2023年06月25日

余呉賤嶽行

JR北陸本線・余呉駅から見た、広がる水田彼方の余呉湖や賤ケ岳等の山々

春過ぎて夏開催に

4月中旬に予定しながら、私の長患いや天候の所為で延期につぐ延期となっていた春の山会(やまかい)が、今日漸く開催されることとなった。

もはや「春」ではなく「夏」の山会と言ってもよい時期となったが、ともかく、朝自転車や列車を乗り継ぎ、京都隣県の滋賀北部に向かう。

やがて辿り着いたそこは、日本最大の淡水湖・琵琶湖北岸付近で、北陸・越前にも接する、「湖北」と呼ばれる地域であった。

今回は、そこにて、戦国末期かの豊太閤秀吉が天下掌握の基礎を固めた決戦地・賤ケ岳と、その周辺の琵琶湖北岸や孤立湖・余呉湖等の、史跡・自然・地理・民俗等を探索する、自然・人文企画的な複合山会に臨んだ。


上掲写真 京都市街からJR快速で約1時間半で着く、近畿東北縁の長閑な余呉駅から見た、水田彼方の余呉湖や、それを囲い、裏面の琵琶湖とを隔てる、賤ケ岳(中央奥。その右隣りの鞍部は飯浦の切通し)等の山々。著名合戦の舞台であり、民俗学・地理学的も興味深い場所である。



余呉湖・賤ケ岳周辺地形図。拡大及び移動可能。記事の内容に合わせてご参照あれ。元の大きさに戻すにはリロード(再読込やF5キー押下)を。なお、賤ヶ岳合戦の布陣状況等は、こちらや各紹介サイトの図を参照あれ


江土集落を流れる江土川(高田川)

今日は、集合場所の余呉駅から余呉湖東岸の山地に入り、その稜線を南行しつつ賤ケ岳合戦の主戦場を見学して賤ケ岳山頂に達し、その後、琵琶湖岸に下り、山梨子(やまなし)と飯浦(はんのうら)という湖岸集落を見て後者北の切通し古道を越えて余呉湖岸に入り、その東岸や水利施設等を観察しつつ北行し、余呉駅に戻る予定であった。

但しそれは参加者の体力具合に依るものとした。もし賤ケ岳までの登坂で不調が出れば、行ける者だけで琵琶湖岸を巡り、切通し鞍部か賤ケ岳山頂で合流後に余呉湖岸に下るつもりだった。まあ登り高低差が300m弱の初心者的道程なので大丈夫とは思うが、暑さが気にかかるところではあった。

賤ケ岳擁す余呉湖東岸山地へ

とまれ、早速余呉駅から登山口の江土(えど)集落に移動する。曇りの予報に反して青空が見え、午前遅い時間もあって気温も高めであった。

写真は江土集落を流れる江土川(高田川)。元は流入・流出河川が無かった閉塞湖の余呉湖と東岸山地の東を流れる余呉川を結ぶために近世初期に開削された水路で、別所に近代的で大がかりな送排水施設が出来るまでは、この川一つで、湖と余呉川双方の増水に対応していたという。


江土集落裏の山の端付けられた賤ケ岳登山口の案内板と尾根筋に続く小道
江土集落では意外と家屋が密集して登山口が判り辛かったが、集落裏の山の端に付けられた案内板に助けられ無事進むことが出来た。もし案内板が無ければ、民家の裏に入り込むような道なので、心理的に進み難い(笑)


江土集落から岩崎山砦跡の間にある鞍部に施された盛土道
集落裏の登山口からは尾根上に続く山道をゆく。とはいえ、この様に良く整備された道で、傾斜も緩く歩き易かった。何より、意外と人工・天然の森が深く、日陰が続いたのは有難い。道は軽トラ1台が通過出来そうな規模で、古い牛馬道の名残りかと思われた。ひょっとすると、この奥に続く秀吉方砦への軍道の名残りか。写真の箇所は鞍部を盛土して平坦にしているが、本来は堀切や木橋等の遮断施設があったのかもしれない


賤ケ岳北の尾根道に現れた岩崎山砦への分岐
江土から続く稜線上に現れた岩崎山砦への分岐と案内板

秀吉方・高山右近撤退の「岩崎山砦」

そして、道を進むと間もなく道脇に岩崎山砦跡を示す案内板が現れた。かの高槻5万石のキリシタン大名・高山右近が担当した城塞遺構である。


岩崎山砦跡に掲示される余呉町観光協会による縄張図
岩崎山砦跡には、この様な地元観光協会の解説入り砦「縄張図」が掲示されていた。さすがは全国著名の合戦地なので、説明に力を入れているのか


賤ケ岳合戦の舞台の一つ、岩崎山砦主郭跡
縄張図に従い支尾根上にある岩崎山砦中央の主郭部を訪ねる。標高209mの岩崎山頂にあるそこは、この通り林と化していたが、人造平坦地であることや、低いながらも土塁跡を確認出来た。砦の全幅は200m程で、郭の密集具合から、北の柴田方陣地及び北国街道への備えが窺えた。それ故に、緒戦での背後からの急襲に因る、右近隊の撤退と砦陥落を早めたとみられる


大岩山砦主郭への分岐

秀吉方・中川清秀奮戦敗死の「大岩山砦」

岩崎山砦見学後は、また主尾根の道に戻って緩やかな登坂を南行し、1km程で大岩山砦跡に続く分岐が出現。主尾根の道に併走・合流する写真左の林道横の登坂がその主郭への道である(南から来し方の北を見たもの)。


大岩山山頂に広がる大岩山砦主郭跡
林道横の登坂を上がるとすぐに大きな平坦地が現れた。標高約280mの大岩山山頂に築かれた大岩山砦の主郭部である。守将は、右近と同じ摂津衆で茨木5万石の大名・中川清秀


大岩山砦跡に掲示される観光協会による砦の縄張図
現地の縄張図は主郭付近しか描かれていないが、地形分析から、恐らくは岩崎山砦同様、両翼を持つ「山」字形の要害であったと思われる。その守備方向は東で、北国街道の東向こうの山地にあった坂口砦や田上山砦等と共に街道やそれが通る谷地の敵を挟撃・牽制する「縦深防御」の意図が窺えた。しかし、それ故に、岩崎山同様、緒戦で背後を衝かれ、中川清秀討死の危急を招く


大岩山砦主郭跡にある中川清秀墓所
大岩山砦主郭広場にある中川清秀公墓所。左奥には同氏の名跡を継いだ豊後岡藩藩主の名が記された江戸期の石碑もあった


大岩山砦南横の尾根脇の窪地にある首洗池
大岩山砦主郭見学後、主尾根の道に戻ると、尾根横直下の窪地に「首洗池」なるものが現れた。中川清秀の首を洗った場所との説明があったが、恐らくは後づけで、水に乏しい尾根筋に於ける貴重な水源とみられた


大岩山砦南の尾根上にある猿が馬場と記念碑

豊公陣跡?「猿が馬場」

首洗池の次は尾根道上に古い記念碑が立つ写真の「猿が馬場」が現れた。大岩山と岩崎山の両砦陥落を知り急行した秀吉が反撃の陣を置いたとの説明があったが、広からぬ小頂上にあり、柴田勢が占拠した大岩山にあまりに近い危険な立地のため誤伝が疑われた。

地形図の検討や当時の戦況を勘案すると、秀吉方というより、桃山期の軍学者・小瀬甫庵著『太閤記』記載の、賤ケ岳砦の抑え(同砦からの救援遮断)として置かれ、撤退時に殿(しんがり)を務めた佐久間側の安井左近大夫と原彦次郎の陣跡に相応しいと思われた。


大岩山から賤ケ岳へと続く尾根筋の古道と大木の森
疑惑の猿が馬場を過ぎ、更に南へと進む。道は重機等の近代人為が見られない純粋な古道と化してなだらかに続く。人工林と天然林が交互に続くが、意外と大径木が多く、樹種も豊富で豊かな森に思われた


賤ケ岳砦東に続く長大な平坦尾根

決戦指揮所立地・賤ケ岳山頂

その後、高低差80m程を登る急坂を経て、写真の如き平坦な尾根にでた。それは、標高点349から西に続く箇所で、幅が広く賤ケ岳山頂直下まで500m以上に渡り続いていた。

秀吉布陣の猿が馬場とは、ここのことではないか。ここなら逆反撃に強い高所にあり、大軍の待機も可能である。また人為的な整地の可能性も窺え、しかも、直下の急坂下に山城特有の堀切跡も確認していた。恐らくは、賤ケ岳砦の東郭で、武者溜りだったのではなかろうか。

実際『甫庵太閤記』にも、佐久間隊が大岩山麓で発見された際に中川・高山隊6千が賤ケ岳砦の「要害」から急ぎ下ってきたという記述があり、軍団の宿営地だった可能性がある。


賤ケ岳山頂東直下の急坂の森
長大な平坦尾根の次は、賤ケ岳山頂直下の急坂が現れた。この坂下にも砦防御用らしき堀切跡が残っていたが、途中の郭や道跡は不明瞭であった


賤ケ岳山頂に広がる賤ケ岳砦主郭跡広場
そして、高低差50m程の急登を終え、賤ケ岳山頂に到着。標高421mで、江土の尾根端から約4kmかけて300m弱登ってきたことになる。山頂は賤ケ岳砦の主郭跡を利用した広場となっており、土塁跡らしきものも確認できた(写真左右端)。写真は減ったあとのものだが、人の多さに驚く。大河ドラマ等の影響か(笑)


賤ケ岳山頂からみた山本山や琵琶湖・竹生島等の眺め
賤ケ岳砦跡の特筆すべき点は、その眺望の良さにあった。これは南方の眺めだが、ほぼ琵琶湖全域を観察することができる。湖北という辺境に在りながら、北陸・東海・上方への出入りを監視できる意外の要衝だったのである。砦急襲の反撃に際し秀吉は迷わずここに上ってきたというが、元よりここを決戦指揮所の一つに想定していたのかもしれない


賤ケ岳山頂からみた、余呉湖やその周辺の柴田・羽柴両軍の砦跡の眺め
同じく賤ケ岳山頂から見た北方は余呉湖等の眺め。こちらも、岩崎・大岩の両砦がある余呉湖東岸尾根は疎か、秀吉が「総構(そうがまえ)」と呼んだ、余呉湖北尾根やその東対面山地上の砦群を含む、二段の防御線が観察できた。秀吉は決戦に先立ち北尾根と東対面山地間の谷地を防塁(土居堀?)で塞ぎ、そこを通る北国街道諸共柴田軍の侵入路を遮断していたが、その場所も見えた。即ち、山稜と防塁で「前方防御」を施し、その後方谷地内で更に「縦深防御」を用意していたのである。そんな近代戦を先取りするような壮大かつ抜かりない展開を実見し、改めて感心させられた


賤ケ岳山頂からみた、余呉湖北西の行市山や玄番尾城等
賤ケ岳山頂から見えるのは秀吉方の陣跡だけでなく、柴田方の主要陣跡も見えた。それは余呉湖北西にあるが、副将の佐久間盛政がいた行市山(ぎょういちやま。標高659m。写真中央)や、その右谷奥の総大将・柴田勝家本陣の内中尾山(玄番尾城。標高約460m)等である。正に決戦指揮所に相応しい眺望ある立地。しかし敵も同じくこちらを監視していたであろう

天下人の壮大な智略と技みる

先に長浜を押さえ江北(湖北)を掌握した上方勢の秀吉に対し、北陸勢の勝家が3万以上とされる大軍でここに押し出してきたが、隙の無い防御で封じられ、膠着状態となってしまう。それを打破すべく、秀吉本隊が美濃に出陣した隙を狙い、佐久間盛政が山裏から大岩山・岩崎山を奇襲したのが、賤ケ岳合戦の発端である。

前線後方にあり未成だった砦を奇襲陥落させ、上方本陣の木之本を見下ろす要所・賤ケ岳まで一気に危うくした優れた軍略だったが、50km以上の距離を5時間で帰還するという想定外の秀吉主力の反撃で壊滅し、支援作戦中の柴田本隊諸共、全軍潰走の急展開を招いた。

結果、僅か4日後に北陸方本城の北ノ庄(現福井市)が陥落し、勝家は滅亡することとなったのである。

それにしても、谷地を防塁で塞ぎ山稜共々長大な防衛線と成し、大軍を恙なく高速移動させるという、秀吉の壮大な軍略には感心させられるばかり。恐らくは、それまでの戦いのなかで、誰も真似し難い、迅速かつ大規模な土木普請や兵員展開の術を磨き、体得していたのであろう。

そうした体制を備えた上方勢をここで破ることは同数以上の兵員を以てしても至難に思われる。既に北陸勢がここに止められた時点で勝敗は決していたのかもしれない。迂回路となる湖西や敦賀が湖上・海上諸共、秀吉方の丹羽長秀らに抑えられていた北陸勢は、後方の山越えで補給せざるを得ず、豪雪で交通が途絶するため在陣を続けることも不可能であった。

つまり、遠からず奇襲突破を試みるしかなく、秀吉はその機会を待っていたのかもしれない。

そういえば、合戦は440年前のちょうど今頃生じた(西暦換算6月10日)。そんな機会に、初めて現地を実見し、天下人の非凡な智略や技、そして、歴史の奇しき変転を実感したのであった。


賤ケ岳山頂とリフト乗場を結ぶ道と木立の合間から見える琵琶湖や竹生島
賤ケ岳山頂にて華麗なる豊太閤の軍略を体感したのち、昼食を摂り、南方の尾根に続く道を下る。山頂他、樹々が少ない場所が続いたが、折よく曇り空となったので直射の暑さは避けることが出来た、


賤ケ岳リフトの山上駅
賤ケ岳砦の主郭たる山頂南直下の急坂下ではリフト乗場が現れた。人が多かった理由の一つであろう。ただ、ここから山頂までは未だかなりの登坂があるので、足の悪い高齢者等が難儀する姿も見られた。麓から直に山頂に着くような誤解もあり油断しがちだろうが、水等の備えは忘れずに……


賤ケ岳リフトの山上駅南の尾根道(中部北陸自然歩道)
リフト乗場から先は人の往来が激減するためか、尾根上の道は、急に元の古道・山道風情と化した。ただ、環境省の「中部北陸自然歩道」の一部のため、草刈り等の整備が行き届いた、歩きやすい道である


賤ケ岳山頂南の鞍部にある賤ケ岳砦の堀切跡を利用した古道峠
そして、賤ケ岳山頂から750m程尾根道を下ると、この様な鞍部に達した。賤ケ岳東南麓の大音(おおと)集落と琵琶湖岸の山梨子集落を結ぶ古道峠だが、人為的に掘り込まれていることが判る。恐らくは賤ケ岳砦南端の堀切を利用した通路であろう。尾根伝いでの砦接近を阻む防御遺構である


賤ケ岳南の鞍部から山梨子へと続く古道

謎多き湖岸の古集落・山梨子へ

堀切鞍部からは古道を伝い、湖岸の山梨子集落へと向かうが、付近の森なかには写真の如く、古の荷車道らしき確かな通路が続いていた。


大音越近くの古道脇にあった首切地蔵とその解説
これは峠直下の古道脇あった「首切地蔵」とその解説板。石仏の首が折れており、その昔盗賊が切ったとの伝説をもつという。話の真偽はともかく、中世以前の作とみられる古い石像が在ることも、古くからの通路である証か。因みに、地蔵前から北へ向かう別の古道もあった(20世紀初頭の古地形図にみえる、北西の飯浦集落に下る巻道か)


無数のつづら折れを繰り返しつつ急斜面を下る、湖北・山梨子への古道
古道は、この様に無数のつづら折れを繰り返しつつ急斜面を下る。これも、牛馬や荷車通行のために傾斜を減ずる古道特有の工夫とみられた


山梨子集落上手にある賤ケ岳隧道
折り返しを無数に繰り返し斜面を下ると車道が現れた。高低差100m以上の急下降だったが、車道にこの様な古い隧道口が現れ少々驚く。国鉄北陸線の旧路かと思ったが、こんな場所にあった記憶はない。ただ、通行がない車道用としては立派過ぎ、わかったのは煉瓦の使用と状態から、その様式末期の大正頃のものだろうということであった。あとで調べると、やはり大正末起工・昭和初年竣工の車道トンネルで、戦後この下横に新道トンネルが出来たため廃れた、湖西・敦賀方面への元幹線路であった。即ち、ここは古道峠を含め、三代に渡る通路が現役で残る稀少な場所であった


大音越・大音峠を下り現れた山梨子集落と琵琶湖
隧道から下はつづらの道が廃れ始めたので代替らしき舗装路をゆく。そして高度差50m程下降すると山梨子集落の裏手に至り、その家屋と共に琵琶湖の水面などが見えた。ただ、湖岸へはここから更に20m程の高さを下る


琵琶湖北岸の孤立集落「山梨子」全容

漸く湖岸に下り、山梨子集落全容を観察すると、昔訪れた同じく江北の湖岸集落「菅浦」とよく似た雰囲気であることを知る。湖岸側家屋が立派な石組み基壇を有していることなどである。また、屋根下の梁端部が妻壁から突き出ているなどの建築的類似もみられた。

戸数は菅浦より少なく、殆ど耕地もない極めて小規模な集落であることを意外に思う。今は車道で結ばれているが、菅浦同様、20世紀前期までは山越えか舟でしか行くことが出来ない孤立村落だったので、集団結束や自給自足が不可欠とみていたためである。漁業や運輸を業としていたのか。

また、背後が急傾斜地のため、長く集落を維持出来たことに感心する。集落後部には伝統的な石積に替えて平成初頭製のコンクリ擁壁が聳えており、崩落の危険と、それへの警戒が窺えたからである。

因みに、賤ヶ岳合戦の際は事前に秀吉の弟で留守居大将の羽柴秀長が船団で上陸した記録があるらしく、佐久間隊奇襲時に賤ケ岳砦を救援した丹羽長秀が上陸した場所にも推定されている。

峠越えはあるが、秀吉本陣があった木之本及び各砦への補給拠点や、北国街道最寄り湖津としての役割があったのだろうか。


琵琶湖北岸の山梨子集落からみた奥琵琶湖の水面や竹生島等
山梨子集落の湖岸からは奥琵琶湖の水面や秀吉ら戦国大名も尊崇した信仰の島・竹生島(ちくぶしま)が望めた。しかし、本来静かで風光明媚な地ながら、水質は良からずコンクリ塊で固められた湖岸も趣を欠き残念に思われた。地方創生には、先ずその地が地元を始め、内外の人に愛されることも重要である。これからの時代は、その為の改善が必要かと思われた


琵琶湖北岸の山梨子集落南端に残る前近代の水位計「広屋の大石(へび石)」
歩いてもすぐ端に至る山梨子集落の南端には、この様な「広屋の大石(または「へび石」)」があった。教育委員会の解説板によると、18世紀半ば以降の地元旧家の日記に、この石がどれくらい水面から出ていた事が記されているという。即ち、前近代の琵琶湖の水位計たるものであり、他の湖岸集落に例を見ない貴重な存在という。この石により、今は湖岸路の上手にある集落石積まで湖水が達していたことが判った

山梨子の湖岸で斜面下降の疲れや暑さを癒し、次なる湖岸集落・飯浦に進まんと湖岸を北上する。途中、民家を改装した店らしき建屋から出てきた、大陸出身とみられる男性に屋内での休憩を勧められるが、終点の余呉駅までまだ距離があるので挨拶のみで進んだ。

最近開いた店らしく、コロナ禍で止まった投資再開を想うも、我々すら知らぬこの様な僻地にまで進出することに少々呆れる。願わくば、土地家屋の安さではなく、場所の魅力・可能性を買ってもらっていますよう……。


琵琶湖北岸の飯浦集落近くにある余呉湖補給揚水機場

意外・立派な古跡残る飯浦

山梨子集落の北から、隧道と同時期に開削されたとみられる山際の湖岸旧道を通り、やがて新道に合流した。交通量が多い割に歩道がないので歩き辛いが、仕方なし。

そうするうちに、新道と湖岸の合間に、写真の如きコンクリ造の施設が現れた。門柱には「余呉湖補給揚水機場」とある。地下トンネルで琵琶湖の水を水面標高が50m程高い山裏の余呉湖に送るポンプ施設であった。建屋と道の間に径1mもない黒い配管も見える。なお、建屋手前の丈低い三角の覆い屋は、のちに増設された第二補給揚水機場とのこと。

余呉湖は元来の天然湖沼ながら、現在では地下及び地上の送排水施設によりダム化されている。この施設はその一部で、農業用水等の高需要期に琵琶湖の水を余呉湖に送っているという。

今回賤ヶ岳から一旦山を下りたのは、湖岸集落への歴史・地理・文化的興味のほか、これら余呉湖の水利施設が見たかったことも理由であった。


賤ヶ岳西麓に広がる湖岸集落・飯浦
揚水機場を過ぎると程なく飯浦集落に到着。余呉湖南西山裏に当り、賤ヶ岳西麓でもあるここは、山梨子とは異なり、狭からぬ山懐に広がり、戸数も多かった。伝統的家屋も多く見られたが、幅広い新道により(集落付近から歩道出現)、湖岸と分断されていたのは残念に思われた


琵琶湖北岸の飯浦集落の外れから余呉湖南岸方向の峠に続く石塁を備えた幅広古道

飯浦では集落南端辺りを通り、余呉湖岸へ抜ける山越古道に入る。

村外れでは、工事による道路途絶で通行困難になるも、近くの婦人らが脚立まで用意し助言してくれたお蔭で傍の石垣を乗り越え迂回することが出来た。通りすがりの他所者への親切に感謝!快き人情と共に、未知の地元言葉も聞き感心する。地理的・文化的に北陸の影響が強いのか。

山中の古道は、写真の如き姿で峠まで続いたが、それは、意外にも、谷側に古い石塁を備えた立派な牛馬・荷車道であった。湖西等の山中でもよく見る造りの古道だが、ここのそれは荷車2台が行き交える程の幅を有するという特色を備えていた。

ここは余呉方面への通路ではあるが、間道的立地なので、これ程の規模を有すことは謎であった。もはや村落の自主施工とは思えず、公儀の関与さえ窺われた。ひょっとして賤ヶ岳城への物資運搬の主路などだったのか。


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また古道沿いには石積で築かれた無数の平坦地があった。写真中央で左に折れる古道向こうに開(はだか)る土壇などである。棚田跡かと思われたが、その数や規模、造りの良さに驚かされた。それは峠近くまで続いた。一部は戦国期の飯浦の詰の城や賤ケ岳の支城であった可能性も考えられた


飯浦側(南)からみた、稜線鞍部が鋭く切られた「飯浦の切通し」
稜線鞍部が鋭く切られた「飯浦の切通し」。南は飯浦側からみる

飯浦の切通
合戦山場定説地への疑問


古道・耕地跡共々立派だが、双方荒れ気味で、獣の白骨も数多散乱する陰鬱な森をつづらで登り、やがて稜線が鋭く切れた峠に到着した。

所謂「飯浦の切通し」で、湖岸から約200mの高低差を登り返したことになる。峠道の左側上部には山梨子の峠と同じく、古い石仏があり、石灯籠も添えられていた。古くからの峠道に違いないが、右側稜線が賤ヶ岳山上に接することから、同時にその砦の堀切だったとみられる。

実は、この場所は賤ヶ岳合戦の山場となったことが定説化している。

即ち、秀吉本隊出現による佐久間隊撤収の最終殿(しんがり)を務めた柴田勝政(盛政弟)隊が、ここで秀吉の鉄砲・弓衆の斉射を受けて崩れ、「七本槍」ら若手親衛軍の突撃と追撃により佐久間本隊共々壊滅し、北陸勢全軍の敗北端緒になったとされるからである。

しかし、ここを実見して瞬時に疑問が生じた。それは、この峠一帯が急峻な為である。『甫庵太閤記』によると、柴田勝政は3千の兵を率い、賤ケ岳砦の抑えとして、その「堀切」付近で南面して控えていたという(合戦同年に記された『天正記』には場所記載なし)。だが、ここの切通し南の余呉側もかなりの急斜面で、多勢の布陣は難しく、防御もし難い。

そう考えて地形図を見ると、ここからの稜線続きで砦主郭から250m程手前に緩傾斜の適地があることが判った。しかも、そこは左右から尾根が集まりその内一つには余呉湖南岸に下る山道も描かれていた。

主郭直下のそこは、恐らく砦西直下の重要な堀切があった筈である。そこを抑えずにこの「切通」に居れば、湖岸から回り込まれるため、砦の抑えにも、南岸を通行したとされる佐久間本隊の殿にもならない。

しかし、そうなると主郭との近さが気になるが、『甫庵太閤記』には丹羽長秀が湖上で賤ケ岳山上での数多の発砲音や幟旗の存在を知り砦の危機を悟ったと記されているので矛盾はない(岩崎・大岩山は山裏なので誤認する可能性はない)。

また、このあと城将の桑山重晴が一旦退却を始めるので、かなり圧迫されていた可能性も高く、存命者等からの聞き書きによる『川角太閤記』にも、秀吉が「七本槍」らを220m程先に突撃させて首を取らせたとの記述があり、勝政隊と砦の近接が窺える。

その、「真の堀切」部分を是非実見したいと思ったが、今回は予定になく、時間的・参加者との関係上からも叶わなかった。機会あれば、是非また再訪して確認してみたい。ひょっとすると、勝政隊が築いた攻守逆向きの野戦防塁跡等が残存しているかもしれない。

新説?
賤ヶ岳合戦は幻の柴田側決戦行動か


ここで、これまでの見聞や諸史料の分析により、一つの考えが浮かんだ。

それは、佐久間盛政隊の目的が砦討滅ではなく賤ケ岳を含めた全山を攻略し、一気に上方防御線後方の木之本に下り、羽柴秀長本隊らを、谷地内で勝家隊と挟撃するつもりだったのではないか、ということである。

これなら、総構(前方防御線)西の有利な高所に前田利家隊も進出していたので、併せて三方から一気に羽柴方を殲滅することが出来る。秀吉留守時の兵数はほぼ互角だったので(『天正記』等には柴田側の方が多勢とする記述もあり)、成功の可能性はあり、むしろこの手しか勝ち目があるように思えない。

その為に、盛政隊が1万5、6千(勝政隊含むと2万弱か)という過大な兵力を後方山地に向けたのではないか。つまり、盛政隊は別働隊ではなく、秀長隊1万5千に対抗し得る北陸勢最大の決戦本隊だったということである。

しかし、中川隊奮戦による損耗・遅延と丹羽勢の賤ケ岳加勢によりその計画は崩れた。そうなれば、秀吉の帰還前に一刻も早く元の陣所に撤収しなければならない。甫庵太閤記にある、勝家から盛政への数多の撤収催促も、決戦中止と危険退避の指示で、盛政が諦めずにいた為かもしれない。

私は当初から太閤記のこの大岩・岩崎山両砦攻略後の撤収指示記述に疑問を抱いていた。わざわざ大軍を発して後方の小城を一つ二つ落として戻るという行為に作戦意義を見出すことが出来なかったからである。

しかし賤ケ岳全山攻略失敗後も、まだ佐久間隊退避と北陸勢壊滅回避の可能性はあった。だが、不幸にも大雨による揖斐川増水で秀吉が予定の岐阜まで進出出来ず、素早い「大返し」が可能になった。

秀吉はこの幸運と、すんでの危機を承知しており、それ故、この見事な作戦を立案し、実行した佐久間盛政を許し、配下に加えようとしたのかもしれない(後日生け捕られたが拒否して刑死)。


意外に深く豊かな飯浦切通北の森
意外に深く豊かな飯浦切通北の森

余呉湖へ
一見天然、中身は……


さて、飯浦から2度目の休息を切通の峠でとったあと、北は余呉湖側へと下降する。古道は続くが、その造りは変じ、よくある荷車1輌分の幅に狭まった。やはり、飯浦から峠までの道は賤ヶ岳城との関連があるのか。

道脇の森は意外と深く、様々な樹種の高木が斜面を覆っていた。しかし、森が豊かな割に水の気配がないことにも気づく。近畿辺りの低山なら、峠下の谷筋を下ると程なくして沢音を聞くが、ここではかなり下降しないと耳にしなかった。それは、先程の飯浦側でも同様であった。

冬の豪雪を含め、この辺りは比較的降水量が多い地域の筈。地質図では余呉湖周囲の山域は中・古生層の堆積岩質らしいが、何か透水や滞水等の性質に特異性があるのだろうか。


南岸からみた余呉湖
一見古代から変わらぬ姿に見える余呉湖。南岸より北は余呉駅方向をみる

切通北の古道を下ると、やがてまた森なかに耕地跡が現れた。飯浦側同様の結構な規模である。

そして、そのまま山裾へ下り出ると、湖岸道路と余呉湖が現れた。森と道の狭間には国民宿舎跡の広い空地があったが、終戦直後に米軍が撮影した最古級の空撮写真には、ここを含め山側に続く棚田が捉えられていた。

それは、湖岸各所と同様で、恐らくは湖岸北部等にある集落の出作地かと思われた。しかし、飯浦側の山中に棚田は写っておらず、古い時代での廃滅が窺われた。なお、現在ある湖岸道路は写っていなかった。戦国期以前同様、まだ舟が利用されていたのであろうか。

湖岸からは、一見古代から変わらぬ姿に見える余呉湖が広がっていた。だが、耕地は全て消え、湖岸も石で固められ、古の風情や天然の水辺は見られなかった。あたかも、公園か人造湖の雰囲気である。湖岸路を通す際に埋め立て等の改変を受けたのか。

残念無念。これでは、古の佐久間隊や七本槍らの足跡も判らず、当時を想うことは困難であった。また、水質も良からず、湖北の山辺にひそむ、神秘の湖たる印象も損なわれた。


余呉湖の水を余呉川・琵琶湖へ送る「川並放水路ゲート施設」

余呉湖岸を観察しつつ湖岸路を辿り、東岸の大岩・岩崎両山の麓を経て、余呉駅へと向かう。

途中、大岩山の西麓で、かつて攻城前の佐久間隊が、馬を湖水で冷やしていた城兵を切ったとされる「尾の呂が浜」を通る。しかし、やはりそこは「浜跡」と呼ぶべき公園的場所と化していた。

その後は写真の「川並放水路ゲート施設」が現れる。こちらは飯浦傍の施設とは逆に、余呉湖の水を東麓の余呉川に送るものであった。余呉川は琵琶湖に注ぐので、琵琶湖への放水路ともいえる。即ち、余呉湖をダムとして運用するための主要施設の一つであった。

ただ、長大な地下トンネルを擁しながら、小規模な施設であることを意外に思う。


余呉湖北の余呉川導水路上にある「導水路下流高田川ゲート施設」とその後ろの「江土閘門ゲート施設」

余呉駅帰還で予定終了
良き湖水・湖岸戻りますよう


小さからぬ余呉湖岸を長歩きして漸く北岸に達する。その北にはまた人工河川・余呉川導水路があり、写真の施設が現れた。

余呉川上流の水の流入及び余呉湖水の流出を調整する「導水路下流高田川ゲート施設」で、その後ろには、朝みた江土川への流出入を調整する「江土閘門ゲート施設」もあった。

この様に徹底して湖水が管理されている様子を観察出来たが、水質をなんとかして欲しいと思う。せめて足を浸けたくなるようにしなくては人々の愛着は得られまい。浄化を図る深層曝気(ばっき)装置も導入されているようだが、効果は限定的であろう。

元は沢水が流入するのみの閉鎖湖だったのなら、北海道の火山湖同様、その透明度は極めて良好だったのではないか。そんな清澄な湖水が、湖岸の自然と共に、羽衣伝説もあるこの地に戻ってくることを切に願う。

さて、余呉湖北岸を離れると程なくして余呉駅に到着した。これにて今日の予定は無事終了に。初心者向けの道程ながら、この暑さのなか累積登坂は600m、距離は12kmを超えたので、そこそこの負荷となった。

今日は山も歩いたが麓歩きも多く、また歴史やその他の観察・考察も多くなった。因って内容的には「調査・研究」の記事種(カテゴリ)ともいえるが、サイトの機構的に複数の選択が出来ない。その為、また後で、必要な人が探しやすいような方法を考えたいと思う。

とまれ参加者の皆さん、お疲れ様でした。暑いなかでの漸くの開催に対する理解と協力に感謝!

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2023年05月05日

続2023春野営会

湖南アルプス山中から見た堂山山頂

雲多き2日目

2023年春野営会2日目(野営会初日はこちら)。

予報通り、朝から曇天の空となったが、今日中の雨を呼ぶものではなかったので、憂慮せず1日を始められた。

今日は朝食後に希望者及びそこが初めての人のために、近くの堂山(標高383m)登山を行う予定でいた。写真中央に見える三つの峰の、一番奥側にある山頂までを往復するのである。

久々に私が引率し、留守は昼食用のピザ作りに勤しむ人に任せることになった。


野営2日目の朝食のソーセージマフィンとドリップコーヒー
因みに、今日の朝食はこれまた久々のソーセージマフィンとドリップ珈琲(ソーセージが隠れているが)。調理は私が担当したが、色んな調味料の提供を受け、簡素・即席ながら、まずまずの朝食にすることが出来た


鎧ダムと堂山との間の鞍部やそこを結ぶ登山道

「湖南アルプス」の特徴凝縮する堂山へ

ゆっくり朝食を摂ったあと、有志と共に堂山へ向かう。写真のような、湖南アルプス特有の、風化花崗岩帯の痩せた林のなかを縫うように進む。砂が載った急斜も多いため、足下に気をつけるように告げつつ……。


湖南アルプス特有の堂山山頂近くの奇岩と背後の湖東平野や琵琶湖に比叡山
これも湖南アルプス特有で、その名の由来にもなった奇岩の連続。勿論、ここも岩を避けつつ、登りつつ通過する。背後に細長い琵琶湖南湖や比叡山も見えてきた


湖南アルプス・堂山山頂近くに立てられた、新名神工事関連の通行止看板
そんな奇岩尾根上にはこんな看板が現れた。古くから麓の里に通じていた脇道の一つを遮断する警告のようで、今回初めて目にした


堂山と山腹を切るように続く新名神高速道路の施工現場
看板の原因はこれである。即ち、山腹を切る新名神高速道路の大工事であった。麓の各集落から自在に堂山を往復出来たのも今は昔。環境や景観破壊と相俟って残念でならない


堂山山頂近くにある岩間下りの難所
奇岩の稜線を進み、幾つかの頂(偽ピーク)を越えて、岩間を下るこんな難所が現れた


堂山山頂近くにある岩場登りの難所
そして、岩下りの次はこんな岩登りの難所も。ロープや石・木の根を掴みつつ進む。落ちて死ぬような場所ではないが、初心者には負担が大きいため、声をかけつつ慎重に進んでもらう


湖南アルプス・堂山山頂からみた田上盆地や琵琶湖に比叡山
岩の下りと登りに因る二つの難所を越えると、遂に堂山山頂に着いた。山頂の巨岩に乗ると、周囲全てが見渡せる


堂山と山腹を切るように続く新名神高速道路の施工現場
先程と同じく堂山山腹を切って大阪方面へと続く新名神高速の施工現場。工費節減のためか、隧道を用いず開路式で道を通している。これではふるさとの景観が台無しである。生まれ育った土地に対する愛着を減じさせないことも、子育てや人づくり、そして地域延いては国の未来への重要な投資ではないのか。何やら昭和より酷いことになってきた気がする。国家・公には百年大計をお願いしたいと切に思った次第である

美麗に整え撤収

さて、山頂でゆっくり休んでもらったのち、野営地に戻る。時間はちょうど昼で、ピザが出来始めた頃だったので、それを頂く。

火加減に難があったが、なんとか食べられたというか、味自体はまずまずであった。また研究を深めてもらい、次回の更なる向上に期待したい。

その後、残りの食材を皆で食して撤収作業に入る。ゴミ・忘れ物・消火等々、抜かりなく行い、来た時以上に美麗に整え、野営地を後にした。

そして、下山後は麓の温泉施設寄ってから帰宅――。

皆さんお疲れ様でした。荷物の詰込や運搬に不安があった人も見られたが、皆のために色々なものを用意してくれ、結果いつも以上に楽しませてもらったり、意外な工夫等も見せてもらった。

良い集いとなったこと、してもらったことに感謝!


野営会初日はこちら

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2023年05月04日

2023春野営会

2023年5月連休中の湖南アルプスの新緑や清冽な花崗岩沢

まさかの実施

今日は恒例の春の野営会開催日。

実は、先月半ばから長く体調不良見舞われ、予定日の天候予報も悪かったため、実施困難の確率が高く、結果、決定・告知が直前となった。

なんとか先月中に体調が回復し、天気予報もまさかの好転が生じ晴れて実施となったが、案内遅れで機会を逃した人には申し訳ない限り。

ともかく、色々とあったが、一先ずは好天の野営日和を迎えられたのであった。


上掲写真 野営会開催地、滋賀南部・湖南アルプスの新緑の山肌や清冽な花崗岩沢。


野営会の天幕設営地
野営会の天幕設営地

またの恥知らず

今回もコロナ以降の傾向が続き、参加人数は少なかったが、久々に初参加・初心者も迎えることが出来た。

心配は、昨今入山者が増えたので、構築した炉(竃)がある場所が取られていないか、ということだったが、これも大丈夫であった。麓には車が多く、駐車場所に少々苦労したが、意外と山中の人は少なかったのである。

ただ先行者のゴミが目についた。これもコロナ以降の特徴。炉は掘り返されて使われ、消火こそされていたが、アルミホイル等のゴミが突っ込まれていた。また以前と同じく、すぐ近くの樹下に便所紙の山が幾つも……。

山へ上る途中に、野営装備らしき大荷物の下山女子2人とすれ違ったが、果たしてどうか。経験上、男より女の方が、森の浅い場所、即ち通路や居場所近くで用を足す傾向をみてきたが、まあ、断定は出来ない。

しかし、こんな近くで用足し跡を露出させて恥ずかしくないのか。更に、すぐにでも風で散乱し、炊事場や寝床に吹き寄せるような状況である。

ともかく、何度でもいう。ゴミを片付けられない者、他者や環境に配慮が出来ない俄者や愚者は二度と山に来るな。


野営会での炉の設営
さて、気を取り直し、手分けして炉の設営や薪集めを行い、野営地を整えた。今回は炉の露除けの覆いを高めに設定


炭熾し容器を炉にしたアヒージョ調理
夕方までの空き時間には、自前の鍋や食材でスペイン料理「アヒージョ」を作る人も

間食等で設営後を楽しむ

アヒージョはオリーブオイルで食材を揚げる間食的な料理だが、私もお裾分けを貰う。美味い。手軽で、良いアイデアである。

下の台は別の参加者が持参した炭熾し用の容器だが、私の発案で火炉として利用。松葉や小枝等の少ない燃料で安定した火力が出る、意外と効率的な裏技となった。


石組炉での焚火による夜の飯盒炊爨
そして、夕方からは夕食時間に。幸い気温が然程下がらなかったこともあり、いつにも増して快適な食事や語らいが出来た


野営地の焚火上に昇る満月に近い月
遅い時間には、頭上に大きな月も。満月ではないが、その直前に近い大きさか。月の明るさに影響されたのか、鹿の鳴き声が山中にこだまする。その後、夜勤でお疲れの一人を除き、遅くまで飲み語らったのであった


野営会2日目はこちら

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2023年04月15日

信楽別働山行

飯道神社駐車場にある鳥居と神社参道石段登り口(飯道山登山口)

雨天中止の筈が別動隊出動!

今日は本来、春の山会の日であったが、生憎の雨天により中止・延期となった。

しかし、折角休みをとったので収まりがつかないらしい一部参加者から別の低山行を提案されたので、非正規・別働的に同行することにした。場所は、比較的少雨量が予報されていたという、滋賀南部は信楽高原北にある「飯道山(はんどうさん。標高664m)」。

最近は基本雨天は出動しないことにしていたが、信楽北部山地はこれまで未踏であり、同乗車行で中途の面倒もなかったので、急遽中止後決定した。勿論、無理せず、可能なところまで進む、という心積もりではいた。

写真は車行で信楽高原を縦断し辿り着いた、飯道(いいみち)神社参道石段下。それは、山上の神社奥にある飯道山への登山口でもあった。


飯道神社へと続く急登の花崗岩参道と雨に濡れそぼる熊笹

神社・寺跡・城跡経て飯道山頂へ

雨が止む筈の時間に合わせるよう故意に遅らせて来たが、残念ながら確りとした降雨があった。その為、久々に行動開始前から雨装備完備で登り始めた。

そぼ濡れる熊笹の急登参道を進むが、準備万端なため問題なし。加えて、足下が滑りやすい泥等ではなく、花崗岩質というのも幸いした。


飯道神社社殿地直下に現れた、古い石積と岩に囲まれた回廊的施設跡
森なかに続くつづらの急登参道を行くと、やがてこのような石垣や岩で囲まれた回廊的場所に出た。飯道神社の社殿地に着いたのである。駐車場が既に標高約400mだったため、高低差は200m程という足慣らし的登坂であった。回廊の石垣は前近代的な古いもので、出入り制御を兼ねた施設跡かと想われた


雨霧にけむる飯道神社本殿
回廊的石段を登りきり、飯道神社本殿前に出た。雨が降り続くが仕方なし


朱等の極彩や黒漆塗で装飾される飯道神社本殿内部
飯道神社は史料上、1100年程前に存在が確認される古社で、江戸初期再建のこの本殿は重要文化財に指定されている。内外の朱等の彩色や重厚な黒漆塗は桃山様式ともされ、昭和後期に解体修理されたらしい


雨で眺望のない、飯道神社本堂裏の行場「東のぞき」
飯道神社本殿裏手の行場「東のぞき」。本来は琵琶湖等が遠望できる眺望地らしいが、雨天に因り、この通り。好天なら良い休憩地か?


飯道神社社殿地となりの旧飯道寺跡地
飯道神社参拝・見学後は社殿地の際まで戻り、更に奥山へ続く道を進む。これは社殿地傍にあった旧飯道寺(はんどうじ)境内跡。林内に立派な古い石垣が多く残り嘗ての繁栄を伝えていた。飯道寺は飯道社を管掌した神宮寺で、修験道の一大拠点だったが、明治の神仏分離・廃仏毀釈で廃されたという。現在、高原麓に名を継承した天台寺院があるが、山上には、かの高野山中興・木食応其(おうご)の墓があるので元は真言系だったか


飯道神社近くの林道際に現れた、飯道寺城のものとみられる堀切や古道跡
大規模に残る寺院跡を、道の左右に眺めつつ進むと、このような古い時代に断ち切られた尾根や古道も出現。それは、このあと飯道山山頂手前にも現れた。中世の城塞址に違いあるまい。後で知ったところ、やはり飯道寺城という城塞があったようである。『信長公記(しんちょうこうき)』にも、織田信長父子一行が安土から乱後の伊賀視察へ向かう途中、飯道寺に宿泊した記述があるが、寺と連動した大規模な山城であったことが窺える


風雨で熊笹騒めく、飯道神社と飯道山山頂と繋ぐ尾根道
麓へと下がり始めた林道状の進路から外れ、飯道山山頂へと続く尾根道を進む。折しも風雨が強くなり、足下の熊笹も激しく騒めく


雨で眺望のない飯道山山頂
尾根道を進むこと暫しして、飯道山山頂に到着。見ての通り、ここも眺望はなし。ちょうど昼時で風雨も弱まったため、昼食休憩を検討するが、同行者が小雨を避けられる場所を希望。しかし、この先適地はなく、天候も計り難いため、ここにて摂ることにした


飯道山山頂から続く鹿深奥駈道

鹿深奥駈道へ

昼食後、飯道山山頂から尾根道を北に下り、稜線を北西方向に進む進路を採った。地質や植生の所為か、山の雰囲気が変わる。

飯道山から先は、所謂「鹿深奥駈道」(鹿深は「かふか」。甲賀の古称)と呼ばれる修験みちで、古くからの行場でもあった。


鹿深奥駈道の古い峠「オシゲジゾウ」
稜線上ながら樹々により眺望のない道を上下左右しつつ進み、一つの鞍部・峠に達した。近くに提げられた古い札によると「オシゲジゾウ」の峠名が。古い林道により拡幅されていると思われたが、峠部分は(中央)更に古い造りに見えたので、それ以前の牛馬古道跡の可能性もあった。地理的には、次のアセボ峠同様、信楽高原と湖東平野を結ぶ要所である


鹿深奥駈道の一峰「白草山」山頂
オシゲジゾウ峠からまた尾根筋を登り、今日の目的地の一つ「白草山(標高約613m)」に到着。しかし、ここも展望はなし


鹿深奥駈道・白草山付近の急斜の登山道
白草山を過ぎた頃から道が険しくなり、修験の道らしい急斜の道が増す。同行者に初心者がおり、雨で足下も悪いので慎重に進んだ


鹿深奥駈道・白草山付近の急斜の樹間から見えた琵琶湖南湖や湖東平野
この頃雨が止み、急斜の樹間からは、遠く琵琶湖南部や湖東平野の姿が今日初めて認められた


鹿深奥駈道を府道が横切る場所「アセボ峠」
そして急斜を下り、次の峠「アセボ峠」に至る。標高は約470m、信楽と麓を結ぶ現代の要路で、交通量も多いので注意して渡る。なお、ここは安土から伊賀への近道に当るので、信長軍団も、ここか、先程のオシゲジゾウを経て飯道入りを果たしたのかもしれない


アセボ峠西山中の植林帯に続く鹿深奥駈道
アセボ峠からは、生い茂る笹を分けて再度山に取りつき、更に奥駈道を西行する。最初は見晴らしのよい湖南アルプス同様の花崗岩帯を進んだが、やがて深い植林地となった


鹿深奥駈道の一峰、ほうそ山山頂直下の巨石ある天然林
鹿深奥駈道の一峰「ほうそ山(標高548m)」の山頂直下部分。天然林に覆われた巨岩が数多ある、古風で趣ある山域であった


鹿深奥駈道の一峰「ののへら」「大納言」付近の植林帯の尾根筋
ほうそ山からまた鞍部に下り、再び植林帯の尾根筋を登り進む。山林作業用か、鞍部を含む周辺は奥山ながら重機に因り過剰な林道づけが行われており、自然・歴史遺産の破壊が懸念された


鹿深奥駈道の一峰「宮町」または「ののへら」
やがて目的山頂の一つ、宮町三角点山(標高583m)に到着。そこに三角点があることからの仮名らしいが、地元では「ののへら」という山名で呼ばれているとのこと


熊笹が盛大に繁茂する、鹿深奥駈道の一峰「大納言」へと続く尾根道

終点「大納言」いづこ?

「ののへら」からは、その近くにある、いよいよ本日最後の目的山頂「大納言(標高596m)」を目指す。

だが、写真の通り途中で熊笹が盛大に繁茂して通行困難に。そういえば、この山域は今時珍しく熊笹が多いが、食害犯の鹿が少ないのであろうか。


鹿深奥駈道の一峰「大納言」山頂横にある電波塔施設
構わず笹尾根を進むと、なんと電波施設に阻まれてしまった。確かに、地図にも山頂に電波塔が記されているが、削平されてしまったのか


鹿深奥駈道の一峰「大納言」山頂横にある電波塔施設へと続く、その保守用車道
大納言山頂を探すべく、一旦笹薮を戻り、並行する電波塔の保守車道に下り、そこから再度施設付近への接近を試みた


鉄塔裏の尾根の高まりにある、鹿深奥駈道の一峰「大納言」山頂
しかし、辿り着いた電波塔入口は鉄柵で閉鎖されており、そのなかにも山頂らしきものは無かった。だが、良く観察すると、保守路終点の藪奥から再び現れた尾根筋の鉄塔裏に、電波塔より高い場所を発見した


鹿深奥駈道の一峰「大納言」山頂にさげられた標識
鉄塔裏に上ってみると、やはり大納言山頂の標識があった。高度計的も間違い無し。スマートフォンのアプリ地図さえ間違えた場所を指していたので混乱したが、諦めなくてよかった

一筆書き山行終了

最終目的地に達したので、あとは下山。施設保守路をそのままアセボ峠下の県道まで下り、その後県道を下り、また途中から飯道神社駐車場まで上り、今日の山行を終了したのである。

最後の車道歩きが全行程の半分近くに達するなど、長歩きになったが、元来た道を帰らず出発的に戻れるという貴重な一筆書き山行となった。

結局雨は降ったり止んだりの繰り返し。ただ、大した雨量でなかったことには助けられた。初心者の人が無事歩き通せたことも。皆さんお疲れ様!

この後、知人お勧めの麓の温泉施設に寄ってから帰京したのであった。

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2023年02月25日

雲取終雪

京都奥貴船にある旧芹生小中学校の校舎屋根に載る雪と氷柱

今季最後の近場雪?

今日は月初以来の、近場の雪山行また鍛錬行の今季第二弾を行う。

前回のあと、一旦暖かくなり、また寒冷化するという日々を繰り返し、また降雪と寒冷の機会がきた。

しかし、今日は昨日山上でもまとまった雨が降ったあと、という悪条件に。ただ、近山での雪山行は、今後の予報から、今回が今季最後になると想われたので決行することとした(低温は明日まで続くが荒天で除外)。


上掲写真 所謂「奥貴船」にある京都北山・芹生集落の旧芹生小中学校の校舎屋根に載る雪とそこから下がる氷柱(つらら)。下山中の午後に里道から望遠撮影。平地市街が温暖化しても、高所・山間はまだまだ寒い。


薄く雪残る京都北山奥貴船にある芹生峠
昨日の5度以上という程ではなかったが、今朝の京都市街の最低気温も2度程という比較的高めであった。これだと、麓までは凍結を恐れずに車行出来る。その予想通り、貴船も安全に通過でき、京盆地北縁の芹生峠(せりょうとうげ。標高約700m)の距離約0.6km、高低差約85m下まで進出できた。その後、徒歩にて車道に薄く雪残る、この芹生峠を通過


前日の雨で車道の雪が溶けた2月末の芹生集落
そして芹生峠を北に下り、芹生集落に達する。昨日の雨の所為か、道上の雪は溶けていたので、厳冬期のように滑ることもなく歩き易かった


芹生集落外れの林道上に続くノートレースの雪
しかし、基本除雪が一切されない集落外れの林道に入った途端、深さ30cm程の積雪となった。まだ道上とはいえ、誰かが通行した踏み跡(トレース)もないため、終始足を取られて歩き難いが、そのまま進む


雪に覆われる京都・雲取山三ノ谷分岐
ノートレースの雪道に足を取られつつ、淀川水系・桂川(大堰川)上流の灰屋川源流部・三ノ谷分岐に到達。花脊(はなせ)大布施(おおふせ)と同別所集落方面との分岐地ながら、相変わらず踏み跡を見ず。これより先は更に雪が増すため、ここにてワカン(輪かんじき。雪上歩行器)装着


雪に覆われる京都・雲取山と三ノ谷の分岐部

馴染みの山上へ

ワカン履きで三ノ谷沿いの林道を遡上し、やがて写真の雲取山頂へと続く谷との分岐に。ここからは道なき急斜となるためアイゼン(靴底氷雪爪)も装着。

そう、今日は久々に、馴染みのマイナールートで雲取山を目指す。


雲取山三ノ谷ルート上の雪崩跡(デブリ痕跡)
狭い谷に入り、斜面を巻くように進む。勿論、踏み跡はなく、自分で進路を選びつつ、踏み跡を刻んでゆく。対面の斜面にはこのような、雪崩跡も多くみられたので、進路の状態や上方の異変に気をつけつつ進んだ


雪に覆われる、京都・雲取山三ノ谷ルート最後の有水分岐
やがて水がある谷としては最後の分岐に至る。厳冬期よりマシだが普通に寒い。長く雪を保持する谷や標高の高さに因り、冷蔵庫化しているのか


雪に覆われる、京都・雲取山三ノ谷ルート最後の急斜
最後の分岐前同様の狭い谷の斜面を進み、雲取山山頂直下の急斜面に到達。手掛りとして一部ピッケル(斧頭雪杖)が欲しい場所ではあるが、無くても大事には至らない条件のため、そのまま登る


雪に覆われる、京都・雲取山山頂

油断ならぬ山上の寒さ

そして、雲取山(標高911m)山頂着。

ここはバス道から続く別路があるため比較的人と会いやすいが、今日は写真の通り、人影はおろか、踏み跡さえ無し。


雪に覆われる、京都・雲取北峰山頂と手前の地蔵杉山等
折角なので、更に足をのばし、北方は雲取北峰山頂(標高約915m)まで進出した。時折舞っていた小雪が、本降り的になってきた


京都・雲取北峰から見た、地蔵杉山越しに見えた雪の皆子山や比良山脈
今日随一の眺望地・雲取北峰に来たが、生憎の天候により、手前の地蔵杉山等以外の見通しは悪かった。ただ、この様に一瞬背後が見えることがあり、皆子山(左奥。標高971m)や比良山脈(右奥。最高標高1214m)の雪景が望めた


雪に覆われる京都・雲取北峰山頂で生じる地吹雪の雪

雲取北峰にて今日唯一の休憩兼昼食をとる。雪を一尺程掘りこみ、座る場所と湯沸かし場を作り、即席麺を食した。ただ、途中風が強くなり、写真のように地吹雪的風雪に見舞われることに。

場所の選定を誤ったと思ったが、我慢して過ごす。ただ、やはり寒い。湯を出したあとのポットの水分も忽ち凍りついた。

今日は市街でも8度弱の低気温であったが、ここでは更に-4度という低さであった。久々に指がかじかむ。近くの低山、または厳冬期を過ぎたとはいえ、油断禁物との思いを新たにする。


昨日の雨の所為か、沢が露出した谷斜面に続く自身の踏み跡を辿る、京都・雲取山三ノ谷ルートの下山路
昨日の雨の所為か、沢が露出した谷斜面に続く自身の踏み跡を辿る下山路

自身の踏み跡辿り下山
近山の雪は今季最後か


昼食後は、また雲取山頂を経て、元来た道を戻る。帰りは下りで、更に自分の踏み跡が続いているので歩き易かった。ただ、その後の林道及び峠道の歩行は、延々として遠し。

結局、前回のバス行より早く帰れたが、それでも車道歩きが長かった為、帰宅は夕方となったのである。


京都奥貴船・芹生集落の奥にて、午後の陽射しを反射する樹間の小雪
午後の日射しを反射する樹間の小雪。寒いが、春の兆しとも感じられた。やはり、この辺りでまとまった雪を踏むのも今季最後となりそうか……

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2023年02月05日

北山初雪行

立春翌朝の出町柳駅バス乗場に現れた、京都北郊山地へ向かう、京都バスの広河原行車輌

珍しきバス便での北山行

今日は珍しく朝早くバスに乗り、出町柳駅へと向かう。

それは、京都市街東部、賀茂川沿いの私鉄線ターミナルであった。ただ、そこから列車には乗らず、違うバスに乗り換え、市街北郊へと向かった。

向かったのは、鞍馬奥の花脊集落。一応出町柳や拙宅等とも同じ左京区内であるが、京盆地北辺裏の高所にあった。

今日は、そこから周辺の山を巡る今季初の冬山行を実施することとなった。例年なら既に前年末から始め、1月が盛期となるが、今年は年末年始に傷病者支援等があり、立春過ぎの今日となった。


上掲写真 立春翌朝の出町柳駅バス乗場に現れた、京都北郊山地へと向かう、京都バス・広河原行車輌。


鞍馬石の上に雪積る、京都北郊・鞍馬集落

驚くべき違い

バスは阪神地区とも結ばれる出町柳がある京都市街北部と京都北山(丹波高地)を結ぶ著名便で、紅葉時期等は混雑するが、今朝は出発10分前でも誰もおらず、一番乗りになった。

それでも、その後、人が集まり、少なからぬ乗客を乗せて出発した。そして、途中地下鉄駅等を経由しつつ更に客を乗せ、そこそこの乗車率で北郊山間に入った。

写真は、かの鞍馬での車窓景。赤茶けた名産の鞍馬石に雪が載っており、なんと小雪も降っている。市街は今朝昨日より暖かかったが、それでもこの違いであった。因みに雪は既に鞍馬下手の貴船口手前から降っていた。


京都バス広河原行の車窓からみた、京都北郊花脊峠下の雪深い山林
鞍馬から更に進み、峠道を登り始めると、完全な雪景となった。雪があるのは知っていたが、近隣市街との違いの大きさに改めて驚かされた


氷雪に覆われる京都奥鞍馬の花脊峠
そして、京盆地北縁高所に開く花脊(はなせ)峠に着いた。標高約760m、氷雪に覆われる、これまた信じ難い光景。路肩の気温表示は-2度だったが、昨日は麓でもそれくらいだったので、更なる厳寒だったと想像された


雪に覆われる花脊別所集落。花脊高原前停留付近にて

峠裏の雪域に

バスは花脊峠を越え、慎重に花脊別所集落に下る。路上は除雪されているが圧雪や凍結が多い為である。

そして、茅葺の形状を残す古民家が点在する集落内を下り、間もなく旧花脊スキー場最寄りの花脊高原前停留にて停車。私は、ここにて降車した。

私以外の数人の登山客は全員峠で下車していたので、私1人の下車に。細雪降る薄暗い深雪の集落に独り降りる私に、雪道対策と思われる年輩補助乗員が「えっ独り?大丈夫?帰りの便に乗る?」と不安げに声を掛ける。

非常装備を含め準備は万端のため一瞬面倒を感じたが、この状況、または職責上仕方ないと思い、「慣れているので問題なく、帰りの便も遅いので(18時以降に1本のみ)、自力で鞍馬駅まで戻る」と説明して別れた。

まあ、色々と事故も多いので、謙虚に疑念に答え、気遣いに感謝すべきであろう。

それにしても、集落下部とはいえ、写真の通りの深雪景。標高約570mのこの辺りで、積雪50cm前後か。先週、集落下部で積雪1mを記録したらしいが、未だそれを彷彿とさせる光景、正に雪国景であった。


雪に覆われる花脊別所集落奥の林道
雪が舞うバス停脇で準備し、西方の山塊へと向かう。暫くはこの様に雪積る林道を進み、その後、山道に入った。ほぼ埋もれるも人の踏み跡が続いていたため、ワカン(輪かんじき)は着けずに進めた。そして、早朝か昨日のものと思われる先行者の足跡も一つ……


雪に覆われる京都北山・花脊の寺山峠
そして、時間にして40分、高低差250mを登り、稜線の寺山峠(標高807m)に出た。雪は多いが麓とは然程違いは感じられなかった。陽当たりが良いので溶けやすいのか


京都北山・花脊の寺山峠から北に続く雪に埋もれた林道と古い踏み跡

花脊別所西稜線を北へ

寺山峠からは稜線直下に沿う林道を通り北を目指すことにしたが、写真の通り、埋もれた古い踏み跡のみで、近日の人跡はなかった。

それどころか、南方は花脊峠方面からの人跡もなかった。先行の足跡も峠で絶えたので、引き返したようである。

花脊峠からの登山者が先に通過しているかと思ったが、未着か別路を採ったか。私は鞍馬駅までの帰路の長歩きを考え、極力北に進出せんと、登りを厭わず高原前停留で降りたが……。


雪に覆われる京都北山・花脊の寺山峠付近で輪かんじき(ワカン)を装着
まあ、構わず峠から北を目指し歩き始めたが、ほぼ踏み跡のない新雪路で歩き辛くなったので、ワカンを装着して進む


京都北山・地蔵杉山近く山上で雪にまみれる林道や樹々
峠から1km程進んだところで要注意箇所を通過。中央に林道が通っているのだが、半ば埋もれて判り辛くなっている。恐らくは雪崩の所為と思われる。特に雪が多いここは斜面傾斜が大きく、樹々疎らな悪条件となっていた。実際、デブリ(崩雪堆積)も目撃し、昨年も危険を感じた場所であった。慎重に、そして素早く通過。気温が低い午前なので大丈夫だろうが、多量の積雪があった直後や雪が緩む午後は通らない方がよい場所であろう


京都北山・地蔵杉山近くの斜面に続く半ば埋もれた古い踏み跡
要注意箇所を過ぎると林道が途絶し道なき道を進むことに。向かうべき稜線上に進む、埋もれた踏み跡が続くが、ワカンを履き、読図で場所や進路も把握しているので、有っても無くても特に影響せず


京都北山・地蔵杉山裏辺りの、多量の雪が付着した北山杉
林道を離れ旧来の尾根筋に乗って進むが、やはり雪が多い。特産の北山杉も、このように多くの雪が付着する姿と化していた。ひょっとして、先週の大雪直後は「スノーモンスター」の如き姿だったのかもしれない


京都北山・ハタカリ峠近くのノートレースの雪深い稜線

奥山を旋回し山域最高所巡る

地蔵杉山(標高899m)の裏を過ぎて稜線を進む。去年登り、眺望も無かったため今回は同山に登らず。そして、北から西、更に南に向くよう、奥山の稜線を旋回する。

本日の最北端かつ奥山なので雪が多い。大雪から一週間以上経ったとは信じ難い状況であった。気象条件も厳しいのか、写真の通りトレース(踏み跡)も消え失せた。この山域に入る人はご注意を……。


雪まみれの雲取後峰から樹林越しに見えた雲取北峰
南へ向き始めれば樹林の彼方に今日の目的地の一つ、雲取北峰(標高約915m)が見えてきた


深雪・ノートレースの京都北山・雲取峠
その後、深雪の稜線を下り、雲取峠(標高約870m)に到達。意外にもトレースが全くない、完全な平滑雪原状態であった


京都北山・雲取峠付近で新雪に沈むワカン履
雪は更に深く、新雪的雪質も高まったように感じられた。ワカンを履いても、この通り平気で30cm以上沈むことも、しばしば……


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人けのない雲取峠を通過し、隣の雲取北峰に上る。やがて、灌木の果てになだらかな山頂が見えたが、またしても、トレースは見られなかった


京都北山・雲取北峰山頂からみた地蔵杉山等の山々の雪景色
雲取北峰山頂から見た、北山杉の植林が美麗な地蔵杉山(中央)等の京都北山の峰々。つまり、先程この山頂裏辺りを右から左へ移動しつつ、ここまで周り込んできたのであった


京都北山・雲取山付近で見た、狸か狐の足跡らしき雪上痕
雲取北峰付近の雪上ではこの様な足跡も目撃。イヌ科らしき様から、狸か狐のものであろうか。一見不毛に見える雪山でも、この様な野獣痕跡は少なくない。加えて、雌鹿や雌雄の雉等の、鳥獣自体も目撃した


珍しく、雪面にトレースのない京都北山・雲取山山頂
これまた人けのない雲取北峰で昼食後、南西に連なる雲取山主峰(標高911m)にも寄る。この山域の最高所を巡るためである。しかし、その山頂もこのようにノートレースの無人雪域となっていた。これは大変珍しい。まだ正午頃だったので単なる一番乗りなだけか。それとも雪の多さで麓に近寄り難いための閑散か……。実は、私自身、本来は昨朝貴船経由の車行予定だったが、路面の凍結等で貴船より先に進めず断念していたのである


急に晴天となった京都北山・雲取峠の雪原
午後から眩いばかりの雪原に急変した雲取峠

別路の谷と尾根筋経る帰路へ

雲取山を覗いたあとは、谷への下降路を採るため、自分のトレースを踏み、また雲取峠まで戻った。すると、先程までの降雪天気が嘘の様に失せ、眩いばかりの雪景と化した。

あと、先程は無かったトレースが一筋、自分のトレースに交差しており、別人が現れたことを知る。近くの大学小屋の入口に人が見えたので、関係者が様子を見にきたのであろうか。


京都北山・雲取峠下の谷沿い雪面の急下降
雲取峠からは、この様な谷沿いの急斜を下り、また寺山峠を目指す。今日の最終進出地は北周りでの雲取山。即ち、これより帰路で、寺山峠には谷なかの近道をゆく。午後を過ぎ、更に晴れてきたので、みるみる雪が緩み始めるのを感じる。別人のトレースを足下に見つつ、気をつけて進む


雪にまみれる、京都北山・雲取峠下の灰屋川源流谷と正体不明の山小屋
雲取峠下の桂川水系・灰屋川の源流谷もこの通りの多雪ぶり。右上小屋の正体は不明だが、どこかの大学山岳部の関係か……


晴れて雰囲気が一変した雪の寺山峠
灰屋川源流谷を下り、その支谷からまた少々登って再度寺谷峠に着く。明るい陽射しに包まれ、今朝とは別の場所、別時期のように感じられた。そういえば、谷なかの分岐にて初めて人とすれ違ったが、沢の渡渉に迷っていたようであった。私が下流を渡ったのを見て近づき挨拶したが、比較的若めの男女二人組で軽装かつ慣れない雰囲気。しかも時間は13時前。恐らくは雲取山に向かっているとみえたが、大丈夫であろうか。バス停近くにも警察による遭難多発の注意喚起が掲示されていたことが気になった


京都北山・寺山峠の南へ続く古いトレースのある雪の林道
さて、寺山峠からは往路の斜面を下らず、尾根沿いの林道を南へと進む。南彼方の鞍馬駅に向かうためである。ところが、見ての通りその道上には埋もれた古いトレースしかなかった。雲取峠に続く別人のそれは寺山峠下の花脊集落からのものと思われた。結局南の花脊峠方面からは誰も来ず、今日は私独りでラッセル(深雪作路移動)となりそうである


京都北山・寺山峠と旧花脊峠間を結ぶ林道上からみた、丹波高地越しに連なる雪の比良山脈と蓬莱山
陽射しと午後の気温上昇をうけて急激に雪が重くなり、少々進み難い。しかし、晴れ渡った尾根近くの路上からは今朝見られなかった遠望が叶った。写真は東北方面に見えた丹波高地越しに連なる雪の比良山脈。滋賀県西部に連なる連峰で、中央にはその南部を代表する蓬莱山(中央奥。標高1174m)が見えた。彼の地もかなり雪が有りそうである


トレースの無い、京都北山・寺山峠と旧花脊峠間を結ぶ雪の林道、
林道を進むと、やがて古いトレースすら消失。林道というより、単なる雪尾根の如き風情。日向は重い融雪、日陰は深く沈む新雪という、両極端な高負荷歩行が続く


雪積る京都北山・寺山山頂と私製標識
寺山峠から1km強進んで寺山(標高862m)に到達。林道脇の林間にこの山頂があるが折角なので寄る。付近は広い平坦地となっているので、地元の寺跡伝承と関連があるのかもしれない。そういえば寺山峠と寺山の間に標識の無い廃れた峠があるが、寺山峠の名はそこが適地のような気がする。それが花脊西隣の芹生集落と花脊別所集落を結ぶ最短路上にあり、かつ寺山のすぐ北にあるからである。誤伝等に因り名づけが混乱しているのか


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寺山からまた1km強進み旧花脊峠に近づいてきたところで、漸く路上にトレースが現れた。最近流行りの浮力の大きいスノーシューのもので、同峠から来てここで引き返したらしい。スノーシューハイクか機材の試用か


京都北山・寺山尾根から見えた雪の比良山脈・武奈ヶ岳
今度は比良山脈主峰・武奈ヶ岳(中央奥。標高1214m)が見えてきた。こちらも、さぞや雪深いであろう


京都北山・寺山尾根からみた雪山風情の天狗杉
そして新旧の花脊峠を隔てる天狗杉(山名、中央奥。標高837m)も現れ、程なくして旧花脊峠に到着した。今朝バスで越えた京盆地北縁に戻ってきたのである。ただ、何故か付近に改造四駆車が数多集合して、写真を撮れる状況にはなかった。こんな雪深い旧道に何の用で集まったのか。各車エンジンをかけっぱなしで下車し、煙草を吹かして、たむろするなど雰囲気も悪い。そして、何故か私が旧道を下方へ進むと、大きな車音を立てついてきた。怪訝に思ったが、途中の柵に阻まれ、やがて引き返していった


旧花脊峠下の旧道跡地から見上げた天狗杉南面雪原

旧路での近道やめ登り返す

旧花脊峠からは鞍馬尾根伝いに貴船口駅まで山中を南下したかったが、近年鞍馬寺が通行を禁じたので旧道を下り最短路で国道へ出ようした。だが途中から荒れており、また、緩んだ雪の急下降を避け峠に引き返した。

以前倒木に苦労しつつ下から通過したことがある谷筋だが、近況がわからないということもあった。三分の一程下降したが「急がば回れ」ということにした。

写真は旧峠への登り返しの途中に見上げた天狗杉南面。京都市街、特に左京市街から望める北山縁の伐採雪原である。


雪ある旧花脊峠と異様な四駆車軍団の轍
廃滅旧道を登り返し、再度辿り着いた旧花脊峠(奥の祠辺り。標高750m強)。先程の四駆車軍団は深い轍のみを残し、全車去っていた


京都北山・天狗杉山頂と雪上から覗く三角点
登り返した旧花脊峠からは、避けたかった天狗杉への高さ100m弱の登坂と新峠までの縦走を行うことに。写真は仕方なく登り着いた天狗杉山頂


旧花脊峠ち花脊峠を結ぶ天狗杉の縦走路上の雪面に続く登山者のトレース
天狗杉山頂から続く縦走路。京都北山山中の著名交通路なので、さすがに幾つもトレースが着いており、比較的歩き易かった


京都北山・天狗杉付近から見えた京都市街及び大阪・奈良方面や金剛山
天狗杉縦走路から見えた京都市街及び大阪・奈良方面。中央奥に阪奈境界の名峰・金剛山(標高1125m)が見える


京都北山・天狗杉付近から見えた、冠雪する鈴鹿山脈最高峰の御池岳
更に今回は東方に鈴鹿山脈の最高峰・御池岳(標高1247m。中央奥)が見えた。天候の所為かこれまで何度も通った場所だが、初めての目撃。とまれ、彼の山も多くの雪を戴いている


京都北山・天狗杉付近から見えた、冠雪する鈴鹿山脈の雨乞岳付近や湖東平野及び琵琶湖
こちらも天狗杉縦走路から見えた東南は鈴鹿山脈・雨乞岳(標高1237m。中央右奥)や湖東平野に琵琶湖(左下水面)。鈴鹿南部も雪が多いか


雪の山中を貫く国道477号線がある京都北山・花脊峠

延々たる最後の国道下り

そして、間もなく天狗杉の縦走路から国道貫く花脊峠に下降。

ここにてワカン等の山中装備を解除。峠の電光板には気温1度の文字が浮かんでいた。時は15時半前、今朝バスで通過した時より3度の上昇。


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峠からは車道を延々と下る。唯一の帰路便バスが18時半前まで来ないため仕方なし。駅がある鞍馬までは下りだが、6km以上あるため大変である。速足で進むが何時まで経っても山間から出られない。これを短縮するために先程旧道を試みたが残念であった。そして、時折樹々の上から大量の雪が落ち驚かされる。注意して進み、漸く斜陽さす鞍馬の里に入った


冬の鞍馬寺門前
ご存じ鞍馬寺門前も通過。急いだ甲斐があってか、結局、距離6.2km、高低差526mを1時間で歩けた。鞍馬からの便も、折よく出発10分を切るバスがあったので、それに乗ることができたのである


京都市街北部・国際会館駅前ターミナルに停車する鞍馬からのバスと夕暮空に立つ天狗杉山とその南面雪原
京都市街北部のバスターミナル「国際会館駅前」に停車する鞍馬発着のバスと、夕暮空に立つ天狗杉山とその南面雪原(中央奥)

天狗杉見上げ帰宅

鞍馬からバスにて京都市街北部は岩倉地区にある国際会館駅前に移動し、そこから別のバスに乗り換え無事帰宅した。

今日は、全山中行程の約5分の2が国道歩きとなる一風変わった山行となったが、一先ずは今季初の雪山に親しむことが出来てよかった。

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2023年01月10日

車窓探雪

新幹線車窓からみた多量の雪に覆われる伊吹山

超特急車窓の雪峰探し

正月休み及び連休明け早々ながら、珍しく新幹線に乗る機会を得た。

その車窓から景色を観ていたが、気になるのは、やはり山。しかも時節柄雪山で、つい遠望してまで、その存在を探してしまう。

そう、今季はまだ雪山に入っていない、ということもあった。昨年12月はまだ近隣の山に雪が少なく、また今日のように遠方への所用のため年初も行けずじまいだったのである。

富士山や、僅かに覗く南アルプスの雪峰に次いで、確かな冠雪の姿を見せたのは、写真の伊吹山(標高1377m)であった。

さすがは、安定確実の豪雪山地。滋賀・岐阜県境の市街地近くにありながら、3000m超の上記2山に劣らぬ雪を戴いている。そういえば、昨年3月に個人的初登頂を果たしたばかりの山であった。


新幹線車窓からみた冠雪する湖北西部の赤坂山
こちらは、同じく新幹線車窓よりみた滋賀県北西・野坂山地(高島トレイル)の雪山、赤坂山(同824m)。北陸福井との県境にある為ここも降雪が多く、麓にはスキー場もある。ここも、昨年初めに雪歩きを楽しんだ


新幹線車窓からみた冠雪する滋賀西部・比良山脈中核部の堂満岳や武奈ヶ岳等
続いて見えたのはこのサイトでもお馴染みの滋賀西部・比良山脈の雪峰群。山脈中核部分で、中央左に尖った堂満岳(標高1057m)、同右に最高峰の武奈ヶ岳(同1214m)が見える。ここも、非高山ながら、安定の雪量。なお、雪の堂満岳には、昨年2月に2度出かけている


新幹線車窓よりみた、京都市街の果てに薄っすら雪を被って聳える比叡山
こちらは、比良山脈南に聳える比叡山(標高848m)だが、京盆地に入ってからの姿。あまり雪が載らない山だが、今日は珍しく薄っすら冠雪している。どうやら朝方に、市内共々少々降雪したようである。雪の叡山といえば、2020年2月の厳寒時に登った時のことが思い出される


新幹線車窓よりみた、京都北山の天狗杉や杉峠等の奥鞍馬の雪峰
こちらは、個人的鍛錬場として馴染みの、我が左京区の京都北山(城丹尾根・丹波高地)の天狗杉や杉峠等の山。いわば「奥鞍馬」に相当する場所で、多量の積雪が確認できる。かなり期待出来そうである。ここも去年1月の多雪時に行った、天狗杉・寺山・地蔵杉山等への山行が懐かしい


京都市バス車窓よりみた、寒々しい冬曇り下の三条大橋や賀茂川(鴨川)
こちらは新幹線ではなく、下車後に乗った市バス車内より。かの三条大橋と賀茂川(鴨川)の景である。市中に雪はないが、この時期らしい空模様で、寒々しく、また実際に厳しい寒さとなっていた

さて、間もなく帰宅。新年もまた隙をみて雪峰を歩きたいと思う。

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2022年11月27日

近山晩秋

観光客の頭上に楓紅葉の落葉が降りかかる、京都・真如堂境内

晩秋の京都市街東部

京都市街東部の左京区南部辺りでは、今週半ばを頂点に紅葉時季が終りに向かい始めたことを感じるようになった。

名所・真如堂(真正極楽寺)でも、盛りの美麗さはあるが、同時に写真の如く、参観者の頭上に楓紅葉の落葉が降りかかる晩秋の姿が見てとれた。

来週は、いよいよ年末12月。秋が終り冬が始まる。今日は近隣の名残りの紅葉を楽しみつつ、同様に美麗な近山も散策してみた。


総門を潜り現れた真如堂の諸堂と、境内を彩る鮮やかな紅葉
正門たる総門を潜り、現れた真如堂の諸堂と境内を彩る鮮やかな紅葉。いつもより人が多いが、観光バスが入れない丘上のここは穴場的名所である


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こちらも真如堂。書院と本堂(右)を繋ぐ回廊前後で鮮やかな色を放つ楓紅葉


神楽岡墓地から見た天然林紅葉が鮮やかな瓜生山と双耳峰姿の比叡山

紅葉美麗な瓜生山へ

市街東部の紅葉名所・永観堂(萎れ始め)や真如堂を観たあと、近山に向かう。

それは、真如堂がある丘(中山?)の南部から見た写真の瓜生山(うりゅうやま。標高301m)であった。美麗な天然林紅葉ある手前の山の中央がその頂で、背後の陰になった峰は比叡山である。

叡山はここからみると真の姿である双耳峰であることが判る。即ち左が四明岳(標高838m)、右が大比叡(標高848m)の二頂構造。瓜生山は、古来その二つの峰の裏にある延暦寺や東麓の近江滋賀への通路でもあった。


京都市左京区別当町のバプテスト病院の擁壁下の瓜生山登山口
真如堂の丘を下り、瓜生山の麓へ。ここが代表的な登山口だが、開発が際まで迫り味気ない。登山道は中央の車道ではなく、左の病院擁壁下に続く沢に沿っている。必要な施設だが、もう少し遣りようはなかったのであろうか。瓜生山も、大文字山と劣らぬ歴史遺産に彩られた山域なのに


北白川別当町の瓜生山登山口奥の沢と落ち葉や白川石の散乱
擁壁の奥はいきなりこの様な山中となる。少し進み、登山口側を振り返った景。右下には京の銘石・白川石の産地らしい、加工石材の散乱も見える


瓜生山の尾根道に残る瓜生山城の郭跡と、落ち葉ある明るい秋山の雰囲気
沢の途中にある大山祇神社を過ぎ、尾根道を進む。頂部が広く削平されているが、実はこれは戦国時代の山城の郭(くるわ。防御陣地)跡。山頂に武家の守護神的存在・将軍地蔵を祀った瓜生山は、嘗て足利将軍の拠点にもなった付近屈指の城郭であった。そんな歴史を秘めつつ、落ち葉散る明るい秋山の風情も良し


瓜生山の尾根道に残る瓜生山城の郭跡と、黄葉ある明るい秋山の雰囲気
緩やかな尾根道から急登に入り、更に進む。麓の町名由来となったとされる小頂・茶山を過ぎ、山頂までの中段的尾根に出ると、また人為痕跡がある郭跡が現れた。黄葉が近くに迫り、更に秋の風情が濃くなる


落ち葉散る瓜生山山頂平坦地と幸龍権現の祠
そして最後の急登を上り、瓜生山山頂着。広い平坦地になっているが、これも人為とされ、瓜生山城(将軍地蔵山城)の本丸跡とされる。奥の祠は、別の登山口にある狸谷不動尊の奥の院である幸龍大権現、その裏には今は麓で祀られる将軍地蔵が収められていた石室(いしむろ)がある


瓜生山山頂からみた、南方は東山連峰の紅葉と大文字山
瓜生山山頂からみた、南方は東山連峰の紅葉と大文字山(奥の峰)


瓜生山山頂北の尾根上から見た比叡山とそこに続く山肌の紅葉
時間的・距離的に大した疲労はなかったが、折角なので、山頂で暫く寛いだあと、別路で下山する。城跡を濃厚に窺わせる地貌を辿りつつ、尾根上から見えた、比叡山とそこに続く山肌の紅葉。この、瓜生山山頂北の道は比叡山への古道とも重なる


明るい紅葉の秋風情に包まれる、比叡山への古道及び戦国城塞の軍道、瓜生山山頂北の尾根道
比叡山への古道で、戦国城塞の軍道でもある、瓜生山山頂北の尾根道にも、こんな良き秋風情があった


瓜生山山頂北から続く谷道の紅葉ある秋風情

近場侮り難し

間もなく瓜生山山頂北の尾根道を逸れて下降し、谷道を進む。写真で見るように、誰にも遇わないここにも静かな秋風情があった。そして、また元来た登山口へと下ったのである。

僅か1時間くらいの、軽く汗かく程度の山行だったが、意外と秋の風情が豊かで、印象深いものとなった。今季色々行ったなかでは、最も良かったかもしれないとすら思わされた。

やはり、近場も侮り難し――。

そんな思いに改めてさせられた、晩秋の京都近山行であった。

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2022年11月12日

比良紅葉検行後記

比良山脈・蓬莱山山頂スキー場の芝生と木道彼方の琵琶湖

比良南部での秋探索

芝生彼方の水面に続く滑走路の如き木道――。

ここは滋賀県西部・比良山脈の一峰、蓬莱山(ほうらいさん。標高1173.9m)山頂。雪のないスキー場から琵琶湖方面を見た眺めである。

今日は先週に続き山鍛錬を兼ね同山脈の紅葉具合を観にきた。ただ、前回や前々回は紅葉の進みが早く既に盛りだったため、その南部を訪ねた。


比良山脈・権現山山頂近くの唐松らしき樹々の見事な黄葉
車輌でさっと山脈西麓の平(だいら)集落に向かい、そこからすぐに入山し、ひたすら急登を上り50分程で権現山(標高996m)に接近。山頂手前では、この様に唐松が見事な黄葉を見せていた(樹種同定は推測。自生西限を超えている筈だが、人為的に植えられたのか)


比良山脈・権現山山頂からみた、霞んだ南の景色
比良主稜線最南部といえる(これ以南は標高が急降下)権現山山頂からの南の眺め。左手前の峰が今年2月に雪と倒木で難儀した霊仙山(標高750m)、左奥が琵琶湖南湖、中央奥の峰が比叡山(同848m)、その右の谷が大原・八瀬方面で、その彼方に来し方の京都市街がある。前回等と異なり、空は晴れているが、かなり霞んでいる。明日天気が崩れる影響か


比良山脈南部・権現山から北はホッケ山や蓬莱山に続く稜線路
権現山からそのまま稜線路北へ進む。ホッケ山(標高約1050m。中央奥)や蓬莱山山頂(右奥)が現れるが、その間の樹林は既に冬枯れしていた


比良山脈南部のホッケ山・小女郎峠間で見た中腹の紅葉や眼下の琵琶湖.jpg
一旦下り、また登り返してホッケ山を越える。眼下には近くなった琵琶湖湖岸が現れた。紅葉の盛りは、もはや中腹辺りまで下がったようである


比良山脈南部の小女郎峠から蓬莱山に続く、熊笹のなかに続く天上の稜線路
北上を続け、稜線上の十字路・小女郎峠(標高1076m)に接近。左下の峠から右奥の蓬莱山までの熊笹の原に続く、天上の道を進む


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そして、今日の折り返し点の、比良南部の最高峰・蓬莱山山頂に到着。麓からの時間は1時間50分弱であった。居並ぶ石仏の彼方に、来し方の縦走路や叡山、琵琶湖が見えるが、相変わらず空は霞んだまま……


比良山脈蓬莱山山頂からみた武奈ヶ岳・堂満岳方面の冬枯れが進んだ山上の天然林
蓬莱山山頂で今日初めての休息に。軽食を摂りながら北方を眺めると、この様に山上の天然林の広がりが。前々回登った武奈ヶ岳(中央やや左奥)や前回登った堂満岳(右奥)等がある比良山脈中部の山上景であった。明るく軽やかな眺めだが、やはり冬枯れが進行していた


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昼食後、暫し山頂の四方を眺めて、下山開始。元来た道をひたに進んだが、折角なので、小女郎峠奥の小女郎ヶ池に立ち寄った。標高1050mを超えるここも、既に晩秋の雰囲気であった

静かに進む山の冬支度

そして、蓬莱山山頂から1時間20分程で下山し、京都市街へ帰着した。

厳冬期・積雪期となる12月末まであと一月強。

今日は京都市街の気温が20度を超え、山上も先週より暑く感じられたが、比良山上では静かに冬支度が進んでいるようであった。

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2022年11月06日

続比良紅葉検行

滋賀湖西に連なる比良山脈の秀峰・堂満岳と山上及びその周辺の紅葉

比良紅葉検分東面編

日曜午前、今日も前夜就寝が遅かったため遅れたが、先週同様、京都市街隣県の滋賀西部は比良山脈へ。

今回は前回の西麓とは違い東麓から。即ち琵琶湖側から登った。目的は西面より陽当たりが良く紅葉の美麗が期待出来た東面の確認や鍛錬、そして年初の積雪期に堂満岳で失くしたストック(山杖)先端の探索であった。


上掲写真 滋賀湖西に連なる比良山脈の秀峰・堂満岳(標高1057m。中央)と、色づく山上及びその周辺の紅葉。


滋賀県西部・比良山脈の金糞峠下の谷なかでみた美麗な紅黄葉

車輌を標高300m超の公園付近に置き、金糞峠(かなくそとうげ)までの急な谷道を進む。今日は、年初にストックの先を落としたことが確実な堂満岳(標高1057m)までの道を往復する予定であった。

比良著名な落石地「青ガレ」を急ぎ通過し、やがて谷なかのガレ場で写真の紅黄葉と出会った。樹々の色づきは麓の公園から見られたが、やはり山上のブナ等のそれは格別であった。


滋賀県西部・比良山脈の堂満岳後方尾根からみた釈迦岳周辺の見事な紅黄葉
やがて金糞峠峠を通過し堂満岳裏の尾根登坂路へ。その樹間から、北方は釈迦岳(標高1060m)周辺の、この見事な紅葉が見えた。やはり目論見通り、今日が盛りだったようである。空も快晴で、言うことなし


滋賀県西部・比良山脈堂満岳の秋快晴下の山頂
そして堂満岳山頂着。出発してから撮影以外止まらず、約1時間半で到着。久々に見た無雪期の堂満山頂は、2月の積雪時より山頂が狭く感じられた


滋賀県西部・比良山脈堂満岳山頂からみた山脈の紅葉と琵琶湖北湖
軽食を食しながら暫し山頂からの眺めを堪能。これは北東は琵琶湖北湖側


滋賀県西部・比良山脈堂満岳山頂からみた琵琶湖北湖対岸の伊吹山とその左奥に見える御嶽山
こちらは同じく北東は北湖対岸の伊吹山(標高1377m)の望遠撮影。その左奥に薄っすらと本邦最西端の3000m峰・御嶽山(標高3067m)が見える


滋賀県西部・比良山脈堂満岳山頂からみた琵琶湖南湖や琵琶湖大橋
こちらは南西は琵琶湖南湖側。左の橋梁は湖のくびれ部分で東西両岸を繋ぐ琵琶湖大橋


滋賀県西部・比良山脈麓の琵琶湖岸「松ノ浦」の浜
比良山脈麓・琵琶湖岸の白砂の浜(志賀松ノ浦)

計4度捜索の結果

あまりに天気が良く、風もない温暖だったので山頂で昼寝でもして帰りたかったが、色々やることもあり、結局滞在20分強で撤収。その後また来た道を下り、1時間弱で下山した。

肝心のストック先端は見つからず。2月末に同じ道程を捜索したが、これで2往復・計4回確認したにもかかわらず発見できなかった。山のゴミと化すのは心苦しい限りだが、これにて諸方お許し頂き、捜索終了としたい。

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2022年10月30日

比良紅葉検行

比良山脈主峰・武奈ヶ岳山頂直下の広尾根の道と、彼方に広がる京都府側の丹波高地

近山の紅葉如何

10月も明日で終りの日曜今朝。

隣県滋賀西部の比良山脈に、紅葉具合の検分と鍛錬兼ねて短時独行した。登ったのは、山脈中、紅葉進度が最も早い、最高峰の武奈ヶ岳(ぶながたけ。標高1214m)。


上掲写真 比良山脈主峰・武奈ヶ岳山頂直下の広尾根の道と、彼方に広がる京都府側・丹波高地の山々。


10月末で未だ紅葉していない、武奈ヶ岳登山口の比良西麓葛川坊村・明王院境内

登行前の後悔?

比良山上の紅葉盛期は例年11月初旬だが、その頃に武奈ヶ岳に登ると冬枯れが多く、少々不満だった。よって、今回少し早めに来たが、通り道の大原・叡山等を含め、麓には紅葉の気配は乏しかった。

少々早まったか……。

そんな気もして後悔し始めたが、仕方なく登ることにした。写真は登山口の比良西麓・葛川坊村(かつらがわ・ぼうむら)集落にある密教寺院・明王院境内(標高310m強)。これを見ても夏山と変わらない様子がわかる。


比良山脈・武奈ヶ岳西南稜ルートの標高690m地点の、まだ紅葉が進まない天然林
乗っけから急登の道を30分程上った標高690mの天然林でも、この様子


比良山脈・武奈ヶ岳西南稜ルートの標高900m地点の天然林の紅黄葉
だが、登山口から1時間弱、標高900mまで上がると、美麗な紅葉が現れた。ただ、盛りにはもう少々足りないようにも思われた


比良山脈・武奈ヶ岳西南稜ルートの御殿山手前尾根の紅葉
更に登山路を進み、途中通過する御殿山(標高1097m)の手前ではかなり進んだ具合に


比良山脈・武奈ヶ岳西南稜ルートの御殿山北からみた、武奈ヶ岳山頂や標高1100m以上の天然林を彩る紅黄葉
やがて御殿山を過ぎ、現れた武奈ヶ岳山頂(左峰の奥側)及びその周辺の標高1100m以上の天然林は、この様な状況に


比良山脈・武奈ヶ岳山頂からみた、同山脈コヤマノ岳周辺の紅黄葉
武奈ヶ岳山頂から見たコヤマノ岳(標高1181m)周辺の天然林黄葉

意外な山頂

そして山頂着。麓の状況から期待していなかったが、意外にも紅葉(ブナが主なので黄葉か)具合は写真の通り、盛りといえるものであった。

しかし、それでも既に葉の落ちた冬枯れも目立った。恐らくは落葉の時期が早い種があるのか。まあ少々のことは致し方あるまい。

さて、比較的遅くに登り始めたが、休憩せずに1時間40分程で登ってきたため、ちょうど昼時となった。大勢の人で賑わう山頂の縁にて軽食を摂り、また一気に下山したのである。


比良山脈西麓・安曇川水系葛川沿いのススキや紅葉
比良山脈西麓・安曇川水系葛川沿いのススキや紅葉。帰路にて

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2022年10月09日

続2022秋私野営会

滋賀湖南アルプスの野営地の天幕に守られた焚火式竈や薪

予報覆らぬも

私的野営会2日目。

昨晩、空が晴れ渡り十三夜の満月観賞が叶ったが、朝にはまた曇り空と化していた。しかもそれは、昨日より重い、如何にも危うげな姿であった。

やはり、予報は覆ることなく、午後早くに雨が降りそうである――。

さて、そんな天候下、夜露や想定外に早まる雨を警戒し、写真の通り竃に天幕を張り備えたが、高さがある為か、はたまた風の所為か、竃内もある程度の湿気に晒され、朝本格的に火が熾るのに少々時間がかかった。

これも、下り坂の天候故か……。

その後、朝食を食し、また午後には昼食を摂って早めの片付けに。撤収後半に雨が降り始めたが、濡れると厄介なテントはその前に片付けたので、問題なし。そして、無事本降り前に下山し、帰路に就けたのであった。


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2022年10月08日

2022秋私野営会

天幕に覆われた焚火式の竃(炉)や薪が用意された野営会恒例の調理場

「私」付野営開かれる

秋行楽時の三連休。

いつもなら恒例の秋季野営会(やえいかい)の時期であるが、今年は幹事の「休息したい」との申し出から休止とした。



それなら、どうして表題画像がいつもの竃周辺のものになっているのか。しかも、多量の薪や露除けの天幕まであって用意万端ではないか……。

実は、いつものような予告・声掛けは無しで、今日、私的・臨時的に実行したのである。それは、以前から野営をしてみたい、との申し出があった、初心者のための非公式的開催であった。

よって、今回は表題に「私」の字を入れたのである。もし告知等を待っていた人があれば、ご諒解を。ただ、元来自主性を重んじる会なので、希望する人は連絡が無くとも能動的・積極的に申し出てもらいたい。


焚火式の竃(炉)にかけられた、やかんや鍋等々

今回の三連休も前回・前々回同様に晴天予報はなかった。この前日も終日かなりの降雨があり、今朝まで小雨が残っていた程であった。

ただ、中日の今日は貴重な曇り日で、明日午後からまた雨が降り始める予報だったので、その合間を狙った開催となった。故に、比較的早い時間に野営地入りするなどして、その機会の有効活用に努めた。

今日は雨こそなかったが、終始曇りの怪しい空模様。ただ、気温は丁度良く、いつもの様に強力な陽射しや地面の照り返しがなく、快適であった。

写真は夜の竃の様子。さすがに夜は気温が落ちたが、それでも比較的温暖で、過ごし易い焚火夜となった。


滋賀湖南アルプスの野営地上空に現れた十三夜の満月
今日は十三夜の満月日。天候具合から当初その観賞を諦めていたが、なんと、夜になると空が晴れ渡り始め、奇跡的に観ることが出来た


2022年秋私野営会2日目はこちら

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2022年09月27日

続駒嶽独錬行

甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上にある七丈小屋のテント場東空に現れた早朝の朝焼け

残念ながら最終日に

甲斐駒ヶ岳独錬行2日目。

今日は標高2400mの野営地を早朝に出て山頂を往復し、その後、天幕等を片付け、麓駐車場まで下山して帰京する予定であった。

本来は山中で2泊してゆっくり高山風情を味わいたかったが、野営地と水場及び厠の距離が遠く険しくて居づらく、また、今晩から天候悪化が予想されため、残念ながら撤収することした。

前夜は20時頃から寝る態勢に入ったが、想定外の気温の高さ等により深夜まで寝られなかった。そして予定の4時半に起床し、炊飯して朝食を摂るなどの準備を始めた。

高地の秋の早朝なのに全く寒くないという不可思議な状況の天幕外には、早くも写真の如き朝焼けが現れ始めていた。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上にある七丈小屋テント場の東空に現れた雲海上のご来光
そして出発前の5時37分には、押し寄せる雲海の彼方にご来光が昇ってきた


朝日に赤らむ、甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根七丈小屋テント場上の林

野営地(標高2400m)〜八合目御来迎場(同2680m、積算距離約8.0km)

確り足下が明るくなり、最早ライトが不要な頃を見計らって山頂に出発。登山路周囲の山林は写真のように朝日を受けて夕景のような色合い・風情であった。

因みに野営地から2組程先に出たようだが、私は未知のルートは夜歩かないようにしている。況してここは修験の道。憚られる思いもあった。


朝日に赤らむ甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上部
朝日に赤らむ黒戸尾根上部。野営地と山頂の高低差は約567mで、未だ山頂は見えない


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根七合目付近の足下に現れた古い石材
進む路傍には昨日同様に石碑・石仏が現れ、足下にもこのように埋もれた古い石材が現れた。ヘリや重機がなかった時代、背負子・草鞋履きでここまで背負ってきたのか……。古人の、恐るべき信仰の力を感じる


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上部の七合目辺りからみた秩父山地方面の雲海や朝日
ひらすら尾根道を登ると、同じく朝日も高度を上げる。昨日同様、今朝も寒くはなく、暑ささえ予想されたため、始めから上着無しで進むも、全く問題なし。風もないため、相当条件が良いのであろう


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根八合目にある御来迎場と鳥居跡の2本の石柱
そして出発30分程して八合目の「御来迎場」という場所に到達。標高は約2680m、山上を目の前にした聖地で、石碑等の設置があった。左右長さの違う2本の石柱は元鳥居だったらしく、近年倒壊したらしい


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上部にある、剣2本が刺された烏帽子岩

八合目御来迎場(標高2680m)〜甲斐駒山頂(同22967m、積算距離約8.8km)

御来迎場で小休止して先へ進む。山頂は未だ見えないが、山頂近くにある有名な剣2本が頂部に刺された烏帽子岩が見えてきた(写真中央)。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根八合目付近の岩場鎖場
8合目付近から樹々は減り岩場が多くなってきた。この様な鎖場も幾つか現れたが、足場が付けられており、その高さも低いため難儀は感じなかった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根八合目上にある岩間の崖道
野営地から山頂までで最も険しかったのは、この岩間の登りか。ただ、特段難しかったり、怖い場所ではなかった。天気や季節が違うと別だろうが


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根9合目付近から見た2本剣ある烏帽子岩た彼方の鳳凰三山、そしてその背後の富士山
そして、いよいよ2本剣も見下ろす位置に達する。鳳凰三山越しに富士山が覗くこの景は、以前から甲斐駒の象徴のように多くの媒体で紹介されている。現れた風景に対する気持ちが似通うのか。ただ、珍しくはないとはいえ苦労して黒戸尾根を登らないと撮れない、価値ある一写・眺めではある


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根9合目付近から見えた山頂とその上に立つ祠
また、遂に山頂も見え始めた。山上に立つ駒ヶ岳社の祠が目印である。荒々しい印象に反して、意外と緑が多く、繊細な雰囲気に見受けられた


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根最上部付近の小頂上に林立する石碑や石造の駒ヶ岳神社本宮
更に進むと、大国主命等の石柱(中央左)が林立し、石造りの小社殿がある駒ヶ岳神社本宮(中央右下)脇を通過


青空の甲斐駒ヶ岳山頂に立つ祠

独占の甲斐駒山頂

そして山頂着。野営地を出て1時間半弱であった。標準時間は2時間半なので、ゆっくり来た割りに早く着いた。やはり重荷がないのが効いたか。

写真は扉に草鞋が奉納された山頂祠。因みに登山口からここまでの総距離は約8.8km、その高低差は約2200mに及んだ。正に、日本三大急登に相応しい量感である。


甲斐駒ヶ岳山頂とその標識
一先ず祠前で跪拝後、その裏へまわると山頂標識があった。先程1人先客がいたが、下ったようなので独占状態に。著名な山にしては中々珍しい。まだ7時過ぎなので七丈小屋以外から来るには早いのか。とまれ、先ずは小三脚を出して証拠の自分撮りを行い、その後四囲の記録撮影を行った


甲斐駒ヶ岳山頂からみた、朝日に輝く鳳凰三山越しの富士山
甲斐駒ヶ岳山頂から見た富士山。手前の鳳凰三山より高い場所に来たので、その全容が窺えた。それにしても美麗な山容である。やはり、これほど均整のとれた山は他にあるまい。唯一無二の、本邦一の麗峰である


甲斐駒山頂から見えた、南方は北岳等の南アルプス中心方面
こちらは同じく甲斐駒山頂から見えた、南方は南アルプス中心方面。北岳(最高標高3193m)等の3000m超の鋭い高峰が見える


甲斐駒山頂から見えた、西南の仙丈ケ岳
こちらも同じく甲斐駒山頂から見えた、西南の仙丈ケ岳(標高3032m)。当初、甲斐駒との間にある鞍部・北沢峠付近に野営して登ろうとしていた山である。「南アルプスの女王」と呼ばれ、圏谷や高山植物で著名の人気高峰らしいが、今回の黒戸尾根経由だと遠いため、またの楽しみとした


甲斐駒山頂から見えた、北東の雲海に浮く八ヶ岳連峰
こちらは甲斐駒山頂北東の雲海に浮く八ヶ岳連峰。右寄りの鋭い高峰が最高峰の赤岳(標高2899m)。遠いと思って一度も行ったことがないが、小淵沢を挟んだ甲斐駒対面に当るので、今回同様の車行で登れそうである


甲斐駒山頂から見えた、東北東の雲海に浮く秩父山地
こちらは甲斐駒山頂の東北東に見えた、雲に浮く艦船の如き秩父山地(最高標高2601m)


甲斐駒山頂から見えた、北西の雲海に浮く北アルプス
こちらも甲斐駒山頂の北西に見えた、雲に浮く北アルプス。お馴染みの人気山域「槍穂高(最高標高3190m)」辺りである


甲斐駒山頂から見えた、北西の雲海に浮く乗鞍岳
これは北アルプス(飛騨山脈)南にある乗鞍山塊(標高3026m)


甲斐駒山頂から見えた、西方の木曽山脈とその彼方の御嶽山
こちらは甲斐駒山頂の西方に見えた、木曽山脈北端部とその向こうに浮かぶ御嶽山(標高3067m)


右上に甲斐駒ヶ岳山頂の祠が望める真新しい石造の駒ヶ岳神社本宮

山頂直下での長山話
野営地帰還そして下山へ


甲斐駒ヶ岳山頂での参拝・撮影後直ちに下山開始。

しかし山頂直下付近の分岐にいた先客女子に話しかけられて思わぬ山話に。私が辿った黒戸尾根とは逆の北沢峠の小屋を夜中出て、一番乗りで来たらしい。初心者というのに独り闇夜を進み来るとは中々の達者である。

眼下の副峰・摩利支天を眺めながら話が弾み、結果、吹き曝しのザレ場(花崗岩砂場)に1時間程居ることに。まあ、元々山頂で予定していた長休みを省き、あとは下山するのみだったので特に問題はなし。

そして、同じく今から登山口に下るという彼女と別れ、分岐裏にある駒ヶ岳社本宮に参って下山した。写真の通り本宮は真新しい立派な石造で、風を避けられ、右上に山頂祠が望める位置にあった。近年再建されたのか。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上にある七丈小屋テント場からみたガスで遮られた眺望

甲斐駒社本宮からは元来た道を一気に下り、1時間弱で野営地に帰着。すると、写真の如く、周囲にガスが生じて眺望がなくなる怪しい雰囲気となっていた。予報より天候悪化が早まったのか……。

野営地で急ぎ天幕の撤収と荷造りを行うが、上手く進まず。主な原因は、背嚢に入れるタイプの水袋(サーバー)の収納順序であった。

下りとはいえ、比較的高気温のなか、重荷で長大な険路を進まねばならぬため、ある程度の水を用意する必要がある。その為には七丈小屋の水場まで下り、そこで補給後に改めて荷詰めを完了させなければならない、という二度手間が生じたのである。

サーバーは収納後は楽だが、途中で補給する場合、他の荷を出して入れ直し、その後、各部を再調整するという面倒が生じるのであった。結局、1時間近く費やした10時半前に、完了・出発出来た。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根にある梯子場の崖道
下りでは当然登ってきた難所も下る。この様にそこを上から見ると、その険しさが良く解る。やはり荒天前に通過することにしたのは正解であった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上の標高2250m付近の小頂裏に立つ「開力霊神」石碑

甲斐駒信仰の象徴?

写真は下山路の黒戸尾根・屏風の頭(標高2250m)付近にあった「開力霊神」と彫られた石碑。

五合目小屋跡後方の岩山上部にあることから、「険難を越え霊力を得る」という、修験的超人思想を表したものか。駒ヶ岳信仰・黒戸尾根登拝を象徴するような古碑である


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根上の急な下り坂登山路
とまれ、ひたすら下りに下る。こうして斜度大きい険路を見下ろしつつ下ると、自身が如何に高い場所まで登っていたのかが、登坂時より良く解る


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根の出発地である竹宇駒ヶ岳神社の社殿とその脇を通る参道兼登山道
時折重荷を降ろして小休止しつつ、延々たる急下降を進み、漸く麓の竹宇(ちくう)駒ヶ岳神社まで下りきった。社殿脇のこの小道を進み神前に無事を報じる。一先ず、一安堵……


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの登山口でもある尾白川渓谷駐車場

数十年来の雄姿再会経て帰京

そして程なく出発地で登山口の写真の駐車場に帰着した。時間はちょうど15時なので、4時間半の下り行であった。平日夕方というのに来た時より車が増えているのは、渓谷観光のためか……。

しかし、山での緊張は解けたが、まだ5時間以上かかる京都までの長い車行が残っていた。慌てず慎重に帰り支度を進め、駐車場を後にした。


小淵沢インター付近から見えた曇天中の甲斐駒ヶ岳の威容

楽しみしていた帰路小淵沢から見る甲斐駒との数十年来の再会は天候悪化で諦めていたが、意外にも曇天中にその姿を現していた(写真中央)。麓での買物後インターに向かう途中でそれを確認し、暫し車を停め眺めた。

山頂左から麓に下る今回の登山路・黒戸尾根はあれで、今朝まで天幕を張っていたのは山頂下急斜の途中辺りか――、等々を考えながら……。

その後、高速に入り、やがて暗くなった帰路を休息を挟みつつ進む。途中、幾度かの土砂降りや工事渋滞に難儀するも、無事、21時半頃、帰京することが出来たのである。


「駒嶽独錬行」1日目の記事はこちら

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2022年09月26日

駒嶽独錬行

黒戸尾根の登り返し付近からみた甲斐駒ヶ岳山頂に続く高嶺

「特別気になる」存在へ

今年もはや9月に。

さすがに猛暑の暑さは一段落したものの、夏の暑さは続いており、その間を縫うように台風とその影響による風雨が続いた。

そんな9月下旬の今日、我が国中央高地の1万尺(標高3000m前後)高峰を目指す、恒例の独錬山行に出掛けた。行先は信州長野と甲州山梨の境に聳える駒ヶ岳(2967m)。所謂「甲斐駒ヶ岳」である。

その昔、独り旅の途中で下車した、麓の小淵沢からみた雪峰輝くその威容に感心して以来、ずっと気になっていた山であった。

そのため、今日は伊吹山孝霊山日野山等と同じく、その姿を見て「気になっていた山」探査の一環ともなった。なかでも、甲斐駒は個人的に初めて高山と、その厳しさを意識させられた山で、特別な存在であった。


上掲写真 長大な急坂で知られる甲斐駒ヶ岳の主要登山路・黒戸尾根上からみた甲斐駒頂上方面。登山路は最奥の峰に続くが、標高2150m程のここからはまだ頂上は見えない。それは、未だ遥かに遠く、高所にあった。


シルバーウイーク明けで車の少ない、甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの起点・登山口の尾白川渓谷駐車場

麓の小淵沢には前夜21時過ぎに到着。真っ暗な駐車場には連休最終日の所為か数台の車しかなく、今朝少し増えたが写真の如き空きぶりであった。

この時季、北アルプスの駐車場なら平日でも混雑するが、やはり日本三大急登の一つとされる厳しいルートのため、人気がないのか。

私も当初は山裏の北沢峠(標高2032m)を拠点に、駒ヶ岳と峠反対側の仙丈ケ岳(同3033m)を1日ずつ登る比較的楽な行程を組んでいたが、記念すべき南アルプス初入山であり、嘗て感銘を受けた側で古くからの登拝路であることから、この厳しくも興味深い長大坂での甲斐駒往復に変更した。


尾白川渓谷駐車場の隅に開く、甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの登山口

登山口(標高約770m)〜笹ノ平分岐(同1470m、距離約2.85km)

甲信を結ぶ高原回廊のまち・小淵沢らしく、駐車場は標高770mの高所にあったが、前夜から温暖であった。そのためか、車中では短時間しか寝られず、出発の6時を迎えた。

先行者は3組程で、中には日帰りとみられる夜明け前出発も。登山口は駐車場隅の写真の場所で、計画書投函箱等の備えがあった。


甲斐駒ヶ岳登山口と竹宇駒ヶ岳神社を結ぶ土道
登山口からは暫く土道が続き……


甲斐駒ヶ岳の麓にあり、駒ヶ岳信仰の拠点の一つ竹宇駒ヶ岳神社
程なくして駒ヶ岳信仰の拠点の一つ、駒ヶ岳神社境内に入り、入山の参拝を行う。道なりに参拝出来、その後は社殿横からそのまま登山路を進めるという、至便な社である。竹宇(ちくう)という集落の里宮なので、「竹宇駒ヶ岳神社」と呼ばれることもあるらしい


甲斐駒ヶ岳の麓、竹宇駒ヶ岳神社の傍にある吊り橋
駒ヶ岳社境内に接する吊り橋。近年補修された観があるが、一度に渡れるのは5人までという制限があった。実際、渡ると独りでも良く揺れる。とまれ、ここが実質的な登山口か


甲斐駒ヶ岳の麓の吊り橋下を流れる尾白川の清流
吊り橋下には名水百選に指定されているという、尾白川(おじろがわ)の流れがあった。夜明け直後で暗く解り辛いが、確かに花崗岩を洗い下る水は清冽であった。この渓谷は清涼飲料水のCMにも使われた名勝らしい


甲斐駒ヶ岳の麓の尾白川渓谷からすぐに始まる急登の登山道
そして、吊り橋を渡ってすぐに、急斜の山肌につづらで続く急登が、いきなり始まる


栗多い甲斐駒ヶ岳の巻道登山道
高低差200m程の急斜を登ったあとは、このような巻道に。地形図によると、ここから黒戸尾根の稜線に向かうようである。本来は初めから尾根上を進む方が効率が良いので、後世付け替えられたのか。植生は里山風情で、立派な栗の木が多く、その実が方々に散っている。その数は膨大で、人独りの年間必要熱量なぞ簡単に賄えそうであった。基本野栗だが、なかには売り物同様の大物もあったため、「野営地で栗ご飯に」とも思ったが、先が長いので観るだけに止める。時折、近くにイガや硬い実が落下してくるので要注意。また、熊などの獣にも注意が必要な場所にも思われた


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根の稜線上に現れた、人為的に掘り切られた古い道跡
黒戸尾根の稜線に達すると、尾根の頂部を割るように続く人為的な道と遭遇した。所により深さ5m程も掘り込んだ箇所もあり、公的な土木工事が想像された。極力つづらで登るように造られているため、古い牛馬道や荷車道の可能性が高い。このルートは外部との交通に適さないので、林業か鉱業用であろうか。登山路は時にそれを辿りつつ、また時に外れて続いてた


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの登山路脇の古い祠
そして、駒ヶ岳信仰関連のものとみられる古い祠も現れた。掘込道横の登山路脇にあったので、やはり堀込道が近世後期の登拝流行とは無関係に造られた可能性が窺われ、また、それより古いものである可能性も浮上した


ブナやクマザサ等が生える、甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの標高1500m付近の森
標高1500m近くに達すると、このように植生が変わり、冷涼または高所の景観となった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道の樹間から見えた頂上方面
尾根上のルートとはいえ樹林のため周囲の眺望は無し。ただ、時折樹間からこのように頂上方面が見えた。未だ、遥か彼方・高所である。しかし、木陰の所為で、陽射しの害は避けられた。山中・早朝にもかかわらず、15度以上の気温があり、直射が加われば暑さで参る恐れがあった為である


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道上にある、竹宇と横手両駒ヶ岳神社の参道が合わさる笹ノ平分岐
そして、8時前に横手集落にあるもう一つの駒ヶ岳神社から伸びる参道との交点・笹ノ平分岐を通過。その名の通り傾斜が緩やかで笹が多い森である


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道脇に現れた注連縄が張られた龍神石碑

笹ノ平分岐(標高約1470m)〜刃渡り(同1960m、積算距離約4.95km)

写真は笹ノ平分岐を過ぎた駒ヶ岳登山路兼参道脇に現れた石碑。龍神を祀ったもので、注連縄が張られた神道系の信仰設備である。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道脇に現れた、嘉永三年の紀年がある石像
こちらも道端に現れた石像。その姿から佛教系の吉祥天等かと思われたが、前者の龍神碑と併せて、神仏習合の度合いが濃い、古の山岳信仰を実感させられた。因みに石像には嘉永三年(1850年)の紀年が。それは、彼のペリー来航3年前の江戸後期の年号で、日本が一気に近代という新気圏に突入するために生じた大摩擦「幕末動乱」直前の時期であった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道の標高1900m弱の地点の、苔ある庭園の様な森
そして標高1800mを超えると、この様に苔多い庭園回遊路的道となった。それにつれ、森の姿はより寒冷地らしい植生となった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道の名所「刃渡り」
程なく標高2000mを超えると、黒戸尾根道の名物的存在である「刃渡り」が現れた。鋭角の岩尾根上を通る難所だが、場所自体の幅があり、手がかり・足がかりも確りしているため、特に難儀や恐怖は感じなかった。とはいえ、縁下に落ちれば只では済まない場所なので、注意すべきと思われた


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道に現れた急斜に付けられた梯子桟道

刃渡り(標高約1960m)〜五合目小屋跡(同2130m、積算距離約6.55km)

少々拍子抜けとなった刃渡りを通過して間もなく、これまた有名な桟道が現れた。

急崖に横づけされた梯子の巻き道である。写真では大した難所には見えないが、右側が奈落となっている危険箇所である。山側(左)に渡されたロープを掴みつつ慎重に通過。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道に現れた急斜に付けられた梯子桟道下の急崖
梯子桟道より急崖下を覗く。これまた樹々の所為で然程危険な場所に見えないが、実際にはこうしてカメラ向けるのも緊張するような斜面であった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根の黒戸山手前の梯子道
横に移動したあとは縦に上る。難しい場所ではないが、油断禁物の崖道


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道の黒戸山手前に現れた刀利天の祠
少々緊張した崖道上の尾根上には、刀利天(とうりてん)が祀られた祠があった。この世ではないが浄土でもないというその存在は、険難を超えた山上にありながら、未だ頂ではないという、浄土教的信仰を物語るものか。そういえば、山頂に祀られている大己貴命(おおむちのみこと)の本地佛は、浄土への救済者・阿弥陀如来であった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根道の黒戸山の巻道の先の下り
刀利天からまた険しい尾根道を登り、やがて森なかの長い巻道に出る。その後、道はこの様に急に下降を始めた。折角標高2200mを超えたのに、また100m程減ってしまったのである


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート上に現れた五合目小屋跡の鞍部と祠ある岩山
そして下った先にはこの様な平坦鞍部があった。左側の斜面には昔投棄されたとみられるゴミが散乱している。五合目小屋跡と呼ばれる、嘗て山小屋があった場所であった。駐車場からここまでの距離は6.5km、時間は5時間半を消費。比較的体調は良かったが、標高2000mを過ぎた頃から背嚢の重さによる疲れで動きが鈍っていたので、ここで若干長めの休息とった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの五合目小屋跡向こうの岩山横に現れた梯子場

五合目小屋跡(標高約2130m)〜七丈小屋(同2360m、積算距離約7.25km)

道は小屋跡鞍部向こうの岩山で途絶したように感じたが、岩下の祠右横に何やら白木の構築物が見えたので行くと、このような梯子場があった。

強力な登り返しの始まりである。疲れた身に堪えるが、進むしかない。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの五合目小屋跡の岩山横の危険な梯子場
上部から覗いた岩山横の梯子場。これも樹々と影で判り辛いが、梯子下段下は奈落になっており、二本梁の柵を越えて落ちると、まず助からない急崖であった。柵は事故の影響か、最近取り付けられたような観があった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの五合目小屋跡の岩山横の鎖場や梯子場
急な梯子を登っても、また鎖場や梯子ある急な岩場が連続する


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの五合目小屋跡の岩山上に続く登山路兼参詣路
そして油断ならぬ岩場を越え、岩山頂部に続く道をゆく。重荷の疲労で極端に速度が落ち、幾度か小休止を繰り返しながら、である


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの五合目小屋跡と七丈小屋間にある鞍部と梯子橋
岩山頂部の道は暫くすると下り始め、また鞍部が現れた。そこには、切れ込みの深さ故か、写真の様な梯子橋が架けられていた。これが微妙に怖い


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの五合目小屋跡と七丈小屋間にある梯子橋とその下
梯子橋の真下は然程高さはなく、左に張られたロープを掴めば難なく通過できるが、何かの拍子で落ちそうな危険を感じる場所であった。因みに、私もこの写真を撮ろうとして均衡を崩しかけるという危うい目をみた


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの七丈小屋手前にある梯子場の急崖
そして、また下ったので、当然登り返しが待っており、それもまた急峻であった。この様に梯子場等の急崖の登りが続く


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの七丈小屋手前にある急崖上の危うい桟道
また、崩れれば一巻の終わりであろう、こんな桟道も出現。よくこんな場所に取り付けられたものだと感心しつつ、下を見ないようにして通過


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの七丈小屋手前にある急崖上の鎖場
そして極めつけに、こんな鎖&ロープ場が現れた。岩に付けられた窪みに足を乗せつつ攀じ登る。その距離は短いが、途中横に移動する箇所があり、右足を置く足場に気づかず少々難儀した。しかし、事前に調べたが、こんなに危険個所が現れるとは思わなかった。10時過ぎから下りの人達とすれ違い始めたが、甲帽(メット)装着の人が少なからずいたことに納得がいった。荒天時は通りたくない場所であり、また子供も適さないルートだと思った。個人的には、彼の剱早月の道より危なく感じられた


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート唯一の山小屋・七丈小屋(第一小屋)
険難の次はまた山上の道に出る。とにかく荷が辛いので、道際の石上にそれを預けるようにして座り休んだ。位置的に本日最後の休みかと思い出発すると、すぐに今日の進出点で野営地でもある七丈小屋の三角屋根が現れた。少々拍子抜けするも、安堵。時はちょうど13時なので、出発から7時間経っていた。一応、標準所要時間内に収まったが、最後の1/4で失速したことは不満であった。この夏は天候が悪く、そして猛暑続きのため殆ど鍛錬が出来なかったからか。または荷が重すぎるのか……


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート唯一の山小屋・七丈小屋のトイレ

七丈小屋(標高約2360m)〜野営地(同2400m、積算距離約7.4km)

尾根脇の僅かな空隙に埋め込まれるように建つ七丈小屋で野営の手続きを済ませる。

小屋前で掛け流されている冷たい飲用水や厠が使い放題なのは有り難い。ただ、野営指定地が小屋から5分程離れた場所にあるという。崖上に張り出すこの厠棟に寄りつつ、早速上手のそこを目指す。

厠は崖下の黄色いタンクに屎尿を集め、ヘリで麓まで運ぶようだが、道しか平地がないここで、どうやって発着しているのであろうか。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート唯一の山小屋・七丈小屋の第二小屋建屋とテント場及び山頂へと続く登山道の梯子
厠の傍には七丈小屋の別棟・第二小屋があった。片流れの屋根と赤い壁が特徴的な建屋で、比較的新しい建築に見えた。そして、小屋裏にある右の梯子は、野営地及び駒ヶ岳山頂への登山路であった


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート唯一の山小屋・七丈小屋の第二小屋前のデッキ向こうにのぞく送水管らしき設備
第二小屋前のテラス向こうには森なかを通す送水管らしき設備が観察出来た(中央右)。やはり、剱の早月小屋同様、尾根上に水源がないため近くの谷から引いているようである。大変な労力である。しかし、有難い限り


誰もいない、甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート唯一の山小屋・七丈小屋のテント場

標高2400m、未だ夏風情の野営地

さて、第二小屋裏の梯子を上って野営地への尾根道を進むが、これが意外と険しい。

というか、結構な登りで坂で、道上を横切る樹に頭をぶつけたりもする。サンダル履きや、鍋に水を入れ片手通行するのは難しいだろう。

そして、到着した標高2400mの野営地は写真の通り誰もおらず。連休明けの今日は人が少ないらしいので、好きな場所に設営してもよい、ということだったので、好みの場所を選ばせてもらった。


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート唯一の山小屋・七丈小屋のテント場から見えた、鳳凰三山越しの富士山
重荷を下ろし、天幕を張って寛ぐ。正午過ぎには小屋近くまで達し、道も険しかったため延期した昼食も遅ればせながら摂る。尾根脇に造られ、向かいに高山を臨むのは剱早月とそっくりな立地。向かいの鳳凰三山脇にはこの様に富士山の姿も比較的近くに見えた。遥々山梨まで来たことを実感


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルートの山小屋・七丈小屋のテント場からみた9月末ながら紅葉が殆どない山肌
しかし、標高2400mの高地に達しながらも、未だに暑い。設営場所も日向を避けたくらいである。周囲の山々を見回しても紅葉は殆どみられぬ、未だ夏山の風情であった。北アルプスなら今時分、麓から紅葉が始まっている筈。やはり「南」アルプスである分、季節の進みが遅いのか


甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根ルート唯一の山小屋・七丈小屋のテント場からみた星空や甲府市街の街灯り
標高2400mのテント場からみた星空と甲府市街の街灯り

昼食後、周囲を少し散策しつつ撮影したり、横になり休んだりして過ごす。やがて夕方となり、18時過ぎに夕食を摂り、明朝の登頂に備え20時までには就寝態勢に入った。

すっかり暗くなった天幕外には、好天の所為か、天の川が見えるほどの星空が。気温はさすがに下がったが、それでも全く寒からず、山の夏宵ともいえる陽気であった。


「駒嶽独錬行」2日目の記事はこちら

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2022年05月05日

続2022春野営会

滋賀・湖南アルプス山中の新緑の森と、快晴の朝空を横切る飛行機雲

またの快晴の下
珈琲容器にピザやら啄木鳥やら……


恒例の春の野営会2日目。

昨日の初日同様、朝から快晴となった。気温も昨夜夜中や明け方こそ寒さを感じたが、日の出以降急速に上昇し、朝8時頃には暑い程となった。


上掲写真 滋賀・湖南アルプス山中の新緑の森と、快晴の朝空を横切る飛行機雲。


滋賀・湖南アルプス山中の野営での窮余の合作のペットボトル・コーヒードリッパーとアルミ缶サーバー

朝食はフランスパンを鉄板焼きして生野菜やベーコンを挟んだものを用意。飲み物は友人差入れの珈琲だが、ドリッパーを忘れたらしく、本人が写真の如くペットボトルを加工して用意した。

ただ、そのままでは径が細く自立しないので、私がアルミ缶を加工して下にサーバーを追加。まあ、窮余の合作で見てくれも悪いが(笑)、無事美味しい珈琲を淹れることは出来た。皆さんも今後の参考に……。


滋賀・湖南アルプス山中の野営地近くの枯木に現れた啄木鳥(きつつき)

朝食後、友人が昨秋の野営会で試みたピザ作りに挑む。前回同様、生地発酵から行う本格的なものだが、やはり上面の加熱に課題が残った。

写真は野営地での寛ぎ時に近くの枯木に現れた啄木鳥(きつつき)。最初こそ警戒していたが、やがて我々を気にせず軽快なドラミング(打撃音)を聞かせ始めた。こんな近くでその姿と活動を見たのは初めてであった。

最後のお騒がせ

そして、昨夜の残りものの昼食を何とか平らげ、やがて撤収作業に。ゆっくり行ったが、手際や装備を研究していたため比較的早く終え、下山することが出来た。

ところが、折角早く下山して帰宅出来たのに、家の手前で鍵がないことに気づく。野営地を出る際は財布や電話と共に重要物品として確認をし、皆にも促すのだが、麓で油断し、友人の車の荷台に落としたのである。

駅等で落とさず、すぐに見つかり不幸中の幸いとなったが、家に入れないので、一先ず荷を置き引取りに出掛けた。友人が車で届けることを提案してくれたが、連休最後の渋滞や疲れの危険を考え、自ら列車で往復した。

ああ、最後に失敗――。

物理的・心理的にどっと疲れた。駅まで鍵を届けに来てくれた友人には申し訳ない限り。

こうして、最後は油断による失敗があったが、大きな事故もなく、一先ず安全に会を終えることが出来た。

皆さん有難う、そして最後に騒がせてごめんなさい!


2022年春野営会1日目はこちら

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2022年05月04日

2022春野営会

滋賀県南部「湖南アルプス」山中で陽を浴びる沢沿いの蕨(わらび)

今年の人出は

今日は恒例の春の野営会。

先週まで連休中は雨予報が多かったが、直前になって好転し、無事快晴のなか開催することが出来た。

昨年はコロナ禍制限の影響やキャンプブームもあり、基本密やかな野営地も人が多く、隠しておいた常設の炉(竃)も他人に取られ、初めて場所を変えたが、今年は如何であろうか。


上掲写真 恒例の野営開催地・滋賀県南部「湖南アルプス」山中で陽を浴びる沢沿いの蕨(わらび)。


風化花崗岩質の山肌に清澄な水が流れる滋賀・湖南アルプスの沢
風化花崗岩質の山肌に清澄な水が流れる湖南アルプスの沢

麓で買出し等の準備を済ませ野営地に入ると、麓にはバーベキュー客らが多く駐車も多かったにもかかわらず、意外に野営者は居らず。

3年ぶりに緊急宣言のない連休となったので帰省や遠出に流れたか。または、噂通り、急速にキャンプブームが衰退したのか……。

とまれ、安堵して準備に掛かろうとすると……。


滋賀・湖南アルプス山中の野営適地に散乱する便所紙

配慮なき者来るべからず

やはり昨年同様、悪しき野営者の痕跡があった。炉や天幕場近くでの便所紙の散乱である。判り辛いが、写真内だけでも3箇所の捨て場があり、他にも多くの同様があった。

そして、埋めた跡がないので、当然糞便の露出も。紙の新しさから、この連休後半の仕業に違いなし。先程我々と入れ違いに野営装備の家族4人とすれ違ったが、彼らの可能性もある。山に不慣れな感じはなくゴミも片していたが、せめて埋めるくらいのことは出来なかったのであろうか。

こんなことが続けば色んな意味で早晩野営が出来なくなってしまう。以前からゴミの残置はあったが、これ程酷いのはコロナ禍以降のことである。また、炉も不必要な高温に晒され損壊を受けていた。環境保全や防火はマナー以前の問題。大人として最低の配慮も出来ない者はもう山に来るな。


滋賀・湖南アルプス山中での直火焚火
気を直して設営を続ける。そして炉に火を入れ、一先ず完了となった。今日は直前に1人が仕事の事情で来られなくなったので、荷運びや構築の負担が増したが、以前から軽量化や装備進化を図っていたので、難なく済ますことが出来た。とまれ、持ち込んだ麦酒で一息……


夜、石で作った竃の中で燃える薪。滋賀・湖南アルプス山中にて

北斗七星と共に

そして夕方から夕飯の準備にかかり、やがて焚火明りの夜に。献立は蕪豚汁に牛肉や鰆(さわら)・野菜等の焼物。勿論、薪炊きの白飯付である。

予報通り、昨晩に比して格段に気温が高く、過ごし易い夜となったが、それでも就寝前には8度程まで下がった。

夕食後、頭上の北斗七星を眺めながら飲み語らうこと暫し。その後、野営初日を終えたのであった。


2022年春野営会2日目はこちら

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2022年03月12日

伊吹雪登

春めく麓の奥に聳える雪を戴く伊吹山。2022年3月12日撮影

今冬最後?の気になる雄峰行

先月2月の末辺りから、ここ京都市街でも昼の気温が15度を超える日が出てきたが、朝晩はまだ冬の寒さであった。

しかし、今月10日に17度という最高気温が現れると漸く最低気温も上昇し始めた。そして、今日はなんど9度超えという春日になった。最高気温の予報も20度超となっており、この先もその傾向が続くとされた。

遂に冬の瓦解が始まったようである。

勿論、近辺の山々での雪解けは既に始まっていたが、朝晩の低温に守られていた根雪が融け始めるという、積雪期(厳冬期)から残雪期への変化の潮目が感じられた。

故に今日は、今季連続して続けていた雪山行の締め括りとして、隣県滋賀の最高峰・伊吹山(標高1377m)に登ることにした。本来は北陸の山や山陰の大山等にも行きたかったが、コロナ再拡大等の関係で控えた。

そもそも伊吹山は長らく「気になっていた山」。

富士山同様、列車や高速路で東方との往復をする際に必ず目にする雄峰だが、無雪期を含め今まで行ったことがなかった(何故か富士とこの山の傍を通ると、どんな時間・状況でも気づくという、個人的に「強い気配を感じる山」)。故に、今日は初めての機会となったのである。


上掲写真 春めく麓の果てに聳える、雪の雄峰伊吹。帰路の車中より。


冬期ながら8時台で既に満車状態の伊吹登山口。2022年3月12日撮影

泥濘越え雪原へ

前夜借りた車にて朝出発し、約3時間弱で登山口前の駐車場に到着。節約のため下道で来たが、週末の朝の割に交通量が多かった。

また、噂通り駐車場も既に混んでいたが、ちょうど手前に1台分の空き(空いたばかり?)があったので、すぐ停めることが出来た。

まあ、登山口から離れれば他にもあるのだが、幸いであった。そして、準備して9時過ぎに駐車場奥の山林から山に入った。


伊吹登山口から1号目まで続く泥濘の道。2022年3月12日撮影
登山口からは、すぐに「悪名高い」泥の登山路が始まる。昔施された石敷きの道が荒れて水が滞留し、多くの場所で泥濘を成しているのである。滑って転倒しないよう、気をつけて進む


伊吹山登山路1合目にある旧伊吹山スキー場のゲレンデと雪。2022年3月12日撮影
山林内に続く泥濘の悪路を抜けると「1合目」の標識と共に、建屋ある開けた場所が現れた。旧伊吹山スキー場跡である。ここから雪が現れたが、山頂へのルートはこのゲレンデ跡に続くので、それを踏みつつ進む


旧伊吹山スキー場のゲレンデの雪上に続く伊吹山登山ルートの踏み跡。2022年3月12日撮影
ゲレンデ跡を登りゆくと程なくして一面の雪景色となった。積雪は50cm以上あるが、先行者が多いためその踏み跡をゆく限りはワカン(輪かんじき)やアイゼンは不要であった。しかし暑い。防寒グローブ(手袋)無しの素手でも可能なくらいで、Tシャツ1枚のみの登山者も幾人か見られた


旧伊吹山スキー場のゲレンデ上に現れた雪を戴く伊吹山頂と、そこへと向かう大勢の登山者。2022年3月12日撮影
何面かのゲレンデ跡を登り越えると漸く伊吹山頂の姿が現れた。それにしても人が多い。まるで春山のようである。さすがは著名人気の百名山・伊吹(私はこういう格付けに関心ないが)。冬でもこんなに人が多いのか。関西・中部・北陸の交点で交通至便なことも影響しているのだろうか


旧伊吹山スキー場のゲレンデから望遠撮影した、6合目から伊吹山頂まで点々と雪面に連なる登山者の姿。2022年3月12日撮影
山頂直下の登頂ルートを望遠撮影すると左下の6合目避難小屋から点々と雪面に連なる登山者の姿が見えた。やはり冬山にしては恐るべき人出である


伊吹山6合目避難小屋の脇から山頂へと続く、雪の登頂ルート。2022年3月12日撮影
そして6合目避難小屋着。これまでも傾斜が強い場所があったが、ここからは最も強い「核心部」となるので、アイゼン(靴底氷雪爪)を装着した


伊吹山6合目避難小屋の上に続く雪の急登。2022年3月12日撮影
6合目の小屋を出て急登に挑む。速度が落ちるためか人の密度も増す。ヘルメットにピッケル(斧頭雪杖)持ちの完全装備の人も多いが、チェーンアイゼン(滑止靴底鎖)に軽装という人も少なくない。大丈夫であろうか


伊吹山7合目付近の雪の急斜上から見た、下方や彼方の湖北平野と琵琶湖。2022年3月12日撮影

急斜只中にて

写真は6合目上の急斜(7合目?)から振り返って見た下方や彼方の湖北平野・琵琶湖(右上)。今日は基本曇り予報だったが、霞はあるものの何故か晴れたままであった。

ただ、ここまで高度を上げるとさすがに肌寒くなった。雪崩等に備えて上着(中間着)や防水グローブは付けていたので問題はないが、何故か倦怠や息切れ・腹痛が襲ってきた。

思えば3時間弱の車行と2時間の山行でまだ休憩をとっていなかったが(更に前夜睡眠4時間!)、その所為か。

これはまずい、急傾斜の只中なのに……。

これまで比較的快調であった進行速度は落ち、止まっては進むの繰り返しとなった。そして、一度踏み跡横の、僅かに傾斜が緩い場所に退避し、立ったまま数分休んだ。

すると体調がマシになり、また進むことが出来た。一時はどうなることかと思ったが、雪崩危険もあるため早く動けてよかった


伊吹山8合目付近の雪の急斜。2022年3月12日撮影
無理せず、しかし早く危険な急斜を脱すべく登坂を続け、やがて8合目辺りの最も急な場所に来た。先行者の姿(先頭)で判る通り、手をつく程の急斜である。今日は雪が緩んでいたのと踏み跡が段状になっていたのでストック(山杖)のまま進むことが出来たが、新雪や凍結の際は滑落防止のピッケル使用は必須に思われた


伊吹山8合目付近の雪の急斜。2022年3月12日撮影
仰角の画像では傾斜が判り難いが、断面的な横側を撮ってみるとその急斜ぶりがわかるか……(水準器搭載カメラにて)


なだらかな伊吹山山上の雪原。2022年3月12日撮影
やがて急斜を脱し山上へ。先程の険しさからは信じがたいが、伊吹山上はなだらかなテーブルランド(卓状地)となっており、山頂は緩やかな登りの先にあった。以前登った、同じく石灰岩質の鈴鹿山脈・御池岳に似るか


雪上にたつ伊吹山山頂の山頂標識と日本武尊像。2022年3月12日撮影
そして、程なくして山頂着。山頂標識(左)と伊吹山上の象徴的存在「日本武尊像」(右)が出迎え、それを証する。いずれも厳冬期は着雪・着氷してその姿が判り難くなるらしいが、今はプラス7度の気温のためこの通り。ただ、登坂時とは打って変わって風が物凄く、居られない寒さであった。なかなか丁度良い塩梅とはならないようである


伊吹山山頂から見た伊吹山地北方の雪山。2022年3月12日撮影
伊吹山頂からみた伊吹山地北方。左奥に滋賀県第2位の高さを誇る金糞岳(かなくそだけ。標高1317m)が微かに見えるが、何れもここ以上の冬山ぶりであった。まあ、有数の豪雪地帯なので当たり前ではあるが……


伊吹山山頂から見た南方は滋賀側山麓や鈴鹿山脈。2022年3月12日撮影
こちらは伊吹山頂からみた南方は滋賀側山麓や鈴鹿山脈。南北どちらも霞んでいるが、南の方が少々強めか


伊吹山山頂から見た南方は滋賀側山麓や鈴鹿山脈。2022年3月12日撮影

山上の休息

山上は広くなだらかで、長椅子などの設置もあったが強風により休めないので、登山者は皆冬季休業中の小屋の間にて昼食をとっていた。

私はせせこましい場所が嫌いなので別を探したが、無かったため、結局少し外れた建屋陰で昼食兼休息をとった。

屋根まで雪が迫るこれらの小屋は登山用というよりは遊山向け。実は、伊吹山には山頂裏までドライブウェイが通されているため無雪期には労せず遊びに来られる。

昔から気になりながら未踏だったのは、そういった遊園地的雰囲気を忌避したためである。よって、環境は厳しいが今回のように俗気がないのは本望であった。ただ、名物の稀少植物を見れないことは少々残念に思われた


伊吹山上から旧スキー場へと落ち込む急斜の雪面とそこを下る登山者。2022年3月12日撮影
伊吹山上から旧スキー場へと落ち込む急斜の雪面と慎重に下りゆく登山者

早く終えるも……

昼食後、すぐに下山を開始。

下りは6合目までの急斜でピッケルを使用したが雪質的にアイゼンがよく効き、安全かつ素早く下降出来た。ただ、陽射しと気温の所為か、最上部付近で小規模な雪崩発生を目撃したので、周囲への警戒に努めた。

そして、14時過ぎに駐車場着。休息を除くと4時間程の山行となり、途中難儀した割に早く終えることが出来た。麓の三之宮神社にも無事を謝す。

その後、神社前の洗い場にて最後の泥道で汚れた靴等を洗い、水分と栄養を補給して帰路に就いた。ところが……。

その先の至る所で渋滞に見舞われ、折角早く下山出来たのに結局18時頃の帰宅となった。まだ観光時期ではないが、急に暖かくなったので皆の外出が集中したからであろうか。

本来はこれを避けるためにも列車で行きたかったが、週末は登山口までのバスが無かったのである。

とまれ、山行及び苦手で慣れない車行を無事完了出来て何より。積雪期というより、雪質や気温条件的に既には残雪期の趣であったが、念願の伊吹登頂とその雪景堪能を果たせた。

また、飲水量の急増や体温調整の難しさなど、季節の変わり目特有の課題を改めて認識することも出来たのである。

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2022年03月05日

雲取難雪

京都北山・芹生奥の林道脇の樹に付けられたウクライナカラーの道標。2022年3月5日撮影

山には無関係ながら……

今日も先日に続きウクライナ・カラーを。

今日の記事とは直接関係のないことだが、孤立無援の現場で悪辣な利己主義暴力との戦いを強いられている彼の国の人々への連帯の意を込めて。

実は、この画像は特にその為に用意したものではなく、今回本当に道中偶然見つけたもの。山中の林道脇に付けられた古い目印であった。個人か何かの団体が取り付けた私的な道標とみられる。

奇しくも、そして折よく、こんな無縁の山中で繋がったウクライナ。こうしている間にも、現地では正に死闘を余儀なくされている。

そんな彼らへの支援と関心を忘れないようにしたい。これは彼らのみならず、我々の自由や平和のための戦いである。不正義を見逃し、社会を100年後退させるようなことを断じて許してはならない。


両脇に雪が多く残る京都北山・芹生峠。2022年3月5日撮影

一月振りの雲取山

さて、今日は一月振りに近場は京都北山の雲取山群(最高標高920m弱)へ雪中鍛錬に向かった。

市街から見る北山の雪も、ここ最近の温暖で殆ど消えていたが、彼の貴船の奥で京盆地北縁にある芹生峠(せりょう・せりうとうげ。標高約700m)には、写真に見る如く、意外にもこんなに雪が残っていた。ただ、路面には無いのでそのままノーマルタイヤの車輌で進めるかと思いきや……。


ノーマルタイヤ車輌の進入を未だ阻む、京都北山・芹生峠北裏のアイスバーン。2022年3月5日撮影
うーん、芹生峠の北裏からは、なんとアイスバーン状態となり、進めなくなってしまった。仕方なくここからまた歩いて山へと向かうこととした。前回よりまだ近い場所とはいえ、長い車道歩きをまた強いられることとなったのである。麓は春めいているというのに、やはり恐るべし京都北山!


50cmを超える雪で埋もれる、京都北山・芹生集落の旧芹生小中学校前の橋。2022年3月5日撮影
転倒に気をつけつつ府道を歩き、やがて芹生集落に着くとやはり雪が……。旧芹生小中学校前の橋には未だ50cm以上の雪が通行を阻害していた。勿論今日は雪目当てで来たが、集落に於ける雪の多さは意外であった


20cm程の雪で埋もれる、京都北山・芹生集落奥の林道。2022年3月5日撮影
その後、芹生集落奥の林道へと進むが、除雪範囲外のため、すぐに多量の雪に足を取られることとなった。まともな積雪は山頂直下辺りからと予想していたので、これも意外であった。林道の雪は厚さ20cm程だったが、融解の所為か、新雪の如く沈み易く、歩き難かった


京都北山・雲取山山中の三ノ谷分岐と残雪。2022年3月5日撮影
ワカン(輪かんじき)を履くのを我慢して歩き難い林道を進み、山頂下の登山口に続く三ノ谷分岐に到着。見ての通り、地面が露出した場所もあるが、この先、装備転換の適地がないため、ここにてワカンを装着した


京都北山・雲取山の三ノ谷と山頂直下へ続く谷との分岐部分と積雪。2022年3月5日撮影
分岐から三ノ谷の林道を北上するが、ワカンを履いてもあまり疲労は変わらず。やはり浮力を得難い雪質のようである。そして林道から別れ、いよいよ山頂直下に至る谷の入口となるこの分岐に到着。やはり雪が多い。一月前の自分の痕跡は疎か、ここ最近人が入った痕跡は全く見られなかった


京都北山・雲取山三ノ谷ルート上の山頂直下の雪の急斜。2022年3月5日撮影
気温が高めなため雪崩に気を遣いつつ谷を詰め、やがて山頂直下の急斜下に。林道から変わらぬ浮力のない雪に足を取られつつ進む。危険性を考えると早く抜けるべき場所だが、雪と急斜の所為で速度が出ない


京都北山・雲取山山頂と積雪。2022年3月5日撮影
そして、山頂着。見ての通りツリーホール(樹周穴)も見られたが、基本的には厚く雪が残っていた。また山上は風があり気温の割に寒かった。峠から2時間強かかったが、その内約三分の二が府道&林道歩き。雪が締まって楽にこれるかと思ったが、予想外に体力と時間を費やした。やはり山は侮り難い。まあ色々と対策や心積もりはしていたのではあるが……


京都北山・雲取北峰山頂と積雪。2022年3月5日撮影
雲取山山頂では休まず、そのまま稜線を北に進み雲取北峰(標高約915m)山頂まで移動した。ここも豊富に雪があり、未だ冬の姿そのものであった


雲取北峰山頂から見た、雪に覆われた比良山脈最高峰の武奈ヶ岳。2022年3月5日撮影
雲取北峰山頂から見た、雪を纏う比良山脈最高峰・武奈ヶ岳(ぶながたけ。中央奥の鋭角の峰。標高約1214m。滋賀県西部)

難儀も鍛錬・経験
そして……


雲取北峰の風裏にて遅い昼食をとり、また元来た道を帰った。今日はワカンが効き辛い予想外の雪質に難儀したが、これも鍛錬のうち。結果、また山の奥深さを再認識する良い経験ともなった。

また、雲取山以北の山々も未だ完全な雪山景だったことも意外であった。

さて、今回も冒頭に関連し、以下を記して閉めたい。

ウクライナと自由に栄光あれ!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 山会

2022年02月27日

雪中捜検

比良川河岸付近の山麓よりみた、山上に雪を戴く堂満岳と比良山脈の山々。2022年2月27日撮影

雪山の落とし物探し

今日も朝から雪山へ向かったが、今回は登山が目的ではなかった。

先月初めに隣県滋賀西部にある比良山脈の堂満岳(暮雪山。標高1057m)山行の帰路にストック(山杖・トレッキングポール)の一部を失くしたが、その回収に出向いたのである。

まあ、過日記した通り、恐らくは回復不能な故障があったので、回収しても使えない可能性が高かったが、放置して山のゴミにするわけにもいかず、早期の回収を試みることにした。

さて、ここ数日温暖な日が続き、今日も冬装備の無い車輌で麓まで急行できたが、平地より気温が低く、あの後また積雪が数度あった山中の様子は不明であった。

果たして、上手く回収できるや否や……。


上掲写真 比良川河岸付近の山麓よりみた比良山脈と堂満岳(中央の鋭角の峰)。今日は前回とは逆コースとなる、山頂右の正面谷から登って山脈鞍部の金糞峠に至り、そこから稜線を左に進んで山頂に至る道をゆく。即ち、前回落とし物をした下山区間を辿り、その探索を行う。


積雪ある比良山脈・正面谷駐車場上の林道。2022年2月27日撮影
前回同様、峠の凍結を警戒して朝遅めの時間に麓に着き、山に入る。この様に駐車場のすぐ上から積雪が始まるのは前回同様で、同じく途中で一部禿げた区間が現れ、それが終る辺りでアイゼンを装着して進んだ。


比良山脈・正面谷上部の青ガレ下部の雪原。2022年2月27日撮影
砂防ダム脇に付けられた林道が終ると、いよいよ見上げるような急登に。前回と雪の量は変わらず、踏み跡を辿る限りワカン(輪かんじき)が不要なのも同様であった。ただ、気温が高めのため、雪崩を警戒し、上方の異変や音に気を配りつつ進む(この日、近江西部に雪崩注意報は無し)


雪に覆われる比良山脈・金糞峠。2022年2月27日撮影
正面谷の急登を詰め、やがて金糞峠(かなくそとうげ。標高約880m)に到着。ここも、雪の量や質に変化なし。前回以降に降った雪は融け、前回同様、根雪部分が残ったのか。ただ、よく見ると若干新雪が覆っているようにも思われた


比良山脈・堂満岳山頂裏の雪の尾根や雪庇。2022年2月27日撮影
金糞峠西南の堂満岳山頂裏の尾根もこの通り。多くの雪や雪庇が健在。しかし、左右に注意しながら進むも遺失物は見つからず


雪で覆われる比良山脈・堂満岳山頂。2022年2月27日撮影
そして、間もなく山頂に到着するも、結局探し物は見つからず。雪に埋もれてしまったのか。それとも、そこそこ大きさがあり、目立つものなので、誰かが拾ったのか。麓のレスキュー小屋にでも問い合わせるか。仮に、誰かが収得し活用していても、ゴミになるより良いのだが……


吹雪に見舞われる、比良山脈・堂満岳山頂裏の雪の尾根。2022年2月27日撮影
山頂で昼食を済ませ下山を始める。本来は別路を採りたかったが、再度探すため同じ道を下ることに。ところが、山頂に着いた辺りから風が強くなり、帰路にはこの様に吹雪まで発生した。稜線付近の気温は-2度程だったが、身体を煽られるほどの風を伴ったので、忽ち手足が寒さで痺れだした。やはり、山は侮り難し


金糞峠下部、正面谷上部の青ガレ付近より見えた琵琶湖や沖島等。2022年2月27日撮影
金糞峠下部のガレ場「青ガレ」付近から見えた琵琶湖や沖島(左上)等

風と雪は収まるも

強風と吹雪の寒さに耐えつつ金糞峠から正面谷に入ると嘘の様に風と雪が静まった。その後、また雪崩を警戒しつつ麓まで下るも、結局、目当ての探し物を見つけることは出来なかった。

こうして昼食を覗く約3時間の雪中捜査は終了。仕方ない、成果はなかったが、鍛錬でもしたことにしよう。もし、小屋等への問い合わせが不調に終われば、雪解け後にでもまた再捜索したいと思う。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 山会