2017年11月26日

晩秋池会

巨椋池干拓直後を想わせる干上がった田んぼ,巨椋池探訪

冷涼と自転車の助け借り、池跡巡り完遂へ

今日は春5月以来の平会(ひらかい)。

平地の名所旧跡等を巡る集いであるが、春と同じく、自転車による実施となった。場所はその機動力を活かして少々遠方で広範な地を設定。

そう、そこは、まだ暑い9月初旬に下見を兼ねて巡った旧巨椋池(おぐらいけ)跡であった。9月も広大なその跡を淀の旧城下域を含め詳細に巡ったが、徒歩と暑さにより池跡要地を全周することは叶わなかった。

今回は冷涼な気候(寒い?)と自転車の機動力により、それを補完しつつ更にその旧観に迫ろうという企画となった。

前回にも解説したが、巨椋池は京都府南部に昭和初期まで存在した池。その昔「大池」と呼ばれ、東西4km、南北3km、周囲16kmという広大な面積を有した。琵琶湖から流れ出る宇治川を主な水源とし、賀茂川を併せた桂川や木津川という、淀三川が流入する近畿中部の一大低湿地に存在した。

池というより湖と呼ぶに相応しい規模。かつては地域を特徴づける大きな存在であったが、干拓されて久しい今はその姿を知る人も殆どいなくなり、田圃や宅地となった現地にその姿を想像することも困難となった。

正に古の幻を追い、それを体感する平会に適った存在。その結果や、如何(いかん)……。


上掲写真: かつて巨椋池の東部池中を縦断していた大池堤(東堤防)跡を北上する際に見た干拓地水田。水が干上がり、底にひび割れが走る様が干拓直後の巨椋池を彷彿させる。


現代の京都と巨椋池関連図
現代の京都市街と巨椋池跡(国土地理院・地理空間情報部より利用確認済。同院「明治期の低湿地図」を加筆・編集。転載・二次利用不可)

旧巨椋池と京都市街の関連は上図の通り。中央上寄りにある京都駅の南8km程の場所にあった。現代の地図に明治23年測図時の池や旧河道・湿地が濃い青色で示されているが、中央下寄りの大きな水辺が巨椋池である。

左上の桂川、池上の宇治川、池下の木津川が集まり、左下端の天王山・男山の狭隘部手前で淀川となるが、それらの水が滞留するが如く形成されているのが解る。


明治中期の地図にみる巨椋池
明治中期の図にみる巨椋池(大日本帝国陸地測量部編 二万分一仮製地形図「淀」(藤氏蔵)の一部を加筆・編集。転載・二次利用不可)

上図は私が原版所蔵する明治23年測図の仮製地形図である。季節等による変動はあると思うが、明治末の改修で池が宇治川と分離され水位が下がる前の姿なので、近世の姿に近いものとみられる。

一応池についての基礎情報を下記しておくので必要な人は参照あれ……。

巨椋池について

「地理環境」

現在の京都市伏見区南部から宇治市西部、久御山町北東部に当たる地の、東西4km、南北3km、周囲16kmの規模で広がっていた。水域面積は794ha、水深は大部分が0.9m以下で、広く浅い池であったが、浅くなったのは明治末の改修によるものとされ、それ以前は増水時に4、5mに達することも珍しくなかったという。

宇治・木津・桂の三川合流地である男山と天王山の狭隘部付近に形成された山城盆地最大の池沼で、それら河水の遊水地的役割も果たしていた。底部標高は9m前後、琵琶湖や丹波山地、伊賀高原等の近畿中部の水を集める畿内中央低地に当たり、古来水陸の交通要地として栄え、漁業や狩猟・農耕等が盛んであったが、洪水常襲地であり、その後の干拓の要因となった。

「歴史」

その成立については、更新世後半(約130万年前〜1万年前)に砂礫の流入や隆起により縮小した「山城湖」の名残とするものと、盆地へ流入する河川が扇状地を拡大するなかで生じた副次的湖水とするものの2説があり、前者が一般的になっていた。

しかし、近年の土質調査や花粉・化石の解析、植物性遺物の年代測定や考古学調査の結果から、約1万年前は北部の横大路沼共々まだ存在せず、縄文後期(約4000〜3000年前)に池の輪郭が出来、縄文晩期から弥生前半(約3000〜2000年前)頃に湖化したとされる。

だが、弥生期も比較的小さく、奈良期に拡大し、平安期にまた縮小するという変遷がみられるという。それらの原因は土砂の堆積にあり、元来山林伐採による人為的土砂流入により狭隘部の水はけが悪化して池が生まれ、その後変化を繰り返したとする説が有力となっている。

「巨椋」の名称は『万葉集』(7世紀後半〜8世紀後半編纂)が初出で、9世紀には古代豪族「巨椋連(むらじ)」、10世紀には「巨椋神社」、12世紀には「小倉荘」の名が文献に登場。画期は文禄年間(1592〜94年)における豊臣秀吉の大改修で、宇治橋下流から池に流入していた宇治川が太閤堤で伏見城下へ誘導され、その他の堤や街道を兼用した堤も作られ、池と周囲のその後の景観が決定づけられた。

近代明治には43(1910)年の淀川改良工事により宇治川と完全に分離され、水位低下や水質悪化、漁獲減少、マラリア多発等を招く。そして昭和8(1933)年に干拓工事が始まり、同16年に完了して地上から消滅した。


三条大橋と袂の古い石垣,巨椋池探訪
太閤堤の起点?三条大橋の欄干と近世以前のものとみられる袂の切石橋台

縄手、大和大路を南下して

今回の参加は左京組のみだったので、朝は区内のパン屋喫茶室(ここも廃滅するとの噂があり)に集合し、朝食を摂ったのち出発した。

左京からなので、どうせなら近世巨椋池と関係深い、大和大路(やまとおおじ)を南下することとした。

大和大路とは、東海道の出発点、三条大橋東詰から旧大和国、即ち奈良方面へ南下する道で、豊臣秀吉が途中の方広寺大仏や伏見への接続を兼ねて開いたとされる。伏見以南は宇治川水系に設けられ、近世巨椋池の景観を決定づけた太閤堤の一つ小倉(おぐら)堤上を通りつつ池中を南下する。

同じ頃開かれたとされる五条大橋東詰からの伏見街道と役割や道筋が途中から重なるが、通行量を分離するなどの理由で、比較的早い時期に出入口が分けられた結果ではないかとも考えている。

また、古くから四条以北の道筋が堤の意がある縄手(なわて)と呼ばれ、その理由が賀茂川の堤防兼用路であった為とされるが、小倉堤への接続を示唆する名である可能性も考えていた。長さ数キロに渡る湖中路の出現は、当時の京人に相当強い印象を与えた筈との考えからである。


三条大橋の擬宝珠に残る天正18年の紀年,巨椋池探訪
三条大橋の擬宝珠に刻まれた「天正18年(1590年)」等の文字。下段には普請責任者で秀吉家臣の増田長盛の名も見える

現在の三条大橋の源的な橋が架けられたのは、豊臣時代の天正18年。その後、何度も架け替えられ、現在はコンクリ橋となったが、木造の欄干が添えられており、その擬宝珠には天正期のものが含まれているという。

西詰に残る石積みの橋台も近世以前の古いものと思われる。この橋台や東海道の盛土により、元はこれより北にあった白川の賀茂川への流入が阻害され、南の祇園から流入する現在の姿になったとの伝承がある。


宇治川に架かっていた豊後橋跡の観月橋,巨椋池探訪
旧伏見城下と巨椋池北縁の太閤堤を結ぶ観月橋

宇治川渡り、旧湿地帯に入る

余談が多くなったが、一先ず大和大路起点を三条大橋と見做し、そこから出発。かつて大和大路が東海道と接触していた三条大橋東詰南側は三条駅のターミナルに改変されているので、その南端から始まっていた。

古道具や和装を扱う町家古街を過ぎ、祇園、建仁寺、方広寺、東福寺、旧師団司令部(現聖母女学院)と南下して伏見に入った。途中休憩を入れたこともあるが、やはり距離があり、結構時間がかかった。

観月橋で合流した参加者をかなり待たせてしまったが、待合せの返信を受けていなかったので致し方ない。交信を確認すると、こちらの応答にも勘違いがあったが、返信せずに集合することとは関係ないことであった。

前の山会でも連絡がなく、こちらが直前に確認すると「予定が変わった」と通知。それ以前にも「来る」といって来ないことが何度もあった。こういうことは二度とないように以前にも記した筈

こう再三であれば、残念ながらもう後がないと言わざるを得なくなる。

少し話が違い恐縮だが、この機に再度表明しておく。「会」をつけているものは細やかながら公益的志に基づき行っている。客観的に大したことのない企画や規模でも、志だけは高くありたいと思っている。それを軽んずるのであれば、方々の邪魔になるので、何人であれ来ないでもらいたい。

さて、写真は伏見市街南端をかすめる宇治川に架かる観月橋。豊臣期に伏見城下と宇治川対岸の向島城を結んで架けられた豊後橋の旧跡である。


向島城跡地外れに残る旧湿地水田,巨椋池探訪
向島城址外れの旧湿地に広がる水田

向島城は伏見城の支城として太閤堤と同じく文禄年間(1592-96)に構築され、17世紀初期の伏見廃城と共に破却されたとみられる。

その場所は豊後橋を頂点にして輪の様に太閤堤が川南の湿地を囲った中にあり、明治期等の地図にも連郭式と伝わるその痕跡が窺えるほか、「本丸」「二ノ丸」等の地名としても残存する。

少々主旨から外れるが、向島の湿地跡も見学することに。城跡は現在市街化が激しいため、外れの湿地跡等を見たが、文禄以前は巨椋池内だった可能性が高い場所である。


旧下島堤防集落(現向島東泉寺町)を湿地側からみる,巨椋池探訪

恐るべき天下普請

向島外れの湿地跡から北東へ進み、太閤堤上に並ぶ集落と出会う。旧下島地区(現東泉寺町)で、文禄以前に存在した巨椋池の島跡にちなむ地名とみられる。堤用の土取り等により、堤防集落化されたのか……。

写真は湿地側からみた太閤堤上の旧下島集落。


旧下島集落(現向島東泉寺町)前の太閤堤跡と宇治川,巨椋池探訪
太閤堤上に並ぶ旧下島集落や府道241号線、そして宇治川。堤防道路は現在でも向島と宇治を結ぶ要路となっている


旧下島集落(現向島東泉寺町)から見た宇治川対岸の伏見城跡,巨椋池探訪
太閤堤上からみた宇治川と対岸の桃山(木幡山)

民家の間から太閤堤上に出、眺めの良さにつられて暫し休息。対岸の丘陵がちょうど伏見城主郭部分であったことを説明した。

皆感心すると共に宇治川の水勢に驚く。今は堰やダムに制御された状態にも拘わらずの水量と流れの速さ。近代治水がない頃はさぞや恐ろしいものであったろう。

400年以上前に、豊臣政権がそんな水系を広範に改修出来たことに改めて驚かされた。水攻め等による地貌改変の心理効果を知っていた秀吉は、ひょっとしたら権威誇示の為もあり、この大普請を行ったのか。

古代文明の帝王らの治水事業を上回るような偉業を目指して……。


向島集落(太閤堤)跡に残る古い町並み,巨椋池探訪

湖上の街道、小倉堤跡をゆく

太閤堤上を西進して観月橋まで戻り、そのまま向島西部に残る堤上を進む。堤は左に曲がりつつ宇治川を離れ、やがて南下する様相を呈した。即ち、大和街道であり湖上路である小倉堤の始まりである。

写真は干拓前に建てられたとみられる町家が多く残る地区。かつて賑わった奈良・京街道の名残りである。


近鉄向島駅近くから見えた巨椋池跡の田圃,巨椋池探訪
近鉄向島駅近くから見えた巨椋池跡の田圃や宅地

南下を続け暫くすると、団地や新興住宅街となり、道も広く新しいものとなった。堤を想わせる若干の高さも有していたが、そのうち明瞭ではなくなり、やがて近鉄向島駅の傍に達した。

堤がもう湖上に出ていた場所で、線路向こうに池跡の田圃や宅地の広がりが見えたが、広がる湖水を想像するのは少々難しいか……。


西目川集落北部に残る小倉堤(太閤堤)跡,巨椋池探訪

更に進むと脇道となった箇所に再び堤が現れた。写真右側の高まりである。

道もその上に続き、また古い集落が現れた。西目川(にしめがわ)集落で、巨椋池上に3箇村あった湖上集落の内の1つである。

3箇村の内、西部の大池堤にあった東一口(ひがしいもあらい)集落は漁業株を持つ漁村であったが、西目川と残りの三軒家集落の役割は不明である。ご存じの方がおられれば、ご教示願いたいと思う。


小倉堤(太閤堤)が削平されて造られた宇治市槙島町落合の住宅地,巨椋池探訪
小倉堤中央部に当たるも、その痕跡を全く留めない南落合地区の宅地

西目川集落を過ぎると碁盤目の新興住宅地となり、堤の跡は途絶えた。地面も完全に削平されており、国土地理院の対比図(レイヤーマップ)を基に自転車で跡を探すも徒労に終る。


宇治市槙島三軒家集落北端の切断された小倉堤(太閤堤)跡,巨椋池探訪

しかし、南落合の南部にて、また宅地の高まりを発見した。写真中央に建つ、小高い家並である。


小倉堤(太閤堤)上の宇治市槙島三軒家集落の古い家並,巨椋池探訪
堤上に古い家並が残る三軒家集落

宇治川旧路を探り、錦秋の河畔で休息

早速、屈曲路を登ると、高台上に前回訪れた集落があった。小倉堤南部の堤防集落、三軒家地区である。

三軒家を過ぎると間もなく、旧巨椋池東岸(小倉堤は東に寄りつつ南下)の小倉集落に到着したが、そこからは一旦池跡を離れ、文禄以前の宇治川旧路を探りつつ、宇治へと向かった。

文禄以前は巨椋池に突き出た半島であった小倉集落東郊で旧路に関するとみられる低地や水路を見たが、やはり、戦国・中世にまで遡れる確かな痕跡を見ることは叶わなかった。


紅葉盛りの宇治塔の島付近での休息,巨椋池探訪
宇治河畔の紅葉下での休息

そして、宇治の中心部に到着し、その名所、塔の島辺りの宇治川河畔にて昼食休憩をとることとした。

折しも、紅葉に合わせた観光期の盛りで、街中に人が溢れていた。平会一行も、暫し河畔の紅葉下で寛ぐ。


宇治塔の島と宇治川峡谷出口,巨椋池探訪
手前は宇治川派流と塔の島、奥の山の窪みは宇治川渓谷。かつて琵琶湖から一気に渓谷を下った河水は、ここから山城盆地に出て巨椋池等の湿地を潤した。文禄以前は、ここから下流すぐの場所にある宇治橋西下から巨椋池へと注いでいたという。先程通った、小倉集落からの低地である


旧名木川河口(伊勢田新田)跡の茶畑,巨椋池探訪

南岸から西岸跡へ

休息後は混みあう宇治市街を後にして、再度小倉集落に戻り、巨椋池探索を再開。集落を貫く大和街道を南下し、いよいよ街道とも別れて池の旧南岸に当たる伊勢田地区へと入った。

前回も記した通り、南岸は宅地化が激しく、その痕跡を見ることはやはり難しかった。ただ、対比図により、新しい府道近くにあった入江跡を推定できた。しかし、かつての風光明媚な様の想像は、もはや不可能であった。

唯一痕跡が見られたのが、前回も紹介した西小倉小学校西隣にある畑の高まり。対比図や干拓直後の航空写真との照合により、伊勢田新田を貫流していた名木川(山川)の河口部と判明。天井川だったので堆積土砂が想像された。

今回紹介する写真は、その北側にある微高地状の茶畑。前回は河口の浜かもしれないとしたが、対比図や航空写真により、浜か沖の堆積地であることが判明した。かつての好漁場であり、その権利を巡り、近世初期から漁家と農家の争論が繰り返された地である。


大池堤跡に残る祠と樹木,巨椋池探訪
古川排水路西土手にあった古い祠と杜

名木川河口部の次は西走し、西岸跡に達した。前回とちょうど逆の道筋である。旧安田村辺りを流れる古川の土手を北上し、もう一つの池中路である大池堤を目指す。

今回は図や古写真により大池堤を継承しているのは、この辺りでは古川の西土手であることが判明していたが、途中で東土手にかわる際に渡河し難いことから、前回同様、東土手を進んだ。

写真は西土手上に現れた古い祠。大池堤を継承した土手なので、それに関わるものとみられる。ここは東一口集落を経て淀城下への入口ともなった場所なので、塞ノ神のようなものであろうか。また、大池堤が南岸から湖中に出る特殊な場所でもあった。

因みに古川は木津川に関連するとみられる古い流れだが、現在では整備されて干拓地等での排水路の役割も果たしている。


広大な巨椋池跡の田圃,巨椋池探訪

北上暫くして小休止。

大池堤跡は、古川の2度目の屈曲点辺りで東土手に移っていたが、低く成形されているようで往時を偲べる姿ではなかった。

写真は休息場所傍の田圃より見た干拓地広景。巨椋池の広大が窺える本日一番の眺めである。果てに林立するのは向島の団地群。即ち、我々一行はその傍の堤跡を経て、湖岸を大回りし、ここまでやってきたのであった。しかもその間には宇治にも立ち寄っている。

今日は午後から15度くらいの温暖となる予報であったが、天気が優れず風もあって寒かった。もう冬なので仕方ないが、自転車で身体を動かしている為か、冷えきることはなかった。


旧大池堤上に連なる東一口集落,巨椋池探訪

休息後はすぐに東一口集落が現れた。ここは集落の土台として往時の大池堤が残っている。写真の如く、堤上の集落内の一本道を東寄りに北上。


東一口集落中心にある旧山田家住宅,巨椋池探訪

そして前回も立ち寄った山田家門前に到着。近世における巨椋池漁業の総帥家とされる家である。変哲ない民家の先に突如現れた威容に一同驚嘆。

山田家の敷地は道路よりかなり高くなっているが、地元・久御山町編纂の資料によれば、明治の淀川改修以前の堤の高さだという。改修後は池の水位も下がり不要となったため、削られたとのこと。


巨椋池排水機場と前川,巨椋池探訪

干拓地の守護神

長く戸数も多い東一口を抜けると、宇治川の土手と共に巨大な建屋が現れた。巨椋池排水機場である。手前の前川等により集められた干拓地内の水を宇治川に排出する為の施設である。正に、干拓地の守護神的存在。

干拓以来、数々の洪水危機を経て増強が繰り返されてきたという。どこか山田家に通じる意匠であるのことも興味深い。


久御山排水機場と古川,巨椋池探訪
古川(左水面)と久御山排水機場

また、大池堤跡を挟んだ南側には久御山排水機場があった。

巨椋池排水機場の方が新しく見えるが、実はこちらの方が昭和中期に増設されたもので、干拓当初から稼働していたのは巨椋池排水機場であった。但し、平成17(2005)年に更新されたという。


旧淀城天守台石垣と内堀跡と京阪電車,巨椋池探訪

巡検終了。淀から桂川北上し帰還

干拓地の守護神2棟との遭遇を最後に、巨椋池跡巡りは終了となった。

宇治川の土手を東進し観月橋に戻ることも考えたが、単調であると思い、淀経由で桂川河畔を北上して京都市街へ戻ることとした。

写真は途中立ち寄った淀城址。本丸の石垣上からみた天守台の石垣と内堀跡である。近年京阪電車が高架化したので、風情に劣ってしまったが……。勿論、渋滞緩和や事故防止も必要なことではあるのだが。



京都市伏見区深草にある軍人湯の看板,巨椋池探訪

桂川の土手道を長駆して途中から伏見北部に入り、参加者馴染みの喫茶店で休息しようとしたが、満席のため、銭湯に入ることとなった。

近くの伏見街道沿いにあったその銭湯の名は写真の通り。今朝も旧師団司令部前を通ったが、伏見北郊はかつて軍都と呼ばれるほど陸軍施設が集まっていた。銭湯の名はその名残りである。とはいえ、内部は改装されて至って普通なのではあるが……。

一先ず風呂にて長い車乗の疲れを癒し、その後、小生推薦の中華屋に移動し、本場の食堂料理を堪能した。食後はまた北上して京都市街へ戻り、喫茶店での懇談会を経て日を終えたのであった。

今日の走行距離は約40km。比較的平坦な道程とはいえ、相当な距離であり、個人的には記録的自転車行となった(昔砂漠で同じ距離を1日かけて歩いたことがあるが……笑)。

皆さん、お疲れ様でした、色々と有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 平会

2017年05月14日

緑候津会

平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,走井と橋本関雪別邸」

旧路たどり大津へ

去年の12月以来の開催となった今日の平会。

今回もまた希望を承けて自転車での巡検企画となった。場所は滋賀県大津。古くから京の外港、湖上交通の要として重きをなした街である。

京とそこを繋いだ近世東海道跡を経て、その旧市街へ目指す。


上掲写真: 今は国道や高速路・鉄路に「上書き」されてしまった旧東海道の、逢坂(おうさか)峠付近に残る日本画家・橋本関雪別邸。玄関前の井戸は江戸期の名所図会にも描かれた名泉「走井(はしりい)」。但し、後代設置で、本来的なものは奥庭にあるという。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,南禅寺東口,インクライン,ねじりまんぽ」

朝は京都市街東部の老舗パン店併設喫茶室に集合し、優雅に(笑)店の自家製惣菜パンによる昭和的朝食を済ませて出発した。

写真は、南禅寺境内から東海道跡の現三条通へ向かう平会一行。向こうに見えるトンネルは、琵琶湖疎水の施設「インクライン」を潜る為の隧道「ねじりまんぽ」で、捩じる様に組まれた煉瓦が特徴的な明治期の土木遺産。街道と同じく、大津と京(都)を結ぶ、象徴的存在。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,山科地蔵,徳林庵,四ノ宮」

街道残る山科をゆく

国道と旧東海道の残存部を辿りつつ日ノ岡峠を越え、京―大津間に広がる山科盆地に入る。その北部には国道と分離された旧路が良く残されており、自転車行には有難い。ただ、各駅前を繋ぐ道路でもあるので、狭い割には四輪車の通行も多く、注意が必要。

写真はその北部・四ノ宮の地にある「徳林庵」。京六地蔵の一つで、古来信仰厚い通称山科地蔵の名で知られる佛寺。街道に面して開放的な造りのそこは、近世には飛脚らの休憩地となっていたという。正に古の「道の駅」。我々も峠越えの小疲労を暫し休めた。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,徳林庵境内に残る古い釜と炉」
徳林庵境内に残る古い釜と炉。旅人へ供された茶用であろうか


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,逢坂峠への登坂の始まり」
休息後再び旧街道を走り、京都東インターによる断絶越えて傾斜の強い旧道をのぼる。京都と大津の界・逢坂峠への登坂の始まりである


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,東海道と奈良街道の分岐」
登坂途中の街道分岐「追分(おいわけ)」。現地名・駅名にその名が残る、東海道と奈良街道の分岐部



平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,「走井居」「月心寺」の週末限定蕎麦店」

いよいよ国道沿いの山間登坂に入り暫しすると、写真の如くひらりと五月風に翻る暖簾が……。

橋本関雪の別邸「走井居」、即ち彼が開基の禅寺「月心寺」にて開かれていた週末限定の蕎麦店であった。食に目のない参加者の気掛かりとなり、境内拝観と休息を兼ねて寄ることとした。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,月心寺と走井居の庭園
」
月心寺と走井居の庭園

瀟洒な京風日本家屋にて庭を眺めつつ手打ち蕎麦を頂く。正に表の交通喧噪とは異次元の風情であった。夏なぞはさぞや涼しかろう。

写真には写ってないが、室町期の才人「相阿弥(そうあみ)」作という山肌斜面の石組みも見事であった。

建屋以外は近世の茶店跡らしく、有名な「走井餅」が売られていたが、交通事情の変化により閉業し、関雪が買い取り井泉と庭園の保全を兼ねて利用したという。

茶店は3月に行った男山門前のそれとなり、その歴史を継承している。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,月心寺の案内冊子
」
月心寺で頂戴した案内冊子

先程通過した追分の、近世の様子が描かれた図が添えられていた。今とは違う賑わいぶりが窺われて興味深い。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,旧東海道本線・逢坂山隧道の大津口」

大津旧市街入り

月心寺を後にし、間もなく大谷(おおたに)の集落を越えて峠を越える。大きく掘り落とされた国道区間で、往時の面影はないばかりか、歩道や路肩がない場所もあり、危険ですらあった。

やがて大津の街が見えるあたりで横にそれて写真の場所を見学。旧東海道本線・逢坂山隧道の大津口(東口)である。明治13(1880)年に開通し、新たな隧道と路線に変更される大正10(1921)年まで使用された。日本人独力で施工した初の山岳トンネルとして貴重。

当初は単線であったため左のものが古く、右は複線化により18年後の明治31年に増設されたという。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,現在の東海道本線逢坂山トンネル」
旧東海道線隧道跡から更に道を下ると、間もなく現在の東海道本線と遭遇

複々線で、奥の複線にある煉瓦隧道が大正期のもの、手前のものは昭和の増設。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,浜大津港の芝生,観光船「ミシガン」」
浜大津港での休息。湖面右端に写るのは遊覧出航する観光船「ミシガン」

残念ながら再開発の名の下に大規模な破壊が続く大津旧市街に入り、そのまま湖岸の浜大津まで下りきった。休息を兼ね、一先ず湖岸の芝生にて昼食とすることにした。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,旧大津遊郭の建物」

城郭跡の旧遊郭

昼食後、旧市街の散策を開始。自転車と、時にそれを置いた徒歩によるものであった。

写真は大津城の痕跡を探りつつ見学した旧遊郭街の建物。城も遊郭も旧市街の西側にある。遊郭街は前近代的趣が強く残る場所にあるため、城の痕跡とも近い関係にあった。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,旧大津遊郭の妓楼廃墟」

当然ながら、妓楼は現在は営業しておらず、その建屋も大半が無人となり荒れるなど、廃滅の危機に瀕していた。写真もその一例。元は贅を凝らした和風建築なのだが、既に水がまわり倒壊の兆候が目立って著しい。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,妓楼建築によくある軒下照明」
妓楼建築によくある軒下照明

1階や2階の軒下にあり、間口にもよるが、3個程付けられることが多い。器具は戦前のものであろう。以前行った橋本遊郭跡では灯火管制の布が付けられたものさえあった。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,」
大津遊郭では珍しい洋館風建築

タイルやレリーフを含めた意匠が素晴らしい。恐らくは前面だけの「看板建築」で、骨格や奥の間は木造和風だと思うが。使われずにあるのが勿体ない。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,旧遊郭街の小川と古い石垣」
旧遊郭街只中を流れる小川と古い石垣

大津城の堀との関連が指摘されているものである。遊郭街に限らず、旧市街西側に多く残る。勿論、防御施設としての堀は、本来もっと幅があった筈なので、廃城後狭めれれたということが前提であろうが。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,大津城縄張推定復元図」
「大津城縄張推定復元図」(大津市編『図説大津の歴史 上巻』1999年刊より)

幻の大津城

大津城は、坂本城の廃城に伴い天正14(1586)年頃に城下町共々代替建設されたものである。羽柴秀吉による近江支配の一環とみられ、豊臣系大名が入れ替わり城主となった。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、城主京極高次(きょうごく・たかつぐ)が西軍の猛攻に暫し耐えたのち開城したが、結果的に東軍の勝利に貢献。戦後は膳所築城に伴い廃城となり、その跡は港湾施設や町家域となった。

存在期間が短く、絵図や縄張図も伝わらない為、幻の城と化したのである。

上の復元図は、平成10年頃までの研究や実地調査に基づいて作られたものだが、史料が乏しい為、発掘調査が進む本丸以外の精度は高くないと思われる。

ただ、興味深いことに、国宝の彦根城天主は解体修理時に発見された墨書により大津城の転用材が使われていることが判明している。

また、外堀の幅が36m程もあり、全体としても縦横500m以上の規模があったことは確実とみられている。そうでなければ、15000人もの西軍を釘づけすることは不可能であろう。

とまれ、堀跡はそのまま埋められている筈なので、今後の発掘で明らかにされることを期待したい。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,大津遊郭街付近の路地,人家の中を通り抜ける」
遊郭街外れの路地

壊れ、寂れゆく大津旧市街

人のみが通行可能な路地が多くあり、その中には人家の中を通って抜けられるものもあった。公私混ざり合ったアジア的・前近代的街並み――。

しかし、この付近も再開発による道路拡幅と取り壊しの嵐が吹き荒れていた。古くからある寺院でさえ、その猛威に曝され破壊を受けていた。

その後、東部の商家域で、大津祭の鉾町でもある市街東側を経て湖岸埋立地の喫茶店で休息。本来なら旧市街にある古い喫茶店に行きたかったのであるが、商店街を含め壊滅状態にあった。

そもそも町家域の商業的雰囲気が消え、急激に雑多な住宅街へと変わりつつあった。かつて、都の祇園鉾町とも張り合った大津町衆の活躍故地としては寂しい限り。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,琵琶湖疎水・第一疎水の閘門」
明治23(1890)年完成の最初の琵琶湖疎水・第一疎水の水門(左)と閘門(右)。後者は水位差を減じて船の航行を易くする

最後は西郊長等地区見学

のんびり巡っていたので、はやくも夕方となった。市街西郊の園城寺(三井寺)・大津宮跡や東郊は芭蕉ゆかりの義仲寺(ぎちゅうじ)等にも行きたかったが、まあ次の機会か……。

最後は西部の長等神社や疎水施設を見学することに。長等神社前に残る素朴な近世版画「大津絵」の店も紹介したかったが、残念ながら閉店。店前での解説のみとなった。

そして疎水の方は琵琶湖に面する取水口まで行って閘門(こうもん)跡等の明治の遺産を見学した。


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,長等山に吸い込まれる第一疎水の湖水」
長等山に吸い込まれる様に流れゆく第一疎水の湖水


平会「大津,自転車で巡る,古道,古街道,東海道,古道風情残る小関越の道」
古の風情残る「小関越」を山科側へ下る

帰りは古代官道「小関越」に挑戦

そして、長等神社横から東海道の間道「小関越(こぜきごえ)」をのぼりつつ帰途についた。

ここは逢坂越より古いとされる、古代の北陸道の痕跡とされる古道。今は地元しか知らない細道と化したが、大津の古代を考える上では欠かせない道であった。また、緑多く、車輌も少ないので自転車や徒歩には良い趣も含んでいた。

しかし、登坂がきつい。当たり前であるが、主路となった逢坂越が近世から何度も掘り下げられて改修されているのに比べ、間道となったここはあまり手が加えられていない為である。

皆に良かれと思い計画したが、もはや自転車を押して登るほどとなり、見積もりの甘さを詫びつつ進んだのであった。

峠で一服し(昔あった湧水がなくなっている?)、更に古道風情が残る山科側を一気に下ったのである。四ノ宮ではまた徳林庵で休息。東海道・小関越共に絶妙の位置に寺があることを認識させられた。

そして、国道(新道)経由で日ノ岡峠を一気に越え京都市街に帰着。その後は予約してもらっていた知る人ぞ知る焼鳥店に入店が叶い、打上げ夕食会となった。

比較的ゆったりと行動したが、今日も内容深い一日とすることが出来た。皆さんお疲れ様でした。小関越の足労、ご容赦あれ!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2016年12月18日

師走道会

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晴天・温暖に恵まれて師走平会完了!

本日予定されていた平会(ひらかい。内容は「道会」「墳会」)は無事終了。師走ながら、快晴と温暖に恵まれた良い巡検が楽しめた。

今回は、古代、現京都市街北西の嵯峨野にあったという「千代の古道(ちよのふるみち)」の跡を求めつつ、広く嵯峨野・太秦地域を探索した。

果たして、その結果は……。


上掲写真: 「千代の道」考察の攪乱者?「千代ノ道町」の電柱表記。


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「千代の古道」推定路(クリック拡大)

今回の平会も、古い道を追う為、昔の地図を用意する。今の地図では近代以降、特に戦後に出来た新道や建屋の所為で、旧路の考察がし難い為である。

用意したのは、嵯峨野を初めて近代測量によって描き出した明治22年の地形図や、初の大縮尺図である大正11年の初版都市計画図等。

平安古道「千代の道」

ところで、「千代の古道」とは、平安初期以前に嵯峨野に通じていたとされる古道で、在原行平(弘仁9(818年〜寛平5(893)年)の古歌が初出だとされる。そして、それ以降、定家卿や後鳥羽院等の歌に詠み継がれててきた。

それらによると、嵯峨野北方の大覚寺北隣辺りにあった嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」へ通じていたとみられることが推察されるという。始点は不明だが、離宮との関連からみて、平安京か、そこから西にのびた道の分岐地が考えられる。

行平の時代既に「跡」と表現されていることから、嵯峨上皇の死後間もなくして廃滅に瀕したらしく、現在その跡を辿れる痕跡はない。推定されるルートも所説あり、そもそも文学上の記述にしか見られないものなので、実在はなく、概念的なものだったとする説もある。

一先ず主な推定路は下記の通りで、今回はそれらを辿りつつ、嵯峨野の古跡を巡ることとした。

1. 双ヶ岡南から常盤・広沢池を経て嵯峨院跡に至るルート(上図赤線)。
2. 太秦広隆寺前から大覚寺南に至るルート(同青線)。
3. 梅宮大社から現「千代ノ道町(旧字名・上街道)」「秋街道町」を経て大覚寺南に至るルート(同緑線)。

この他、鳴滝の中道町辺りからの広沢池経由のルート想定もあるが、明治図や元禄図に記載がないことと(道が廃滅しても部分痕跡が残る可能性が高い)、元より双ヶ岡(双ヶ丘)に阻まれて都との連絡が悪いことなどから省いた。


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初の自転車巡検は平安京端部から

前夜に予定を変更して、今朝は千本今出川の喫茶店で集合。皆で朝食をとりつつ、資料配布や打合せを行なって出発。

今回平会は初の自転車巡検。交通機関の都合に縛られることなく、自由に行動出来て好ましい限り。

そうして最初に訪れたのが、今日の開始地点に相応しい平安京西北端部。写真がそれで、現妙心寺境内から続く平地面が西方の「西の川」で途切れる辺り。

道は西の御室側に向かって急激に下がり、台地か整地面の西端であることがよくわかる。平安京の明瞭な西端遺構は判明していないようであるが、想いを馳せるには良い場所である。


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西の川と平安京側(右)の崖面

平安京東端に想いを馳せたあとは、御室の低地を南下して法金剛院(ほうこんごういん)に至る。双ヶ岡南東麓にある平安末期創建の古刹で、境内の裏山に古墳があり、南には遊猟地として知られた湿地が嘗て広がっていた。

今は寺の庭池として僅かに残るそれを見学して、往時の景観を想像する。戦後建設された新丸太町通や鉄道高架等が東西に横切る市街景となっているが、注意すると宅地の中などにも低地の様が窺えた。


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住宅地端に登拝口を覗かせる文徳天皇陵(推定地)

候補外ルートで嵯峨野入り

法金剛院からは、丸太町を西にして双ヶ岡西麓に入る。

個人的な千代の道最有力候補の、1の赤ルートの遡上も考えたが、商業地となっていたので、一先ず候補外の中道ルートを辿ることとした。

しかし、ここも比較的新しい感じの宅地となっており、風情には乏しかった。よって、道の写真を撮ることは早々に諦め、付近の古跡案内に注力することとした(笑)。

最初は文徳天皇陵。千代の道の跡が残っていたとみられる、平安初期の文徳帝の陵墓とされるが、築造形式・年代が合わず疑義が呈されている。

良く整備された長い参道を渡り、文徳池を経て陵前を参観。入口から距離・曲折があり、丘の突端を利用した豊かな緑と相まって、興趣ある風情を有している。


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浩々と池底を広げる、水のない広沢池

陵から中道ルートに戻って西進し、まもなく広沢池に到着。景色を得てただちに違和感が生じたのは、池の水が抜かれていたため。恒例の冬支度である。池端では、これまた恒例の池魚の直売も行われていた。

水はなけれど、浩々たる様が晴天に広がり心地よい。気温も上がってきた。

暫し皆で休息……。


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六ツ塚となった七ツ塚古墳

休息後、池畔北東部にあるという、平安期の遍照寺(へんしょうじ)遺構見学を試みるも、竹藪の迂回の面倒と本題ではない為、途中で断念。

その後、近くの田圃中に点在する嵯峨七ツ塚古墳群を見学。その名の通り、7つの古墳からなる古墳時代後期頃に造られた小古墳群で、写真はその内の1つ。


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同じく七ツ塚古墳の1つ(左の、松がある小丘)


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七ツ塚古墳近くの路傍で見つけた、加工を受けた石片?

とても軽く、断面に細かな積層もある為、木材かとも思われたが、硬さはあった。錐状のもので開けたとみられる穴の隣にも同様の穴跡が。詳細不明、存じの方がおられらば、ご教授願いたい。


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七ツ塚古墳の1つ

田に囲まれている為、近寄りがたいもの。この条件で、よくぞ千四五百年間姿を保ったものである。因みに、宅地として破壊されたもの(場所)も確認した。よって、現在は七ツ塚ではなく、六ツ塚のみの現存である。

これ以上、減らされないことを願うばかり。勿論、負担大きい地権者にも便宜が図られつつ……。


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水面に冬枯れの蓮のぞく大覚寺の池

七ツ塚から嵯峨野北辺の山際に移動し、山麓の陵や朝原山古墳(古墳時代後期)を見学。

そして、大覚寺の池畔にて、少し遅めの昼食を採った。既に上着の要らない陽気となり、一同暫し芝生上に寛ぎ、食べ、語らう。


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大覚寺古墳群

昼食後は、大覚寺南の大覚寺古墳群を見学。写真はその内の1つ、入道塚古墳。石室が露出し、あまり高さもないが、これも古墳時代後期のものという。

畦を伝い、なんとか近寄れた(笑)。


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大覚寺古墳群最南部にある狐塚古墳(古墳時代後期)

こちらは、円墳の体裁保っており、石室の状態も良好。


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広沢古墳群

大覚寺古墳群の次は広沢池近くに戻って、広沢古墳群を見学。写真はその一つである稲荷古墳(古墳時代後期)。名の通り、上部にお稲荷さんが祀られ、後代・現代の聖地と化している。


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広沢古墳群の1つ、広沢3号墳(古墳時代後期)

なんと、池前の児童公園内にあった。知らないとただの植え込みにしか見えないが、当時のものらしい。


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広隆寺ルート探りつつ最大古墳へ

さて、本題に戻り、広沢池南からのびる古道を辿って、2の青ルートを探る。途中、古い分岐で江戸期の道標を見つけ、前近代よりの街道であることを再確認したが、直接千代の道に繋がるようなものはなかった。

写真は道端の崖上にあった大型古墳。平安前期の皇族、仲野親王の高畠陵として宮内庁管理となっているが、古墳時代中期(5世紀末頃)築造とされる地域最古級のもの。変形台形型の変わった形で、大覚寺古墳群等にも同様がみられるという。


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巨石に圧倒、蛇塚古墳

太秦区域に入ったので、折角ならと、近くにある府内最大級の石室を持つとされる蛇塚古墳を見学することとなった。写真はその姿で、横長の巨石下部に見える白い枠は崩落防止用の鋼材である。

嘗ては全長75mの前方後円墳であったが、戦後破壊され石室のみが住宅街に残る。古墳時代後期の築造とみられ、被葬者は当時近隣に勢力を有した秦氏の首長とされる。

秦氏はこれまで見た古墳とも関連しているとみられる、古代嵯峨野を考える上で欠かせない氏族である。


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蛇塚古墳の石室内部

当初は周囲からのみの見学予定であったが、以前見学した参加者の1人が、手続きをしてくれて、幸運にも内部参観が叶った。


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蛇塚の石室(奥側)

天井の石は持ち去られたか。しかし、とんでもない巨石が使われている。正に圧倒の迫力。こんなものを何処からどうやって運んだのか。聞けば、この石室の規模は、政権中枢との関連が深いとされる奈良石舞台古墳に匹敵するものという。

それらのことから、地方豪族の所産とはとても思い難くなったのであった。秦氏関連ということで諸々決着されている観があるが、まだまだ謎は多いのかもしれない。


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千代ノ道町ルート探索

蛇塚見学後、近くを流れる西高瀬川に沿って西行し、3の緑ルート探索を始める。このルートは東西路が多い所説中、珍しく南北を想定するものである。

その根拠の1つになっているのが、「千代ノ道町」という地名。しかし、同地は戦前「上街道」と地図表記されており疑問が生じる。また、北隣に「秋街道」という別路を指すような地名もある為、南北連続した道というより、それぞれに東西方向の街道があった可能性も窺われるのである。

写真は千代ノ道町内にあった古墳、千代の道古墳。想定南北路よりかなり東よりにあり、規模も小さい。良好に残存するという円墳らしいが、マンション裏の駐車場に隣接し、ゴミも多く、荒廃した観がある。


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南北路を梅宮社近くまで南下して、また戻った。写真は、その途中の高田集落。他と違い古い町並み風情が残っている。


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南北推定路から見えた嵐山・亀山・愛宕山の夕景

古道の確証得ず
新たな南北支路説考察


北上し、そして最後に1の赤ルートの未見部分も走破。しかし、何れも市街化が著しく、千代の古道の確証を得ることは出来なかった。何せ、1200年近くも前の古道である。ある意味無理なのは致し方ないことと言える。

一応、その他の史料から、改めて(まあ軽く)考察してみた。初出の行平の和歌によると、古道は「嵯峨の山」の付近で、「芹川」の傍にその跡を留めていたという。これを厳密に解釈すると、中世以前に芹川の名があった現瀬戸川辺りにあったと思われる(鳥羽の芹川とする説もあるが、嵯峨とセットなのでそれはあり得まい)。

大正図(推定路図)左端に加筆字の「渡月橋」が見えるが、その橋の字の辺りで大堰川(桂川)に注ぐのが瀬戸川である。図では途中で切れているが、この河口辺りから大覚寺参道までの直線路を想定できる。

河口にある堤防上の東西路は、広隆寺を経て平安京二条大路と接続されていたとされる古道である。しかも二条大路は平安宮正面に接する基幹大路。広沢へ斜めに向かう道より迂遠となるが、行幸路としては最適かと思われるのである。

ということで、二条大路からの南北支路としての新たな千代の古道説を、一先ず挙げたいと思う。

自転車企画成功!

さて、一行の探索も終り、丁度日暮れに。清滝道の喫茶店にて一先ず休憩し、その後、中心市街へと戻り、参加者馴染みの中華屋にて打上げ夕食会に。そこは奇しくも千代の古道縁の二条通沿いであった。

初の自転車平会。広範に移動することが出来、中身濃い一日を過ごすことが出来た。自身としては予想以上の成功。また是非企画してみたい。

とまれ、皆さんお疲れ様でした。良い一日を有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2016年11月21日

臨時構会

逍遥雑記「鷹峯御土居堀遺構,北花ノ坊町御土居遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」

臨時平会開催

難儀していた仕事に一旦区切りがついた今日。偶然休みが重なった友人ら計3人で市内の遺跡巡りを行うこととなった。

前日急に決まったので、さしたる用意もなく他の人も誘えなかったが、ちょっとした平会開催となったのである。


上掲写真: 途中立ち寄った、聚楽第西外堀推定域に建つ洋館ギャラリーの外壁。亭主氏によると築100年程とのことだが、簡素な屋根と壁の板貼り等が現代的な印象を与える。元の軽妙さに経年の重みが加わった独特の雰囲気も興味深い。


逍遥雑記「京都市役所北、妙満寺遺構発掘現場,鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」

午前は所用中に河畔遺構一瞥

巡覧は午後からで、午前は残務処理や所用をこなす。

写真は、昼前に立ち寄った京都市役所から見た、庁舎北裏の発掘現場。先月紹介した寺町妙満寺の近世遺構である。

今月初めには、天明の大火(1788年)に焼け残ったと伝わる土蔵造りの祖師堂跡発見も報道されていた。


逍遥雑記「京都市役所北、妙満寺遺構発掘現場,鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
妙満寺遺構発掘現場拡大

連なるベルトコンベア下の遺構面には、切り石の基壇跡や堀跡らしき野面積の石垣があったが、詳細は不明。

興味深いのは、桃山期(16世紀末)以降の比較的新しい遺跡にも拘わらず、遺構面が深いこと。1.5m程あろうか。寺が西接した寺町通は、元東京極、即ち平安京整地面の東端なので元から土地が低く、近代以降に嵩上げされたのかもしれない。

つまり、賀茂川に続く河畔低地の名残か。事実、現存する寺町寺院の多くが、寺町通よりも下がった面に境内を展開させている。


逍遥雑記「鷹峯御土居堀遺構,北花ノ坊町御土居遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」

想定外の大工事で要害成す画期的新遺構

さて、午後から友人らと待ち合せて向かったのは、市街北部の鷹峯(たかがみね)。そこで発見された御土居堀(おどいぼり)遺構を見る予定であった。

御土居掘は、天正19(1591)年に、豊臣秀吉が洛中(当時の京都市街地)を取囲むように構築した防壁と水堀。総幅約40m、総延長22.5kmにも及ぶ大施設で、近代以降、特に戦後急速に失われた。その全容を探らんと、以前平会で痕跡を巡ったが、詳細はその記事を参照頂きたい。

今回発見されたのは、削平・埋没させられた御土居の胴部とそれに接する堀。御土居の基底部は他所でもよく見つかるが、今回のものは、犬走(いぬばしり)を伴った数mの高さを持つもの。その最大の特徴は、念入りに構築された急傾斜の姿であった。

それを以て、埋蔵文化財研究所は、御土居が防御目的に構築された可能性が高いという見解を示したのである。それは、これまで様々な説が出されていた研究史上、画期的なことであった。

私も当初から軍事目的、即ち城塞(御土居囲繞範囲中心の聚楽第の総構(そうがまえ。防御外郭))説を採っていた為、実見したかったのである。

写真は対面叶ったその現物。急斜の土崖が御土居で、その手前下が堀となる。確かに鋭い傾斜。急斜上の段は犬走で、崩落防止や防戦の足掛かり等とされた。本来の御土居はその上部に更に続き、総高9m程あったのではないかと見られ、幅も18m程あったと推定されるという。

鷹峯台地西部の緩傾斜段丘に盛り土整形して45度の急斜化しているらしい。従来は段丘上部に盛り土しただけと考えられていたので、予想外の大工事とのこと。

今日のメンツは皆以前の平会参加者なので、一同興味深く見学した。


逍遥雑記「鷹峯御土居堀遺構,北花ノ坊町御土居遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
北花ノ坊町遺構を東より見る

即ち、削平された御土居上面部に当たる。ここから更に数mの高さがあったのなら、段丘下との高低差は中々なものに。

因みに、段丘下の家屋向こう100m程の場所に紙屋川が並走する。それを利用せず、別個に水堀が構築されていることにも、防御的用心が窺える。


逍遥雑記「鷹峯御土居堀遺構,北花ノ坊町御土居遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
同じく東側から

発掘前にあった施設の地面と御土居上面との関係が観察できる。御土居上部を削平し、その上に灰色の土を載せて造成されたのであろう。

こうして、破壊されながらも、御土居は近現代施設の地盤として利用されていたのである。


逍遥雑記「鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
聚楽第西外堀跡地とみられる森に続く路地と古い長屋群

聚楽第関連地へ

御土居の次は、それに関連する聚楽第関係地へ。特に最近の発見があった訳ではないが、移動の途中なので寄ることにした。


逍遥雑記「鷹峯御土居堀遺構,北花ノ坊町御土居遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
聚楽第西外堀跡地入口にある古い家屋

元は旧華族一柳(ひとつやなぎ)家が建てたものだという。


逍遥雑記「鷹峯御土居堀遺構,北花ノ坊町御土居遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
賑やかな大路・千本通裏とは思えない西外堀跡地

そして、旧一柳氏家屋横の土道から、堀跡を見学。そのものの姿はないが、森なかに窪地や土壇状のものが残る。中途半端に埋められた痕跡か。

10年程前に新聞随筆の取材で訪れ堀跡を直感したが、江戸期等の絵図や復元図になく、本丸推定地よりも遠かった為、当時は言及すらされない場所であった。

しかし、その後の調査により付近で掘肩等が検出され、堀跡である可能性が高くなったのである。


逍遥雑記「鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
古い平屋が建ち並ぶ、街なかの不自然な窪地

途中、森なかの洋館ギャラリーを見学し、その後、友人の1人が知る、近くの窪地にも行ってみた。なるほど、確かに周囲の土地より1m程窪んでおり、階段も付けられている。しかも、その北向こうには先ほどの森が……。

あとで調べたところでは、この辺りは西外堀推定地の南端辺りで、森なかのものが続いていたとみられるのであった。

車も通れない狭小路地の奥にあってこれまで気づかなかった為、個人的な新発見であった。


逍遥雑記「鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
聚楽第南外堀跡と目されてきた松林寺の窪地

続いて向かったのは、南外堀跡地と推定される松林寺境内。鷹峯・西陣台地の末端で、嘗ての水源地帯とされる出水通(でみずどおり)南の立地は正にそれに適うものであった。

境内には幅50m、長さ100m、深さ数mにも及ぶ矩形の窪地があり、正しく大堀の痕跡を思わせた。しかし、意外にも近年の調査では、その想像が揺らいでいるという。

しかし、こんな街なかに、人造と思われるこのような窪地があるのも不自然である。まあ、今後の調べを待つほかあるまい。


逍遥雑記「鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
松林寺の窪地を北より見る

車裏の墓地が最も低くなっている。排水は大丈夫なのであろうか。


逍遥雑記「鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」

最後は町衆の総構

松林寺を後にして本日最後の遺構、上京総構遺構に向かう。場所は聚楽跡地を東進した、京都府庁北側である。

到着時には既に暗くなり始めていたが、塀の隙間より見るそれは明瞭であった。写真中央の溝が水堀で、手前側に土塁や築地があったようである。

上京総構は、応仁の乱で荒廃した京が、上京と下京で復興した際にそれぞれ構築された都市防壁。これまで絵図や文献上には記載されていたが、現物が発見されたのは初めてであった。

その規模は幅5m、深さ3.5mで、東西75mの長さで発見されたという。構であることには間違いなく、更に続くとみられるその規模から、上京全体を囲っていた総構の可能性があるという。

聚楽第構築に伴う大名屋敷の建設で埋められたとみられるので、先ほどの遺構より古いものである。秀吉による京都改造以前の遺構は少なく、その様子もわからないことが多いので、興味深い遺構である。


逍遥雑記「鷹峯,北花ノ坊町御土居堀遺構,犬走付の急峻な土塁,聚楽第西外堀推察地の路地や窪地,旧一柳邸,聚楽第南外堀推定地、松林寺とその墓地,京都府庁北側上京総構遺構」
同じく上京総構遺構。前日通りかかった際、撮っておいたもの

以上の見学を以て臨時平会は終了。

出来れば、最近伏見で見つかった幻の豊臣城塞・指月城(しげつじょう。初代伏見城)の石垣遺構も見たかったのであるが、自転車では距離があるため、まあ仕方あるまい。

とまれ、急な開催となったが、よい巡検が出来た。皆さん、お疲れ様でした!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2014年03月23日

御土居春巡

平会「御土居掘遺構,大宮御土居の「史跡御土居」石碑」

史跡「御土居掘」を探る

百花が咲き競う「花の春」4月。その目前たる週末好日に京都市街にて、久々の平会(ひらかい)を開催した。

毎度の解説で申し訳ないが、山ではなく平地を巡る会なので「平会」である。一応初読の人の為に……。その平会、今回は京都市街に残る史跡「御土居掘(おどいぼり)」を対象とすることとなった。

随分前から、やりたいと思ってはいた御土居掘巡り。少々ブーム的な時期もあり、敢て避けていたという面もあったが、今回は最近御土居に興味を持った人々から促されての開催となった。満を持して、といえば大袈裟になるが、個人的にも喜ばしい企画。さて結果や如何(いかん)。

幻の戦国大遺構

御土居掘は、天正19(1591)年に、かの戦国の覇者、豊臣秀吉が洛中(当時の京都市街地)を取囲むように構築した防壁。土塁とその外側に並置された水濠を伴ったもので、総幅約40m、総延長22.5kmにも及ぶ大施設であった。

しかし、その規模に比して、その設置目的についてはよく判っておらず、軍事用途や洪水防止、美観目的等々の諸説が唱えられている。ただ、古くから総構(そうがまえ)や総曲輪(そうぐるわ)等の、軍事名称で呼ばれていたので、外城壁として扱われた可能性は高いと思われる。

為に、古代から完全な羅城(都城城壁)設置が発見されていない日本において、最初で最後の、それとなる可能性もある、貴重なものでもあった。しかし、近世(江戸期)まで大半が保全されたそれも、近代以降破壊が進み、更に戦後の乱開発により、残存は僅かとなってしまった。

一時は地元でも知らない人が多かった、幻の戦国大遺構。今日は資料片手に、皆とその痕跡を辿ることとなった。今も存在する場所と、そして消滅し、その幻影だけを追う場所と……。


上掲写真: 御土居掘の最大残存遺構「大宮御土居」跡に建つ、「史跡御土居」の石碑(京都市北区)。土居(土塁)の切れ目(古い破壊跡?)部分にあり、昭和5(1930)年の史跡指定に際して設置されたものとみられる。堀跡から流れ込む湧水の影響に因り沈降したのか、埋もれた遺構、御土居掘を象徴するような姿である。


御土居掘図
御土居掘全図(京都市文化観光局「史跡御土居」〈1991〉より転載)。赤い線が、嘗て存在した御土居掘全線。幅約20m深さ約4mの水濠と、同約20m高さ約5mの土居が、総延長約22.5kmという大規模で構築されていた。その囲繞範囲は、京域である市街は疎か、紫野や壬生といった耕地・農村や西陣・鷹峯台地も含めた実に広大なもの。当時の記録によると、天正19年1月より工事が始まり、同4月には「大略」完成するという、信じ難い速度で為されたという。


御土居掘簡略断面図
御土居掘簡略断面図(大正期の調査図を基に筆者作成)。犬走は場所により洛中側に見られる例もある。土居上には、構築当初より竹が密植されていたという。土留めか防御用か定かではないが、江戸期には随時公儀によって伐採され、一般への払下げも行われていたという。


平会「御土居掘遺構,加茂川中学近くに残る御土居」
加茂川中学付近に残る御土居東北部遺構。整形はされているのではなかろうか

遺構少ない東部より巡検開始

朝9時に市街東部の河原町丸太町に集合して御土居掘巡検を開始。ここでいう「巡検」とは、江戸期に施設管理の為置かれた「土居奉行」が施設を巡察した意等とは違い、実地踏査・観察の意。歴史地理学等に於ける専門用語的語句である。

集合場所を南北に貫く、繁華街路たる河原町通にも、嘗てかなりの区間、御土居掘が存在したが、江戸前期に廃された為、殆ど現存しない。寛文10(1670)年、賀茂川際に寛文新堤という堤防が築かれ、そちらに役割が移された為とみられている。

東部唯一の廬山寺遺構

その中で唯一、寺の私有地(築山?)として今に残った廬山寺遺構(上京区)を、先ずは観察。墓地端に低く残る小山状のそれを、河原町通とを隔てるフェンス越しにみる。堀もなく、残高低いその姿を説明しても、皆あまりピンとこないようである。改変が激しい為か、致し方あるまい。ただ、馴染みの、こんな路傍に貴重な遺構があったことには、一同感心。

廬山寺は寺町通に並ぶ寺院群の一つ。御土居掘は、それら寺院の敷地東端(洛外側)に連なっていた。よく知られるように、寺町は、洛中防衛の為、秀吉により寺社が強制集築されて生じた地区。非常時に、防火・大型の公共施設たる寺社の軍事転用を狙ったものである。

その状況を考えると、やはり御土居掘の軍略的設置を思わざるを得ない。因みに、古い絵図にはこの区間に堀の描写がないことから、当初より土居のみの建造だと定説化されているが、私は上記の理由などから、実は水濠、もしくは空堀があったのではないかとみている。

賀茂川を頼るには遠く、または新堤完成以前の乱流・広河原状況では水深も浅く、防御性も著しく下がったであろう。天下を制したとはいえ、未だ四方油断ならぬ状況であった豊臣時代。御所にも近いこの場所の防御が片手落ちの状況だったとは考え難い。

先生差置いて

廬山寺をあとにして、河原町通を歩いて北上。そして、出町柳の枡形(ますがた)商店街辺りで、若狭・北陸方面への出口であったという「大原口(おおはらぐち)」跡を見学。

市営駐車場やらマンションやらの再開発で、御土居を含め、古(いにしえ)の痕跡は一切ないが、古図などと照合しつつ解説。商店街が寺町にあった大寺「立本寺」跡に開かれた通にあることや、名の由来となった防御的屈曲路、枡形(凹形路)が商店街の東前、御土居と新堤との間にあったこと等々である。

言うまでもなく、御土居掘を含めた解説は大半私の役割であるが、今回は少々気恥ずかしい。それは、地元に、その研究の第一人者で、保存啓発活動をされている中村武生氏がおられるからである。先生差置いて、の気分か。まあ、その昔、授業や巡検で氏より直接教えを受けた身なので、少しは許して頂けよう(笑)。

東北部遺構

大原口よりバスに乗り、更に北へ。着いたのは、遺構の東北部であった。堀川通が、北西から東南へと流れる賀茂川に突き当たる辺りである(北区)。開削されたその跡を跨ぐ堀川通にも大きな起伏が見られるのが、車中からでも解る。

近くの、加茂川中学校の隣には御土居掘の東北端である、への字形に屈曲した遺構も残存している。何れも雑草が払われ、美麗な外観となっているが、高さが低く、近年の改変が窺われた。また、堀跡を継承した暗渠河川の存在も確認できた。

この辺りの御土居は、加茂川の溢水に対する堤防的役割もあったとされる。事実、現在のような河川改修が行われる前の昭和初期に、大雨による溢水の市街浸入を防いだという。


平会「御土居掘遺構」
加茂川中学付近の遺構横に続く、暗渠化された堀跡継承河川。この辺りは、東北端付近にしか遺構残存はないが、町界や道路、家の区画等にその痕跡が残る。近年の開発による景観急変の証でもある。


平会「御土居掘遺構,大宮交通公園ゴーカート」

北の遺構残る大宮交通公園

一行は、御土居掘西北端を目指し、堀跡暗渠等を辿りながら西へ向かう。新旧の地形図を確認しながら、今はなき遺構をなぞった。そして、園内に遺構が残る大宮交通公園に立ち寄る。

写真はその時のもの。「ん?遊園地でただ遊んでいる様(さま)ではないか……」。確かに。これは園内のゴーカートに参加者のT君が乗車したもの。

実は、偶々そこに居合わせた他家のお母さんに、男の子との同乗を依頼されたのである。当初頼まれたのは、なんと私(笑)。しかし、気恥ずかしい為、車好きのT君にバトンタッチとなった。

T君は、当初個人的にゴーカートに乗らんとするも「大人はダメ」との拒絶を受けたので実に嬉しげ。対するお母さんも、自分は怖くて乗れず、子供の単独乗車は禁止されていたので、助かり顔であった。双方、利害一致!である(笑)。

もとい、これでは遊園地での出来事紹介となってしまう(笑)。交通公園内の遺構の姿は、開催告知下部の写真を参照頂きたい。


平会「御土居掘遺構,玄琢下より見た大宮御土居」

壮観、大宮御土居

続いて、更に西に移動し、鷹峯台地の縁に至る。そこで現存最大規模の遺構と出会う。北区大宮にある、通称「大宮御土居」である。写真は、東端より見たその姿。道路からの残高は10m程、全長は200m程か。その壮観に、一同声をあげる。

道路は鷹峯の寺院地区へ通じる古道を継承したもの。恐らくは、江戸期以前に切り崩された箇所かとみられる。右端の芝地は堀跡。武者走り(犬走)にも見えるカーブミラー下辺りの窪みについては不詳。御土居掘は、ここから西へ向かって、一気に台地に乗り上げる。

原初の御土居掘の姿を濃厚に想像することが出来る、貴重な遺構である。


平会「御土居掘遺構,西野山児童公園より見た大宮御土居」
大宮御土居西端。左が北(洛外)で、鷹峯台地を切り崩して造られた堀跡と土居の姿がよく解る。台地上だけあって、他所に比してかなり高い場所にあるが、抜かりなく造られている。往時、相当な労力が投じられたであろう。高所だが、付近に湧水があり、水濠が実現できたことにも感心。

大宮御土居には許可なく入ることが出来ないので(私は、昔講義で中村先生共々縦走?したことがある)、隣接する招善寺より部分見学したり、西端近くの西野山児童公園から回り込んだりして見学した。


平会「御土居掘遺構,住居表示に残る御土居跡」

消えども名と跡残す

大宮御土居をあとにして、また西へ向かう。近年開発された宅地の中、その痕跡を辿りつつ。

写真は、そこにあった住居表示。町名はまさしく「南旧土居町」。上下2本の横路に挟まれて家屋が並ぶが、そこに御土居があった。地図に描写はないが、その下(北側)に隣接する同幅の「北土居町」に水濠があった。

遺構は消失しても、地名や道路・家屋にその痕跡が残る好例である。


平会「御土居掘遺構,鷹峯街道、杉坂口にある西北御土居遺構」

古の長坂口?
西北端遺構


住居表示のすぐ西側は鷹峯街道であった。中世より存在するとされる杉坂越え(山陰・西国方面行)の道、「長坂道(杉坂)」の候補路である。

外地と繋がる重要な街道故、ここには御土居の切れ目、即ち「口」があった。よって、ここは史料上に見られる「長坂口」の有力候補地となっている。番屋があり、都への出入りを制御する関所のような存在だったことも判明している。

但し、口があったことが確実に判明しているのは江戸期以降のこと。建設当初である豊臣期にそれがあったどうかは不明である。街道は前近代まで、これより上手(洛外)で、わざわざ台地を降りて、山越え区間と接続していた。これらのことから、個人的にも当初より口があったことには懐疑的である。

南北に走る街道の西には御土居掘の遺構が残存していた。写真がその姿である。以前隣接していた飲食店等がなくなり、周囲は公園的に整備されていた。石による土留め等の改変も多く見られれたが、残高は5m程もあって、水濠跡も確認出来た。

ここは御土居掘の西北端にあたる要地。残存が見られることは喜ばしい。


平会「御土居掘遺構,西北部遺構向かいにある和菓子店「光悦堂」」
西北部遺構の向かいにある和菓子店「光悦堂」。実はここも御土居の跡。

花より団子
餅は2度美味い


要地見学もそこそこに、一部の参加者が早速向かいの店を覗いている。店の名は「光悦堂」なる菓舗。まさに花より団子か。まあ、昼も近いので許そう(笑)。


平会「御土居掘遺構,光悦堂の看板商品「御土居餅」。」
光悦堂の看板商品「御土居餅」。地元の文物に根差した商品で、由来なども記されている素晴らしい御菓子。有難くも、お裾分けが回ってきたので、早速賞味。軟らかく、美味い!


平会「御土居掘遺構,西北部遺構に入り見学。」

有難く御土居餅を頂きつつ、遺構手前の空き地で小休止していると、参加者から呼び声が……。

なんと、遺構の出入り管理を委託されている光悦堂の人たちが、入口の鍵を貸してくれるという。外からしか見れない遺構への、接近が叶ったのである。ご好意に深謝し、見学者台帳に代表記入して早速柵内に入る。ああ、餅は2度美味かった(笑)。

御土居掘最高所
謎のヒント秘めるか


写真は、御土居上部で見学中の平会一行の姿。全長約50m、上部幅は5m程か、見晴しが良く、番兵にでもなった気分である。往時より規模が減じているとはいえ、やはりその壮大を想わずにはいられない。

なお、関連の史資料によれば、台地端(崖)に接する西北端部は、堀諸共崩落しているという。よって南折するL字の様は見ることは出来ない。

標高130mを超えるここは、御土居掘遺構の最高所にあたる。建設に非常な困難が伴い、往時は疎か最近まで辺鄙だったここまでその囲繞が及んでいたことは、謎である建設意図を知る上の、重要なヒントが秘められているのではないか、と思わされた。


平会「御土居掘遺構,違法破壊による遺構残骸」
違法破壊による遺構残骸(北区柏野)

迫力ある台地際遺構にて昼食

西北端遺構を後にして鷹峯街道を南へ下る。御土居が構築されていた台地西端に沿っているので、個人庭等に残る幾つかの遺構見学が期待できた。しかし今回は確認出来ず。外から見えなくなったのか、もしくは破壊されたのであろうか。

仕方なく、遺構を利用して設けられた「御土居公園」まで行き、在りし日のその姿を求めた。僅かな残存だが、ここも台地際に構築されているので、崖下の紙屋川との高低差が為す、迫力ある姿を想像することが出来た。

御土居公園にて遅くなった昼休憩を実施。出来れば、先程の西北部で済ませたかったが、飲食無用の決りのため叶わなかった。昼食調達に出かけた東京在住のY君が中々戻らない、といったこともあったが、まあ、一応皆寛げて次の移動への力を養えた。


違法破壊の警鐘的遺構

食後、また御土居掘跡に沿って南下する。全体の位置で言うと、西側のラインを上(北)から辿る。市街化が強まる為、遺構の残存は殆ど見られない。

写真はその中で遭遇した遺構残骸。何故残骸かと言うと、開発業者に違法破壊されたものが中止命令により適当に戻されたものであるという。残念だが、手がつけられない筈の国史跡が、簡単に破壊される恐れがあるという、警鐘的存在とも言える。

中村先生によると、類似の破壊が幾つもあるという。何れも戦後、しかも近年のことである。道徳的問題でもあるが、遺構地権者に対する行政からの庇護の無さも原因であるという。


平会「御土居掘遺構,平野御土居」

美形御土居と石佛出土の謎

南下して暫く、「美形」の御土居と出会った。写真の平野御土居である。住宅街の中に隠れるように残存しているが、そこそこの規模があり、整備されていることと相俟って、存在感がある。

高さ5m程、全長は50m程か。見た通り、道路際で、整備されている為、観察しやすい。土居部分だけで言えば、最も解りやすい遺構ではなかろうか。但し、近年の整備と共に整形されているらしく、注意が必要な存在でもある。

写真左下に無数の地蔵(石佛)が並んでいるのが見えるが、これも後づけ(置き)。ただ、付近で御土居が壊された際に掘り出された関連遺物ではある。実はここに限らず、御土居の破壊に伴う石佛の大量出土の例(もしくは伝承)は多い。

有名な信長二条城と同様、神佛畏れず建材として使用したのか。または、逆に宗教的意味合いがあったのか。破壊の速度に研究が追いつかなかった為、どの様に埋蔵されているのかさえ未だ判明していない。御土居掘の謎の一つと言えよう。

構築当初よりの「口」

ところで、この遺構の手前(北)には寺之内通がある。豊臣時代の市街北限で、東部の寺町同様、秀吉の命により寺院が集められた地区という。小路だが往時は重要な街路であったこの寺之内。実はそれと御土居掘の接点には構築当初から口があった可能性が高いという稀少な場所でもあった。

それは、秀吉自身が寺之内から「大堀」と化した紙屋川にかかる「高橋」を視察にきたという一次史料が存在するからである。寺之内傍の堀上に橋があったのなら、そこの御土居に口があったことが確実視される。

構築当初、御土居掘には7〜10箇所程の口があったとされるが、正確な場所を含め詳しく判っていない。史料記載と、橋の存在という物理理由により確実視されるのは、ここと三条(粟田口)のみ、なのである。

但し、ここの口の名称については不詳である。私は、西郊鏡石通等を経由した、長坂口があった可能性も考えている。


平会「御土居掘遺構,壺井」

現代に再利用
校内御土居と御土居の袖


平野御土居のすぐ南は、北野天満宮。その境内には紙屋川沿いに遺構が残っている。有料域で、梅観賞の人も多い為、外から窺うのみとした。天満宮の南は、台地の段差も無くなり完全な市街地となる。本来なら紙屋川沿いに御土居が続く筈であるが、廃滅している為、その跡のみ追う。

次に現れる遺構は、北野中学校内に残るもの(右京区)。校庭端のプール横にある小山である。実は、プールはその昔堀跡を利用して造られたといい、傍らの御土居はその観覧席として残されたという。改変はされているが、現代に再利用されている興味深い例である。

残念ながら今回は塀に阻まれ観ることが出来なかったが、参加者に同校出身者がいたので、共に他の人らに状況を解説した。

ここの御土居は南北ではなく、東西向きにある。その理由は、御土居掘がこの区間だけ、紙屋川の西に張り出していた為である。研究者の間で「御土居の袖」と呼ばれる箇所である。

張り出していた理由は判らない。関連寺院や水源の取込み、防御目的等々の諸説があり、そもそも後代の改造を疑う意見もある。私は御土居掘の囲繞域の中心で、司令塔的な聚楽第の真西に当ることから、防御強化を狙った「出丸」の一種ではないかとみている。

写真は「御土居の袖」の南下(洛外)近くで遭遇した「壺井」(右京区)。今は枯れてしまったようだが、嘗ての、この辺りの水資源の豊富さを証するような存在か。この事は、袖区間の堀水の事とも関連しよう。但しこの泉は、近くの西土手刑場へ向かう罪人が最後に飲まされた水という、少々暗い伝承を持つ。

この他にも、堀跡を継承した佐井通が影響した地面の窪みや、御土居跡を継承した同幅の児童公園や宅地段差等が観察出来た。


平会「御土居掘遺構,市五郎大明神遺構」

信仰対象として残存

「御土居の袖」を離れ、南下を続ける。市街地の小路をゆくが、その名も「西土居通」。御土居掘跡の西に沿う通である。もはや通の名のみで、往時を想わせるものは何もないが、やがて、いわくありげな場所が。写真の「市五郎大明神」という社である。

並ぶ鳥居辺りが堀跡、そして祠がたつ奥の森に高さ数m、長さ40m程の御土居が残存する。地元の信仰対象として残存した貴重な例である。早速、その徳を拝しつつ参観させてもらう。祠等の多くの造作物と、鬱蒼たる雑木に囲まれるが、確かにそこに御土居が横たわっていた。

北野中学遺構より南の西部と南部地区では、ここと四条辺りの民家庭に残るものが現存する。よって、比較的気軽に見学できるのはここのみ。元は(近代まで)、数キロにも渡って存在したにも拘わらず……。


平会「御土居掘遺構,市五郎大明神遺構」
市五郎大明神の境内南端。通に沿い並ぶ土留めの石組みに、土塁の存在が窺える。


平会「御土居掘遺構,市バス停留所「御土居」」

一気に南部へ
御土居停留所


市五郎大明神からは市バスに乗り、一気に南下して九条通は東寺に。そこにて、100年程前に撮られた東寺の五重塔と御土居掘の姿等を見つつ、暫し往時を偲ぶ。在りし日の御土居掘は、東寺を囲うように南端を成していた。

その後、自転車参加組の再合流を待って、東寺西側に在る、とあるバス停まで移動した。写真の場所である。覆いも何もない停留であるが、その名に注目。ズバリ「御土居」である。

この区間の御土居掘が1世紀前以降、何時頃廃滅したのかは定かではないが、停留の名に残ったのであった。周囲には、もはや見るべきものは何もないが、記念碑的に見学した。


平会「御土居掘遺構,市バス停留所「御土居」付近の御土居跡にたつ町家群」
往時の面影は何もない「御土居停」付近だが、史資料と照合すれば浮かび上がる痕跡はあった。それが、この町家の並び。前の路地と家屋背後の次の路地までの間に御土居掘があった。丁度東の土塁側を見ているので、町家の高さにその姿を想像出来なくもない。

探索終了。1日で殆どを巡る

御土居停の見学を以て、本日の探索は終了。本来は最後に東南部の枳殻邸(渉成園)という庭園内の伝承遺構見学も考えていたが、閉門が早い為、割愛した。

枳殻邸付近は、その造成(江戸初期)の為に御土居掘の付替えが行われたことが判明している稀有な場所。そして、豊臣期のものが、園内の築山に残ると伝承され、その形状と向きからも信憑性が注目されている。興味深い場所であるが、またの機会にということに。それでも、残存する遺構の殆どを、今日1日で回ることが出来たので、喜ばしい限り。

さて、御土居停を後にして、帰途の為のバス停まで移動。その途上、おまけ的に羅城門跡地等も見学した。御土居掘に比して全国的知名度の高いそれとの急な出会いに、東京のY君などは少々興奮。

そして、皆で京都駅近くまで移動して、暫し喫茶休憩。その後、一旦解散し、希望者、可能者での打上げにて会を締めくくったのであった。皆さん、長距離の移動お疲れ様でした。有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2011年02月13日

続大和探墳

平会「柳本古墳群,渋谷向山古墳,奈良,天理,柳本」

延長番外編の平会。山辺へ

一旦終了するも、列車の一時運休の為その復旧時間まで延長されることになった「平会」。向かうこととなったのは、「山辺(やまのべ)」方面であった。山辺は、奈良盆地東部の山麓地域のこと。先程立寄った穴師地区もそこに含まれ、日本最古の道とも称される「山辺の道」が通過する地域でもあった。

今回はその山辺の、柳本地区の古墳群を巡ることとした。巻向がある桜井市に北接する天理市のそこには、やや時代が下るものの、やはり大型かつ重要な遺構が数多く残存していたからである。元来の目的地ではないが、番外として楽しむ山辺編の開始である。

写真はその中で、最初に見学した「渋谷向山古墳」。墳丘全長は箸墓古墳を上回る300m超という、山麓に築かれた巨大墳墓である。推定築年は箸墓から半世紀以上過ぎた4世紀後半。纒向古墳群より「新しい」とはいえ、この21世紀の現代まで現存するものとしては恐るべき古さを有している。


平会「柳本古墳群,渋谷向山古墳,奈良,天理,柳本」

渋谷向山古墳の北東周濠部。

古墳周囲には周濠の良好な残存が見られた。ただ、その幅は墳丘規模に比して狭く、この時代の「流行」たるものを窺わせる。また、その立地上傾斜が強い為、堰堤で最大7段(消失部を含めると8段か)に区切って水を湛えるという、特異な造りとなっている。

写真は正にその様子を捉えたもので、左の墳丘(森)に沿って、堰堤毎に水面が下がってゆくのが見える。古いものにも拘らず、良く手入れが施されているのは、ここが「景行天皇陵」として宮内庁に管理されているため。しかし、その書陵部による報告では、堰堤の幾つかは建造当初のものであることが判明しているという。

「渡堤」とも呼ばれる堰堤の存在は、墳丘に人を寄せつけないという、水濠の役割を著しく低下させるものである。それを冒す方法を以て敢えて水を周囲に巡らせている、ということは、水を巡らせること自体に、何か特別な意義があったことを示唆している様に感じられた。


平会「柳本古墳群,渋谷向山古墳,陪塚,奈良,天理,柳本」

従属的ながら厳重管理の「陪塚」

山麓の田圃中に続く「山辺の道」をゆく参加者と、渋谷向山古墳東方近くに残存するその陪塚(ばいちょう)。

陪塚とは、大型古墳に関連して造られた小古墳。主墳の親族や臣下、または副葬品等の埋葬に用いられたとされる従属的は古墳である。写真の陪塚は、景行天皇陵関連の「陪塚ろ号」と称されるもの。小規模ながら、宮内庁管轄として門や柵が巡らされて厳重に管理されている。地味ながら、中々興味深い存在。


平会「柳本古墳群,行燈山古墳,奈良,天理,柳本」

半蔵門的美麗さ「行燈山古墳」

谷地を越え北方の山麓に現れた「行燈山古墳」。

渋谷向山を過ぎ、山辺の道を北上する。一旦谷地に下り、そしてまた山麓田圃中に巨墳が現れる。同じく宮内庁治定陵墓「行燈山古墳」である。墳丘全長は240m余り、渋谷向山同様に周囲に渡堤式の水濠を持つ。ただ、その建造年は、渋谷向山より古く、4世紀前半頃と推定されている。 

他陵と同じく、科学的根拠に乏しい比定作業により崇神天皇陵とされているが、その規模等から、大王(おおきみ)級の墳墓であろうということには、疑いは無いのではないかと思われた。


平会「柳本古墳群,渋谷向山古墳,奈良,天理,柳本」

行燈山古墳を西北端より見る。

前方部の森の手前に開る(はだかる)長大な土壇は周濠の堤。高さ共々、それ自体がかなりの規模といえよう。この古墳の周濠は渋谷向山のそれに比して段数が少ないが、ひょっとすると、溜池の機能を持たせる(強化させる)為、最低地側のここをより高くするなどの改変を施し、段数を変更しているのかもしれない。

堤表面の芝生と、その上部に植えられた松並木の美麗さに感心。恰も「半蔵門」辺りの皇居(旧江戸城)の風情を彷彿させるものであった。宮内庁特有の管理・手入れがそうさせたのであろうか。


平会「柳本古墳群,行燈山古墳,アンド山古墳,奈良,天理,柳本」

行燈山古墳の西北端近くの田圃中に残存する、その陪塚。

先程の「ろ号」墳に比して、こちらは前方後円墳の形態をほぼ完全に保存している。その墳丘規模も全長約120mと大型である。写真はその後円部にあたるが、木立の中からその段差が良く観察出来る(ただし、それが建造当初の段差か、後の改変等に因るものかどうかは勿論不明)。

名称は「アンド山古墳」。何故か主墳の「行燈山」と同じ読みである。前方部中央前にある礼拝所(写真左端に見える周濠堤辺り)に接する参道南側には、対的存在と思われる陪塚「南アンド山古墳」も存在する。宮内庁管轄ながら、写真に見る通り、何故か柵等の入域制御が一切見られないのも、謎である。


平会「柳本古墳群,黒塚古墳,奈良,天理,柳本」

纒向古墳群に並ぶ重要古墓「黒塚古墳」

さて、列車復旧の時間も迫ってきたので、行燈山古墳から山辺を下り、駅がある西方街区に向かう。その途中、最後の見学場所として立寄ったのが、写真の黒塚古墳である。この古墳も、街区に在りながら前方後円墳としての形状や周濠を良く保存した存在であった。

墳丘の全長は132m。築年は、3世紀後半から4世紀前半頃とされ、先程の山辺の陵墓群より纒向古墳群の世代に入る。中世以降、城郭や大名陣屋として使用された為、改変も受けたが、結果的にそれらにより周濠等が保存されたようでもある。

黒塚古墳は陵墓指定を受けていない為、かなり詳細な学術調査を受けている。それ拠ると、長大な竪穴式石室が発掘され、卑弥呼論争で有名な「三角縁神獣鏡」が大量に発見されたという。正に纒向古墳群に並ぶ重要な古墓といえよう。それらの成果は、古墳に隣接して設けられた豪奢な展示館にて公開されていた。勿論、一同見学。

「卑弥呼」名称のフライング的使用へ

しかし、ここで1つ気になることが……。重要な発見に対し、展示館まで新設して顕彰する天理市の意気込みには頷けるが、館内やその印刷物に「卑弥呼の里」と明記するのは如何なものか。卑弥呼との関連が確かになった遺構は未だ存在しない筈だからである。

そういえば桜井市も、纒向遺跡に因んでか、同様の文言を使用し、何と「ひみこちゃん」なるキャラクターまで用意して広報に励んでいる。史学会を代表する者でも何でもないが、お偉方が何も言っていないようなので、敢えて言わせてもらおう。

「これらの文言や図案使用には、何ら科学的根拠はございません(笑)」。


平会「奈良,天理,柳本駅,入線する奈良行き列車」

復旧列車来る。平会終了

さて、散策可能な黒塚古墳の墳丘上を見学しつつ過ぎ、柳本の住宅街を抜けて柳本駅に到着した。時は16時半過ぎ。ほどなく、復旧した奈良駅方面行きの列車がホームに現れ、一同乗車したのであった。これにて平会終了。

その後、京都市内は河原町三条付近の飲食店に希望者が集まり打上げ。充実の1日を終えたのであった。皆さん、寒い中お疲れ様でした!
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

大和探墳

平会「纒向遺跡,纏向,箸墓古墳,ホケノ山古墳,珠城山古墳,纒向珠城宮,石塚古墳,勝山古墳,矢塚古墳,東田大塚古墳,柳本古墳群,渋谷向山古墳,陪塚,行燈山古墳,アンド山古墳,黒塚古墳,奈良,三輪,巻向,天理,柳本」

今年初回の記念的企画開催

2月の連休最終日、久々の「平会(ひらかい)」が行われた。場所は前回と同じく奈良。「環濠集落」という、中世の痕跡を探った前回とは異なり、今回は、古墳とその関連遺構を巡るという、古代痕跡探訪の企画であった。

2月上旬という最寒気候の中、そして日程変更に因り告知が直前となった為、参加は中核メンバーに限られたが、今年初回の記念的企画として、意気盛んに臨んだのであった。


上掲写真: 桜井市箸中地区を横切る旧国鉄桜井線(現、万葉まほろば線)。奈良盆地東南山麓という郊外風情溢れる地であるが、大規模かつ重要な古代遺構が集中する為、広域政権の中心地、即ち、かの邪馬台国や大和朝廷前身の所在地とも目される、歴史学上の要地であった。


平会「大神神社鳥居,奈良,三輪,巻向」

「纒向」探査開始。先ずは埋文センターへ

京都から電車で約1時間15分、奈良盆地東南は桜井市の三輪駅に着いた。時は午前10時過ぎ。今日の主体的探索地「纒向遺跡」に行くには、手前の巻向駅の方が近いが、三輪駅近くにある市の埋蔵文化財センターに立寄る為、ここを出発地とした。

写真は、三輪駅近くの大神神社(おおみわ・じんじゃ)参道を下ってセンターへ向かう参加者。所々路端に雪残る寒さの中をゆく。覚悟、対策は完備の上であったが、口を衝いて寒さへの感懐が漏れる。

実は、色々と評判高い大神神社にも立寄りたかったのであるが、探査地が広範であった為、欲張らずに、またの機会に譲ることとした。


平会「纒向遺跡,箸墓古墳,奈良,巻向」

先発は纒向一の大墓「箸墓古墳」

埋文センターにて出土品の見学や、纒向遺跡に対する予備学習を済ませ、フィールドへ向かう。センターから、古代路「上ツ道」の後身とされる「上街道」を北上して最初に辿り着いたのが、遺跡の南端である「箸墓古墳」であった。

箸墓古墳は、4世紀前後頃に作られたとされる前方後円墳。墳丘部全長280mという規模で、纒向遺跡最大の遺構。遺跡の中核的存在である為、古くから卑弥呼の墓ではないか、との推察も多くの人に行われた(卑弥呼の推定没年は3世紀半頃なので、現在ではその後継女王「台与」との関りが言及されることが多い)。

写真は墳丘側面(前方部角)から古墳を見たもの。道に沿って小山の森がうねり続く様に、その壮大を感じさせられる。うねりは、前方後円墳特有の「くびれ」に因るもの。ここは皇祖「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)」の墳墓として宮内庁に管理されている為、外周部からのみの見学となる。


平会「纒向遺跡,箸墓古墳,奈良,巻向,天理,柳本」

「箸墓古墳」墳丘部全景(北方より)。

写真に見える様に、墳丘北側は大きなため池と接している。嘗て存在した周濠の一部を踏襲して作られたものであろう。以前、池で行われた発掘調査では、前方部際から幅10m以上の張出しが発見され、墳丘の更なる壮大さが確認されたという。宮内庁管轄の為、墳丘内では殆ど学術調査が行われない現状では、こうした周辺部の調査による遺構解明の努力が続けられている。

それによると、嘗てはその存在を疑問視されていた大規模な周濠が発見されたという。しかも2重で、内外を隔てる堤の幅も含めると、実にその全幅は80mを超えるものになるとのことであった。同時期の古墳には例を見ない設備とその規模は、被葬者が誰であれ、この墳墓の特殊性を更に強めさせる材料となった。


平会「纒向遺跡,箸墓古墳,奈良,巻向,天理,柳本」

箸墓古墳から山手側へ東上し、田圃の道をゆく。

箸墓の後円部端から140m程離れたこの畔道。弓なりに湾曲しているのが分かるだろうか。実はこの湾曲は後円部のそれと相似している。この畔より古墳側の地割が、周囲の条里制起源地割と異なることなどを勘案すると、古墳に関連した何かの痕跡の可能性が生じる。

具体的に検討すれば、外濠端かその外堤か。ここでの調査はまだ行われていないようなので、確かなことは言えないが、興味深い発見となった。


平会「纒向遺跡,箸墓古墳,ホケノ山古墳,奈良,巻向」

古墳公園?ホケノ山古墳にて昼食

謎の湾曲から少し東上した場所に現れたのは、次なる見学地「ホケノ山古墳」であった。写真はその姿を西下より見たもので、畑中に段状の姿を晒している。全長約90mで、箸墓に比べてかなり小振りに感じられたが、宮内庁管轄ではないので、墳丘部の学術調査が行われている。それによると、その築造は箸墓に近い3世紀後半頃、石囲木槨や画文帯神獣鏡などが発見されているという。

正午をまわったので、公園的に整備された古墳前方部のあずまやにて昼食休憩をとることにした。陽射しが出てきたが、気温はあまり上っていないようである。しかし、徒歩にて身体を動かしている(温めている)ので、皆問題なさそうである。


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ホケノ山古墳頂部より西方を見る。

正面の大きな森が箸墓、その後背奥に連なる山塊は葛城・金剛の山々。山と箸墓の中間に見える盆地上の小山は、かの藤原京の基点的な丘で大和三山の1つでもある「耳成山(みみなしやま)」。実は箸墓の手前にある笹薮も古墳。古代に於ける奈良盆地南部の価値たるものがよく体感出来る眺めといえよう。


平会「纒向遺跡,ホケノ山古墳,奈良,巻向」

畑の中に取り残されたような、または隆起してきたように点在する古墳のマウンド(小丘。大小2つ)。

纒向遺跡内では総数25基程の古墳が確認されているというが、特にホケノ山周辺ではよく目にする。目が慣れてくれば、遺跡図を見なくとも「ここにも、あそこにも」と面白い様に見つけることが出来る。聞きしに勝る凄い場所である。


平会「纒向遺跡,珠城山古墳,奈良,巻向」

突如遭遇、番外編「珠城山古墳」

ホケノ山から北上して「巻野内」という地区へと向かう途中、突如目の前に以前どこかで見たような「異景」が飛び込んできた。山肌に穿たれた四角い人跡――。地表に露出した古墳の石室であった。

自然景の中に突如それが現れた様は、嘗て大陸荒漠で遭遇した古跡を想わせた。廃滅して変容した人跡の出現に驚きと恐れを感じたが、それと同じ感覚に見舞われたのである。


平会「纒向遺跡,珠城山古墳,纒向珠城宮,奈良,巻向」

向かう方角も一致していたこともあり、予定になかったその石室遺構を見に行くことに。写真はその遺構がある丘の入口の1つ。ここも整備されて史跡公園の如き場所になっているようである。

遺構の名は「珠城山古墳」。古墳時代後期である6世紀に築かれたとみられる豪族墓のようである。東側山地から続く尾根的な小山の様に見えるが、実は前方後円墳が3基連なったものという。纒向の遺構とは時代や性質が異なるが、番外編ということで暫し見学することにした。


平会「纒向遺跡,珠城山古墳,纒向珠城宮,奈良,巻向」

珠城山古墳の墳丘上につけられた見学路をゆく。

僅かながら、墳丘上を縦走できるという中々楽しい遺構である。写真で見る通り、東方山地等、周囲の遠望もきく。

路面にもそれが窺われるが、墳丘表土は大変柔らかい赤土。東南アジアのラテライトの如き色合いで、日本ではあまりお目にかかれないもののように感じられた。そんな稀少さの所為か、戦後大規模な土取りが行われ、先端の3号墳が殆ど消失してしまったという。


平会「纒向遺跡,珠城山古墳,纒向珠城宮,奈良,巻向」

珠城山古墳の墳丘間に設置された案内板。

小山内に於ける古墳の位置・形状が図示されている。一同得心、そして感心。


平会「纒向遺跡,珠城山古墳,纒向珠城宮,奈良,巻向」

そして先程見えた石室へ。山手側(東。案内図右端)の1号墳の後円部側面にあった。

少し屈めば難なく入れる大きさ。豪壮な石使いと未だ歪みを見ない堅固さに、墓主一族の財力並びに権勢が窺われる。発掘された際には、石棺と共に環頭太刀や黄金装身具等の数多の副葬品が得られたという。


平会「纒向遺跡,珠城山古墳,纒向珠城宮,奈良,巻向」

珠城山古墳がある「穴師」地区を西へ下り「巻野内」地区へ。建屋跡や集落防御遺構等が検出されている纒向遺跡東北端辺りに相当するが、地表には特に何もなかったので、そのまま西進し、遺跡中心地辺りへ向かうこととした。

写真はその途中、巻野内で遭遇した側溝に残された石材。重く、硬度の高い「石英斑岩」のように思われたが定かではない。ただ、近隣では取れない石かと思われた。側溝整備の際、その重さのため移動出来ずに放置されたのか。とまれ、そのユニークな姿に誘われ、一写。

因みに、この近くに垂仁天皇の「纒向珠城宮」の伝承地を示す石碑が立っている。ひょっとすると、この石もそれら古代広域政権に関する遺物であろうか。


平会「纒向遺跡,石塚古墳,奈良,巻向」


最古(?)試みの前方後円墳「石塚古墳」

巻向(纒向)中心の住宅地を抜け、更に下って西郊「太田」地区の田圃地帯に出る。そこに現れたのが、写真の石塚古墳であった。戦中に砲台改変を受けた為、これまでの古墳で最も残高が低い地味な存在であるが、実は大変重要な遺構である。それは、この古墳が前方後円墳としては現存最古のものと目されているからである。

その推定築年は、土器編年法で3世紀初頭から半ば。絶対年代を算出するには未だ色々と問題があるようだが、相対年代としては、やはり最古のものと見られているようである。勿論、韓半島南部にも分布している前方後円墳全てを含めた算出である。

後円部が正円ではなく、周濠形状も不均一の為、箸墓古墳以降定型化される諸墳に比べて、最初期の「試み」の如きものが見てとれるところも、貴重といえる。


平会「纒向遺跡,箸墓古墳,ホケノ山古墳,珠城山古墳,纒向珠城宮,石塚古墳,勝山古墳,矢塚古墳,東田大塚古墳,柳本古墳群,渋谷向山古墳,陪塚,行燈山古墳,アンド山古墳,黒塚古墳,奈良,三輪,巻向,天理,柳本」

これまでの多くの調査を経て復原された石塚古墳の周濠遺構。幅約20mという。前方部側面では30mに達するとのこと。

古墳の墳丘全長は96m。現在では国史跡として保存されているようである。


平会「纒向遺跡,勝山古墳,奈良,巻向」

特異形状墳「勝山古墳」

石塚古墳の次は近くにある勝山古墳へ。勝山古墳は、前方部と後円部の間にその接続角度を緩和するような「接続部」を持ち、前方の幅も一定という特異な形状。柄の付根が広い、手鏡のような形状といえようか。

墳丘全長は約110m。築年には諸説あるようだが、石塚同様、古墳時代前期頃で、箸墓に先行する古墓と見られている。


平会「纒向遺跡,勝山古墳,奈良,巻向」

勝山古墳西側(後円部端)。

後円部の西から北側にかけてL字形の溜池が接する。周濠の一部を踏襲・改変して造られたものと思われる。


平会「纒向遺跡,矢塚古墳,奈良,巻向」

意外に遠望かなう「矢塚古墳」

勝山古墳の次は同じく近隣の矢塚古墳へ。写真はそれを南から見たもの。植林が施された歪な形状により古墳とは判じ難いが、調査の結果、勝山古墳等と同時期頃に造られた前方後円墳であることが判明している。墳丘全長は約96m。


平会「纒向遺跡,矢塚古墳,奈良,巻向」

矢塚古墳墳丘上にて。

樹木で覆われているものの、結構な残高がある為、意外と遠望がかなう。墳丘上に埋葬施設の一部と思われる石板が露出しているとの情報を資料から得ていたが、確認出来なかった。

この矢塚古墳と勝山、石塚の3古墳は、纒向小学校のの3辺(西・北・東)に接して均等に存在している。何か、共通する「企画」の存在を感じさせられる配置に思われた。


平会「纒向遺跡,東田大塚古墳,奈良,巻向」

美麗な古墳「東田大塚古墳」

矢塚古墳から南へ250m程進むと、田圃の只中に次の遺構「東田大塚古墳(ひがいだおつか)」が現れた。手入れが行き届いた竹薮に覆われた、実に美麗な遺構である。

これも、勝山古墳同様、前方部と後円部に接続部を持つ特異な形状という。現在、前方部は殆ど消失しているが、調査の結果、周濠つきの前方後円墳であることが判明している。その墳丘全長は120m前後。築年は、前の3墳同様、古墳時代前期であるという。これらの古墳が「纒向古墳群」と呼ばれ、前方後円墳の出現期に生じた最古の一群と注目される所以ともなっている。


平会「纒向遺跡,東田大塚古墳,奈良,巻向」

東田大塚古墳、後円頂部。

墳丘内も、良く手入れされた果樹等の植栽が見られる美麗さ。恰も「築山」の風情か。頂部には三等三角点も存在。公私何れの所有かは不明だが、纒向古墳群中、最も墳丘が保存されたものだという。


平会「纒向遺跡,東田大塚古墳,奈良,巻向」

東田大塚古墳北面から三輪山を見る。

大神神社の神体として古くから地域で尊崇される三輪山は、この様に纒向遺址のほぼ全域にその存在を示す。出土品からも古代三輪信仰との関連を窺わせる遺物が出ており、古墳との関りも推察される。


平会「纒向遺跡,奈良,巻向」

終了なるも、電車はお休み(?)

東田大塚古墳から畔道を東上して巻向街区へ向かう。有名な木製仮面が出土した方形周溝墓付近や、大量の桃の種が見つかった祭殿遺構等がある遺跡中心地を巡ったが、何れも埋め戻されていて見るものはなかった。

時は3時前。少し早いがこれにて終了ということで巻向駅へ向かったが、何と、保守作業のため4時半まで列車が来ないと告げられる。一応観光地であるこの路線で日曜昼間に保守とは……、少々呆れ気分で収めたのが、改札の貼紙をとらえたこの写真であった。

まあ仕方がないので皆と相談し、列車の時間まで、予定になかった古墳等を巡ることにした。第2部「番外編」の始まりである(笑)。


続く……。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会

2009年03月01日

大和平会


逍遥雑記「平会,奈良,大和郡山,遊郭,環濠集落,稗田,若槻,番条,筒井,城館」

初の「平会」開催

3月初日の日曜日。春を想わせる穏やかな晴天の下、山会ならぬ「平会(ひらかい)」が行われた。いつもの様に山へ行く集いではなく、平地での史跡巡り、即ち「街歩き」を目的とした試みであるが、身近な地の奥深さや魅力などを知ってもらおうという根本趣旨に変わりはない。これも、言わば「近所再発見」活動の一環であった。

その記念すべき初の平会の場所となったのが、お隣奈良県は郡山市(大和郡山)にある環濠集落。郡山までは、京都左京からなら、電車で1時間程の近さである。正にご近所。しかし、地域史、そして前近代的尺度からすれば、実は近所とは言い難い。その隔たりを超越し得る存在でもあるのが、今回の探査目標である環濠集落であった。

日本の集落原景の一つ環濠集落

郡山を含む奈良盆地各地に残る環濠集落は、古代の土地区画制度「条里制」が施された盆地内の散村が、中世集村化し防塞化されたもの。つまり、中世動乱と、続く戦国争乱の治安悪化を受けて誕生した防御集落の名残である。

この様な集落は、大和に限らず同じく戦乱に晒された日本各地に生じた。しかし、多くのそれは近世以降改変を受け原形を失ってしまう。よって、当時の姿を色濃く残す大和の環濠集落と接することは、我が国の集落原景の一つに触れること、そして今に続く集落構造や施設機能を知ることに繋がるのである。環濠集落が京都との距離を超越すると前述したのは正にこのことであった。

随分前から気になっていた、この大和の環濠集落。今回こういう形で有志共々訪れることが出来ることとなったのは誠に喜ばしい限り。個人的にも実に楽しみにしていた企画の始まりであった。


上掲写真:京に同じく底冷えが続く大和盆地の来春を喜ぶかの如く、一斉に花を咲かせる梅花。代表的環濠集落、稗田(ひえだ)集落へ向かう路傍にて。


逍遥雑記「平会,奈良,郡山,遊郭,環濠集落,稗田,若槻,番条,筒井,城館」

郡山城下を経て郊外へ

平会当日の朝、近鉄郡山駅に集合した参加者一行は、駅がある旧郡山城下の市街を通り、環濠集落がある郊外田園地帯へと向かった。環濠集落ほど歴史は古くないが、16世紀後半の織豊期を起源とする城下町の、情緒ある風情や由緒ある旧跡に早くも皆心囚われる。途中の和菓子店で早速菓子を買ったりするなどして、大人子供共々、和気藹々と進む。


逍遥雑記「平会,奈良,郡山,遊郭,環濠集落,稗田,若槻,番条,筒井,城館」

城下町外れ辺りに現れた妓楼と見られる建造物。木造ながら、3階建ての豪壮さが迫力を醸す。以前訪ねた橋本のそれとは、また異なる印象を受けた。恐らくは橋本同様、戦前は大正・昭和初期頃のものと思われ、周囲に残る類似建造物共々、一つの遊郭街を構成していたとみられる。

今は現役の気配はなく、一帯白日を浴びながらも、どこか廃滅都市のような生気ない一角をなしているのは橋本同様であった。何やら、町外れにて異界に迷い入(い)った心地である。


逍遥雑記「平会,奈良,郡山,遊郭,環濠集落,稗田,若槻,番条,筒井,城館」

旧遊郭を抜け城下が終ると、盆地縁に連なる山々や、その手前に広がる田圃が見渡せる郊外風情が現れた。今回は資料・案内用として、旧道との関りが解り易い100年前の地形図を持参したが、この辺りの状況は往時とあまり変わらない。

写真はそこから更に進んだ佐保川の景である。奈良盆地最大河川、大和川支流にあたる佐保(さほ)川は、この地域の主要河川で、環濠集落の成立や発展とも関係深い川。撮影地付近は、郡山から稗田(ひえだ)集落に入る為の古くからの渡河点であるが、旧図と同じ場所にあった写真の橋は、解体撤去の最中であった。長い役割を終え、近くに造られた新道橋にその座を明け渡したのである。細やかな歴史の変転……。奇しくもそんな場面に立ち会ってしまったようである。


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完全無欠の環濠集落「稗田」

佐保川の新道橋を渡り程なくして、最初の目的地稗田に着いた。環濠、即ち水濠に囲まれている集落の為、当然、先ず濠と遭遇することとなるが、正しく写真の水面がそれであった。

その幅は、撮影地の如き広い場所で10メートル近くはあろうか。この水濠が、縦横共に260メートル許かりの集落全周に存在し、堅くそれを守護している。その様は、航空写真や地図上でも明解で、多くの環濠集落の中でも一際存在感を放っているといえる。その為か、以前から地図帳等の方々で、その代表的存在として紹介されている。多くの集落が環濠を失いつつある中、この稗田は、未だ中世起源のそれを全周残す、完全無欠ともいえる存在なのであった。

歴史学的には応仁の乱以前である15世紀中頃の史料上にて既に城郭化が確認される集落だという。城主は不明だが、大和の有力者古市(ふるいち)氏と筒井氏の争奪の場にもなったようである。かくも貴重な場所であったが、1つだけ気になることがあった。それは、コンクリや石提による水濠整備が少々過剰に思われたところである。この様な処置では却って史跡や景観の保存という原則から乖離してしまうのではないか。まあこれも、稗田の貴重さがなさせた業なのであろうか。


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平会、突如旧家に招かれる

濠にかかる橋を渡って皆で集落内を探索していると1人の婦人から声をかけられた。婦人は自邸の立派な長屋門を開いて、一行に邸内見学を勧めてくれたのである。一同喜んで邸内へと進む。

そして綺麗な前庭ある伝統建築の屋敷の内外で、婦人とその夫である御当主Mさんからお話を伺った。M家は稗田の旧庄屋家とも繋がる旧家で、かつて村長も輩出したという家柄。近世からの居住が確認される家の人だけあって実に様々なことをご存知であった。一同暫し話に聞き入る。印象に残ったのは、かつては濠は疎か、周囲の河川や湿地により外界との行き来が難しかった話や、水害時には周囲が海の如く化すも微高地上にあった屋敷地は水没しなかった話である。

実に有意義で喜ばしい時を暫し過ごした。そして、Mさん夫妻のご厚情に深く謝して一行はそのお宅をあとにした。正に感謝感激……。写真はそのMさん宅門前にて、挨拶する参加者。


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稗田集落内にある売太神社(めたじんじゃ)。

かの日本最古の史書『古事記』の編纂者、稗田阿礼(ひえだのあれ)が祭神というが、集落との関係は詳らかではない。集落の大きさの割に規模があり広いが、近年まで境内西方に内堀とみられる水濠が残存していたことから、集落内の主郭的要地であったことが推測されている。

軍団の集結や駐屯が可能な公共空間社寺が、軍事拠点とされていたのは環濠集落に限らぬ全国的現象である。この神社の様態は、正にその好例をなすものといえるのではなかろうか。


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環濠集落研究に欠かせない存在「若槻」

稗田近くの路傍の芝地にて昼食を採ったあと、次の集落「若槻(わかつき)」へと向かう。稗田の東南500メートル程の場所で、古図によれば、多くの環濠集落同様、水田上に浮かぶ島の如き姿をしている。稗田とは耕地を介して隣接しているが、今はその間を多くの住宅が埋めている。

写真は、それら新興住宅街を抜けて若槻北辺に接したところ。「出垣内」と呼ばれる、集落北側から迫出した場所にある、石垣を有す段差である。出垣内は若槻が防塞化する際、最後に追加された水濠付の張出し部分であったことが史料から判明している。よって、この段差は、その施設地と、水濠その他の名残であった可能性もでる。

若槻は稗田と同じく15世紀に城塞化されたが、古代(平安末)からの史料が比較的多く残っている為、集落自体の形成過程が知れるという大変貴重な存在となっている。城主は不明だが、若槻氏や吉岡氏などの、地元や近隣の土豪が推定されているという。稗田ほど環濠痕跡が明瞭でなく、さしたる規模もない一見地味な存在だが、環濠集落研究には欠かせない集落である。


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歴史学者、渡辺澄夫氏による史料分析とその研究によれば、若槻環濠は3期の改変を経て成立したという。その2期目に当る、水濠が長方形の集落を囲うのみで、出垣内部分が未だない時代に造られた濠跡が、写真の溝である。今はコンクリで固められているが、左側の集落微高地に沿って段差が続く様は明瞭である。水面が殆どないため地図や上空写真からはその存在を確認し難いが、こうして現地へ出向くことで見定めることが出来た。


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若槻集落西端にある神社の南に残る濠跡。

こちらは護岸処置がない野生的ともいえる姿であるため往時を偲ぶのに有利だが、逆に土砂堆積による消失の懸念が生じる。渡辺氏の研究に照らすと、建造第1期に施された若槻最古級の水濠である可能性も出る、実に貴重な箇所である。


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水陸の要衝「番条」

若槻の南にある長閑な田園地帯を600メートル程西南へ進むと、次の集落「番条(ばんじょう)」が現れた。盆地内の河川としては珍しく水の澄む菩提仙川を北、そしてそれが合わさる佐保川を西に添えるが如くして南北に続く集落である。その大きさ、幅200、長さ710メートル。実に他を凌ぐ規模を誇る。川に接しながらも、嘗ては全周環濠が存在したという堅固さも特筆される。

ここもまた15世紀頃の建造とみられる。長禄3(1459)年に落城した際の被害記録から、この頃既にかなりの人数が収容出来る規模だったことが知れるという。集落には内堀により3つに区切られた跡があるので、連郭式構造と推定され、これもまた他の集落とは趣を異にする所となっている。城主は興福寺大乗院方の土豪番条氏。その「城館集落」、正に城と呼べる規模・構造である。

写真は正にその北方、菩提仙川の土手から集落北辺を眺めたところ。濠幅は狭くなってしまったようだが、石塁上に佇む建屋共々、その堅固さの一端たるものが感じられた。


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番条にある中谷酒造にて、近世末建造の伝統建築「大和棟」の説明を受ける参加者。

番条集落を巡る最中、造酒屋を発見した。しかし、日曜の為か、営業の様子はない。私を含め、酒好きの参加者は残念がるが、固く閉じられた格式あるその長屋門に「新酒あります」の貼り紙が……。収まりがつかない参加者の1人が呼び鈴を鳴らすと、なんと人が現れ購入可能となった。お休みの日に恐縮だが、なんと応対の人は平会の趣旨を聞くと、更に集落や店の歴史、施設などの説明を始めてくれた。稗田のMさんに同じく、その意識の高さたるにただ驚かされる。

店の名は中谷酒造。応対の人は、そこのご当主であった。ご当主によると、この店は江戸期に酒造株を買い受けて創業されたという。清酒発祥の地とされる菩提仙川上流域と古代からの主要路「下つ道」に近く、また佐保川水運を利用して大阪方面とも取引出来るという地の利を活かして大いに栄えたらしい。この話を聞き、他に勝る番条の規模や、また今も大きな家が多いという個人的な謎が解明された。そうである、番条は水陸の交通要衝だったのである。

いやあ、謎も解け地酒も手に入った。地の人の配慮にまたしても感謝感激である。購入したの地酒の楽しみも倍増する心地であった。


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番条集落南部(南郭)にある西出入口より集落側を見る。

立派な家々による家並が続く集落状況に反し、その通路は狭く、見通しが悪い。また、方々で屈曲やT字路と遭遇する。他の環濠集落とも共通するこれらの特徴は、軍略効果を第一義になされたとされる。即ち、敵の進軍阻止や迎撃便宜の為である。これらの特徴こそ、正に防御集落としての環濠集落の存在を裏付けるものとなっている。


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番条西側を流れる佐保川西岸耕地只中に続く古塁(土塁)線。

この区間の佐保川は、近世に行われた改修以前は、今より少し西側を流れていたという。よってこの土塁は、その時の西岸堤防であった可能性がでる。今でもこれに沿う行政界が存在することからも、それが補強されよう。ひょっとして、中世は環濠集落成立期とも関るものか――。現代では正に「無用の長物」であるこのようなものが、未だに残存しているのも興味深い。


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覇者の城「筒井」

番条から佐保川を渡ってまた南下する。そして800メートル程歩いたところに本日最後の目的地、筒井が現れた。有力土豪の1つで、後に大和一国制覇を果たすこととなる筒井氏の根拠地跡である。かの明智光秀の盟友「筒井順慶」や、石田光成の重臣「島左近」縁の地といえば馴染を感じる人も多いのではなかろうか。

「筒井館」や「平城」とも呼ばれた筒井は、永享元(1429)年には防塞として存在が確認されるという。有力勢力の居城、そして地域の要衝として発展し、織田信長に帰順した順慶が大和一国を収めた際は、その地位に相応しい規模に改修されたが、間もなく筒井氏の郡山城移転に伴い破却された。その為、古く、規模も大きなものであった可能性が窺われるにも拘らず、これまで見た集落の中では最も環濠痕跡や集落原形が判じ難いものとなっていた。

写真は、集落中心にある筒井氏の居館跡とされる場所。城で言えば本丸に相当する。古くから「シロ」と呼ばれる約150メートル四方の小字(こあざ)地名内にある、高さ1、2メートル程の段状地で、周囲には内堀跡と見られる湿地が存在する。写真の通り、確かに段差があることは判るが、石材等は破却時に郡山へ運ばれたらしいので、言われなければ、それとは感じ難い。

ただ、駅に近いため、都市化している周囲に比して、ここだけ畑地が残る様は少々異様に感じられた。偶々近くの神社に親戚がいる参加者の1人によれば、どうやら、近年までこの「シロ」という土地に対する何らかの禁忌があったらしい。


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筒井居館跡、字「シロ」西南部。

西北部である前の写真とは異なり、西南側には内堀跡と思われる湿地が残っていた。画面大半を占める水面がそれで、右端にある陸が段状地の南面、即ち本丸推定地西南辺となっている。

マンションが見える奥側近くに筒井駅があるが、それにも拘らず、この様な中途半端に浅い水場がこれまで他に転用されずに残ったことも謎である。ところで、駅と居館跡の間には筒井時代に「市町」があったとされる街道が通るが、段状地は、写真右側に見える小道と共にそこへと繋がる。ひょっとして、ここに城館への出入口、「城戸」でもあったのであろうか。その、「シロ」西端辺りで、ちょうど発掘調査が行われていたが、果たして結果は如何なものであろう。


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夕景の近鉄筒井駅ホームより、東南は吉野・大峰山方面を望む。

そして、集落南側にある古くからの町並み等を見学した後、一行は筒井駅に到着した。個人的にはもう少し探査したかったが、日も傾き、さすがに風も冷たくなってきたので、これで終了とした。皆、早速列車に乗り込む。そして車中にて、帰宅組と別用組、京都三条にての打上げ組に分かれ、それぞれの日を終えたのであった。

初の平会――。少々マニアックすぎる嫌いもあったが、中々充実した1日ではなかったかと自賛する。皆さんお疲れ様……。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会