2007年05月26日

下澣黄砂


逍遥雑記「下澣黄砂」

いつぞやの景、再びである。しかし、比較の為でもあるので、致し方ない。後方に霞むのは言うまでもなく大文字山。そして、その懐に浮かぶべき三角の火床が見え難いのは、前に同じく黄砂の影響である。

表題の「下澣(げかん)」とは、月の終り頃、即ち「下旬」と同じ意である。「下浣」と表する方が一点一般的なようではあるが、「浣」の字についた某有名医薬品商標の印象があまりに強力な為、回避した。浣・澣共に洗い濯ぐの意。昔、唐土の官吏は10日毎に休沐日を定められていたが、それが一月の中で上・中・下の語を冠して表現されるようになったことから来た語句である。衒学企図で名付けたものではない。ただ、「下旬」等よりかは表題らしい為の採用である。

ともかく、黄砂ネタ3度目にして、漸く内容に即した題が採られた。「下澣」の語と共に、これまで幻惑されていた読者諸氏には、ただ諒を願う次第である。


逍遥雑記「下澣黄砂」

賀茂川は今出川橋北方に白霞む北山山塊。

画像はないが、至近の叡山でさえ、なかなかの霞み様であった。


逍遥雑記「下澣黄砂」

医大院舎と、並び立つ起重機一双。

蒼空(そうくう)と樹冠との間が黄を帯びているのが判るだろうか。


逍遥雑記「下澣黄砂」

塵霧(じんむ)に乱反射する夕照。正に幻惑の夕べ。
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2007年05月11日

中世探索「伊庭荘」


逍遥雑記「伊庭探索」

ここの処、滋賀の話題が続くが、この日訪れたのは江東中部にある「伊庭」という集落。JRの駅でいう、「能登川」近傍といえば解かり易いのではなかろうか。近代以前は能登川を含む一帯を示す地名であったが、今はその本郷集落のみの呼称となっている。写真中央に見える、田圃と内湖の間(はざま)に浮かぶ家並がそれである。

ここを訪れたのは他でもない、古代末から中世末期(戦国中期)まで、この地に拠った、「伊庭氏」の痕跡を探索する為であった。実は、最近仕事関係で偶然、この氏の本宗後裔たるご一家と知り合った。また、別件でもこの氏に関する土地等への不思議な縁が続いた為、当主氏共々、急遽訪ねることとなったのである。


逍遥雑記「伊庭探索」

伊庭集落突端(西端)にある「金毘羅宮」。金毘羅はいうまでもなく、恒河(ガンジス)の鰐、即ち水神を祀る宮居である。集落を貫く道は、現在鳥居を左に逸れて更に先の内湖(琵琶湖)まで通じているが、以前はここで行止りだったと思われる。恐らく、岬のようにこの社を湖水が囲っていたのであろう。地の果ての、灯台の如き宮居―。色々な意味でシンボリックな場所である。


逍遥雑記「伊庭探索」

金毘羅境内を二分する水路跡と石橋。即ち、突端である社側が島状になっている。往時、内湖や湿地は現在に比して格段に広かったという。伊庭集落も湿地に浮かぶ要害であった可能性がある。


逍遥雑記「伊庭探索」

集落内も、やはり川や水路が縦横に走る「水郷」の趣が強い。古い護岸には階(きざはし)や、接岸用の低段が見られるので、以前は集落内にも舟が進入していたのかもしれない。


逍遥雑記「伊庭探索」

家並を逸れると、忽ち広大な田圃が現れる。眼前に植わっているのは、先月の「鯰会」に同じく麦であった。家屋の背後に見えるのが伊庭山。そしてその峰続きで、右方に聳えるのが、伊庭氏の主家である六角佐々木氏の居城、観音寺城址がある繖山(きぬがさやま)である。

繖山の右に更に低い稜線が続き画(え)は切れるが、その先に、かの安土山がある。言わずと知れた織田信長の居城、安土城址である。伊庭の南方縁に当るこの安土城。実は最初に城塞を築いたのは伊庭氏であったとの説がある。

ともあれ、伊庭は江東の、そして天下の要衝を擁しているのである。


逍遥雑記「伊庭探索」

集落中心にある、妙楽寺境内。本坊より見た参道と寺門であるが、それらが、奥に立つ伊庭山に向かって一線を成しているのも、またシンボリックな現象である。

山を意識して宮殿や崇拝施設を設けるのは、東アジアに多い都市設計手法である。以前行った、タイ中部の崇佛王都スコータイや、東北チベットはラブラン大寺等がその典型であった。そういえば、伊庭山は頂に繖峰三(さんぽうざん)社があり、有名な神輿の坂下し祭が行われる聖地であった。


逍遥雑記「伊庭探索」

妙楽寺境内にあった佛堂(別寺名を持つ塔頭か)。せいぜい江戸中期頃の築とみられる建造物群の中で、一際古さを感じさせたのが、この佛堂である。力強い梁組みは、中世の様式を十分感じさせるが、如何であろうか。


逍遥雑記「伊庭探索」

意外にも、路地裏ではなく、表車道沿いに中世式を有す建屋を発見。大濱神社の「仁王堂」で、正に鎌倉初期の建造という。まだまだ、凄い代物が知らずに存在しているものである。伊庭氏とその歩みを共にしたことが確実な、希少の存在である。


逍遥雑記「伊庭探索」

仁王堂の軒下。厚い茅葺と、繊細なその端面処理が威厳と浄潔を醸し出す。屋根下の処理は、丁寧な縄留めが採用されている。日曝し・雨曝しの為か、柱には交換の証ともいえる、形状・様式違いが多く見られた。


逍遥雑記「伊庭探索」

妙楽寺近くにあった、伊庭城伝承地。伊庭宗家の居館跡という。集落全体を要害と考えると、ここが「本丸」に相当するが、往時を知る確たるものは何もない。主家の次位たる「守護代」をも拝した伊庭宗家は大きな力を有したが、やがて主家に疎まれ、この地と、歴史の表舞台を追われることとなった。そして、その主家自身も、やがて信長という新世の寵児に国を追われるのである。往時を何も有さないここは、そんな世の無常を静かに諭すようである。

近年の研究では、連歌の大成者で、東山文化の一流文人「宗祇」が、この伊庭氏の生れであることが有力になったという。右手に見える石碑はそれを記念して建てられたもの。


逍遥雑記「伊庭探索」

帰り際、安土山向こうにある「沙々貴宮」に寄った。沙々貴宮は近江源氏佐々木氏の氏神である。佐々木氏の古い分流を称す、伊庭氏縁の場所でもある。


逍遥雑記「伊庭探索」

沙々貴宮回廊軒の灯篭に見える佐々木氏の紋「四ツ目結」。本来は四角が菱形に転んだ「隅立」(すみたて)が嫡流の紋であり、伊庭氏もそれを用いている。氏神のここが隅立ではないのは、江戸期に社殿を整備した、傍流大名京極家の紋を採用したからであるという。


さて、今回の探索であるが、遺跡図や古図類の用意を怠った為、効率が上らず、あまり成果を感じることが出来なかった。願わくば、準備抜かりなくして再び調査を試みたい所存である。

しかし、道中出会った人々の親切は印象深いものがあった。仕事の手を止めて丁重に道案内をしてくれた人や、わざわざ学校に電話して城址の場所を訪ねてくれた人、そして美味なる茶や菓子で持て成してくれた安楽寺の住職等である。最後になったが、これら土地人に深い謝意を表したい。
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2007年04月30日

江東鯰会


逍遥雑記「江東鯰会」

今年も皆が心待ちにした黄金週間がやってきた。休禄を賜る組織人ではなく、やらねばならぬ仕事もある私にとっては全くの無関係行事ではあるが、やはりこの期の気候には秀絶なものがある。そんなことで、「1日ぐらいは」と、友人らと野に出ることにした。

訪れたのは滋賀江東である。実は、予てから田植のこの期に溯上してくる鯰を捕獲して食そうという、仲間らとの計画があった。それを、この日実行することとなったのである。先ずは拠点となる仲間宅に集まり、学休の子供達共々、フィールドに出ることにした。

上掲写真は、仲間宅がある江東の古い集落景である。後方に控えるのは、かの近江冨士、「三上山」。


逍遥雑記「江東鯰会」

車で小1時間ばかり。着いたフィールドがここである。一面に田圃広がる、乾坤共に豪なる様は、かの大陸ではなく、正しく馴染みの滋賀近江の内である。実に清々しい、今や希少な景である。


逍遥雑記「江東鯰会」

まだ田植期の今に青々(せいせい)たる身を揺らす草々があるを見れば、麦であった。そういえば、江東の麦は国産最高質麦粉の材として珍重されていることを聞いたことがある。

降水に乏しい乾燥地帯に豊余と安定を齎した麦。世界最古の文明を生み育てた母なる食物でもある。その偉大な姿は、数多(あまた)の粘土板や帝宮の壁にも印された。しかし、それは果てなき諍いを招いた文明の原罪的存在でもあった。「人間なんぞ、古から何も変わらない―」。そんなことをいつも教示してくれる姿である。


逍遥雑記「江東鯰会」

田圃に命の水注す用水路。広景の内に主線・支線が縦横に走る。今日の作戦場は、琵琶湖と直接繋がるこの主線水路である。田植の影響で水濁るこの水路に先ずは鯰が上ってくるらしい。


逍遥雑記「江東鯰会」

先ずは水路内に手製の網を仕掛ける。泥底に棒を挿して施すのである。こうして、水路の一所を遮断し、離れた場所からそこに向かって魚を追い込んでゆく。皆で水に入り、水を掻きながらである。そして最後に網ですくい上げる。


逍遥雑記「江東鯰会」

漁獲は3匹。仲間が朝仕掛けた置針にも1匹かかっていたが、取込みの際、逃げられた。最大のものは、実に体長60センチを超えている(水槽長辺がちょうど60センチ)。


逍遥雑記「江東鯰会」

気の毒にも遷化されて、変化(へんげ)した鯰様である。調理は、別業に在りながら本職を凌ぐ腕を持つ仲間が担当した。川魚であることを考慮した香草使用のムニエルであったが、残念ながら少々臭みが残った。この後、拠点宅の奥方がカレー粉を使用した空揚げを成したが、そちらの方が若干結果が良好であった。やはり、昔から行われている調理法の方がよいのであろうか。この辺りは今後の研究課題であろう。

ところで、調理したのは結局小物2匹のみで、子持ちの大物は後日放すことにした。食が足りていたのと、子供達が助命を願ったこと、そして放った銛を弾いて既に助かっていたことと、その堂とした姿に躊躇させられたからである。正に、鯰にも「徳」有りといったところであろうか。


逍遥雑記「江東鯰会」

拠点宅の庭にて同時に行われた炭火焼。中央に見えるのは、仲間差入れの上質羊肉である。存知の通り、本日の大義は「鯰会」であったが、結局のところ、これが一番の美味であった。鯰様共々合掌である。
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2007年04月26日

朧々新緑比良


逍遥雑記「比良」

先日、仕事の関係で滋賀湖西を訪れた。眼前に聳えるのは、かの比良の峰々である。春霞に朧々として山肌を見せないが、見渡す耕地と、爽空の間に立つ姿は実に堂として神々しい。

山入りの方は、随分とご無沙汰である。雪解け、新緑のこの期に、また訪れたいものである。比良は、その姿でいつも私の心を捉え、そして色々なことを考えさせてくれる大切な存在である。

逍遥雑記「比良」

頂部にはまだ茶色い冬枯れが見えるが、裾から中腹にかけては取り巻く新緑が見える。間もなく頂部にまでそれが達し、湖国の春が確かなものとなる。
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2007年04月14日

楽園現出


先日共に桜の夜宴を行った知人よりメールが来た。夜宴の翌日のことであるが、深酒が過ぎ、業務中に賀茂河畔で思わず休眠をとったという。そして、暫くして気を戻した彼が見たものは、桜と黄花咲き乱れるこの世の「楽園」であったという。文面は主にこれを伝える短いもので終っていた。

ここで考えたのが、彼が見たという「楽園」についてであった。桜は確かに咲いているのを知っているが、黄花とはなんであろう。昨今の記憶には該当するものがない。とまれ、黄花を一先ず無視して桜のみを想っても、それが疎らな賀茂の河岸に、その言い様はオーバーではないか。しかし、彼は職業柄、文言にうるさい男である。そのような軽はずみなことを記す訳がない。では、やはり「黄花」がその謎を解く鍵でなのであろうか。


逍遥雑記「黄花」

以上の如き謎を一人抱いて今日目撃したのが、この光景である。何時の間の出来事であろう。正しく桜を凌ぐ広がりを有す黄花があるではないか。なるほど、彼が記していたのはこのことだったに違いない。二日酔いの混濁による「異界行」の疑いが晴れたようである。めでたく名誉回復といったところであろうか。


逍遥雑記「黄花」

さて、黄花といえば、思い出されるのが昔行った雲貴高原のことである。大陸西南部、西蔵高原にも近いその地の春は、低緯度ゆえに早い。2月の上旬、ちょうど旧正月である「春節」頃であろうか。そんな時節、そこの「大理」という湖辺地方を流離っていた私は、野辺に咲き揺れる一面の黄花と出合った。

果て霞む青水(せいすい)と、白雪(はくせつ)厚い高峰間(はざま)の裾野の長閑。未だ朝晩厳しい日にあって、可憐に春を伝える暖かなその姿は、実に心深いものがあった。何か、励ましの如きであろうか、私にとって正に忘れられないものとなったのである。


 「春」

 志破漂身在南辺   (志〈し〉破れて漂身南辺に在り)
 黄花揺濫知来春   (黄花〈おうか〉揺濫、来春を知る)
 夕仰嶺光有幾条   (夕に仰げば、嶺光幾条も有り)
 天祐玄也看不絶   (天祐、玄なりて不絶なるを看る)


その感慨より、そこにて成した拙作である。深くは語らない。また、逐一意を追うこともお勧めしない。ただ、少しばかり忖度頂ければ幸いである。


逍遥雑記「黄花」

高野川の桜並木と黄花。奥に見えるのは五山送り火の一山「法」。これなぞ見れば、もはや楽園たることに揺るぎはない。
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2007年04月11日

江北鰻行


春の一日、友人一家に誘われ、江北(奥琵琶湖)へと出掛けた。この時期の奥琵琶湖といえば、文化庁の「日本の桜百選」指定で知られる「海津」の桜並木があるが、我々の目的はそれではなく、「鰻」を主とした湖魚料理の賞味であった。

「大浦」という湖岸の街にある老舗の料理屋で、早速本望を遂げた。鰻をはじめ、出された料理には、全て抜かりない素材と手技が投じられていた。シラスのように透明な鮎の稚魚「氷魚(ひうお)」や、「鮒汁」等の珍味も味わえた。ここまで連れてきてくれ、猶且つ馳走までしてくれた友人達には、只々感謝あるのみである。

大浦から菅浦へ

食後、大浦の先にあるという、「菅浦」という集落へ行くこととなった。琵琶湖に突き出た小半島の先にあるところで、車道がつくまでは、殆ど船でしか往来出来なかったという秘境である。この菅浦、実は辺地の小村ながら日本史学界では実に高い知名度を有している。それは、この村落が保有する「菅浦文書」が、中世惣村研究上、非常な価値を有しているからである。そして、往時の村様の名残を、今に見ることが出来る為でもある。

隔絶の地で、密かに古を伝える人々と、厚く時積もるその郷邑―。そんな想いから、予てより是非訪れたいと希望していた地であった。それが、予期せず今日叶うこととなったのである。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

車道の果てで行き着いた菅浦集落。車は手前の分岐で山上の新道を越えゆくので、この先を進むことは出来ない。今の世にあっても確かに隔絶の観はある。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

茅葺民居と、古よりの「洗い場」で作業する婦人。

集落には資料館が設けられている。本来は今日の如き平日は休館であるが、偶々グループ客がいたため、参観することが出来た。しかも、集落出の係員による解説付きである。様々な話を聞き、また様々な問いにも答えて頂いた。実に興味深く、有難いことであった。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

菅浦の象徴・名物である「四足門」は多くの場で紹介されているので、ここでは触れない。かわりに紹介したいのが、存在感ある古式のこの小屋である。母屋からの離れなので、厠であろうか。因みに、母屋の玄関戸は時代劇さながらの紙貼り障子であった。

確りとした石垣は、殆どの家に見られる、この集落の特色であった。海浜のような高波の心配がないここで、これほどの備えは不要とも思ったが、台風の進路に直面する向きなので、油断は出来ないのかもしれない。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

軒下の板に見られる唐草のレリーフ。弁柄塗のこれも、集落の方々で見られた「特色」の一つ。その他には、棟木端を正面壁より露出させる様式もよく見られた(上掲小屋写真参照)。他所でも見られるものではあるが、ここのものは大径であり、かつ長めに出されていることが異なる。端面保護は専ら弁柄塗の木地見せである。実によく目につくものであるが、実は目につくように成されているのかもしれない。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

ある家の玄関に飾られていた、魚頭付きの注連縄。節分のものであろうか。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

平地が少ない菅浦は、やはり他の湖岸集落と同じく、漁村でもあった。集落に一軒のみあった万屋の人の話によると、湖北では今年稚鮎の姿が全く見られないという。かわって、一時は絶滅状態であったイサザが大漁だという。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

車道行止りである集落東端よりの菅浦全景。背後の山腹に木之本・浅井方面に抜ける新道の筋が見える。


逍遥雑記「大浦・菅浦・海津」

最後になったが、一応かの桜百選の海津桜も紹介しておこう。
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2007年04月09日

夷川夕照


逍遥雑記「夷川ダム・桜・夕照」

夕刻、知人宅に用があり疏水を渡ろうとすると、橋上に人集りが…。一個の団体などではない、自転車や徒歩・犬連れありの、老若雑多な人々であったが、共通しているのは、皆同方向に腕を出し携帯電話を構えていること。彼らが電話越しに狙うのは、夷川ダム両傍に盛り咲く桜花と、その間に落ちる夕陽であった。

桜と夕陽。共に儚く、寂しげな心象を与えるものだが、意外と共に語られること、表現されることは少ない。絵的・心象的に相性が悪いのであろうか。確かに、今日見たそれも、佳景ではあったが、何処か納得し難いものがあった。無意識に固定化していたイメージとの齟齬がそうさせるのか…。それとも、やはり「負」と「負」が合わされば、「正」のものと化す天道の理故か…。

そう、桜満つ夕照は、何処か「情熱」さえ感じさせるものだったのである。


逍遥雑記「夷川ダム・桜・夕照」

花と住居の間に僅かに見えるのが「嵐山」。上下の写真共、広く見える水面が、疏水途上にある夷川ダムの船溜りである。
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2007年04月05日

出町人民共和国


逍遥雑記「賀茂川(鴨川)花見」

夕刻近く、予てより誘われていた賀茂河原での知人の花見席に顔を出した。場所はそのメッカたる、「出町柳」付近である。

土手芝上の敷布に割り入り、宴への中途参加が成ったが、何かが違う。花はある、賑わいもある、天候もいい、そして酒食についても申し分ない……。しかし何かが違うのである。実は、その違和感の元は、季節外れの「寒さ」であった。

この日の最低気温は2度。昼に至っても15度に達しない有様で、霜注意報すら発せられる程であった。なんでも、上空に真冬並みの寒気が到来し、3月上旬の気候に逆戻りしたらしい。そして、開けた川辺に吹く容赦ない北風が、なお一層冷感を強めさせた。早い話、全て揃っているのにも拘わらず、「あいにく」の日柄だったのである。

さすがに酒類のせいで、ある程度会話は弾むのだが、やはり皆どことなく身が硬い。大陸では比較的南方にあたる江南出身の華人留学生2人も参加していたが、然りである。しかし、その誰もが避けられぬ寒々しさの中で、熱を増しゆく一角があった。

彼岸に異景あり

それは対岸の、花見場としては出町界隈で最も人気ある桜大樹の並び下にあった。とはいえ、便所前を占拠して野郎同士の自棄歌がなる凡庸の一団のことではない。それは、土手上に二輪車並びゆく異景であった。

普段は川辺の散策路となっているそこに、それらが並びだしたのは、私が到着する前であった。しかし、その時はまだ然したる数ではなかった。ところが、陽が傾き始める頃から急速に増えはじめ、やがて土手上を覆うが如き形勢となった。数多(あまた)の自転車・単車が所狭しと並ぶ様は、恰も駐輪場の如きで有様である。

二輪車の主は、樹下で準備をしていた部活か何かの集まりの、若い参加者のようである。しかし、その増加は止まることを知らない。数人の一団が到着しては、その列を伸ばしていく。殆どが、体操着を着た中核メンバーらしきとは異なる装いであったが、携帯電話か何かで手当たり次第に呼び出され、頭数を増す目的で集合させられているのであろうか。

二輪車溢れる光景に思い出されるのは、10年以上前、初めて訪れた北京市街のことである。渡航前はメディアの云う開放政策による激変を想像していたが、以前と変わらぬ自転車の洪水を見て却って新鮮さを覚えたものである。特に朝夕の通勤・通学時は凄まじく、交通ルールなぞ見当たらない混乱を巧みに渡りゆく人々に感心した次第である。そこからは、これから変わらんとする若い国の力と、人々の生存への執念すら感じさせられた。そして、物事を実見(実験)することの重要性を強く実感させられた見聞ともなったのである。

その、二輪車溢れるかの地の印象と、ここの地名、対岸の異景が結びついたのが、今回の表題である。「前回のそれと似ているではないか」とのご批判もあろう。しかし、偶然同じ印象を受けた事態が続いただけであるので、諒とされたい。

無謀なる若さ、そして人々の花見への執念

しかし、対岸の二輪は一体どこまで増えゆくのであろう。もはや陽は完全に没してしまった。昼さえ強い寒気は、その度合いを更に増しゆくのは言うまでもない。だが、彼らの宴はこれからである。我々は自分達の宴そっちのけで、その行く末への関心と、風邪でもひくのではないかとの乳母心を抱いたが、残念ながら、あまりの寒さに撤収を余儀なくされた。

寒空の帰路、つくづく、無謀なる若さの凄みと、人々の花見に対する執念の様を反芻したのであった。


逍遥雑記「賀茂川(鴨川)花見」

1枚目と同所を、広角にて撮影。写真では判じ難いが、画面一杯の土手上に、二輪車が並んでいる。左端には、なおも駆けつけてくる人々が見える。


逍遥雑記「賀茂川(鴨川)花見」

我々の宴席サイドである。写真ではなかなかの好天、花見日和のように見えるが、実に寒い日であった。それでも多く在る花見客に、日本人の花見への執念を感じずにはおられなかった。
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2007年04月02日

吉田人民共和国


逍遥雑記「黄砂・大文字・吉田」

去る3月28日に発表された気象庁による今年初の黄砂到来の4日後、愈々本格的な黄砂がやってきた。早朝からここ京都市街も、雨天の如き重い空色と空気に包まれたのである。戸を閉てても何処となく漂うのは、やはり砂の匂い。無論、靄の如き大気に水はなく、あくまでも乾ききっている。

上の写真は、その街頭景である。決して明け方や暮れ時ではない。午前だが、泊り客を送った直後の、十分陽の高い頃に撮影したものである。背景に大きく「へ」の字を成して浮かぶのが、かの大文字。誰が見ても異様な光景であろう。気象庁に先駆け、個人的に黄砂を初観測した、3月23日の「客舎青々、柳色新たなり」の同アングル写真と比較してもその違いは歴然である。

そんな異景に思い至ったのが、「ここは大陸西安・敦煌か」と、かつて実験した地の記憶と混雑する時空超えた感慨である。折りしも、電線止処ない乱雑な街様と、自転車よたりゆく、どこか垢抜けない気色も、遠い内陸かの地と重なる。

そこで、撮影場所である吉田と絡んで脳裏に上がったのが、今回の表題「吉田人民共和国」である。折りしも通りの奥、吉田山山麓には左派運動の大本山、京大も控えている。

妙なるそれに幻惑された読者諸氏、何卒諒とされたい。

黄砂に思う、世の世知辛さ

ところで、私が湿を嫌い、乾燥好きであることは以前述べた。故に、乾燥地帯から飛び来て、正に乾燥を齎す、この「乾きの使者、黄砂」に好意すら抱いていることは、諸氏の想像に難くないことであろう。事実まさにそうであって、毎年のそれとの遭遇には、軽い高揚感すら覚えるほどである。

しかし、そうして個人的に慕う黄砂が、昨今では何かと問題視されることが多くなっている。その主なものが、その含有有害成分による健康被害の懸念である。本来、砂漠や黄土地をその源にしている黄砂に有害成分は少ない。だが、発生地に於ける近年の過剰開発が、化学肥料や農薬による土壌汚染を齎したこと等により、その本質に変化を与えた。

基本的に内陸水系である乾燥地帯では、排水は捌け口のない湖沼に集中する。その湖沼に集積した高濃度の汚染物質が、湖沼乾燥の際に地表に現れ、風に煽られ黄砂に混じるという。過剰灌漑による湖水減少で有名な、西トルキスタンのアラル海沿岸では、それによる深刻な健康被害の報告もある。また、それとは別に、工場や自動車排ガス等の大気汚染物質による影響も指摘されている。

日本ではまだアラル海のように具体的被害は報告されていない。故か、国の黄砂への対応も、交通に於ける視界障害を注意するぐらいの長閑さである。しかし、隣国韓国では国家がその有害性を認定し、国民に対し休校措置等の対策を施しているという。アラル海や韓国とは汚染源からの距離が違うので一概には言えないが、昨今の飛来増加を考えると、この日本でも危険性が増しつつあるのは確かなようである。

そういえば、先日研究上の恩師が「黄砂が来ると、喉が異様な痛みに襲われるので、マスクを着用している」と語っていた。確かに、「異様」なほどではないが、個人的にも思い当たる節がある。

どうやらもう、黄砂に大陸風情を映したり、それを種にふざけたりする長閑な時代ではなさそうである。

胸昂(たかま)るべき春の日のはじめ。また世の世知辛さを思う次第である。


逍遥雑記「黄砂・大文字・吉田」

この写真は、1枚目の写真とは逆に夕刻撮影したが、やはり深い黄砂の影響により時間感覚を失した異様な仕上りとなった。せっかくの桜も、その白霞のせいか、あまり冴えない。場所は熊野橋橋上からの疏水であるが、どこか異郷の運河に移植された、それのようにも見える。まさに、時空を超えた風情である。
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2007年03月28日

出町開花宣言


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

ここ数日、昼はおろか、夜さえ暖の要らない気候となった。昼下りなぞは、上着が邪魔になる程である。よって街中をゆく人々は、一気に衣替えの気色。少々気が早い気もするが、半袖一枚で自転車に乗る女子すら見かける。

陽気に誘われ出町辺りに散策に出ると、川辺に様々な花色が見られ、こちらも一気に春めいてきた感じ。それらに誘われるか、出歩く人もいつになく多い。もしやと思い、ソメイの樹を確認してみると、やはり花が出始めていた。

今年の京都の開花宣言は3日前の3月25日で、近畿最初の宣言であった。その宣言の根拠となる「標本木」は、西ノ京にある京都地方気象台の中庭にあるという。西ノ京は二条城西方にあたる市街地なので、比較的寒冷な川辺のここが少々遅れても不自然ではない。

ところで、以前、新聞関係者を交えて花見をしたことがある。その時、記事掲載の為の開花確認の話が出た。聞くところによるその手順は至ってシンプルで、朝担当者が件の気象台に電話を入れ、開花の有無を聞く、というものらしい。電話を受けた職員は、受話器を置いて中庭に行き、標本木を確認する。開花がなければ、「まだ、ありませんね」で終り、あれば「咲きました、開花です」と返答があって、無事記事発表に至るという。

こんな遣り取りが、昔から例年行われているらしい。「効率」といった観点からは少々難があると言えなくもないが、何事も自動化の昨今にあって、何処かゆかしく、微笑ましい話であるように思われた。

桜の開花と共に、左京にもまた観光盛期が訪れる。花開く数に比して、人の出もまた盛りとなってゆくのである。花や季節と、人との基本的な関わりなぞ、結局のところ今も昔もそう違いはなさそうである。効率などさして重要ではあるまい。「自動」ではなく、「自然(じねん)」が相応しいのである。

そんな思いを花間にくゆらせた、のどけしき春初日であった。


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

賀茂川散策の御馴染み、「雪柳」は既に全開。


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

しかし、ソメイにも既に全開の1本を発見。場所は出町より更に北の出雲路橋付近の土手。吹き曝しの、更に寒げな場所にも拘わらずこの有様である。「寒冷だから開花は遅い」とは一概に言えないのであろうか。やはり自然は量り難い。

しかし、この「桜ある川辺の停留所」の景。どこか劇的である。「故郷を後にする女学生待つ」風情であろうか。だが、これでも京都市街。まちなかなのであった。


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

枝垂れは当然ながら、はや盛りである。ソメイがそれを急追するひと時の間、浮気な世人達の寵を受ける。
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2007年03月23日

客舎青々、柳色新たなり


逍遥雑記「賀茂川(鴨川)・柳・黄砂・大文字」

不意に身を竦めることとなった「戻りの寒」が終り、春間近の温暖がやってきた。漸く温和な好天が現れたが、どこか朧げで心許ない。さながら、白灯を麻布で反すが如き塩梅である。しかし、水気による靄等ではなさそうである。気はどこまでも乾燥している。飛散が山場の花粉か何かが少々埃っぽい気もするが、湿嫌う質なので有難い。ともかく、まずまずの日和である。

所用の帰り、荒神橋を渡ると馴染みの賀茂の眺め。護岸線に沿い続く遠近(おちこち)の景も、やはり輪郭に乏しい。果て座る北山なそは、もはや亡失の体である。この有様、飛砂の所行に違いない。遠く大陸西方漠地より飛び来る砂塵「黄砂」のことである。

実は、今年初めての黄砂飛来が報じられたのは、5日後の28日。しかし、気象庁が大々的に発表したその日より、この23日の方が明らかに顕著であった。「予報」が外れるのは許容出来るとしても、「観測」が覚束無いというのは一体どうゆうことなのであろう。「予報部」なので観測は苦手なのであろうか。

春と、別れを告げる木

ともあれ、陽気に反する河岸・中洲の枯れ色も、その白幕に因り度を増した観がある。しかし、一面枯れ風情の中、一つだけ鮮色を持つものがあった。河岸の柳である。そうである、柳は桜花に先駆けて新芽を吹く、賀茂に春告げる木であった。

柳の緑といえば、思い出されるのが盛唐詩人王維の絶句「送元二使安西」(元二の、安西に使いするを送る)である。

  渭城の朝雨(ちょうう)軽塵をうるおし
  客舎青々(せいせい)、柳色(りゅうしょく)新たなり
  君に勧む、更に尽くせ一杯の酒
  西のかた陽関出(いず)れば、故人なからん

よく漢文授業でも使用されたので、知っている人も多いであろう。塵多い西北中華の風情描写を採り入れた名作である。折りよくかの地よりの塵来る日に、柳越しにこの詩を想うのは感慨深い。弥生3月の終り。諸人移動の別れの季節である。そういえば、この詩は送別の詩でもあった。

逍遥雑記「賀茂川(鴨川)・柳・黄砂・大文字」

荒神橋より北方を見る。前方、橋奥にある木立は、賀茂社境域「糾の森」。その後方は、せいぜい神山(こうやま)か、妙法山辺りまでしか見えない。本来は、この後方に重々たる北山山塊が見える。


逍遥雑記「賀茂川(鴨川)・柳・黄砂・大文字」

大文字もこの通りの霞み様。しかし、これとは別に、撮影して気付いたのが、眺望に対する電線類の煩さである。この撮影地の例でもわかるように、肝心の火床面に複数の電線が横切る確率は高い。今年実施される建造物高度の制限強化条例には大文字等を対象とした「眺望」保護則も付加されるというが、この既存電線への対策は考慮されていないようである。これでは片手落ちの観が強い。なにやら、偶に来る黄砂を撮って、常ある不粋を発見した心地である。
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2007年03月21日

京郊古民家へ。転居支援


昨年企画し、関係者と共同開催したイベント「逍遥京都 in 岡崎アートフェスティバル」のブースを設計・製作してもらった気鋭の建築家、森田一弥氏がこの程自宅を購入され、一家揃って引っ越されることとなった。移転先は元の住地と同じ左京区内。しかし、元と同じ市街の町家ではなく、山川麗しい郊外の古民家であった。

イベントの件も然ることながら、日頃懇意にしてもらっている氏を助けんと、急遽R社のS氏と支援班を組み、その転居作業に参加することとなった。朝9時、旧居前集合。一家5人の荷を2トン車と軽ワゴンに満載して、まだ見ぬ新居へと向かった。折りしも空は快晴。朝の厳寒は見るみる内に払われ、はや春を想わせるような絶好の郊外転居日和となった。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

古民家ある山間の集落。古くからの村落で、多くの古民家が残存する。やはり都の近くだからであろうか、その姿は何れも洗練されている。写真に見える漆喰塗りの土蔵もその一つで、屋根を壁上より浮かせ、天部にも土を塗っている。左官技師でもある森田氏によると、防火効果は勿論のこと、雨漏りの早期発見を第一義になされているという。隣家との空隙多い村落では、火災よりも湿害の方が深刻だったのかもしれない。

市街から車でさほど遠くないところにこのような場所があるのも、京都の特徴の一つであろう。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

表玄関を入ってすぐにある部屋の吹抜け天井部。燃料革命以前に使われていた囲炉裏や竈(かまど)の長年使用により付着した煤が、古式の梁組や土壁に独特の重みを加えている。塗装では出せない趣である。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

家屋南辺につく大庇。集落各所の家でも見られる気品ある弁柄塗りが美しい。圧巻は、庇下を貫く長尺の太梁であろう。今時このようなものは寺社以外で見ることは難しい。嘗てこの下で、丸太の磨き作業でも行ったのであろうか。

大材といえば、写真にはないが玄関内の大黒柱も実に見事であった。その太さ凡そ6寸(約18センチ)。話に聞く通り、歴代住人の磨琢による美しい艶が見られた。これらを前にしては、もはや「築年数」云々の話はどうでもよくなる。家の良さは「フレームの良さ」であることを改めて教えてもらったような心地であった。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

今回目にしたもので、特に気に入ったのがこれ。柱間を利用した作り付けの水屋である。磨かれた淡い黒色(こくしょく)が美しい。古人のゆかしい暮しが偲ばれる。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

外壁に開いた風呂の焚口。浴室内にある五右衛門風呂共々まだ使用出来るとのことであったが、既に新しい浴室を設置中の為、いずれ解体されるという。その前に一度皆で入りたいと森田氏は語っていたが、個人的にも是非そうして欲しいと思う。特に子供達にはよい経験が出来るであろう。

親の郷里でそれを経験したのは、恐らく我々の世代が最後であろう。そういえば、昔、誰でも出来る風呂焚きは子供の仕事であった。そんなことを不意に洩らすと、同世代の改装業者氏も同じことを言って懐かしがっていたことを森田氏が話してくれた。「昭和も遠くに去りにけり」であろうか。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

焚口両側にある小さな鉄蓋。「火の用心」の文字が、なぜか中華碗模様に飾られて在る。森田氏も用途は不明だという。ご存知の方が居られればご教授願いたいところである。ちなみに、煤出しと思われる口は別所に見える。


忙しい中にも、実に色んなものを見聞させてもらった興味深い一日であった。魅力ある古民家との遭遇は、何やら一種、見てはいけないものを見てしまった心地にさせられた。自分の将来に良くも悪くも影響を与えるのではないか、という懸念からである。

このあと、森田氏一家は奨学生として欧州に旅立つ。期間は約1年。これもまた羨ましい限りである。
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2007年03月17日

「逍遥京都」終了記念企画“愛宕行”


「暖冬の、油断(すき)を一刺し、戻り寒」。年初から続いた暖かさに誰もが、今冬の早退を確信させられたが、やはり自然(じねん)は儘ならぬもの。その晩節に至って、再びその威に身を竦(すく)ませる事となった。春間近の市街・山野に舞う白雪(はくせつ)。花蕾む、樹々に心に、意外の冷気は容赦ない。

しかし、厳しい寒さあってこその、春の喜び。そんな、前途ある忍耐の時期、弥生3月は、私にとって最も好ましい時節である。その今に、ゆく冬を惜しんで雪見に出掛けることにした。向かったのは、京都市街よりさほど遠くない、愛宕山。古来より火伏せの信仰を集めた、鎮座1200年を謳う神山である。

この時期にここへゆくことは、ここ数年続いており、半ば定例化している。しかし、今回は昨年新聞連載していた「逍遥京都」という随筆の、取材地再訪という目的もあった。寒さが厳しかった往時と、暖冬だった今年の違いを実見してみたかったからでもある。

なお、本来は連載記念企画として、人を募ってゆくつもりであった。しかし、承知の通りの戻り寒で、多雪による危険の憂いが出たので、急遽変更となった。よって今回は写真担当の小林ゆう氏もいない全くの独行である(往時も「同行」ではなく、「同日」取材であったが……)。人とゆく企画はまた別の機会・場所で考えたいと思う。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

西京・右京人には御馴染みの、愛宕山山容。高さを競った叡山に殴られ、その特徴ある頂部が出来たとの伝承は、山(自然)が身近であった古人らしい発想。嵯峨、広沢池池畔より望遠撮影。下部に見えるのはその水面。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

愛宕表参道4合目付近。日も射す、まずまずの好天であったが、気温はさして上らない。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

1枚目画像のちょうど対面からの写真。中央に見える水面が、つまり先ほどの広沢池である。表参道樹間より。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

山頂に近付くと、やはり雪道が始まる。特に大樹で陰るこの付近は、例年アイスバーン化する難渋箇所。皆、道脇の融雪部を慎重に進む。於旧愛宕神宮寺黒門前。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

標高924メートルの山頂に鎮座する愛宕社。明智日向の御籤・連歌でも著名。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

見覚えのある眺めに思わず足を止め撮影。取材時の回、「愛宕終雪」(第3話)の掲載写真撮影地である。作者小林ゆう氏に倣って撮ってみたが、画角等に違いがあり、迫力が出ない。しかし、ここだけ見ていると、取材時との差(積雪状況差)は殆ど感じられない。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

取材主部は山頂より更に奥(北方)にあるので向かう。所謂、愛宕裏参道方面である。途中、奥北山高地の広景と出会う。目で見る限り、やはり往時より雪はないようである。奥に見える比良連峰だけが、白雪の身を横たえている。しかも、ちょうど吹雪に見舞われている。奥北山の山々と比良は、さほど高さに違いはない。しかし、この有様である。やはり、あの山は何か特別なところである。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

やはり裏愛宕では積雪は増す。道は、大半作業車用の林道となっていて案内はいいが、積年鍛えた足捌きでも転倒の危険が必至となったため、用意してきた棕櫚縄をブーツに巻きつけた。原始的なやり方だが、かなりグリップは向上する。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

途中、美麗な案内板と遭遇。取材時にはなかったものである。2006年6月の日付がある、旧愛宕スキー場の所在を示す「愛宕研究会」設置の道標である。平地に比して変化に乏しい(遅れる)山中で、僅か1・2年による変わり様を見るのは意外であった。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

最奥取材地。やはり雪はかなり少ない。往時は雪原と化していたここで、雪上の昼食を摂りつつ降雪を待った。奥に見えるのが、文中にも登場した「地蔵山」(標高948メートル。愛宕山系最高部)である。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

元を少々戻り、先の道標に従い脇にそれると、同じく旧スキー場の解説板があった。横に立つ石組みは、スキー場創始者の銅像台座とのこと。銅像は、スキー場廃滅の因となった旧愛宕電鉄廃線の因に同じく、金属の戦時供出にあったらしい。

今回はここで食事を摂った。標高900メートル、潅木の林中で、日当たりは良かったが、風が強く大変寒かった。簡易計に拠れば気温はマイナス5度。取材時とほぼ同じだが、風があるぶん体感温度は厳しいものとなった。早々に撤収。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

取材主部。旧愛宕スキー場ゲレンデでもある。稜線右に覗く二瘤の木立は愛宕山頂。雪こそ少ないが、やはりその厳しさで人を拒む、「神遊ぶ庭」であることに違いはない。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

旧スキー場内にあった獣類捕獲器。その大きさから、熊用と思われる。これも今回初見のものである。扉が落ちているのは、風か何かで誤作動したのであろうか。裏愛宕はシーズン中でも人に遇うことは少ない。況して、今回なぞは全く人気(ひとけ)をみないのは言うまでもない。しかし、辺りにはそれに反して糞や踏み跡等の獣気が多い。これには更に体感温度を下げられた。やはり、ここに人の長居は御門違いなのである。そうして、日も傾き始めたので帰路を急いだ。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月15日

「りんごあめ」炎上


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

「吉原炎上」ならぬ、「りんごあめ炎上」。なにやら大変なことになっているような画だが、ご安心を。燃えているのは屋台ではなく、後方の広場にある大きな木組みの火棚。行事用の種火で、点火されて勢いよく燃え上がったところ。場所は、京都嵯峨は清涼寺境内。毎年この3月15日の晩に、境内で3柱の大松明を燃して豊凶を占う「お松明式」という行事がある。その行事の始まりの一場面がこれ。この後、種火が大松明に移され、祭は山場を迎える。

「だったら、最初からそれとわかるタイトルにすればよいではないか」と、叱責が聞こえそうだが、偶然撮れた写真を現地で確認して先ず立ち上がってきた強い印象だから致し方ない。しかし、面白いことの口外はくれぐれも慎まなければならない。実は、地元の某著名食品社のPRページに同様の記事・画像が掲載されている。当日、偶然知人と出会い、見物を同席することとなったが、その内の1人が正にこの記事の担当者でもあった。つまり「パクリ」である。

最近はブログ流行等で皆ネタ探しに躍起になっている。つらつら見せびらかしを後悔する次第である。まあ、今回は向こうの方が発表が早かったので、特赦することにしたい(笑)。読者諸賢も、くれぐれも注意されたい。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

釈迦堂前で点火を待つ人々。以前、うちのイベントも取材したネットニュース撮影班の姿も見える。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

ついに大松明に点火されて炎が上る。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

大松明は「豊凶」を占うが、釈迦堂に揚げられた提灯は「相場」を占うという。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

残り火揺らぐ大松明跡。戻り寒に竦む、ともかく寒い祭夜であった。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月02日

伝承調査行「血洗町」


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

先月下旬、知己の記者I氏より、かつて住んでいた京都東郊山科に伝わる「伝承」についての相談を受けた。何か良さげな話を存知なら教えて欲しいとのことである。

何でも、氏が所属する日刊紙上で、市内各所の伝承に関するコラムが連載されており、その担当回が巡ってきたらしい。

知っての通り、歴史の舞台京都では伝承の類に事欠かない。しかし、そんな全国区で誰もが知っているような話では取り組む意味がないと、仕事熱心な氏は言う。そこで着目されたのが、市内ではありながら、古の京域から外れたユニークな地、山科であった。だが、元より他郷出身の氏に、そんな山科の深部たる伝承を俄に知り得る筈もない。その困惑にあたっての、私への相談であった。

そこで、私が呈したのが5つ程の伝承であった。1つは「御陵血洗町」の由来伝承。2つ目が『今昔物語』の怪異現場を伝える「業平谷」伝承。3つ目は音羽川(山科川)上流に巣くった大蛇伝承。4つ目は山科東北に食い込む県境(旧国界)の由来伝承。そして5つ目が戦中音羽山に計画されていたという要塞伝承である(この他、英国ロック歌手デヴィッド・ボウイの隠れ家伝承もあったが、「都市伝説」であるとして却下された)。

その中で、氏が最も興味を持ち、調査を決められたのが、1つ目の「血洗町」伝承であった。しかし、普段殆ど取材に出向かない山科は、氏にとって不案内の地。そこで、案内役を兼ね、私も取材同行することとなった。

実施は3月1日午後と2日午前の2日間。それに先立ち、氏は単独で地元郷土研究会関係者2人程との接触を果たしていた。だが、詳しい人は既に亡くなられており、有益な情報は得られなかったという。

取材初日

さて、用意した古図や文献史資料を手に初日の取材を開始した。「あがる」との予報を裏切る生憎の雨であったが、傘下2人して山科西北は当該地、「御陵」地区に入った。

「血洗町」由来伝承で私が知るのは、義経が蹴上で武士団を無礼討ち後、ここで太刀を洗った話と、山手にあった刑場との関連話の2つである。その内、町内に関連遺物が現存するのは前者。故に、先ずはその遺物、「義経の腰掛石」を見学することにした。「腰掛石」は太刀を洗った義経が憩ったと伝えられる石で、関係書籍等にも度々登場する有名なものである。

しかし、これまで薬科大の西グラウンド隅にあるということのみ聞いていて、実は何処にあるのかよくわからなかった。グラウンド管理人氏に尋ねて漸く辿り着いたのが、テニスコート隅に密やかに座る黄土の佳石であった。

なるほど、座るに手頃な様である。しかも一見して由緒有りげな品格も備えている。しかし、これまで何度か写真で見ているため、実のところあまり感慨は起こらなかった。それより驚いたのが、その後方塀裏に「血洗池」が現存していたことであった。住宅と大学用地に囲まれた僅か数メートル四方のものであったが、確かに砂底に清水を湛える天然水源が存在した。

石と水場はセットで現存していたのである。小時、一帯の隅々を駆け巡って親しんだ身には只々意外であった。用地内からしか見られないとはいえ、まだまだ近場にも未知の場所があるものである。

伝承縁の遺跡2つが見つかったのは良かったが、今度はこれと絡めて伝承を語る地元の「語部(かたりべ)」を探さなくてはならない。そこで、腰掛石の管理元である薬科大の施設課を訪ねた。

しかし、古いことを知る関係者は既に去り、よくわからないという。故に、2人して付近の旧家へ飛び込み取材をすることにした。

旧道沿いの旧家や土着姓家を当ったが、旧事を知る人物には出会わなかった。しかし、諦め半分で最後に行った竹材店で、詳しい人物を紹介してもらえることとなった。やはり付近も代替りが進み、その人物以外に旧事を知る人は殆どいなくなったらしい。

だが、近くに住むその人物S氏が不在であったため、改めて明日出直すこととした。

取材2日目

翌朝、現地で待ち合わせて向かったのは、血洗町内のS氏宅であった。昨晩I氏が電話連絡にて取材の段取りを付けていたのである。S氏は土地の出身ではないが、若年よりそこに住まわれ、聞取りや実地調査によって同町の旧事を研究されていた人である。そのS氏宅にお邪魔し、早速「血洗町」即ち「血洗池」の話を訊ねた。

氏によると、地元で採取したそれに関わる伝承は全部で4つあるという。1つが刑場の刑刀洗いの話。2つ目が源義仲と巴が都落ちの際、太刀を洗った話。3つ目が義経が蹴上で武者を無礼討ちの後、太刀を洗った話。そして4つ目が武者ではなく、現地にて盗賊を討った義経が太刀を洗った話である。

4説中、2の義仲・巴説は、長く同区に住んだ私も聞いたことがない珍しい説であった。恐らく、新旧の文献にも記載のない話かと思われる。氏によると、典拠は不明だが確かに地元に伝わる話であるという。因みに、最も著名な3の義経武者討ちの説も、江戸期以降の文献までしか遡れない話である。

伝承については、それ以上は全くわからない、とのことであったが、遺跡に関しては更に興味深い話が聞けた。薬科大では腰掛石は当初グラウンドの門辺りあったと聞いたが、実は昔からあの場所にあったという。グラウンド工事の際、一時的に門付近に移動したが元に戻されたらしい。

また、血洗池は今と異なり以前はかなりの規模を有していたという。このことは古い世代への聞取りからも確かであり、S氏自身も湿地の名残である噴水を随所で目撃していたらしい。それらが埋められ一帯が宅地化される以前の話である。何しろ元は安祥寺川本流も流れ込んだ北山科で最も低湿な地である。十分有り得る話であろう。

あと興味深いのが、古代東海道(平安末頃)が町内を通過していたことである。これは私自身による古図の検討によって明らかになったが、ちょうどその時代に、奥州への途上であった義経や、大津への撤退中であった義仲らと同町の結びつきを強める材料となろう。現存の近世東海道は町外北方を通っているので、辻褄が合い難いのである。

因みに、割り出した古代東海道のルートは、大正初年頃までグラウンド北辺を横切っていた安祥寺川の南(つまりグラウンド只中)である。腰掛石はグラウンド南辺にある。

取材終了

他に街道や刑場等にまつわる様々な地域史話を聞き、S氏宅をあとにした。帰りに、もう一度石と池に寄って撮影し、S氏に教えてもらった他の旧跡を巡りつつ、九条山を歩き越えて戻った。

のち、I氏の記事は無事に成り、血洗町をめぐるS氏の諸説が紹介された。これまで殆ど外に知られていなかった義仲・巴説が活字化されたのは、ちょっとした快挙ではなかろうか。

しかし、刑場関係説は全く伏せられた。何でも、地域に対する「負の情報」を記載するのは新聞的に好ましくないらしい。町と刑場址はかなりの距離があり、子供心にもその説の荒唐無稽ぶりを感じていたが、地理に疎い他所人は必ずしもそうとらないことも事実であろう。


伝承の真偽を究明出来た訳ではないが、一町名にまつわる様々な地元語りを知り得た興味深い調査行であった。たかが郊外の住宅地。しかし、そこに湛えられた営みの積水は、予想外に深いものであった。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

薬科大、西グラウンドの門。門を入って真っ直ぐのところ(防球ネットの向こう)に「腰掛石」がある。大学用地なので、見学には大学本部の許可が必要である。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

グラウンド(テニスコート)隅で密やかにそぼ濡れる「腰掛石」。後背のブロック塀裏に「血洗池」がある。傍らに立つ解説は、「義経盗賊討ち説」を記載。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

大学用地や宅地境界のコンクリに囲まれ僅かに残る「血洗池」。実に痛々しい有様であるが、白砂底を透く水はあくまでも清澄である。誰かが放したのか、大小の魚影すら見える。この状況にあって、この様に生気を保つ泉は実に珍しい。やはり古来より続く水場に違いなかろう。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

ところで、この「腰掛石」、中々立派なものである。よくこれまで庭石用等に持ち去られなかったと感心する次第である。グラウンドが整備される昭和30年代までは一帯藪地であった為、それが容易であったろうと思われるからだ。

見た限り、石種は珪質堆積岩の「チャート」と思われる。チャートは深海由来の硬い古岩石で、京都近郊では地層の古い丹波山地等がその産地として知られる。大文字山系である山科北部山域にも見られるが、これほど立派なものは稀であろう。元より砂礫多い扇状地末端のここには在り得ないものである。どこか遠方より運ばれてきたのであろうか。そのことにも、また「伝承」が潜んでいるのかもしれない。
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