おしょらい)さんをまた彼岸に送るため周囲の山腹に篝火(かがりび)を灯す信仰行事である。

ところが、この著名伝統行事も今年はコロナ禍の影響で縮小されることに。これは昨年と同様で、2年連続で異常事態が続くこととなった。

縮小の内容は、文字や絵を表現するために使われる多くの篝火を極端に減らし、それに関わる人も減らして感染防止を図るというものである。

具体的には、主体の「大」は中央と端部の6点のみを点火し、鳥居形は2点、その他は1点のみを点火するという形態で、これも昨年同様であった。

写真は、夕方「大」字の火床部分を遠望したもの。コロナ禍以前なら準備する大勢の人の姿が麓からも確認出来たが、今回は殆ど見えなかった。

それでも、開催してくれるだけ有難かった。他の多くの京都市民もそう思っているであろう。送り火がないと盆が終った気にならない、区切りがつかないからである。それほど、地域の暮しに溶け込んだ行事であった。

先日も報告した通り、ここのところ季節外れの秋雨停滞に因り荒天が続いている。見ての通り今日も微妙な天候だったが、幸い開催時間の20時台前後は降らないとの予報だったので確実な開催が見込まれた(過去土砂降りでも行われたことがあり、その実行力(点火力?)には定評あり)。


京都黒谷・金戒光明寺塔頭西雲院の百日紅の花
同じく黒谷の寺院内に咲く盛夏の代表的庭木花「百日紅(サルスベリ)」

特異な送り火観覧
世の平穏回復願う


本来はその点火の様を掲げたかったが、諸方からの要請通り観覧は断念し、親類宅のテレビ中継にて点火とその終焉を見守った。

仕方ないとはいえ、これもまた読者には申し訳ない限り(特に送り火に馴染みがなく、その様子を知りたい遠方の人)……。

さて、天候もまだ油断出来ないが、変異種拡大中のコロナ禍は更に危うく、予断を許さない状況にある。

一先ずは盆の終焉と共に、早期の平穏回復を願うばかりである。

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2021年08月14日

盆雨水難

2021年8月14日朝の豪雨で冠水した滋賀県大津市の道路と舟のように水を分けて行き交う自動車

盆覆う冷涼と長雨

8月に入り猛暑日もしくは、それに近い暑さが続いていたが、先日の9日を境に突如気温が下がった。

その原因は、大陸性高気圧と太平洋高気圧の接触に因る前線の発生と停滞、即ち天候悪化とその長期化にあった。

どうやら、例年9月頃に現れる秋雨前線の早出のようで、盛夏の象徴盆期間を覆う珍しい天候となった。お蔭で熱帯夜は止み昼の気温も38度から32度30度と下がり、一昨日・昨日なぞは26度しかない冷涼となったのである。

猛暑の気温に参っていた身としては一息つけたが、その分高湿の不快が現れ、また、大雨と長雨により各地で洪水や土石流の被害も発生した。

何事も丁度良い具合には、いかないものである。

そして個人的には昨日から今日にかけて、隣県は滋賀大津の琵琶湖畔に同県知人の好意により避暑がてらの滞在をしていたが、その効果も薄れた。

何せ、気温が下がる前日には38度の高温に喘いでいたのが、12度も下がったからである。正に、何事も上手くいかぬ――。そして、更に荒天のため、水浴や湖畔で寛ぐことも出来ず仕舞いとなった。

雨も昨夜から勢いを強め、明け方には危険な豪雨状況も現れた。地元京都を含む近隣一帯に続々と警報や避難指示が出され、公共交通の運行停止や道路通行止等も実施され始めた。

写真は、そんな朝、宿泊先から見た冠水する道路と、ボートの如くそこを行き交う自動車。朝9時頃にその姿を見、驚いて撮影したのである。

しかし、驚くのは、こればかりではなかった。

帰宅図るも……

早朝よりマシになったが、頻りに降る雨の中、帰宅しようと昼前JR大津駅に行くが、なんと地域の動脈・琵琶湖線(東海道線)が止まっている。

郊外の低湿地区間や長距離列車等ならいざ知らず、比較的安全なこの区間が全線休止していたのは意外であった。

駅員に訊けば、朝8時から休止しているという。実は朝から滞在先のテレビ等で情報を収集していたが、そんな情報はなかった。

大津駅前のタクシー乗場は既に長蛇の列で、しかも遅々として解消される気配もない。急遽、代替の京阪京津線やバス便を探すが、全て止まっており、また代替運行等もなかった。

JR線は「雨が弱まる」という夕方6時に再開予定とのことだったので、仕方なく市街に戻り、同じく帰れなくなった知人の滞在先で昼食を摂るなどして休ませてもらった。

しかし、それでも時間が余るので、雨が小康状態となった際、近くの名所や旧市街等を散策した。どのみち、京都の自宅も避難指示が出たままなので、仕方ないとういうか、最早避難の一環的気分であった。

そして、18時過ぎ。待ち望んだ運行再開に臨むべく駅に向かうが、何と、本日の運転は全て取り止めたとの貼紙があり、閑散とした大津駅前に立ち尽くすこととなった。

一応出発前にテレビ等で情報を確認したが、運休のことなど何処にもなかった。どうやら18時直前に報じられたようである。安全のため列車を止めるのは仕方あるまいが、直前に変更する無責任ぶりには怒りを感じた。

とはいえ、留まっていても仕方ないので、緊急手段として大津市隣で京都側の山科の親類に車の出動を依頼。しかし、一度承諾されたものの、その後「道路が渋滞して無理」との返答があった。

皆考えることは一緒である。京滋双方の帰宅困難者が身内を頼った結果、方々で大渋滞が生じていたのであった。

正に万事休す――。

これにて今日乗物で帰ることは不能となったので、最後の手段として、国道1号線の峠道を歩いて越え、山向こうの親類宅に宿ることを決断した。

この時間、雨は小康状態となっていたが、既に暗くなっていることもあり、知人は心配したが、仕方なく独り出発することとした。

雨中夜間の逢坂越え

渋滞で徐行する車の明りを背に受けながら国道の歩道を峠へと登りゆく。すると、同様の帰宅困難者らしき人達と遭遇。こうせざるを得ない人も少なくないであろう。

思えば、この逢坂山(おうさかやま)近辺の鉄道やバスが止まれば、北は日本海沿いか南は大和・伊賀高原経由という、途方もない迂回をしなければ京滋の連絡が叶わない。

奇しくも、今日の不便により、往古より東西交通の要であったこの地の重要性を改めて体感することが出来た。

さて、すっかり日が暮れた雨降る逢坂山中を進む。この後も豪雨への警戒と大雨警報が発せられていたので、急ぎ足にて、であった。

途中、山側から流れ来る沢の横を幾つか過ぎたが、朝の豪雨の所為か、暗がりのなか凄まじい水音がして恐ろしかった。そういえば数年前の豪雨時に、正にここからの土石流が道を塞ぎ、周辺の施設を破壊したのである。

警報下の行動反省

峠を越え、それらの沢を過ぎた辺りから雨脚が強くなった。風も強く、さしていた傘が一部壊れ、身体が濡れ始めた。幸いザック(背嚢)にはレインカバーが付いていた為、暫し高架下に宿り荷物を保護し直した。

ただ、その後は更に凄まじい豪雨の行軍となり、もはや傘や防水靴は役に立たず全身濡れることに。既に山科の市街に入っていたが、道路は無論、歩道も川のように水が溜まり流れ、歩くことさえ躊躇われる程となった。

車の運転さえ危うく思われ、勿論歩いている人など全くなし。こんな強い雨の中を歩くのは生まれて初めてのことかと思われた。仕方なく進んだが、本来なら止めるべき状況であろう。いつもは穏やかな小川・四ノ宮川が橋を渡るのも恐ろしい程の暴流と化していたことにも反省させられた。

そんな状況下、やっとのことで親類宅に到着。普通なら2時間近くかかる道程であったが、急いだため1時間強という短時間で着くことが出来た。

とまれ、ひと安堵――。

自宅の状況が気になったが、風呂を借り、着替えを済ませて一先ず落ち着くことが出来たのであった。

しかし、夜半の報道で衝撃的な事態を知る。何と、私が通過した約2時間後に逢坂山の件の沢が暴発し、土石が道を塞いだという。その為、当分の間、同区間の1号線は完全に通行不能となった。

間一髪で大津からの脱出が叶い、水難も避けることが出来たが、場合により夜間消息を絶つ犠牲者となるところであった。

やはり、かかる状況での行動は大変危険であること思い知らされた夜雨帰還行となったのである。

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2021年07月22日

疫祭半開

祇園祭の山鉾の一つ「鯉山」の閉ざされた会所入口と、そこに貼られた、席飾り非公開の貼紙

2年ぶりの半開催へ

先日17日に長い梅雨が明けたが、その日は彼の祇園祭の巡行日であった。

その数日前から各鉾町の路上に設置された山鉾が、街を巡ったのち解体され、また仕舞われるという祭の山場である。以前から「梅雨は巡行まで」と地元で言い習わされてきたが、今年は正にその通りとなった。

ただ、梅雨入りが5月16日という、驚くべき早さだったため、その期間が2カ月以上も続くという記録的長さとなった。

今年もコロナ禍継続の時世により巡行は取り止めとなったが、囃子や造作等の技術伝承のため幾つかの保存会が山鉾を建てていた。様子を見に行きたかったが、感染防止の参観自粛が報じられていたため断念した。

しかし、17日で片付けられたのは前祭(さきまつり)であり、24日を巡行日とした後祭(あとまつり)が残っていた。後祭には玄関に飾った除災粽(ちまき)の授与元の山が建てられており、2年ぶりの粽交換を行うため今日出掛けることとなった。

参観自粛中ながら、地元向けに、粽や護符等の授与は行われていたのである。ただ、それはあくまでも最小限の規模であり、各山鉾の根拠施設「会所(かいしょ)」での御神体・宝物等の参拝・観覧は中止されていた。

つまり、巡行中止の件も含め、全てが中止された去年とは異なり、今年の祇園祭は「半開」的開催となっていたのである。


上掲写真 技術伝承等の事情により山建てを行った山鉾の一つ「鯉山(こいやま)」の閉ざされた会所入口と、そこに貼られた、神像や宝物の参拝・観覧の中止を知らせる「席飾り」非公開の貼紙。左上部には山特製の厄除粽が飾られている。


午前中からかなりの暑さに見舞われる、夏空下の京都市街と賀茂川(鴨川)
午前中からかなりの暑さに見舞われる夏空下の京都市街と賀茂川(鴨川)

予想通り梅雨明け直後から気温が上昇し、連日猛暑日の暑さとなっていたので、比較的涼しい午前に鉾町へと出掛けた。しかし、授与所の開所時間の関係上、あまり早く出られなかったため、かなりの暑さに見舞われる。

ただ、日陰はまだ涼しさがあったので、午後よりは、かなりマシな状況ではあった。


京都市街中心部の御池通から室町通を南下して現れた祇園祭後祭の山鉾「役行者山」

祝日の所為もあるのか、市街中心部の御池通や烏丸(からすま)通等は少なからぬ人出でざわついている観があった。そして、やがて見えてきたのが、写真の如く、小路只中に建てられた山鉾(役行者山)であった。

自分で見るまでは半信半疑であったが、現場を目にして少々安堵。人出が比較的少なめな後祭の、宵々山(よいよいやま。巡行2日前)午前なので、混雑はなかったが、地元以外の遊山客の姿も少なからず見られた。

なお、市街中心のここまでは、山行用等の歩行・耐暑鍛錬を兼ね歩いて行ったが、寄り道しつつも、1時間程で着いた。


令和3年、室町通に設置された祇園祭後祭の山鉾「役行者山」
室町通に設置された役行者山(えんのぎょうじゃやま)


令和3年、室町通上に建てられた祇園祭後祭の山鉾「鯉山」
役行者山の南にあり、同じく室町通上に建てられた鯉山


入口が閉ざされた祇園祭後祭の山鉾「鯉山」の会所付近
室町通に面した鯉山の会所付近。土塀に縦穴が並ぶ、古い「虫籠(むしこ)」窓の下に、上掲の閉ざされた扉と非公開の貼紙が見える


新町通に建てられた令和3年の南観音山

そして目的の会所にて、古い粽を回収箱に入れ、新たな粽を購入。

いつもは仕事関係のお客さんから頂くので自分で買ったことはなく、今回も進呈の申し出があったが、コロナに因り何時会えるか判らず、また、ささやかな応援がてら買わせてもらうことにした。

帰路参観

こうして粽の用も終り、早速帰ることとなったが、折角なので、帰路通るその他の鉾町も見ながら戻ることにした。

写真は、室町通一本西の新町通に建てられていた南観音山。囃子方等が搭乗可能な高い櫓と屋根を持つ、「鉾」に準じる大型の「曳山」で、軍艦に例えると、戦艦の次に大きな巡洋艦のような存在か。


巡行は中止ながら華やかな懸装品で飾られた令和3年の南観音山
南観音山には例年同様、華やかな懸装品が飾られていた。会所の二階から伸びる搭乗用の構造も見え、一般参観も行われていた。正に艦船の如し


新町通に建てられた令和3年の北観音山
こちらは南観音山の北隣、同じく新町通に建てられた北観音山。同様に大型の曳山である


巡行は中止ながら華やかな懸装品で飾られた令和3年の北観音山
豪華絢爛な北観音山の懸装品。正に「動く美術館」


巡行は中止ながら道上に設置された令和3年の八幡山
最後は北観音山の北隣で、同じく新町通に建てられた八幡山(はちまんやま)。懸装品は仕舞われたままのようである。しかし、ほぼ全ての山鉾画像に高層建築が写り込んでいる。伝統景観の崩壊か。困ったものである

ついでの短時参観に思う

さて八幡山を最後に鉾町を後にした。また1時間かけて帰宅したが、気温上昇のため暑さに身を焼かれることに。飲料持参を忘れたことも辛かった。

ただ、風雨日射等で傷んでいた粽を交換することが出来て良かった。また短時間ながら山鉾の健在を見ることが出来、嬉しく思われた。

今回は比較的空いていたが、夜、市街中心をバスで通った知人によると、いつにない混雑ぶりに驚いたという。またもコロナ再拡大が懸念される昨今、大丈夫なのであろうか。

実は、個人的には、変異株拡大とワクチン供給の遅れ(接種3回化等の影響)により、コロナ禍は今年で終らず来年も継続するとみている。

世の中の正常化と共に、完全な祭への早い復帰も望みたいが、一体どうなるのやら……。

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2021年07月17日

雨往暑来

黒谷(紫雲山)山上からみた京盆地の屋並と梅雨明け空

最長の「湿季」去る

本日午前11時過ぎ、遂に近畿地方の梅雨明けが宣言された。

今年は梅雨入りが大変早かったため、それが明けるのも早いのではないか噂されていたが、ほぼ平年通りであった(平年値は7月19日)。

個人的にも、親類らが言う今月初旬の梅雨明けを一蹴し、今日の梅雨明けを10日程前から予想していたが、正にその通りとなった。

ただ、梅雨入りが5月16日だったので、その期間は2カ月を超す長期に。気象台によると、これも梅雨入り同様、観測史上初で、最長の記録という。

とまれ、昨今梅雨後半特有の強雨が多かったため一先ずの安堵となった。

低湿地ではないが、ただでさえ湿度が高い京盆地内の、地面直上の古屋に住んでいるため、その不便や不快を感じざるを得なかったのである。

いつになく朝から煩い蝉の声を聞きつつ、雨期明けの解放感を求め、近所を歩く。写真は京都市街東部にある黒谷の丘「紫雲山」山上より見た、京の屋並や西の空。

まだ雲が多めだが、夏らしい明瞭な空が広がっている。そういえば、陽も照ってきたので、暑さも増してきた。鬱陶しい存在ながら、熱射を遮っていた密雲が去り、代りに猛暑の時季がやってきたのである。

今日はまだ32度程の予報だが、来週辺りからは一段上がり、また梅雨とは違う愚痴を日々唱(とな)うこととなるのであろう。


京都金戒光明寺塔頭・西雲院の木槿
黒谷で見た大輪の花。恐らく管理塔頭の由緒関係で木槿(ムクゲ)と見たが如何……。芙蓉(フヨウ)とも思われたが、どちらにせよ夏らしい姿


京都黒谷・金戒光明寺の蓮池の蓮花
こちらは紫雲山麓の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)中心地区にある蓮池の蓮。幾つかの花が咲き始めているが、これも盛夏らしい眺めである


泉屋博古館の中庭越しに見た梅雨明け空と大文字山
黒谷の次は、東山裾野の「泉屋博古館(せんおくはっこかん)」という私営博物館を訪ねた。旧財閥コレクションの大陸青銅器を所蔵する場所だが、今日はそこで併催されていた古い浴衣や関連絵画等を集めた「浴衣展」を見学した。写真は博物館中庭越しの夏空。梅雨明けを強く実感させる、乾いた暑さ感じる景。中央奥には大文字山と送り火用の火床も見える


泉屋博古の庭にある自噴井戸越しに見た閉館直後の博物館玄関と、浴衣でゆかた展に来た参観者らの姿

早くも水慕う人の性

浴衣展や常設の青銅器展示をじっくり見せてもらい、閉館に。夕方ながら、館外にはまだ身を焼く暑さが残っていた。

この後も出掛ける予定があったので、閉館後も暫く開放されている敷地端の「泉屋博古の庭」の木陰にて暫し休息させてもらう。

写真は、園地の自噴井越しに見た閉館直後の博古館玄関。浴衣で来た観覧者の姿も見える。

それはさて置き、梅雨明けと同時にやってきた格別の暑さに、早くも水に焦がれる身勝手に気付く。井戸以外にも、庭園内にはその水を集めた曲水的なせせらぎが造られていたからである。

これも、常に気象・環境に左右される生身の人の性(さが)なのか……。

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2021年06月17日

梅雨慰誨

平安神宮大鳥居とその後背上空を横切る積乱雲

静まるも命脈保つ梅雨

観測史上最早で訪れた今年の梅雨。

それも、早ひと月が経過したが、当初の強さとは裏腹に、その後暫く「中休み」的な晴天等が続いていた。しかし、先日また纏まった雨があり、再度梅雨時を実感させられたが、長くは続かなかった。

昨日は全日雨のような予報であったが、意外に降らない時間も多く、今日も不安定との注意がなされていたが、目立つ崩れは起こらなかった。

ただ、そうした中での雷雲襲来により文章編集箇所が機器の電源落ちと共に消失し、その際発覚した無停電装置の電池更新の出費や手間を強いられたことは少々手痛いこととなった。

とまれ、驚くほど早く到来した梅雨は、その後大人しくなりつつも、時に頭をもたげ、確かにまだその命脈を保っていた。


上掲写真 本夕、所用の折通った京都市街東部に聳える平安神宮大鳥居と、その後背上空を横切る積乱雲(応天門前から外側方向を見る)。差し込む日射と重い雲との対比が梅雨の晴れ間の一瞬らしさを感じさせる。


真如堂の沙羅双樹の花

問いから判明もう一つの佛樹

さて、梅雨の合間の出掛けついでに撮ったのが、写真の白い花。昨日紹介した、京都岡崎地区からも近い、真如堂の沙羅双樹という樹の花である。

実は、同寺の菩提樹を親類に教えた際、「報道にあった沙羅双樹ではないか」との問いをうけ否定したものの、念のため、確認に来たのである。

結果は、親類の情報も正解であった。どうやら、菩提樹とは別に、その対面にあった沙羅双樹の花盛りも報道されていたようであった。

真如堂本堂前でその樹を探すと、菩提樹の対面にある特別な竹垣内から伸びる細い樹を見つけた。枯れた古木の代りか、細く、若そうな樹であったが、確かに本堂前で菩提樹と対になる位置にあった。

宮殿でいうところの、左近の桜・右近の橘のような2大要樹的存在か。

ただ、これも菩提樹同様、印度本来の沙羅双樹ではなく、代用樹だという。その本名は夏椿。確かに花は椿そのもので、見ている傍からポタリと落下するのも同様であった。

しかし、普通の白椿とは異なり、絹の様な光沢があり、幾分特別なもの、有難いものに感じられた。


真如堂本堂左前(北西)で花を咲かす沙羅双樹の木
真如堂本堂左前(北西)で花を咲かす沙羅双樹の木。他の樹と被って判り辛いが、竹垣右端辺りから伸びる細い木である

またも識る、珍しき佛樹と花の候――。

安定しない梅雨空と、コロナ禍時世に於ける、優しき慰めなのか。

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2021年06月16日

菩提珍花

本堂に掲げられた「真如堂」の扁額を背景に、小さな花を鈴なりに咲かせる真如堂の菩提樹

既に終盤の筈が……

一昨日(6月14日)、京都市街東部にある拙宅近所の真如堂(しんにょどう。真正極楽寺。同市左京区)の菩提樹の花が、見頃を迎えたという地元新聞社の報道に接した。

毎年恒例の「季節の便り」的な、さして変哲ない報道だったが、個人的に瞬時に違和感を感じた。丘上の真如堂辺りは、個人的によく行く散歩場であったが、実は、先週既にその花盛りを確認していたからである。

否、盛りというより、既に花が枯れ、実となり、樹下の砂利上には散った薄黄花弁の、堆積さえあった。その為、その際は「盛りを逃し、既に終盤になったか」と、残念ささえ感じていた。

何らかの理由で新聞社の報道が遅くなったのか、はたまた寺が知らせるのが遅れたのか……。

そんな訳で、今回の報道時機に違和感を感じたが、今日夕方、境内に寄ってみると、何と、まだ花があった。勿論、落ちたものや実と化したものも多かったが、まだ見られる姿のものも多かったのである。

同じ樹の中でも、場所や陽当たり等の条件により、成長に時差が生じるのであろうか。とまれ、開花の時期が短く、観察が難しいとされる菩提樹の花を、奇しくもまた観られることとなった。


上掲写真 本堂に掲げられた「真如堂」の扁額(理豊女王親筆。享保11(1726)年下賜)を背景に小さな花を鈴なりに咲かせる真如堂の菩提樹。コンパクトカメラにて撮影したが、夕方と曇天の光量不足や風に因り苦心。こんなに花が残っているなら一眼を持参すればよかった(苦笑)。


大きな真如堂本堂前の砂利上に枝を広げる菩提樹
巨大な真如堂本堂前(享保2(1717年)再建)の砂利上に枝を広げる菩提樹

真如堂と各地の菩提樹

真如堂本堂前西南にある同寺名物の菩提樹は、樹齢250年程とされ、「左京区民誇りの木」にも指定されている。菩提樹については、樹の傍に手製の解説板があり、非常に解り易くまとめられている。

それによると、この樹を始め日本の菩提樹は、桑科の樹木である印度のそれとは異なり、唐土で見いだされ、12世紀頃に移入されたシナノキ科の樹木だという。

即ち、釈尊縁の印度の原種が東アジアで育たなかった為、葉が似たこの樹が代わりにされたとのこと。ただ、シューベルトの曲で有名な欧州の菩提樹(リンデンバウム)は、この樹に近いものという。

毎年6月半ばに芳香を伴う花を咲かせるといい、正に今がその時期なのだが、今年は季節の進みが早かったのでその影響があったのかもしれない。


京都・真如堂本堂前の菩提樹の花や実
真如堂の菩提樹の花や実。花は梅や蝋梅にも似るか。この様に少し向きから眺めると開花と同時に花の中で実が成長する様が良く観察出来る。即ち花が落ち玉状の実が残るのである。花は1cm程と小さく、高所に存在するため肉眼では観察し辛い。高画質画像の拡大や望遠レンズ使用を勧めたい

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2021年06月01日

哲蛍早多

哲学の道横の琵琶湖疏水分線上を飛翔するゲンジボタル。2021年5月25日撮影。

梅雨だけでない季節進行の早さ

先日、賀茂川(鴨川)の増水と共に観測史上最早の梅雨入りに触れたが、同じく例年より早い自然現象が身近で確認された。

それは、琵琶湖疏水分線、即ち「哲学の道」沿いの蛍の出現である。地元の保全組織「哲学の道保勝会」によると、平年より1週間程早い13日辺りから飛び始めたとのこと(5月25日京都新聞報道)。

まあ、これだけ梅雨も早まり、季節の進みも早いので、その出現が早まっても不思議ではないか。実は、新聞報道前の23日夜の帰宅時に玄関横に1匹が光っているのを発見し、出現の早さを直接実感していた。

その後、近所のことなので、何度か哲学の道を覗き、その飛翔を見ていた。そうして今日、また水辺と違う場所にて、思わず個人的遭遇を果たすこととなった。


上掲写真 哲学の道(右手)横の、琵琶湖疏水分線上を飛翔する蛍。暗くて判り辛いかもしれないが、右奥に疏水に架かる橋と欄干があり、その下から画像左下に向かって疏水の溝と水面が続く。2021年5月25日撮影。


裏庭迷い込んだ哲学の道のゲンジボタル

玄関前の遭遇に続き……

個人的遭遇とは裏庭に現れたこの蛍である。当初は雑草の中で断続的に光を放っていたが、折角なので撮影のため土間口まで移動してもらった。

蛍自体は珍しいものではないが、比較的明るい条件でその灯りを見ることは個人的に珍しいことであった。

撮影後、また速やかに葉の方へ移動してもらった。恐らくは、以前の玄関前蛍と同じく、疏水から屋並等を伝い迷い込んだのであろうが、自然に任せることにした。

因みに、哲学の道のゲンジボタルは市街地に住む貴重な存在として京都市の天然記念物に指定されている。先日から網を持って捕獲しようとする家族を幾らか見たが、止めるべき行為であり、罰則を受ける恐れもある。


ほのかな灯りを点しつつ暗がりを飛翔する数多のゲンジボタル。2021年5月28日哲学の道にて撮影
ほのかな灯りを点し暗がりを飛翔する数多のゲンジボタル(5月28日撮影)。今年はその数もかなり多い。去年からのコロナ自粛により生育環境が良化したためか。個人的には90年代までの多さが復活したように感じられた。とまれ、うちに迷い込んだ蛍もそうした影響なのかもしれない

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2021年05月21日

梅雨早奔

朝の強雨の影響を夕方まで宿す京都・賀茂川(鴨川)の濁流

乗っけから手強い「5月の梅雨」

既に存知の通り、今年は例年にない早さで西日本各地が梅雨入りした。

ここ京都市街を含む近畿地方のそれは5月16日。5月初旬の連休やその後も天候が一定せず、異様に湿度を感じる日も多かったので一寸想像してはいたが、こんなにも早く梅雨入りすることとなった。

ただ、日曜であった16日当日も、朝出先で5月らしからぬ強雨に遭い、まさかの梅雨入りを確信し、午後のニュースで正に的中した。

平年は6月6日頃の梅雨入りなので、21日も早いこととなる。当然の如く、それは観測史上最も早いものとなった。ただ、早く梅雨入りしたからといって、早く梅雨明けする訳ではないという。

そうなると、梅雨明けの平年値は7月19日頃なので、場合により2カ月以上も梅雨が続くこととなる。湿気嫌いの身にとっては鬱陶しい限りの良からぬ「当たり年」だが、自然のこと故、致し方あるまい。

せめて近年多い梅雨入り後の中休みというか、前半の空梅雨を期待したが、何と今年はのっけから降りに降る、これまた当たり的様相を呈した。

昨日の20日には西日本各地で5月としては観測史上最多の降水量を記録するなど豪雨に見舞われた。そして、ここ京都でも今朝早く北部山間で避難指示が出る程の強雨となった。

幸い雨は午前までに収まったが、あまりに早く現れた、久々の凄まじい雨音に、身心引き締まる思いをさせられた。

画像は、夕方所用の際通過した、京都市街東部を流れる賀茂川(鴨川)。既に雨が収まりかなりの時を経たが、見ての通りの荒れぶりであった。

未だ多くの水を吐き出す北山上空をはじめ、未だ予断ならぬ様の厚い雲が垂れ込める。否応無しに「5月の梅雨」を感じさせる景であった。


豪雨後の賀茂川(鴨川)の濁流と河岸の枇杷の実
賀茂川の濁流と河岸の草木。その倒れ方等から最増水時は右高所の歩道近くまで水がきたかと思われた。河道が掘り下げられていない昔(昭和10(1935)年以前)なら溢水の可能性もあったであろう。ん?、河岸の野生枇杷の実が色づき始めている(中央下)。これもいつもより早いか……。

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2021年04月10日

清明豪奢

石畳上で春風に翻る、京都真如堂の楓若葉(青もみじ)

近所の美麗・贅沢

先ずは、石畳上で春風に翻る楓葉(かえでば)を一写。

儚げな色合いながら、若々しい息吹も感じさせるその新緑若葉がある場所は、京都市街東部の真如堂境内。それは、京盆地東部に浮かぶ吉田山(神楽岡)から続く丘上(中山・紫雲山)にあった。

古くから紅葉の名所で知られる場所だが、この時期の新緑も鮮やかで、素晴らしいものがある。例により用のついでの夕方立ち寄った(近道通過した)のであるが、随分日が長くなったこともあり、意外に堪能できた。

しかも、広い境内には一人二人の通行者のみ。月初の桜の時期は多くの人で賑わったが、それが終ると例年こんな感じとなり、少々寂しい様に。まあ、今年はコロナ禍継続の影響もあるのかもしれないが……。

ただ、近年楓の新緑が「青もみじ」として珍重される傾向があるので、近々有名になり、人でごった返すかもしれない。それはそれで残念なこととなるが、現状の独り占め状態も少々気が引ける。

近所の人間も含め、こんな美麗・贅沢に気づかずにいるとは、実に勿体ない限り……。


京都真如堂正門の赤門(総門)前の楓の新緑若葉(青もみじ)
真如堂の正門「赤門(総門)」の楓新緑も、この通りの美麗さ


京都真如堂の本堂裏の楓の新緑若葉(青もみじ)
また、比較的暗い場所である真如堂本堂裏の楓もこの通り。乾いた春の気も更にその緑を引き立たせているように思われた。ただ、これも夕方5時を回った頃なので、朝なら更に素晴らしい色合いが見られたかもしれない


京都・神楽岡山上南の八重桜とその新緑若葉
こちらは真如堂から少し進んだ神楽岡南端辺りで出会った満開の八重桜。新緑と共にある、淡く優しい色合いの花々が、華やかで美しい


京都・神楽岡南山上の民家庭から覗く満開の八重桜と、その奥に続く京都市街
この丘上の八重桜もまた、民家庭から覗く、知る人ぞ知る存在であった

さて、諸人懸案のコロナ禍は、思った通りの、第4波到来の瀬戸際に。はたして、どうなることやら……。

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2021年03月31日

初発散桜

東山高校付近の古い石組側溝の水面を埋める桜の花弁

桜花散り始めを確かめる

昨日報告したが、京都市街東部の自宅近所の桜は、ちょうどその日、個人的に感じる「真の満開」に達していた。

真の満開に達すると、花の散り始め、即ちその滅びに入るのではないか、と昨日記したが、その証を確かめたく、今朝も少し花を見てみた。

因みに、今日の表題は「しょはつさんおう」と読む。「初発」とは物事の始めの意。つまり桜花散り始めのことである。


上掲写真 京都市街東郊の永観堂と南禅寺の間にある東山高校付近の、古い石組側溝の水面を埋める桜の花弁。


京都市街東部岡崎の疏水沿いの桜と朱塗りの慶流橋や大鳥居
南禅寺境内を経て達したのは琵琶湖疏水本線沿いの桜。京都市立美術館敷地縁の並木で、右奥にある平安神宮関連の朱塗りの慶流橋や大鳥居(右上)も見える。花は一見盛りに見えるが、やはりその量を減じていた


後背の京都東山の樹々と疏水の水面に映える京都市動物園の桜と十石舟
後背の東山の樹々と疏水の水面に映える京都市動物園の桜と観光用十石舟


京都岡崎の疏水沿いの桜花の一枝と水面を流れる多くの花弁
同じく岡崎の疏水沿いの桜。写真では判り辛いが、やはり方々の桜が花を減らしている。疏水の水面(みなも)を流れる数多の花弁もそれを物語る。まあ、それでもまだ満開と言ってよい見応え・分量があるが……

しかし、昨日までとは明らかに異なるのである。全体や部分全てを含めた生気というか、勢い等の、姿・雰囲気が。


京都・真如堂本堂と新緑の楓の枝
変わってこちらは「岡崎」の語源とされる同地北方丘上(紫雲山・中山)の真如堂で見た楓新緑。昨今「青もみじ」と呼ばれるもの。季節の移ろいが早い今春の状況を映す様に、新緑の芽吹きも早かった

目論見通りで寂しさ思うも

さて、視察の結果は、やはり方々、また樹々それぞれで桜の散り始めが確認された。それは、昨日とはあまりに異なる快晴の華やぎのなかでも、確(しか)と認識できたのである。

やはり、目論見通り京都市街東郊の桜は昨日が真の満開日だったようである。その事実に一抹の寂しさを感じない訳でもないが、これも自然のこと故致し方なく、強ち悪しきことでもない。

何より、新緑や次の花々の始まりでもあるのだから……。

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2021年03月30日

霾下盛桜

黄砂に煙る大文字山と疏水分線の満開桜

砂煙と真の満開桜

平年より12日も早い、今月16日に開花宣言が出た京都市街の桜。

その後も温暖、というか平年より高い気温に恵まれ、これまた平年比10日早い3月26日に満開が宣言された。ただ、市街東部にある自宅近隣各所の目視では7分咲き以下が大半を占めるような状態であった。

満開宣言は、市街中心部にある京都気象台の標本木が8割開花すれば出るとのことなので、うちのような周辺と誤差が生じるのは致し方あるまい。

ただ、その宣言に乗って、公園や寺社等の各名所が満開になったと喧伝されることには違和感を感じざるを得ない。

気象台とは異なり、発表する各媒体や団体等が共通・厳格な基準もないまま公表しているので仕方ないが、なかには観光利益や商機分散等の思惑による虚報を疑わせるものもある。

皆さんも、巷に溢れる「京都桜情報」の類には、くもぐれも振り回されませぬよう……。

さて、日々の観察、というか、生活のなかの景色に映る桜の状況としては、今日辺りが真の満開に至る頃であった。

生憎平日でゆっくり見廻ることは出来ないが、朝少々花の具合を見ることにした。写真は銀閣寺参道横の琵琶湖疏水分線の桜と後背の大文字山。

天気予報は全日晴れであったが、雲があり、何やら霞んでいる。実は黄砂が飛来していたのであった。先に大陸で強い黄砂が生じ、それが昨日近畿にも到来するという予報があったが、その時は大したことが無かった。

ところが、昨夕日暮れ頃から急に風が強くなり、遅れ馳せながら、砂煙が現れたのであった。それは、暗みゆく街や山並みの眺めにもはっきり影響するほどのものであった。

そして、その晩が明けた今朝。砂煙の影響は残り、意外の曇天と共に、写真のような眺めが現れたのであった。

因みに今日の表題「霾下盛桜」は「ばいかせいおう」と読む。「霾」は以前説明した「土降る」の意で、黄砂のこと。


銀閣寺道傍を流れる琵琶湖疏水分線沿いの「哲学の道」の満開桜
同じく銀閣寺近くの疏水の桜。所謂「哲学の道」である。前掲の写真とは逆の西側を向いて撮ったもの。雲と黄砂によりコントラストが低いが、花の具合は良さそうである


京都「哲学の道」沿いに咲き誇る満開の桜
同じく「哲学の道」の桜。但し、流れをかなり南に遡った場所のもの。やはり、殆どの樹々が真の満開状態であった。それに達しない状態とは花房の立体感、漲り方が異なる


黄砂に煙る賀茂川(鴨川)の河原と桜並木(中央左)
これは午後所用の際に橋上から見た賀茂川(鴨川)の河原と桜並木(中央左)の景。砂霞は朝と変わらずにあり、京盆地全域、砂煙(さえん)に没したような具合であった


IMGP5541.jpg
同じく午後の所用の帰路見た琵琶湖疏水本線の桜。川端通の橋上より東山方面をみる。所謂「夷川ダム」下流の桜並木である

黄砂そして早すぎる満開に思う

素晴らしい花具合だが、やはり光線具合は良からず。午後から各所観光の人が増えており、彼らが「真の満開日」たる今日に立ち会えたのは幸いに思われたが、この気象条件は気の毒に感じられた(特に撮影主体の人)。

まあこれも自然のこと故致し方あるまいか……。私見では桜は真の満開に達すると一気に散り始める。そう、真の満開とは滅びの序曲でもあった。

盛りと共に同居する滅び――。

その境界は曖昧ながらも意味する処は厳然である。砂霞のなかで漲る桜花は、夜見る満開の桜の迫力と似たものがある。

それは、周囲の生気が下がると逆に際立つ、樹々の生の凄みなのだろうが、実は私は花弁ではなく、桜が見せるそうした盛衰の様を追っていたのではないかと気づかされた。

否、それは私だけではなく、多くの日本人に共通する根底的な行動・思考なのかもしれない。

その艶(あで)やかさ、存在感を以て、盛大に春本番を告げる花「桜」。多くの日本人が執着するその花の移ろいは、やはり他の花には代えられない特別なものであろうと、改めて感じさせられた。

いつにない早さの桜満開、そして黄砂の異様に、ふと、そんなことを感じさせられた1日ともなった。

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2021年02月02日

節分異様

新型コロナ流行と緊急事態宣言の影響により触れられなくなった吉田神社・大元宮本殿前の節分祭厄塚

記念的節分ながら……

報道等で知らされている通り、今日は例年とは異なる2月2日の節分日。

季節の境界たる節分(冬春)は、本来立春前日の2月3日が正規的だが、太陽周期と暦のズレによる立春日の修正に伴い、変更されることがある。

今回のそれは、昭和59(1984)年の2月4日への変更以来37年ぶりで、2月2日への変更では明治30(1897)年以来の、実に124年ぶりの事となった。

そんな記念すべき日であったが、世は未だコロナ騒動の渦中にあった。しかも、ここ京都ではそれに加え緊急事態宣言発出中という状況であった。

「春の気が立つ」立春前とはいえ、年中で最も寒い時期――。しかしながら、本来は社寺や家庭等で賑やかな祭事が開かれる日でもあったが、今年はコロナ騒動という特殊事情に大きく影響されることとなった。

拙宅から近い、京都市街東部の吉田社で行われる有名な「節分祭」も影響を受けた祭事の一つ。今年は期間中行われる様々な行事が中止となり、祭事の最高潮ともいえる火焚き行事「火炉祭」も中止となった。

例年、持ち込んだ古札等を焼いてもらえる火炉祭は、私や近隣住民にとって、「都会のどんど焼き」ともいえる貴重な機会でもあった。

ただ、火焚きは無くとも古札等の引き取りは行われるとのことだったので、夜から正月飾り等を持参して出向くことにした。


上掲写真 節分祭で特別公開されるも新肺炎流行と緊急事態宣言により触れなくなった吉田神社大元宮本殿前の厄塚(やくづか。左の繩巻の柱)。


新型コロナ流行と緊急事態宣言の影響で人が少ない、節分祭の夜の吉田神社・大元宮

寒さ戻るも人おらず

参拝は例年通り裏手の山上から。京盆地東に突き出た小山である吉田山西面に広がる神域に東から入るためである。

今日は「大寒」期間としては気温が高かったが、夕方急激に下がり、夜は冬らしい寒さとなった。ただでさえ寒々とした夜・林間の境内に出向くのに、何もこの時機で急降下することはなかろうと思うも、仕方なし。

むしろ、例年なら更に小雪が舞う程の寒さとなるので、まだマシな状況といえた。

写真は、東から吉田山の鞍部を越え最初に接した山上の大元宮門前。普段は門の手前でしか参拝できないが、今日は節分祭なので特別に開門されている。ただ、近年はその奥の厄塚に触れる参拝者が門外まで列を成していたが、今日は見当たらず。

感染対策で厄塚への接触が禁止されていることもあったが、そもそも例年より格段に人が少なくなっていた。


新型コロナ再流行により節分祭の露店が消え失せた、吉田神社境内の大元宮と本殿地区を結ぶ参道
例年、節分祭三箇日には露店がひしめき続く場所ながら、コロナ騒動で消え失せた、暗く寒いばかりの吉田社大元宮と本殿地区を結ぶ参道

全国万(よろず)の神々が祀られている大元宮を一先ず参拝し、参道を下りつつ吉田社本殿へと向かう。既に大元宮前に着いた際目にしたが、例年なら門前広場から参道沿いに続く数多の露店が全くなかった。

出店中止の件は予告で事前に知っていたが、いつもの賑やかさが消え、暗い境内が広がるばかりの光景に、少々衝撃を受けた。


吉田神社の拝殿と本殿の門、社務所等が見える境内中枢部

侘しさ感じる参拝
落着はいつに……


例年とは激変し、すれ違う人も稀な暗い参道を下り本殿地区に至る。さすがに、そこは境内の中枢なので、飾り付け等がされて祭らしい華やかさがあったが、やはり人は極めて少なかった。

写真は、拝殿(左手前)と本殿の門(右奥朱塗の建屋)。左端奥の明るい場所は社務所兼神札等の授与所で、本来は拝殿周囲も神札授与所と化し、神職や巫女さんが待機していた。

一見本殿前は耿耿と照らされ明るいが、人出は平日午前のような少なさであることが判るだろう。恰も明治時代かいつぞやの、地元だけの祭に戻った様である。否、昔は今より信心が厚く、たとえ旧吉田村住民のみでも老若総出で参加したであろうから、これよりは賑やかだったかもしれない。

とまれ、今年は1人のみが配された古札預かりの神職氏に正月飾りを引き取ってもらい、本殿を参拝した。火炉祭が中止なので、当然古札が積み上げられた火炉も無し。

恒例の用は無事済んだが、どこか侘しさ感じる参拝となったのである。


コロナ騒動で節分祭の露店が消えた、吉田神社本殿地区石段下の表参道
本殿地区石段下から見た西方は大鳥居まで続く表参道。ここも例年は三筋の通路に沿い盛大に露店が出る場所であったが、この通りの暗がりに。方々の景観を激変させるコロナ騒動は一体いつになれば落ち着くのか……

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2021年01月01日

防護初詣

令和3年1月1日正午前の平安神宮・応天門

令和三歳初詣

令和三年の歳が明けた。

表題画像はお馴染み平安神宮の応天門。同社は京都市街東にある大社(規模の意)で、明治28(1895)年に平安遷都1100年を記念して創建された。

祭神は平安遷都の実行者・桓武天皇と、幕末及び維新の政治に多大な影響を与えた孝明天皇。古い社寺が多い京都では比較的新しい社ではあるが、8分の5の大きさで再現された古代宮城施設・応天門や大極殿等が社殿となっていることもあり、内外の参拝者に人気を博している。

私も地方出の両親がここで挙式をしたこともあり、小時から初詣に来ていた。因って、今日来たのも、その流れというか、まぁ恒例である……。

当初は新型コロナ再拡大の時世により家人が嫌がったが、そうした心配に配慮したのか、なんと神宮側がネットで境内状況を生配信しており、それにより人出の少なさを確認出来たため、出向くこととなった。

全く不便至極な状況が続くが、一方ではやはり便利な世になったと感心。

とまれ、1月1日昼前の神宮正門・応天門前の人出は写真の通り。例年1日午前は比較的空くが、それでも、これほど少なくはない。ただ、皆同じ考えなのか、配信を見た時よりも確実に増えたようには思われた。


平安神宮参道と露店、そして奥の応天門
平安神宮参道と露店、そして奥の応天門。表題画像より時間的に少し前に撮影したもので、例年に変わらぬ露店の列と、そこそこの人出が窺われる。ただ、露店は準備はされるものの、店人がいないものも結構見られた


密集防止を意図した臨時の誘導柵や間隔目印が設けられた平安神宮・大極殿前広場
本殿前の参拝所(拝殿)である大極殿(右)前には多勢による密集防止を意図した臨時の誘導柵が設けられていた。また、その地面には間隔を空けて2列で並ぶための目印となる樹脂紐が埋め込まれており、大極殿内にも目印のテープ貼りや警備員による誘導等の感染対策が行われていた。実に大変な労力――。その為かどうかは不明だが、御守り類が値上げされていた


平安神宮のおみくじ小屋と、コロナ対策により青竹に入れられたおみくじ
大極殿前広場横にある、おみくじ小屋では例年とは異なる御籤授与が行われていた。即ち、接触の多い御籤筒は使わず、棚上に置かれた青竹に折り畳んで入れられた御籤を直接参拝者が引く方式である

年初の特殊。早く平穏に

さて、神社側の配慮やこちらの対策により無事初詣を終えたが、年初からの特殊状況に、改めて世の緊迫を感じさせられた。とにかく、一刻も早く収まってもらいたいものである。

最後になったが、皆さん、今年もどうぞ宜しく……。

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2020年12月31日

晦日憂慮

令和二年の大晦日、雪を纏い京都市街を見下ろす比叡山

晴れやらぬ歳の暮れ

令和二年大晦日。
また遂に至る1年の仕舞い――。

昨夕から出された大雪注意報の因たる寒波は、前夜京都市街にも雪をもたらしたが、幸い僅かな量に終った。

そして、薄っすら庭木を覆ったその雪も朝までに消え、時折、晴れ間さえ現れるほどとなった。

しかし、気温は低く、昨日までのように10度を超すことはなく、昼に至ってもその半分程の寒さが続いていた……。

さて、1年の終り。今年は存知の通り、例年とは異なり、新型コロナ関連の騒動に塗れたような年であった。

国内初の感染者が1月中旬に確認されたので、ほぼ1年それに振り回されたことになろうか。一大行事、東京五輪もそれにて延期となった。しかも騒動は継続中で、嘗てないほど感染が増加するなど、深刻さを増している。

恐らくは、このまま無策を通せば、新年1月末辺りに、五輪開催を賭け、東京及びその他感染増加地でロックダウンを(都市封鎖。この言葉は刺激が強いため恐らく使われないだろうが)せざるを得なくなるだろう。

その根拠は、その頃までが最も気温が低下する頃となり、それに影響されて人の抵抗力が下がり、罹患し易くなる為である。

このことを以前から思い、周囲にも語っていたが、やはり冬に入り、その通りの感染増加となった。こんな素人でも判る理屈・危険性が、何ゆえ殆ど語られず、放置されたのか不思議でならないが、本格的な冬は始まったばかりなので、もはや案ずるばかりとなった。

罰則がなくとももう少し厳しい対処を行っていればこんな事にはならなかった筈。これも何度も記したがお願いだけで収まらぬのは自明であろう。

それは、集団免疫獲得を目標に無策的に乗り切ろうとしたスウェーデンが自他共にその失敗を認め始め、逆に厳格さで感染の安定制御を堅持した台湾等の事例にも伺われる。

経済を回さなければならないのは当然だが、防疫を蔑ろにする者に掣肘を加えず、お願いや助成金を幾ら出しても感染を止められる訳がない。もはや、呆れるどころか、こちらまで投げやりになりかねぬ駄目ぶりである。

一庶民として、良い新年を願うしかないのであるが、正直気が重いばかりである。皆さんも、どうかお気を付けて……。


上掲写真 雪を纏い、厳しく京都市街を見下ろす比叡山。令和二年大晦日の午後遅くにて。


令和2年大晦日に見た京都北山方面の雪や吹雪を見る
京都盆地北方の北山(きたやま)方面を見る。市街は晴れたり曇ったり、また時折小雪が舞ったが、北山では常に吹雪いているように見えた。雪山登山には最適な条件となったが、世情は厳しいばかりである

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2020年11月15日

想龍馬忌(附京東紅葉況)

京都市街東部・紫雲山山上にある金戒光明寺会津墓地にある松平容保公の石像

近隣紅葉視察と会津墓地

昨日も記したが、11月とは思えぬ温暖の日が続くなか、いよいよ京都市街の紅葉も本格化してきた。

よって、今日は出かける前のひとときに、自宅近くのそれらを少々視察することにした。

とはいえ、最初に掲げた写真は見ての通り紅葉ならぬ石像である。しかも厳めしい武人像。これは紅葉の名所・真如堂にも接する黒谷金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)奥にある会津藩墓地に近年置かれたもので、幕末ここに駐屯した彼の会津中将・松平容保(かたもり)公の像であった。

散歩で比較的よく通る場所なので初めて見た訳ではないが、以前から気になっていた。そこで調べてみると、どうやら去年6月9日に墓地整備等を行っている京都会津会により建立式典が行われたようである。花崗岩の最高品種「庵治石(あじいし)」を使い、守護職在任中に撮影された容保公の有名な写真を元に石彫師が仕上げたとのこと。

「會津藩殉難者墓地」という名のこの墓地は、会津藩が京都守護職に任命され上洛した文久2(1862)年から慶応3(1867)年までの間に殉職した藩士及びその関係者を葬った場所。その数、実に267名にのぼり、その他慶応4年(明治元。1868)年に勃発した鳥羽伏見戦役で戦没した115名の慰霊碑も合祀されている。

正に殉難――。

約1000名動員されたというその総数からも損害の大きさが解る。過激派浪士らによる暗殺や強奪行為で極度に悪化した京の治安を正すため江戸幕府から指名され、遥々会津から上洛した容保公率いる守護職部隊。

当初から火中の栗を拾う行為であることが判っていたため、公及び藩論はこれを拒んでいたが、徳川宗家への忠誠を説く藩祖の家訓や、自己保身ではないかとの誹りへの対抗上、仕方なく受けることとなったという。

果たして、その結果は、この墓地やその後の歴史が教える通りとなった。

だが、上洛した公や会津藩兵、またその配下となった新選組らの活躍により京の治安は改善され、一時は孝明天皇を始めとする朝廷からも信頼され、朝野共に好意を受く存在とされたこともあった。

それにもかかわらず、のちに幕軍と共同したことにより賊軍扱いされた彼らへの評価は徹底的に悪くなった。私自身も先祖が薩摩側だったことや、また何かと歪んだ学校教育・小説等の創作物により悪い印象を持たざるを得なくなった。

龍馬忌に想う公儀への誤解中傷

そうした評価風潮は今も継続しており、墓地には礼節を以て墓参することを促す注意書まで掲げられている。折しも今日11月15日は彼の土佐浪士・坂本龍馬の命日であった。朝からラジオでそのことが繰返し報じられ、同じく受難した会津藩士らへの扱いとは真逆の、華やかささえ感じられた。

龍馬ら幕末の志士も会津士卒らも共に大義を奉じそれに殉じた人々。皆その時々の情勢のなか、自己の役目を誠心果たしたまでであった。因って、新選組を含む会津の取締りを弾圧と非難することはおかしく思われる。

浪士とはいえ相手は攘夷派の大藩や公家らとも通じた武装集団である。必然、時に斬り合いを要する制圧や捕縛も生じ、その結果・証がこの墓所ともいえる(龍馬も公儀捕り方に最新輸入拳銃を発砲し2人以上を殺傷)。

こうした誤解は彦根大老・井伊直弼(なおすけ)公への悪評とも繋がる。条約の無勅許調印や安政の大獄で悪名高くされた同公も、実は尊皇の念や攘夷の志さえ持つ人であったという。海外事情の分析により安易な攘夷の危険を悟り、故に列強への妥協や国内の引締めを行ったともいえる。

これらの誤解・中傷は後世から往時を振り返ることで生じるようにも思われる。ここの例でいうと近代明治以降から近世幕藩社会を断じることである。これがもし近世末以前の視点ならば取締りも処罰も適法であり、当たり前となるだろう。むしろ、藩の取潰しも殆どなく甘過ぎるほどである。

何事も早計な評価は禁物。そうした拙速な態度は軍事的勝者の正当性を、不当または過度に補強するなど、政治的に利用されかねない。

維新151年目の石像建立の意義

長くなったが、容保公像そして会津墓地を前にして思うことは多い。これも明治150年を経た感慨か。同様の感慨や未だ雪がれぬ汚名への無念の思いが、維新151年目にしての石像建立に繋がったのかもしない。

とまれ像が造られたことを大変喜ばしく思う。縁者ではないが、ここを通る度に遣り切れぬ思いを感じていた自分にとっても救いになったような気がした。

横顔となる写真からは解り辛いが、像は正面からみると美少年の誉れ高かった写真そのままの姿である。つまり、往時生き写しの容保公像である。除幕の際は、さぞや感心した人も多かったのではなかろうか。

まさに、墓群下の魂のどよめきさえ聞こえてきそうな出来栄えである。

公武に忠勤し、そして京の治安維持に殉じた会津藩兵。刻々と変わる情勢のなか、容保公以下皆が何度も帰郷を願うも許されず、やがて幕府の迷走に巻き込まれ朝敵の烙印を押される事態に――。

正に、武士ならずとも死んでも死にきれぬ恥辱、悔しさであっただろう。鳥羽伏見戦での潰走を皮切りに、治安維持活動は大規模な戦に変わり、やがて戊辰戦争として故郷会津での望まぬ総力戦を強いられることとなる。

争乱により漸く京を離れられたものの、その犠牲は実に甚大に。しかし、全てに破れたあと、幸いにも容保公は死を賜ることはなかった。この辺りのことも、明治150年の事績として感慨深いものがある。

公は華族・神職としてその後政治には関わらなかったが、例えば最後まで幕軍として戦った榎本武揚のように、賊軍側の人々が根絶やしにされぬどころか、政府要人となる例も多くみられたからである。つまり敵味方の怨讐を超え、有能な人材が新たな国づくりに活かされたのである。

これは同時期に同じく変革期を迎えていた清国や朝鮮等とは極めて対照的な点である。両国でも改革や政変が盛んであったが、反動による残忍かつ徹底した報復人事が行われ、その後の混乱・近代化の遅れに繋がったからである。

涙なみだの声あらん

事後150年以上を経たが、遠い異郷に倒れた無念の会津人士の墓前に生き写しの容保公像が現れた。

もし、この世に滅せぬ魂、地に留まる熱き思いがあるのなら、その喜びや如何(いか)ならむ。

「見られよ、殿が参られた!」
「皆々大儀!会津に帰ろうぞ」

恐らくは、共々涙なみだの声ならん。沸く声の、幻を聞く思いである。


若王子付近の、哲学の道・疏水分線沿いの紅葉

京都市街東部の紅葉具合

さて、長く感傷的な冒頭文の続きながら、自宅近隣の紅葉具合を紹介したいと思う。

最初は写真に見える、哲学の道・疏水分線の紅葉である。気温の所為か、今年は樹々による進行の差が大きいように感じられた。

色づいた樹があるものの、割合は8割程か。


若王子付近の、哲学の道・疏水分線沿いの紅葉
これも哲学の道・疏水分線の紅葉。前掲同様、若王子(にゃくおうじ)付近の様子


永観堂参観口の紅葉と中央右奥の検温所
これは著名の紅葉名所・永観堂の拝観口付近。盛期に入って間もない感じか。中央右奥に拝観者用の検温所が設けられているのは新型コロナ襲来の年らしい状況


永観堂参観口横からみた有料庭園の紅葉
同じく永観堂の紅葉。参観口前の右横から有料庭園を捉えたもの。やはり色づきのムラが多いか。因みに10日程遅くなるが、去年はこんな具合であった


南禅寺境内にあった色づき途上の三色紅葉
こちらは永観堂南方の南禅寺境内の紅葉。緑から黄・赤へと色づく途中の姿だが、美しく、変化があって良い


南禅寺天授庵門前の紅葉
これも同じく南禅寺。塔頭の天授庵門前の紅葉で、ここも手前(西)側は色づきが少ないなどのムラが見られた


京都市街東部・岡崎の琵琶湖疏水縁の桜紅葉
次は京都市街東部に広がる文化芸術区域・岡崎の琵琶湖疏水縁。両岸の樹は桜で、既にかなり葉を落としているが、一応参考までに


古い木造仏塔と楓紅葉
これは、街なかの鑑賞良地ながら、観光客ゼロ、地元民も稀な秘密の名所


京都市左京区の丘上にある真如堂境内の紅葉
最後は丘上の古刹・真如堂。外人こそ今年はいなくなるも、近年名所として知られるようになったため、やはり人は多い。まあ、それでも観光バスが入れないので、他の著名社寺とは桁違いの人出ではある


京都真如堂の本堂北側の楓紅葉
同じく真如堂。本堂左横(北側)の楓紅葉

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2020年10月25日

再開天神市

2020年10月25日、7カ月ぶりに再開した北野天満宮の天神市

天神市再び

今日は日曜ながら、家の冬支度のため夕方まで在宅の予定だったが、ラジオで天神市再開のニュースを聴き、急遽出かけることにした。

天神市は、毎月25日の菅大臣(かんだいじん。菅原道真)の命日に京都市街北部の北野天満宮で行われる食品や骨董等の露店市。コロナ騒動で長らく中止となっていたが、漸く再開されたのであった。

元々天神市は古物市・蚤の市のなかで個人的に最も好みの催しで、昔から機会ある毎に訪れており、近年は骨董関連案件の調査・執筆の関係で、比較的頻繁に出向いていた。

そんな、馴染みの催事の長期中断と再開――。途中で手を止めた用や、夕方からの外出を考え短時間の様子見となったが、到着後、ほぼ以前同様の数多の店開きや客の賑わいを見て安堵した。

顔見知りの店主とも久々に話して近況等を語り合い、こちらが長期休止に同情すると、開き直ってのんびり過ごす他なかったとの答えもあった。

とまれ、市の再開は実に7カ月ぶりとのこと。ただ、どの露店もマスク着用、消毒液配備の徹底ぶりで、その取り組みの様には共感が持てた。


上掲写真 7カ月ぶりに再開された京都北野天満宮の天神市。店数や客足も以前同様に戻ったように感じられた(但し近年の外国人盛況分は除く)。


賀茂大橋の上からみた、秋晴れの陽射しに煌めく賀茂川の水面
爽やかな秋の陽を反す賀茂川の流れ。北野天満宮は、昨日通った出町柳(でまちやなぎ)の西方にあり、同じく今出川通に接するので、そこへの途中、賀茂大橋上から撮影した

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2020年10月24日

週末晴天

秋晴れの賀茂川(鴨川)・高野川の合流部「デルタ」で憩う人々

10月終盤、漸くの週末晴天

全国的にそうだったらしいが、夏からずっと週末の天気が悪かった(梅雨も入れると春から?)。

偶々台風襲来と重なったなどの事情もあったが、コロナショックという泣きっ面の最中、行楽行事やそれに関わる業種には、正に蜂刺されの如き状態であった。実際、自身が主催の秋季野営会も一度延期となっていた。

そして今週末。10月終盤にして漸く晴天に恵まれた。昼の気温も過ごし易い20度程となり、正に爽やかな秋晴れの、行楽日和到来となった。

とはいえ、残念ながら私は今週末行楽に出向く予定はない。ただ、折角なので、用の合間に自転車で考古資料館に出向くことにした。

それは、以前東山山中で代理採取し、市の保護課へ渡す出土遺物の、簡易鑑定・セカンドオピニオン(二次意見)を得るためであった。

写真は、その途上見た、高野川(手前)と賀茂川(鴨川。奥)合流部の河原。近年、その逆三角形形状により、若者を中心に「デルタ」と呼ばれている場所である。

大阪中心部と直結する京阪線の駅や商店街がある出町柳(でまちやなぎ)最寄りの河岸のため、日頃人が多く、内外の人の憩いの場となっている。見ての通り、今日も川なかの飛び石辺りを中心に多くの人出が見られた。

午後から雲が多くなってきたが、明日も快晴予報なので、大きく崩れる可能性は低いであろう。


改修工事で石材が磨かれた賀茂大橋の親柱・高欄と設置工事中の歩道安全柵

遺物簡易鑑定の結果

考古資料館では、担当氏により、須恵器の首片が平安初期の須恵器瓶子(へいし。酒等の容器)、縄目か押型(おしがた)がある陶片が年代不明の須恵器の甕であると判定された。

発見時に記した通り、双方共に奈良期以前の古いものかと思ったが、一応付近の遺構遺物と同時代のものとなり、辻褄が合った。須恵器と判定された縄目・押型の方も(裏面の圧痕から大型の物とも)、時代不詳ながら幅広い時代に存在するため、同年代のものである可能性が出たのである。

ただ、あくまでも担当氏の一瞥による簡易なものなので、今後保護課の方で違う見解が出るかもしれない。

古橋改修に思う古都棄損

さて、資料館を出て帰路に就く。写真はその際、再度通過した出町柳東岸(本来賀茂川東岸の地名は「出町」ではなく「柳」)。賀茂川を渡る、今出川大路の橋梁「賀茂大橋」の東詰め(東端部)である。

昨年から長らく改修工事を続けているこの橋だが、今日、親柱(欄干端部)や高欄の石材が研磨されていることに気付いた。一旦全てを撤去して個別に削り、また組み直したような状態である。

橋は昭和初期製なので、当時の貴重な石材や意匠が変えられなかったのは良かったが、何やら白すぎて違和感を覚えずにはいられなかった(その前に削り過ぎて痩せてないか?)。 また今回新たに歩道端にも欄干というか柵が設けられたが、これが今風のアルミ材で無粋・不似合いに思われた。

橋上のアクセントになっていた趣ある旧市電用架線鉄柱が残されるなど、旧態への配慮を感じる施工ではあったが、どうせならもう少し頑張って欲しい。折角、歴史都市として広く内外に知られる街なので、施工担当部署も、それなりの姿勢や態勢で臨んで欲しいと切に思うのである。

そういえば、以前友人から「最近市内の橋が次々無粋なものに更新されている」との話を聞いていた。正しくその通りで、後日同じく戦前製で、橋上の街道と縁深い白川石の高欄を持つ下流の荒神橋がいつのまにか破壊・更新され、不自然に磨かれた親柱以外全て金属高欄とされた無残を見た。

以前から何度も記しているが、京都の良さ・評判は寺社だけで決められているのではなく、その他様々な街の顔、言わば「面」で保たれているのである。公もその辺りに配慮し、より良い土木行政を実施して欲しい。

豆餅屋前の「二密」

ところで、往路はこの橋を通らず1本北の河合橋と出町橋(デルタを挟んで一続き)を通って出町商店街を経たが、豆餅屋(出町ふたば)の店先の人の多さに驚いた。

店で饅頭を買うどころか、人で押競饅頭(おしくらまんじゅう)状態である。それが広い歩道一杯にあり、通行も阻害している。正にコロナ感染禁忌「三密」の二つ(密集・密接)を満たした悪状況であった。

春の緊急事態宣言の時は久々に空いていたのに、昨今の緩み、観光促進で復活したのか。小時対岸の下鴨に住んでいたこともあり、名物の豆餅は馴染みで好物でもあったが、また買えない・買いづらくなってしまった。

それより、こんな状況・意識では流行第3波襲来は避けられまい。正に「冷房と暖房を同時にかけるようなこと(小池都知事談)」の現出か。皆さんもよくよく留意し、早晩来たるやも知れぬ戦いに備えられたし……。

以上久々の週末晴天であったが、明るく澄んだ秋気に、思うことは多い。

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2020年08月25日

goodbye P.G.

Fleetwood_Mac_peter_green.jpg
フリー百科事典『ウィキペディア日本語版』「ピーター・グリーン」項目より(photo by Nick contador CC-BY-SA, from Wikimedia Commons)

英人音楽家ピーター・グリーン氏月命日にて

先月25日、面識は疎か一瞥の機会すらなかったが自分にとって重要な人の訃報があった。

その人の名はピーター・グリーン(Peter GREEN)氏。名の通りの外国の人で、英国の音楽家であった。

詳しく言うと1960年代後半からイギリスで活躍したブルース、ロックミュージシャンで、特に同国の老舗ロックバンド、フリートウッド・マック(Fleetwood Mac)を創始し、その活動初期にメインボーカルとギター、ブルースハープ(10穴ハーモニカ)や作詞作曲を担当した人として知られる。

私もその昔エリック・クラプトンらの60年代ブリティッシュ・ロックやホワイトブルース(白人演奏ブルース)への興味からグリーン氏を知り、フリートウッド・マックでの演奏を聴いてファンになった一人であった。彼を知らぬ人でも、カルロス・サンタナの代表曲「ブラック・マジック・ウーマン」の作者と聞けば親しく感じる人も多いのではなかろうか。

1946年生まれというピーター・グリーン氏にとって60年代末といえば、まだ20代前半の若さであったが、その歌声とギター演奏は艶やかかつ卓越しており、円熟味さえ感じさせるものであった。

バンドでメインボーカルをとりつつギターを弾く人は当時から多かったが、若手で両方に長けた人は稀であった。個人的意見だが、1歳年長で音楽界の先輩クラプトンがデビューから30年近く経ったアンプラグド・ライブ以降に歌・ギター共々深みを得たことを考えると、正に天才的といえた。

しかし、そんな才気煥発・前途有望なグリーン氏であったが、1970年、薬物をきっかけにした身心不調を理由に突如バンドを脱退し、以降、数枚のソロアルバムを出したものの、その後表舞台から姿を消してしまった。

過度の飲酒や放浪生活等の噂だけが耳に入り、実際私も80年代末に「新宿の路上で酩酊していた外人がピーターグリーンを名乗ったので試しにギターを渡したら正に本物の上手さで驚いた」という真しやかな話を聞いた。

そして、漸く90年代半ばに、彼を敬愛する音楽家達の助けで活動を再開し、近年まで断続的ながらもバンド活動を続けていた。私は彼の復帰以降の活動内容については無知ながら、ネット社会になってから、老境に達しながらも、その健在を観て安心し、陰ながら応援していた。そんな折、彼の訃報を知ったのである。

それから一月経った今日は云わば彼の月命日。この一月に色んな動きがあり、また新たな知見も得たので、これを機にホワイト・ブルース系表現者の中で最も敬愛したピーター・グリーン氏について記したいと思う。

ピーター・バラカン氏による追悼番組

1960年代に於けるピーター・グリーン氏の活躍は、日本では一部の古いロック・洋楽好きの人にしか知られていない観があり、70年代半ば以降に世界的ソフトロック・ポップスバンドに変貌したフリートウッドマックの元メンバーとして、一応その訃報が簡易に報道されるのみのであった。

その様な少々寂しいともいえる日本での報道状況のなか、ブロードキャスターで音楽評論家の在日英国人ピーター・バラカン氏が、グリーン氏死去の1週間後である今月1日朝に、担当するラジオ番組で追悼特集を組んだ。

日本在住46年で、音の目利き(耳利きとすべきか)として、世界の良質な音楽を我々に紹介し、完璧な日本語で深みさえある解説を提供してくれるバラカン氏のその番組を毎週聴いていた私は、偶然その特集を耳にすることとなった。

1時間40分に渡るそれは、バラカン氏が若き頃ロンドンの街で直に聞いたピーター・グリーンの音楽や、人物そのものに対する深い敬愛と哀惜が感じられる、実に印象深い追悼番組となった。当然、元は違う企画が予定されていたらしいが、急遽変更し、自ら大変だったと語る作業を経て、逝去翌週での放送に漕ぎつけたという(それでも、かけたいものの一部に成らざるを得なかった、とのこと)。

さすが、気骨の音楽伝道師バラカン氏。番組内容共々、氏ならではの、正に何人も真似できぬ対応であった。

天才ミュージシャンの生い立ち、そして成功

バラカン氏によるピーター・グリーン追悼番組では、グリーン氏の評判を高めたジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズやフリートウッド・マック期の名曲・名演奏の他、その他貴重な音源を聴くことができた。また、これまで知り得なかったバンド脱退等の「事件」の内実と、それに関連したグリーン氏の思想や人柄、そして生い立ちを知る機会ともなった。

グリーン氏は、戦勝国ながら疲弊著しい戦後間もないイギリスのロンドン東部の下町生れで、父親は郵便配達員であったが、実は衣服関連の職に就くユダヤ人が多いその地区に住むユダヤ系住民であったという。

そのため、本来の姓は「グリーンバウム(ドイツ語圏からの移民家系か)」であったが、人種や民族への差別が色濃く残っていた当時のイギリスの学校で嫌がらせを受けたこともあり、「バウム」を切って、英国的な「グリーン」を名乗ったという(そういえば、この逸話を語る、同じロンドン出身のバラカン氏も、父親がユダヤ系であった)。

元々、彼の風貌や楽曲・演奏等からは他のバンドメンバーとは異なるラテン的・非西洋的な雰囲気を感じていたが、実はそれには血統的理由もあったのである(何処かイエス・キリスト的な彼の風貌や、前述のサンタナのカバー曲、最大のヒット曲「アルバトロス」等が正にそうである)。

10歳か11歳の頃に兄からギターを教えてもらい、ビートルズ以前にイギリスを席捲したシャドウズ等のロックン・ロールバンドに影響を受けるなどしつつ腕を磨いたらしい。

10代から色々なバンドで演奏を始め、1966年からエリック・クラプトンの後釜として本格加入したブルースブレイカーズでその才能を広く知らしめる機会を得た。当時既に当代一のギタリストとして人気を博していたクラプトンの後継として当初その実力を不安視する声もあったが、グリーン氏は全く引けを取らない好演奏をいきなり見せつけたのであった。

そして1967年、遂に自身が主宰するバンド、フリートウッド・マックを結成する。それまでの活動同様、アメリカの黒人音楽であるブルースのカバーを採用しつつ、自らが作詞作曲した斬新独自の曲を高い演奏力で聞かせる先端的グループを生み出したのである。バラカン氏は、そのデビューアルバムが出た時の感嘆と英国での反響の大きさを語っていた。

同バンドでグリーン氏はギター演奏の他、卓越した歌唱やブルースハープ演奏も聞かせることとなる。それは、これまでギター演奏を主としていた者の余技とはとても思えない情感溢れるものであった。そうした、彼を含むバンドの技量やブルースを超えた幅広い表現力(これも独自曲の大半を作った氏の功績大)により、英国は疎か一躍世界的人気バンドとなった。

明かされる謎とその内実

こうしてグリーン氏はその音楽人生に於いて大きな高みに達するが、その状況は長く続かなかった。欧州ツアー中にドイツのヒッピーに勧められた合成麻薬をきっかけに身心に変調を来たし、1970年に自ら創始したバンドを去らざるを得なくなったのである(残る2人のギター奏者もまた異変に因り程なく脱退)。

フリートウッド・マック脱退後、ソロアルバム制作やセッション活動を行うが、バラカン氏によると、あまり話題にならず、70年代半ばには精神病院に入院して電気ショック療法を受けるまでになっていたという。漸く78年に退院し、早速その年に復活を期待させる良いソロアルバムを1枚出すも続かず、その後は廃人同然の姿が雑誌で紹介されるなどしたらしい。

元々繊細な人で、酒や薬による奇行とされていたものは、後の診断によると、統合失調症が原因だったという。様々な噂の陰で、独り彼は病に苦しんでいたのである。

また、無欲な人でもあり(バンド名に自分の名を冠せずドラマーとベーシストの合成名を採用したことも、その表れという)、自然回帰的生活への憧れや、金銭社会への懐疑心があり、財産の共有化を唱えてバンドメンバーを困らせたり、挙句の果てには印税を渡そうとする会計士を銃で脅す警察沙汰さえ起こしていた。

純粋故に、自らの信条に反するようなショービジネスの世界に身を置く矛盾等に傷ついたのであろうか……。

グリーン氏は、90年代半ば以降に有志の助けで活動を再開した後も殆ど表に出ない裏方のような演奏姿勢を貫いたという。つまり、78年の一時的復帰を最後に、彼がその艶やかな歌唱やギター演奏を主体的に行うことは絶えたのである。私はこの辺りの状況について無知だったが、確かに良い評判も聞かなかった。

バラカン氏の哀惜

追悼番組の最後、私の知らない透明感ある印象的な曲が流された。最盛期同様の流麗な歌唱とギターは正にグリーン氏によるもので、78年の一時復活時の1曲であった。そして、エンディングを兼ねて滔々と流れるその歌とソロギターにのってピーター・バラカン氏が語りかける。

「この時を最後にピーター・グリーンの主だった活動がなくなったことを本当に残念に思います。彼のことを知らない人でも、これを聴いただけでその素晴らしさが解る筈。どうか彼のことを忘れず、多くの作品に触れて下さい」と……(非原話ママ)。

こうして、愛すべき同郷者に対する哀惜の情を以て番組は閉じられた。ネイティブであるバラカン氏の尽力により、私もグリーン氏の謎とその内実を少なからず知ることが出来た。バラカン氏には謝意を表したいと思う。

追悼ピーター・グリーン

60年代のロックシーンに彗星の如く現れたピーター・グリーン氏。世界に轟く、眩いばかりの活躍で、直ぐ様先行のエリック・クラプトンと双璧を成す存在となったが、その後二人の人生は大きく異なるものとなった。

多くの人はその差異を「明暗」と呼ぶであろう。しかし私はそのことを惜しむこそすれ否定することはない。病等の影響で時に極端なこともあったが、彼の行動は一貫しており、それに対する確かな意思も感じられるからだ。彼は決して狂ったまま逝ったのではない。そして確かに素晴らしい演奏や名曲の数々を披露し、私の他多くの人がそれに触れることが出来た。

ただ何より、音楽や人の有り様に真摯に向き合い、微塵も偽りがない彼がこの世から居なくなってしまったことが堪らなく悲しい。こんな汚く嘘くさい世の中で(勿論私も汚い一人)たとえ表舞台に立たなくとも、この世界の何処かに居てくれさえすればよかった。それは私にとっての光明ですらあった。故に彼の死は音楽界のみならず広く世界の損失とも思われた。

有難う、ピーター・グリーン、そして安らかに――。

私は決して忘れない、あなたの素晴らしい音楽を、輝けるその魂を!


上掲写真 フリートウッド・マック期に於けるピーター・グリーン氏の雄姿。彼の精神性まで感じさせるとても良い写真である。一応著作権フリーで公開されているため使ったが、当時の機材でこの様な優れたライブ作品を撮ることは非常に困難な筈のため、名の有る玄人による撮影とも思われる。もし、権利関係で不都合あればご連絡を。真摯な対応を約束したい。



参考動画 ピーター・グリーン在籍時のフリートウッド・マックの1968年から1970年までのコンサートやテレビライブ、プロモーション映像等の集成動画。制限によりこのサイト上では再生されないので、再生ボタンをクリックした後に現れるリンクから直接YouTubeで再生を。公開者は著作権を持たないが、各映像の著作権者の許可は受けているとのことで紹介。

但し、最初の曲等で定番的ブルースを歌うのはスライドギターやピアノ等担当のジェレミー・スペンサー。ピーター・グリーンの歌唱とソロギターは2曲目以降に聴ける。

なお、3人目のギタリストで当時10代だった俊英ダニー・カーワンの演奏や歌も視聴出来る。3者共々実に貴重な記録。今回の訃報で偶然知ったが、カーワン氏も2年前に死去していたとのこと。そこで知ったことによると、病等によりグリーン氏に増して過酷な後半生を過ごしていたらしい。彼も実に才能あふれる人であったのに……。共々冥福を祈りたい。

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2020年08月03日

甜瓜払暑

床の間上の胡桃盆の上に置かれた訓子府メロン

北地より緑宝来る

先月下旬、北海度の親類から実家に寄った際に送った荷物が届いているか確認して欲しいとの連絡があった。

そして、その週末立ち寄った際、佛前に置かれたその到着を確認。それは、大きく立派な甜瓜(てんか。メロン)であった。ちょうど届いて間もない頃で、冷蔵配送に因り盛大に水滴が生じていたので、箱から出して丁寧に拭き、乾燥促すよう供え直した。

この時機で立ち寄れて良かった。この暑さのなか、家人の無知ぞんざいな扱いでは、忽ち黴だらけとなるところであった(笑)。

親類によると、普段出回らない良品が手頃な値で出ていたので、すぐに押さえ、中元がてら送ったのだという。これも、コロナ不況の影響か。

まあ、それでも、遥か遠方(国内とはいえ直線距離は北朝鮮北端より隔たる)からの特殊送料を含め、高額な出費となったことは否めまい。一応、私の食べる分も含んでいるとのことで、荷物の到着と共に、礼を伝えた。

そして先週末、甜瓜が熟れてきたので、その一玉もらい受け、頃合いをみた今日、頂くこととした。


上掲写真 追熟のため数日床の間に置かれた甜瓜。大きく立派なもので、その形状も工芸品の如き端正さと完成度を有している。宮崎檬果(マンゴー)等と同じく、我が国の高級果実には、生物とはいえ、日本人のものづくりの特徴が良く表れていると感じる。それは、木工や漆工・金工等の伝統工芸に通じる、抜かりなさや執念の如きが感じられることである。


蔓が枯れ食べごろとなった訓子府メロン上部と生産・品種ラベル
程よく枯れた蔓が食べごろを報せる甜瓜上部。北海度を模った絵のあるシールには、産地の訓子府(くんねっぷ)の名や生産者さんの氏名(個人情報保護のため画像処理済)等が記されていた

道内著名の名産地「訓子府」

訓子府は北海道東部の主要都市・北見西郊にある地区で、寒暖差の大きい内陸立地を活かした各種甜瓜づくりで知られている。夕張や富良野に比して知名度は高くないが、道内では贈答品として知られた存在だという。

そして、品質共々、その味も著名産地に劣らず、私も以前青肉種をもらった際、美味しさに感銘を受けたものである。


食べごろを狙い切り分けた赤肉の訓子府メロン
食べごろを狙い切り分けた赤肉の訓子府メロン

美味賞玩と暑気払い両用

果たして、宵口に食す今回の甜瓜の味は如何なものか。写真は3時間程野菜庫で冷やして切り分けた、その甜瓜。見ての通り、今回は赤肉である。

写真では解り辛いが、その色味や香りも素晴らしく、そして味も期待以上の美味しさであった。実は昨日切ろうかと思っていたが、一寸硬さがあったので延ばしたが、正解であった。また、井戸水くらいの冷却を狙った、冷えすぎない冷蔵準備も功を奏したと思われる。

ところで、個人的な思い込みかもしれないが、瓜類を食べると身体の熱が下がる気がする。昔、盛夏の沙漠の街に長く滞在していた時、夕方屋台で切り売りのそれらを買って、涼んでいたことを思い出した。

とまれ、今回のものは大玉で肉量もあるので、残りをしっかり保存し、1年で最も暑いここ数日の暑気払い両用で楽しませてもらおうと思う。

親類・生産者さん共々、美味しく、涼しい贈物を有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記