2009年11月29日
湖上島会
またしても逆転開催
ほぼ全日雨予報が出ていた「島会」当日の11月29日。またしても天気は好転した。好転といっても快晴ではなく、雨の心配をあまり感じない程度の曇り空であるが、降られるよりかはマシなので有難い限りであった。当集いには誰ぞや晴女か晴男の呪力でも効いているのか、と思わせられる様な、幸運再来である。
とまれ、予定通り朝近江八幡駅に集合し、無事島会は開催されることとなった。年末の多忙期、そして気候寒冷の為、少人数開催となったが、それでも外国人参加者を3名も含んだ多彩な顔ぶれでの出発となった。
上掲写真: 湖岸と沖島(おきしま)を結ぶ連絡船が発着する「堀切港」より、琵琶湖と沖島南部、そして対岸湖西地方に開る比良連峰を望む。障屏の如く圧倒的存在感を示す比良は、山腹の紅葉と頂部の冬枯れが共存する、この時季ならではの絶妙の姿を晒している。
堀切港から沖島へ
先ずは車輌で堀切港まで移動し、連絡船に乗る。島会目的地である沖島に向かう為である。写真はそこの桟橋に停泊する連絡船。乗船、並びに出船間際の景である。近くの湖岸の紅葉も美麗で、中国江南地方出身の参加者が賞賛すること頻り。江南は気候的には京都に近いが、河口地帯なので樹林が少なく、有ってもこの様な色づきにはならないらしい。
出船後、15分程して沖島港に着く。港には「漁業の島」らしく、多くの漁船が係留されている
貴重かつ歴史ある「湖島」
沖島は周囲6.8kmの規模を有する琵琶湖最大の島。現在、140世帯、400人程が暮らす、世界的にも珍しい定住湖島である。その歴史も古く、古代、藤原不比等が九州から女神を勧請し、「神の島」とされたところから始まったという。かの奈良朝の反逆者、恵美押勝の居住伝承も有し、平安期末に来島した源氏の落人7氏により本格的な定住が始まったとも伝えられている。
そして、現在の島民の祖とされる、その7氏の後裔らが、船を用いた琵琶湖との関わりを以て、中世以降の豊かな歴史を紡いでいく。物資の運搬役や舟航管理、または戦国期に於ける水軍戦力などとしてである。基本的には漁業を生業としてきた島であったが、琵琶湖の中央に位置するという、その要所的性質に因り、様々な役割を担いつつ、今日まで存続してきたのであった。
先ずは南岸沿いに弁天神社へ
さて、島への上陸後、我々一行は港がある集落中心地から南岸沿いに東へと向かった。道の終端である弁財天神社方面へ向かい、その後、その背後にある山に登る為である。
写真はその途上出会った湖岸の沖島小学校。一瞬、古い建物に思われたが、十数年程前に建替えられたものだという。態々古式にて再建されたのか。耐震重視の昨今の再建とは異なり温もりが感じられるその様には好感が持てた。今日は日曜なのでひっそりとしているが、現役の為、当然普段は子供達の快活さも見られる筈。来た道が広くなって校舎前の校庭と化しているのも、昔父親に聞いた地方小学校の様子そのままで面白い。今一歩整備すると、映画のロケか何かにも使えそうである。
因みに、以前は中学校も併設されていたらしいが、現在は島外への通学となっているとのこと。
砂浜にも出会う。景色共々、中々良い所だと思っていたら、「学校水泳場」の立て札が。ここでの遊泳が授業とは羨ましい限り……
沖島には到着時の漁港周辺以外平地が殆どないので、必然集落は湖岸沿いに続くこととなる。そしてそれが途絶すると、小さな畑と背後の山、そして広大な琵琶湖の間(はざま)を縫い続く長閑な一本道となる。
やがて道は「赤碕」という岬地を巡り過ぎ弁財天神社に到達した。元寺院というこの社、別名厳島神社といい、江戸期に創建され、雨乞いの天女像が安置されている。小規模ながら、良く整備されており、今に続く厚い信仰が窺える。我々が訪れた時も、ちょうど島の人たちが清掃作業を行っていた。写真に見える船は正に彼らのもの。車道が殆どない(必要ない)島なので、こうした作業にも専ら船が使われているのか。
遠望を求め山上へ
さて、弁財天辺りから道は途絶え気味となり、我々は山上への道を探す。しかし地図にこそ描かれていたその道が酷く荒れていたので、諦め、少し戻った所にある主路を採ることにした。
写真はその登山主路に挑む参加者の様子。見ての通り全くの山道で、登坂具合も急。その為、不調を訴える参加者も出たが、事前に通告していた通りなので容赦頂く。人生に山が開(はだか)る通り、湖上にも山が現れるものなのである(笑)。
不調者の休息を兼ねて山中で昼食後、山上に出た。標高220m程、事前情報はなかったが、予想通り遠望が得られる場所であった。中世、湖上をゆく舟を監視していたという「番所山」に相当する場所か。写真は東対岸にあたる湖東方面。即ち、渡船出港地の堀切や長命寺山方向である
展望地からは尾根伝いに西へ移動。その途上、北岸方面の展望が叶う場所も現れ始めた。写真はその一景。対岸の湖西地方、比良連峰の左辺にある、明るい空の彼方が京都方面である
集落中心地を経て北岸へ
山を縦走するかたちで、やがて漁港近くの中心集落只中に下山した。写真はその直前、少し高い場所から漁港方面を見たもの。柑樹越しに湖(うみ)が望める様は、恰も南国風情。そういえば、島内の至る所で枇杷や柑橘の栽培を見た。適した気候なのであろうか。
そう思えば、この拙画も急に奄美やそれを描いた田中一村画伯の風情を一寸宿すが如くに感じられた(笑)。
寺院も擁する集落中心地。漁港とは反対側の、北岸より見たものである
北岸に続く集落沿いの道と、各戸前に停め置かれた自転車や三輪車
島内には作業車以外の車が無いので、陸上交通は専ら自転車が主役である。その中でも、より荷物が運べる写真の如き三輪車の活躍が目立った。島内の道路も、ちょうどこれが離合出来る幅で整備されているように感じられたのである。
かつての「夢の跡」石切り場
さて、次に我々は島内にある石切り場を見学することにした。それは北岸道路を少し西へ行った場所にあった。今は廃れたが、かつて沖島は世に聞こえた石材の産地であった。その夢の跡に接せんと思ったのである。写真は集落中心地方面から見た採石場跡地。「地形が変わる程採られた」との記録通り、岬後方の山地が不自然に痩せているのが判る。
岬後方にある山地内の採石場跡地。採掘を止めて既に数十年の時を経ているので一見してそれとは判り難いが、草中に巨石を見るなど、往時の片鱗を窺うことは出来る
明朗清浄で独特の斑紋が特徴的な沖島の石。「石英斑岩」という火成岩の一種で、かなりの硬度を有するものだという
採石場跡から集落中心方面を見る
憧れの自給菜園と特殊な集落構造
この辺りに民家はないが、見ての通り菜園が広がっている。各々が小面積であるが、多くの種類の野菜や果物が栽培されている。その様は、恰も穀物以外の自給が叶うが如きである。仕事や家事の傍ら、近年熱心に自給農業を研究するI氏から羨みの声も。
家屋が密集する集落中心地を再び巡る
写真は南岸と北岸を結ぶ主要路の1つであるが、見ての通り、半間有るか無いかの細道。道路と呼ぶより「ただの通路」と呼ぶ方が相応しい規模である。古来、荷車でさえ不要とされたと思われる沖島ならではの、特殊な集落構造といえるのではなかろうか。
最後は山神神社、そして終了
最後は中心地傍にあった「山神神社」を訪ねた。採石場での事故頻発を案じて建てられた石工の為の社である。近代に創建されたという比較的新しい神社だが、集落最寄の為か、島全体の産土の如き存在に感じられた。一行は急な石段を登り、その山腹の社殿まで達して見学した。
そして港に戻り、また船にて堀切港、即ち湖東方面へと帰着した。あとは、希望者と共に温泉成分入りの露天風呂がある草津の銭湯にて入浴し、近くにて打上げの食事会を行ったのである。
曇りがちで寒さも感じられた日ではあったが、初参加の人まで喜んでくれたのは嬉しい限り。個人的にも、以前から気になっていた場所に行くことが出来た。皆さん有難う、そしてお疲れ様!