初見未踏の城址・古寺址へ今日は朝から隣県滋賀へ。
大津市西部のそこは京都・左京区と背中合わせの場所で交通の便も良い。
琵琶湖南西岸で「西大津」とも呼ばれるそこで、今日は未だ訪れたことがなかった戦国城址や古代廃寺等の山岳遺跡を友人共々巡ることとなった。
なお、記事分類は「紀行」とも言えたが、山歩きが主体となったので「山会(やまかい)」とした。
上掲写真 山に取りつく道すがら立ち寄った古代・大津宮跡(668-672年頃)。「志賀宮址碑」と記された古い顕彰碑文があった。この遺跡はこのあと巡る場所とも関連する。

大津宮遺跡は国史跡で重要遺構のためか、主要な建屋跡等はこの様に遺跡公園化されていた

大津宮遺址の案内板より。下部に見える内裏南門の右端が上掲の志賀宮址碑辺りなので、その写真左下に見える旧道が宮の主路・正中線を継承していることがわかる。但し、現道路は起伏を無視し緩傾斜となるように掘り落されているので、宮道やそこの遺構は破壊されている。後代主路となった湖岸の西近江路は古代琵琶湖の水面下にあったため、8世紀・律令期頃に通された、現奈良街道・小関越から続く古北陸道であった可能性がある。そう考えると、破壊痕跡とはいえ、要注意の存在といえる
戦国城址「宇佐山」へ大津宮の主路跡旧道は、やがて写真の柳川対岸から近江神宮の神苑を東に下り巻くが、我々は川沿いの宇佐八幡の参道を西に上る。今日最初の目標・宇佐山城址を目指すためである。
柳川は山上に城跡をもつ宇佐山の南を限るため、その外堀的役割が想像された。しかし市街地近くながら白砂清冽なその流れに少々驚く。朝から暑い日だったので、尚更清涼に感じられた。

そして程なく宇佐八幡宮の入口に至る。それは宇佐山登山口でもあった

森なかに続く整備された登坂を進むと泉水ある祠が現れた。金殿井と呼ばれる由緒あるものだが、付近は人為的平坦地が広がるため、往時における、平時駐屯地・生活空間のように思われた

金殿井からまた斜面の参道を登ると、やがて宇佐八幡宮本殿に。規模は然程ないが、清浄の気ある立派な御社であった

宇佐宮裏からは、いよいよ本格的登山路となり、急斜面上方に忽然として古い石積が現れた。ついに城址遺構の出現か

そして石積まで登りきると、崩壊している場所もあるが、正しく歴史的古垣であることが確認できた。

石積付近にはこの様な城址の図解(縄張図)も貼られていた

石積上は残念ながらこの様な通信施設がたっていた。石積を破壊している訳ではないが、微妙な状況で、土圧等による今後の遺構破壊も案じられた

敷石か石段用の石材が散る宇佐山城・本丸跡南の鞍部。侵入遮断設備である虎口の内部的場所にみえた

そしてまた本丸口に戻り、その右(北)にある三ノ丸跡に行く。高さは本丸跡と変わらないように見えたが、山麓方面の好眺望があった

三ノ丸跡から見えた大津市街と琵琶湖南岸。夏の花火大会ではさぞや良い眺めだろうと語り合うも、同時に湖岸を塞ぐ高層マンションの害を感じた

本丸より広い三ノ丸跡平坦地。ちょうど展望ある場所に丸太椅子の設えもあったので暫し休息することに。空は曇り始めたが、強烈な暑さで飲水量も増す

宇佐山城三ノ丸から北曲輪(郭・出城)へ下る急な尾根道
宇佐山城三ノ丸で休息後、北曲輪へ向かうが、意外の急峻・脆弱路であった。見学路とは言い難い状態だが、来訪者への配慮か虎ロープの設置はあった。ここで友人が難儀。風化花崗岩の所謂「真砂土」地表故、滑り易い為である。これは、往時城塞の防御機能として有効だったと思われた

そして北曲輪着。三ノ丸程整備されておらず、尾根上の林そのものであったが、頂部の平坦地や、この通りその下部の補助曲輪等も確認出来た
初期織豊系城塞・宇佐山城宇佐山城は戦国末期、織田信長配下の森可成(もりよしなり)が京江(京滋)を結ぶ志賀越道を叡山や浅井・朝倉等の反信長勢から守護するために1570年頃建造したとされる。
同年、征西中の信長の留守を衝いて反信長勢の大軍に攻められるも、その維持に成功し、その後破却されたという。即ち、初期織豊系城郭の残骸が往時のまま残る貴重な遺跡であった。
織豊系城郭は、この後、湖岸の坂本・安土城の如く、大規模な水堀を持つ、平城・平山城が主流の時代となる。

宇佐山城北曲輪跡からは全く道が無くなったため、予定通り、尾根傍の斜面から志賀越道への自由下降を始める。しかし、ここも急峻・脆弱斜面のため、友人を気遣い、なるべく降り易いルートを選定しつつ下った

一先ず何とか沢筋まで下ると、目論見通り廃材で出来た板橋を発見。ここで街道側への渡渉が叶ったが、その後ろで撮影していた友人が行方不明になるという事件が起きた。幸い暫くして電話連絡が通じ合流出来たが、奥山なら危険なところであった。地理不明な人は絶対勝手に進まないように

茶樹の先に伸びる新茶葉「一芯二葉(中央右)」
宇佐山城の北堀の役割をもったと思われる沢近くでは放置茶園を発見。実は今回
裏山の野生茶で気になっていた関連茶樹の調査も目論んでいた。
ただ、ここは明らかに近年放棄された茶園跡なので古代茶との関連は薄いと思われた。しかし、他でも茶園跡がみられたので、茶生育に適した場所であることが確認出来たことは収穫であった。
古代廃寺・崇福寺跡へ宇佐山北麓から現代の志賀越道に出て、そこから次の目的地・崇福寺跡への近道峠へと進むが、道の荒廃と危険性、そして同行者の気力・装備的問題により、一旦市街まで下ることとなった。
写真は当初の近道途上で出会った野性鹿(中央)。宇佐山対面のこの山域も風化花崗岩質の脆い地質となっており、近道峠への道も正にこのような崖際を進むこととなっていたので、中止したのである。
私独りの偵察では進むことは可能に見えたが、落ちれば危険な場所があったため決断した。主な判断点は友人の靴底劣化。予想以上の擦り減りで全く踏ん張りが効かないためであった。
時間はいつの間にか正午頃に。宇佐山下降で予想外に時間をとられたため予定を押してしまった。中断した古道上に木陰があり、琵琶湖も眺められたため、車道に戻る前に一先ずここで昼食休息をとることとした。
市街は猛暑に近い暑さと思われ、ここも日射しが強かったが、涼風があり、かなりマシに感じられた。

休息後、車道を下り、途中から古道に入って市街へと下る。これは、その途上の志賀越古道沿いの農家と、後方の現役茶園や発電板に覆われた廃茶園。この付近には貴重な前近代的風情が残っていた

市街際の車道まで下り、山裾を北上。そして崇福寺麓の見世(現滋賀里)集落に至った。扇状地上にある長閑な場所である

見世集落の道の分岐にはこの様な古跡も。傍に「見世行者堂」と記されている。花崗岩で造られた岩室に石佛収まる姿は、大文字山麓の類似施設との関連を窺わせる。双方花崗岩山地で、志賀越(山中越)道で繋がる故の文化的近似か。共に清浄で清々しいな雰囲気

寺跡への坂道を更に進むと、周囲は林間となり、その中にこの様な石室の露出が数多ある場所が現れた。6世紀後半・古墳時代後期の古墳群で「百穴古墳」と呼ばれるものである。持ち送り積みの天井や玩具的副葬品の存在から渡来系集団のものの可能性が指摘されている
志賀の大仏と志賀越北路林間の道を更に進むと、この様な小さな佛堂に大きな石佛を収めた「志賀の大仏」が現れた。素朴な石佛の姿は中世・鎌倉期の作とされ、土地のものらしき花崗岩で造られている。
崇福寺とは直接関係ないと思われるが、実は志賀越道はこの先で見世に下るこの道と宇佐山北に下る道に分岐するため、ここは近江側出入口の一つとなる要所であった。
京都側の出入口にも大きな石佛があるので、双方、道祖神的な役割・結界的役割があったのかもしれない。

志賀の大仏と志賀越分岐見世(北)側の道。後方・山手から見たものだが、自然石を利用した大仏の様子がよく解る

崇福寺への道は志賀の大仏から未舗装となり、幾つかに分岐して山に続く。志賀越道からは外れたが、よくある林道とは異なる趣あり

そして未舗装路から山道の登坂に入る。斜面方々に古跡らしい平坦地が現れる
古代廃寺・梵釈寺及び崇福寺古跡そして登坂を上りきると、写真のような大平坦地が現れた。国指定史跡・崇福寺跡への到達である。
先ずは古代の大規模な土木工事に感心すること頻り。

崇福寺遺址平坦地に残る礎石や金堂基壇跡に立つ「崇福寺舊(旧)址」碑。遺跡中最も広い平坦地ながら、実はここは崇福寺跡ではなく、平安初期に造られた隣接寺院・梵釈寺跡との説が有力という。その根拠は、三つある尾根上の遺構のうち、この南尾根のみ崇福寺創建時の白鳳期遺物が出ないためである。確かに、平安以降の山岳寺院の発達を考えると、ここが一番規模が大きいことは、それらの状況と符合する

崇福寺南尾根遺跡に残る大きな礎石。中央に突起をもつ古代のもので、大変丁寧に造られているのが判る。しかし、数多ある礎石のなかで、何故か金堂跡東隅の2点しかない。後代に持ちさられたのか

休息を兼ねて暫し南尾根遺跡を見学後、一旦谷に下り、中尾根の遺構面に上る。南尾根より古い、即ち真の崇福寺跡とされる場所である。ここにも基壇跡があり、礎石が並んでいた。手前が小金堂、奥が塔跡らしい

塔跡基壇上面。狭い場所に大きな礎石が犇めく。建屋重量や真砂地質への対策か。なお、右奥にある4つの礎石の中心が心柱が立つ塔心礎の場所で、戦前の調査で有名な国宝舎利容器一式が出土した。心礎は地下式という

塔基壇周辺には無数の焼物片が散乱していた。塔の瓦と見られ、布目が残る古式であった。崇福寺創建同期の白鳳瓦の出土は少ないため、殆どが奈良・平安期のものとみられるが、市街近くでこれほど大量の古代瓦が残存するのは珍しく思われた

中尾根遺構見学後、最後の北尾根遺構に向かう。同じく、一旦谷に下りまた上るが、暑さと長時歩行で疲労が限界に達した友人はここで待つこととなった。よって、独りで下る

谷底の道に下ると「金仙滝」の標識と共に、この様な滝と岩窟が現れた。それを友人に知らせると、見たい場所だったらしく、ここを最後と、踏ん張って降りてきた。この人為めいた謎の岩窟は天智天皇の霊夢により発見されたとの伝承があり、その縁によりここに崇福寺が建てられたという。一応中を覗いてみたが何もなく、通常の聖地とは異なる様に意外を感じた
謎めく密教以前の山岳寺院金仙滝に友人を置き、その裏から北尾根遺構に上る。何とでもない登りで、あっという間の到着であった。その遺構面にはまた基壇跡と巨大な礎石の整列があった。
弥勒堂跡とされるもので、その向こう側などにも別の建屋跡があるらしい。ただ弥勒堂の規模、寺の中心施設の割に土地が狭小だと感じられた。
解説板の平面図には基壇の一部が後方斜面からの土砂で埋まっている様子が描かれているため、土地の埋没や崩落が想定された。それでも、不安定な山中に1300年以上前の遺構が残ることの凄みを感じさせられる。
崇福寺は668年に建設が始まり、その3年後もしくは10年以上後に完成したとされる。建設の動機は諸説あり定かではないが、密教流行以前に難儀な山地施工されたことや、至近に梵釈寺が造られたことなど、謎が多い。
一方、僅か5年で廃れた大津宮と異なり、その後も隆盛を誇り、平安期中はここで機能したとされる。

崇福寺北尾根遺構見学後、谷なかの道を下る。本来はこの道を遡上し、標高400m超の壺笠山に登って反信長方城址を見学後、麓に下る予定だったが、時間が押したことと友人の不調により断念した。まあ、近場なので、またいずれ……。これは谷道に現れた近年の大規模崩落跡。やはり真砂地質が最近の豪雨に耐えられなかったのか。因みにこの中腹左は北尾根遺構の真横のため、関連する平坦地にも影響があったと思われた。近年増々激しくなる異常気象に古代遺構存続の危機を感じる

崇福寺遺跡麓の滋賀里地区とその向こうに覗く琵琶湖南湖やその東岸
意外の清浄地。古跡集中の鍵か崇福寺跡の山林麓に下ると、滋賀里の市街地を通りつつ今朝の出発地・大津京駅まで進んだ。
途中、白鳳時代の遺構で国史跡に指定されている南滋賀廃寺跡も視認。偶然進んだ道は何と戦前近江神宮創建で分断された大津宮中心路であった。
後で調べたところ、明治初期の村絵図に正に「北陸道」「脇往還」の文字があり、やはり古代官道との関連が深まった。
そして、近江神宮境内を横切り、大津宮中心路を南下して大津京駅に帰還し、友人の車輌にて無事帰京した。
身近な場所ながら初めて巡った志賀の地。古代滋賀郡の発祥的場所らしい様々な発見があった。特に山地と麓が白砂清浄の地で、清冽な沢水に恵まれた地であったことは意外であった。
それは、この北にある古大社・日吉山王社(ひえいさんのうしゃ)を凌ぐ程に感じられた。信長とその反対勢力による城塞址はともかく、その特別な雰囲気は、数多の古墳や寺院、大津宮等の古跡がここに集中する謎を解く鍵のように思われたのである。
今日は猛暑直近の暑さに苛まれたが(但し山中は涼しく、随分助けられた)、有意義な探訪となり何より。協力してくれた友人に感謝したい。