2019年07月23日

続令和京焼会

懇意の清水焼窯元手作りの各種麦藁手(むぎわらで)陶器(蕎麦猪口・スープカップ・マグカップの青赤各一対。筆者蔵)

五条坂の稀少窯元再訪

去る6月19日に行った、京の都を代表する焼物「京焼(きょうやき)」及び「清水焼(きよみずやき)」の学習会

その後半予定していた清水焼産地「五条坂」の窯元見学が先方の急用で中止となったが、今日はその再訪を行った。

平日開催ということもあり、参加は呱々さん他、コアメンバーに限られ、申し訳ない気もしたが、代表して見聞させてもらうこととした。

もし、どうしても希望される人があれば、また相談してもらいたいと思う。

さて、見学は2時間近くに及び、昔ながらの板床の作業場で行われる、型や転写を使わない轆轤(ろくろ)成型や手書き絵付けを実見でき、作業方法や窯道具、そして明治から続く窯元の今昔の話等を聞くことが出来た。

実に貴重な経験。特に、今や稀少な、都市部における手作業による量産作業は中々実見し難いものかと思われた。

そしてその終盤には、これまた窯元さんの好意により、工房価格での在庫品購入をさせてもらう機会を頂いた。皆、成型した人、絵付けした人らと語らいながら、各自気になる器を買わせてもらった。勿論、私も……。

最後は突然現れた夕立強雨の中の撤収となったが、充実したひと時を過ごすことが出来たのである。

急速に変わりゆく現場に立ち会った価値

嗜好や消費の変化、そしてグローバリゼーション等の世界情勢により、急速に変わりゆく京都と伝統的焼物産地・五条坂――。

そうした状況下、短時ながらも伝統の現場に立ち会い、その産品を預かることが出来た。少々オーバーな言い様かもしれないが、皆、次代への語り部、産品の伝承者の一人になれたのではないかと思う。

それは、この会を企画・主宰した私の望むことでもあった。

皆さん、ご協力有難う、暑い中お疲れ様でした!


上掲写真 今回の購入品ではないが、訪問先窯元さん手作りの麦藁手(むぎわらで)陶器。手前から蕎麦猪口、スープカップ、マグカップの、青赤各一対である。類似の他窯製品を凌駕する成型・絵付の冴えを誇る。私が店先でその製品を知ってから20年以上コツコツと買い集めたものの一部。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2019年06月19日

令和京焼会

京焼学習会の会場となった、京都・銀閣寺前の生活骨董の店「呱々」2階

京焼の奥深さに迫る
「京焼学習会 at 呱々&五条坂」開催


今日は、一応、京都市街及び近郊の歴史や文化を探査する「平会(ひらかい)」名目に含めた「京焼学習会」の日。

山ではなく平地探究の会なので「平会」、また京都市街のやきもの(陶磁器)「京焼(きょうやき)」を学ぶ集いなので「京焼学習会」となった。後々催事の分類が変わるかもしれないが、今は一先ずということで……。

写真は、学習会の会場となった、銀閣寺前の生活骨董の店「呱々」さんのひと間。古い町家を品良く、また個性的に改装した店舗の2階にあり、金継ぎ教室等の催事や、その他用の空間となっている。

交通至便な立地に在りながら路地奥ということもあり、ちょっとした隠れ家的雰囲気である。今日はここで午前中に座学を行い、午後から京焼、即ち清水焼(きよみずやき)の本場「五条坂」探訪に向かう予定であった。

朝10時に有志が集合し、資料に沿って京焼の歴史や特徴を学ぶ。今回は呱々さんたっての希望による京焼探究。京都に住む我々にとって身近な存在ながら、一目には掴み難いその奥深さに迫ろうとする企画であった。

講師及び道案内は、予告通り、やきもの好きで、東西の名窯・名工に関する記事を多く書いた私。京窯は古くからの都市域に在るため考古学的調査が遅れていたが、幸い近年の再開発により新たな知見が得られ始めた。

今日はそれら最新情報も持参して臨んだのであった。


中世古窯風の焼締め胎土に高麗青磁風の雲鶴文象嵌装飾を施した現代京焼の香炉(筆者蔵)
中世古窯風の焼締め胎土に高麗青磁風の雲鶴文象嵌装飾を施した現代京焼の香炉(藤氏蔵)。内外様々な技法・表現を採り入れながら、繊細確かな成形や都会的美意識で雅にまとめられた、正に京焼の典型作。道具屋の店先で見て瞬時に京焼と確信したが、後日まさに清水焼と判明した(笑)

京焼とは

ここで京焼について解説しておこう。「都のやきもの」京焼は、市内他所の窯が廃れた現代では清水焼を指す名と化しているが、本来は確かな定義はなく、時代や呼称者毎に変化する。ただ、平安遷都後も作られた「須恵器(すえき)」「土師器(はじき)」「緑釉陶器」等の古代・中世陶器は含まず、近世(桃山・江戸期)以降の産品を指すことが一般的である。

また、轆轤(ろくろ)を使わず、大阪起源説もある楽焼(らくやき)を含めない考えも根強い。16世紀末頃から洛中で作られ始めた「軟質施釉陶器(押小路焼(おしこうじやき)等)」が祖とされ、それに野々村仁清(にんせい)が瀬戸焼等の技を加えて17世紀半ば頃、確立させたとされる。

仁清の上色絵(うわいろえ。釉上彩)・金彩使いの高級陶器は尾形乾山(けんざん)に引き継がれて発展した一方、17世紀初期頃に粟田(あわた。粟田口)焼・修学院焼・岩倉焼・音羽(おとわ。五条坂)焼・清水焼・清閑寺(せいかんじ)焼・八坂(やさか)焼・御菩薩(みぞろ。御菩薩池)焼等が、唐物(からもの)写しや銹絵(さびえ)・下色絵(したいろえ。釉下彩)・染付(そめつけ)を特徴とする生産を始め、やがて仁清風の上色絵生産も始めた。

18世紀末に奥田頴川(えいせん)が磁器焼成に成功すると19世紀初期から清水や五条坂でその量産が始まり、色絵陶器と磁器が京焼の二大製品と化し、産地も色絵主体の粟田焼と磁器を加えた清水(含五条坂)焼に大別されるようになる。その後、清水焼が生産量で粟田焼を圧倒。他の窯の衰退や昭和初期の粟田焼廃窯により清水焼が京焼の代表・同義語となった。

清水焼とは

京焼の一種で、他の京窯が衰退した現代では、京焼と同義的に見做されている。本来は「清水寺領内の窯製焼物」を指したが、産地拡大と、付近の清閑寺窯や音羽(五条坂)窯らの拡大と、それらとの連携・融合により一帯の総称となった。

大正期には南接する日吉(ひよし)・泉涌寺(せんにゅうじ)地区、昭和後期には市街東郊・山科(やましな)の清水焼団地や宇治の炭山(すみやま)が新たに開かれ、特に前者が主力産地に。

清水・清閑寺・音羽の各窯共に仁清の御室焼(おむろやき)に先行する古い窯場で、江戸中期以前の古い物は「古清水」等と呼ばれる(古い京物軟質施釉陶器全般を指すことも多い)。19世紀初期から他の京窯に先駆けて磁器生産や量産を行い、その優位性を確立して京焼の代表的存在となった。

京焼の特徴

元は陶器から始まり、後に磁器生産も導入されたため、前近代から両方の製品を産出する。また、様々な人や物・情報が流入した都という土地柄か、その作風の幅はかなりの広さを持ち、貴人の嗜好・要望の影響か、器胎が薄く、造形や装飾等の意匠が雅で洗練されているという特徴をもつ。

逆に、その作風や器種の広大さから、特徴が捉え難い焼物とも称される。端的に言うなら「一言では特徴を言い難い都会の焼物」とでも称せようか。日用雑器や器具等も生産されるが、基本的には茶陶(ちゃとう。抹茶器)や煎茶器(せんちゃき)・懐石食器等の高級陶磁器が主体である。

その技術的特徴は、轆轤の使用、素焼きの実施、陶器の白化粧下地の採用等がある。焼成に使われた登窯(のぼりがま)は京式と呼ばれる特有のもので、磁器と陶器の同時焼きの為の床傾斜の混在等が特徴となっている。


京都・五条坂の歩道をゆくアジア系観光客の姿と路肩の大型バス。岡田暁山前より

午後は巡検。五条坂へ

さて、鋭い質問も活発に出た午前の座学会が終り、予約したタクシーに分乗して南方は五条坂に至る。先ずは地元の気兼ねない名店「弁慶うどん」を賞味し、五条坂を散策した。

写真は五条坂坂下の起点辺りから西の賀茂川方面をのぞんだもの。歩道をゆくアジア系観光客の姿と、路肩の大型バスが昨今の状況を象徴する。

因みに、近世以前から続く五条坂は、戦中の建物疎開により幅約3.6mから南に向け約60mに拡幅され、多くの窯や店、陶工住居が破壊されたという。即ち写真右に見える古い窯元住居は助かった北側地区で、左の南側は現在国道1号バイパスとなっている。

ちょうど歩道が旧道の幅くらいで、バスの辺りに今や幻の戦前陶器街が並んでいたのである。


京都五条坂・岡田暁山窯の白磁表札と英文看板

30年前の店舗図手に
五条坂北を東上探索


残存五条坂北側陶磁街では、始点の大和大路(やまとおおじ)から終点近くの東大路までを探索した。事前に用意した平成元年製の陶磁組合(陶栄会)店舗図を手にしてである。

そこでは30年の歳月を経て残った建物や事業と、跡形もなく変化した両方の姿があった。大店(おおだな)ながら呆気なく消失したり、小店ながら逞しく残存したりする様子で、まさに栄枯盛衰・諸行無常の観があった。

特に組合会長も輩出し、地区の顔的存在であった陶業ビルが全館観光施設化していたことには驚かされた。

写真は、とある作家窯の玄関に掲げられた表札と看板。表札は陶家らしく白磁で作られており、看板は高級陶磁産地らしい英語表記があった。

興味深いことに、看板の屋号下には「SATSUMA KENZAN WARE and ART PORCELAIN ETC」と記された扱い品目の説明があった。それは、昔西欧で人気を博した絢爛豪華な薩摩焼風京焼「京薩摩」と、用の美を追求したアーツアンドクラフツやアールヌーボーの走り的な(尾形)乾山焼風、そして美術白磁等々の意味であった。

まさに何でも有りの、京焼を象徴するかの如き解説・売り文句である。


路地沿いに奥へとのびる、京都・五条坂北側陶磁街の現役大店
五条坂から北上する路地沿いに聳える五条坂北側陶磁街の木造大店。現役店舗らしく、往時の姿を保つことに少々安堵させられた。ただ、その奥に続く町家は宿化されていたが……。


京都・五条坂北側の丸幸陶器と谷寛商店跡の更地
安堵するのも束の間、次はこんな風景も。趣ある木造店舗が2店並ぶ角地だったが売却されたという。しかも、その後転売され、最近慌てて建屋が解体されたらしい。地上げの途中か。路地側の店は昔煎茶器を購入し、やきものに目覚めるきっかけをもらった場所のため、一層寂しく感じられた


京都・五条坂の路地奥に残る旧道仙化学の登窯廃墟

五条坂では途中路地の探索も試みた。しかし、そのうちの一箇所では表の店から人が現れ罵倒に近い注意を受ける。道路指定がかかりそうな道幅があり、あまり密やかな感じはしなかったのであるが……。まあ、観光客の多さと一部の人のマナーにより神経質になっているのかもしれない。

そして、東大路まで東上した後は、中程まで下り戻って、細く深い路地に入った。午後からの参加者も加えた10人程で見学したのは、写真の遺構。崩落した屋根部分を取り払って調査・再整備した京式登窯の廃墟である。

入江道仙という作家陶工が興した化学製陶所が所有していた窯跡で、明治後半頃に造られたとされる。資料片手に歴史や構造について解説した。

今日最後の重要予定が……

さて、この路地も廃業が多かったが、現役の木箱職人さんのほか若干の製陶関係者も残っていた。その一つが、今回見学予定の懇意の窯元さんである。しかし、その戸前に立った時、貼紙と手紙があることに気づいた。

なんと、身内に不幸があったらしく、今日から数日工房を閉じる旨が書かれていた。そして、私の名が書かれた手紙には、私と参加者に対する急な見学不能の詫びが丁寧に綴られていた。

致し方あるまい。皆に事情を説明して詫び、了解してもらう。楽しみにしていた人には申し訳ない限り。ただ、この見学は今日最後の催しだったので、それ以外は充実させることが出来た。よって工房見学のみまたの機会を探ることとした。皆にもその旨を説明し、お開きとしたのである。

最後は残念であったが、馴染みある存在ながら今一つ正体が掴み辛かった京焼と、時代の波に揉まれる産地の実情を知ってもらうことが出来た。呱々さんのご協力と皆さんに感謝。お疲れ様でした!

後日再実施した窯元見学の様子はこちら

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2018年12月02日

鴨東巡街

朝日に輝く京都・粟田神社の鳥居と「感神院新宮」の扁額

厚い歴史と、政治・文化の要地を巡る

今日は久々の平会(ひらかい)。山ではなく、主に平地の歴史・地理・民俗等を巡る集いの開催日である。

久々とはいえ、今春(6月下旬なので初夏?)以来の開催で、例年盛冬・盛夏は避けるため、まあ、いつも通りというか、予定通りか。

11月から続く温暖な気候の中、朝から京都市街中東部の東山区へと向かう。集合場所の左京区南部から自転車で南下し、間もなく同区内へと入った。

東山は我々にとっての身近な地域。そして祇園・八坂神社などで知られた観光地であったが、市街地としての厚い歴史や、政治・文化の要地としての特性を有す特異な地域でもあった。今回は事前の要望により企画したが、個人的にも楽しみとするところであった。

さて、何に出会えることやら……。


上掲写真: 朝日に輝く東山区北辺の粟田神社の鳥居と「感神院新宮(かんしんいんしんぐう)」の扁額。感神院とは祇園社、即ち現八坂神社のことで、同社の分祀として創建されたとの由来を窺わせる。しかし、古代この地に居した粟田氏の氏神であった伝承もあり、その場合は途中で祇園社(延暦寺)の支配下となった事情を示すものともなる。


京都・東山三条交差点に残る京阪京津線旧路跡
東山三条の交差点北東に残る京阪京津線旧路跡。駐車場の斜めの区画やそれに続く家屋の並びに痕跡が窺える。旧路は95年前に廃され、その後同線は山麓の蹴上までの三条通上に路面化、そして平成9(1997)年の地下鉄東西線との共用化により地上から姿を消した

古跡を辿りつつ北から東山入り

その下流部が東山市街と深く関わる白川(しらかわ)を辿りつつ同区内に入ったが、途中、明治期の疏水工事で廃されたその旧路跡や明治初めまで河畔にあった「悲田院村」の跡等を観察した。

そして、今は宅地の路地と化した京阪京津線の旧路を辿りつつ、古の東海道、即ち現三条通に出た。写真は東山三条の交差点北東角に残る京津線の痕跡。

かつて三条から続いた路面軌道から、北東斜めに宅地へ入る形の京津線旧路は、大正元(1912)年の開通から同12年までの間、未拡幅であった同地以東の東海道を北に避けるように蹴上まで設けられた。

100年近く前に廃され、既に古い町家が並ぶ路地等になっている為、かつて複線鉄路があったことに驚きの声も上がる。


京都・三条通一筋南の小道沿いの古風な民家
三条通一筋南を並走する小路沿いの古風な民家。軒下の干し物は住人氏への配慮により一応画像処理

その後、中世以前の古い東海道の可能性があるのではないか、と個人的に注目している三条通一本南の小路を東進。

写真は沿道の古い町家。目敏い参加者が見つけたが、今時外戸に障子貼りとは珍しい。木製の欄干の風情も良く、何やら長逗留している幕末の浪人者でも顔を出しそうな雰囲気である。


京都・三条通一筋下の古道
ホテルにより遮断される直近の三条南古道(西、即ち下手・都側を見る)

小路は、恐らく江戸幕府により有事用に配された山麓寺院群の門前に沿って高度を上げながら続くが、やがて蹴上の都ホテルにて途切れた。

ここが古い東海道の跡ではないかと考えるには、以下の理由がある。

・近世東海道より、平安京三条との南北位置に良く対応していること
・近世東海道が新道を指す「今道町」を通ること
・大規模な屈曲等の、近世以前の防御改変がみられること
・日ノ岡峠へ向かうための傾斜が緩やかで交通効率が良いこと
・古い地図に、更に続く道や、道跡を窺わせる字界や郡界があること
・宇治拾遺物語にも街道沿いと記される、刀工街「鍛冶町」を通ること
・地元に旧路との伝承があること


京都市街東部にある三条南裏路地から三条通へと抜け下りる町家路地

まあ、この小路は歴史的風情や可能性を持っているだけでなく、うらぶれた間道(かんどう。抜け道)的風情も、その特質であった。京都の人間でも意外と知らない人が多く、参加者からも感心の声が聞かれた。

写真はそんな小路終端近くから、東海道即ち現三条通に下り抜ける、これまたうらぶれた町家路地。ただ、付近は既に無人の家屋が多く、取り壊しや改変の危機迫る、嵐の前の静けさの如き気配も感じられた。


陽を受ける紅葉ある京都・円山公園

自転車から徒歩散策に転換

小路探索の後は、来た道を戻り、青蓮院横から知恩院前に入り、次いでその南の円山公園に入った。ここで一旦自転車を置き、付近や更に南の清水(きよみず)地区を巡るのである。

知っての通り、これより南は道が細く、観光客で著しく混雑するための対策であった。


京都・大谷祖廟の参道

徒歩となってからは、意外と知らない円山公園裏・山手の料亭や寺院を巡る。写真は公園南横から東山山腹方向へと続く東本願寺「大谷祖廟」の立派な参道。この上手には同寺の廟所や墓地があった。

大谷祖廟は近世初期に西本願寺から分派した東本願寺が、寛永10(1670)年に独自に宗祖親鸞らの廟所を用意したことに始まる。本来の親鸞の廟所も、この「大谷」や「吉水(よしみず)」の地にあったとされ、それを復興した形である。

因みに円山公園は明治の廃仏毀釈で上地(あげち・上知。政府接収)された近隣社寺領を以て造られた。


京都・東山のランドマーク「八坂の塔」

大谷祖廟見学後、また下って高台寺横の河道等を探った。そして南下して(東山裾野を横断する形で)観光客で混みあう写真の「八坂の塔」下に出た。

本来避けるべきであるここに至ったのは、やはり塔がこの地域の象徴的存在であること。塔を管轄する法観寺は、聖徳太子建立説もあるが、古代この地にいた渡来系住人・八坂氏との関連を考える説が有力である。

現在目ぼしい伽藍は塔のみで、それも室町時代の再建だが、境内の発掘では飛鳥時代の瓦が出土するという区内屈指の古寺で、長きに渡り東山山麓のランドマーク的存在であった。因みに祇園社も6世紀後半頃から農業神として地元で崇敬され、八坂氏とも関りがあったと推察されている。


京都・東山山麓の霊山観音

山腹の鎮魂地「霊山」

八坂の塔からは混みあう路地を抜け、また山側に向かい、高台寺裏の霊山(りょうぜん)に至った。写真はその高台上にあった霊山観音。

広大な駐車場を含めた意外の広さに驚くが、元は佛殿等の高台寺主要伽藍と背後の曙稲荷の敷地で、昭和30(1955)年に大戦戦没者の鎮魂施設として造られた。本来は外観のみの見学であったが、参加者の希望もあり、暫し境内を参観することとなった。

昭和中期の雰囲気のまま、時が止まったような施設であったが、大叔父が比島方面で行方知れずとなっていることもあり、受付でもらった大きな線香を神妙に観音前へ供えた。


京都・霊山護国神社付近の新道坂

霊山観音の敷地南横には急坂があり、山腹へと続く。それを上り、道なりに南へ折れると写真の如く、更に急な車道があった。地図によると、この区間は戦後付けられたもの。

付近は維新前後に開かれた招魂社、即ち霊山護国神社の施設や墓地があり、かの坂本龍馬らの墓で有名な処でもあった。

南方清水寺方面へと向かうため、この坂を上る。二年坂(二寧坂)より山手にはこの道しか抜け道がないためである。


京都東山山麓にある正法寺参道

新道の坂を上りきると、東西上下に続く石段道と出会う。時宗寺院・正法寺(しょうぼうじ)の参道で、元は霊山の名の由来となった、平安期創建の霊山寺の跡地でもあった。

しかし、よくもこんな場所に無理やり寺を開いたものである。まさに、これも修行か、超俗か(笑)。


京都東山山麓にある興正寺本廟の裏道

正法寺参道を横切る車道はやがて西へ折れ、下りとなった。このままでは二年坂まで下がり混雑に巻き込まれるので、なんとか南行の方法を探る。

すると、急坂だが古道の風格をもつ写真の道が現れた。上ってみると興正寺の墓地に至り、その向こうは深い谷となり進むことが出来なかった。ここも、本願寺の一派の同寺が独自に親鸞の廟所を設けた場所であった。

その名は興正寺本廟。古図によると、古道は正に親鸞本廟への専用道であった。ここも、無理やり山腹を開いて造ったようである。高い人気と需要を誇りながら、土地が狭い霊山・清水地区を象徴するような寺である。


京都・清水寺南門外に続く古道踏襲車道

喧噪と陰鬱混じる葬送地「鳥辺野」

南への通り抜けが叶わず、興正寺本廟の境内を東に下り、結局二年坂に出ることとなった。時間的にも良い頃合いため、遊山の人ごみが著しい。

途中最後の抜け道を試みるも、塞がれていることが地図で判明したため、仕方なく三年坂(産寧坂)に入り清水寺前に至った。

そして、工事の幕で覆われた清水本堂の舞台下を通り、境内南外れの門外に現れたのが写真の場所。山の林道風情だが、清水門前の松原通(旧五条通)から続く古道でもあった。

この道は、この先、山間の清閑寺下を過ぎ、古くからの要路・渋谷街道と合流し、山科と接続する。即ち都や鴨東(おうとう。鴨川の東)地区と、東国及び北国を繋ぐ古道なのである。

ただ、境内の喧噪が急に途絶え、奥山の陰気が今も感じられる場所であった。『今昔物語』にもこの付近に人を誘い殺す怪しい館があったと記す。そいうえばここは葬送地・鳥辺野(鳥部野)であった。付近の山林にも新旧の墓石が数多眠っている。

そのような、道のこと、土地のことなどを解説後、人ごみから逃れた落ち着きと共に、暫し昼食休憩をとった。


京都・西大谷にある大谷墓地

昼食後、清水境内に戻り、表門南の道を東へ下る。そして、すぐに一同声をあげるような、写真の墓地景と出会った。所謂「大谷墓地」である。

本来の「大谷」はここより北の祇園社裏辺りだが、17世紀初めに西本願寺が麓に独自の親鸞廟所「大谷本廟」を設け、ここを西大谷と呼んだため、その名が使われるようになった。

これも、真宗聖地としての東山人気を物語る光景か。因みに、墓所の下部には親鸞の荼毘所跡もあった。


京都・清水五条地区の景観破壊

清水焼にみる観光公害と伝統の行方

墓地を東に下って市街地に出、幅広い現代の五条通に達した。

ここは、江戸期以来、清水焼の販売店や窯元が集中する京焼のメッカである。そこを見学するが、現状は実に寂しい状況にあった。

写真は五条沿いの町家店舗や裏の工房が破壊された跡である。その全体面積は写真に写っている数倍に及ぶか。工房が隣接する懇意の窯元に聞いたところ、ホテル建設による買収だという。


京都・五条坂のやきもの路地
工房や長屋が密集する五条坂のやきもの路地。買収空地の隣である。ここはまだ風情が残ってはいるが……


京都・五条坂の登り窯跡

買収空地隣の路地に入る。今日は路地内の工房は休みだが、事前に話は通しておいた。

路地は一見変わらぬ風情が残っているが、既に入口付近の長屋が改変・民泊化されており、最近まで営業していた別の工房の解体も始まっていた。

写真は路地内に残る貴重な登り窯遺構。既に天井がないが、昭和40年代に公害防止の法や条例が出されるまで使われていたようである。戦前、付近で20を超える登り窯が稼働していたされるが、その内の一つか。

知己の窯元も普段この路地内で生産活動を続けている。登り窯は使えないが、轆轤(ろくろ)成形や絵付等の手作業により、実用的で美しい器を生み出していた。しかし、後継者や経営的な事情等により、いづれ廃業せざるを得ないという。


やきもの店や倉庫等が並ぶ、京都・五条坂の路地

参加者には路地裏に眠る貴重な窯跡等の実見により感心されたが、個人的には産地の荒れ様に複雑な心境となった。

やきもの店舗や倉庫等が居並ぶ写真の路地も、小時から知る五条坂の典型であるが、一体いつまで保たれるのか。気づけば、ここ以外で同様の風情はほとんどなくなり、またここも方々に廃滅の気配が漂っていた。

現代的な国道沿いに並ぶ伝統家屋のすぐ裏で、素晴らしいやきものが手づくりされていることこそが、京都の重要な観光資源であり魅力ではないのか。今押し寄せている観光客も、本来はそんな奥深い京都に期待していた筈であろう。

それが、今見捨てられようとしている。

そして、その隙を衝き、観光客用の宿や娯楽施設が無計画に増殖し、方々で街や暮しを破壊している。これでは誰のための街か、何のための伝統か解らない。一体行政は何をしているのか。

千客万来に浮かれている場合ではない。近い将来、薄っぺらな街になったことが露見し、多くの観光客から見捨てられる日が来るようでならない。


京都・六波羅地区の古いアパート
六波羅地区に残る古いアパート。建具や屋根の構造等から戦前築と思われた。段差は東大路西を南北に走るとされる断層か

六波羅・祇園地区

憂い深い清水五条地区を離れ、路地を北上して六波羅地区をゆく。ここも清水寺の門前街として古い歴史を誇る地域であった。

時に寺社の軍事力ともなった車借(しゃしゃく)や犬神人(いぬじにん)らの居住や、念仏聖の空也や一遍の活動、平氏一門の集住、鎌倉幕府の六波羅探題設置等が挙げられる。

特に重要なのが、此岸と彼岸の境とされた「六道の辻」等の鳥辺野入口としての役割である。そのため現在も六波羅蜜寺や六道珍皇寺(ちんのうじ)等の関連寺院があり、お盆時期等は独特の風習を保持している。六波羅や轆轤町という地名も、髑髏が由来とする説さえあった。


京都・祇園の茶屋街付近の路上でのからすみの天日干し
祇園の茶屋街近くで遭遇した唐墨(からすみ)の天日干し。末端価格は一体全部で幾らとなるのか(笑)

六波羅を抜け、建仁寺境内を通って祇園に入る。やはりここも遊山客で混んでいた。なるべく外れの路地を選び、自転車のある八坂神社・円山公園を目指す。

しかし、結構な距離や登坂を歩いたため、皆かなり疲労し、また時間もあったため参加者の知る喫茶室で暫し休憩することにした。良い意味で昭和的高級感に満ちたそこは、四条通沿いながら人の少ない別天地であった。


大和大路に面する豊国神社からみた京都市街の夕景

七条・今熊野地区

喫茶店での休憩後、円山公園に戻り、自転車で南の七条方面に向かう。

写真は大和大路に面した豊国神社からみた市街夕景。豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社で、元は秀吉が16世紀末の天正年間に造った大佛殿の跡地。

大和大路を南下した去年秋の平会でも解説したが、今に残る巨大な石垣や大佛殿の最新発掘結果について解説した。

その後、隣の三十三間堂境内南端に残る秀吉寄進の豪壮な築地塀「太閤塀」や南大門を見学。太閤塀は元来大佛殿の石垣に接続していたもので、秀吉が三十三間堂や周辺寺院を含めた宗教地区を再構成した名残りでもあった。

因みに、三十三間堂は平清盛が平安末期に後白河上皇に寄進したとされるもの。現存の建屋は火災後の鎌倉期に再建されたものである。後白河上皇はこの地に法住寺殿と呼ばれる離宮を営み院政の本拠地としていた。


夕闇迫る京都今熊野の剣神社

今熊野にて探索終了
鴨東の価値や役割を再認識

七条の豊臣宗教地区の次は更に南して九条手前の今熊野に至る。

写真は地区の山手で、山科に抜ける古道「滑石越(すべりいしごえ)」にも近い剣神社(つるぎじんじゃ)。白山神等を祀る小さな社だが、個人的に好みの場所だったので紹介した。

滑石越は平安末期の条里図に「交坂(かたさか)」と記された古道。渤海使等が平安京に入る際に使ったとされる古代の主要路で、近年その傍の西野山古墓が坂上田村麻呂の墓所であるとの新説も出された。

剣社で暗くなったので、これ以上の探索を中止。最後は帰り道にある新熊野(いまくまの)神社の解説をして今日の探索を終了した。新熊野神社も後白河上皇の関連地。永暦元(1160)年に創建され、上皇お手植えと伝わる境内の大楠の樹齢も合致し、その歴史を傍証する。

その後は左京区南部に戻り、参加者が予約していた信州料理店で打上げ。食後は近くで美味しい珈琲を飲みながら更に語らい日を終えたのであった。

今日は、東山区を巡ったが、京外の地でありながら早くから市街として成長した歴史ある姿を改めて認識した。また、交通や政治の要地としての多大な役割や、日本の歴史全体に与えた影響も考えさせられた。

平安京以外に都市と呼べるものが無かった時代から既に、貴賤様々な人々が集い、名実共に都市を形成した東山・鴨東地区。

まさに「京外要市」、または一時的には「京外首府」とさえ言えるような名が相応しい地域かと思わされた1日であった。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2018年06月17日

山寺観望

京都市街東部・山科北山中の安祥寺上寺跡「観音平」より見た山科盆地等の眺め

消えた古代寺院の痕跡追う

梅雨中ながら朝から良く晴れた今日は久々の平会(ひらかい)開催日。

「平会」は平地の文化・歴史事象を探索する企画だが、今日は山にも登るので登山企画の「山会(やまかい)」ともいえた。よって両者折衷の「平山会(ひらやまかい)」の種別で告知したが、記事分類を増やすのも煩瑣なので、一先ずは平会扱いとすることにした。

今日の企画は、京都市東郊に広がる山科盆地北端にあったとされる古代真言寺院「安祥寺(あんしょうじ)」の探索。往時の法灯を継いだ同名の寺院が同地に現存するが、近世に場所を移して再建されたもの。

今日探索するのは相当な寺観と寺格を有しながら田野に消えたその「下寺(しもでら)」と、北方山中に遺構として残る「上寺(かみでら)」。つまり、消えた古代寺院の痕跡を追う企画であった。


上掲写真: 今から約1170年前、標高320mの尾根上平坦地に築かれ、今もその遺構面が残存する安祥寺上寺跡より見た山科盆地等々の景(南方向)。平地に広がる市街以外の眺望や清爽感は古代から変わらぬものであったであろう。


京都市街東部・山科盆地における琵琶湖疏水の西端部
山科盆地における琵琶湖疏水の西端部。国有形文化財「栗原邸」の近隣

自転車騎乗にて東行山科へ

朝、朝食を兼ねて京盆地東にある馴染みの喫茶店に集合し、各自自転車の騎乗にて出発。

陽射しと共に気温も高めだが、比較的乾燥しているので、まだマシか。京盆地と山科を隔てる東山(九条山)の国道峠を越え、山科盆地に入った。

当初は市街地にある安祥寺下寺跡から巡るつもりであったが、気温上昇や疲労を考え、先に山上の上寺を目指すこととなった。その為、往来が多い市街地を避け、盆地北の山際を流れる琵琶湖疏水縁の小道に入った。

疏水に接すると、有名な洋館建築があったので少々見学。今回の資料や情報の収集でもお世話になった京都市考古資料館の設計でも知られる本野精吾による「栗原邸」である。昭和4(1929)年築という、コンクリートブロック積みによるモダンな邸宅だが、傷みが目立ち、行く末が案じられた。


京都市街東部・山科北部にある栗原邸近くの琵琶湖疏水縁の古い高石垣
栗原邸近くの疏水縁にて古い高石垣を発見。近代以降の施工法と見られるので、明治18(1885)年から23(1890)年の疏水建造時の擁壁と思われた。何度も通った道だが今回初めて気づく。前近代のものとは異なる趣と美しさがある


京都市街東部・山科北山中にある安祥寺上寺遺構へ続く道の始点に立つ「安祥寺上寺跡」の石碑

安祥寺上寺跡へ

疏水縁を東行し、山科駅裏の毘沙門堂門参道との交点からは参道を北上して山間の道に入る。道はやがて未舗装の林道風情となり、路傍に石碑立つ写真の場所に到着した。

「安祥寺上寺跡」を示す近年建てられた石碑の傍には上寺遺構方面へ続く小道が分岐している。自転車をここに停め、軽く準備をして、いよいよ山中に分け入ることとなった。

個人的には10年以上振りの再訪か。期待と変化への不安を感じつつ進む。


京都市街東部・山科北山中にある安祥寺上寺跡石碑から寺跡に続く古道
安祥寺上寺跡石碑から続く古道

分岐から林間に入ると状態の良い古道が沢沿いに北奥へと続いていた。途中の渡渉地点には橋の台座を想わせるような石積みの跡も見られた。しかし、その後は昭和期の砂防ダムや防災林道により破壊を受けていた。

現在、上寺へ向かう往時の道は確認されていないが、皇太后の発願寺であり入唐八家ゆかりの寺でもあるので、相応の通路があった筈である。地形・交通の便からみて、この南谷のルートにあった可能性が高いが、破壊を受けたのは残念無念。


安祥寺とは

ここで古代安祥寺について解説しておこう。

地理的には山城国宇治郡北部、即ち現京都市山科区の山科盆地北端に「下寺(しもでら)」、その北2kmの山上(安祥寺山国有林内)に「上寺(かみでら)」として存在した。現存する安祥寺は創建時の位置ではないとする説が有力で、元の位置は安祥寺川が山から出た現山科駅北付近とされるが、詳しいことは判っていない。

開山の恵運が貞観9(867)年に記した『安祥寺資財帳』によると、下寺の広さは18町8段12歩(128354m2)で、東は「諸羽山(もろはやま)」、南は「興福寺地」、西は「山陵」、北は「山川」まで広がっており、上寺は「松山一箇峯」とその周囲の山地50町(594050m2)の広さで、東は「大樫大谷」、南は「山陵」、西は「堺峯」、北は「檜尾古寺(ひのおのふるてら)」まで広がっていたという。

上寺は如意ヶ嶽(大文字山)に連なる安祥寺山の中心尾根上の標高320m地点に開かれた通称「観音平」にあり、人界と隔絶された山岳寺院の趣をもつ。中核施設があった区域の広さは約60m四方。また、左右を尾根に囲まれ、それらの尾根の頂部3箇所全てに経塚の遺址があるなど、古代の土地思想を想わせる非常に対称的な構成が窺える。

下寺は如意ヶ嶽山地から流れ出た安祥寺川の山麓扇状地辺りにあったとされ、平安末には存在した東海道にも近く、都との連絡や貴人参拝の至便さが窺える。中核施設は南北200m強、東西100m弱の広さで、周囲を築地が囲み、三方に門があったという。

歴史的には、安祥寺は仁明天皇の女御で文徳天皇の母である藤原順子(のぶこ)を願主、空海の孫弟子にあたる真言僧恵運を開基として平安初期の9世紀中頃創建された。

史料によると嘉祥元(848)年に建立が始まり、仁寿元(851)年には僧が住み始めたとされる。その記述は最初に開かれた上寺のこととする説が有力だが下寺とする説もある。上寺先行説に従うと下寺の創建は不明だが、『資財帳』にその記載があるので、867年までに整備されたとみられる。

そして斉衡2(855)年に定額寺となり、翌年上寺とみられる寺地の周囲50町歩の山林が順子より寄進された。上寺は施設の数や規模に勝るため法会の場所とみられ、下寺は倉等を備えるため寺院経営の中枢とみられる。

10世紀初頭までその繁栄ぶりが窺えるが、同世紀末には経済的翳りが見え始め、12世紀には経済基盤が動揺。平安末期の12世紀後期には実厳が現安祥寺の付近に西安祥寺を建て、やがてそちらが伝法の中心となった。そして、14世紀後期には上寺の伽藍中枢の壊滅状態が窺え、15世紀後半の応仁の乱で西安祥寺も焼け全寺的な衰微が決定づけられた。

17世紀初期の江戸幕府の調査でも子院一所のみ残る衰退を確認。しかし寛文6(1666)年に寺地10万坪を毘沙門堂に譲渡する代償に現寺地が与えられ、そこでの復興が始められた。


京都市街東部・山科北山中にある安祥寺上寺跡関連の古道跡とみられる観音平横の谷沿いの整地帯と石段的痕跡
ダムを越え、道はいよいよ谷沿いの急斜となる。倒木や間伐材が散乱して通行し難い箇所もあったが、なんとか進む。写真はその区間の最上部から下方を見たもの。足下の谷沿いに幅半間程の古道とみられる整地帯が見られた。そこには石組みか岩盤を削り作ったような階段状の痕跡もあった

安祥寺上寺跡遺構がある京都市街東部・山科北山中の観音平中心部
観音平中心部。主要堂舎の基壇や須弥壇跡とされる起伏が見える

平安初期の地表残る天空の平坦地

そして、谷の源頭に達する前に左側の急斜上部を戻り巻く形で観音平へと進んだ。先ずはその一段下の、客亭や浴堂があったと推定される幅数mの細長い平坦地に出る。その後、平坦地南端から緩傾斜の小道を登り、観音平に出た。

調査が行われた直後だった以前より樹木が茂っていたが、険しい道の先に現れた天空の平坦地に一同感心。石などを動かさないように注意し、軽く観察後、前掲の展望地にて昼食休憩とした。


京都市街東部・北山科山中の安祥寺上寺跡にあった布目瓦
到着間もなく古い布目瓦を発見。写真でわかるように、裏面に布貼りの跡がある瓦である。古代奈良期から中世室町期にかけて使われたもので、比較的早くに廃れた上寺の歴史を考えると、創建時のものの可能性もある。因みに写真では下面となり見えない表側に圧縮の際につく縄目がある


京都市街東部・北山科山中の安祥寺上寺跡右奥にあるL字形の溝跡
観音平右奥にあるL字形の溝跡(深さ数mで手前を横切り右奥へ下る)。調査機関によると、尾根上方から伝い来る水の害から境内を守る為に掘られた溝の可能性があるという。但し、この溝はかなりの規模を保って100m程上方まで続いており、類例もみないことから、個人的にその説には納得し難い。元からあった水源を利用した貯水施設のようなものも想定できる

昼食後、遺構面を巡って礼仏堂や僧房等の主要堂舎の痕跡を確認した。目に見える形で各建屋や廊下の基壇が残り、落葉のすぐ下には『資財帳』に記載通りの建屋とその規模に合致する礎石が多数残存しているという。

この遺構は凄さは、後代の改変や転用の跡が窺えず、創建時の境内構成を保ち、かつ遺構面が極めて浅いということにあった。ある意味、古代そのままの地面なのである。因みに、氾濫堆積や人為攪乱の影響を受けている同年代の平安京遺構は地下を1m程掘らなければ探れないという。

道の絶えた天空の高台に静かに眠る安祥寺上寺跡。都市近郊にありながらこのように貴重な遺構であった。しかも本格的な発掘調査は未だ行われておらず、その実施は後代に委ねられている。我々も大切に扱い次代に伝えたいものである。訪れる人には是非慎重な行動をお願いしたいと思う。


京都市街東部・北山科山中にある安祥寺上寺跡から山頂へと続く尾根と古道

安祥寺山山頂の経塚遺址へ

観音平見学後はその上方、即ち北方の尾根を登り安祥寺山山頂を目指した。写真はその尾根の様子。この山域の尾根の標準的な姿で、頂部には古道が続いていた。

地形図を検討した結果、この尾根が下方で分岐する場所を大きく削平して観音平が造成されたことが判明した。この山域は硬い丹波層群のため、道具に乏しい古代での施工困難が窺われたのである。


京都市街東部・北山科の安祥寺山頂部に残る平安後期の経塚跡

そして、程なく尾根の頂に到達。標高400m前後の安祥寺山の山頂である。そこには写真の如く、頂部が陥没し、石が散乱する様子が観察できた。平安後期に造られたとみられる経塚の遺構である。

経塚は、末法思想が流行した平安後期に、荒廃から回復した未来に備え経巻を埋め置いた施設。ここで見る陥没と石の散乱は後世の盗掘跡であり、遺跡指定がされる以前に遺物が無くなっていた証でもある。

興味深いのは安祥寺上寺跡を囲う左右の尾根頂部にも同じく経塚跡が存在することである。ここを含む全3箇所の尾根頂部はそれぞれ東西方向の尾根上にあり隣接して共に安祥寺山の頂を成している。標高も殆ど変わらぬ対称的な造りであり、他には見られない何か深い意図の存在が感じられた。

実は観音平真横の左右の尾根上にも大きな平坦地があり、個人的にはそこにも何か塔のような施設があったのではないかと考えている。


京都市街東部・北山科の安祥寺山西頂から下る尾根と古道
3箇所の経塚を観察した後、その西端遺構から西方尾根を下ることにした。写真は尾根の様子。一見変哲ない様だが、古道とみられる跡が続いている


京都市街東部・北山科の安祥寺山西尾根に設けられていた鹿の捕獲檻
西方尾根を下る途上で遭遇した鹿用の大きな捕獲器。どこも獣害が問題化しているようである


京都市街東部・北山科の安祥寺山西方尾根の下端部と古道
そして尾根を下りきり、入山口の古道と合流。体調不良を訴える参加者もいたので、一先ず安堵


京都市街東部・北山科山中にある山科聖天の門前階段

安祥寺とも関わる上寺麓の古寺見学

安祥寺山下山後は、平野に出るまでにある古寺を見学した。写真は通称・山科聖天と呼ばれる双林院。

残念ながら参加者が希望した歓喜天は見られなかったが、良い雰囲気を味わえた


山門越しに見た、京都市街東部・北山科山中にある双林院本堂
山門越しに見た双林院本堂


京都市街東部・北山科にある山科毘沙門堂の正面石段
山科毘沙門堂の正面石段

双林院の次は安祥寺川谷口にある毘沙門堂を見学。個人的に小時よりの馴染みの寺なので、詳しく案内した。

安祥寺の歴史解説でも記した通り、ここも元は安祥寺の寺領であったという。故に、ここにもその関連施設があったのかもしれない。


改修で美麗になった、京都市街東部・北山科にある毘沙門堂本堂
念願の改修が終り美麗の姿を見せる毘沙門堂本堂。約350年前の建造物

下寺推定地を観察し予定終了

毘沙門堂の見学後、麓の市街に出た。次は安祥寺下寺の痕跡を探索する予定であったが、元より地上の痕跡はなく、体調不良者もいたので、施設中心地が想定される古道等を自転車で下りつつ観察し、予定を終えた。

その後は左京市街へと戻り、体調不良者を帰宅させ残りの参加者で喫茶休憩と今日のまとめを行った。そして解散。打上げ等々は体調不良者の回復を待った後日としたのであった。

皆さん、御多忙中色々と有難う、お疲れ様でした!

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2017年11月26日

晩秋池会

京都市街南部の巨椋池干拓地で見た干拓直後を想わせる干上がった田んぼ

冷涼と自転車の助け借り、池跡巡り完遂へ

今日は春5月以来の平会(ひらかい)。

平地の名所旧跡等を巡る集いであるが、春と同じく、自転車による実施となった。場所はその機動力を活かして少々遠方で広範な地を設定。

そう、そこは、まだ暑い9月初旬に下見を兼ねて巡った旧巨椋池(おぐらいけ)跡であった。9月も広大なその跡を淀の旧城下域を含め詳細に巡ったが、徒歩と暑さにより池跡要地を全周することは叶わなかった。

今回は冷涼な気候(寒い?)と自転車の機動力により、それを補完しつつ更にその旧観に迫ろうという企画となった。

前回にも解説したが、巨椋池は京都府南部に昭和初期まで存在した池。その昔「大池」と呼ばれ、東西4km、南北3km、周囲16kmという広大な面積を有した。琵琶湖から流れ出る宇治川を主な水源とし、賀茂川を併せた桂川や木津川という、淀三川が流入する近畿中部の一大低湿地に存在した。

池というより湖と呼ぶに相応しい規模。かつては地域を特徴づける大きな存在であったが、干拓されて久しい今はその姿を知る人も殆どいなくなり、田圃や宅地となった現地にその姿を想像することも困難となった。

正に古の幻を追い、それを体感する平会に適った存在。その結果や、如何(いかん)……。


上掲写真: かつて巨椋池の東部池中を縦断していた大池堤(東堤防)跡を北上する際に見た干拓地水田。水が干上がり、底にひび割れが走る様が干拓直後の巨椋池を彷彿させる。


現代の京都と巨椋池関連図(国土地理院・地理空間情報部より利用確認済。同院「明治期の低湿地図」を加筆・編集。転載・二次利用不可)
現代の京都市街と巨椋池跡(国土地理院・地理空間情報部より利用確認済。同院「明治期の低湿地図」を加筆・編集。転載・二次利用不可)

旧巨椋池と京都市街の関連は上図の通り。中央上寄りにある京都駅の南8km程の場所にあった。現代の地図に明治23年測図時の池や旧河道・湿地が濃い青色で示されているが、中央下寄りの大きな水辺が巨椋池である。

左上の桂川、池上の宇治川、池下の木津川が集まり、左下端の天王山・男山の狭隘部手前で淀川となるが、それらの水が滞留するが如く形成されているのが解る。


明治中期の地図にみる巨椋池(大日本帝国陸地測量部編 二万分一仮製地形図「淀」(藤氏蔵)の一部を加筆・編集。転載・二次利用不可)
明治中期の図にみる巨椋池(大日本帝国陸地測量部編 二万分一仮製地形図「淀」(藤氏蔵)の一部を加筆・編集。転載・二次利用不可)

上図は私が原版所蔵する明治23年測図の仮製地形図である。季節等による変動はあると思うが、明治末の改修で池が宇治川と分離され水位が下がる前の姿なので、近世の姿に近いものとみられる。

一応池についての基礎情報を下記しておくので必要な人は参照あれ……。

巨椋池について

「地理環境」

現在の京都市伏見区南部から宇治市西部、久御山町北東部に当たる地の、東西4km、南北3km、周囲16kmの規模で広がっていた。水域面積は794ha、水深は大部分が0.9m以下で、広く浅い池であったが、浅くなったのは明治末の改修によるものとされ、それ以前は増水時に4、5mに達することも珍しくなかったという。

宇治・木津・桂の三川合流地である男山と天王山の狭隘部付近に形成された山城盆地最大の池沼で、それら河水の遊水地的役割も果たしていた。底部標高は9m前後、琵琶湖や丹波山地、伊賀高原等の近畿中部の水を集める畿内中央低地に当たり、古来水陸の交通要地として栄え、漁業や狩猟・農耕等が盛んであったが、洪水常襲地であり、その後の干拓の要因となった。

「歴史」

その成立については、更新世後半(約130万年前〜1万年前)に砂礫の流入や隆起により縮小した「山城湖」の名残とするものと、盆地へ流入する河川が扇状地を拡大するなかで生じた副次的湖水とするものの2説があり、前者が一般的になっていた。

しかし、近年の土質調査や花粉・化石の解析、植物性遺物の年代測定や考古学調査の結果から、約1万年前は北部の横大路沼共々まだ存在せず、縄文後期(約4000〜3000年前)に池の輪郭が出来、縄文晩期から弥生前半(約3000〜2000年前)頃に湖化したとされる。

だが、弥生期も比較的小さく、奈良期に拡大し、平安期にまた縮小するという変遷がみられるという。それらの原因は土砂の堆積にあり、元来山林伐採による人為的土砂流入により狭隘部の水はけが悪化して池が生まれ、その後変化を繰り返したとする説が有力となっている。

「巨椋」の名称は『万葉集』(7世紀後半〜8世紀後半編纂)が初出で、9世紀には古代豪族「巨椋連(むらじ)」、10世紀には「巨椋神社」、12世紀には「小倉荘」の名が文献に登場。画期は文禄年間(1592〜94年)における豊臣秀吉の大改修で、宇治橋下流から池に流入していた宇治川が太閤堤で伏見城下へ誘導され、その他の堤や街道を兼用した堤も作られ、池と周囲のその後の景観が決定づけられた。

近代明治には43(1910)年の淀川改良工事により宇治川と完全に分離され、水位低下や水質悪化、漁獲減少、マラリア多発等を招く。そして昭和8(1933)年に干拓工事が始まり、同16年に完了して地上から消滅した。


京都市街東部の賀茂川(鴨川)にかかる三条大橋と袂の古い石垣
太閤堤の起点?三条大橋の欄干と近世以前のものとみられる袂の切石橋台

縄手、大和大路を南下して

今回の参加は左京組のみだったので、朝は区内のパン屋喫茶室(ここも廃滅するとの噂があり)に集合し、朝食を摂ったのち出発した。

左京からなので、どうせなら近世巨椋池と関係深い、大和大路(やまとおおじ)を南下することとした。

大和大路とは、東海道の出発点、三条大橋東詰から旧大和国、即ち奈良方面へ南下する道で、豊臣秀吉が途中の方広寺大仏や伏見への接続を兼ねて開いたとされる。伏見以南は宇治川水系に設けられ、近世巨椋池の景観を決定づけた太閤堤の一つ小倉(おぐら)堤上を通りつつ池中を南下する。

同じ頃開かれたとされる五条大橋東詰からの伏見街道と役割や道筋が途中から重なるが、通行量を分離するなどの理由で、比較的早い時期に出入口が分けられた結果ではないかとも考えている。

また、古くから四条以北の道筋が堤の意がある縄手(なわて)と呼ばれ、その理由が賀茂川の堤防兼用路であった為とされるが、小倉堤への接続を示唆する名である可能性も考えていた。長さ数キロに渡る湖中路の出現は、当時の京人に相当強い印象を与えた筈との考えからである。


京都市街東部・賀茂川(鴨川)にかかる三条大橋の擬宝珠に残る天正18年の紀年
三条大橋の擬宝珠に刻まれた「天正18年(1590年)」等の文字。下段には普請責任者で秀吉家臣の増田長盛の名も見える

現在の三条大橋の源的な橋が架けられたのは、豊臣時代の天正18年。その後、何度も架け替えられ、現在はコンクリ橋となったが、木造の欄干が添えられており、その擬宝珠には天正期のものが含まれているという。

西詰に残る石積みの橋台も近世以前の古いものと思われる。この橋台や東海道の盛土により、元はこれより北にあった白川の賀茂川への流入が阻害され、南の祇園から流入する現在の姿になったとの伝承がある。


近世の「豊後橋」を踏襲し、旧伏見城下と巨椋池北縁の太閤堤を結ぶ、京都市街南部・宇治川に架かる現代橋「観月橋」
旧伏見城下と巨椋池北縁の太閤堤を結ぶ観月橋

宇治川渡り、旧湿地帯に入る

余談が多くなったが、一先ず大和大路起点を三条大橋と見做し、そこから出発。かつて大和大路が東海道と接触していた三条大橋東詰南側は三条駅のターミナルに改変されているので、その南端から始まっていた。

古道具や和装を扱う町家古街を過ぎ、祇園、建仁寺、方広寺、東福寺、旧師団司令部(現聖母女学院)と南下して伏見に入った。途中休憩を入れたこともあるが、やはり距離があり、結構時間がかかった。

観月橋で合流した参加者をかなり待たせてしまったが、待合せの返信を受けていなかったので致し方ない。交信を確認すると、こちらの応答にも勘違いがあったが、返信せずに集合することとは関係ないことであった。

前の山会でも連絡がなく、こちらが直前に確認すると「予定が変わった」と通知。それ以前にも「来る」といって来ないことが何度もあった。こういうことは二度とないように以前にも記した筈

こう再三であれば、残念ながらもう後がないと言わざるを得なくなる。

少し話が違い恐縮だが、この機に再度表明しておく。「会」をつけているものは細やかながら公益的志に基づき行っている。客観的に大したことのない企画や規模でも、志だけは高くありたいと思っている。それを軽んずるのであれば、方々の邪魔になるので、何人であれ来ないでもらいたい。

さて、写真は伏見市街南端をかすめる宇治川に架かる観月橋。豊臣期に伏見城下と宇治川対岸の向島城を結んで架けられた豊後橋の旧跡である。


京都市街南部・旧巨椋池内の向島城跡地外れに残る旧湿地の水田
向島城址外れの旧湿地に広がる水田

向島城は伏見城の支城として太閤堤と同じく文禄年間(1592-96)に構築され、17世紀初期の伏見廃城と共に破却されたとみられる。

その場所は豊後橋を頂点にして輪の様に太閤堤が川南の湿地を囲った中にあり、明治期等の地図にも連郭式と伝わるその痕跡が窺えるほか、「本丸」「二ノ丸」等の地名としても残存する。

少々主旨から外れるが、向島の湿地跡も見学することに。城跡は現在市街化が激しいため、外れの湿地跡等を見たが、文禄以前は巨椋池内だった可能性が高い場所である。


湿地(巨椋池)側から見た、京都市街南部の宇治川沿いにある旧下島堤防集落(現向島東泉寺町)

恐るべき天下普請

向島外れの湿地跡から北東へ進み、太閤堤上に並ぶ集落と出会う。旧下島地区(現東泉寺町)で、文禄以前に存在した巨椋池の島跡にちなむ地名とみられる。堤用の土取り等により、堤防集落化されたのか……。

写真は湿地側からみた太閤堤上の旧下島集落。


京都市街南部・宇治川沿いにある旧下島集落(現向島東泉寺町)前の太閤堤跡と宇治川
太閤堤上に並ぶ旧下島集落や府道241号線、そして宇治川。堤防道路は現在でも向島と宇治を結ぶ要路となっている


京都市街南部の旧下島集落(現向島東泉寺町)から見た、宇治川と対岸の伏見城跡(桃山)
太閤堤上からみた宇治川と対岸の桃山(木幡山)

民家の間から太閤堤上に出、眺めの良さにつられて暫し休息。対岸の丘陵がちょうど伏見城主郭部分であったことを説明した。

皆感心すると共に宇治川の水勢に驚く。今は堰やダムに制御された状態にも拘わらずの水量と流れの速さ。近代治水がない頃はさぞや恐ろしいものであったろう。

400年以上前に、豊臣政権がそんな水系を広範に改修出来たことに改めて驚かされた。水攻め等による地貌改変の心理効果を知っていた秀吉は、ひょっとしたら権威誇示の為もあり、この大普請を行ったのか。

古代文明の帝王らの治水事業を上回るような偉業を目指して……。


京都市街南部の向島集落(太閤堤)跡に残る古い町並み

湖上の街道、小倉堤跡をゆく

太閤堤上を西進して観月橋まで戻り、そのまま向島西部に残る堤上を進む。堤は左に曲がりつつ宇治川を離れ、やがて南下する様相を呈した。即ち、大和街道であり湖上路である小倉堤の始まりである。

写真は干拓前に建てられたとみられる町家が多く残る地区。かつて賑わった奈良・京街道の名残りである。


京都市街南部の近鉄向島駅付近から見えた、巨椋池跡の田圃
近鉄向島駅近くから見えた巨椋池跡の田圃や宅地

南下を続け暫くすると、団地や新興住宅街となり、道も広く新しいものとなった。堤を想わせる若干の高さも有していたが、そのうち明瞭ではなくなり、やがて近鉄向島駅の傍に達した。

堤がもう湖上に出ていた場所で、線路向こうに池跡の田圃や宅地の広がりが見えたが、広がる湖水を想像するのは少々難しいか……。


京都市街南部・向島外れの西目川集落北部に残る小倉堤(太閤堤)跡

更に進むと脇道となった箇所に再び堤が現れた。写真右側の高まりである。

道もその上に続き、また古い集落が現れた。西目川(にしめがわ)集落で、巨椋池上に3箇村あった湖上集落の内の1つである。

3箇村の内、西部の大池堤にあった東一口(ひがしいもあらい)集落は漁業株を持つ漁村であったが、西目川と残りの三軒家集落の役割は不明である。ご存じの方がおられれば、ご教示願いたいと思う。


小倉堤(太閤堤)が削平されて造られた、京都府宇治市槙島町落合の住宅地
小倉堤中央部に当たるも、その痕跡を全く留めない南落合地区の宅地

西目川集落を過ぎると碁盤目の新興住宅地となり、堤の跡は途絶えた。地面も完全に削平されており、国土地理院の対比図(レイヤーマップ)を基に自転車で跡を探すも徒労に終る。


京都府宇治市槙島の三軒家集落北端で切断された小倉堤(太閤堤)跡を示す宅地の高まり

しかし、南落合の南部にて、また宅地の高まりを発見した。写真中央に建つ、小高い家並である。


小倉堤(太閤堤)上の、京都府宇治市槙島三軒家集落の古い家並
堤上に古い家並が残る三軒家集落

宇治川旧路を探り、錦秋の河畔で休息

早速、屈曲路を登ると、高台上に前回訪れた集落があった。小倉堤南部の堤防集落、三軒家地区である。

三軒家を過ぎると間もなく、旧巨椋池東岸(小倉堤は東に寄りつつ南下)の小倉集落に到着したが、そこからは一旦池跡を離れ、文禄以前の宇治川旧路を探りつつ、宇治へと向かった。

文禄以前は巨椋池に突き出た半島であった小倉集落東郊で旧路に関するとみられる低地や水路を見たが、やはり、戦国・中世にまで遡れる確かな痕跡を見ることは叶わなかった。


紅葉が盛りの京都府宇治の「塔の島」付近で休息する平会一行
宇治河畔の紅葉下での休息

そして、宇治の中心部に到着し、その名所、塔の島辺りの宇治川河畔にて昼食休憩をとることとした。

折しも、紅葉に合わせた観光期の盛りで、街中に人が溢れていた。平会一行も、暫し河畔の紅葉下で寛ぐ。


京都府宇治の「塔の島」と宇治川派流に、背後の山地に見える宇治川峡谷出口
手前は宇治川派流と塔の島、奥の山の窪みは宇治川渓谷。かつて琵琶湖から一気に渓谷を下った河水は、ここから山城盆地に出て巨椋池等の湿地を潤した。文禄以前は、ここから下流すぐの場所にある宇治橋西下から巨椋池へと注いでいたという。先程通った、小倉集落からの低地である


旧巨椋池南岸の京都府宇治市伊勢田新田でみた旧名木川河口跡の茶畑

南岸から西岸跡へ

休息後は混みあう宇治市街を後にして、再度小倉集落に戻り、巨椋池探索を再開。集落を貫く大和街道を南下し、いよいよ街道とも別れて池の旧南岸に当たる伊勢田地区へと入った。

前回も記した通り、南岸は宅地化が激しく、その痕跡を見ることはやはり難しかった。ただ、対比図により、新しい府道近くにあった入江跡を推定できた。しかし、かつての風光明媚な様の想像は、もはや不可能であった。

唯一痕跡が見られたのが、前回も紹介した西小倉小学校西隣にある畑の高まり。対比図や干拓直後の航空写真との照合により、伊勢田新田を貫流していた名木川(山川)の河口部と判明。天井川だったので堆積土砂が想像された。

今回紹介する写真は、その北側にある微高地状の茶畑。前回は河口の浜かもしれないとしたが、対比図や航空写真により、浜か沖の堆積地であることが判明した。かつての好漁場であり、その権利を巡り、近世初期から漁家と農家の争論が繰り返された地である。


京都市街南郊にある旧巨椋池・大池堤跡に残る祠と樹木
古川排水路西土手にあった古い祠と杜

名木川河口部の次は西走し、西岸跡に達した。前回とちょうど逆の道筋である。旧安田村辺りを流れる古川の土手を北上し、もう一つの池中路である大池堤を目指す。

今回は図や古写真により大池堤を継承しているのは、この辺りでは古川の西土手であることが判明していたが、途中で東土手にかわる際に渡河し難いことから、前回同様、東土手を進んだ。

写真は西土手上に現れた古い祠。大池堤を継承した土手なので、それに関わるものとみられる。ここは東一口集落を経て淀城下への入口ともなった場所なので、塞ノ神のようなものであろうか。また、大池堤が南岸から湖中に出る特殊な場所でもあった。

因みに古川は木津川に関連するとみられる古い流れだが、現在では整備されて干拓地等での排水路の役割も果たしている。


京都市街南郊に広がる広大な巨椋池跡の田圃

北上暫くして小休止。

大池堤跡は、古川の2度目の屈曲点辺りで東土手に移っていたが、低く成形されているようで往時を偲べる姿ではなかった。

写真は休息場所傍の田圃より見た干拓地広景。巨椋池の広大が窺える本日一番の眺めである。果てに林立するのは向島の団地群。即ち、我々一行はその傍の堤跡を経て、湖岸を大回りし、ここまでやってきたのであった。しかもその間には宇治にも立ち寄っている。

今日は午後から15度くらいの温暖となる予報であったが、天気が優れず風もあって寒かった。もう冬なので仕方ないが、自転車で身体を動かしている為か、冷えきることはなかった。


京都市街南郊に残る、旧巨椋池・大池堤上に連なる東一口(ひがしいもあらい)集落

休息後はすぐに東一口集落が現れた。ここは集落の土台として往時の大池堤が残っている。写真の如く、堤上の集落内の一本道を東寄りに北上。


京都市街南郊の旧巨椋池・大池堤上の東一口(ひがしいもあらい)集落中心にある旧山田家住宅の豪壮な長屋門

そして前回も立ち寄った山田家門前に到着。近世における巨椋池漁業の総帥家とされる家である。変哲ない民家の先に突如現れた威容に一同驚嘆。

山田家の敷地は道路よりかなり高くなっているが、地元・久御山町編纂の資料によれば、明治の淀川改修以前の堤の高さだという。改修後は池の水位も下がり不要となったため、削られたとのこと。


京都市街南郊にある巨椋池排水機場と前川

干拓地の守護神

長く戸数も多い東一口を抜けると、宇治川の土手と共に巨大な建屋が現れた。巨椋池排水機場である。手前の前川等により集められた干拓地内の水を宇治川に排出する為の施設である。正に、干拓地の守護神的存在。

干拓以来、数々の洪水危機を経て増強が繰り返されてきたという。どこか山田家に通じる意匠であるのことも興味深い。


京都市街南郊の久御山排水機場と古川
古川(左水面)と久御山排水機場

また、大池堤跡を挟んだ南側には久御山排水機場があった。

巨椋池排水機場の方が新しく見えるが、実はこちらの方が昭和中期に増設されたもので、干拓当初から稼働していたのは巨椋池排水機場であった。但し、平成17(2005)年に更新されたという。


京都市街南部にある旧淀城の天守台石垣と内堀跡に、背後の高架を走る京阪電車

巡検終了。淀から桂川北上し帰還

干拓地の守護神2棟との遭遇を最後に、巨椋池跡巡りは終了となった。

宇治川の土手を東進し観月橋に戻ることも考えたが、単調であると思い、淀経由で桂川河畔を北上して京都市街へ戻ることとした。

写真は途中立ち寄った淀城址。本丸の石垣上からみた天守台の石垣と内堀跡である。近年京阪電車が高架化したので、風情に劣ってしまったが……。勿論、渋滞緩和や事故防止も必要なことではあるのだが。



京都市伏見区深草にある、旧陸軍16師団縁の銭湯「軍人湯」の看板

桂川の土手道を長駆して途中から伏見北部に入り、参加者馴染みの喫茶店で休息しようとしたが、満席のため、銭湯に入ることとなった。

近くの伏見街道沿いにあったその銭湯の名は写真の通り。今朝も旧師団司令部前を通ったが、伏見北郊はかつて軍都と呼ばれるほど陸軍施設が集まっていた。銭湯の名はその名残りである。とはいえ、内部は改装されて至って普通なのではあるが……。

一先ず風呂にて長い車乗の疲れを癒し、その後、小生推薦の中華屋に移動し、本場の食堂料理を堪能した。食後はまた北上して京都市街へ戻り、喫茶店での懇談会を経て日を終えたのであった。

今日の走行距離は約40km。比較的平坦な道程とはいえ、相当な距離であり、個人的には記録的自転車行となった(昔砂漠で同じ距離を1日かけて歩いたことがあるが……笑)。

皆さん、お疲れ様でした、色々と有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 平会

2017年05月14日

緑候津会

旧東海道・逢坂峠付近(滋賀県大津市)に残る、日本画家・橋本関雪の旧別邸「走井居」(現「月心寺」)と玄関前の名泉「走井(はしりい)」

旧路たどり大津へ

去年の12月以来の開催となった今日の平会。

今回もまた希望を承けて自転車での巡検企画となった。場所は滋賀県大津。古くから京の外港、湖上交通の要として重きをなした街である。

京とそこを繋いだ近世東海道跡を経て、その旧市街へ目指す。


上掲写真: 今は国道や高速路・鉄路に「上書き」されてしまった旧東海道の、逢坂(おうさか)峠付近に残る日本画家・橋本関雪別邸。玄関前の井戸は江戸期の名所図会にも描かれた名泉「走井(はしりい)」。但し、後代設置で、本来的なものは奥庭にあるという。


京都市街東部・南禅寺境内から琵琶湖疏水のインクラインを潜るトンネル「ねじりまんぽ」向こうの旧東海道跡(三条通)へ自転車で向かう平会一行

朝は京都市街東部の老舗パン店併設喫茶室に集合し、優雅に(笑)店の自家製惣菜パンによる昭和的朝食を済ませて出発した。

写真は、南禅寺境内から東海道跡の現三条通へ向かう平会一行。向こうに見えるトンネルは、琵琶湖疎水の施設「インクライン」を潜る為の隧道「ねじりまんぽ」で、捩じる様に組まれた煉瓦が特徴的な明治期の土木遺産。街道と同じく、大津と京(都)を結ぶ、象徴的存在。


京都市街東部・山科の北方「四ノ宮」の旧東海道沿いにある飛脚休憩地「山科地蔵」徳林庵で日ノ岡峠越えの疲労を暫し休める平会一行

街道残る山科をゆく

国道と旧東海道の残存部を辿りつつ日ノ岡峠を越え、京―大津間に広がる山科盆地に入る。その北部には国道と分離された旧路が良く残されており、自転車行には有難い。ただ、各駅前を繋ぐ道路でもあるので、狭い割には四輪車の通行も多く、注意が必要。

写真はその北部・四ノ宮の地にある「徳林庵」。京六地蔵の一つで、古来信仰厚い通称山科地蔵の名で知られる佛寺。街道に面して開放的な造りのそこは、近世には飛脚らの休憩地となっていたという。正に古の「道の駅」。我々も峠越えの小疲労を暫し休めた。


京都市街東部・山科の北方「四ノ宮」の旧東海道沿いにある、飛脚休憩地「山科地蔵」徳林庵境内に残る古い釜と炉
徳林庵境内に残る古い釜と炉。旅人へ供された茶用であろうか


京都市街東部・山科の北方「四ノ宮」の西から始まる、旧東海道の逢坂峠への登坂
休息後再び旧街道を走り、京都東インターによる断絶越えて傾斜の強い旧道をのぼる。京都と大津の界・逢坂峠への登坂の始まりである


京都市街東部・山科北方の「四ノ宮」の西にある旧東海道と奈良街道の分岐地「追分」
登坂途中の街道分岐「追分(おいわけ)」。現地名・駅名にその名が残る、東海道と奈良街道の分岐部



旧東海道・逢坂峠付近(滋賀県大津市)に残る日本画家・橋本関雪の旧別邸「走井居」(現「月心寺」)表門とそこを利用した蕎麦屋の暖簾

いよいよ国道沿いの山間登坂に入り暫しすると、写真の如くひらりと五月風に翻る暖簾が……。

橋本関雪の別邸「走井居」、即ち彼が開基の禅寺「月心寺」にて開かれていた週末限定の蕎麦店であった。食に目のない参加者の気掛かりとなり、境内拝観と休息を兼ねて寄ることとした。


旧東海道・逢坂峠付近(滋賀県大津市)に残る日本画家・橋本関雪の旧別邸「走井居」(現「月心寺」)とその庭や池
月心寺と走井居の庭園

瀟洒な京風日本家屋にて庭を眺めつつ手打ち蕎麦を頂く。正に表の交通喧噪とは異次元の風情であった。夏なぞはさぞや涼しかろう。

写真には写ってないが、室町期の才人「相阿弥(そうあみ)」作という山肌斜面の石組みも見事であった。

建屋以外は近世の茶店跡らしく、有名な「走井餅」が売られていたが、交通事情の変化により閉業し、関雪が買い取り井泉と庭園の保全を兼ねて利用したという。

茶店は3月に行った男山門前のそれとなり、その歴史を継承している。


旧東海道・逢坂峠付近(滋賀県大津市)に残る日本画家・橋本関雪の旧別邸「走井居」(現「月心寺」)の案内冊子
月心寺で頂戴した案内冊子

先程通過した追分の、近世の様子が描かれた図が添えられていた。今とは違う賑わいぶりが窺われて興味深い。


明治初期に日本人独力で施工した初の山岳トンネル、旧東海道本線・逢坂山隧道の大津口(東口。左側)を見学する平会参加者

大津旧市街入り

月心寺を後にし、間もなく大谷(おおたに)の集落を越えて峠を越える。大きく掘り落とされた国道区間で、往時の面影はないばかりか、歩道や路肩がない場所もあり、危険ですらあった。

やがて大津の街が見えるあたりで横にそれて写真の場所を見学。旧東海道本線・逢坂山隧道の大津口(東口)である。明治13(1880)年に開通し、新たな隧道と路線に変更される大正10(1921)年まで使用された。日本人独力で施工した初の山岳トンネルとして貴重。

当初は単線であったため左のものが古く、右は複線化により18年後の明治31年に増設されたという。


明治期の旧東海道線隧道跡から更に旧東海道を下り遭遇した、現役の東海道本線である大正期の煉瓦隧道と昭和期のコンクリートトンネル
旧東海道線隧道跡から更に道を下ると、間もなく現在の東海道本線と遭遇

複々線で、奥の複線にある煉瓦隧道が大正期のもの、手前のものは昭和の増設。


滋賀県南部・大津の浜大津港の芝生上で琵琶湖や観光船「ミシガン」をみつつ休息する平会参加者
浜大津港での休息。湖面右端に写るのは遊覧出航する観光船「ミシガン」

残念ながら再開発の名の下に大規模な破壊が続く大津旧市街に入り、そのまま湖岸の浜大津まで下りきった。休息を兼ね、一先ず湖岸の芝生にて昼食とすることにした。


滋賀県南部・大津旧市街で大津城の痕跡を探りつつ見学した旧遊郭街の古い木造建築

城郭跡の旧遊郭

昼食後、旧市街の散策を開始。自転車と、時にそれを置いた徒歩によるものであった。

写真は大津城の痕跡を探りつつ見学した旧遊郭街の建物。城も遊郭も旧市街の西側にある。遊郭街は前近代的趣が強く残る場所にあるため、城の痕跡とも近い関係にあった。


滋賀県南部・大津旧市街にある旧遊郭街の妓楼の廃墟

当然ながら、妓楼は現在は営業しておらず、その建屋も大半が無人となり荒れるなど、廃滅の危機に瀕していた。写真もその一例。元は贅を凝らした和風建築なのだが、既に水がまわり倒壊の兆候が目立って著しい。


滋賀県南部・大津旧市街に残る旧遊郭街の妓楼建築の古い軒下照明
妓楼建築によくある軒下照明

1階や2階の軒下にあり、間口にもよるが、3個程付けられることが多い。器具は戦前のものであろう。以前行った橋本遊郭跡では灯火管制の布が付けられたものさえあった。


滋賀県南部・大津旧市街にある旧大津遊郭内の古い洋風建築(看板建築)
大津遊郭では珍しい洋館風建築

タイルやレリーフを含めた意匠が素晴らしい。恐らくは前面だけの「看板建築」で、骨格や奥の間は木造和風だと思うが。使われずにあるのが勿体ない。


幻の大津城の堀との関連が指摘されている、滋賀県南部・大津旧市街の旧大津遊郭内を流れる小川と古い石垣
旧遊郭街只中を流れる小川と古い石垣

大津城の堀との関連が指摘されているものである。遊郭街に限らず、旧市街西側に多く残る。勿論、防御施設としての堀は、本来もっと幅があった筈なので、廃城後狭めれれたということが前提であろうが。


大津市編『図説大津の歴史 上巻』1999年刊所載「大津城縄張推定復元図」
「大津城縄張推定復元図」(大津市編『図説大津の歴史 上巻』1999年刊より)

幻の大津城

大津城は、坂本城の廃城に伴い天正14(1586)年頃に城下町共々代替建設されたものである。羽柴秀吉による近江支配の一環とみられ、豊臣系大名が入れ替わり城主となった。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、城主京極高次(きょうごく・たかつぐ)が西軍の猛攻に暫し耐えたのち開城したが、結果的に東軍の勝利に貢献。戦後は膳所築城に伴い廃城となり、その跡は港湾施設や町家域となった。

存在期間が短く、絵図や縄張図も伝わらない為、幻の城と化したのである。

上の復元図は、平成10年頃までの研究や実地調査に基づいて作られたものだが、史料が乏しい為、発掘調査が進む本丸以外の精度は高くないと思われる。

ただ、興味深いことに、国宝の彦根城天主は解体修理時に発見された墨書により大津城の転用材が使われていることが判明している。

また、外堀の幅が36m程もあり、全体としても縦横500m以上の規模があったことは確実とみられている。そうでなければ、15000人もの西軍を釘づけすることは不可能であろう。

とまれ、堀跡はそのまま埋められている筈なので、今後の発掘で明らかにされることを期待したい。


滋賀県南部・大津旧市街の旧大津遊郭外れにある、人家の中を通り抜けられる路地
遊郭街外れの路地

壊れ、寂れゆく大津旧市街

人のみが通行可能な路地が多くあり、その中には人家の中を通って抜けられるものもあった。公私混ざり合ったアジア的・前近代的街並み――。

しかし、この付近も再開発による道路拡幅と取り壊しの嵐が吹き荒れていた。古くからある寺院でさえ、その猛威に曝され破壊を受けていた。

その後、東部の商家域で、大津祭の鉾町でもある市街東側を経て湖岸埋立地の喫茶店で休息。本来なら旧市街にある古い喫茶店に行きたかったのであるが、商店街を含め壊滅状態にあった。

そもそも町家域の商業的雰囲気が消え、急激に雑多な住宅街へと変わりつつあった。かつて、都の祇園鉾町とも張り合った大津町衆の活躍故地としては寂しい限り。


滋賀県南部・大津旧市街西郊にある、明治23(1890)年完成の最初の琵琶湖疏水「第一疏水」の水門(左)と閘門(右)
明治23(1890)年完成の最初の琵琶湖疏水・第一疏水の水門(左)と閘門(右)。後者は水位差を減じて船の航行を易くする

最後は西郊長等地区見学

のんびり巡っていたので、はやくも夕方となった。市街西郊の園城寺(三井寺)・大津宮跡や東郊は芭蕉ゆかりの義仲寺(ぎちゅうじ)等にも行きたかったが、まあ次の機会か……。

最後は西部の長等神社や疏水施設を見学することに。長等神社前に残る素朴な近世版画「大津絵」の店も紹介したかったが、残念ながら閉店。店前での解説のみとなった。

そして疏水の方は琵琶湖に面する取水口まで行って閘門(こうもん)跡等の明治の遺産を見学した。


京都との境「長等山」に吸い込まれる様に流れゆく、滋賀県南部・大津旧市街西郊にある琵琶湖第一疏水の湖水
長等山に吸い込まれる様に流れゆく第一疏水の湖水


大津と京都・山科盆地を隔てる東海道の間道「小関越」の、古道風情が残る区間を自転車で駆け下る平会参加者
古の風情残る「小関越」を山科側へ下る

帰りは古代官道「小関越」に挑戦

そして、長等神社横から東海道の間道「小関越(こぜきごえ)」をのぼりつつ帰途についた。

ここは逢坂越より古いとされる、古代の北陸道の痕跡とされる古道。今は地元しか知らない細道と化したが、大津の古代を考える上では欠かせない道であった。また、緑多く、車輌も少ないので自転車や徒歩には良い趣も含んでいた。

しかし、登坂がきつい。当たり前であるが、主路となった逢坂越が近世から何度も掘り下げられて改修されているのに比べ、間道となったここはあまり手が加えられていない為である。

皆に良かれと思い計画したが、もはや自転車を押して登るほどとなり、見積もりの甘さを詫びつつ進んだのであった。

峠で一服し(昔あった湧水がなくなっている?)、更に古道風情が残る山科側を一気に下ったのである。四ノ宮ではまた徳林庵で休息。東海道・小関越共に絶妙の位置に寺があることを認識させられた。

そして、国道(新道)経由で日ノ岡峠を一気に越え京都市街に帰着。その後は予約してもらっていた知る人ぞ知る焼鳥店に入店が叶い、打上げ夕食会となった。

比較的ゆったりと行動したが、今日も内容深い一日とすることが出来た。皆さんお疲れ様でした。小関越の足労、ご容赦あれ!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2016年12月18日

師走道会

古代京の都と嵯峨野を結んだという「千代の道」考察の攪乱者?「千代ノ道町」の電柱表記

晴天・温暖に恵まれて師走平会完了!

本日予定されていた平会(ひらかい。内容は「道会」「墳会」)は無事終了。師走ながら、快晴と温暖に恵まれた良い巡検が楽しめた。

今回は、古代、現京都市街北西の嵯峨野にあったという「千代の古道(ちよのふるみち)」の跡を求めつつ、広く嵯峨野・太秦地域を探索した。

果たして、その結果は……。


上掲写真: 「千代の道」考察の攪乱者?「千代ノ道町」の電柱表記。


明治22年測図仮製地形図に藤氏晴嵐が加筆した「千代の古道」推定路図
「千代の古道」推定路(クリック拡大)

今回の平会も、古い道を追う為、昔の地図を用意する。今の地図では近代以降、特に戦後に出来た新道や建屋の所為で、旧路の考察がし難い為である。

用意したのは、嵯峨野を初めて近代測量によって描き出した明治22年の地形図や、初の大縮尺図である大正11年の初版都市計画図等。

平安古道「千代の道」

ところで、「千代の古道」とは、平安初期以前に嵯峨野に通じていたとされる古道で、在原行平(弘仁9(818年〜寛平5(893)年)の古歌が初出だとされる。そして、それ以降、定家卿や後鳥羽院等の歌に詠み継がれててきた。

それらによると、嵯峨野北方の大覚寺北隣辺りにあった嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」へ通じていたとみられることが推察されるという。始点は不明だが、離宮との関連からみて、平安京か、そこから西にのびた道の分岐地が考えられる。

行平の時代既に「跡」と表現されていることから、嵯峨上皇の死後間もなくして廃滅に瀕したらしく、現在その跡を辿れる痕跡はない。推定されるルートも所説あり、そもそも文学上の記述にしか見られないものなので、実在はなく、概念的なものだったとする説もある。

一先ず主な推定路は下記の通りで、今回はそれらを辿りつつ、嵯峨野の古跡を巡ることとした。

1. 双ヶ岡南から常盤・広沢池を経て嵯峨院跡に至るルート(上図赤線)。
2. 太秦広隆寺前から大覚寺南に至るルート(同青線)。
3. 梅宮大社から現「千代ノ道町(旧字名・上街道)」「秋街道町」を経て大覚寺南に至るルート(同緑線)。

この他、鳴滝の中道町辺りからの広沢池経由のルート想定もあるが、明治図や元禄図に記載がないことと(道が廃滅しても部分痕跡が残る可能性が高い)、元より双ヶ岡(双ヶ丘)に阻まれて都との連絡が悪いことなどから省いた。


平安京西北端部とみられる、現妙心寺境内から続く平地面が西方の「西の川」で途切れる場所

初の自転車巡検は平安京端部から

前夜に予定を変更して、今朝は千本今出川の喫茶店で集合。皆で朝食をとりつつ、資料配布や打合せを行なって出発。

今回平会は初の自転車巡検。交通機関の都合に縛られることなく、自由に行動出来て好ましい限り。

そうして最初に訪れたのが、今日の開始地点に相応しい平安京西北端部。写真がそれで、現妙心寺境内から続く平地面が西方の「西の川」で途切れる辺り。

道は西の御室側に向かって急激に下がり、台地か整地面の西端であることがよくわかる。平安京の明瞭な西端遺構は判明していないようであるが、想いを馳せるには良い場所である。


京都市西北・花園と御室の境界にある、西の川と平安京側(右)の崖面
西の川と平安京側(右)の崖面

平安京東端に想いを馳せたあとは、御室の低地を南下して法金剛院(ほうこんごういん)に至る。双ヶ岡南東麓にある平安末期創建の古刹で、境内の裏山に古墳があり、南には遊猟地として知られた湿地が嘗て広がっていた。

今は寺の庭池として僅かに残るそれを見学して、往時の景観を想像する。戦後建設された新丸太町通や鉄道高架等が東西に横切る市街景となっているが、注意すると宅地の中などにも低地の様が窺えた。


京都市西北・鳴滝の住宅地端に登拝口が覗く文徳天皇陵推定地
住宅地端に登拝口を覗かせる文徳天皇陵(推定地)

候補外ルートで嵯峨野入り

法金剛院からは、丸太町を西にして双ヶ岡西麓に入る。

個人的な千代の道最有力候補の、1の赤ルートの遡上も考えたが、商業地となっていたので、一先ず候補外の中道ルートを辿ることとした。

しかし、ここも比較的新しい感じの宅地となっており、風情には乏しかった。よって、道の写真を撮ることは早々に諦め、付近の古跡案内に注力することとした(笑)。

最初は文徳天皇陵。千代の道の跡が残っていたとみられる、平安初期の文徳帝の陵墓とされるが、築造形式・年代が合わず疑義が呈されている。

良く整備された長い参道を渡り、文徳池を経て陵前を参観。入口から距離・曲折があり、丘の突端を利用した豊かな緑と相まって、興趣ある風情を有している。


浩々と池底を広げる、水のない京都嵯峨野「広沢池」
浩々と池底を広げる、水のない広沢池

陵から中道ルートに戻って西進し、まもなく広沢池に到着。景色を得てただちに違和感が生じたのは、池の水が抜かれていたため。恒例の冬支度である。池端では、これまた恒例の池魚の直売も行われていた。

水はなけれど、浩々たる様が晴天に広がり心地よい。気温も上がってきた。

暫し皆で休息……。


耕地の只中にある、京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基

六ツ塚となった七ツ塚古墳

休息後、池畔北東部にあるという、平安期の遍照寺(へんしょうじ)遺構見学を試みるも、竹藪の迂回の面倒と本題ではない為、途中で断念。

その後、近くの田圃中に点在する嵯峨七ツ塚古墳群を見学。その名の通り、7つの古墳からなる古墳時代後期頃に造られた小古墳群で、写真はその内の1つ。


農道の先に見える、京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基
同じく七ツ塚古墳の1つ(左の、松がある小丘)


京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基の傍で見つけた、加工された石片?
七ツ塚古墳近くの路傍で見つけた、加工を受けた石片?

とても軽く、断面に細かな積層もある為、木材かとも思われたが、硬さはあった。錐状のもので開けたとみられる穴の隣にも同様の穴跡が。詳細不明、存じの方がおられらば、ご教授願いたい。


田に囲まれて近寄りがたい、京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基
七ツ塚古墳の1つ

田に囲まれている為、近寄りがたいもの。この条件で、よくぞ千四五百年間姿を保ったものである。因みに、宅地として破壊されたもの(場所)も確認した。よって、現在は七ツ塚ではなく、六ツ塚のみの現存である。

これ以上、減らされないことを願うばかり。勿論、負担大きい地権者にも便宜が図られつつ……。


水面に冬枯れの蓮のぞく、京都市街北西・嵯峨野「大覚寺」の池
水面に冬枯れの蓮のぞく大覚寺の池

七ツ塚から嵯峨野北辺の山際に移動し、山麓の陵や朝原山古墳(古墳時代後期)を見学。

そして、大覚寺の池畔にて、少し遅めの昼食を採った。既に上着の要らない陽気となり、一同暫し芝生上に寛ぎ、食べ、語らう。


京都市街北西・嵯峨野「大覚寺」南にある、大覚寺古墳群の内の、石室が露出した1基

大覚寺古墳群

昼食後は、大覚寺南の大覚寺古墳群を見学。写真はその内の1つ、入道塚古墳。石室が露出し、あまり高さもないが、これも古墳時代後期のものという。

畦を伝い、なんとか近寄れた(笑)。


京都市街北西・嵯峨野「大覚寺」南にある、大覚寺古墳群最南部の狐塚古墳の石室口
大覚寺古墳群最南部にある狐塚古墳(古墳時代後期)

こちらは、円墳の体裁保っており、石室の状態も良好。


朱の鳥居と柵で飾られた、京都市街北西・嵯峨野「広沢」の広沢古墳群の1基「稲荷古墳」

広沢古墳群

大覚寺古墳群の次は広沢池近くに戻って、広沢古墳群を見学。写真はその一つである稲荷古墳(古墳時代後期)。名の通り、上部にお稲荷さんが祀られ、後代・現代の聖地と化している。


京都市街北西・嵯峨野の広沢古墳群の1基で、広沢池前の公園内に僅かに残る広沢3号墳
広沢古墳群の1つ、広沢3号墳(古墳時代後期)

なんと、池前の児童公園内にあった。知らないとただの植え込みにしか見えないが、当時のものらしい。


京都市街北西・太秦の道端崖上にある地域最古級の大型古墳「仲野親王高畠陵」

広隆寺ルート探りつつ最大古墳へ

さて、本題に戻り、広沢池南からのびる古道を辿って、2の青ルートを探る。途中、古い分岐で江戸期の道標を見つけ、前近代よりの街道であることを再確認したが、直接千代の道に繋がるようなものはなかった。

写真は道端の崖上にあった大型古墳。平安前期の皇族、仲野親王の高畠陵として宮内庁管理となっているが、古墳時代中期(5世紀末頃)築造とされる地域最古級のもの。変形台形型の変わった形で、大覚寺古墳群等にも同様がみられるという。


京都市街北西・太秦の住宅街に府内最大級という石室のみ残る蛇塚古墳

巨石に圧倒、蛇塚古墳

太秦区域に入ったので、折角ならと、近くにある府内最大級の石室を持つとされる蛇塚古墳を見学することとなった。写真はその姿で、横長の巨石下部に見える白い枠は崩落防止用の鋼材である。

嘗ては全長75mの前方後円墳であったが、戦後破壊され石室のみが住宅街に残る。古墳時代後期の築造とみられ、被葬者は当時近隣に勢力を有した秦氏の首長とされる。

秦氏はこれまで見た古墳とも関連しているとみられる、古代嵯峨野を考える上で欠かせない氏族である。


京都市街北西・太秦の住宅街に石室のみ残る蛇塚古墳の内部
蛇塚古墳の石室内部

当初は周囲からのみの見学予定であったが、以前見学した参加者の1人が、手続きをしてくれて、幸運にも内部参観が叶った。


京都市街北西・太秦の蛇塚古墳の石室内部奥側の巨石と、撮影する平会参加者
蛇塚の石室(奥側)

天井の石は持ち去られたか。しかし、とんでもない巨石が使われている。正に圧倒の迫力。こんなものを何処からどうやって運んだのか。聞けば、この石室の規模は、政権中枢との関連が深いとされる奈良石舞台古墳に匹敵するものという。

それらのことから、地方豪族の所産とはとても思い難くなったのであった。秦氏関連ということで諸々決着されている観があるが、まだまだ謎は多いのかもしれない。


マンション裏の駐車場に接し、ゴミも多く、荒廃した観がある、京都市街北西・嵯峨野千代ノ道町の「千代の道古墳」

千代ノ道町ルート探索

蛇塚見学後、近くを流れる西高瀬川に沿って西行し、3の緑ルート探索を始める。このルートは東西路が多い所説中、珍しく南北を想定するものである。

その根拠の1つになっているのが、「千代ノ道町」という地名。しかし、同地は戦前「上街道」と地図表記されており疑問が生じる。また、北隣に「秋街道」という別路を指すような地名もある為、南北連続した道というより、それぞれに東西方向の街道があった可能性も窺われるのである。

写真は千代ノ道町内にあった古墳、千代の道古墳。想定南北路よりかなり東よりにあり、規模も小さい。良好に残存するという円墳らしいが、マンション裏の駐車場に隣接し、ゴミも多く、荒廃した観がある。


古い町並み風情が残る、京都市街西北・嵯峨野「高田集落」の夕景

南北路を梅宮社近くまで南下して、また戻った。写真は、その途中の高田集落。他と違い古い町並み風情が残っている。


「千代の古道」南北推定路から見えた、京都市街西北の嵐山・亀山・愛宕山等々の夕景
南北推定路から見えた嵐山・亀山・愛宕山の夕景

古道の確証得ず
新たな南北支路説考察


北上し、そして最後に1の赤ルートの未見部分も走破。しかし、何れも市街化が著しく、千代の古道の確証を得ることは出来なかった。何せ、1200年近くも前の古道である。ある意味無理なのは致し方ないことと言える。

一応、その他の史料から、改めて(まあ軽く)考察してみた。初出の行平の和歌によると、古道は「嵯峨の山」の付近で、「芹川」の傍にその跡を留めていたという。これを厳密に解釈すると、中世以前に芹川の名があった現瀬戸川辺りにあったと思われる(鳥羽の芹川とする説もあるが、嵯峨とセットなのでそれはあり得まい)。

明治図(上掲推定路図)左端に加筆字の「渡月橋」が見えるが、その橋の字の辺りで大堰川(桂川)に注ぐのが瀬戸川である。図では途中で切れているが、この河口辺りから大覚寺参道までの直線路を想定できる。

河口にある堤防上の東西路は、広隆寺を経て平安京二条大路と接続されていたとされる古道である。しかも二条大路は平安宮正面に接する基幹大路。広沢へ斜めに向かう道より迂遠となるが、行幸路としては最適かと思われるのである。

ということで、二条大路からの南北支路としての新たな千代の古道説を、一先ず挙げたいと思う。

自転車企画成功!

さて、一行の探索も終り、丁度日暮れに。清滝道の喫茶店にて一先ず休憩し、その後、中心市街へと戻り、参加者馴染みの中華屋にて打上げ夕食会に。そこは奇しくも千代の古道縁の二条通沿いであった。

初の自転車平会。広範に移動することが出来、中身濃い一日を過ごすことが出来た。自身としては予想以上の成功。また是非企画してみたい。

とまれ、皆さんお疲れ様でした。良い一日を有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2016年11月21日

臨時構会

京都市街中央北部にある聚楽第西外堀推定域に建つ、築100年の洋館ギャラリーの外壁

臨時平会開催

難儀していた仕事に一旦区切りがついた今日。偶然休みが重なった友人ら計3人で市内の遺跡巡りを行うこととなった。

前日急に決まったので、さしたる用意もなく他の人も誘えなかったが、ちょっとした平会開催となったのである。


上掲写真: 途中立ち寄った、聚楽第西外堀推定域に建つ洋館ギャラリーの外壁。亭主氏によると築100年程とのことだが、簡素な屋根と壁の板貼り等が現代的な印象を与える。元の軽妙さに経年の重みが加わった独特の雰囲気も興味深い。


京都市役所北の広大な工事現場に現れた、近世・妙満寺遺構等の発掘現場

午前は所用中に河畔遺構一瞥

巡覧は午後からで、午前は残務処理や所用をこなす。

写真は、昼前に立ち寄った京都市役所から見た、庁舎北裏の発掘現場。先月紹介した寺町妙満寺の近世遺構である。

今月初めには、天明の大火(1788年)に焼け残ったと伝わる土蔵造りの祖師堂跡発見も報道されていた。


連なるベルトコンベア下の遺構面に、切り石の基壇跡や堀跡らしき野面積石垣が見える、京都市役所北裏の妙満寺遺構等の発掘現場
妙満寺遺構発掘現場拡大

連なるベルトコンベア下の遺構面には、切り石の基壇跡や堀跡らしき野面積の石垣があったが、詳細は不明。

興味深いのは、桃山期(16世紀末)以降の比較的新しい遺跡にも拘わらず、遺構面が深いこと。1.5m程あろうか。寺が西接した寺町通は、元東京極、即ち平安京整地面の東端なので元から土地が低く、近代以降に嵩上げされたのかもしれない。

つまり、賀茂川に続く河畔低地の名残か。事実、現存する寺町寺院の多くが、寺町通よりも下がった面に境内を展開させている。


急斜上に「犬走」の段をもつ軍事的性格が強く現れた、京都市街北部・鷹峯北花ノ坊町の御土居堀遺構

想定外の大工事で要害成す画期的新遺構

さて、午後から友人らと待ち合せて向かったのは、市街北部の鷹峯(たかがみね)。そこで発見された御土居堀(おどいぼり)遺構を見る予定であった。

御土居掘は、天正19(1591)年に、豊臣秀吉が洛中(当時の京都市街地)を取囲むように構築した防壁と水堀。総幅約40m、総延長22.5kmにも及ぶ大施設で、近代以降、特に戦後急速に失われた。その全容を探らんと、以前平会で痕跡を巡ったが、詳細はその記事を参照頂きたい。

今回発見されたのは、削平・埋没させられた御土居の胴部とそれに接する堀。御土居の基底部は他所でもよく見つかるが、今回のものは、犬走(いぬばしり)を伴った数mの高さを持つもの。その最大の特徴は、念入りに構築された急傾斜の姿であった。

それを以て、埋蔵文化財研究所は、御土居が防御目的に構築された可能性が高いという見解を示したのである。それは、これまで様々な説が出されていた研究史上、画期的なことであった。

私も当初から軍事目的、即ち城塞(御土居囲繞範囲中心の聚楽第の総構(そうがまえ。防御外郭))説を採っていた為、実見したかったのである。

写真は対面叶ったその現物。急斜の土崖が御土居で、その手前下が堀となる。確かに鋭い傾斜。急斜上の段は犬走で、崩落防止や防戦の足掛かり等とされた。本来の御土居はその上部に更に続き、総高9m程あったのではないかと見られ、幅も18m程あったと推定されるという。

鷹峯台地西部の緩傾斜段丘に盛り土整形して45度の急斜化しているらしい。従来は段丘上部に盛り土しただけと考えられていたので、予想外の大工事とのこと。

今日のメンツは皆以前の平会参加者なので、一同興味深く見学した。


鷹峯台地と紙屋川低地との高低差がよく判る、東からみた京都・鷹峯北花ノ坊町の御土居堀遺構
北花ノ坊町遺構を東より見る

即ち、削平された御土居上面部に当たる。ここから更に数mの高さがあったのなら、段丘下との高低差は中々なものに。

因みに、段丘下の家屋向こう100m程の場所に紙屋川が並走する。それを利用せず、別個に水堀が構築されていることにも、防御的用心が窺える。


発掘前の施設地面と御土居上面との関係が土の色で観察できる、東からみた京都・鷹峯北花ノ坊町の御土居堀遺構
同じく東側から

発掘前にあった施設の地面と御土居上面との関係が観察できる。御土居上部を削平し、その上に灰色の土を載せて造成されたのであろう。

こうして、破壊されながらも、御土居は近現代施設の地盤として利用されていたのである。


京都市街中央北部の聚楽第西外堀跡地とみられる森に続く路地と古い長屋群
聚楽第西外堀跡地とみられる森に続く路地と古い長屋群

聚楽第関連地へ

御土居の次は、それに関連する聚楽第関係地へ。特に最近の発見があった訳ではないが、移動の途中なので寄ることにした。


京都市街中央北部の聚楽第西外堀跡地入口にある、旧華族一柳家が建てたという木造古民家
聚楽第西外堀跡地入口にある古い家屋

元は旧華族一柳(ひとつやなぎ)家が建てたものだという。


賑やかな千本通裏とは思えない静けさと緑を保つ、京都市街中央北部にある聚楽第西外堀跡地
賑やかな大路・千本通裏とは思えない西外堀跡地

そして、旧一柳氏家屋横の土道から、堀跡を見学。そのものの姿はないが、森なかに窪地や土壇状のものが残る。中途半端に埋められた痕跡か。

10年程前に新聞随筆の取材で訪れ堀跡を直感したが、江戸期等の絵図や復元図になく、本丸推定地よりも遠かった為、当時は言及すらされない場所であった。

しかし、その後の調査により付近で掘肩等が検出され、堀跡である可能性が高くなったのである。


聚楽第西外堀跡との関連が窺われる、京都市街中央北部の古い平屋が建ち並ぶ不自然な街なかの窪地
古い平屋が建ち並ぶ、街なかの不自然な窪地

途中、森なかの洋館ギャラリーを見学し、その後、友人の1人が知る、近くの窪地にも行ってみた。なるほど、確かに周囲の土地より1m程窪んでおり、階段も付けられている。しかも、その北向こうには先ほどの森が……。

あとで調べたところでは、この辺りは西外堀推定地の南端辺りで、森なかのものが続いていたとみられるのであった。

車も通れない狭小路地の奥にあってこれまで気づかなかった為、個人的な新発見であった。


聚楽第南外堀跡と目されてきた、京都市街中央北部にある松林寺の窪地
聚楽第南外堀跡と目されてきた松林寺の窪地

続いて向かったのは、南外堀跡地と推定される松林寺境内。鷹峯・西陣台地の末端で、嘗ての水源地帯とされる出水通(でみずどおり)南の立地は正にそれに適うものであった。

境内には幅50m、長さ100m、深さ数mにも及ぶ矩形の窪地があり、正しく大堀の痕跡を思わせた。しかし、意外にも近年の調査では、その想像が揺らいでいるという。

しかし、こんな街なかに、人造と思われるこのような窪地があるのも不自然である。まあ、今後の調べを待つほかあるまい。


北からみた、聚楽第南外堀跡と目されてきた京都市街中央北部・松林寺の窪地
松林寺の窪地を北より見る

車裏の墓地が最も低くなっている。排水は大丈夫なのであろうか。


中心横一文字に堀跡が見える、京都府庁北側で発掘調査される上京総構遺構

最後は町衆の総構

松林寺を後にして本日最後の遺構、上京総構遺構に向かう。場所は聚楽跡地を東進した、京都府庁北側である。

到着時には既に暗くなり始めていたが、塀の隙間より見るそれは明瞭であった。写真中央の溝が水堀で、手前側に土塁や築地があったようである。

上京総構は、応仁の乱で荒廃した京が、上京と下京で復興した際にそれぞれ構築された都市防壁。これまで絵図や文献上には記載されていたが、現物が発見されたのは初めてであった。

その規模は幅5m、深さ3.5mで、東西75mの長さで発見されたという。構であることには間違いなく、更に続くとみられるその規模から、上京全体を囲っていた総構の可能性があるという。

聚楽第構築に伴う大名屋敷の建設で埋められたとみられるので、先ほどの遺構より古いものである。秀吉による京都改造以前の遺構は少なく、その様子もわからないことが多いので、興味深い遺構である。


前日の昼間撮影した、中心に堀跡が見える、京都府庁北側で発掘調査中の上京総構遺構
同じく上京総構遺構。前日通りかかった際、撮っておいたもの

以上の見学を以て臨時平会は終了。

出来れば、最近伏見で見つかった幻の豊臣城塞・指月城(しげつじょう。初代伏見城)の石垣遺構も見たかったのであるが、自転車では距離があるため、まあ仕方あるまい。

とまれ、急な開催となったが、よい巡検が出来た。皆さん、お疲れ様でした!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2014年03月23日

御土居春巡

堀跡の湧水に因る沈降か土砂に埋もれた、御土居掘の最大残存遺構で京都市街北部の「大宮御土居」跡に建つ、「史跡御土居」の石碑

史跡「御土居掘」を探る

百花が咲き競う「花の春」4月。その目前たる週末好日に京都市街にて、久々の平会(ひらかい)を開催した。

毎度の解説で申し訳ないが、山ではなく平地を巡る会なので「平会」である。一応初読の人の為に……。その平会、今回は京都市街に残る史跡「御土居掘(おどいぼり)」を対象とすることとなった。

随分前から、やりたいと思ってはいた御土居掘巡り。少々ブーム的な時期もあり、敢て避けていたという面もあったが、今回は最近御土居に興味を持った人々から促されての開催となった。満を持して、といえば大袈裟になるが、個人的にも喜ばしい企画。さて結果や如何(いかん)。

幻の戦国大遺構

御土居掘は、天正19(1591)年に、かの戦国の覇者、豊臣秀吉が洛中(当時の京都市街地)を取囲むように構築した防壁。土塁とその外側に並置された水濠を伴ったもので、総幅約40m、総延長22.5kmにも及ぶ大施設であった。

しかし、その規模に比して、その設置目的についてはよく判っておらず、軍事用途や洪水防止、美観目的等々の諸説が唱えられている。ただ、古くから総構(そうがまえ)や総曲輪(そうぐるわ)等の、軍事名称で呼ばれていたので、外城壁として扱われた可能性は高いと思われる。

為に、古代から完全な羅城(都城城壁)設置が発見されていない日本において、最初で最後の、それとなる可能性もある、貴重なものでもあった。しかし、近世(江戸期)まで大半が保全されたそれも、近代以降破壊が進み、更に戦後の乱開発により、残存は僅かとなってしまった。

一時は地元でも知らない人が多かった、幻の戦国大遺構。今日は資料片手に、皆とその痕跡を辿ることとなった。今も存在する場所と、そして消滅し、その幻影だけを追う場所と……。


上掲写真: 御土居掘の最大残存遺構「大宮御土居」跡に建つ、「史跡御土居」の石碑(京都市北区)。土居(土塁)の切れ目(古い破壊跡?)部分にあり、昭和5(1930)年の史跡指定に際して設置されたものとみられる。堀跡から流れ込む湧水の影響に因り沈降したのか、埋もれた遺構、御土居掘を象徴するような姿である。


御土居掘全図(京都市文化観光局「史跡御土居」〈1991〉より転載)
御土居掘全図(京都市文化観光局「史跡御土居」〈1991〉より転載)。赤い線が、嘗て存在した御土居掘全線。幅約20m深さ約4mの水濠と、同約20m高さ約5mの土居が、総延長約22.5kmという大規模で構築されていた。その囲繞範囲は、京域である市街は疎か、紫野や壬生といった耕地・農村や西陣・鷹峯台地も含めた実に広大なもの。当時の記録によると、天正19年1月より工事が始まり、同4月には「大略」完成するという、信じ難い速度で為されたという。


御土居掘簡略断面図(大正期の調査図を基に筆者作成)
御土居掘簡略断面図(大正期の調査図を基に筆者作成)。犬走は場所により洛中側に見られる例もある。土居上には、構築当初より竹が密植されていたという。土留めか防御用か定かではないが、江戸期には随時公儀によって伐採され、一般への払下げも行われていたという。


京都市街北部・加茂川中学の近くに残る御御土居掘遺構
加茂川中学付近に残る御土居東北部遺構。整形はされているのではなかろうか

遺構少ない東部より巡検開始

朝9時に市街東部の河原町丸太町に集合して御土居掘巡検を開始。ここでいう「巡検」とは、江戸期に施設管理の為置かれた「土居奉行」が施設を巡察した意等とは違い、実地踏査・観察の意。歴史地理学等に於ける専門用語的語句である。

集合場所を南北に貫く、繁華街路たる河原町通にも、嘗てかなりの区間、御土居掘が存在したが、江戸前期に廃された為、殆ど現存しない。寛文10(1670)年、賀茂川際に寛文新堤という堤防が築かれ、そちらに役割が移された為とみられている。

東部唯一の廬山寺遺構

その中で唯一、寺の私有地(築山?)として今に残った廬山寺遺構(上京区)を、先ずは観察。墓地端に低く残る小山状のそれを、河原町通とを隔てるフェンス越しにみる。堀もなく、残高低いその姿を説明しても、皆あまりピンとこないようである。改変が激しい為か、致し方あるまい。ただ、馴染みの、こんな路傍に貴重な遺構があったことには、一同感心。

廬山寺は寺町通に並ぶ寺院群の一つ。御土居掘は、それら寺院の敷地東端(洛外側)に連なっていた。よく知られるように、寺町は、洛中防衛の為、秀吉により寺社が強制集築されて生じた地区。非常時に、防火・大型の公共施設たる寺社の軍事転用を狙ったものである。

その状況を考えると、やはり御土居掘の軍略的設置を思わざるを得ない。因みに、古い絵図にはこの区間に堀の描写がないことから、当初より土居のみの建造だと定説化されているが、私は上記の理由などから、実は水濠、もしくは空堀があったのではないかとみている。

賀茂川を頼るには遠く、または新堤完成以前の乱流・広河原状況では水深も浅く、防御性も著しく下がったであろう。天下を制したとはいえ、未だ四方油断ならぬ状況であった豊臣時代。御所にも近いこの場所の防御が片手落ちの状況だったとは考え難い。

先生差置いて

廬山寺をあとにして、河原町通を歩いて北上。そして、出町柳の枡形(ますがた)商店街辺りで、若狭・北陸方面への出口であったという「大原口(おおはらぐち)」跡を見学。

市営駐車場やらマンションやらの再開発で、御土居を含め、古(いにしえ)の痕跡は一切ないが、古図などと照合しつつ解説。商店街が寺町にあった大寺「立本寺」跡に開かれた通にあることや、名の由来となった防御的屈曲路、枡形(凹形路)が商店街の東前、御土居と新堤との間にあったこと等々である。

言うまでもなく、御土居掘を含めた解説は大半私の役割であるが、今回は少々気恥ずかしい。それは、地元に、その研究の第一人者で、保存啓発活動をされている中村武生氏がおられるからである。先生差置いて、の気分か。まあ、その昔、授業や巡検で氏より直接教えを受けた身なので、少しは許して頂けよう(笑)。

東北部遺構

大原口よりバスに乗り、更に北へ。着いたのは、遺構の東北部であった。堀川通が、北西から東南へと流れる賀茂川に突き当たる辺りである(北区)。開削されたその跡を跨ぐ堀川通にも大きな起伏が見られるのが、車中からでも解る。

近くの、加茂川中学校の隣には御土居掘の東北端である、への字形に屈曲した遺構も残存している。何れも雑草が払われ、美麗な外観となっているが、高さが低く、近年の改変が窺われた。また、堀跡を継承した暗渠河川の存在も確認できた。

この辺りの御土居は、加茂川の溢水に対する堤防的役割もあったとされる。事実、現在のような河川改修が行われる前の昭和初期に、大雨による溢水の市街浸入を防いだという。


京都市街北部・加茂川中学付近の御土居掘遺構の横に続く、暗渠化された堀跡を継承した川
加茂川中学付近の遺構横に続く、暗渠化された堀跡継承河川。この辺りは、東北端付近にしか遺構残存はないが、町界や道路、家の区画等にその痕跡が残る。近年の開発による景観急変の証でもある


園内に御土居掘遺構が残る、京都市街北部・大宮交通公園のゴーカートを運転する平会参加者のT君

北の遺構残る大宮交通公園

一行は、御土居掘西北端を目指し、堀跡暗渠等を辿りながら西へ向かう。新旧の地形図を確認しながら、今はなき遺構をなぞった。そして、園内に遺構が残る大宮交通公園に立ち寄る。

写真はその時のもの。「ん?遊園地でただ遊んでいる様(さま)ではないか……」。確かに。これは園内のゴーカートに参加者のT君が乗車したもの。

実は、偶々そこに居合わせた他家のお母さんに、男の子との同乗を依頼されたのである。当初頼まれたのは、なんと私(笑)。しかし、気恥ずかしい為、車好きのT君にバトンタッチとなった。

T君は、当初個人的にゴーカートに乗らんとするも「大人はダメ」との拒絶を受けたので実に嬉しげ。対するお母さんも、自分は怖くて乗れず、子供の単独乗車は禁止されていたので、助かり顔であった。双方、利害一致!である(笑)。

もとい、これでは遊園地での出来事紹介となってしまう(笑)。交通公園内の遺構の姿は、開催告知下部の写真を参照頂きたい。


京都市街北部・玄琢下より見た、鷹峯台地の縁に残る現存最大の御土居掘遺構「大宮御土居」

壮観、大宮御土居

続いて、更に西に移動し、鷹峯台地の縁に至る。そこで現存最大規模の遺構と出会う。北区大宮にある、通称「大宮御土居」である。写真は、東端より見たその姿。道路からの残高は10m程、全長は200m程か。その壮観に、一同声をあげる。

道路は鷹峯の寺院地区へ通じる古道を継承したもの。恐らくは、江戸期以前に切り崩された箇所かとみられる。右端の芝地は堀跡。武者走り(犬走)にも見えるカーブミラー下辺りの窪みについては不詳。御土居掘は、ここから西へ向かって、一気に台地に乗り上げる。

原初の御土居掘の姿を濃厚に想像することが出来る、貴重な遺構である。


京都市街北部・西野山児童公園から見た、鷹峯台地の縁に残る現存最大の御土居掘遺構「大宮御土居」
大宮御土居西端。左が北(洛外)で、鷹峯台地を切り崩して造られた堀跡と土居の姿がよく解る。台地上だけあって、他所に比してかなり高い場所にあるが、抜かりなく造られている。往時、相当な労力が投じられたであろう。高所だが、付近に湧水があり、水濠が実現できたことにも感心

大宮御土居には許可なく入ることが出来ないので(私は、昔講義で中村先生共々縦走?したことがある)、隣接する招善寺より部分見学したり、西端近くの西野山児童公園から回り込んだりして見学した。


京都市街北部の住居表示に残る、御土居跡の「南旧土居町」と水濠跡の「北土居町」

消えども名と跡残す

大宮御土居をあとにして、また西へ向かう。近年開発された宅地の中、その痕跡を辿りつつ。

写真は、そこにあった住居表示。町名はまさしく「南旧土居町」。上下2本の横路に挟まれて家屋が並ぶが、そこに御土居があった。地図に描写はないが、その下(北側)に隣接する同幅の「北土居町」に水濠があった。

遺構は消失しても、地名や道路・家屋にその痕跡が残る好例である。


京都市街北部・鷹峯街道の杉坂口にある御土居掘西北端遺構

古の長坂口?
西北端遺構


住居表示のすぐ西側は鷹峯街道であった。中世より存在するとされる杉坂越え(山陰・西国方面行)の道、「長坂道(杉坂)」の候補路である。

外地と繋がる重要な街道故、ここには御土居の切れ目、即ち「口」があった。よって、ここは史料上に見られる「長坂口」の有力候補地となっている。番屋があり、都への出入りを制御する関所のような存在だったことも判明している。

但し、口があったことが確実に判明しているのは江戸期以降のこと。建設当初である豊臣期にそれがあったどうかは不明である。街道は前近代まで、これより上手(洛外)で、わざわざ台地を降りて、山越え区間と接続していた。これらのことから、個人的にも当初より口があったことには懐疑的である。

南北に走る街道の西には御土居掘の遺構が残存していた。写真がその姿である。以前隣接していた飲食店等がなくなり、周囲は公園的に整備されていた。石による土留め等の改変も多く見られれたが、残高は5m程もあって、水濠跡も確認出来た。

ここは御土居掘の西北端にあたる要地。残存が見られることは喜ばしい。


京都市街北部・鷹峯街道の杉坂口にある御土居掘西北端遺構の向かいにある和菓子店「光悦堂」」
西北部遺構の向かいにある和菓子店「光悦堂」。実はここも御土居の跡

花より団子
餅は2度美味い


要地見学もそこそこに、一部の参加者が早速向かいの店を覗いている。店の名は「光悦堂」なる菓舗。まさに花より団子か。まあ、昼も近いので許そう(笑)。


京都市街北部・鷹峯の杉坂口にある御土居掘西北端遺構向かいの和菓子店「光悦堂」の看板商品「御土居餅」。」
光悦堂の看板商品「御土居餅」。地元の文物に根差した商品で、由来なども記されている素晴らしい御菓子。有難くも、お裾分けが回ってきたので、早速賞味。軟らかく、美味い!


京都市街北部・鷹峯街道の杉坂口にある御土居掘西北端遺構に入り見学する平会一行

有難く御土居餅を頂きつつ、遺構手前の空き地で小休止していると、参加者から呼び声が……。

なんと、遺構の出入り管理を委託されている光悦堂の人たちが、入口の鍵を貸してくれるという。外からしか見れない遺構への、接近が叶ったのである。ご好意に深謝し、見学者台帳に代表記入して早速柵内に入る。ああ、餅は2度美味かった(笑)。

御土居掘最高所
謎のヒント秘めるか


写真は、御土居上部で見学中の平会一行の姿。全長約50m、上部幅は5m程か、見晴しが良く、番兵にでもなった気分である。往時より規模が減じているとはいえ、やはりその壮大を想わずにはいられない。

なお、関連の史資料によれば、台地端(崖)に接する西北端部は、堀諸共崩落しているという。よって南折するL字の様は見ることは出来ない。

標高130mを超えるここは、御土居掘遺構の最高所にあたる。建設に非常な困難が伴い、往時は疎か最近まで辺鄙だったここまでその囲繞が及んでいたことは、謎である建設意図を知る上の、重要なヒントが秘められているのではないか、と思わされた。


京都市街北部・柏野にある、違法破壊された御土居掘遺構の残骸
違法破壊による遺構残骸(北区柏野)

迫力ある台地際遺構にて昼食

西北端遺構を後にして鷹峯街道を南へ下る。御土居が構築されていた台地西端に沿っているので、個人庭等に残る幾つかの遺構見学が期待できた。しかし今回は確認出来ず。外から見えなくなったのか、もしくは破壊されたのであろうか。

仕方なく、遺構を利用して設けられた「御土居公園」まで行き、在りし日のその姿を求めた。僅かな残存だが、ここも台地際に構築されているので、崖下の紙屋川との高低差が為す、迫力ある姿を想像することが出来た。

御土居公園にて遅くなった昼休憩を実施。出来れば、先程の西北部で済ませたかったが、飲食無用の決りのため叶わなかった。昼食調達に出かけた東京在住のY君が中々戻らない、といったこともあったが、まあ、一応皆寛げて次の移動への力を養えた。


違法破壊の警鐘的遺構

食後、また御土居掘跡に沿って南下する。全体の位置で言うと、西側のラインを上(北)から辿る。市街化が強まる為、遺構の残存は殆ど見られない。

写真はその中で遭遇した遺構残骸。何故残骸かと言うと、開発業者に違法破壊されたものが中止命令により適当に戻されたものであるという。残念だが、手がつけられない筈の国史跡が、簡単に破壊される恐れがあるという、警鐘的存在とも言える。

中村先生によると、類似の破壊が幾つもあるという。何れも戦後、しかも近年のことである。道徳的問題でもあるが、遺構地権者に対する行政からの庇護の無さも原因であるという。


京都市街北部・平野にある、整形・整備された御土居掘遺構「平野御土居」

美形御土居と石佛出土の謎

南下して暫く、「美形」の御土居と出会った。写真の平野御土居である。住宅街の中に隠れるように残存しているが、そこそこの規模があり、整備されていることと相俟って、存在感がある。

高さ5m程、全長は50m程か。見た通り、道路際で、整備されている為、観察しやすい。土居部分だけで言えば、最も解りやすい遺構ではなかろうか。但し、近年の整備と共に整形されているらしく、注意が必要な存在でもある。

写真左下に無数の地蔵(石佛)が並んでいるのが見えるが、これも後づけ(置き)。ただ、付近で御土居が壊された際に掘り出された関連遺物ではある。実はここに限らず、御土居の破壊に伴う石佛の大量出土の例(もしくは伝承)は多い。

有名な信長二条城と同様、神佛畏れず建材として使用したのか。または、逆に宗教的意味合いがあったのか。破壊の速度に研究が追いつかなかった為、どの様に埋蔵されているのかさえ未だ判明していない。御土居掘の謎の一つと言えよう。

構築当初よりの「口」

ところで、この遺構の手前(北)には寺之内通がある。豊臣時代の市街北限で、東部の寺町同様、秀吉の命により寺院が集められた地区という。小路だが往時は重要な街路であったこの寺之内。実はそれと御土居掘の接点には構築当初から口があった可能性が高いという稀少な場所でもあった。

それは、秀吉自身が寺之内から「大堀」と化した紙屋川にかかる「高橋」を視察にきたという一次史料が存在するからである。寺之内傍の堀上に橋があったのなら、そこの御土居に口があったことが確実視される。

構築当初、御土居掘には7〜10箇所程の口があったとされるが、正確な場所を含め詳しく判っていない。史料記載と、橋の存在という物理理由により確実視されるのは、ここと三条(粟田口)のみ、なのである。

但し、ここの口の名称については不詳である。私は、西郊鏡石通等を経由した、長坂口があった可能性も考えている。


京都市街西部・「御土居の袖」跡南で遭遇した近世の刑場と関連する「壺井」の地蔵と井戸跡

現代に再利用
校内御土居と御土居の袖


平野御土居のすぐ南は、北野天満宮。その境内には紙屋川沿いに遺構が残っている。有料域で、梅観賞の人も多い為、外から窺うのみとした。天満宮の南は、台地の段差も無くなり完全な市街地となる。本来なら紙屋川沿いに御土居が続く筈であるが、廃滅している為、その跡のみ追う。

次に現れる遺構は、北野中学校内に残るもの(右京区)。校庭端のプール横にある小山である。実は、プールはその昔堀跡を利用して造られたといい、傍らの御土居はその観覧席として残されたという。改変はされているが、現代に再利用されている興味深い例である。

残念ながら今回は塀に阻まれ観ることが出来なかったが、参加者に同校出身者がいたので、共に他の人らに状況を解説した。

ここの御土居は南北ではなく、東西向きにある。その理由は、御土居掘がこの区間だけ、紙屋川の西に張り出していた為である。研究者の間で「御土居の袖」と呼ばれる箇所である。

張り出していた理由は判らない。関連寺院や水源の取込み、防御目的等々の諸説があり、そもそも後代の改造を疑う意見もある。私は御土居掘の囲繞域の中心で、司令塔的な聚楽第の真西に当ることから、防御強化を狙った「出丸」の一種ではないかとみている。

写真は「御土居の袖」の南下(洛外)近くで遭遇した「壺井」(右京区)。今は枯れてしまったようだが、嘗ての、この辺りの水資源の豊富さを証するような存在か。この事は、袖区間の堀水の事とも関連しよう。但しこの泉は、近くの西土手刑場へ向かう罪人が最後に飲まされた水という、少々暗い伝承を持つ。

この他にも、堀跡を継承した佐井通が影響した地面の窪みや、御土居跡を継承した同幅の児童公園や宅地段差等が観察出来た。


御土居掘遺構が残る京都市街西部「市五郎大明神」の参道鳥居と遺構上の樹々

信仰対象として残存

「御土居の袖」を離れ、南下を続ける。市街地の小路をゆくが、その名も「西土居通」。御土居掘跡の西に沿う通である。もはや通の名のみで、往時を想わせるものは何もないが、やがて、いわくありげな場所が。写真の「市五郎大明神」という社である。

並ぶ鳥居辺りが堀跡、そして祠がたつ奥の森に高さ数m、長さ40m程の御土居が残存する。地元の信仰対象として残存した貴重な例である。早速、その徳を拝しつつ参観させてもらう。祠等の多くの造作物と、鬱蒼たる雑木に囲まれるが、確かにそこに御土居が横たわっていた。

北野中学遺構より南の西部と南部地区では、ここと四条辺りの民家庭に残るものが現存する。よって、比較的気軽に見学できるのはここのみ。元は(近代まで)、数キロにも渡って存在したにも拘わらず……。


京都市街西部「市五郎大明神」の境内南端から見た御土居掘遺構上の樹々
市五郎大明神の境内南端。通に沿い並ぶ土留めの石組みに、土塁の存在が窺える


京都市街南部の御土居掘遺構跡付近に立つ、京都市バスの停留所「御土居」」

一気に南部へ
御土居停留所


市五郎大明神からは市バスに乗り、一気に南下して九条通は東寺に。そこにて、100年程前に撮られた東寺の五重塔と御土居掘の姿等を見つつ、暫し往時を偲ぶ。在りし日の御土居掘は、東寺を囲うように南端を成していた。

その後、自転車参加組の再合流を待って、東寺西側に在る、とあるバス停まで移動した。写真の場所である。覆いも何もない停留であるが、その名に注目。ズバリ「御土居」である。

この区間の御土居掘が1世紀前以降、何時頃廃滅したのかは定かではないが、停留の名に残ったのであった。周囲には、もはや見るべきものは何もないが、記念碑的に見学した。


京都市街南部の京都市バス停留所「御土居」付近の、御土居跡に建ち並ぶ町家群
往時の面影は何もない「御土居停」付近だが、史資料と照合すれば浮かび上がる痕跡はあった。それが、この町家の並び。前の路地と家屋背後の次の路地までの間に御土居掘があった。丁度東の土塁側を見ているので、町家の高さにその姿を想像出来なくもない

探索終了。1日で殆どを巡る

御土居停の見学を以て、本日の探索は終了。本来は最後に東南部の枳殻邸(渉成園)という庭園内の伝承遺構見学も考えていたが、閉門が早い為、割愛した。

枳殻邸付近は、その造成(江戸初期)の為に御土居掘の付替えが行われたことが判明している稀有な場所。そして、豊臣期のものが、園内の築山に残ると伝承され、その形状と向きからも信憑性が注目されている。興味深い場所であるが、またの機会にということに。それでも、残存する遺構の殆どを、今日1日で回ることが出来たので、喜ばしい限り。

さて、御土居停を後にして、帰途の為のバス停まで移動。その途上、おまけ的に羅城門跡地等も見学した。御土居掘に比して全国的知名度の高いそれとの急な出会いに、東京のY君などは少々興奮。

そして、皆で京都駅近くまで移動して、暫し喫茶休憩。その後、一旦解散し、希望者、可能者での打上げにて会を締めくくったのであった。皆さん、長距離の移動お疲れ様でした。有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2011年02月13日

続大和探墳

山辺の田圃中に横たわる、奈良盆地東・柳本古墳群の渋谷向山古墳

延長番外編の平会。山辺へ

一旦終了するも、列車の一時運休の為その復旧時間まで延長されることになった「平会」。向かうこととなったのは、「山辺(やまのべ)」方面であった。山辺は、奈良盆地東部の山麓地域のこと。先程立寄った穴師地区もそこに含まれ、日本最古の道とも称される「山辺の道」が通過する地域でもあった。

今回はその山辺の、柳本地区の古墳群を巡ることとした。巻向がある桜井市に北接する天理市のそこには、やや時代が下るものの、やはり大型かつ重要な遺構が数多く残存していたからである。元来の目的地ではないが、番外として楽しむ山辺編の開始である。

写真はその中で、最初に見学した「渋谷向山古墳」。墳丘全長は箸墓古墳を上回る300m超という、山麓に築かれた巨大墳墓である。推定築年は箸墓から半世紀以上過ぎた4世紀後半。纒向古墳群より「新しい」とはいえ、この21世紀の現代まで現存するものとしては恐るべき古さを有している。


墳丘(森)に沿う堰堤毎に水面が下がる、奈良盆地東・柳本古墳群「渋谷向山古墳」の特異な周濠(北東部分)
渋谷向山古墳の北東周濠部

古墳周囲には周濠の良好な残存が見られた。ただ、その幅は墳丘規模に比して狭く、この時代の「流行」たるものを窺わせる。また、その立地上傾斜が強い為、堰堤で最大7段(消失部を含めると8段か)に区切って水を湛えるという、特異な造りとなっている。

写真は正にその様子を捉えたもので、左の墳丘(森)に沿って、堰堤毎に水面が下がってゆくのが見える。古いものにも拘らず、良く手入れが施されているのは、ここが「景行天皇陵」として宮内庁に管理されているため。しかし、その書陵部による報告では、堰堤の幾つかは建造当初のものであることが判明しているという。

「渡堤」とも呼ばれる堰堤の存在は、墳丘に人を寄せつけないという、水濠の役割を著しく低下させるものである。それを冒す方法を以て敢えて水を周囲に巡らせている、ということは、水を巡らせること自体に、何か特別な意義があったことを示唆している様に感じられた。


山麓の田圃中に続く「山辺の道」をゆく平会一行と、奈良盆地東・柳本古墳群「渋谷向山古墳」の陪塚
山麓の田圃中に続く「山辺の道」をゆく参加者と、渋谷向山古墳東方近くに残存するその陪塚(ばいちょう)

従属的ながら厳重管理の「陪塚」

陪塚とは、大型古墳に関連して造られた小古墳。主墳の親族や臣下、または副葬品等の埋葬に用いられたとされる従属的は古墳である。写真の陪塚は、景行天皇陵関連の「陪塚ろ号」と称されるもの。小規模ながら、宮内庁管轄として門や柵が巡らされて厳重に管理されている。地味ながら、中々興味深い存在。


谷地を越えた北方の山麓に現れた、奈良盆地東・柳本古墳群の「行燈山古墳」
谷地を越え北方の山麓に現れた「行燈山古墳」

半蔵門的美麗さ「行燈山古墳」

渋谷向山を過ぎ、山辺の道を北上する。一旦谷地に下り、そしてまた山麓田圃中に巨墳が現れる。同じく宮内庁治定陵墓「行燈山古墳」である。墳丘全長は240m余り、渋谷向山同様に周囲に渡堤式の水濠を持つ。ただ、その建造年は、渋谷向山より古く、4世紀前半頃と推定されている。 

他陵と同じく、科学的根拠に乏しい比定作業により崇神天皇陵とされているが、その規模等から、大王(おおきみ)級の墳墓であろうということには、疑いは無いのではないかと思われた。


前方部の森の手前に長大な土壇の周濠堤がはだかる、奈良盆地東・柳本古墳群の「行燈山古墳」
行燈山古墳を西北端より見る

前方部の森の手前に開る(はだかる)長大な土壇は周濠の堤。高さ共々、それ自体がかなりの規模といえよう。この古墳の周濠は渋谷向山のそれに比して段数が少ないが、ひょっとすると、溜池の機能を持たせる(強化させる)為、最低地側のここをより高くするなどの改変を施し、段数を変更しているのかもしれない。

堤表面の芝生と、その上部に植えられた松並木の美麗さに感心。恰も「半蔵門」辺りの皇居(旧江戸城)の風情を彷彿させるものであった。宮内庁特有の管理・手入れがそうさせたのであろうか。


奈良盆地東・柳本古墳群の「行燈山古墳」西北端近くの田圃中に残存する陪塚
行燈山古墳の西北端近くの田圃中に残存する、その陪塚

先程の「ろ号」墳に比して、こちらは前方後円墳の形態をほぼ完全に保存している。その墳丘規模も全長約120mと大型である。写真はその後円部にあたるが、木立の中からその段差が良く観察出来る(ただし、それが建造当初の段差か、後の改変等に因るものかどうかは勿論不明)。

名称は「アンド山古墳」。何故か主墳の「行燈山」と同じ読みである。前方部中央前にある礼拝所(写真左端に見える周濠堤辺り)に接する参道南側には、対的存在と思われる陪塚「南アンド山古墳」も存在する。宮内庁管轄ながら、写真に見る通り、何故か柵等の入域制御が一切見られないのも、謎である。


纒向古墳群に並ぶ重要古墓、奈良盆地東・柳本古墳群の「黒塚古墳」墳丘

纒向古墳群に並ぶ重要古墓「黒塚古墳」

さて、列車復旧の時間も迫ってきたので、行燈山古墳から山辺を下り、駅がある西方街区に向かう。その途中、最後の見学場所として立寄ったのが、写真の黒塚古墳である。この古墳も、街区に在りながら前方後円墳としての形状や周濠を良く保存した存在であった。

墳丘の全長は132m。築年は、3世紀後半から4世紀前半頃とされ、先程の山辺の陵墓群より纒向古墳群の世代に入る。中世以降、城郭や大名陣屋として使用された為、改変も受けたが、結果的にそれらにより周濠等が保存されたようでもある。

黒塚古墳は陵墓指定を受けていない為、かなり詳細な学術調査を受けている。それ拠ると、長大な竪穴式石室が発掘され、卑弥呼論争で有名な「三角縁神獣鏡」が大量に発見されたという。正に纒向古墳群に並ぶ重要な古墓といえよう。それらの成果は、古墳に隣接して設けられた豪奢な展示館にて公開されていた。勿論、一同見学。

「卑弥呼」名称のフライング的使用へ

しかし、ここで1つ気になることが……。重要な発見に対し、展示館まで新設して顕彰する天理市の意気込みには頷けるが、館内やその印刷物に「卑弥呼の里」と明記するのは如何なものか。卑弥呼との関連が確かになった遺構は未だ存在しない筈だからである。

そういえば桜井市も、纒向遺跡に因んでか、同様の文言を使用し、何と「ひみこちゃん」なるキャラクターまで用意して広報に励んでいる。史学会を代表する者でも何でもないが、お偉方が何も言っていないようなので、敢えて言わせてもらおう。

「これらの文言や図案使用には何ら科学的根拠はございません(笑)」。


奈良盆地東・天理市JR柳本駅に入線する奈良行き列車

復旧列車来る。平会終了

さて、散策可能な黒塚古墳の墳丘上を見学しつつ過ぎ、柳本の住宅街を抜けて柳本駅に到着した。時は16時半過ぎ。ほどなく、復旧した奈良駅方面行きの列車がホームに現れ、一同乗車したのであった。これにて平会終了。

その後、京都市内は河原町三条付近の飲食店に希望者が集まり打上げ。充実の1日を終えたのであった。皆さん、寒い中お疲れ様でした!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

大和探墳

「古代史の要地」奈良盆地東南・桜井市箸中地区を横切る旧国鉄桜井線(現万葉まほろば線)

今年初回の記念的企画開催

2月の連休最終日、久々の「平会(ひらかい)」が行われた。場所は前回と同じく奈良。「環濠集落」という、中世の痕跡を探った前回とは異なり、今回は、古墳とその関連遺構を巡るという、古代痕跡探訪の企画であった。

2月上旬という最寒気候の中、そして日程変更に因り告知が直前となった為、参加は中核メンバーに限られたが、今年初回の記念的企画として、意気盛んに臨んだのであった。


上掲写真: 桜井市箸中地区を横切る旧国鉄桜井線(現、万葉まほろば線)。奈良盆地東南山麓という郊外風情溢れる地であるが、大規模かつ重要な古代遺構が集中する為、広域政権の中心地、即ち、かの邪馬台国や大和朝廷前身の所在地とも目される、歴史学上の要地であった。


奈良盆地東南・三輪駅近くの大鳥居ある参道を下り桜井市埋蔵文化財センターへ向かう参加者

「纒向」探査開始。先ずは埋文センターへ

京都から電車で約1時間15分、奈良盆地東南は桜井市の三輪駅に着いた。時は午前10時過ぎ。今日の主体的探索地「纒向遺跡」に行くには、手前の巻向駅の方が近いが、三輪駅近くにある市の埋蔵文化財センターに立寄る為、ここを出発地とした。

写真は、三輪駅近くの大神神社(おおみわ・じんじゃ)参道を下ってセンターへ向かう参加者。所々路端に雪残る寒さの中をゆく。覚悟、対策は完備の上であったが、口を衝いて寒さへの感懐が漏れる。

実は、色々と評判高い大神神社にも立寄りたかったのであるが、探査地が広範であった為、欲張らずに、またの機会に譲ることとした。


墳丘側面(前方部角)から見た奈良盆地東南の纒向遺跡最大遺構「箸墓古墳」

先発は纒向一の大墓「箸墓古墳」

埋文センターにて出土品の見学や、纒向遺跡に対する予備学習を済ませ、フィールドへ向かう。センターから、古代路「上ツ道」の後身とされる「上街道」を北上して最初に辿り着いたのが、遺跡の南端である「箸墓古墳」であった。

箸墓古墳は、4世紀前後頃に作られたとされる前方後円墳。墳丘部全長280mという規模で、纒向遺跡最大の遺構。遺跡の中核的存在である為、古くから卑弥呼の墓ではないか、との推察も多くの人に行われた(卑弥呼の推定没年は3世紀半頃なので、現在ではその後継女王「台与」との関りが言及されることが多い)。

写真は墳丘側面(前方部角)から古墳を見たもの。道に沿って小山の森がうねり続く様に、その壮大を感じさせられる。うねりは、前方後円墳特有の「くびれ」に因るもの。ここは皇祖「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)」の墳墓として宮内庁に管理されている為、外周部からのみの見学となる。


周濠跡とみられる溜池越しの北方から見た、奈良盆地東南・纒向遺跡最大墳墓「箸墓古墳」の全容
「箸墓古墳」墳丘部全景(北方より)

写真に見える様に、墳丘北側は大きなため池と接している。嘗て存在した周濠の一部を踏襲して作られたものであろう。以前、池で行われた発掘調査では、前方部際から幅10m以上の張出しが発見され、墳丘の更なる壮大さが確認されたという。宮内庁管轄の為、墳丘内では殆ど学術調査が行われない現状では、こうした周辺部の調査による遺構解明の努力が続けられている。

それによると、嘗てはその存在を疑問視されていた大規模な周濠が発見されたという。しかも2重で、内外を隔てる堤の幅も含めると、実にその全幅は80mを超えるものになるとのことであった。同時期の古墳には例を見ない設備とその規模は、被葬者が誰であれ、この墳墓の特殊性を更に強めさせる材料となった。


奈良盆地東南・箸墓古墳の外濠か外堤との関連が窺わせる、湾曲する田圃道
箸墓古墳から山手側へ東上し、田圃の道をゆく

箸墓の後円部端から140m程離れたこの畔道。弓なりに湾曲しているのが分かるだろうか。実はこの湾曲は後円部のそれと相似している。この畔より古墳側の地割が、周囲の条里制起源地割と異なることなどを勘案すると、古墳に関連した何かの痕跡の可能性が生じる。

具体的に検討すれば、外濠端かその外堤か。ここでの調査はまだ行われていないようなので、確かなことは言えないが、興味深い発見となった。


奈良盆地東南・箸墓古墳の東にある畑中に階段状のホケノ山古墳

古墳公園?ホケノ山古墳にて昼食

謎の湾曲から少し東上した場所に現れたのは、次なる見学地「ホケノ山古墳」であった。写真はその姿を西下より見たもので、畑中に段状の姿を晒している。全長約90mで、箸墓に比べてかなり小振りに感じられたが、宮内庁管轄ではないので、墳丘部の学術調査が行われている。それによると、その築造は箸墓に近い3世紀後半頃、石囲木槨や画文帯神獣鏡などが発見されているという。

正午をまわったので、公園的に整備された古墳前方部のあずまやにて昼食休憩をとることにした。陽射しが出てきたが、気温はあまり上っていないようである。しかし、徒歩にて身体を動かしている(温めている)ので、皆問題なさそうである。


奈良盆地東南・纒向遺跡のホケノ山古墳頂部から見た、箸墓の森やその他の古墳、背後の耳成山に奥の葛城・金剛の山々
ホケノ山古墳頂部より西方を見る

正面の大きな森が箸墓、その後背奥に連なる山塊は葛城・金剛の山々。山と箸墓の中間に見える盆地上の小山は、かの藤原京の基点的な丘で大和三山の1つでもある「耳成山(みみなしやま)」。実は箸墓の手前にある笹薮も古墳。古代に於ける奈良盆地南部の価値たるものがよく体感出来る眺めといえよう。


畑の中に取り残されるように点在する、奈良盆地東南・纒向遺跡の大小の古墳のマウンド
畑の中に取り残されたような、または隆起してきたように点在する古墳のマウンド(小丘。大小2つ)

纒向遺跡内では総数25基程の古墳が確認されているというが、特にホケノ山周辺ではよく目にする。目が慣れてくれば、遺跡図を見なくとも「ここにも、あそこにも」と面白い様に見つけることが出来る。聞きしに勝る凄い場所である。


奈良盆地東南・纒向遺跡近くの集落裏の山肌に露出する珠城山古墳の石室

突如遭遇、番外編「珠城山古墳」

ホケノ山から北上して「巻野内」という地区へと向かう途中、突如目の前に以前どこかで見たような「異景」が飛び込んできた。山肌に穿たれた四角い人跡――。地表に露出した古墳の石室であった。

自然景の中に突如それが現れた様は、嘗て大陸荒漠で遭遇した古跡を想わせた。廃滅して変容した人跡の出現に驚きと恐れを感じたが、それと同じ感覚に見舞われたのである。


奈良盆地東南・纒向遺跡近くの珠城山古墳の石室見学のため墳丘に登る平会参加者

向かう方角も一致していたこともあり、予定になかったその石室遺構を見に行くことに。写真はその遺構がある丘の入口の1つ。ここも整備されて史跡公園の如き場所になっているようである。

遺構の名は「珠城山古墳」。古墳時代後期である6世紀に築かれたとみられる豪族墓のようである。東側山地から続く尾根的な小山の様に見えるが、実は前方後円墳が3基連なったものという。纒向の遺構とは時代や性質が異なるが、番外編ということで暫し見学することにした。


奈良盆地東南・纒向遺跡近くの珠城山古墳の石室見学のため墳丘上の見学路を進む平会参加者
珠城山古墳の墳丘上につけられた見学路をゆく

僅かながら、墳丘上を縦走できるという中々楽しい遺構である。写真で見る通り、東方山地等、周囲の遠望もきく。

路面にもそれが窺われるが、墳丘表土は大変柔らかい赤土。東南アジアのラテライトの如き色合いで、日本ではあまりお目にかかれないもののように感じられた。そんな稀少さの所為か、戦後大規模な土取りが行われ、先端の3号墳が殆ど消失してしまったという。


奈良盆地東南・纒向遺跡近くの珠城山古墳群の墳丘間に設置された案内板
珠城山古墳群の墳丘間に設置された案内板

小山内に於ける古墳の位置・形状が図示されている。一同得心、そして感心。


奈良盆地東南・纒向遺跡近くの珠城山古墳群・1号墳の石室
そして先程見えた石室へ。山手側(東。案内図右端)の1号墳の後円部側面にあった

少し屈めば難なく入れる大きさ。豪壮な石使いと未だ歪みを見ない堅固さに、墓主一族の財力並びに権勢が窺われる。発掘された際には、石棺と共に環頭太刀や黄金装身具等の数多の副葬品が得られたという。


奈良盆地東南・纏向遺跡東北端付近の巻野内集落で見た側溝に残された曰くありげな石材

珠城山古墳がある「穴師」地区を西へ下り「巻野内」地区へ。建屋跡や集落防御遺構等が検出されている纒向遺跡東北端辺りに相当するが、地表には特に何もなかったので、そのまま西進し、遺跡中心地辺りへ向かうこととした。

写真はその途中、巻野内で遭遇した側溝に残された石材。重く、硬度の高い「石英斑岩」のように思われたが定かではない。ただ、近隣では取れない石かと思われた。側溝整備の際、その重さのため移動出来ずに放置されたのか。とまれ、そのユニークな姿に誘われ、一写。

因みに、この近くに垂仁天皇の「纒向珠城宮」の伝承地を示す石碑が立っている。ひょっとすると、この石もそれら古代広域政権に関する遺物であろうか。


奈良盆地東南・纏向遺跡の太田地区の田圃に現れた現存最古の前方後円墳「石塚古墳」

最古(?)試みの前方後円墳「石塚古墳」

巻向(纒向)中心の住宅地を抜け、更に下って西郊「太田」地区の田圃地帯に出る。そこに現れたのが、写真の石塚古墳であった。戦中に砲台改変を受けた為、これまでの古墳で最も残高が低い地味な存在であるが、実は大変重要な遺構である。それは、この古墳が前方後円墳としては現存最古のものと目されているからである。

その推定築年は、土器編年法で3世紀初頭から半ば。絶対年代を算出するには未だ色々と問題があるようだが、相対年代としては、やはり最古のものと見られているようである。勿論、韓半島南部にも分布している前方後円墳全てを含めた算出である。

後円部が正円ではなく、周濠形状も不均一の為、箸墓古墳以降定型化される諸墳に比べて、最初期の「試み」の如きものが見てとれるところも、貴重といえる。


奈良盆地東南・纏向遺跡の前方後円墳「石塚古墳」の周濠遺構とみられる窪地
これまでの多くの調査を経て復原された石塚古墳の周濠遺構。幅約20mという。前方部側面では30mに達するとのこと

古墳の墳丘全長は96m。現在では国史跡として保存されているようである。


畑のなかの森状の姿を見せる、奈良盆地東南・纏向遺跡の「勝山古墳」

特異形状墳「勝山古墳」

石塚古墳の次は近くにある勝山古墳へ。勝山古墳は、前方部と後円部の間にその接続角度を緩和するような「接続部」を持ち、前方の幅も一定という特異な形状。柄の付根が広い、手鏡のような形状といえようか。

墳丘全長は約110m。築年には諸説あるようだが、石塚同様、古墳時代前期頃で、箸墓に先行する古墓と見られている。


周濠の一部を踏襲したとみられる溜池に接する、奈良盆地東南・纏向遺跡「勝山古墳」
勝山古墳西側(後円部端)

後円部の西から北側にかけてL字形の溜池が接する。周濠の一部を踏襲・改変して造られたものと思われる。


植林された歪な形状を畑中にさらす、奈良盆地東南・纏向遺跡の「矢塚古墳」

意外に遠望かなう「矢塚古墳」

勝山古墳の次は同じく近隣の矢塚古墳へ。写真はそれを南から見たもの。植林が施された歪な形状により古墳とは判じ難いが、調査の結果、勝山古墳等と同時期頃に造られた前方後円墳であることが判明している。墳丘全長は約96m。


奈良盆地東南・纏向遺跡「矢塚古墳」の墳丘上にあるとされる埋葬部材の石板を探す平会参加者
矢塚古墳墳丘上にて

樹木で覆われているものの、結構な残高がある為、意外と遠望がかなう。墳丘上に埋葬施設の一部と思われる石板が露出しているとの情報を資料から得ていたが、確認出来なかった。

この矢塚古墳と勝山、石塚の3古墳は、纒向小学校のの3辺(西・北・東)に接して均等に存在している。何か、共通する「企画」の存在を感じさせられる配置に思われた。


美麗な竹藪に覆われ一面の田圃に浮かぶ、奈良盆地東南・纏向遺跡の「東田大塚古墳」

美麗な古墳「東田大塚古墳」

矢塚古墳から南へ250m程進むと、田圃の只中に次の遺構「東田大塚古墳(ひがいだおつか)」が現れた。手入れが行き届いた竹薮に覆われた、実に美麗な遺構である。

これも、勝山古墳同様、前方部と後円部に接続部を持つ特異な形状という。現在、前方部は殆ど消失しているが、調査の結果、周濠つきの前方後円墳であることが判明している。その墳丘全長は120m前後。築年は、前の3墳同様、古墳時代前期であるという。これらの古墳が「纒向古墳群」と呼ばれ、前方後円墳の出現期に生じた最古の一群と注目される所以ともなっている。


手入れされた美麗な植栽をもつ、奈良盆地東南・纏向遺跡「東田大塚古墳」の後円頂部
東田大塚古墳、後円頂部

墳丘内も、良く手入れされた果樹等の植栽が見られる美麗さ。恰も「築山」の風情か。頂部には三等三角点も存在。公私何れの所有かは不明だが、纒向古墳群中、最も墳丘が保存されたものだという。


奈良盆地東南・纏向遺跡の「東田大塚古墳」北面から見た三輪山
東田大塚古墳北面から三輪山を見る

大神神社の神体として古くから地域で尊崇される三輪山は、この様に纒向遺址のほぼ全域にその存在を示す。出土品からも古代三輪信仰との関連を窺わせる遺物が出ており、古墳との関りも推察される。


保守作業による運転休止を告げる、奈良盆地東南・JR巻向駅の貼紙

終了なるも、電車はお休み(?)

東田大塚古墳から畔道を東上して巻向街区へ向かう。有名な木製仮面が出土した方形周溝墓付近や、大量の桃の種が見つかった祭殿遺構等がある遺跡中心地を巡ったが、何れも埋め戻されていて見るものはなかった。

時は3時前。少し早いがこれにて終了ということで巻向駅へ向かったが、何と、保守作業のため4時半まで列車が来ないと告げられる。一応観光地であるこの路線で日曜昼間に保守とは……、少々呆れ気分で収めたのが、改札の貼紙をとらえたこの写真であった。

まあ仕方がないので皆と相談し、列車の時間まで、予定になかった古墳等を巡ることにした。第2部「番外編」の始まりである(笑)。

続く……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2009年03月01日

大和平会

代表的環濠集落「稗田」へ向かう路傍に咲いていた梅花

初の「平会」開催

3月初日の日曜日。春を想わせる穏やかな晴天の下、山会ならぬ「平会(ひらかい)」が行われた。いつもの様に山へ行く集いではなく、平地での史跡巡り、即ち「街歩き」を目的とした試みであるが、身近な地の奥深さや魅力などを知ってもらおうという根本趣旨に変わりはない。これも、言わば「近所再発見」活動の一環であった。

その記念すべき初の平会の場所となったのが、お隣奈良県は郡山市(大和郡山)にある環濠集落。郡山までは、京都左京からなら、電車で1時間程の近さである。正にご近所。しかし、地域史、そして前近代的尺度からすれば、実は近所とは言い難い。その隔たりを超越し得る存在でもあるのが、今回の探査目標である環濠集落であった。

日本の集落原景の一つ環濠集落

郡山を含む奈良盆地各地に残る環濠集落は、古代の土地区画制度「条里制」が施された盆地内の散村が、中世集村化し防塞化されたもの。つまり、中世動乱と、続く戦国争乱の治安悪化を受けて誕生した防御集落の名残である。

この様な集落は、大和に限らず同じく戦乱に晒された日本各地に生じた。しかし、多くのそれは近世以降改変を受け原形を失ってしまう。よって、当時の姿を色濃く残す大和の環濠集落と接することは、我が国の集落原景の一つに触れること、そして今に続く集落構造や施設機能を知ることに繋がるのである。環濠集落が京都との距離を超越すると前述したのは正にこのことであった。

随分前から気になっていた、この大和の環濠集落。今回こういう形で有志共々訪れることが出来ることとなったのは誠に喜ばしい限り。個人的にも実に楽しみにしていた企画の始まりであった。


上掲写真:京に同じく底冷えが続く大和盆地の来春を喜ぶかの如く、一斉に花を咲かせる梅花。代表的環濠集落、稗田(ひえだ)集落へ向かう路傍にて。


旧大和郡山城下の寺院前を通り郊外の環濠集落を目指す平会一行

郡山城下を経て郊外へ

平会当日の朝、近鉄郡山駅に集合した参加者一行は、駅がある旧郡山城下の市街を通り、環濠集落がある郊外田園地帯へと向かった。環濠集落ほど歴史は古くないが、16世紀後半の織豊期を起源とする城下町の、情緒ある風情や由緒ある旧跡に早くも皆心囚われる。途中の和菓子店で早速菓子を買ったりするなどして、大人子供共々、和気藹々と進む。


旧大和郡山城下外れに現れた郡山遊郭の、木造三階建ての妓楼
城下町外れ辺りに現れた妓楼と見られる建造物。木造ながら、3階建ての豪壮さが迫力を醸す。以前訪ねた橋本のそれとは、また異なる印象を受けた。恐らくは橋本同様、戦前は大正・昭和初期頃のものと思われ、周囲に残る類似建造物共々、一つの遊郭街を構成していたとみられる

今は現役の気配はなく、一帯白日を浴びながらも、どこか廃滅都市のような生気ない一角をなしているのは橋本同様であった。何やら、町外れにて異界に迷い入(い)った心地である。


郡山から稗田集落間に広がる郊外風情と、撤去解体中の佐保川の旧路橋

旧遊郭を抜け城下が終ると、盆地縁に連なる山々や、その手前に広がる田圃が見渡せる郊外風情が現れた。今回は資料・案内用として、旧道との関りが解り易い100年前の地形図を持参したが、この辺りの状況は往時とあまり変わらない。

写真はそこから更に進んだ佐保川の景である。奈良盆地最大河川、大和川支流にあたる佐保(さほ)川は、この地域の主要河川で、環濠集落の成立や発展とも関係深い川。撮影地付近は、郡山から稗田(ひえだ)集落に入る為の古くからの渡河点であるが、旧図と同じ場所にあった写真の橋は、解体撤去の最中であった。長い役割を終え、近くに造られた新道橋にその座を明け渡したのである。細やかな歴史の変転……。奇しくもそんな場面に立ち会ってしまったようである。


石やコンクリートで護岸整備された稗田の環濠(外濠)

完全無欠の環濠集落「稗田」

佐保川の新道橋を渡り程なくして、最初の目的地稗田に着いた。環濠、即ち水濠に囲まれている集落の為、当然、先ず濠と遭遇することとなるが、正しく写真の水面がそれであった。

その幅は、撮影地の如き広い場所で10メートル近くはあろうか。この水濠が、縦横共に260メートル許かりの集落全周に存在し、堅くそれを守護している。その様は、航空写真や地図上でも明解で、多くの環濠集落の中でも一際存在感を放っているといえる。その為か、以前から地図帳等の方々で、その代表的存在として紹介されている。多くの集落が環濠を失いつつある中、この稗田は、未だ中世起源のそれを全周残す、完全無欠ともいえる存在なのであった。

歴史学的には応仁の乱以前である15世紀中頃の史料上にて既に城郭化が確認される集落だという。城主は不明だが、大和の有力者古市(ふるいち)氏と筒井氏の争奪の場にもなったようである。かくも貴重な場所であったが、1つだけ気になることがあった。それは、コンクリや石提による水濠整備が少々過剰に思われたところである。この様な処置では却って史跡や景観の保存という原則から乖離してしまうのではないか。まあこれも、稗田の貴重さがなさせた業なのであろうか。


稗田の旧庄屋家に繋がる旧村長宅旧家の長屋門

平会、突如旧家に招かれる

濠にかかる橋を渡って皆で集落内を探索していると1人の婦人から声をかけられた。婦人は自邸の立派な長屋門を開いて、一行に邸内見学を勧めてくれたのである。一同喜んで邸内へと進む。

そして綺麗な前庭ある伝統建築の屋敷の内外で、婦人とその夫である御当主Mさんからお話を伺った。M家は稗田の旧庄屋家とも繋がる旧家で、かつて村長も輩出したという家柄。近世からの居住が確認される家の人だけあって実に様々なことをご存知であった。一同暫し話に聞き入る。印象に残ったのは、かつては濠は疎か、周囲の河川や湿地により外界との行き来が難しかった話や、水害時には周囲が海の如く化すも微高地上にあった屋敷地は水没しなかった話である。

実に有意義で喜ばしい時を暫し過ごした。そして、Mさん夫妻のご厚情に深く謝して一行はそのお宅をあとにした。正に感謝感激……。写真はそのMさん宅門前にて、挨拶する参加者。


稗田集落の中心地にある樹々に囲まれた売太神社
稗田集落内にある売太神社(めたじんじゃ)

かの日本最古の史書『古事記』の編纂者、稗田阿礼(ひえだのあれ)が祭神というが、集落との関係は詳らかではない。集落の大きさの割に規模があり広いが、近年まで境内西方に内堀とみられる水濠が残存していたことから、集落内の主郭的要地であったことが推測されている。

軍団の集結や駐屯が可能な公共空間社寺が、軍事拠点とされていたのは環濠集落に限らぬ全国的現象である。この神社の様態は、正にその好例をなすものといえるのではなかろうか。


若槻集落北の耕地内に残る、水濠付き迫出し部分「出垣内」との関係がうかがえる段差と石垣

環濠集落研究に欠かせない存在「若槻」

稗田近くの路傍の芝地にて昼食を採ったあと、次の集落「若槻(わかつき)」へと向かう。稗田の東南500メートル程の場所で、古図によれば、多くの環濠集落同様、水田上に浮かぶ島の如き姿をしている。稗田とは耕地を介して隣接しているが、今はその間を多くの住宅が埋めている。

写真は、それら新興住宅街を抜けて若槻北辺に接したところ。「出垣内」と呼ばれる、集落北側から迫出した場所にある、石垣を有す段差である。出垣内は若槻が防塞化する際、最後に追加された水濠付の張出し部分であったことが史料から判明している。よって、この段差は、その施設地と、水濠その他の名残であった可能性もでる。

若槻は稗田と同じく15世紀に城塞化されたが、古代(平安末)からの史料が比較的多く残っている為、集落自体の形成過程が知れるという大変貴重な存在となっている。城主は不明だが、若槻氏や吉岡氏などの、地元や近隣の土豪が推定されているという。稗田ほど環濠痕跡が明瞭でなく、さしたる規模もない一見地味な存在だが、環濠集落研究には欠かせない集落である。


若槻環濠集落第2期目に造られた水濠跡とみられる溝と集落側微高地に沿う段差

歴史学者、渡辺澄夫氏による史料分析とその研究によれば、若槻環濠は3期の改変を経て成立したという。その2期目に当る、水濠が長方形の集落を囲うのみで、出垣内部分が未だない時代に造られた濠跡が、写真の溝である。今はコンクリで固められているが、左側の集落微高地に沿って段差が続く様は明瞭である。水面が殆どないため地図や上空写真からはその存在を確認し難いが、こうして現地へ出向くことで見定めることが出来た。


若槻集落西端の神社南に残る最古期の構築とみられる濠跡
若槻集落西端にある神社の南に残る濠跡

こちらは護岸処置がない野生的ともいえる姿であるため往時を偲ぶのに有利だが、逆に土砂堆積による消失の懸念が生じる。渡辺氏の研究に照らすと、建造第1期に施された若槻最古級の水濠である可能性も出る、実に貴重な箇所である。


菩提仙川の土手からみた石塁上に佇む番条集落北辺の建屋

水陸の要衝「番条」

若槻の南にある長閑な田園地帯を600メートル程西南へ進むと、次の集落「番条(ばんじょう)」が現れた。盆地内の河川としては珍しく水の澄む菩提仙川を北、そしてそれが合わさる佐保川を西に添えるが如くして南北に続く集落である。その大きさ、幅200、長さ710メートル。実に他を凌ぐ規模を誇る。川に接しながらも、嘗ては全周環濠が存在したという堅固さも特筆される。

ここもまた15世紀頃の建造とみられる。長禄3(1459)年に落城した際の被害記録から、この頃既にかなりの人数が収容出来る規模だったことが知れるという。集落には内堀により3つに区切られた跡があるので、連郭式構造と推定され、これもまた他の集落とは趣を異にする所となっている。城主は興福寺大乗院方の土豪番条氏。その「城館集落」、正に城と呼べる規模・構造である。

写真は正にその北方、菩提仙川の土手から集落北辺を眺めたところ。濠幅は狭くなってしまったようだが、石塁上に佇む建屋共々、その堅固さの一端たるものが感じられた。


番条の中谷酒造にて近世末建造の伝統建築「大和棟」の説明を受ける平会参加者
番条にある中谷酒造にて、近世末建造の伝統建築「大和棟」の説明を受ける参加者

番条集落を巡る最中、造酒屋を発見した。しかし、日曜の為か、営業の様子はない。私を含め、酒好きの参加者は残念がるが、固く閉じられた格式あるその長屋門に「新酒あります」の貼り紙が……。収まりがつかない参加者の1人が呼び鈴を鳴らすと、なんと人が現れ購入可能となった。お休みの日に恐縮だが、なんと応対の人は平会の趣旨を聞くと、更に集落や店の歴史、施設などの説明を始めてくれた。稗田のMさんに同じく、その意識の高さたるにただ驚かされる。

店の名は中谷酒造。応対の人は、そこのご当主であった。ご当主によると、この店は江戸期に酒造株を買い受けて創業されたという。清酒発祥の地とされる菩提仙川上流域と古代からの主要路「下つ道」に近く、また佐保川水運を利用して大阪方面とも取引出来るという地の利を活かして大いに栄えたらしい。この話を聞き、他に勝る番条の規模や、また今も大きな家が多いという個人的な謎が解明された。そうである、番条は水陸の交通要衝だったのである。

いやあ、謎も解け地酒も手に入った。地の人の配慮にまたしても感謝感激である。購入したの地酒の楽しみも倍増する心地であった。


番条集落南部(南郭)にある西出入口より、防御性を高めるため乱雑に配置されたとみられる集落家屋を見る
番条集落南部(南郭)にある西出入口より集落側を見る

立派な家々による家並が続く集落状況に反し、その通路は狭く、見通しが悪い。また、方々で屈曲やT字路と遭遇する。他の環濠集落とも共通するこれらの特徴は、軍略効果を第一義になされたとされる。即ち、敵の進軍阻止や迎撃便宜の為である。これらの特徴こそ、正に防御集落としての環濠集落の存在を裏付けるものとなっている。


番条集落西側を流れる佐保川西岸耕地只中に続く古い土塁
番条西側を流れる佐保川西岸耕地只中に続く古塁(土塁)線

この区間の佐保川は、近世に行われた改修以前は、今より少し西側を流れていたという。よってこの土塁は、その時の西岸堤防であった可能性がでる。今でもこれに沿う行政界が存在することからも、それが補強されよう。ひょっとして、中世は環濠集落成立期とも関るものか――。現代では正に「無用の長物」であるこのようなものが、未だに残存しているのも興味深い。


筒井集落の中心で本丸跡と目される「シロ」小字内の段差

覇者の城「筒井」

番条から佐保川を渡ってまた南下する。そして800メートル程歩いたところに本日最後の目的地、筒井が現れた。有力土豪の1つで、後に大和一国制覇を果たすこととなる筒井氏の根拠地跡である。かの明智光秀の盟友「筒井順慶」や、石田光成の重臣「島左近」縁の地といえば馴染を感じる人も多いのではなかろうか。

「筒井館」や「平城」とも呼ばれた筒井は、永享元(1429)年には防塞として存在が確認されるという。有力勢力の居城、そして地域の要衝として発展し、織田信長に帰順した順慶が大和一国を収めた際は、その地位に相応しい規模に改修されたが、間もなく筒井氏の郡山城移転に伴い破却された。その為、古く、規模も大きなものであった可能性が窺われるにも拘らず、これまで見た集落の中では最も環濠痕跡や集落原形が判じ難いものとなっていた。

写真は、集落中心にある筒井氏の居館跡とされる場所。城で言えば本丸に相当する。古くから「シロ」と呼ばれる約150メートル四方の小字(こあざ)地名内にある、高さ1、2メートル程の段状地で、周囲には内堀跡と見られる湿地が存在する。写真の通り、確かに段差があることは判るが、石材等は破却時に郡山へ運ばれたらしいので、言われなければ、それとは感じ難い。

ただ、駅に近いため、都市化している周囲に比して、ここだけ畑地が残る様は少々異様に感じられた。偶々近くの神社に親戚がいる参加者の1人によれば、どうやら、近年までこの「シロ」という土地に対する何らかの禁忌があったらしい。


筒井居館跡とされる字「シロ」の西南に続く古道と湿地
筒井居館跡、字「シロ」西南部

西北部である前の写真とは異なり、西南側には内堀跡と思われる湿地が残っていた。画面大半を占める水面がそれで、右端にある陸が段状地の南面、即ち本丸推定地西南辺となっている。

マンションが見える奥側近くに筒井駅があるが、それにも拘らず、この様な中途半端に浅い水場がこれまで他に転用されずに残ったことも謎である。ところで、駅と居館跡の間には筒井時代に「市町」があったとされる街道が通るが、段状地は、写真右側に見える小道と共にそこへと繋がる。ひょっとして、ここに城館への出入口、「城戸」でもあったのであろうか。その、「シロ」西端辺りで、ちょうど発掘調査が行われていたが、果たして結果は如何なものであろう。


夕景の近鉄筒井駅ホームより東南の吉野・大峰山方面を望む
夕景の近鉄筒井駅ホームより、東南は吉野・大峰山方面を望む

そして、集落南側にある古くからの町並み等を見学した後、一行は筒井駅に到着した。個人的にはもう少し探査したかったが、日も傾き、さすがに風も冷たくなってきたので、これで終了とした。皆、早速列車に乗り込む。そして車中にて、帰宅組と別用組、京都三条にての打上げ組に分かれ、それぞれの日を終えたのであった。

初の平会――。少々マニアックすぎる嫌いもあったが、中々充実した1日ではなかったかと自賛する。皆さんお疲れ様……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会