2024年12月25日
北山登終始
本年登り納めと今季雪山初登り
年の瀬が迫ってきたが、不意に時間が取れたので、山の登り納めをすることにした。
向かったのは近場の京都北山。先日その冠雪を報告していたが、同地での今季初の雪歩きも意図したのである。
上掲写真 木漏れ日射す京盆地北縁奥の雲取山(標高911m)山頂北雪面。
本来はバスで行きたかったが、昨晩帰りが遅かったので車輛で行けるところまで行き、そこから徒歩行とすることに。写真は京盆地北縁峠の一つ、芹生峠。標高700m、雪はあるが、期待した程ではなく、行く先を案じる
芹生峠の車道を北に下ると芹生集落に。ここも大して雪がなく、ワカン(輪かんじき)やアイゼン等の重量装備の携行を後悔し始める
ところが、集落奥の林道から雪が増え始め、標高700m手前辺りからかなりの量に。ただ、伐採関係者の足跡があったためワカンまでは不要であった
しかし、林道が終り純粋な山道区間に入って人跡が絶えると忽ち深い雪に足をとられることに。しかも山頂まで続く急登区間の始まりであった
5mも進めば疲労が増大したので、堪らず雪上に背嚢を置き、ワカンとアイゼンの装着を行う。だが、それでもこの通り膝まで雪に沈む有様であった。完全なる新雪状態。雪崩に気をつけつつ、急斜の谷を徐々に進む
谷を詰めるに連れて雪は増し疲労も増大。僅かな距離だが雪山初登りから雪まみれになってしまった。京都市街は疎か途中の山間からも想像出来ない状況である。これぞ、北山の奥深さか。途中で引き返さなくてよかった
やがて雲取山山頂着。意外にも先行者の足跡はなし。平日の今日と違い、日曜辺りの痕跡があるかと思っていたが、その後の降雪で埋没したのか
見晴らしがなく、どこか落ち着けない雲取山頂では休まず、更にふた登りする雲取北峰まで進み、そこを休憩・折返地とすることにした。そして、程なく辿り着いたその山頂も、この通りの雪景色であった
日本海・太平洋気候の境
雲取北峰山頂にて今日最初で最後の休息をとる。雪面を掘り、湯を沸かして作る即席麺での昼食兼用である。別に休憩・食事共に無くてもよかったが、まあ儀礼的に。
到着当初は吹雪の所為か北方彼方の比良山脈は見え難かったが、暫くすると、写真の様にその最高峰・武奈ヶ岳(ぶながたけ。中央。標高1214m)まで見え始めた。あちらも盛大に雪が付いており期待出来そうである。
今日はこの雲取山辺りが気象の境か。晴れた南方・京都市街方面を時折眺めつつ、正に京盆地北縁が日本海気候と太平洋気候の境であり、北陸気候との境界であることを実感できた。
こちらは同じく北峰山頂から見た比良山脈南部諸峰。左から蓬莱山・ホッケ山・権現山等が続く。正に滑雪場がある蓬莱山に多大な降雪が認められたので、その活況が窺えた
雪解けの雨降る雲取山南麓植林地
温暖市街にて夢の如き近山雪行振り返る
雲取北峰での休息後、来た道を返す。殆どが下り、また自身で作った踏み後があったので、素早く下山出来た。
その後、駐車地まで長い車道歩きがあったが、それでも、朝遅く出ながら十分陽がある時間に帰宅することが叶ったのである。これぞ近場の良さ。
まだ氷雪付く道具を片付けながら、温暖な市街にて、夢の如き登り納めと雪の初登りを振り返ったのであった。
2024年11月09日
雲取奇遇
秋晴れの代替休日
月末の催事に向け忙しくなる頃だが、仕事を進めるための返答が来ない。また、今日は晴れで明日は曇り予報だったので、今日の作業を明日に替え、軽い鍛錬がてら、近山の紅葉具合でも視察することにした。
向かったのは京都北山。京盆地北縁奥に広がる山々で、丹波高地とも呼ばれる標高1000mに届かない場所だが、日本海気候の影響を受ける北陸的場所なので、そろそろ色づいているとみた。
果たして、その結果や如何に……。
上掲写真 京都北山・雲取山の北にある、眺望良き雲取北峰(標高約915m)山頂上の秋晴れを飛ぶ航空機と飛行機雲。
車輌で貴船奥の芹生集落を越え、嵐山の水景で知られる大堰川(桂川)の上流・灰屋川の源流域に着く。そこから林道を辿り付近の最高峰・雲取山(標高911m)を目指すが、珍しく林業作業(伐採)が行われていた関係で重機による凹凸や泥濘ある路面状態であった。ただ、台風倒木等の障害も撤去されており、また休みの所為か作業との干渉もなく比較的早く進めた
林道が終り、純粋な山道に入る。「道」とはいえ、人通りが殆どない場所なので、獣道程度か、それすらない谷筋を進む。平成末の台風被害のあと更に荒れ、近々通行が難しくなりそうなので注意すべきルートである。標高は750mを超えている筈だが、頭上の樹々はまだ緑であった
更に無人の谷を詰めると、漸く色づいた樹々が現れた。標高は850m辺りか
雲取山上
そして雲取山山頂着。ここの紅葉具合は写真の通り。風の強い場所なので、既に散ったものも見受けられた。
時は丁度正午頃だったが、眺望もなく、3名の別路先着者がいた雲取山頂では休まず、その北にある北峰まで進む。そして、辿り着いたその山頂はこの通り。当然ここも吹きさらしなので、紅葉具合の参考にはし難いか……
雲取北峰山頂からの見た、北方手前の地蔵杉山(右向こうの三角の杉山。標高899m)等の丹波高地及び彼方の比良山脈(最奥の稜線)。年に何度もないような温暖で素晴らしい天気なので、疲労はないがここで軽食休息に。奥の天然林は無論、手前の立体感ある北山杉の緑が美しい
上掲写真左奥を望遠拡大。先週、琵琶湖側から登行視察した比良山脈最高峰・武奈ヶ岳(標高1214m。中央)方面を見る。先週より赤味が進んだ気もするが、まだ足りないか……
こちらは、同じく上掲写真右奥を望遠拡大。比良第3位の高所・蓬莱山(右奥。標高1174m)と、その手前の北山最高峰・皆子山(みなこやま。中央奥一つ手前やや左の天然林頂。標高971m)で、武奈ヶ岳辺りと同様に見えるが、これから紅葉が進むのか、これで終るのかは判らず
色づく二ノ谷道
誰もいない雲取北峰頂での昼食を終え、下山に。帰りは雲取山頂まで戻り、そこからは別路の二ノ谷道に下った。すると、山頂近くの明るい灌木の林を過ぎたあと、写真の様な美麗の紅葉林が現れた。
二ノ谷道の紅葉林。結局ここが今日一番の色づきとなった。ただ、楓の枝先だけ赤く、他は黄いろかったので、まだ始まったばかりかもしれない
二ノ谷道の紅葉林を抜け、下降を続ける。途中、某大学小屋前に数多集う現役生やOBらと挨拶を交わしながら。彼らが租借しているからか、珍しく林道が無く、天然林が多い、昔の北山風情残す貴重な二ノ谷に入り、進む
両生類調査女子が見せてくれた成体のヒダサンショウウオ
貴重な天然林谷での奇遇
高度が下がり、また青葉多い森と化した二ノ谷を進む。すると、前方から地を叩く派手な音が……。
見れば、谷なかの樹々の合間で明るい髪色をした小柄かつ、うら若き女子独りが、何やら工具で斜面を掘っている。道沿いのため近づくと挨拶されたので落とし物か何かかと問えば、両生類の生態調査をしているという。
なんと、珍しい……。
小屋関係の学生さんかと訊くと、京都の大学出だが小屋の学校とは無関係で、既に社会人であるとも言う。これはただの登山者より断然興味深く、為になるので、自分も在野の文科研究者だと自己紹介をして更に話す。
なんでも、ここらの両生類には2種の越冬型があり、今時分はその両方が地中に居るため調査に適しているという。また、環境が良いこの山域も調査に適うらしい。なるほど、時期的な良さと、二ノ谷の自然が役立ったか。
邪魔を詫び、後学の礼を述べ、また沢筋を進むと、後方で女子が大きな声を上げ、走り、追いかけてきた。何か忘れ物でもしたかと、こちらも急ぎ戻って沢上で出会うと、なんと彼女の手のなかに動くものが……。
「いました、いました!」と興奮気味に掌を開き見せてくれたのは、まさに地中にいた両生類であった。それは、山椒魚の一種、ヒダサンショウウオらしく、絶滅危惧種ではないが、日本固有種とのことであった。
山椒魚といえばオオサンショウウオしか知らなかったので、他種が身近にいるとは知らなかった。また彼女は、それとは異なり、この種はこれ以上大きくならないことや、外来種との交雑はないことなども教えてくれた。
その後一度別れるが、今度は私が再度戻り、思いついた希望を伝える。それは、ここが貴重な場所であることや、こうした場所の破壊を目撃したら声をあげて欲しいとのお願いであった。以前遭遇した安祥寺山破壊の実例を挙げて。彼女は国有林が公儀に破壊されたことを驚いて聞いてくれた。
その後、再度の邪魔を詫び、沢を下った。二ノ谷の入口で、彼女の仲間らしき女子らと灰屋川を挟んでの挨拶を交わしつつ……。
憂鬱払う存在に感謝
奥山での不意の出会いながら、濃密な時間が過ごせた。これも山、または人生の醍醐味か。そして、稀少な快晴と良き出会いに、いつしか気分が晴れたことに気づき、それまでの鬱々とした感情の原因に思い至った。
それは米国の元大統領の再選である。連日見聞きさせられていた口汚く屁理屈だらけの言動の主が、まさかの勝利を得たことであった。物価高に喘ぐ庶民の切なる想いの表出ともいえる結果ではあるが、どこか短絡的現世利益に世界が呑まれたような気がして、暗澹たる気分にさせられていた。
しかし、今日こんな山奥で、何の利もなく足労し、休みを潰して土まみれになりながら、小さな生き物のため、自身の志のために人知れず活動する若者たちの存在を知ることができた。それだけでも、この世は生きる価値があると思わされ、救われた気分にさせられたのである。
実は、当初こんな貴重な快晴日に、人けのない山に入ることを少々躊躇していた。しかし、予想外の出会いを得た。まさに、世の中捨てたものではないことを、馴染みの奥山にて、奇しくも実感させられたのである。
真摯で可憐な探究者たちに感謝!
駐車場所に下り、その後通過した芹生集落。標高620mのここも秋晴れに包まれるが、錦秋の到来はまだ先か
北山南部の紅葉は山上近くで始まるか
最後になったが、京都北山南部の紅葉は、その最高所近くの標高800m以上の場所で始まったばかりといえそうか。
2024年09月29日
'24奥黒部行(四分之四)
山行最終日。先ずは登頂から
奥黒部行4日目。
山行は今日が最終日となる。昨晩は、日没後も暫く談話した女子組や他の登山者同様、20時頃に天幕内の寝床に入ったが、意外に長く寝られた。
高地の夜に身体が慣れてきたか、はたまた連日の重荷行に疲れてきたのか……。まあ、寝たように感じただけかもしれないが、起床の3時半になっても調子が良かったので、良しとしよう。
日出前の暗中、天幕内で朝食等の準備をし、4時半過ぎに天幕を片した。本来は暗中の撤収や行動を避けていたが、今日は12時間行動の予定で、中途日没の危険もあったので仕方なし。
上掲写真 珍しく(というか仕方なく)早朝登頂に挑んだ黒部五郎岳の圏谷内の岩。石灰岩のように見えるが、地質図では火成系の斑糲岩(はんれいがん)か閃緑岩(せんりょくがん)という。右背後に見えるのは奥黒部一の高峰・水晶岳(黒岳。標高2986m)。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
朝5時前の黒部五郎小舎。山小屋の朝は早い。その窓内には既に活発な人の動きが見え、玄関前には出発準備をする人、また既に五郎岳に向かい出発した人の照明が暗中に続いていた
今朝は珍しく予定の5時、正確にはその1分前に出発出来た(笑)。これも最終日の緊張感、または時間行程的に後がない危機感の所為か。先行者と同じく頭灯を点してすぐに登坂となる道を進むが、この様に、程なく薄明るくなってきた。岩の多い道に、高山特有の遭難防止用の円印が続く(中央)
更に進むとまた明るくなり、見上げる先に山頂が見えてきた(中央)。ただ、時間・距離的にまだ遠い筈。電灯をしまい、また進む
圏谷と岩の殿堂へ
足下がはっきりしてきた登山道を独り無心に登る。すると、やがて山頂直下の著名な圏谷が、写真の如く現れた。
そして圏谷内の横断に入る。岩だらけの、広いクレーター底をゆくが如し。しかし、空模様が少々怪しい。実は、昨晩小屋の予報で今日15時から雨が降ると知ったので、その懸念や先を急ぎたい気持ちがあった
圏谷横断中、突如背後が明るくなった。雲間からの日の出である。左に見える岩は有名な雷岩か
日の出により、前方に聳える黒部五郎の主峰塊も朝日に照らされ忽ち明るくなった。何やら、劍(つるぎ)に似た雰囲気。同じく、岩の殿堂と呼ぶに相応しい雄々しい姿である
圏谷横断の先には、その縁に続く急登のつづら道が現れた(中央右の岩上から斜め左に稜線へ上る筋)。少し気が重くなるが、急に天気が良くなってきたのは幸いであった
黒部五郎岳山頂に続く枝道からみた縦走路峠の「肩」部分(中央)
五郎岳肩での再会と好天の山頂
予想通りキツく、そして落石も案じた圏谷縁の急斜を登りきり山頂横の肩部分(縦走路峠)に出た。標高は2760m超、夜露に濡れた天幕類が重い!
ここから山頂までは高さ70m程の緩やかな枝道登りのみなので、他の人同様、荷を置き身軽に往復することにした。そこでは私より早く出発していた女子組とも再会。挨拶し、互いに撮影協力をするなどした。
ただ、彼女らはここで満足し山頂には行かないため、暫く話したのち別れた。それも個人の好み、スタイルであろう。ここまでくれば、もはや山頂と雰囲気や景色は然程変わるまい。
肩の岩陰に重荷を置き、記録用GPSが作動中の電話と撮影機材のみ持って山頂に至る。奇跡的?に天候が良くなり本当に良かった。薬師岳再失敗が最後に報われた気分である。いずれ登るつもりの「気になる山」、笠ヶ岳(右奥の鋭角峰。標高2897m)等の周辺景も申し分ないものであった
そして眼下には先程横断した名物的圏谷の全貌も。雲ノ平周辺に残る火口でも隕石孔でもない、その名の通り、日本では珍しい氷河浸食による地形であった
また、山頂北方には山行初日に接した薬師岳(左向こうの山体)に、その右奥の立山連峰等も見えた。あたかも、初日の好天に戻った気分である
更に、山頂西南には霊峰・白山も(中央奥)。雲海に浮かぶ姿だったが、これも初日同様であった
長大かつ雄大な主稜線歩き
到着後すぐに先行者が去り独占状態だった黒部五郎山頂から、荷を置く肩へ下り戻る。そこにて少々行動食を摂り、また先へ進んだ。
次の目標は、薬師岳手前の主稜線上では最高所となる北ノ俣岳山頂である(写真中央最上部)。肩から見たそこへの道程は、なだらかであり、また長大かつ雄大に感じられた。
黒部五郎山頂の肩から西北に続く稜線をひたに下る。稜線上のとある鞍部に達し、また登りとなって暫く、後ろを振り返ると、はや遠くなった五郎岳の肩やその隣に突き出た山頂が見えた。黒部深部も遠くになりにけり――。少々そんな感慨を覚えた
黒部五郎・北ノ俣間の稜線上から見えた(撮影は望遠)黒部源流谷とその左の雲ノ平や背後のワリモ岳に鷲羽岳、右の三俣蓮華岳等の奥黒部の高地
同じく稜線上から見えた雲ノ平とその背後の水晶岳(中央最奥、左の峰)
続く稜線上の再会
途中、稜線上の最低鞍部・中俣乗越(なかまた・のっこし。標高2450m)を越え、標高2622mの赤木岳に至る。
その手前では、高天原で交流した夫妻組と二日ぶりに再会。彼らは私と逆方向から黒部五郎を目指したので、この区間ですれ違うことは双方承知であった。挨拶し、暫し語らう。夫氏はビールの飲みすぎで腫れた顔を、黒眼鏡を外して自虐的に見せ、和みを供してくれた。
そして、赤木岳では休息中(お菓子タイム?)の女子組に追いつき、また少し交流。私はそこで休まず、少し先の駐車場への分岐に近い北ノ俣岳山頂で昼食予定だったので、更に進んだ。今度は私が追いつかれる予定のため、お別れは暫しお預けで……。
やがて北ノ俣岳山頂着。時間は10時だが、休憩する先行者が多く、また風が強く寒かったので、撮影のみし、もう少し進むことにした
北ノ俣岳山頂北にある神岡新道分岐前の木道と奥黒部の山々
さらば有縁の人、そして奥黒部
そして、結局少し進んだ分岐で休むことにした。風はあったがマシで、またこれ以上進んで(下って)も結局ここに戻らねばならぬので決定した。
ハイマツ際に荷を下ろし、独り彼方の奥黒部全景を眺めつつ、今回の山行最後の簡易手作りバーガーと即席珈琲で早めの昼食を済ませた。
これから奥黒部の外輪的な主稜線を逸れ、外側に下るので、黒部深部の山々は見納めとなる。よって、今一度名残りの観望を行う。先ずは今来た黒部五郎岳方面を見る。朝は天気が良かったのに、山頂ははや雲に覆われている。これから登る人は気の毒だが、やはり高山は朝登る方が良いのか
こちらは初日目指した薬師岳(中央)方面。曇天ながら山頂は見えている。この4日間の山行でこれら奥黒部の山谷をぐるりと周ることが出来た。雨にも遭わず有難い限り。午後からが心配だが、まあ後は下るだけ……
名残りの観望をし、撮影等を行っていると、女子組が現れた。このまま稜線を進み、富山・折立へ下る彼女らとはここで本当のお別れとなる。
地元の山への勧誘を受けるなどして名残りの交流となり、そして最後は、何度も接した縁の記念に、集合撮影も頼まれた。思い出の、高天原縁の水晶岳を背に。
さらば有縁の人、さらば奥黒部。またいつの日か……。
雲迫る下山
女子組と別れ、荷をまとめて独り下山路に入る。分岐から50m程進んだ写真の下降始点からは、麓に押し寄せる厚い雲が見えた。
見えているのは寺地山等の標高2000m以上の場所のみ――。
まずい、予報に反し、寺地山から先の尾根は既に雨に降られているのではないか。長い泥道の悪化を憂い、またその手前にある転倒必至の木道濡れを恐れた。
ハイマツの中の急斜道を急ぎ下り、湿原帯の下りに入ると、進む先の寺地山後方尾根の雲が晴れてきた。助かった、どうやらまだ雨は降っていないようである。まだ油断出来ないが、少なくとも直近の木道歩きは乾燥状態で遣り過せそうである。そして、その通り木道を通過して湿原を下りきると、避難小屋分岐の傍で今日最後の休息をとった
ところが、寺地山からの尾根道に入ると、また雲が迫ってきた。予報の15時よりまだ早い時間だったが、今度こそ危ういか
背後・最後の一撃?
長く足下の悪い樹林の尾根道を進むが、往路より水気が減じて歩き易い。どうやら、あれから雨が降らず、乾燥が進んだようである。ただ、いつも滑りやすい特有の堆積岩のような石には最後まで気を遣わされた。
登り返しが多い道に疲れてきたが、雨のことや元来腰掛ける場所もないため我慢して進む。すると、後方から喧しい鈴の音と足音が接近してきた。
主稜線から下る時少し間を置き1人追ってきたが、その人物が尾根道以降走り始めたらしい。そのまま横を通過してもらおうとしたら、後ろから挨拶され、話しかけられた。30代前後の女性で、何時山に入ったのかと訊く。私が木曜(9/26)からだと言うと、「おおっ、一周」と返してきた。
彼女自身は、私と同じ起点から薬師と黒部五郎を1泊の野営で踏んできたらしい。中々の快速である。背嚢は野営装備に見えぬ小振りだったが、最新の軽量化がされているのか。
ところで、彼女の話ぶりが気になり、ずばり大陸語で出身を訊くと、まさに広西の人であった。私も訊かれたので、地元(広く日本人の意)と答えたが、こんな奥山でいきなり母語を返されたので、驚いた様子であった。
容姿的に南方民族(壮族?)のようにも見えた彼女は、身の熟し等から長く日本に住む人と思われた。その後、互いに無事を述べ合い、別れる。分岐から独行し対向者もいなかったので、野獣を警戒していたが、喧しくも軽快に走り去った彼女が露払いしてくれたようで気が楽になった。
しかし、私も少々驚かされた。外人で喧しい京都から奥山に来て漸くそれから逃れたのに最後に捕捉された気分に(笑)。コロナ以降、諸費高騰のせいか高山で外人を見なくなったが、こんなマニアックな登山に参入している人(しかも女性)がいるとは、正に背後かつ最後の一撃であった(笑)。
下山。麓の余韻楽しみ帰路へ
下りの筈なのにやたら登り返しが多く、いい加減怒りさえ覚える尾根道を進むこと2時間強。漸く出発地で終着地の飛越トンネル駐車場に到着した。
時間は14時45分。急いだせいか、予定より2時間以上も早く到着できた。また、結局雨にもやられず、幸いであった。ただ、休憩を省いたため、背嚢の固定帯が当る肩や腰、そして下りで圧迫される足の指から血が滲んだ。
これは今後の課題を明らかにした。今回は歩行距離60km弱、登坂累計5000m弱に達したが、猛暑での歩行鍛錬の所為か、体力的には問題なかった。それより荷の重量や装備の適合・用法に問題あることが判明した。これらは、山行の安全と楽しさのため、早急に改善せねばなるまい。
さて、来た時より車が減った駐車場で着替え等の準備をして一先ず車行で麓集落まで下る。駐車場はまだ伊吹山頂を凌ぐ高所にあり、携帯電波も届かない奥山のためである。
昨年の事故の反省から今日はどこかで充分寝て帰る予定であった。一旦電波がある集落まで行って下山連絡を済ませ、以前から気になっていた食堂で地元産獣肉料理を食す(ここもまだ標高900m程の奥山集落)。大変美味しく、かつ良心的な価格であった。ここでも、またお店の人と交流。
やはり、急いで帰らず麓の余韻を楽しむのは良いことである。山や土地へのより深い理解にも繋がるだろう。そして、飛騨山脈及びその麓集落と別れ、土産購入や入浴のため、更なる下界へと向かった。
山よ、人よ、有難う!
「'24奥黒部行」1日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」2日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」3日目の記事はこちら。
2024年09月28日
'24奥黒部行(四分之三)
黒部源流経て五郎岳麓へ
奥黒部行3日目。
日本最奥温泉最寄りの高天原山荘では、寝られないとの思いに反し、意外とすぐに寝ることが出来た。前泊の車中泊を含め、数日振りにちゃんとした布団や毛布ある環境だったからか。
ただ、熟睡したのは消灯の20時から22時までの2時間のみで、そのあとは結局寝られず、外で星を観たり、布団でじっとしていたりした。
それには一晩中続いた同房者の鼾の問題もあった。皆疲れているので、お互い様のことだが、一晩中は異常。周りの迷惑になることは無論、自身も寝ていない筈なので、激しい運動である高所登山に来るのは危険である。無呼吸症候群の可能性もあるので、まずは診察を受けるべきだろう。
さて、狸寝入りを続けていても仕方ないので、早発の人らが準備を始める4時頃に布団を出て、山荘前の露台で月を眺めるなどする。今日は行程や時間に余裕があるので、朝はゆっくりすることにしていた。
外はまだ真っ暗だが、三日月と逆向きの月が出ていて少し趣があった。写真は露出の関係で満月のようになっているが……。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
小屋前の卓で顔見知りとなった他客と話したりしていると、空が明るんできた。しかし雲が多い。右奥の水晶岳山頂にも不穏な雲が載っている。前夜受付と小屋本部の太郎平小屋との無線連絡を聞いていたが、今日から降雨確率が増すとの予報だったため心配となった。とまれ湯を沸かして珈琲を飲み、朝食を食した。小屋食も5時から始まっていた
高天原山荘二階客室(大部屋)。大多数を占める小屋食の人達より早く朝食が済んだので空いた部屋での準備となった。外は明るくなったが、階段前に一晩中ランプが灯されていたのは有難かった
小屋泊と小屋の存在見直す
今回自分が泊った大部屋は満室のようだったが、二人分の区画を使えたため荷物置場等が確保でき快適であった。
コロナ禍以降の標準かもしれないが、これなら経費上昇分を含め倍額以上の値上げは腑に落ちる。また雲ノ平山荘同様、近年建替えられており、美麗な空間や生分解式水洗便所等の設備を考えると更に不満は減じた。
コロナ禍を機に、これまでの詰込みで安かろうから、質の時代へと舵をきったのであろうか。ここには野営場がないため仕方なく泊ったが、結果、小屋泊や小屋そのものの存在を見直すことが出来た。
高天原から岩苔乗越へと続く亜高山帯植生に満ちた樹林道
朝7時に高天原を出る予定を前夜6時に早めたが、結局出たのは昨日と同じ6時20分過ぎ。起床してからあれだけ時間があったのに何故そうなったのか定かでないが、それだけ去り難かったのか(笑)。
とまれ今日の目的地・黒部五郎小舎目指して進む。昨日来た道を辿り、渡渉前の分岐から岩苔乗越(いわごけ・のっこし。峠)への道を進んだ。
そこは初め通る道で、3年前に乗越上から見て以来通りたかった、沢伝いの森の道であった。
秘境景勝地「水晶池」
分岐から足下が湿地的な樹林を進むが、暫くすると急斜を巻きつつ登る道となった。そして、それを登りきると植生が変化し明るい樹林となったが、同時に水晶池への分岐が現れた。
地図を見ると高さで2、30m下降しなければならないが、折角なので、というか、湖沼好きなので(ただし天然のものに限る)、行くことにした。
枝道を下降して辿り着いたのは写真の水辺。水晶岳の中腹、標高約2293mにある湿地である。今月初めには水が無かったとの情報があり懸念していたが、その後の雨で回復したようであった。
噂通りの秘境景勝地。紅黄葉が進んでいれば更に良かっただろうが、まあ仕方なし。また次回の楽しみとしよう。
自分以外、人も鳥獣もいない静かな水晶池畔で少し休息し、また乗越への本道に戻り先へ進む。然程急ではない効率の良い巻道である。そして、周囲は、この様に唐松やシラビソ等の高木が失せたダケカンバ等の低木の林となった。それらの、根が曲がった姿に、冬の豪雪を想わされた
やがて、谷上部の森林限界に達し、一気に視界が開ける。眼前には向かう乗越(のっこし。中央右奥)がある稜線も現れた。あと一息のようだが、この区間の行程中あと1/3程の距離と約300m程の登りが待っていた
標高2500m近くまで上がってきたためか、谷の対岸にはこの様な黄葉が見られた。今回の山行で最もな色づき。北向きの谷なので進行が早いのか
更に谷を詰めると渡渉箇所が現れた。これは最後のものだが、この前にも同様というか、より水量の多い沢があった。森林のない稜線近くにもかかわらず水が豊富なことに驚く。さすがは日本有数の水源地・黒部。因みに、この流れも下流20km程で黒部湖(黒四ダム)に入る。つまり、ここも黒部源流の一つであった
沢水が失せ、傾斜がきつくなると乗越付近の様子が明らかになった。変わらず背嚢の荷が重いが、あと少しの辛抱
雲ノ平付根かつ黒部源頭の地「岩苔乗越」
そして、岩苔乗越着。標高約2730mで、雲ノ平の付根に当る鞍部だが、それより高く、かの白山主峰も凌ぐ高所であった。
高天原からちょうど標準時間の3時間かかったが、途中寄った水晶池往復30分を含むので、先ずまず進行であった。
到着直前に、乗越が通例とは異なり最低鞍部になかったのを訝ったが、向こう側の黒部本流谷の道との接続関係に因ることを知った。
そして、これまで誰とも会わず。だが、岩苔小谷の道は高度差大きい長程にもかかわらず、歩きやすく、また湿原から樹林・湖沼・源頭までを含む、北アルプスの魅力を凝縮したような道程で、よかった。
岩苔乗越から見た、来し方の岩苔小谷と彼方の薬師岳や右隣の水晶岳。高天原も今や遥か下方である
こちらは同じく岩苔乗越から見た、これより進む先の黒部本流谷。奥に聳えるのは3年前に登った三俣蓮華岳(標高2841m)で、左斜面は同じくワリモ岳(同2888m)や鷲羽岳(同2924m)、右斜面は祖父岳(じいだけ。同2825m)や雲ノ平の端面である。黒部本流は蓮華岳下を右へ折れて雲ノ平の裾を周りつつ、やがて流れを北へ変える。なお、ここからは今日の目的地付近の黒部五郎岳(同2839m)はまだ見えない
黒部本流最奥を下る
岩苔乗越で少し休んだあと、黒部本流側の谷道を下る。こちらも、下部の渡渉地点までは今回初めてゆく道程で、楽しみであった。
そして、下り始めて暫くすると「水場」と記された写真の小標が現れた。流れが生じ始めた沢への誘導で、行ってみると、確かに水が汲めるほどの流れがあった。これぞ、最奥の黒部源流水か。
この水は、ここから100km近い距離を流下して日本海は富山湾に注ぐ。
黒部最奥谷の道を更に下ると沢水も増え、確かな流れとなってきた。かなりの高所にもかかわらず、南向きの谷の所為か、紅・黄葉は見られず
見晴らし良い谷なかをひたに下ると、やがて三俣と雲ノ平を結ぶ道の渡渉場が現れた。写真では見難いが、そこで釣りをしている男性も見えた
渡渉場近くの黒部源流碑付近から見た蓮華岳山腹の黄葉。渡渉場から先は3年前に通った道で、その際もここの黄葉に感心したが、今回はまだ早い感じであった
三俣・五郎間の巻道へ
標高約2400mの黒部源流碑から支流谷に進み、高さ150m程の樹林斜面を上がり、ハイマツ覆う広くなだらかな場所に出る。鷲羽岳と蓮華岳間の稜線地帯である。
そして、そこにある写真の三俣山荘に到着。標高は約2550m。ちょうど昼前のため、小屋前で昼食休憩をとるつもりであった。小屋向こうに、頂部に少し雲ある美麗な鷲羽岳が出迎えた。
高天原を暗い内に出て雲ノ平経由で五郎小舎に向かう同宿の女子組に、ここでまた会いましょうと告げられていたが、先に行ったのか、まだなのか、その姿はなかった。
昼食後、三俣山荘から三俣蓮華岳方向へと進み、野営場上部にある分岐(中央の標識)から黒部五郎への巻道に入る。ここからの道も今回が初めて。昨日会った逆向きにここを通過した兄さんによると、巻道と言いながら上下が大きく、楽ではないとのことだったが、如何か。ただ、時間・行程的にはこの区間が今日最後の道程だったので比較的気楽に進んだ。あとは天幕設営まで天気がもってくれるのみ!
黒部五郎への巻道は分岐から登りが続く。先程居た三俣山荘が忽ち下方に、そして小さくなり、鷲羽岳の雄壮・優美な全容を目にできた。確かに乗っけから本来的な巻道ではないが、地形図をみると、険崖を避け、なるべく直線的な連絡を指向した、有難い道であった
そして、巻道のちょうど中間で最高所の標高約2700m地点に達する。そこは、奥に見える三俣蓮華岳山頂から続く支尾根端部の広い石原となっていた。あとで画像を拡大して気づいたが、山頂に人が二人おり、こちらに手を振る姿が写っていた。気づかずに無視してしまった。申し訳ない限り
同じく巻道最高所から見た、午前通過した岩苔乗越下に続く黒部最源流谷
同じく巻道対面には雲ノ平(左端から中央に広がる台地)や、その地学的産みの親である祖父岳(右手前の峰)も見えた
黒部五郎への巻道最高所を過ぎると下りとなり、やがて山腹に続く道の果てに稜線との交点が見えた。画像では判り難いが稜線中央下に斜めに上がる道がある。巻道の終焉だが、これで今日の最終区間が終りになる訳ではなく、その後は稜線道となる。その距離はこれまでと同じ。即ち、まだ半分しか進んでいない。愈々天気が怪しくなり、吹き曝しの稜線を案じる
稜線は始めこそ狭かったが、その後緩やかな奥黒部らしい道となった。標高2650m前後の高所を進むが、特に寒さはなし。眼の前に迫っている筈の黒部五郎岳は濃いガスのため一向に見えなかったが、稜線道後半で急にそれが晴れ、姿を見せ始めた(中央奥)
そして、最後の急斜の下降に入ると、山頂直下の著名な圏谷(カール)と共に黒部五郎がはっきりとその山体を現した。また同時に、今日最終目的地で野営地である黒部五郎小舎の赤い屋根も確認できた(中央下)
五郎岳麓での語らいと夕照
やがて、予想外に長くキツい下降路を下りきり、黒部五郎麓の五郎小舎に到達。標高は2350m。三俣山荘から2時間強の歩行で、14時過ぎの到着であった。予定より早く、また、雨に降られずに来られてよかった。
三俣山荘以上の奥地にもかかわらず、意外と賑わう小屋にて早速手続きを行い、天幕設営や身拭い・着替え等を済ませた。
先ずは即席だが珈琲を沸かして一服。その後、今回の山行最終泊のため、また、昨晩湯当たりで飲めなかったため、記念的にビールを買って飲む。
補給困難な地にもよらず何故か他の小屋より200円安い600円だったが、沢水冷やしの所為か製造から日が経っていた所為か、味は良くなかった。
黒部五郎小舎から見た野営場(中央奥)。かなり遠くに感じるが実際は近い。幅広い鞍部の端にあるため当初は風と寒さを心配したが、問題なかった。元より例年より気温が高めということもあっただろうが……
ところで、三俣山荘で会えなかった女子組もこの小屋泊予定だったが姿が見えない。少々心配したが、夕方聞き覚えのある熊鈴の音と共に急斜の森から現れ、安堵出来た。
やはり暗中の雲ノ平への登り等が大変で、時間がかかったとのこと。彼女らは小屋泊だったが(元来テン泊装備だが途中で宗旨替えしたらしい。笑)、小屋前の卓で語らうこととなった。その後、夕食で一旦解散したが、食後また合流し、就寝まで語らった。
曇天だったにもかかわらず、18時前には素晴らしい夕焼けも現れ、小屋泊や野営の人達を喜ばせる。特に、複雑に雲を被った薬師岳の姿が印象的であった(右奥)。撮影しつつ、持参洋酒の湯割りを飲みつつ楽しむ
黒部五郎小舎前から見えた、残照に浮かぶ黒部五郎岳山頂(中央)
最終日の明日は、五郎岳への登頂から始め、その後長い主稜線歩きを楽しみ出発地に戻る予定であった。昨日同様、日没後も寒くない小屋前で、同じく明日下山する女子組と語らい過ごし、日を終えたのである。
「'24奥黒部行」1日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」2日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」4日目の記事はこちら。
2024年09月27日
'24奥黒部行(四分之二)
迂遠の道へ
奥黒部周回行2日目。
今日は前夜野営した薬師峠のテント場から一旦黒部川上流渓谷に下って対岸の雲ノ平に登り、その北方の高天原にまた下る予定であった。
本来なら標高の高い雲ノ平に上らずに済む渓谷からの巻道を選べるが、荒れ気味との情報があり、また雲ノ平山荘の人に以前受けた便宜のお礼をせんと、敢て長く負荷高いこの迂遠路を選んだ。
上掲写真 薬師峠の野営場を出て暫くして見えた今日最初の目的地・雲ノ平(中央奥の台地)。これから手前の薬師沢に急下降して遠路その麓の黒部本流まで進み、その後急峻な台地端を登ってその上面に達する。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
朝6時20分に野営場を出る。予定は6時だったが、また遅くなった。少し進んで振り返ると薬師岳の雄姿が。天気は曇りだが、その山頂(右端の白峰の左後ろの頂)ははっきりと見え、穏やかそうであった。時間があれば今難なく登れたと思うが、まあ仕方なし。またの楽しみに……
太郎平小屋の後ろにある分岐を来た道とは異なる左(東)に入り、急下降の道が始まる。なだらかな太郎兵衛平端面の下りである
急下降を経て沢筋に降りると、このような支流沢を渡る橋が幾つも現れる。鉄骨のもののあり、木柱のものもあった
黒部川本流と薬師沢小屋
沢沿いの道はかなりの高所を高巻く道があるなど予想外に多様であった。
最後に広い湿地に出たかと思えば、端部から細尾根の下降となり、写真の如く、その崖下に漸く澄んだ碧水を湛えた黒部本流が見えた。
そして、薬師沢小屋に下り着く。標高は1912m。同2350mの太郎兵衛平からの下降であった。下端に小屋がある細尾根は薬師沢と黒部本流の分岐・合流点となっていた
黒部本流に架かる薬師沢小屋前の吊り橋。足場が細く、乗ると揺れるので、苦手な人はここで進めなくなるかもしれない。それにしても、河水が別格的に美麗だ
溶岩台地・雲ノ平へ
さて、薬師沢小屋で約2時間の歩行の休息をとったのち、吊り橋向こうの雲ノ平への急登に挑む。黒部川対岸は即ちその台地の端部である。
慎重かつ素早く橋を渡り、非増水時の道である河原に降りて高天原への巻道である大東新道(だいとう・しんどう)の分岐から、この雲ノ平への急登を進んだ。
ここも評判の悪路で、丸く大きな溶岩が滑りやすい。天気が良くなり気温も上がったが、深い樹林のため助かった。
恐らく今回の行程で最も傾斜角が大きく、そして長い急斜道を小休止の繰り返しで一気に登り、上部の湿地面にでた。標高は2370m超。峡谷から500m弱上ったことになる。荷物が重く疲れたため、ここで大休止。とはいえ数分。急斜前半で後ろに続いていた数組の登山者とはその後会うことはなかった。皆、非初心者風だったので、それほど負荷の高い場所といえた
最初の湿地面からまた深い樹林に入り、先へ進む。基本足下が湿地の緩やかな登坂が続く。地形図による予習で傾斜については知っていたが、森林も含む多様な場所であることに少々驚く。雲ノ平といえばテーブルランド(卓状地)の印象があるが、実際には浸食等によりかなり複雑な地形・地貌となっている。さて、森を抜け幾つかの湿原を過ぎるも最初の目的地は遠し。祖母岳(ばあだけ。標高2560m、右の樹林山)が見えて初めてその左下に雲ノ平山荘が確認できた。写真では見難いが。とまれ、まだ遠い(笑)
祖母岳麓の緩い谷地や広がり始めた湿原を進み、やがて溶岩(噴石?)台地上にたつ雲ノ平山荘が現れた。今日最初の目的地である
雲ノ平山荘。標高2550m、3年ぶりの訪問である。野営場から約5時間の行程であった。背嚢等を小屋前に置き、左の階段から中に入った
雲ノ平山荘玄関内部。受付兼売店があり、中の姉さんに以前お世話になった人を問うと、今年は来ていないという。仕方なく、訪問の言付けを頼む。薬師岳登頂に続き、この訪問も昨年同様空振りとなった。薄謝代わりのお菓子を持参していたが、非常食にすることにした
箱も食事も良い雲ノ平山荘
ちょうど昼前だったので、靴を脱いで山荘の食堂に入り、昼食を摂ることにした。食料は完備していたので本来不要だったが、今回宿泊で山荘を利用できないためのお詫び的気持ちがあった。
山荘内部は玄関部以上にその造りの素晴らしさが実感できた。近年建て直したためだが、家具調度品に至るまで良材や好意匠が駆使されている。現当主氏のこだわりか。
更に特異なのは、本棚に山の本がなく工芸や建築関連の図録が並び、現代美術・陶芸の作品が置かれ、現代音楽まで流れていることであった。
まるで写真家か建築家の友人宅にいるような雰囲気。個人的に当主氏とは話が合いそうだが、他の登山者や従業員とはどうなのであろうか。
食堂の外にはこの様に好眺望のテラス席もあったが、雲が厚くなり寒かったため、内席にて名物らしきジャワ風カレーを食した。下界より少々値が張るが、よく煮込まれた具沢山のその味は素晴らしかった。これなら下界でも得な価格といえた。制約多い奥山における努力と工夫の賜物か
小屋の雰囲気や料理の美味しさに因りつい長居となった雲ノ平での昼休みを終え今日最後の目的地の高天原へと出発する。雲ノ平山荘下の湿地にまた下り、高天原への分岐路が続く向かいの丘に登る。丘上からはこのように山荘を中心とした雲ノ平全景が見渡せた。またいつの日にか……
山荘は見えなくなったが丘を越えても雲ノ平的湿原景は続く。少し雨が降ってきたが、なんとか高天原までもってほしい
やがて台地縁に達し、樹林の細尾根の急下降となった。午前あれだけ登ったのに、また下がるとは勿体ないが、仕方なし
急下降の途中、また広い湿原があり、そのなかで今回初めてのナナカマドの紅葉を目にした
湿原を挟み前後二つの急下降を経て高天原峠に着く。二つ目の急斜は梯子場が連続するなど、なかなかなもので、登りは大変に思われた。また、足下も薬師沢小屋からの急登に似た溶岩道で、滑りやすく思われた。さて、峠からは尾根を外れて右の谷へと下る
高天原峠からの下り道を進むと、やがて谷沿いの水気多い湿地が続くようになる。今は木道で整備されているが、それが無い時代の通行困難がしのばれた
沢沿いの湿地を抜け、渡渉箇所が現れた。水量が多くともこの様な橋があるため難なく渡れるが、更なる増水時は大変であろう。高天原山荘は対岸地帯にあり、孤立しそうだからである
橋を渡って樹林を進むが、なかなか山荘は見えない。もうそろそろの筈だが……。その代わりに、この様な大きく開けた湿地が現れた。中々良い場所。山荘への道はこの縁を大きく周りつつ続く
今日の宿泊地・高天原山荘
そして、湿地を過ぎて乗越し的微高地に差し掛かると、突然建屋が現れた。今日の最終目的地で宿泊地の高天原山荘である。
標高は2120m超、なんとか天気も回復し助かった。15時前だったので、出発が20分遅れ、更に雲ノ平に長居した割には予定の30分前に到着できた。
左奥に水晶岳聳える高天原山荘前のアルプス的好眺望
最奥温泉へ
ここは野営不可で小屋泊を予約していたため受付で手続きをし、2階大部屋の布団横に荷物を置き小屋前の露台で先着者らと談話する。
皆、大東新道等の近道で早く着き、温泉にも入ったようなので、私も遅くならないうちに入湯することにした。
温泉場は歩いて20分程先にあるため進むが、この通り、草履で行けるような状態ではなく、更には途中幾度か渡渉もあった。
ほぼ登山道といえる樹林の道をひたに進むも温泉はなし。道を間違えたとの疑念がいよいよ強まった頃、硫黄香る広谷に達し、その畔の温泉小屋が見えた。日本最奥温泉とされる、高天原温泉に遂に到着である
高天原温泉の混浴露天風呂と沢の対岸にある男湯小屋(左奥)と女湯小屋(右奥)。銭湯でお馴染みの湯桶があるのが面白い
こんな時に限り……
温泉到着時はちょうど先客が皆出たばかりだったので、囲いのない混浴に入ることとした。ところが、服を脱いで身体を洗い始めた途端に女湯から女子二人が出てきた。
慌てて岩陰に隠れつつ洗いを済まし、湯船に入る。私は気にしないつもりだったが、うら若い向こうにとっては見苦しいだろうとの思いである。
露天の湯は洗剤なしでも髪がほぐれる程の素晴らしい質で、湯温も良かったが、女子組が中々去らなかったため、湯船から出られず、湯当たりを起こしてしまった。しかも、こんな時に限って日射しも強力になっていた。
何事も中々上手くいかぬものである。女子組が去って無人になった温泉沢で少々朦朧となりつつ着替えを済まし、小屋に戻った。
夕刻、高天原山荘前に現れた水晶岳のアーベンロート(夕照)
温泉から帰っても暫く気分が優れなかったが、他客との談笑で徐々に回復する。先程の女子とも明日からの行程が同じということで仲良くなった。
そして日没前に露台の卓で調理をし、夕食を済ませた。小屋食をとる人の方が多かったが、私は用意してきたことと、節約のため自炊した。気候の温暖にも助けられ快適であった。
少し前まで3000円程だった素泊まりも、今や8000円以上となり、食事をつけると更に5000円も高くなる。ただ、食後聞いたところによると、小屋の夕食は頗る美味で、総合的に満足できるものだったという。「安かろう何かろう」の以前と異なり、質が上ったのであれば何よりである。
高天原山荘の窓辺を照らすランプ。この山荘は珍しく内燃発電機がなく館内の灯りをこれで賄う「ランプの宿」となっている。よって、静かで、宵以降、風情を増す
後悔抱え就寝
日没後、殆どの人が就寝したが、夜型の私が寝られる筈もなく(笑)、階下書棚前のランプ下で独り湯割りのウィスキーを飲む。
すると、1人の同宿年輩男性が合席許可を訊いてきた。ガイド付登山で訪れたというその人も寝られないらしく、ビール片手である。そして知らぬ者同士、暫し色々な話に興じることになった。
それは、ランプが消される訳ではないが、静かにする決まりの20時の消灯時間まで続き、その後、互いに床に入ることにした。
ただ一つ後悔したのが、「寝られない原因には心的なものがある」と告げられた時、とっさに「それは誰にでもある」と返したことである。
年輩者の深い事情に立入ることへの遠慮からであったが、知らぬ者へのこの場限りの吐露として聞くべきだったのではないかと悔やんだのである。
そんな思いも抱え、どうせ寝れまいと思いつつ床に入った。
「'24奥黒部行」1日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」3日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」4日目の記事はこちら。
2024年09月26日
'24奥黒部行(四分之一)
飛越新道からの奥黒部行再び
朝6時前、山間遠くに北陸の霊峰・白山(標高2702m)が朝焼けに浮かぶ――。
ここは標高1450mの奥飛騨山上の駐車場。岐阜奥地と富山奥地の県境隧道手前の登山口であった。昨年に続き、今年もここから奥黒部を目指す。
昨年、まさかの荒天化により中途撤退した3泊4日の奥黒部周回山行を再実施したのである。一応、初日は晴れ予報であったが、その結果や如何。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
有峰林道飛越トンネルの岐阜側にある北ノ俣岳登山口。今朝は高速PAの仮眠場所を3時に出て、5時過ぎにここに着き、出発準備を整えた。本来は5時半に入山する予定だったが、夜殆ど眠れず、暗闇の山間運転にも疲れたので20分程遅れることとなった
去年経験したここから始まる長時間の泥尾根道に気を重くするが、それより一番の懸念はこの熊予報。ただ、今年は昨年と違い、先行者2組がいたので、かなり気は楽になった
そして亜高山帯的樹林続く尾根道に挑む。3泊4日分、計15s以上の野営装備を担いで。ただ、既にライトは要らず、これも気を楽にさせた。去年は厚い雲の所為でこの時間でもまだ暗かったためである
またしても泥に足を取られるなどして約2時間。尾根上の寺地山に達し、その奥の標高2000m地点から、飛騨山脈、つまり北アルプスの主稜線が現れた。画像左奥の峰が薬師岳(標高2926m)、右手前が北ノ俣岳(同2661m)である。雲が晴れ、晴天となり何より
薬師岳の向こうには以前登った剱岳(標高2999m)も現れた。実に幸先良い出会いである
稜線下部の湿地帯で、水場がある避難小屋との分岐部。ここからいよいよ本格的な急登が始まるが、昨年視察した小屋には寄らず、そのまま進む
急登を一段上がって現れた、小池散る湿地。「餓鬼田」という地名がつけられているが、恐らくは古人が深山天上のここである種の「人工」を感じ、餓えた餓鬼が作った田に違いないと感じて名づけたのかもしれない
中腹の湿地が終ると、見上げるほどのハイマツの傾斜に。重荷を担ぎつつ、薄まる空気のなか、喘ぎつつ進む
好天・絶景の山上
そして山上着。
出発からちょうど6時間、遂に北アルプスの主稜線に乗り上げた。写真の如く、眼下に先程通過した湿原やその手前の樹林の尾根が見えた。
山上の向こうには薬師岳(左)や赤牛岳(中)、水晶岳(右)等の奥黒部の錚々たる峰々が見渡せた。去年は視界がなかったため感慨頻り。ここは北ノ俣岳山頂ではないが、その隣の標高2640mの頂で、古い石標もあった
そして、遠く槍ヶ岳(中央奥。標高3180m)も見えた
さて、山上で少々休息後、その裏手すぐの縦走路に合流し、先を急ぐ。目指すは中央彼方に聳える薬師岳方面。その麓の薬師峠の野営場に宿泊予定のためである。これより山脈主稜線上の縦走路を辿り、そこへ向かう
途中路傍にて簡単な昼食をとる。その傍には、最終日に登る予定の黒部五郎岳(中央奥。標高2840m)を背にしてチングルマが綿毛を並べていた。花ではないが、これも厳しい高山での一服の慰めか
北ノ俣岳から薬師岳麓まで主稜線は、稜線らしからぬなだらかな高原状となり、その上に縦走路が続いている。天気も良く、牧歌的風景。ただ、紅黄葉は見られず、周囲含め全くの夏山景であった。直近まで続いた猛暑は高所にも影響を与えたのか。涼しからぬ気温と共に、驚きを感じる
そして、13時過ぎに太郎平小屋に到着。だが、野営場の受け付けは現地との話を聞き、先へ進む
小屋から10分強進み、薬師峠へと下降。所謂テント場だが、昨年とは異なり、左の売店小屋に人がおり宿泊手続きや支払いが出来た。ここで来た道を聞かれ、珍しいのか道の状態等を訊かれた。相変わらずの悪路であることや、木道が雨で濡れると転倒必至であることを告げると、感謝された
薬師岳へ
昨年とは異なり先客多い野営場にて、数少なくなった良地に天幕を張る。正午辺りに比して雲が出てきたが、それでも時折射す陽は盛夏同様の強さがあり、暑かった。
設営後、他の登山者と話し込むなどしたが、予定より早く着き、天候も問題ないため、特に休まず薬師岳登頂を目指すこととした。
野営場から続く、花崗岩の大石散る写真の如き急登をひたに進む。
またしても!?
薬師岳といえば、去年山頂直下まで迫りながら荒天のため断念した因縁的場所だが、条件的に今年は大丈夫そうであった。
だが、なんと森林限界の稜線に出た途端、強風に晒されることとなり、慌てて防寒着を足す。すれ違う人から登頂の中止と危険を告げられる。
一先ず標高2700m付近の写真の薬師岳山荘まで行って様子を見るが、中止先行者の言う通り、山頂方面は濃いガスと強風で荒れていた。さっきまでは暑くてたまらない程だったのに、今や寒さで風邪をひきそうである。
今着ている雪山用の軟外套(ソフトシェル)に加え硬外套(ハードシェル。雨衣)を足せば突入出来なくもなかったが、前夜殆ど寝ていないにもかかわらず既に行動時間が10時間を超えていることや夕暮も接近していることから断念することにした。
恐るべし薬師岳。下山者からの情報では昼過ぎまでは頗る機嫌(天候)が良かったらしいのだが……。やはり高山は午前中に登るのが良いのかもしれない。特に山陰・大山の如く比較的日本海に近い山は。
その後、元来た道を駆け下り、野営場にて夕食や明日の準備等を行い、一日を終えたのであった。
「'24奥黒部行」2日目の記事はこちら。
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2024年04月29日
続2024春季野営会
早期撤収の秘訣発見?
一度は中止に傾きながら、予報好転で急遽開催した野営会2日目。
今夕16時頃から雨となる予報であったが、一先ず朝は昨夕と変わらずの薄曇りであった。
今日は雨を見据え、15時までには下山する予定で早めに行動していたが、結局14時までに下山出来た。
それには、昼食を簡易にしていたことも大きく作用した。いつもは昼頃に調理して食事し、そして片付けていたので、撤収が遅くなっていた。
朝食と昼食の間が短いことが原因だったが、今回は思い切って昼食を残りものの片付けのみとし、昼前から準備して早々に終らせたのである。
結果、急くことなく、無理に食を平らげることもなく、何事もゆったりと進めながらも早く撤収することが可能となった。これまでは、用意した昼食と残り物の処理に手間取り、苦慮していたので、良い発見となった。
費用・時間的にも一石二鳥。これからは、この方式で時短を図りたいと思った。
上掲写真 野営地・滋賀太神山中の沢や新緑の森。薄曇りの、朝の空の下にて。
下山時の太神山中の沢。薄曇りが続くも結局山で雨に遭うことはなかった
帰宅も爽やかに
下山後も時間が早かったため混雑に遭うことなく爽やかに帰宅することが出来た。その時間は15時過ぎ。
直前に雨に捕まったが、まあ、もはや家に帰るだけであり、ザック内で保護した道具等も濡れなかったので特に問題は無し。
とまれ、皆さん、お疲れ様でした。今回を参考に、より軽快に、そして更に有意義な野営をやりましょう!
野営会1日目はこちら。
2024年04月28日
2024春季野営会
諦めた筈が……
今年も、はや黄金週間入り。
まあ自身としては、基本休めても暦通りだが、気候も良く一先ずはめでたい。今日はそんな連休前半の2日を使い、恒例の野営会を催すこととした。
実は、今回の野営は天気予報の悪さ等の事情から殆ど中止することにしていた。ところが、直前で予報が変わったため、急遽行うことに。そのため、告知も急になり、行けなかった人には申し訳ない限りとなった。
上掲写真 踊るが如く水泡をたて岩間を流れゆく山中の清水。
今日は、連休前半の三日のうち最も天候が良い日と予報されていただけあり、この通りの快晴。向かった隣県滋賀・太神山地の新緑の眩しさも一入(ひとしお)である
ん?今年はやけに蕨(わらび)の成長が早い
そしてヤマツツジの花なぞは既に萎れていた。ここ暫く続いた季節外れの暑さのせいで、今年は色々と早まったのか……
とまれ、無事野営地に到着して設営し、記念すべき最初の湯を沸かす。晴天と少雨の所為で楽に火がつき有難い。そういえば条件の良い日にもかかわらず、いつもの場所は他者に取られず空いていた。というか、結局付近に野営者は来なかった。コロナ禍が明け、早くもキャンプブームが去り、関連品製造社の売上も半減したというが、その影響であろうか
炉と薪を雨や夜露から保護する天幕張りも板についてきた
やがて、夕方に。空は薄曇りに変り、新緑の森も心なしか霞んで見えるようになった。明日夕方から雨予報なので、早くもそれに向かい一変したか
そして、夜。安全に気を遣いつつ、飲食や語らいを楽しんだ
野営会2日目はこちら。
2024年03月10日
三月深雪
意外の寒波再来
暖冬との予報通り今季の冬は観測史上2番目に暖かいとの発表が先頃気象庁からなされた。それは過去126年間の結果というので、相当なものである。
しかし、2月までは、そうした温暖の実感があったが、本来は寒さが緩む筈の3月に入ってから、結構な寒さを感じるようになった。
正確には年初から比較的温暖が続き、所々で鋭い寒さが現れるといった特異な傾向を繰り返していたが、ここにきて寒さの頻度が増したのである。
さて、前日土曜にまた低温日が現れ、ここ京都市街でも降雪が観測された。雪は積ることはなかったが、京盆地北縁の北山や叡山等には、確りした積雪の様がみられた。
冬季限定の近山雪山行も先週で最後かと思っていたが、意外にもまた機会が巡ってきた。これは是非行かねばならぬ。
とういことで、今朝また山に向かったが、昨夕まで吹雪いているのが見えた北山は麓の貴船辺りの積雪や凍結で近づくことが不能と思われたため、公共交通で随時接近可能な隣県滋賀の比良山脈に出掛けることにした。
写真は、滋賀西部・堅田(かただ)辺りの列車車窓に現れた比良山脈南部の姿。先週とは異なり、山裾まで確り雪があることが確認できた。
京都市街から直線僅か20km強。驚くべき冬山景の出現である。
薄暗い車窓外に現れた厳寒の連山に天候を案じるが、下車駅「比良」に到着すると、山脈上空に青空が見え始めた。今朝までは雪、その後は晴れ予報だったので、このまま回復しそうである
比良駅で準備後、山へ向かい歩き始める。美しく、鋭い冠雪の様を見せる堂満岳(1057m)が、独り進む身を迎える。登山口まで遠いが致し方なし
比良山脈麓の別荘地辺りから地面や屋根上に雪が現れる。標高はまだ高くないので、週末は麓でも結構降ったのであろう
そして山の谷なかに入り、やがて登山口着。駐車場自体は冬タイヤ以外難しい状況だが、その手前までは普通の状態だったので少々誤算。しかし、こればかりは実見しないと判らず、何かあってからでは遅いので仕方なし
登山口からは、すぐに雪道に。先週との違いに驚くばかり。標高約400mの大山口分岐付近もこの通りで、全くの冬山景であった。3月というのに、また1月厳冬期に戻ったような、少々信じ難い光景である
途中、早くもアイゼン(靴底氷雪爪)を装着し、谷なかの道を進み、やがて比良著名の難所「青ガレ」に至る。ここも先週とは異なり、確り雪が載って登りやすそうである
雪量的にワカン(輪かんじき)が必要な程であったが、先行者の踏み跡が溝の様に続いていた為そこを辿る限りは必要なかった。下ってきた人の話では、ルート外のルンゼ(急斜溝)の中は新雪が深く、アイゼンやピッケル(斧頭雪杖)が効かず登攀を中止したという。恐るべき3月寒波である
やがて越えた金糞峠(標高約880m)裏もこの通り。峠裏は先週も雪が多かったが、今日は一段と増していた。ただ、意外にも踏み跡が確りあり、ワカンを出す必要はなかった
更に雪を求め先へと進む。先週同様、金糞峠裏を西北に進み、コヤマノ岳(標高1181m)を経て山脈主峰・武奈ヶ岳(同1214m)に向かうのである。途中、方々で多雪の証・スノーモンスター(樹雪塊)に遭遇。近山でのそれは実に久々であった
そしてコヤマノ岳山頂に至る。完全な雪山景。先週とは異なり今日はこの手前の急登を特段辛く感じなかった。やはり先週は風邪をひいていたのか
コヤマノ岳を過ぎると、いよいよ武奈ヶ岳山頂のお出まし
目を凝らすと、武奈ヶ岳山頂には大きな雪庇が見られた。その高さは人の背丈程か。僅か一日二日でこんなに発達することに驚く。まあ、週末、かの山陰の雄「大山(だいせん。標高1729m)」で一気に90cm程積ったらしいので、有り得なくはないか。しかし行動中にそんなに降れば危険である
最後の登りを詰め、武奈ヶ岳山頂に到着。四方どこを見ても、山中は雪景色であった。そして、気温は-2、3度。雪山としては然程の寒さではないが、今日麓を覆ったらしき、春の温暖は感じられなかった
遅めの昼食兼休息にしようとしたが、風があり寒いため、先行者が雪庇下に掘った竪穴を利用した。それは、深く掘られていたが、全く地面の気配がなかったので、山頂の雪深さが窺えた。恐らく1mはあるのではないか
雪上での昼食中、先程下から見上げた武奈ヶ岳山頂の雪庇を横から見る。実は画面左奥に今や春めく京都市街が見えている。20数kmしか離れていないので当たり前なのだが、改めてその差に驚く
トレースが全く無い金糞峠から堂満岳へと続く雪の稜線道
延長戦(?)開始
昼食後、来た道を下り、また金糞峠に至る。後はここを下るだけだが、何か物足りない。雪は申し分なくあり、歩行距離や登坂標高的にも十分冬山山行は味わえた筈である。
しかし、終始先行者のトレース(踏み跡)を辿っていたため、雪でもがくこともなく、雪山に来た気がしなかったのである。また、先週と同じ道程も、何やら芸が無いように感じられた。
そういえば、金糞峠から脇の堂満岳(1057m)の頂を経る道に替えれば、もう少し雪を味わえるのではないか。峠を真っ直ぐ下るより遠回りとなるが、下山場所は少し比良駅に近くなり、然程無駄にはなるまい。
あと、往路出会った人が堂満岳に通じるルンゼの雪が深かったと話していたことも思い出した。
時計を見れば既に15時半。しかし、峠から堂満岳及びそれ以降も馴染みの道であり、山頂までの核心的登坂部も雪があろうが20分程しかかからない筈なので、十分明るい内に下れると判断し、その道に進んだ。
何十回も通った道なので何も考えずに進むが、すぐに違和感を感じた。いきなり道を間違えたか? 違う、乗っけからトレースがないのである。即ち、今回の雪が積もってから誰も通過していないのであった。
ここでまたルンゼの話を思い出す。堂満ルンゼは有雪期登攀訓練のメッカなので、その連中が山頂経由でここに下ってくることが多いが、今日は深雪のため誰も登頂出来なかったのではないか。
そうなると、これから先が思いやられるが、ワカンを持参しているので、一先ず山頂まで行くことにした。
まさかの、3月の深い新雪に、自らの足跡のみ記して進む
金糞峠を出ていきなり雪に深く足を取られつつ進む。気温が然程上がらなかった所為か、今日の晴天では融けず、新雪のままの厄介な道が続く。
先程までのトレース路と比べると、舗装路からいきなり泥濘になったような気分である。半ば望んだ状況ながら、あまりの極端さに呆れる。
情報得て前途青信号に
深い新雪に、いきなりラッセル(開路進行)を強いられ、忽ち疲労する。これぞ、望んだ雪山行動ではあった。しかし、樹間から見えた山頂方面(画像左奥)はまだまだ遠く、そして高い。
そろそろワカンを出した方がいいか、と思いかけた時、前の灌木の間から突如人が現れた。挨拶を交わすと、何処まで行くのかを訪ねられ、時間が遅いのでは、と心配される。
私は、堂満山頂からそのまま駅に下ることやワカンがあることなどを説明し、懸念を払拭した。彼は私の逆コースを辿ってきたようで、山頂から向こうには確りとしたトレースがあることを教えてくれた。
有難い情報である。これで安心して進める。実は、この先ずっとトレースがないと、たとえワカンを履いても時間的に厳しく、引き返すことも考えていたのである。
金糞峠・堂満岳間の雪道途上に見えた琵琶湖や伊吹山(左奥。標高1377m)
堂満岳山頂からみた積雪越しの琵琶湖等々
懸念実感の雪塗れ(苦笑)
そして堂満岳山頂着。簡単に記したが、実は結構大変であった。
途中ルンゼからの踏み跡が一つ増えたが、幾度も現れる急登部分に難儀し、一部には手足全てを使っても登り難い箇所があった為である。
時間も倍以上かかり、正に雪塗れになった。写真の一部にボケた部分があるのは、ケースで保護したカメラさえ雪塗れになった為である。
望んだこととはいえ、やはりその極端に呆れるというか、独り苦笑さえ生じた。先程の彼の懸念は、実にこのことだったと、ここに来て実感した。
これぞ、侮れぬ雪山の奥深さかつ危うさ。良い経験・鍛錬となった。
堂満岳山頂で水分補給してすぐに下る。先程の彼の教示通り、そこからは確りしたトレースがあり、この様な乗っけの急下降も難なくこなせた。ワカンは山頂までの辛抱と思い結局装着しなかったが、折角なので使っておけばよかったと少々後悔。今年は使用頻度が少なかったからである
堂満岳山頂直下の急斜面を下りにくだるも、雪は減じず。陽当たりの良い東面のこの区間は雪が融けやすい筈だが、今日は、さにあらず
更に下るもこの通り。ただ、少し湿雪気味と化してきた
標高約440mの山中湿地「ノタノホリ」近くまで下ると、漸く雪が減り始めた。そこからの比較的急な下降路途中でアイゼンを外す
そして、車道との接点である麓の別荘地に下りきった。時間は17時半過ぎ。暗くなるまでに、あと1時間程あったが、途中の難儀を思うと、色々と考えさせられた。勿論、電灯をはじめ、様々な備えは準備している
麓に下っても、今日の山旅は終らない。比良山脈麓から最寄りの比良駅まで歩き下らなければならないからである。やがて山裾を抜けるも、琵琶湖岸にあるその駅はまだ遠い(左奥)
比良駅近くの田圃中から振り返って見た比良の山々。中央左奥が1時間半程前に通過した堂満岳山頂である。この後、30分程して暗くなった
北陸以上の欲張り山行に
比良山脈麓に広がる田圃をひたに歩いてやがて比良駅に到着。しかし、列車が行ったばかりで、次便を30分近く待つこととなった。不便だが、今日は公共交通利用なので致し方あるまい。
そして、列車に乗り、無事、京都市街に帰還したのであった。
結局今日は、歩行8時間強、移動距離16km、積算登坂1500m弱になるなど、北陸の規模ある山行以上の行程となった。少々欲張って行動し過ぎたきらいもあるが、まあ今季最後の雪山行と思われるので、良しとした。
2024年03月03日
上巳暮雪
寒波再来と奥越行代替に
今日の冒頭写真は、雪積る山上林間とその枝先に生じる樹氷。
夕方撮ったものだが、本来この時期なら、山上であっても、その時間は昼の日射しで消えている筈。しかし、確り残っていた。即ち、昼間の気温が低かったのである。
今日は京都市街で12度を超す気温となったが、標高1200m近い山上では、その恩恵は少なかった。
今日は今季最後の雪山探訪として、朝から隣県滋賀に向かった。場所は月初と同じく、同県西部で、京都市街北東郊外に接する比良山脈。
その訳は、先週寒波が来て同山にまた雪が積もったらしいことや、先月の連休中に予定していた奥越登山を中止した不満等に因った。
しかし、元より雪が少ないことに因る期待の低さや、往路の峠凍結等を警戒して、登山口に着いたのは昼前であった。
そして登り始めたのは昼過ぎ。さっと登り、さっと雪上を歩き帰るつもりだったが、冬山に慣れない人は決してこんな横着を真似ないように……。
とまれ、写真の如く、麓の駐車場にほぼ雪は無し。張り切って朝早く来なくて良かった、と、ある意味安堵も(笑)。
登山道を進み、暫くして雪が現れたが、アイゼン(靴底氷雪爪)装着する程でもなし
比良山脈・湖西側(東斜面)の著名難所「青ガレ」も殆ど雪無し。ここは雪で岩が隠された方が通過しやすいので、ある意味迷惑(笑)
そして、標高を上げると、谷なかの道にも少しは雪が増えたが、雪山と呼べるものではなかった
やがて比良主稜線にある峠の一つ、金糞峠(かなくそ・とうげ)に到着。峠の切れ込みから晴空下の青い琵琶湖も見えたが、雪が目的なので、心弾まず。ここで引き返すことさえ考える
金糞峠にて少し休憩し、先程先行者が降りた峠裏を覗いてみると、なんと、そこから先には結構な雪があった。気を取り直し、もう少し先の、標高の高い山上を視察することにした
金糞峠向こうの雪深い谷なかを進み、その後尾根に上り、只管高度を上げ、比良第2位の高所・コヤマノ岳(1181m)に至る。330m程の高度差は前回は何ともなく一気に登れたが、今回は息が足らず、苦しかった。何やら右肺の一部に穴でも開いているような感じ。ワクチンの副反応で苦しんだ奥黒部行同様の症状である。まさか、コロナにでもなったか……
雪山越しに琵琶湖等が見える眺め良きコヤマノ岳頂にて遅い昼食を摂ることに。時間も遅く、ある程度雪を楽しめたので、ここで引き返すことを考えたが、心配して声掛けしたマレー華人の若い男女に触発され(峠下で抜いたが昼食中追いつかれた)、というか、やはり少し心配して、この先に近くにある山脈最高峰・武奈ヶ岳(1214m)まで進むことにした
昼食休憩後、コヤマノ岳を後にすると、すぐに武奈ヶ岳頂の姿が現れた。その山上には、先程会ったマレー華人二人の姿も
途中、下ってきたマレー組と挨拶を交わし、やがて武奈ヶ岳山頂着。時間は3時半。本日最後の訪問者となったのか、誰もおらず、また、来なかった
登山口側の山脈東面では想像し難かったが、武奈ヶ岳山頂から見る比良の深部や高所は、全くの冬山景であった。途中で止めなくてよかった。来た甲斐があった
まさかの雪降る金糞峠下の谷道
嬉しい交流と降雪の下山
武奈ヶ岳山頂では休憩せず、少し眺め、そして撮影してすぐに来た道を戻る。コヤマノ岳山頂下で早くもマレー組に追いつき(漢語で速い!と驚かれる。笑)、暫く共に話しつつ下った。
それによると、彼らは京都の大学に留学してる学生だという。登山歴は少ないらしく、雪山も初めてだが、東南アジアでは得られない経験に感動すること頻り。
また、普段から日本の色んな場所や山に行っているらしく、四季のある日本の素晴らしさを堪能しているとのこと。我々の身近な地域の自然と、その奥深さを理解してくれて、こちらも大変嬉しかった。
実に素晴らしい若者たち。これからも貴重な経験を重ねて、有意義な滞在生活を送ってほしいと切に願い、金糞峠から先を急がせてもらった。
独りで降る峠下の谷みちに、意外の雪が降る。やはり、まだ寒かったのだ。標高を下げると、やがてそれは冷たい雨と化したが、今季最後かもしれない雪の余韻に浸りつつ下山したのである。
2024年02月17日
北山感冬行
気温急上昇と雨のあと
今週初めの月曜(振替休日)朝に、ここ京都市街でも降雪が記録されたが、その翌日から一転して20度近い季節外れの暖かな日々が訪れた。
また、そのさなかには、二日に渡り、まとまった雨も降ったので、先週まで楽しめた近場の雪は、かなり減じたかと思われた。しかし、同じく16度超えの予報となった今日、またしても近山に出掛けることとなった。
それは、先月の積雪写真を見て是非自分も連れて行ってほしい、と話していた海外の友人が来京したためであった。
先月同様の雪景は難しいが、山頂付近なら少しは見られるのではないか、との思いから、午前遅い時間ながら、一先ず向かうことにしたのである。
果たして、その結果や如何(いかん)……。
上掲写真 冬の寒さに因り赤く変色しつつ花粉を蓄える杉覆う奥山の一峰。一応、京都市内。
さて、友と向かったのは、奥貴船・雲取山。京盆地北縁に広がる丹波高地、所謂「京都北山(きたやま)」であった。状況的には更に北方で標高の高い比良山脈等に出掛けた方が雪があるように思われたが、京都の雪が見たい、という友人の希望で決定。しかし、この通り、途中の車道峠は疎か、林道の奥深くまで進んでも殆ど雪がない状況であった。まあ、車輌による奥地への進出が叶い、労力と時間を大いに節減出来たが……
車輌進入が禁じられる手前まで進み、そこからは登山準備をして徒歩にて林道を進む。ある程度想像はしていたが、この時期に、こんな奥まで車輌で入れるとは驚きであった。そして、間もなく雲取山山頂への登山口に到着。いつもは雪深い場所だが、今回はこの様に疎らな状態となっていた
その後、進む谷なかも雪がなく、ほぼ夏道通りに進めた。そして、山頂直下の急斜もこの通り。いつもは雪崩警戒の威圧を受ける場所だが、4月下旬と見紛うばかりの状況であった
雪のかわりに落ち葉や泥に難儀しつつ急斜を進み、やがて雲取山山頂(標高911m)に到着。なんと、ここも全く雪がない
折角なので、休憩地への移動を兼ねて雲取山頂から同北峰へと向かう。勿論、山に慣れない友人の体調等と相談して。結果的にこの延長が吉に。途中の山頂北面に、この様に少し雪原が残っていたからである。さすがは付近で最も雪深い場所。いつもの2月からすると微量だが、雪無き地から来た友人には感慨深いように見えた。撮影を楽しみつつ、滑らぬように通過
そして、雲取北峰(標高約915m)着。ここも、この時期は雲取山頂より雪が多い場所であるが、今日は全く無し
雲取北峰からの眺め。北方面だが、周囲の山々にも雪は無い
但し、比良山脈北部には冠雪の様が見えた。即ち、先週登った山脈最高峰・武奈ヶ岳(標高1214m。中央左の峰)付近である
雲取北峰で湯を沸かして即席麺等を食べつつ休息し、その後、雲取山頂から二ノ谷を下る。少しバス道に近く、傾斜がマシな一般ルートで、谷なか全域に残る豊富な天然林、即ち、古の北山風情が見処の推奨路であった
京都北山・雲取山二ノ谷の冬枯れした天然林。雪は無いが依然2月の厳しさ残る奥山風情か
微妙なるも北山風情体感か
二ノ谷の天然林を眺めつつ山を下り、やがて出発地に帰還。その後は少し芹生集落を見学してもらうなどして京都市街に帰着した。
微妙な状況だったが、友人には何とか近場の雪や北山風情を味わってもらい、何より。
お疲れさまでした!
2024年02月10日
武岳初春
今季最後?の近隣雪山へ
昨年の冬入りする前から暖冬予報があり、そして、温暖な正月を迎えるなど、その予報は現実化した。
しかし、先月からやはり寒波が来たりして、それなりの寒さもあった。まあ、総じて暖冬傾向ということであり、まさにその通りにはなっている。
今週前半にまた寒波が来て近山の積雪を期待したが、首都圏とは異なり、こちら西日本は寒いだけの雨に終った。
雪となるのは低温だけでなく、湿度等も関係するらしいので複雑である。ただ、山間は少し降ったらしいので、今季最後かと思い、期待せず、鍛錬がてら出掛けることとした。
上掲写真 最初から「期待しない」と記しておきながら、いきなり結果を見せるようになったが、某近山山上から見えた予想外の雪景。厳寒の、東北は白神山地等ではないので悪しからず。正午過ぎながら、樹氷まとう素晴らしい眺めであった。やはり、山は意外の地であることを再確認した。
めでたい日に
さて、今朝到着したのは、境内前にめでたい朱塗欄干がある葛川明王院(かつらがわ・みょうおういん)。隣県滋賀西部山間の著名古刹である。
今日はこの境内奥から始まる登山道を経て、比良山脈最高峰・武奈ヶ岳(1214m)を目指す。先週、山脈南部で雪が少なかったので、より北方で、標高が高く、それが多そうな場所を狙ったのであった。
昨晩から気温が低く、夏タイヤ車輌しか用意できないので路面凍結を警戒したが、寒波後暫く経って雪も消え、乾燥していたので問題はなく到着。
ただ、午後から雨や雪の予報があったので警戒は継続。なるべく早めに撤収することにした。
そういえば、めでたいといえば、今日は旧元日。即ち旧正月入りである。表題の「初春」とは、それを表したもの。春節好!(中華圏向け。笑)
標高315m程である明王院奥の武奈ヶ岳登山口も、この様に全く雪は無し。そして、泥で滑りやすい急登道が延々と続く。往路、大原から比良山脈南端が見えたが、先週に増して雪が減っており、もはや雪山の体を成さない様だったので、更に期待は下がる(笑)。しかし、その割に登山者は多い。三連休中最も天候がマシな日で、同じく最後の雪山と思っているからか
急登を冬山装備の重荷で進む。このルートや今日の条件ではもっと減らしてよいのであるが、難易度の高い奥山等へ行く鍛錬として辛坊。それでも、途中、何組も抜き、先へ進ませてもらう。そして、標高600mを超えた辺りから、この様に薄っすら雪が現れた
更に進むと、道を含む全てが雪で覆われ始めたため、アイゼン(靴底氷雪爪)を装着。標高は700m手前
標高840mを超えた尾根筋に出れば、更に積雪が増えた。急な変化に少々驚く。登山者の多くがアイゼンではなく簡易なチェーンスパイクを装備していたので、制動が効きにくいのではなかろうか、と案じる
樹間からは周囲の山々が見え始めたが、見通しは今一つ。ただ、周辺にも意外と雪があることが確認できた
そして、途中の経由山頂・御殿山着(標高1097m)。好眺望地として知られるが、生憎見えず。しかし、雪量はもはや確かなものとなった。ただ、多くの登山者の踏み跡があり、雪質も固めだったので、ワカン(輪かんじき)を履く必要は無し(つまり背中で重荷と化したままに。笑)
御殿山から一旦急な下りを経てまた稜線上をゆくが、本来はここで武奈ヶ岳山頂の雄姿が見られる筈。しかし、残念ながら今回は無し。やはり今日は午後から荒天予報なので、望めないのか。まあ、予想外に雪が多く、気分的収穫は多大だったので、それで良しとした
と、思いきや、突然雲や霧が晴れて山頂が姿を現した。うむ、やはり予想外の素晴らしい雪山景である
そして、山頂着。丁度正午頃だったが、標識が凍っている。今日は昼から気温が上がる筈だが、実感はなし。簡易計は氷点下2、3度を指していた。まあ、これも冬らしさを味わえたので一切文句は無し
武奈ヶ岳山頂から見たコヤマノ岳(中央やや左。標高1181m)や蓬莱山(右奥。標高1173m)等々の山脈雪景。これも、予想外の素晴らしさ。山頂にいた多くの登山者も、口々にこの好眺望・好条件を褒める。なお、表題写真はコヤマノ岳を望遠撮影したものであった
蓬莱山を望遠撮影。その山上はスキー場となっているが、積雪50cm以上あるこの条件では、スキー客も問題なく滑りを楽しめそうで何よりである
奥深い逆転体験
山頂で今日初めての休息と軽食をとったあと、13時半過ぎに麓へ帰着。
先週に続き、今日もまた4時間に満たない短い山行であったが、予想外の雪景や雪歩きを楽しめて良かった。
正に逆転的体験か。また、怪しい天候だったが、結局雨にも雪にも遭わなかった。やはり、近場とはいえ山や自然は奥深い。
2024年02月03日
節分晴雪
大寒期最後の節分に
年中で最も寒いとされる二十四節気「大寒」の時期ながら、今週の京都市街は最高気温が10度を超える日が続く。中には13度超える日すら現れた。
昨年末から同様だが、寒い時は寒いがそれが続かず、安定しない感じである。やはり予報通りの暖冬の影響、もしくは暖冬そのものの現象なのか。
そして迎えた「立春」前の節分の今日。先週に続き、また近山に出掛けた。この時期ならではの雪景を求めて。
本来は北陸辺りで本格的に登りたいところだが、彼の地も時間と費用をかける程の状況ではないようであった。
上掲写真 某山上から見た、雪原や樹氷越しの大原盆地や彼方に広がる京都市街。この日の市街予想最高気温は10度程。快晴の空の下、厳冬と春が混在するが如き眺めとなった。
今日の近山は隣県滋賀西部に連なる比良山脈。その中でも京都から近い南部に登ることに。途中、車輌で大原を走行中にその山容が見えたが、山上は中々の雪に覆われていて期待が高まった。また、心配した山間や峠の凍結や積雪もなく良い条件に。しかし、登山口の葛川平(かつらがわ・だいら)集落内には、この様に雪で道が塞がれる異界ぶりも窺えた。標高は480m程で、道路気温も道中最も低い2度だったので仕方あるまいか
しかし、山中に入ると意外と雪が少ない。感覚的に、3月初旬の残雪期のような感じである
比良主稜線直下のアラキ峠(標高約760m)では、この通り。元々風のため雪が少ない場所ではあるが、今日は積雪0cmといえる状況であった
アラキ峠から主稜線に続く急登の林間も雪が少ない。峠でアイゼン(靴底氷雪爪)を装着したが、ワカン(輪かんじき)は装着しなかった
そして、比良山脈主稜線というか、山頂の一つである権現山(標高996m)に到着。見ての通り、ここも所々地面が見える程の雪の少なさであった。ワカンを含む冬山用の重荷の割に麓から1時間程で来られたが、雪が多ければもっとかかったであろう
ただ、珍しく天気は快晴で、眺望は秀逸であった。これは、東南に見えた琵琶湖南湖や大津等の、滋賀南部の眺め
これは北東方面に見えた滋賀県最高峰の伊吹山(標高1377m)。世界著名の豪雪山地だが、今日はここも少なく見える。先日麓の関ヶ原で記録的降雪があったが、意外と山には降らなかったのか。複雑なものである。背後に薄く見えるのは日本最西端の1万尺(3000m)峰・御嶽山(同3067m)
こちらも権現山東北方面に見えた、琵琶湖北湖彼方に薄く冠雪を連ねる中央アルプス。最高峰・木曽駒ヶ岳(標高2956m)が代表する高山帯である
雪が少ないとはいえ、一応平均15cm程で山上を覆っていて、その照り返しは強烈であった。サングラスを忘れたため、眼の損傷を恐れ、中断も考えたが、荒天用のゴーグルがあったので、それを用いて先へ進むことにした。一先ず目指すは、稜線上の次の峰・ホッケ山(左奥。標高約1050m)
ホッケ山下に接近すると、山頂直下の名物的雪庇が見えた。周囲の積雪量の割に盛大に発達しており、これまた逆の意外であった。常に風が強いホッケ山山頂特有の事情に因るのか
そして、間もなくホッケ山着。黒土の輻射と風の所為か、そこにはやはり雪は無かった。北方の蓬莱山(右奥の峰。標高1174m)は比較的雪が多く見え、その山頂から向こう側に続くスキー場営業の様子が窺えた
ホッケ山山頂から山腹の雪原越しに見えた、琵琶湖北湖や沖島に鈴鹿山脈等の眺め。雪の少なさは残念だったが、得難い眺めは見られた
同じくホッケ山頂(いただき)から雪原越しに見えた、琵琶湖南湖(左上)や比叡山(中央左上。標高848m)等
短時ながらも良い機会に
ホッケ山から更に北へ進み、小女郎ヶ池で昼食をとりたかったが、このあと節分関連の用と約束があったので、ここにて引き返すことにした。
少々物足りない気もするが、雪も少なく質も悪いので、特に未練は無し。
そして帰路の権現山で昼食をとり、麓に下り帰宅した。僅か3時間程の山行だったが今季初の比良とその雪を踏む良い運動・機会となったのである。
2024年01月27日
大寒初登
好機来る
新年1月前半を占める正月も終り、はや、その下旬となった。
今日は朝から山へ向かう。とはいえ、夕方から主催の小新年会があったので、早く帰れる近山であった。
漸くの初登りで、今季初の雪山行である。月初8日の初雪の際は用があり行けず、その後、また気温が上昇して近山では雪は全融の状況であった。
初登りは雪山と決めているため、仕方なかったが、最寒期たる「大寒(期)」に至り、また寒波が来るという、好機が再来したのである。
上掲写真 山中の林道脇に置かれた倒木上の積雪。その厚さ20cm以上か。
さて、向かった近山は、京盆地北縁を画する「北山」山中の雲取山(最高所標高約915m)。このサイトで度々取り上げる個人的馴染みの山域である。車輌にて行ける所まで進出し、その後は歩いて登山口まで向かった。気温-2度程、車道は一応除雪されているが、夏タイヤでの走行は不能で、周辺の斜面や台風倒木上にも相当の積雪が見られた
雪を踏みつつ転倒に注意して車道を歩き登り、やがて芹生峠(標高約700m)に至る。冬タイヤながら、北向こうから来た車輌が、南は貴船側の急坂下降を恐れ、引き返した跡がみられた
芹生峠を越え、また足下に気をつけつつ北上を続ける。実際は下り道だが、かの大堰川(桂川)支流の灰屋川の谷まで下ると芹生集落が現れた。積雪は15cm程か
芹生集落からは、車の轍は疎か、人の足跡もない車道を進み、やがて灰屋川上流へと続く林道に達した。どうやら、今日の1番乗りとなったか
しかし、1番乗りということは、踏み跡を利用できないので、ラッセル(雪上開路行動)が必要となる。つまり、足の負担が格段に増すのである。しかも、全て新雪のため、積雪量の割に足が沈み、更に体力をとられた
先行者のない雪の林道を延々と進み、やがて三ノ谷分岐に到達。いつも通り、この辺りから一段と積雪が増す
ここでワカン(アルミ輪かんじき)とアイゼン(靴底氷雪爪)を装着。これも、いつも通り。ただ、新雪の今日はここへ来るまでに結構汗をかく程の負荷を得た。そして、昨今問題となっている熊害対策に鈴も装着
三ノ谷分岐から灰屋川支流の三ノ谷に入り、また延々と雪の林道を進む。そして、山頂直下谷との分岐、即ち雲取山登山口に到達。ここからまた一段と雪量が増す
標識も道もない雪の谷筋を進む。沢の中に雪はないが、左斜面に取りつき、そこを登る。傾斜が強く、時に沢にずり落ちそうになるので、ピッケル(斧頭雪杖)が欲しい場所であるが、ストック(山杖)で我慢
直下谷はそれ自体結構急だが、やがて現れた沢の源頭から上は更に傾斜が増す。約1年ぶりにそれを見上げるが、進む先の谷なかに倒木が増えていた。周囲の台風倒木が移動してきたのか。途中の障害物となったが、その分、雪崩に対する障害とも見え、いつもここで生じる緊張は和らいだ
源頭上部谷の倒木を跨いだり潜ったりしつつ雪の急斜を進み、山頂下の最後の急登に挑む。写真では解り辛いが、正に一歩進んで半歩ずり下がるような場所であった。積雪は50cmを超えているか。深く沈んでも底は見えない。斜度的に他の登頂ルートより格段に辛いが、良い鍛錬にはなる
そして、雲取山山頂着。人はおらず、意外にも踏み跡も一切なかった。ここでも一番乗りか
凍てつく京都・雲取山山頂の標識等々。気温は、先程と変わらず-2度。この時期としては高い方であった
冬枯れの枝先も凍る
貴船奥宮先の車輌進出地点から約3時間かかり山頂に着いたが、休まず更に北へと向かう。深雪のなか、2度登り返して20分程で到達したのは、黄色い山名板がある雲取北峰であった。いつもの展望・休憩地である。意外にも、ここも踏み跡すらなく、一番乗りであった
この山域屈指の好眺望を誇る雲取北峰で、山中最初で最後の休息と昼食をとる。生憎、雪舞う天候のため比良山脈等々の遠望は得られなかったが、向かいの地蔵杉山等の美しい雪景色が見られた
さて、食事休憩が終れば、帰路に。帰りは二ノ谷等の別路を採りたかったが、夕方からの用を考え、来た道を下る。深雪のなか北峰まで行けたので十分満足であった。喘ぎつつ登った雪の急坂を、別路・別人の如く駆け下り、瞬く間に林道へと下ったのである
灰屋川上流林道に落ちる、雪崩の一種、スノーボールやデブリ。左の急斜上からのもので、往路では見なかった。気温が高い日ではなく、陽射しも無かったが、油断禁物である
良き冬日に感謝
また延々と林道や車道(府道)を歩いて進出点まで戻り、陽がある内に京都市街の自宅に帰還した。
その後は、道具の片付けやら新年会用の買物や準備を行い、無事参加者を迎えることが出来、夜半まで楽しんだのである。
初登りと新年会が叶った良い冬日(とうじつ)や皆に感謝!
2023年11月03日
紅葉試履
新靴慣らしに秋山へ
今日は朝から隣県滋賀に出掛ける。
先月、9月末の高山行で浸水するようになった登山靴の替えを新調したが、滋賀西部の比良山脈で、その慣らしや試験をするためであった。
勿論この時期恒例の、山の紅葉具合の観察も兼ねて。例年なら標高1000m超の比良山上は紅葉が終り冬枯れとなる頃だが、今年は猛暑で、しかも今日ですらまだ暑かったので、良い秋景が観られると思ったのである。
新調の靴は高山用の重登山靴。保温材入りの雪山対応ではないので「ライトアルパイン」と分類される場合もあるが、厳冬期以外用としては最も重厚な部類の革靴である。
それは、15s以上の野営装備を担ぎ、1日当り歩行10時間以上、登行高度2000m以上、山中移動15km以上、そして岩稜帯通過という、高所登山・縦走に耐えられ、足を保護できるものであった。
まあ、普段よく行く畿内の山には無用の長物ともいえるが、更新を機に導入することにした。これまでの靴も本場イタリア系のしっかりした革靴だったが、重登山仕様には満たぬ柔さ有るものだったので、高山の長大な下りで小指を傷めたり、岩場・ガレ場での安定等の問題を抱えていた。
また、その靴が昨今の円安・物価高により倍くらいの値になったことも影響した。しかし、その他も靴も軒並み高騰しており、一時は早期の更新を諦めかけたが、偶々良い靴が格安で手に入れられたので、思い切って購入したのである。
入手したからには、早期に慣れる・慣らす必要がある。重厚な登山靴こそ、また高負荷の条件で使う靴だからこそ、その必要があり、今日の出動の動機ともなった。
手入れや修繕を繰り返し10年大事に履いた旧靴は、機を見て靴底を張り替え、近山用にでも使おうかと思う(浸水は他の補修である程度対処可)。
上掲写真 比良山脈主稜線上にある北比良峠(標高970m)から見えた、ススキ越しの琵琶湖や近江舞子水泳場・小松沼(内湖。中央上)等。なお、今日表題の「試履」は、「しり」もしくは「しくつ」と読む。「試し履き」と「履(くつ。靴と同意)試し」の両方の意を持たせたのである。
朝9時半くらいに麓に着いたが、サングラスを探したりしたため、結局10時前の開始となった。登山口の谷なかには、この様に既に多くの登山者の車輌があり、停め場を探して再度麓に下る車も次々現れた。さすがは紅葉期の比良。人気山域らしい状況である
敢て直登、正面谷・コヤマノ岳ルートへ
今回は靴や足の具合次第なので、行ける処まで行くことにしたが、一応最奥の山脈最高峰・武奈ヶ岳(標高1214m)往復を目標にした。
その道程は一般的なものではなく、敢えて登坂が強く足下の悪い「正面谷」と「コヤマノ岳」を直登するものにした。
今朝は滋賀に入った途端深い霧に閉ざされ見晴らしを危惧したが、写真の如く、山上方面は急速に晴れ始めたようである。
正面谷沿いの登山路を上がると、やがて急なガレ場で知られる「青ガレ」に達する(標高650m前後)。青みある大石が散乱する斜面で、通行注意箇所だが、脇には、樹々の紅黄葉がみられた
青ガレを更に進むと、紅葉に覆われた水無谷に達した。稜線まであと少し
大小の石や砂で足下の悪い水無谷を詰めると、やがて稜線上の鞍部・金糞峠(かなくそとうげ。標高約880m)に達した。本来ならこの切れ目の先に琵琶湖が見えるのだが、まだ霧があって叶わなかった
金糞峠裏から未踏ルートへ
金糞峠で今日最初の補水休息を行い、峠裏の谷を緩やかに下りつつ進む。山脈の東を流れる安曇川の源流域の一つで、大きな台杉が多い鬱蒼とした森だが、今日は黄葉のお蔭で明るめであった。
金糞峠裏の谷なかには、こんな平坦地も現れた。古道の分岐点で、材木や石材等の牛馬運搬に利用された「コバ」と呼ばれる造成地か。台杉共々、山と人との古くからの関わりが知れる遺構である
金糞峠裏の谷なかでは、途中支流谷を遡上する道を進み、やがて谷横の尾根に乗る急登を採った。負荷が高く、靴擦れの発生も自覚したが、これまで通ったことのない道だったので、楽しみつつ進む
意外の冬枯れとオーバーユース(?)崩落地
急登の尾根道をひたに進むと、やがて写真の如き明るい樹林に到達。樹皮が白いので、ブナ林と思われたが、なんと既に落葉していた。そのため、樹間の向こうに、先程越した山脈主稜線が見えた。
冬枯れのブナ覆うなだらかな稜線を進むと、間もなくコヤマノ岳(標高1181m)の標識に遭遇。実際の最高点は少し先だが、一応比良第2位の高所
コヤマノ岳の近くからは本日の目標地・武奈ヶ岳が見えてきた(山頂は右端)。そして、山上に多くの人がいるのも見えた
結構な高所・奥地に達したが前進を止める不具合は生じなかったので、そのまま進む。武奈ヶ岳山頂近くでは崩落した山肌が現れ驚く。多くの登山者通行の影響で脆くなり、大雨等を機に崩れたのか。土嚢による対策はあったが効いていないので早急な処置が必要に思われた。思えばここを通過するのは久々(7年ぶり?)。まさか元の道が消える程荒れているとは……
眺望に難有?好天の武奈山頂
そして山頂着。時は丁度正午、出発から2時間強であった。硬く重い新靴を履いた割に遅れは無し。一先ず登りの試験結果は上々か。
写真は人が少ない時を見計らったが、本来は百人を超えるような混雑ぶりであった。
武奈ヶ岳山頂から北は高島・今津方向を観る。手前の高所緩傾斜谷「広谷(標高1000m前後)」の紅黄葉が美麗だが、やはり、冬枯れも多い
広谷の紅葉を望遠撮影。尾根に囲まれている分、温暖なのか、紅葉が良く残っている
同じく武奈ヶ岳山頂から見た、南はコヤマノ岳方面。先程通過してきた稜線である。冬枯れ広がるブナ林の具合から、結局今年の比良の紅葉に暑さの影響は見られず、平年並みかと思われた。先月一旦冷えた際、一気に進んだのか。そしてまだ霧の影響が残っているのか、琵琶湖は殆ど見えない
こちらも同じく武奈ヶ岳山頂から見た東方は丹波山地。京都北部の山塊で、1000m弱までの山々が連なる。こちらも、微妙な紅葉具合。元より、霧の影響か、ぼんやりして精彩に欠ける。天気が良くなったのに残念
帰路は八雲ヶ原・ダケ道経由
武奈ヶ岳山頂にて40分程撮影や食事に費やしたのち、帰路へ。復路は少々迂遠となるが「ダケ道」と呼ばれる一般的ルートを辿ることにした。
その途上のコヤマノ岳東の谷あい等では、この様に紅黄葉が見られたが、盛りは過ぎた感じであった。
コヤマノ岳東の、標高920m程の場所にある旧比良スキー場ゲレンデ跡に下ると、陽当たりや温度条件の所為か、美麗な紅葉が現れた
旧比良スキー場ゲレンデ跡下に続く八雲ヶ原湿原。スキー場施設があった場所だが、撤去後法律に基づき二つの池が原状回復された。意外だったのは、池畔にテント泊のグループが多かったこと。それは、老若男女様々な人で構成され、以前にはなかった状況であった。コロナ禍を機に生じたキャンプブームの所為か。または11月とは思えぬ高気温・連休の所為か……
こちらは、二つの池の西隣にある、スキー場閉業以前からあった池沼。昔の山会では通れた木道(板橋)が崩壊し、通行不能と化していた。山中通路の一つ、近道だったのに、残念
平坦な八雲ヶ原の池沼帯を抜け、荒れた林道状の登坂を1km弱進むと、花崗岩砂で白々と開けた場所・北比良峠(標高約970m)に達した。金糞峠東北に位置する比良主稜線上の鞍部だが、かつて索道駅があった関係からか、整地され峠らしい姿はない。そもそも、本来の峠は北側の鞍部ではなかろうか。そして、ここにも幾つかのテントが張られており、その初見に驚かされた。八雲ヶ原共々、皆便所はどうしているのか。人数が多いだけに少々案じる。表題写真の場所だが、結局霧は晴れず、琵琶湖は見え難し
北比良峠にて後方は西北を眺めると、正面に午前通過したコヤマノ岳(山嶺中央)や、昼休息した武奈ヶ岳(同右奥)が見えた。これらは、主稜線裏の奥山なので、これから東麓に下ると見ることが出来なくなる。再見!
「ダケ道」にて
北比良峠にて靴紐を調整し、再出発。主稜線東斜面に下るため暫く支尾根上の道をゆくと、対面は釈迦岳(標高1060m)の美麗な紅葉が見えた。そこは、比良の紅葉名所の一つである。
まだ時間が早いため、これら好眺望が得られる場所場所では飲食休憩する人の姿が見られた。
同じく北比良峠と麓を結ぶ「ダケ道」にて。まだ標高が900m超の場所だが、どうやら今比良では同700mからこの辺りまでが紅葉盛期のようである
イタヤカエデらしき楓葉も鮮紅の鮮やかさ
しかし、吹き曝しの痩せ尾根では既に冬枯れ
そして標高を下げると、この通り。あたかも、夏山同様の緑景であり、また、気温も高い
下山。靴のことより……
やがて、つづらの古道に乗って沢まで下り、元の正面谷に帰着した。今日の試験山行の終了である。時は14時半前、総計約4時間半の行動となった。
結果は、右足踵(かかと)に盛大な靴擦れが出来たが、懸念していた下山時の小指衝突は起こらなかった。
靴擦れは紐の結び等で何とかなりそうであり、また、靴が足に馴染むことで軽減される筈なので、一先ず成功・問題なしと言えた。
それより、とにかく暑かった。11月に入ったというのに、こんな暑い紅葉登山は初めてではないか。ちゃんと冬が来るのであろうか。靴のことより、そっちの方が心配になったのであった(笑)。
2023年10月07日
近山始秋
待望の……
いつまでも続くかに思われた猛暑の夏も、漸く一段落に。
30度超えの真夏日が先月9月末を最後に終り、熱帯夜や高湿の気も途絶えた。多分に漏れず、自身も連日の暑さで大変な思いをしていたので、まさに一安堵であった。
ただ、そのあまりの急変ぶりに、身心共に戸惑いもあった。とまれ、10月に入ると同時に、ここ京都市街にも秋が来た。とにかく、良かった。
写真は、大文字山火床から見た京都市街地北部(中央右の緑地は京都御苑、右奥の山は嵐山)。所謂「五山送り火」で焚かれる「大」字の頂部だが、折よくススキが風に揺れていた。
それら草花にとっても、待ちにまった秋到来か……。
同じく大文字山火床より。火で「大」字を表現する際に必要な焚火場「火床」の台石が見える。即ち、これらが大字の線上に並ぶ。しかしまだ夏が終ったばかりなので、ススキ以外、中腹や麓の森に秋の気配は見られない
こちらは火床の前に立ち寄った大文字山山頂から見た、山科盆地(左)や京都盆地(右)及び彼方の大阪方面。今日は用の前に少々身体を動かさんと思い、輪を書くようなルートで大文字山頂(標高465m)を往復した。まあ、暑さが去り、漸く近山に登れるようになった、ということもあった
山頂の立木に括られた温度計の表示は17度。暑くも寒くもない、野外活動には快適な陽気である。そのためか、山頂を初め、山中至る所で多くの人の姿があった。
ただ、先月末から天候が安定せず、今日も雲が多かった。しかし、光線の関係か、こういう条件の方が意外と展望がきく。中央奥に浮かぶのは、ここから約45km離れた大阪中心部の高層ビル群である
2023年09月27日
'23奥黒部行(下)
縦走中止。雨中の下山へ
京都市街から車行6時間、登山口から重荷を負い9時間近く歩いて昨日辿り着いた奥黒部の雄峰・薬師岳(標高2926m)傍の野営場。
しかし、当初の好天予報が覆り、予定日のほぼ全日が雨となったため無念にも山行を中止することとなった。1日くらいなら遣り過せる準備はあったが、3泊4日の殆どが雨中となると、さすがに厳しい。
また、靴や手套の防水性に不具合が出たのも困難要因に。第一、目的の秘湯入湯や紅・黄葉鑑賞も難しい状況では無理して続ける意味もなかった。
上掲写真 帰路の太郎兵衛平の木道上に現れた雷鳥。既に冬毛への変化が生じている。珍しく、愛らしい姿で、羨望されるべき遭遇であるが、高山縦走者にとっては荒天の前触れとして警戒される。私も昔北アルプス・表銀座縦走初日に遭遇して喜んだが、その後荒天と化し散々な目に遭った(笑)。まあ、今回は既に荒れている最中かつ下山中だから構わないが……。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
本降りの雨に煙る薬師峠のテント場
良く寝るも、辛い撤収の朝
昨晩撤収を決めたが、山奥の稜線上(薬師峠)なのですぐには叶わない。
天候の更なる悪化への懸念もあり、最も近い登山口の富山・折立へ下ることも考えたが、そこから駐車場へのバスはなく、徒歩も距離がありすぎるため、結局1泊して元の稜線と尾根道を戻ることにした。
風雨のなか森林限界を進むのは、帰路とはいえ、あまり気分が良くない。ましてや、片靴や両手袋が濡れたままであった。
前夜は薬師岳山頂近くで緊急的に食べた非常食のもう一欠片を食したのみで寝てしまった。その後、23時頃に一旦目覚め、漸く本来予定していた夕食を摂った。その後は、また就寝。
失望と疲れの所為か、または一晩中降り続いた雨の所為か、どちらの時間も良く寝られた。色んなものが濡れて不快であったが、然程風が無く、新しからぬ天幕がそれ以上の雨を防いでくれたのは幸いであった。
そして、6時過ぎに起床した際は雨が止んでいたが、食事や片付けをしているうちにまた本降りとなり、天幕撤収時は至極面倒なこととなった。
屋根がないために濡れたままの収納となり、重量も増したのである。それでも、気温が10度程と高めなだけ、まだマシであった。
とまれ、雨衣で身を固め、長時歩行の覚悟を決めて帰路に就くほかなし。
テント場からすぐの急登を上り、太郎兵衛平の木道上を進むと雷鳥集団が出迎えた。こちらの気に反し、皆ご機嫌・活発そうである。しかし、全く道をあけてくれないので、木道の脇を進むしかなかった(保護すべき植生は無し)。最初の画像で見るように、向こうに首を向けながら、実は私を見ていたのだが……。雷鳥も敗退・撤収者の足下を見ていたのか(笑)
やはり厳しい山頂
思った通り、帰路は前日に増して眺望なし。全く何をしに来たのかさえ見出し難い気分であった。あえて言えば、ズブ濡れの歩荷訓練か。
せめてもと、駐車場へと続く尾根道との分岐点である「神岡新道分岐」近くにあった北ノ俣岳(上ノ岳。2662m)の山頂を踏むことにした。
テント場を7時半に出て約2時間でその山頂に達したが、危惧通りの荒れぶり。写真ではガスのみで穏やかに見えるが、風速は15m程と思われ、10度以下の気温と相俟って、居辛い場所であった。
やはり、昨日の薬師岳同様、同じ稜線上とはいえ、周囲から突き出た山頂は別世界の危険があった。
北ノ俣避難小屋(標高約2040m)の中から見た雨の周辺景
まさかの巨大獣糞
北ノ俣岳から急ぎ退避したものの、標高が近い分岐付近も風雨が強かったため、ハイマツ急斜の下降路を一心に下った。
途中、昨日はなかった巨大な獣糞を路上に発見。大きさは人の3倍以上、量は10倍以上というものであった。初見だが、これはもはや、熊のものとしか考え難い。しかも新しいので、まだ近くにいるのではないか……。
こんな荒天で、逃げ場のないハイマツ密生の一本道で襲われればひとたまりもない。斯様の高所にまで現れることを含め、本州熊の危険について認識を新たにしたのである。
転倒率100%の荒れ木道
その後、急斜下の湿地や木道で転倒が頻発。左右の山杖を使い、慎重に進んだにもかかわらず、である。特に濡れた木道は酷く、全く回避できなかった。通行者が少ないため、ヌメリが多いのか。
ちなみに私は若年時よりあまり転んだことがなく、比較的足さばきには自信がある。
とまれ、2度目の木道転倒で手首を痛めてしまった。当初は骨折したとさえ思ったが、幸い捻挫くらいで済んだように感じられた。登山口までまだ遠いので、ここで重症を得ればヘリ救助になりかねない事態となる。
山頂の荒天やそこからの急下降、そして転倒等で疲れ、丁度時間も昼前だったので、昨日確認した湿地脇の避難小屋で休息することに。
すると、小屋の扉が開いており、先客がいた。挨拶すると、私同様、飛越トンネルから奥黒部縦走を企てるも、想定外の荒天で中止・下山する登山者であった。
そして、なんと彼は足を負傷していた。訊けば、私と同じく木道で滑ったらしい。なんとか歩けるらしいその患部は服の上からでも腫れているように見え、骨折に近い重症が感じられた。安からぬ防水衣も破れたらしい。
彼は避難小屋で暫く様子を見てから帰るという。私が麓での救助要請代理を提案すると、ここでも電話が繋がるので不要という。その後、小屋で昼食を食しつつ色々と話し、互いの無事を述べ合って別れた。
今日この道の通行者は、恐らく彼と私のみらしいとのこと。こんな負傷率100%の危険木道は一刻も早く改修して欲しいものである。
新道敬遠の隠れた理由痛感?
長居した小屋を12時過ぎに出て長大な尾根道を進む。基本下りなのだが、登り返しも多く、疲労する。ましてや雨中なので、辛いこと限りなし。更に、名高い泥濘道が水を得て悪路性を増す。
慎重に進むも、ここでも何度も転倒することとなった。先に負傷した手首もまた傷める始末。慎重に進まざるを得ず、全く速度が出せなかった。
泥は雨衣で防げたが、この滑り易さが、この道が敬遠される隠れた理由ではないか――。
昨日気にはなったが、気づかなかった難儀を、奇しくも荒天の帰路に思い知ることになった。また、昨日は無かった新しい熊糞らしきものをここでも見たので、その危険も一因かもしない。
散々なるも高負荷鍛錬に
そして、雨と泥のため休憩することもままならず、半ば怒りつつ長い尾根道を進み、15時半に漸く登山口に下った。
その後はまた車行による帰路に。まだ明るいのにまた車道に猪がいて驚かされた。それらが夜行性との思い込みは山でも慎むべきだと教えられる。
高速の休憩所等で仮眠したりしつつ進み、22時前に京都市街に入ったが到着直前に油断して小さな事故に。最後に3時間休憩なしで運転したのが災いしたか。幸い人身に関する事態ではなかったが、色々と反省させられた。
ということで、今季の高山行は予定をこなせず散々な目にあって終った(手首は治療不要の軽症診断)。しかし、意外にも、歩行距離33km、累積登坂2650m、消費熱量4500kcalという、剱早月往復や甲斐駒黒戸往復という、本朝名立たる高負荷山行を凌ぐ行動となった。
正に、雨中の歩荷鍛錬だったのか(苦笑)。
「'23奥黒部行」1日目の記事はこちら。
2023年09月26日
'23奥黒部行(上)
恒例の高山行
今日は近年恒例化している秋の高山独錬初日。
9月下旬だというのに、まだまだ暑いが、10月に入ると山小屋が閉ったり急に寒くなったりするので、この辺りで実施することとした。
前夜京都市街から車で6時間かけて到着したのは、岐阜県北部で、富山県境に近い山奥。そこにある登山口の駐車場で車中泊して今朝出発となった。
向かったのは、2年前に別の登山口から巡った奥黒部。かの立山深部・黒部川の源流部で、日本最後の秘境と呼ばれる北アルプスの高山地帯である。
今回は前回巡れなかった、その西部の薬師岳(標高2926m)や高天原(たかまがはら)・黒部五郎岳(標高2839m)を周回する予定であった。
上掲写真 岐阜奥飛騨と越中富山の深部山地を結ぶ大規模林道・高山大山線(林道東谷線)の県境隧道・飛越トンネル傍の登山口から続く奥黒部への道上に現れた枯樹。登山開始早々の夜明け空を覆う重い雲が気になる。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
登山口と駐車場がある飛越トンネルの岐阜側口。向こう口は有峰有料道路(林道東谷線)として富山山間に続くが、何故かこちら側は無料。ここは岐阜の深部として知られる神岡の奥地で、標高も1450m程もあるが、名の通り特別な林道らしく、2車線幅で夜も危険を感じることはなかった。ただ、途中路上に大きな猪を2頭も見て(車のライトを浴びても逃げず)、野獣の危険は感じた
厚い曇天のため、想定外に暗い、早朝の飛越新道登山口
入山は自分のみ!?
そして、ある程度時間が有ったにもかかわらず結局一睡も出来ずに出発の朝を迎える。
標高が高いにもかかわらず、気温が15度程もあり、車内が暑かったことにも因るが、休むことは出来たので、まあ、よいか……。
出発時の登山口の暗さ。ライトはあるが獣のことを考えると気分良からず。しかも、広い駐車場に自車以外2台しか車がなく(恐らく無人)、明け方山に入るのは私だけだと判明した。予定では5時出発だったが、この暗さの為に逡巡し、結局15分遅れで出ることに(笑)。想定外の厚い雲の所為か
熊鈴を鳴らしながら、また、時折手を叩いて音を発しながら、早速始まる未明の急登をゆく。暫くして振り返ると、この様に駐車場と周囲の山々が見えた。雲が厚いが、予報では好天が続く筈なので、山間のこと、一時のことかと思い、先を急ぐ……
やがて主尾根に上り、トンネル上の鞍部を通ってそのまま尾根道を東上すると、少し明るくなってきた。ただ空の重さは決定的となった。そして、遠くに只ならぬ姿の高山が見え始めた(中央奥)
その高山は今回の目的地の一つ、薬師岳であった。これは望遠撮影によるもの。今日はこの山腹鞍部にあるテント場にて野営し、明朝山頂まで往復する予定であった。しかし、遥か彼方の遠さである。3泊4日分の野営道具・水食料が肩・背中に重い。うーん、見なかったことにしよう(笑)
噂の泥道具合は?
そして、間もなく明るくなってきた。
「飛越新道(一部を除き「神岡新道」とも)」呼ばれる登山路は、尾根上にありながら泥濘で悪名高かったが、この様に丸太が埋められるなどの対策が随所で見られ、思った程の難儀はなかった。
ただ、今年は暑さと少雨の影響で偶然状態が良かっただけかもしれない。何れにせよ、登山口の標高の高さや駐車至便の割に人がいない。泥濘のほか、著名山頂や山小屋までの長い距離により敬遠されているのか。
もしくは、まだ何か理由が隠されているのか……。
長い尾根道には時折、このような広場が現れる。高層湿地の名残りらしく、「鏡池平」なる小池がある場所もあった。植生は登山口から既に標高が高く、緯度も高いので、大白檜曽(オオシラビソ)等の針葉樹が卓越する、近畿では見難い、北方的・亜高山的なものが続く
尾根上の道は一段急登を上がると似た様な標高が長く続き、中々高度が稼げぬものだったが、出発2時間強、距離は5km強を歩き、漸く標高2000mの大台に到達。この、寺地山(てらちやま。標高1996m)の三角点と山頂標識を過ぎた辺りである。しかし、何故すぐ傍の標高2000m超地点に三角点と山頂が設定されていないのかは謎であった
寺地山付近から南の岐阜・飛騨側斜面を覗くと、全く黄葉していない様子が見られた。北陸傍の山奥の、この標高地点での、この時期の眺めとしては異常に感じられた。まるで夏山風情である。やはり、ここにも猛暑の影響が及んでいるのか……
長き尾根道終了と避難小屋
寺地山から60m強下ってまた登るという、これまたあまり高度が稼げない尾根道を進むこと45分程で、奥黒部の主稜線直下で、それを見上げる場所に出た。
重い雲は相変わらずで、更にガスまで出てきた。直前の予報ではこの2日間の好天は間違いない筈だが、これからこの急登を上り、いよいよ森林限界を超える高所に入るため、少々気掛かりとなった。
主稜線下近くにはこの避難小屋があったので、休息がてら見に行った。途中の木道は崩壊気味だったが、小屋は傾きながらも修繕されており、利用可能な状態であった。また、情報通りその前には水量豊富な水場もあった。気温は高めだったが、曇天のため水の追加補給は不要であった。しかし、非常時や帰りのことを考え、小屋と水場の状況が知りたかった。主稜線上は南北どちらに行くにも補給や退避が困難なため、良い確認となった
避難小屋から本道に戻り、主稜線への登坂に入る。少し進んで振り返ると、池沼ある高原景が目に入った(通称「ガキの田」か?)。ここはちょうど立山で言うと、室堂のような場所。晴れていれば、または盛夏ならば、さぞや良い眺めであったろう
主稜線急登での難
人の通行が少ないためか、壊れた木道が多い荒れた登山道を登りゆく。木道がなくなる急斜では、この様な土道となったが、水が走って表土が流出し、底に大きな石ある道となり歩き難くなった。
それどころか、時折微かに降っていた雨が強くなってきた。最初は軽量傘を出して様子を見るが、風共々強くなってきたので、上の雨衣をはおり、背嚢に防水幕をかけた。
天気は全国的に安定している筈なので、これで遣り過せるかと思いきや、風雨が増々強くなったので、結局、上下雨衣や防水手套を着用する完全装備となった。急斜登坂中で、気温も高めのため、暑く、疲労が増す。
奥黒部主稜線への急斜の道はやがてハイマツとクマザサの密生に続く細道と化した。先程の人災的荒廃路とは異なり、ここは植物に道が飲まれかけており、左右から圧迫を受け歩き難い。これも通行者僅少の所為か。最近流行りの薄い2層式雨衣を使う場合は要注意かもしれない。しかし、登るにつれ天候や視界が悪化し気が重い。予報を信じ、一時の事と思い、進む
奥黒部外周着
そして、主稜線着。登山口から6時間強で到達。4日分の装備を担ぎ、雨支度に翻弄された割りに遅延は無し。風雨も小康化し一先ず安堵するが、眺望は全くなく、天候回復の兆しも見えない。
ここの標高は2630m強。奥黒部外周西部の山上なので、周囲の名立たる山峰や雲ノ平等の黒部源流高地が俯瞰出来る筈だが、残念だが全く見えず。
飛越・神岡新道と主稜線の接点背後を通る稜線道に合流し、一路北を目指す。高山の稜線とは思えない、なだらかな地面に続く道程で、途中昼食を摂るも、やはり眺望は無し。10度以上あった、高気温のみが救いか
主稜線北上中(標高的には下り)、ガスの合間から黒部源流方面の斜面が見えたが、黄葉が始まっていることが確認出来た。高山に囲まれた冷涼地のため、他より早いのか
主稜線を進むも、なだらかさは変わらず。そして雨は降ったり止んだりで雨装備も外せず。やがて現れた、太郎山(標高2373m)に続くこの高原に感心するも、想定外の天候を恨むばかり。帰路は通らないので残念無念である。因みに左端には富山の人造湖・有峰湖が見え、水不足の為か、かなり水面が低く見えた。この為にも雨は必要なのだが、何もこんな時に……
山小屋で知る一大事
そして、丘陵状の、これまたなだらかな太郎山を越えると、太郎平小屋が見えた。今日の野営地管理所である。到着は出発から8時間強の13時半で、予定通り。
ここで、手続きをするが、驚きの事実が判明。なんと、小屋内の天気掲示が今日から連日雨予報に。特に明日・明後日が本降りで、雨が弱まるのは山行最終日の明々後日のみであった。
綿密に天候計画を立ててきたのに、一変の事態、まさに一大事である。
期待を砕かれ、気を重くして野営場に向かう。煩わしい雨装備をまとって。テント場は太郎平小屋から20分程稜線を進んだ薬師峠内にあった。写真中央やや下に見えるハゲた場所で、薬師岳への登り口にあたる。小屋より30m程低い場所にあるので、そこへと下降した
標高2300m弱の場所にある野営地に着き天幕を設営。幸い雨は止んでいたが、天候悪化を考え、場所を熟考した。結果、水が流れる場所より風当りの強い場所に。どちらかしか選べなかった為だが、慎重な綱張りやペグ(掛け釘)への石載せ等で対策した。天候悪化のためか、先住者は数張のみ。ただ、ガスの合間から見えた黄葉の素晴らしさに少々慰められた
薬師岳へ
天幕設営後、不覚にも眠ってしまう。9時間近い歩行自体は意外と負荷は感じなかったが、やはり雨の所為で疲れが増したようである。
そして1時間程して目覚め、まだ雨が降っていないことに気づく。思えば、明日から本降りのため明朝未明の薬師岳登頂は困難に思われた。
ならば、今日登っておくべきではないか――。幸い雨はなく、日没までに山頂に立てる可能性があった。
よって、予定を変更し、急遽非常用荷物をまとめ登頂を開始した。テント場横からすぐ始まる写真の如き川跡に続く急登の登山路をひたに登る。
200m近く高度を上げると、この様な平原が現れる。「薬師平」と呼ばれる場所で、高層湿地となっている
薬師平を過ぎてからまた急登が始まり、荒れた尾根筋に出る。森林限界を超えた高所らしい地貌だが、着ていた雨衣が暑くなり、上下共々脱いだ
更に進むと、山頂直下にある最後の山小屋・薬師岳山荘が現れた。標高は2700m弱。テント場から約1時間で着いたが、ここに至り風雨が強くなってきた。山頂まであと少しなので、もう少しもって欲しい
薬師岳山荘前のベンチから見た、風雨で霞む薬師岳山頂方面
風雨のアタック
そろそろ夕食が始まりそうな気配が窓から見えた薬師岳山荘前で、また雨衣を着込み山頂を目指す。時間は16時半、暗くなるまであと1時間以上あるので、このペースならそれまでに登頂出来る筈。すれ違った人もなく、時間的・天候的に恐らく私が今日最後の登頂者となるだろう。
しかし、あろうことか、進むにつれ風雨は増すばかりで、遂には風速15m程の強風雨と化した。逃げ場のない稜線高所で、先程まで暑かった身体も一気に冷える。しかも、防水靴の片方と同手套の両方が故障浸水していたため、一層の悪条件となった。
それでも構わず登坂を続けるが、急に力が抜けてきた。そういえば、正午頃に軽い昼食を済ませて以来、何も食べていない。寒さと相俟って、熱量不足に陥ったか。
風雨に背を向け、寝そべるようにして一服し、非常食の一部を口にする。すると、忽ち効果が現れ、行動可能となった。しかし、風雨は更に強まり、ガスによる視界不良も著しくなった。
標高2870m超、山頂までの高低差は50m程まで接近したが、距離はまだ600m程あった。時折、手前の偽頂後方に聳える山頂の黒い影が見える。
たとえ視界が失われても現在地や地理を把握しており、また念のためGPS地図も稼働させているので道を外すことはないが、偽頂から上の細尾根で風が強まると退路を断たれる恐れがあった。また日没も近い。下山に備えライトを用意していたが、暗闇かつガスの濃い暴風雨中の行動は厳しい。
何より、どこか気味が悪い。進むにつれ阻まれ、まるで山が拒み、怒っているようである。
残念ながら、ここにて登頂を断念――。急ぎ下ることにした。どのみちこの状況では証拠写真を撮ることすら難しく、視界の件と相俟って、快い価値ある体験とはなるまい。
悔しくも……
さて、下りの逃げ足は速く、1時間程でテント場に戻った。最後はライトで足下を確認しつつ。そこも雨が本降りとなっていたが、山上とは別世界の穏やかさ。やはり山は奥深い。そして久々に山の怖さを感じさせられた。
盛大に濡れた装備を天幕内で拭いたりして明日に備える。装備浸水のこともあり、もはや連日の行動は難しく、眺望や温泉の楽しみも得難いため、山行継続を断念し、明日下山することを決める。
車行6時間、重荷負う歩行9時間も費やし(高速・燃料代も多大)ここまで来たので悔しい限りだが、天候を変えることは出来ぬため致し方なし。
「'23奥黒部行」2日目の記事はこちら。
2023年06月25日
余呉賤嶽行
春過ぎて夏開催に
4月中旬に予定しながら、私の長患いや天候の所為で延期につぐ延期となっていた春の山会(やまかい)が、今日漸く開催されることとなった。
もはや「春」ではなく「夏」の山会と言ってもよい時期となったが、ともかく、朝自転車や列車を乗り継ぎ、京都隣県の滋賀北部に向かう。
やがて辿り着いたそこは、日本最大の淡水湖・琵琶湖北岸付近で、北陸・越前にも接する、「湖北」と呼ばれる地域であった。
今回は、そこにて、戦国末期かの豊太閤秀吉が天下掌握の基礎を固めた決戦地・賤ケ岳と、その周辺の琵琶湖北岸や孤立湖・余呉湖等の、史跡・自然・地理・民俗等を探索する、自然・人文企画的な複合山会に臨んだ。
上掲写真 京都市街からJR快速で約1時間半で着く、近畿東北縁の長閑な余呉駅から見た、水田彼方の余呉湖や、それを囲い、裏面の琵琶湖とを隔てる、賤ケ岳(中央奥。その右隣りの鞍部は飯浦の切通し)等の山々。著名合戦の舞台であり、民俗学・地理学的も興味深い場所である。
余呉湖・賤ケ岳周辺地形図。拡大及び移動可能。記事の内容に合わせてご参照あれ。元の大きさに戻すにはリロード(再読込やF5キー押下)を。なお、賤ヶ岳合戦の布陣状況等は、こちらや各紹介サイトの図を参照あれ
今日は、集合場所の余呉駅から余呉湖東岸の山地に入り、その稜線を南行しつつ賤ケ岳合戦の主戦場を見学して賤ケ岳山頂に達し、その後、琵琶湖岸に下り、山梨子(やまなし)と飯浦(はんのうら)という湖岸集落を見て後者北の切通し古道を越えて余呉湖岸に入り、その東岸や水利施設等を観察しつつ北行し、余呉駅に戻る予定であった。
但しそれは参加者の体力具合に依るものとした。もし賤ケ岳までの登坂で不調が出れば、行ける者だけで琵琶湖岸を巡り、切通し鞍部か賤ケ岳山頂で合流後に余呉湖岸に下るつもりだった。まあ登り高低差が300m弱の初心者的道程なので大丈夫とは思うが、暑さが気にかかるところではあった。
賤ケ岳擁す余呉湖東岸山地へ
とまれ、早速余呉駅から登山口の江土(えど)集落に移動する。曇りの予報に反して青空が見え、午前遅い時間もあって気温も高めであった。
写真は江土集落を流れる江土川(高田川)。元は流入・流出河川が無かった閉塞湖の余呉湖と東岸山地の東を流れる余呉川を結ぶために近世初期に開削された水路で、別所に近代的で大がかりな送排水施設が出来るまでは、この川一つで、湖と余呉川双方の増水に対応していたという。
江土集落では意外と家屋が密集して登山口が判り辛かったが、集落裏の山の端に付けられた案内板に助けられ無事進むことが出来た。もし案内板が無ければ、民家の裏に入り込むような道なので、心理的に進み難い(笑)
集落裏の登山口からは尾根上に続く山道をゆく。とはいえ、この様に良く整備された道で、傾斜も緩く歩き易かった。何より、意外と人工・天然の森が深く、日陰が続いたのは有難い。道は軽トラ1台が通過出来そうな規模で、古い牛馬道の名残りかと思われた。ひょっとすると、この奥に続く秀吉方砦への軍道の名残りか。写真の箇所は鞍部を盛土して平坦にしているが、本来は堀切や木橋等の遮断施設があったのかもしれない
江土から続く稜線上に現れた岩崎山砦への分岐と案内板
秀吉方・高山右近撤退の「岩崎山砦」
そして、道を進むと間もなく道脇に岩崎山砦跡を示す案内板が現れた。かの高槻5万石のキリシタン大名・高山右近が担当した城塞遺構である。
岩崎山砦跡には、この様な地元観光協会の解説入り砦「縄張図」が掲示されていた。さすがは全国著名の合戦地なので、説明に力を入れているのか
縄張図に従い支尾根上にある岩崎山砦中央の主郭部を訪ねる。標高209mの岩崎山頂にあるそこは、この通り林と化していたが、人造平坦地であることや、低いながらも土塁跡を確認出来た。砦の全幅は200m程で、郭の密集具合から、北の柴田方陣地及び北国街道への備えが窺えた。それ故に、緒戦での背後からの急襲に因る、右近隊の撤退と砦陥落を早めたとみられる
秀吉方・中川清秀奮戦敗死の「大岩山砦」
岩崎山砦見学後は、また主尾根の道に戻って緩やかな登坂を南行し、1km程で大岩山砦跡に続く分岐が出現。主尾根の道に併走・合流する写真左の林道横の登坂がその主郭への道である(南から来し方の北を見たもの)。
林道横の登坂を上がるとすぐに大きな平坦地が現れた。標高約280mの大岩山山頂に築かれた大岩山砦の主郭部である。守将は、右近と同じ摂津衆で茨木5万石の大名・中川清秀
現地の縄張図は主郭付近しか描かれていないが、地形分析から、恐らくは岩崎山砦同様、両翼を持つ「山」字形の要害であったと思われる。その守備方向は東で、北国街道の東向こうの山地にあった坂口砦や田上山砦等と共に街道やそれが通る谷地の敵を挟撃・牽制する「縦深防御」の意図が窺えた。しかし、それ故に、岩崎山同様、緒戦で背後を衝かれ、中川清秀討死の危急を招く
大岩山砦主郭広場にある中川清秀公墓所。左奥には同氏の名跡を継いだ豊後岡藩藩主の名が記された江戸期の石碑もあった
大岩山砦主郭見学後、主尾根の道に戻ると、尾根横直下の窪地に「首洗池」なるものが現れた。中川清秀の首を洗った場所との説明があったが、恐らくは後づけで、水に乏しい尾根筋に於ける貴重な水源とみられた
豊公陣跡?「猿が馬場」
首洗池の次は尾根道上に古い記念碑が立つ写真の「猿が馬場」が現れた。大岩山と岩崎山の両砦陥落を知り急行した秀吉が反撃の陣を置いたとの説明があったが、広からぬ小頂上にあり、柴田勢が占拠した大岩山にあまりに近い危険な立地のため誤伝が疑われた。
地形図の検討や当時の戦況を勘案すると、秀吉方というより、桃山期の軍学者・小瀬甫庵著『太閤記』記載の、賤ケ岳砦の抑え(同砦からの救援遮断)として置かれ、撤退時に殿(しんがり)を務めた佐久間側の安井左近大夫と原彦次郎の陣跡に相応しいと思われた。
疑惑の猿が馬場を過ぎ、更に南へと進む。道は重機等の近代人為が見られない純粋な古道と化してなだらかに続く。人工林と天然林が交互に続くが、意外と大径木が多く、樹種も豊富で豊かな森に思われた
決戦指揮所立地・賤ケ岳山頂
その後、高低差80m程を登る急坂を経て、写真の如き平坦な尾根にでた。それは、標高点349から西に続く箇所で、幅が広く賤ケ岳山頂直下まで500m以上に渡り続いていた。
秀吉布陣の猿が馬場とは、ここのことではないか。ここなら逆反撃に強い高所にあり、大軍の待機も可能である。また人為的な整地の可能性も窺え、しかも、直下の急坂下に山城特有の堀切跡も確認していた。恐らくは、賤ケ岳砦の東郭で、武者溜りだったのではなかろうか。
実際『甫庵太閤記』にも、佐久間隊が大岩山麓で発見された際に中川・高山隊6千が賤ケ岳砦の「要害」から急ぎ下ってきたという記述があり、軍団の宿営地だった可能性がある。
長大な平坦尾根の次は、賤ケ岳山頂直下の急坂が現れた。この坂下にも砦防御用らしき堀切跡が残っていたが、途中の郭や道跡は不明瞭であった
そして、高低差50m程の急登を終え、賤ケ岳山頂に到着。標高421mで、江土の尾根端から約4kmかけて300m弱登ってきたことになる。山頂は賤ケ岳砦の主郭跡を利用した広場となっており、土塁跡らしきものも確認できた(写真左右端)。写真は減ったあとのものだが、人の多さに驚く。大河ドラマ等の影響か(笑)
賤ケ岳砦跡の特筆すべき点は、その眺望の良さにあった。これは南方の眺めだが、ほぼ琵琶湖全域を観察することができる。湖北という辺境に在りながら、北陸・東海・上方への出入りを監視できる意外の要衝だったのである。砦急襲の反撃に際し秀吉は迷わずここに上ってきたというが、元よりここを決戦指揮所の一つに想定していたのかもしれない
同じく賤ケ岳山頂から見た北方は余呉湖等の眺め。こちらも、岩崎・大岩の両砦がある余呉湖東岸尾根は疎か、秀吉が「総構(そうがまえ)」と呼んだ、余呉湖北尾根やその東対面山地上の砦群を含む、二段の防御線が観察できた。秀吉は決戦に先立ち北尾根と東対面山地間の谷地を防塁(土居堀?)で塞ぎ、そこを通る北国街道諸共柴田軍の侵入路を遮断していたが、その場所も見えた。即ち、山稜と防塁で「前方防御」を施し、その後方谷地内で更に「縦深防御」を用意していたのである。そんな近代戦を先取りするような壮大かつ抜かりない展開を実見し、改めて感心させられた
賤ケ岳山頂から見えるのは秀吉方の陣跡だけでなく、柴田方の主要陣跡も見えた。それは余呉湖北西にあるが、副将の佐久間盛政がいた行市山(ぎょういちやま。標高659m。写真中央)や、その右谷奥の総大将・柴田勝家本陣の内中尾山(玄番尾城。標高約460m)等である。正に決戦指揮所に相応しい眺望ある立地。しかし敵も同じくこちらを監視していたであろう
天下人の壮大な智略と技みる
先に長浜を押さえ江北(湖北)を掌握した上方勢の秀吉に対し、北陸勢の勝家が3万以上とされる大軍でここに押し出してきたが、隙の無い防御で封じられ、膠着状態となってしまう。それを打破すべく、秀吉本隊が美濃に出陣した隙を狙い、佐久間盛政が山裏から大岩山・岩崎山を奇襲したのが、賤ケ岳合戦の発端である。
前線後方にあり未成だった砦を奇襲陥落させ、上方本陣の木之本を見下ろす要所・賤ケ岳まで一気に危うくした優れた軍略だったが、50km以上の距離を5時間で帰還するという想定外の秀吉主力の反撃で壊滅し、支援作戦中の柴田本隊諸共、全軍潰走の急展開を招いた。
結果、僅か4日後に北陸方本城の北ノ庄(現福井市)が陥落し、勝家は滅亡することとなったのである。
それにしても、谷地を防塁で塞ぎ山稜共々長大な防衛線と成し、大軍を恙なく高速移動させるという、秀吉の壮大な軍略には感心させられるばかり。恐らくは、それまでの戦いのなかで、誰も真似し難い、迅速かつ大規模な土木普請や兵員展開の術を磨き、体得していたのであろう。
そうした体制を備えた上方勢をここで破ることは同数以上の兵員を以てしても至難に思われる。既に北陸勢がここに止められた時点で勝敗は決していたのかもしれない。迂回路となる湖西や敦賀が湖上・海上諸共、秀吉方の丹羽長秀らに抑えられていた北陸勢は、後方の山越えで補給せざるを得ず、豪雪で交通が途絶するため在陣を続けることも不可能であった。
つまり、遠からず奇襲突破を試みるしかなく、秀吉はその機会を待っていたのかもしれない。
そういえば、合戦は440年前のちょうど今頃生じた(西暦換算6月10日)。そんな機会に、初めて現地を実見し、天下人の非凡な智略や技、そして、歴史の奇しき変転を実感したのであった。
賤ケ岳山頂にて華麗なる豊太閤の軍略を体感したのち、昼食を摂り、南方の尾根に続く道を下る。山頂他、樹々が少ない場所が続いたが、折よく曇り空となったので直射の暑さは避けることが出来た、
賤ケ岳砦の主郭たる山頂南直下の急坂下ではリフト乗場が現れた。人が多かった理由の一つであろう。ただ、ここから山頂までは未だかなりの登坂があるので、足の悪い高齢者等が難儀する姿も見られた。麓から直に山頂に着くような誤解もあり油断しがちだろうが、水等の備えは忘れずに……
リフト乗場から先は人の往来が激減するためか、尾根上の道は、急に元の古道・山道風情と化した。ただ、環境省の「中部北陸自然歩道」の一部のため、草刈り等の整備が行き届いた、歩きやすい道である
そして、賤ケ岳山頂から750m程尾根道を下ると、この様な鞍部に達した。賤ケ岳東南麓の大音(おおと)集落と琵琶湖岸の山梨子集落を結ぶ古道峠だが、人為的に掘り込まれていることが判る。恐らくは賤ケ岳砦南端の堀切を利用した通路であろう。尾根伝いでの砦接近を阻む防御遺構である
謎多き湖岸の古集落・山梨子へ
堀切鞍部からは古道を伝い、湖岸の山梨子集落へと向かうが、付近の森なかには写真の如く、古の荷車道らしき確かな通路が続いていた。
これは峠直下の古道脇あった「首切地蔵」とその解説板。石仏の首が折れており、その昔盗賊が切ったとの伝説をもつという。話の真偽はともかく、中世以前の作とみられる古い石像が在ることも、古くからの通路である証か。因みに、地蔵前から北へ向かう別の古道もあった(20世紀初頭の古地形図にみえる、北西の飯浦集落に下る巻道か)
古道は、この様に無数のつづら折れを繰り返しつつ急斜面を下る。これも、牛馬や荷車通行のために傾斜を減ずる古道特有の工夫とみられた
折り返しを無数に繰り返し斜面を下ると車道が現れた。高低差100m以上の急下降だったが、車道にこの様な古い隧道口が現れ少々驚く。国鉄北陸線の旧路かと思ったが、こんな場所にあった記憶はない。ただ、通行がない車道用としては立派過ぎ、わかったのは煉瓦の使用と状態から、その様式末期の大正頃のものだろうということであった。あとで調べると、やはり大正末起工・昭和初年竣工の車道トンネルで、戦後この下横に新道トンネルが出来たため廃れた、湖西・敦賀方面への元幹線路であった。即ち、ここは古道峠を含め、三代に渡る通路が現役で残る稀少な場所であった
隧道から下はつづらの道が廃れ始めたので代替らしき舗装路をゆく。そして高度差50m程下降すると山梨子集落の裏手に至り、その家屋と共に琵琶湖の水面などが見えた。ただ、湖岸へはここから更に20m程の高さを下る
漸く湖岸に下り、山梨子集落全容を観察すると、昔訪れた同じく江北の湖岸集落「菅浦」とよく似た雰囲気であることを知る。湖岸側家屋が立派な石組み基壇を有していることなどである。また、屋根下の梁端部が妻壁から突き出ているなどの建築的類似もみられた。
戸数は菅浦より少なく、殆ど耕地もない極めて小規模な集落であることを意外に思う。今は車道で結ばれているが、菅浦同様、20世紀前期までは山越えか舟でしか行くことが出来ない孤立村落だったので、集団結束や自給自足が不可欠とみていたためである。漁業や運輸を業としていたのか。
また、背後が急傾斜地のため、長く集落を維持出来たことに感心する。集落後部には伝統的な石積に替えて平成初頭製のコンクリ擁壁が聳えており、崩落の危険と、それへの警戒が窺えたからである。
因みに、賤ヶ岳合戦の際は事前に秀吉の弟で留守居大将の羽柴秀長が船団で上陸した記録があるらしく、佐久間隊奇襲時に賤ケ岳砦を救援した丹羽長秀が上陸した場所にも推定されている。
峠越えはあるが、秀吉本陣があった木之本及び各砦への補給拠点や、北国街道最寄り湖津としての役割があったのだろうか。
山梨子集落の湖岸からは奥琵琶湖の水面や秀吉ら戦国大名も尊崇した信仰の島・竹生島(ちくぶしま)が望めた。しかし、本来静かで風光明媚な地ながら、水質は良からずコンクリ塊で固められた湖岸も趣を欠き残念に思われた。地方創生には、先ずその地が地元を始め、内外の人に愛されることも重要である。これからの時代は、その為の改善が必要かと思われた
歩いてもすぐ端に至る山梨子集落の南端には、この様な「広屋の大石(または「へび石」)」があった。教育委員会の解説板によると、18世紀半ば以降の地元旧家の日記に、この石がどれくらい水面から出ていた事が記されているという。即ち、前近代の琵琶湖の水位計たるものであり、他の湖岸集落に例を見ない貴重な存在という。この石により、今は湖岸路の上手にある集落石積まで湖水が達していたことが判った
山梨子の湖岸で斜面下降の疲れや暑さを癒し、次なる湖岸集落・飯浦に進まんと湖岸を北上する。途中、民家を改装した店らしき建屋から出てきた、大陸出身とみられる男性に屋内での休憩を勧められるが、終点の余呉駅までまだ距離があるので挨拶のみで進んだ。
最近開いた店らしく、コロナ禍で止まった投資再開を想うも、我々すら知らぬこの様な僻地にまで進出することに少々呆れる。願わくば、土地家屋の安さではなく、場所の魅力・可能性を買ってもらっていますよう……。
意外・立派な古跡残る飯浦
山梨子集落の北から、隧道と同時期に開削されたとみられる山際の湖岸旧道を通り、やがて新道に合流した。交通量が多い割に歩道がないので歩き辛いが、仕方なし。
そうするうちに、新道と湖岸の合間に、写真の如きコンクリ造の施設が現れた。門柱には「余呉湖補給揚水機場」とある。地下トンネルで琵琶湖の水を水面標高が50m程高い山裏の余呉湖に送るポンプ施設であった。建屋と道の間に径1mもない黒い配管も見える。なお、建屋手前の丈低い三角の覆い屋は、のちに増設された第二補給揚水機場とのこと。
余呉湖は元来の天然湖沼ながら、現在では地下及び地上の送排水施設によりダム化されている。この施設はその一部で、農業用水等の高需要期に琵琶湖の水を余呉湖に送っているという。
今回賤ヶ岳から一旦山を下りたのは、湖岸集落への歴史・地理・文化的興味のほか、これら余呉湖の水利施設が見たかったことも理由であった。
揚水機場を過ぎると程なく飯浦集落に到着。余呉湖南西山裏に当り、賤ヶ岳西麓でもあるここは、山梨子とは異なり、狭からぬ山懐に広がり、戸数も多かった。伝統的家屋も多く見られたが、幅広い新道により(集落付近から歩道出現)、湖岸と分断されていたのは残念に思われた
飯浦では集落南端辺りを通り、余呉湖岸へ抜ける山越古道に入る。
村外れでは、工事による道路途絶で通行困難になるも、近くの婦人らが脚立まで用意し助言してくれたお蔭で傍の石垣を乗り越え迂回することが出来た。通りすがりの他所者への親切に感謝!快き人情と共に、未知の地元言葉も聞き感心する。地理的・文化的に北陸の影響が強いのか。
山中の古道は、写真の如き姿で峠まで続いたが、それは、意外にも、谷側に古い石塁を備えた立派な牛馬・荷車道であった。湖西等の山中でもよく見る造りの古道だが、ここのそれは荷車2台が行き交える程の幅を有するという特色を備えていた。
ここは余呉方面への通路ではあるが、間道的立地なので、これ程の規模を有すことは謎であった。もはや村落の自主施工とは思えず、公儀の関与さえ窺われた。ひょっとして賤ヶ岳城への物資運搬の主路などだったのか。
また古道沿いには石積で築かれた無数の平坦地があった。写真中央で左に折れる古道向こうに開(はだか)る土壇などである。棚田跡かと思われたが、その数や規模、造りの良さに驚かされた。それは峠近くまで続いた。一部は戦国期の飯浦の詰の城や賤ケ岳の支城であった可能性も考えられた
稜線鞍部が鋭く切られた「飯浦の切通し」。南は飯浦側からみる
飯浦の切通
合戦山場定説地への疑問
古道・耕地跡共々立派だが、双方荒れ気味で、獣の白骨も数多散乱する陰鬱な森をつづらで登り、やがて稜線が鋭く切れた峠に到着した。
所謂「飯浦の切通し」で、湖岸から約200mの高低差を登り返したことになる。峠道の左側上部には山梨子の峠と同じく、古い石仏があり、石灯籠も添えられていた。古くからの峠道に違いないが、右側稜線が賤ヶ岳山上に接することから、同時にその砦の堀切だったとみられる。
実は、この場所は賤ヶ岳合戦の山場となったことが定説化している。
即ち、秀吉本隊出現による佐久間隊撤収の最終殿(しんがり)を務めた柴田勝政(盛政弟)隊が、ここで秀吉の鉄砲・弓衆の斉射を受けて崩れ、「七本槍」ら若手親衛軍の突撃と追撃により佐久間本隊共々壊滅し、北陸勢全軍の敗北端緒になったとされるからである。
しかし、ここを実見して瞬時に疑問が生じた。それは、この峠一帯が急峻な為である。『甫庵太閤記』によると、柴田勝政は3千の兵を率い、賤ケ岳砦の抑えとして、その「堀切」付近で南面して控えていたという(合戦同年に記された『天正記』には場所記載なし)。だが、ここの切通し南の余呉側もかなりの急斜面で、多勢の布陣は難しく、防御もし難い。
そう考えて地形図を見ると、ここからの稜線続きで砦主郭から250m程手前に緩傾斜の適地があることが判った。しかも、そこは左右から尾根が集まりその内一つには余呉湖南岸に下る山道も描かれていた。
主郭直下のそこは、恐らく砦西直下の重要な堀切があった筈である。そこを抑えずにこの「切通」に居れば、湖岸から回り込まれるため、砦の抑えにも、南岸を通行したとされる佐久間本隊の殿にもならない。
しかし、そうなると主郭との近さが気になるが、『甫庵太閤記』には丹羽長秀が湖上で賤ケ岳山上での数多の発砲音や幟旗の存在を知り砦の危機を悟ったと記されているので矛盾はない(岩崎・大岩山は山裏なので誤認する可能性はない)。
また、このあと城将の桑山重晴が一旦退却を始めるので、かなり圧迫されていた可能性も高く、存命者等からの聞き書きによる『川角太閤記』にも、秀吉が「七本槍」らを220m程先に突撃させて首を取らせたとの記述があり、勝政隊と砦の近接が窺える。
その、「真の堀切」部分を是非実見したいと思ったが、今回は予定になく、時間的・参加者との関係上からも叶わなかった。機会あれば、是非また再訪して確認してみたい。ひょっとすると、勝政隊が築いた攻守逆向きの野戦防塁跡等が残存しているかもしれない。
新説?
賤ヶ岳合戦は幻の柴田側決戦行動か
ここで、これまでの見聞や諸史料の分析により、一つの考えが浮かんだ。
それは、佐久間盛政隊の目的が砦討滅ではなく賤ケ岳を含めた全山を攻略し、一気に上方防御線後方の木之本に下り、羽柴秀長本隊らを、谷地内で勝家隊と挟撃するつもりだったのではないか、ということである。
これなら、総構(前方防御線)西の有利な高所に前田利家隊も進出していたので、併せて三方から一気に羽柴方を殲滅することが出来る。秀吉留守時の兵数はほぼ互角だったので(『天正記』等には柴田側の方が多勢とする記述もあり)、成功の可能性はあり、むしろこの手しか勝ち目があるように思えない。
その為に、盛政隊が1万5、6千(勝政隊含むと2万弱か)という過大な兵力を後方山地に向けたのではないか。つまり、盛政隊は別働隊ではなく、秀長隊1万5千に対抗し得る北陸勢最大の決戦本隊だったということである。
しかし、中川隊奮戦による損耗・遅延と丹羽勢の賤ケ岳加勢によりその計画は崩れた。そうなれば、秀吉の帰還前に一刻も早く元の陣所に撤収しなければならない。甫庵太閤記にある、勝家から盛政への数多の撤収催促も、決戦中止と危険退避の指示で、盛政が諦めずにいた為かもしれない。
私は当初から太閤記のこの大岩・岩崎山両砦攻略後の撤収指示記述に疑問を抱いていた。わざわざ大軍を発して後方の小城を一つ二つ落として戻るという行為に作戦意義を見出すことが出来なかったからである。
しかし賤ケ岳全山攻略失敗後も、まだ佐久間隊退避と北陸勢壊滅回避の可能性はあった。だが、不幸にも大雨による揖斐川増水で秀吉が予定の岐阜まで進出出来ず、素早い「大返し」が可能になった。
秀吉はこの幸運と、すんでの危機を承知しており、それ故、この見事な作戦を立案し、実行した佐久間盛政を許し、配下に加えようとしたのかもしれない(後日生け捕られたが拒否して刑死)。
意外に深く豊かな飯浦切通北の森
余呉湖へ
一見天然、中身は……
さて、飯浦から2度目の休息を切通の峠でとったあと、北は余呉湖側へと下降する。古道は続くが、その造りは変じ、よくある荷車1輌分の幅に狭まった。やはり、飯浦から峠までの道は賤ヶ岳城との関連があるのか。
道脇の森は意外と深く、様々な樹種の高木が斜面を覆っていた。しかし、森が豊かな割に水の気配がないことにも気づく。近畿辺りの低山なら、峠下の谷筋を下ると程なくして沢音を聞くが、ここではかなり下降しないと耳にしなかった。それは、先程の飯浦側でも同様であった。
冬の豪雪を含め、この辺りは比較的降水量が多い地域の筈。地質図では余呉湖周囲の山域は中・古生層の堆積岩質らしいが、何か透水や滞水等の性質に特異性があるのだろうか。
一見古代から変わらぬ姿に見える余呉湖。南岸より北は余呉駅方向をみる
切通北の古道を下ると、やがてまた森なかに耕地跡が現れた。飯浦側同様の結構な規模である。
そして、そのまま山裾へ下り出ると、湖岸道路と余呉湖が現れた。森と道の狭間には国民宿舎跡の広い空地があったが、終戦直後に米軍が撮影した最古級の空撮写真には、ここを含め山側に続く棚田が捉えられていた。
それは、湖岸各所と同様で、恐らくは湖岸北部等にある集落の出作地かと思われた。しかし、飯浦側の山中に棚田は写っておらず、古い時代での廃滅が窺われた。なお、現在ある湖岸道路は写っていなかった。戦国期以前同様、まだ舟が利用されていたのであろうか。
湖岸からは、一見古代から変わらぬ姿に見える余呉湖が広がっていた。だが、耕地は全て消え、湖岸も石で固められ、古の風情や天然の水辺は見られなかった。あたかも、公園か人造湖の雰囲気である。湖岸路を通す際に埋め立て等の改変を受けたのか。
残念無念。これでは、古の佐久間隊や七本槍らの足跡も判らず、当時を想うことは困難であった。また、水質も良からず、湖北の山辺にひそむ、神秘の湖たる印象も損なわれた。
余呉湖岸を観察しつつ湖岸路を辿り、東岸の大岩・岩崎両山の麓を経て、余呉駅へと向かう。
途中、大岩山の西麓で、かつて攻城前の佐久間隊が、馬を湖水で冷やしていた城兵を切ったとされる「尾の呂が浜」を通る。しかし、やはりそこは「浜跡」と呼ぶべき公園的場所と化していた。
その後は写真の「川並放水路ゲート施設」が現れる。こちらは飯浦傍の施設とは逆に、余呉湖の水を東麓の余呉川に送るものであった。余呉川は琵琶湖に注ぐので、琵琶湖への放水路ともいえる。即ち、余呉湖をダムとして運用するための主要施設の一つであった。
ただ、長大な地下トンネルを擁しながら、小規模な施設であることを意外に思う。
余呉駅帰還で予定終了
良き湖水・湖岸戻りますよう
小さからぬ余呉湖岸を長歩きして漸く北岸に達する。その北にはまた人工河川・余呉川導水路があり、写真の施設が現れた。
余呉川上流の水の流入及び余呉湖水の流出を調整する「導水路下流高田川ゲート施設」で、その後ろには、朝みた江土川への流出入を調整する「江土閘門ゲート施設」もあった。
この様に徹底して湖水が管理されている様子を観察出来たが、水質をなんとかして欲しいと思う。せめて足を浸けたくなるようにしなくては人々の愛着は得られまい。浄化を図る深層曝気(ばっき)装置も導入されているようだが、効果は限定的であろう。
元は沢水が流入するのみの閉鎖湖だったのなら、北海道の火山湖同様、その透明度は極めて良好だったのではないか。そんな清澄な湖水が、湖岸の自然と共に、羽衣伝説もあるこの地に戻ってくることを切に願う。
さて、余呉湖北岸を離れると程なくして余呉駅に到着した。これにて今日の予定は無事終了に。初心者向けの道程ながら、この暑さのなか累積登坂は600m、距離は12kmを超えたので、そこそこの負荷となった。
今日は山も歩いたが麓歩きも多く、また歴史やその他の観察・考察も多くなった。因って内容的には「調査・研究」の記事種(カテゴリ)ともいえるが、サイトの機構的に複数の選択が出来ない。その為、また後で、必要な人が探しやすいような方法を考えたいと思う。
とまれ参加者の皆さん、お疲れ様でした。暑いなかでの漸くの開催に対する理解と協力に感謝!
2023年05月05日
続2023春野営会
雲多き2日目
2023年春野営会2日目(野営会初日はこちら)。
予報通り、朝から曇天の空となったが、今日中の雨を呼ぶものではなかったので、憂慮せず1日を始められた。
今日は朝食後に希望者及びそこが初めての人のために、近くの堂山(標高383m)登山を行う予定でいた。写真中央に見える三つの峰の、一番奥側にある山頂までを往復するのである。
久々に私が引率し、留守は昼食用のピザ作りに勤しむ人に任せることになった。
因みに、今日の朝食はこれまた久々のソーセージマフィンとドリップ珈琲(ソーセージが隠れているが)。調理は私が担当したが、色んな調味料の提供を受け、簡素・即席ながら、まずまずの朝食にすることが出来た
「湖南アルプス」の特徴凝縮する堂山へ
ゆっくり朝食を摂ったあと、有志と共に堂山へ向かう。写真のような、湖南アルプス特有の、風化花崗岩帯の痩せた林のなかを縫うように進む。砂が載った急斜も多いため、足下に気をつけるように告げつつ……。
これも湖南アルプス特有で、その名の由来にもなった奇岩の連続。勿論、ここも岩を避けつつ、登りつつ通過する。背後に細長い琵琶湖南湖や比叡山も見えてきた
そんな奇岩尾根上にはこんな看板が現れた。古くから麓の里に通じていた脇道の一つを遮断する警告のようで、今回初めて目にした
看板の原因はこれである。即ち、山腹を切る新名神高速道路の大工事であった。麓の各集落から自在に堂山を往復出来たのも今は昔。環境や景観破壊と相俟って残念でならない
奇岩の稜線を進み、幾つかの頂(偽ピーク)を越えて、岩間を下るこんな難所が現れた
そして、岩下りの次はこんな岩登りの難所も。ロープや石・木の根を掴みつつ進む。落ちて死ぬような場所ではないが、初心者には負担が大きいため、声をかけつつ慎重に進んでもらう
岩の下りと登りに因る二つの難所を越えると、遂に堂山山頂に着いた。山頂の巨岩に乗ると、周囲全てが見渡せる
先程と同じく堂山山腹を切って大阪方面へと続く新名神高速の施工現場。工費節減のためか、隧道を用いず開路式で道を通している。これではふるさとの景観が台無しである。生まれ育った土地に対する愛着を減じさせないことも、子育てや人づくり、そして地域延いては国の未来への重要な投資ではないのか。何やら昭和より酷いことになってきた気がする。国家・公には百年大計をお願いしたいと切に思った次第である
美麗に整え撤収
さて、山頂でゆっくり休んでもらったのち、野営地に戻る。時間はちょうど昼で、ピザが出来始めた頃だったので、それを頂く。
火加減に難があったが、なんとか食べられたというか、味自体はまずまずであった。また研究を深めてもらい、次回の更なる向上に期待したい。
その後、残りの食材を皆で食して撤収作業に入る。ゴミ・忘れ物・消火等々、抜かりなく行い、来た時以上に美麗に整え、野営地を後にした。
そして、下山後は麓の温泉施設寄ってから帰宅――。
皆さんお疲れ様でした。荷物の詰込や運搬に不安があった人も見られたが、皆のために色々なものを用意してくれ、結果いつも以上に楽しませてもらったり、意外な工夫等も見せてもらった。
良い集いとなったこと、してもらったことに感謝!
野営会初日はこちら