2020年06月12日

古跡共検

京都市山科区北部、安祥寺山麓にある後山階陵

御大と共に彼の地へ

今日は昼過ぎに家の近くで人と待合せし、少々出かける用があった。

先月5月9日に紹介した、安祥寺山山中の謎の人跡のことを京都市の文化財保護課に報告していたが、保護課がその実検を行うこととなった。

それに伴い私にも同行の依頼があり、日時調整の末、今日決行することとなったのである。そして、保護課のK女史の運転する公用車に同乗して現場最寄りの山科へと向かい、山科駅裏で更に同行者を増やした。

地元民しか知らない密やかな駅裏で待っていたのは、某大学で教鞭をとるK先生。元は市の保護課や埋蔵文化財研究所に在籍した人であり、如意寺(にょいでら)や檜尾古寺(ひのおのふるてら)等の如意ヶ嶽(大文字山)山系の古代遺址発見に貢献した現地研究の第一人者であった。

最近、同山系安祥寺山山中にある古代山岳寺院「安祥寺上寺(あんしょうじかみてら)」跡の研究に重点を置くと聞くK先生は、K女史から私の人跡の話を聞き、現地での実見を希望したという。

こうして、思いがけず現地研究の御大との同行踏査が叶うことになったが、喜ばしく思ったのと同時に、神妙な気にもさせられた。

思えば、小時より遊びや行事で関わった山域であり、成人後は京都博物館の「五智如来坐像」に感銘を受け、後にそれが安祥寺上寺の本尊であった可能性があることを知り、奇縁を感じたことを思い出す。ここに関する何か様々なことが、時空を超えて繋がったような感触を覚えたのである。


上掲写真 京都市山科区北部安祥寺山麓にある後山階陵。平安初期の皇太后で安祥寺の発願者である藤原順子(のぶこ)の墓所に比定されている。踏査の始まりはこの墓前を過ぎてから。奇縁の源、象徴的場所である。


山科北部山中にある謎の土門状人跡
山科北部山中にある謎の土門人跡。土塁の上から中央の沢筋を見たものだが、上流側に古い石組が見える。それは対岸の土塁縁にまで続いている

もう一つの謎遺構問う

K先生と軽く挨拶を交わし現場へと向かう。当初車を停める場所を心配したが、先生が熟知していたので林道内の適当な場所に停めることが出来た。

そこから徒歩で山に入ることとなったが、その前に作戦会議と称して先生が持参の地図を広げる。都市計画図と絵図等の必要史料を合成した大判手製のもので、計画図にはこれまで調査された遺構が書き込まれていた。それには報告書等で公表されたものと、未調査・未公表のものがあった。

さすが、長年に渡り現地で成果を挙げられた第一人者。その縁にはビニールが付けられ、現場での利便性向上も図られるなど、「山林考古学者」の強力な工具というべき体裁が整えられていた。

その手製図にて、これから向かう場所等を確認し、先生がまた巻いて片付けようとした際、私は図上の、ある書込みに気付いた。それは、以前から気になっていた谷を閉塞する土門状の人跡がある場所であった。

以前の巡検でも紹介したその場所は、当初は遺跡地区にも入れられず、何の報告もない謎の人跡だったが、やはり先生は留意していたようである。

今回は、ちょうどそこを通過するので、皆で見学し、先生に意見を訊いてみた。すると、やはり古い人跡で、門か貯水遺構を考えているとのこと。ただ、門としては、場所柄、私は戦国期の城塞関連を想定していたが、先生は檜尾古寺の正門等の寺院関連を想定しているとのことであった。

発掘等の詳細な調査をしてみないと判らないが、先生が把握している人跡なら、突然破壊されるようなことはあるまい、と安堵することが出来た。


安祥寺山国有林の伐採作業に伴い、削られ埋められた安祥寺川源流部と古代遺物散布地

源流部の遺物宝庫

土門関(大陸風のあくまでも自分だけの呼び名)の見学を終え、古道を上がって谷の最上流部に至る。ここは、昨年の12月14日の記事後半でも紹介した、林野庁の伐採林道開削により破壊された場所であった。

上部の稜線を切り通し谷底まで延ばされた重機道は、山腹を削り谷を埋めるという痛ましい光景を現出させていた。古代からほぼ変わらなかったとみられる谷底の形状や自然環境は写真の如くほぼ壊滅状態と化していた。

上部から観察して状況を把握していた私も改めてその酷さに驚いたが、なんと、K先生やK女史もこんなことになっているとは知らなかったという。

ここは大変古い遺物が多く出土する謎の散布地で、歴とした遺跡指定地。嘗てその調査を担ったK先生も方々見回して怒ること頻り。どうやら保護課を含め、関係者はこの場所まで壊されることを知らなかったらしい。曰く「聞いていない」と。正に「内堀まで埋めるとは聞いていないぞ江戸幕府」みたいな感じか(但し「大坂の陣」は同意だった可能性がある)。

ただ、私は去年の施工中に連絡した筈ではあったが……。


安祥寺川上流で発見した平安初期の緑釉陶器の蛇の目高台部分の破片
平安初期のものとみられる緑釉陶器の破片。「蛇の目」と呼ばれる底縁が広い高台(器裏)部分で、ある程度の形を保っていたものが、重機の掘削により割られたとみられる

K先生は呆れぼやきながら足下から早速陶片等の遺物を見つける。さすがである。私も真似て探すと、すぐに掘削面で見つけることができた。

写真のものがそれで、黄色い生地に薄緑の釉薬がかかる、所謂「緑釉陶器」であった。平安初期まで遡れる大変古い遺物である。他にも須恵器や土師器等の様々な古代遺物を見つけることが出来た。破壊を受けたものの1200年前の遺物をこんなに容易く目に出来るとは改めて凄い所である。やはりこの山域はまとめて保護しなければならないとの思いを強くした。

そしてK女史が、持参したビニール袋に早速それらを入れ始めるなど、ちょっとした発掘作業となった。写真の左端に見える小さなスコップはK先生秘蔵の発掘道具。訊いてもいないのに「100均やけどな」と自ら明かすところが、気さくで面白い(笑)。

乗っけから寄り道行為に過ぎるとK先生は笑うが、ついでに私が以前踏査で発見した付近の人跡について報告する。散布地の謎とも繋がるため、先生も興味を示したが、更なる脱線となる為その確認はまたの機会となった。


安祥寺山北尾根を斜めに切るように付けられた車道と遺跡側崖面の崩落

稜線上の新遺構にて

破壊の痕跡が生々しい源流谷での採取を経て山上の稜線に出た。そこもまた昨年末から紹介している伐採道による遺構や環境の破壊箇所であった。

写真は今回撮影したもの。尾根を斜めに切るように車道が付けられている。私が左側の平坦地を遺構と推測した一文を昔まとめた縁で掘削面を調査して土器片を発見し、新たに遺跡地区に含まれた場所でもあった。

今回改めて現場を観察すると、やはり危惧通り、掘削面の崩落が始まり(画像中央左の路肩等)、上部にある遺構面を危うくしていた。また、右の谷側も路面に大きな亀裂が現れ、斜面崩壊の危険が生じていた。

K先生もこの辺りの工事についてある程度聞いていたらしいが、改めて現場の状況を見て呆れる。曰く古道が残る尾根は特に改変すべきではないと。


安祥寺山北尾根遺構にて梶川先生が発見した大きな土師器片

ここで、両氏に平坦地及び掘削面での土器・須恵器発見の場所を教え、現場に残る遺物を見てもらう。

K先生は早速付近にて写真(中央)の土師器片や鉄片を発見。土師器はかなり大きなもので、思わず、「さすがゴッドハンド!」と呟いてしまった。但し、これはあくまでも尊敬からくる感嘆であり、昔、世を騒がせた一大考古学事件と関連するものではない(笑)。

とまれ、K先生の見立てによると、ここの遺物も大変古いもので、平安初期まで遡れそうとのこと。いやぁ、僅かな数だったので当初は自信がなかったが、保護課に報告しておいて良かった、と改めて思わされた。


京都市文化財保護課職員により袋に採取された安祥寺山北尾根遺構の遺物

ここでも、ちょっとした発掘作業を行う。写真の如く、K女史が素早く用意した袋に遺物を入れる。袋には、いつの間に記されたのか、現地座標と標高の表記があった。

以前私が発見した遺物は全て風雨により路端に落ちており、踏み砕きや散逸の危険があったが、こうして無事回収されたので安堵出来た。本来の目的ではない、ついでの作業ながら、個人的に喜ばしい寄り道となった。

なお、K先生は上の平坦地について私同様20年程前から気になっていたという。その際、一応上面を調べたらしいが、何も発見できなかったらしい。

平坦地は先程通過した谷底の遺構散布地の直近上部に当たるため、ここが遺構と確定されたことは大変重要なことという。即ち、ここの施設から谷下に遺物が落ちたのではないか、とのこと。谷下は施設を営むには不向きな場所で、遺物の年代的にも合致しているためである。

K先生はここからの京都市街の眺め、即ち当時の平安京の眺めが良いことを指摘しつつ、小堂を伴う祭祀場か何かがあった可能性を示した。即ち、非常住の宗教施設である。その理由として、水場が遠いことや尾根上という居住困難をあげた。

私も同じ理由で、現地南にあった安祥寺上寺の寺門等の境界施設を、嘗て小文上で推論した。


作業道の路端に散乱する採取前の安祥寺山北尾根遺構の遺物
作業道の路端に散乱する土師器片(煉瓦色の破片)。これらも全て採取。K先生は、この他相当な遺物が重機に削り取られたのではないか、と語った。残念無念、正に「言わんこっちゃない!」の惨状である


側面からみた斜面上にある後山階陵の墳丘

本題の謎遺構へ

さて、有意義な寄り道が続いたが、結構時間を費やしたので本題の場所へと急ぐ。そこは、一旦安祥寺山を登り切ってから暫く下った先にあった。

皆で頂部の急登等を進むが、K先生の足の速さ、歩きの確かさに少々驚く。後で聞いたところによると、私同様遺跡とは別に登山も好きで方々登っていたらしい。また、事務所をそのまま抜けてきた装いのK女史の歩みも確かであった。登山に馴染みはないが方々の調査により慣れているとのこと。

その後、本題の箇所に着く。最初に現れたのは安祥寺上寺の真横に位置する別尾根上の小頂。経塚跡と同じ石材の散乱が見られるため同様の遺構か小堂のようなものがあったとみる。なお、そこを含む今日の本題3箇所についての画像や詳細は、先月5月9日の記事にある。

小頂の場所についてK先生にも説明したが、先生としては経塚らしい盛り上がりが欲しいところ、とのこと。なるほど、確かに既存の経塚跡は小頂上に更なる盛り上がりを持っている。それでも、私としては留意すべき位置であることを伝えられたので、一先ずの役目は果たせた。

次は、平坦地用に掘られたと思われる尾根上の切岸である。地面に傾斜が残るので平坦地としては微妙な場所だが、確かに人為的なので皆写真に収めたりした。

そして、最後の今日の本命的人跡はそのすぐ下部にあったが、K先生はそれを見た途端、これは戦時中の高射砲陣地跡だと発した。以前そういう話を聞いたことがあるらしい。確かに入口が小さく奥が広く深いという各穴の形状は火砲を置くのに適しており、窯跡や採掘址のような矛盾は少ない。

ということで、あれだけ悩んだ本命の謎遺構は瞬時に解決となった。一先ずお騒がせとなったことを両氏に詫び、踏査を終えることとした。

北山科製鉄遺跡の謎解決

写真は下山時に傍を通った後山階陵の側面である。

安祥寺山山裾斜面上に墳丘のようなものが見えるが、本当に御陵かどうかは解らないらしい。それでも、安祥寺の発願者で、今日の縁の源的人物の墓所だったので、K先生を始めとして皆でその墓前に詣でた。その後、陵墓前の林道上にて先生が「鉄滓(てつさい)」を探す。

この付近は奈良時代の製鉄址として遺跡地図にも記載されており、付近に散らばる精錬残滓の鉄滓はその根拠になっているとのこと。先生曰く、昔は大きなものが沢山見られたが、今は減っていると。

皆で探してみると、黒く重い小塊のそれが、路上に幾つもあることが判った。昭和期の産廃残土が混ざる変哲無き林道上に、古代遺物が多く残ることに驚く。但し、鉄滓はごく狭い範囲にしか見られず、炉跡等も見つかっていないらしい。即ち、鉄滓のみの歴史痕跡である。

ここに古代の製鉄址があることは前から知っており、近くに石碑もあったが、遺構を示すものがなく、今までどこがその跡なのか謎であった。だが、調査したK先生と同行出来たお蔭で、その謎を解決することが出来た。

空振りあるも有意義な共同終了

そして車輌まで戻り、一同帰還することとなった。今日は本題本命の人跡については空振りとなったが、稜線平坦地遺構を研究大家のK先生及び保護課のK女史に実見してもらうことが出来た。

また、それにより谷底遺構等との関連等、新たな知見を得ることが出来た。何より、専門家・専門部署との共同により私自身の得難い学びとなった。時間的には短時間ではあったが実に有意義な機会となったのである。

溝穴人跡砲台説への疑問と謎

のち、私自身で空振りとなった溝穴人跡の件をまとめようとしたが、そのなかで幾つかの疑問が生じたので、制作した現地の略図を送付するついでに、意見を付すという形でK女史に報告しておいた。本来はK先生の情報源への調査が優先されるべきだが、一応その疑問点を以下に掲げる。

1.高射砲は空中を縦横に行き交う航空機に対応するため通常回転台座を備えており、そのため陣地は一般的に円形(穴)となるが、当該地は異なる。

2.当該地は後方の土崖が死角となるため対空陣地としては不向き。

3.空襲は高高度侵入が基本で、旧軍はそれに対応した砲不足に悩んでおり、設置場所はより高所で航空機の通路下に設定された筈。実際、周辺で最も標高が高い牛尾山(音羽山。東海道上の要衝)山上に砲台があったとの話を聞いたことがあり、当該地を高射砲台とする価値は低い。

以上のことから、当該地は高射砲ではなく、水平・仰角射撃を目的とした固定砲台であった可能性を考えた。

実際、電子データを合成した当該地南方の仮想眺望図では、手前の山陵(鏡山)や東山を越え、遠く府南部一帯まで見渡せる。

当該地に設置可能な当時の砲の最大射程は15km前後なので、機甲師団の通路となる府境や山科盆地(醍醐含む)入口付近に達した目標を迎撃出来る。また戦中軍需工場と化していた鐘紡山科工場の低空守備にも使える。

しかし、上記の理由でも当該地がその適地であったことの確証はとれない。一応、時代を広げ、幕末辺りの東海道警備も考えたが、山陵が邪魔になるため不適であった。

その後、調査により更に以下のことが判明。

山科と京都市街の間にある花山天文台南の山上に戦中構築された高射砲陣地跡があり、やはり円形であった。

そして、その調査の際、奇妙なことに気づく。それは、終戦翌年に米軍が撮影した高解像空撮写真に当該地構築の様子が見られず、現在同様の山林として写っていること。花山砲台の同写真では円形陣地がはっきり確認出来るにも拘わらず、である。偽装されている可能性もあるが、20m×100m程にも及ぶ真新しい掘削が全く確認出来ないことは不思議である。

そもそも、時節柄、迅速に構築せねばならない射撃陣地を、重機も入れない尾根を10mも掘り崩してから成すとも考え難く、大量の土砂の処理だけでも大変だった筈。あと、元々あった筈の尾根古道が残存尾根上に見られない(尾根が遮断され相当の時間が経った?)ことも謎であった。

以上のことから、砲台に先行する何かの古い人跡があり、その場所に砲台が設置されたか、そもそも砲台ではない可能性も考えざるを得ない。K先生の情報源の確認が優先されるべきとは思うが、個人的には注意が必要な存在ではないか、との結論を暫定ながら得た。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2020年05月09日

続連休急用

鹿ケ谷上方・大文字山中の如意寺(にょいでら)宝厳院跡の平坦地と、その奥に続く古道候補地の谷

「連休急務」裏山編

新型肺炎騒動における日本全土・緊急事態宣言下の黄金週間――。

一般的には5月6日の振替休日を以て終了したようだが、人や会社に依っては同10日、日曜までということもあるようだ。

元より各種学校なぞはそれ以前から閉じられたままだが、それより、業務が再開出来ない、出社出来ないという施設や人も多いと思われる。その証に、6日以降の平日も、街や公園には砕けた格好の働き盛り世代が多く行き交う、正に万年休日の如き状況が現出している……。

改めて、大変なことになってしまった、と感じざるを得ない。

基本連休の恩恵のない零細の身ながら、自身のこと以上に世間を心配してしまう。まあ、零細故にその影響が大きいということもあろう。

そのような情勢下、また週末が巡ってきた。表題に「連休」の文字を記したのは上述の状況故。本来個人的に土曜は業務予備日、準営業日なのであるが、天候の関係から、予定を入替え、急遽出掛けることにした。

場所は家裏の大文字山(如意ヶ嶽)山域。目的は山行鍛錬を兼ねた健康保持のための自粛対象外の散歩・ジョギング的行動。そのついでとして、以前から取り組んでいた山中の古道や遺跡の探査も予定した。

実はついでながらの遺跡探査は、気温が日に日に高まるなか、藪の繁茂で今後困難になる恐れがあった。最近把握した公未知の遺構を市の文化財保護課に報告し、先日の様にそれらを含めた保護区域の早急なる拡大を促す必要があったため、前回同様「急務」の文字を表題に記したのである。

なお、人と会い難い山中(実は今公園や河原等は人が増え危険性が高まっている)とはいえ感染対策を施し、また裏山での短時行とはいえ救難装備を完備して望んだのも前回同様。くれぐれも安易に真似されぬよう……。


上掲写真 京都市街東部・鹿ケ谷(ししがたに)上方の大文字山中にある如意寺(にょいでら。10世紀中?-16世紀?)宝厳院推定地とされる平坦地(手前)と、その奥に続く古道候補地の浅い谷(中央奥)。


如意寺宝厳院推定地南から稜線へと続く、古道候補地の浅く広い谷

先ずは古道探査しつつ山登る

今日も鹿ケ谷から山に入るが、先ずは明治中期の初の近代地図に描かれた、沢筋や滝の急斜を避けるように中腹を巻く古道の、麓接続部を踏査。

それは、現車道から分岐して山に続く形で存在するのだが、古道自体は途中で民家の敷地に取り込まれて不明瞭となっていた。恐らくは明治以降に延伸された現車道の突き当り部分との接続に変更され廃れたのであろう。

また、大文字山の火床方面から小さいながらも鋭い谷が横切るので、往時は橋が必要だったとみられることも判明。鎌倉期の如意寺を描いた古図にある、小橋と築地門を備えた麓の施設「鹿谷門」の場所であろうか。

その後、沢筋や楼門滝を通る「現在の如意越」古道を進み、中腹の宝厳院推定地に達した。以前は堂跡背後の谷から稜線に至る道を古代・中世の如意越の有力候補としていたが、今日は堂跡の右(南)にある谷を探った。

実は、地形図の検討により、峠とは直接繋がらないものの、近江方面の東の山腹や堂跡に抜けるには、このルートの方が一寸交通効率が良いのではないかと感じられた為である。

さて、宝厳院推定地から当該の谷を進む。写真の如く、広く浅い谷となって上部へと続いていた。


如意寺・宝厳院推定地南の浅谷で発見した、古道跡とみられる掘り込み
宝厳院推定地南の浅谷で発見した、古道跡とみられる掘り込み(中央)


如意寺・宝厳院推定地南の浅谷上部を覆う崩落土

宝厳院推定地南の浅谷では、古道跡らしき痕跡を発見したが長くは続かなかった。平坦地裏の谷とは異なり、後代に引き継がれなかったからか。

そして稜線近くに至ると、写真の如く谷全面に崩落土を見る地貌となった。雪崩れたような地表、小石を多量に含む様が判るであろうか。

どうやら、地質的に問題があるのかもしれない。


京都東山の稜線古道から見た、如意寺宝厳院推定地の南に続く谷の源頭部

浅谷内の崩落土地帯を抜けると傾斜が増し、間もなく稜線に出た。写真は稜線古道から見た浅谷方面。だが、それへの分岐は確認出来なかった。

谷全体としては地形図通り傾斜が緩く、主路としての可能性も窺えたが、結果的に、堂跡背後の谷と比べ、平坦地や道跡等の人跡に劣り、また崩落土の存在や雰囲気的にも、有力視し難いルートであるとの感想を得た。

ただ、遺構後背地や接続地として価値はあり、保全の必要は十分感じられた。


東山稜線から見た安祥寺山国有林の風倒木皆伐現場

本題手前での思わぬ発見

東山の稜線反対側には写真の如く、先日報告した林野庁の風倒木伐採現場やその作業道が見えた。所謂「安祥寺山国有林」である。

東山の稜線まで登りつつ古道踏査したあとは、今日の本題であるその安祥寺山の遺構に向かう。大文字山山頂へと北上する尾根道を途中から離れ、南は安祥寺山への尾根道に入った。


安祥寺山北尾根の林道掘削現場で発見した古代の須恵器とみられる陶片

安祥寺山へ向かう途中、以前土器を発見した、伐採林道による山腹破壊箇所に立ち寄る。前に報告した通り、土器発見を報せた文化財保護課の調査が入り、遺跡地区拡大のきっかけとなった場所である。

発見した土師器(はじき。土器)のその後を見ようと寄ったのだが、なんと、その付近で新たな遺物を発見した。それは写真中央の陶片である。

膨らみのある器物の破片で、灰色・無釉・焼締めであることから、古代の大陸式高火度陶器・須恵器(すえき)とみられた。手に取って見ると、薄いその表面に轆轤(ろくろ)に因るとみられる回転痕も見られた。

この他、近くでまた新たな土器片を数点発見した。いずれも最初の土師器同様、上部遺構面から滑り落ち、掘削面に留まった状態である。以前念入りに確認して見つからなかったにも拘わらず今回容易に発見出来たのは、恐らく風雨で洗われたか、新たに遺構面から落ちた為かと思われた。

ともかく、この遺構や尾根の価値を高める良い材料となる。実は、自らの論考と少数の土師器のみでは、少々心許なさを感じていた。しかし、こうして更なる遺物を目に出来たので、確信を持つことが出来た。

是非また保護課へ連絡し、遺構の存在及び価値の補強にしたいと思った。


安祥寺山北尾根の林道掘削現場で発見した古代の土師器とみられる土器片
安祥寺山北尾根の林道掘削現場で新たに発見した古代の土師器とみられる土器片(中央上と同左下にある肌色の2点)


安祥寺山山中の尾根上にある謎の大平坦地と段差面

安祥寺山の未知遺構

本題前の立ち寄りでの思わぬ発見に因り、少々時間を取られたが、更に進んで安祥寺山の核心部に入る。

そこは平安初期創建の真言山岳寺院「安祥寺上寺(かみでら)」があった山地で、その主要堂舎跡と経塚が遺跡指定されている他、個人的に様々な人跡を確認していた。

その一つが、写真の平坦地段差。樹々で判り難いが、写真の上部1/3くらいの位置に高さ50cm程の土崖が一線に続いている。付近は幅40m前後もある尾根上の平坦地になっており、それを数段に分けるようにした、切り落としの一つかと思われた。

寺院関連の施設、しかもかなり大規模なものの遺構の可能性もあるが、地表を観察しただけでは遺物は見られなかった。


安祥寺山山中にある謎の人跡

そして、今回最も核心的遺構に至る。同じく尾根上に構築された溝穴である。恐らく人為製と思われる土崖の下に、大小幾つも連なって存在する、かなり大規模かつ謎の人跡であった。

写真はその内の大型のものを傾斜の下部側から捉えたもの。下部に谷状の口を備え、その奥に逆三角形状の大きくかつ深い穴がある。

周囲に遺物は見当たらないが、大量の灰状土が見られるため、何かの窯が想像された。だが、管見に該当するものはない。古代の穴窯や中世の大窯等の焼物窯、炭焼窯・製鉄遺構等を考えたが、入口より穴底が深いため、燃焼効率に劣り、それらに当てはめるには無理があった。また、地下資源等の採取跡の可能性も、穴が成型され個別に存在するため考え難い。

とまれ、一先ず保護課への報告用に撮影や観察を行う。因みに、数十年来付近を通行していたが、最近まで全く気付かなかった。近年、詳細不明の古代寺院・檜尾古寺(ひのおのふるてら)の推定遺物が大文字山付近で発見されたように、鹿の食害で藪が払われた所為か。


古代の経塚か仏堂跡を疑う、安祥寺山の小ピーク

謎の人跡の次は同じく尾根上の小ピーク(頂)へ。写真がそこで、一見何の変哲もない山上景に見えるが、実はその位置や姿、そして類似石材の存在等から、未確認の経塚跡、若しくは堂跡等ではないかと考えている。

安祥寺山は大変対称的な形状をした山で、既知の遺構もそれに拠り実にシンボリックに配置されている。その為、密教曼荼羅の「中台八葉」のような施設配置も想定され、実際それに対応するような地形がみられる(中心伽藍、安祥寺上寺本堂「礼仏堂」には正に金剛界曼荼羅の中心「五智如来(現存国宝)」が配置されていたという)。

故に、安祥寺山は全山遺跡区域化され、保護されなければならない。近年、恒久車道(防災道?)の延伸により核心部にも破壊の手が伸び、更に拡大の恐れも生じているので、一刻も早い遺跡指定が望まれる。

私の個人的調査の目的も実はそこにあり、なんとか実現させるべく、こうして行動していたのであった。


大文字山火床から見た京盆地を覆う厚い雲と緊急事態宣言下のハイカー

帰路大文字山頂と火床視察

謎の平坦地や大規模掘削遺構、そして経塚推定地を踏査後、更に別の推定地等を巡り安祥寺山を後にした。

今日も午後から天気が崩れるとのことで、帰路立ち寄った写真の大文字山火床(送り火の点火場所)では京盆地を覆う厚い雲の姿が見られた。

人と会わない間道を選べたにも拘わらず、敢えて人がいる道程を採ったのは、緊急事態宣言下の人の様子を窺うため。目論見通り、山頂や火床では時勢・天候にも拘わらず多くの人がおり、写真にもそれが窺える。

相変わらずマスク無しで、密集も多く見られ、特に欧米系の集まりが気になった。日本は彼の地に比して感染者が少ないため、別天地とでも思っているのか。山に限らず日頃感じていたが、開放感や親睦を妥協しないその質が、彼の地での感染爆発に影響したのではないかとも感じさせられた。

勿論日本人にも同様はいる。まあ、ある程度は仕方ないとは思うが、こちらも年寄りと接触する身(そもそも自身も低リスク世代ではない)。狭い登山路で律儀に待ち構え元気良く挨拶を放ってくれる、そこの姉ちゃん。心掛けは立派だが、ちょっとは時勢を考えてくれ(DTBWB風。笑)。


週末の昼間、しかも連休中にも拘わらず人の絶えた、新型コロナ緊急事態宣言下の銀閣寺
週末の昼間、しかも連休中にも拘わらず人の絶えた銀閣寺門前


新型コロナ自粛で観光客が消え、店も閉じられた銀閣寺参道商店街
観光自粛に連動して遊山客が消え、店も閉じられた銀閣寺参道商店街

下山。恐るべき銀閣寺門前の状況

そして、下山し無事市街へと達した。大文字山表登山路の起点となる銀閣寺門前である。連休に関係なく、週末はいつも賑わうというか、混み合う場所であるが、殆ど人が絶えた状態であった。繁盛していた店はシャッターを下ろし、中には既に空店舗と化していたものもあった。

知ってはいたが、改めて恐ろしい状況であることを確認する。恐らく、京都に限らず、全国の著名観光地でも同様なのであろう。山とは異なり、観光統制は上手くいっているようだが、これはこれで、深刻な経済的打撃は免れまい。どう転んでも難儀な状況である。

さて、その後雨にも遇わず無事帰宅。憂慮すべきことも感じたが、今日も短時間ながら有意義な散歩探査を終えることが出来た。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2020年04月11日

近山探道其参

鹿ケ谷から山腹を巻きつつ東へ続く古道と樹上に花を咲かせる山桜

身近に眠る幻の道求めて

今週末もまた、先週同様、鍛錬兼ねた近山の古道探査へ。

場所も同じく京都市街東部・大文字(如意ケ嶽)山。京都と滋賀に跨るこの山上を通り、嘗ての都と近江を結んだ「如意越(にょいごえ)」という古道が現在も残るが、それより古くかつ主路だったとみられる道を探す試みである。

それは、嘗て山中に存在した檜尾古寺(ひのおのふるでら)や如意寺(にょいじ)という古寺群を繋ぎつつ、都と近江を結んだ古代及び中世の道筋であった。その存在は私が長年この地を観察し、個人的に推論したものだが前回までの踏査でその実体を掴みつつあった。

それらの詳しい経緯や現地の状況等については前回までの記事を参照頂きたいが、とまれ、その幻の道探しに今日も挑んだ。


上掲写真 京都市街東部・鹿ケ谷(ししがたに)から山腹を巻きつつ東へ続く古道と樹上に花を咲かせる山桜。この道は谷筋を通る現在一般的な如意越ではないが、中腹の難所・楼門滝の急斜を避けられること、地盤が硬く安定していること、この道に対応した戦国期の竪堀や防塞らしきものが存在すること、明治中期の測量図に主路として描かれていること等から、中世以前に遡る物資運搬用の車道(くるまみち)であった可能性がある。


IMGP6534.jpg

今日も鹿ケ谷から山上を目指す。写真は山中の如意越古道沿いにある如意寺西部地区の支院・宝厳院推定地(上手である東側から撮影)。

現在一般的な如意越古道はこの平坦地右下の谷から稜線に向かうが、私の古道考察では同東部地区へ抜ける峠との接続効率や途中の各遺構との関係から、ここを経由することを有力視している。

実際、画像左上から右下かけて、かなり確りとした古道の路盤が残るのが確認出来る。ただ、この古道は平坦地只中を通り堂宇との干渉の恐れがあるため戦国期以降の寺院廃滅後に造られた可能性も窺われる。

それを考えると、新たな可能性が見えてきた。それは、画像左下から平坦地左端に下る一見自然地形のような傾斜である。所々荒れてはいるが、明らかに幅を持たせて造られた人為地形であり、当初の道筋かと思われた。


東山の稜線の東裏辺りの推定如意越古道の傍にあった山躑躅の花
私が推定する如意越古道が東山の稜線を越えた付近の路傍にあった、花を咲かせる山躑躅(つつじ)。今時分の、近畿の低山らしい光景

因みに、この後珍しくズボンにマダニ(子?)が付着していることに気づいた。人気のない藪めいた場所を通過したからか。

大文字山歴数十年、噂では聞いていたが、これまで道なき藪も気にせず巡った私でも、この山域では初めてのことであった。昨今獣が増えている弊害か。感染症の宿主でもあるので、皆さんご注意を。

消えた道跡追う

さて、東山の稜線峠を越え、東西に続く如意ケ嶽南面に出る。檜尾古寺推定地及び如意寺・大慈院旧推定地の平坦地がある山腹である。

その後、踏査初日に発見した、山腹の尾根を巻きつつ続く古道を東へと進む。その道筋の再確認や見逃し探査のためである。

そして、前回の知見を基に、発見古道と標高420m辺りにある現在一般的な如意越古道である稜線道との接続箇所を探した。踏査初日に倒木等で道跡を見失ったその区間を前回反対側(東)から探索したが、意外にもその時発見した東の古道が当該地手前で一旦稜線道に接続していたからである。

しかし、最後に古道痕跡が消える谷から山上に向かう道跡をどうしても見つけることが出来なかった。想定ではその谷から稜線道への巻道に上るか、もう一つ尾根を巻いたあとに接続するかの何れかとしていた。

前者が距離効率的に有力であったが、斜度が若干強く車道を設定するには少々難があった。高低差はせいぜい2、30mなので徒歩であれば大したことはないのであるが……。念のため、もう一つの尾根と手前の尾根に乗り古道の交差箇所等を探ったが、一切の痕跡を見つけることは出来なかった。

奇妙な人々

ところで、この思案と踏査の最中に奇妙なことが生じた。それは、私の行動が、どうも人に付けられているように思われたのである。

それは道の絶えた谷なかで思案している時に察した。尾根の裏側からバリバリと倒木の枝葉を踏み、こちらに向かい来る足音が聞こえたのである。

誰かに追跡されている?

考え過ぎのように思われるかもしれなが、これまで辿った道筋は一般のハイカーが知り得る場所ではなく、入る意味もない場所であった。また、途中には数多の倒木や崩落した危険な崖際を進む必要もあった。

最初は偶々別路を進んできた者かとも思ったが、方々倒木だらけで通行困難となっている。そして、近づいていた足音は何故か急に静まった。ここで一旦別路を進んだ可能性や林業関係者かとの想像も生じたが、手前側の尾根を踏査している際、私と全く同様を進む谷なかの人影を発見した。

それは、中高年のハイカー風の男女2人であった。しかも、彼らはその後、私が先に調べていた向こう側の尾根まで同様に探り始めた。

足を止め、身を隠してこちらの行動を見ていたのか。そういえば、その2人は古寺推定地で倒木越しにすれ違っていた。食事休憩をしていたように見え、その際1人と目が合い会釈したが、友好的な感じではなかった。

元より古寺推定地も難所ではないが、何の案内もなく、一般ハイカーが来るような場所ではない。恐らくは近年の調査報道で知って興味本位で来たのだと思うが、ひょっとして私が来るのを待って後を付けてきたのか。

その後、彼らの姿を見ることはなかったが、その不可解な行動に、少々薄気味悪い気分にさせられた。


深禅院推定地東の広谷から東に続く1間幅程の掘り込み地形

深禅院推定地東の広谷での発見

話が逸れたので戻す。推定古道と既存の稜線古道の接続路は確認出来なかったが、最短で100m程の区間なので保留することにした。

そして前回発見した稜線道から深禅院推定地へ向かう道から、推定地東の広谷に入る。そこでは前回見つけた東の森に続く不自然な谷を探査した。

写真はその谷に入ってすぐの場所。1間幅程の、明らかに整地された水もない掘り込みが、左に回り込みつつ上方へと続いている。


深禅院推定地東の広谷から続く一定幅・一定傾斜で上方へ続く人為地形
その先を進むと、この通り一定幅・一定傾斜で上方へと続く地形が現れた。これは、もしやして……。


深禅院推定地東の広谷傍の掘込地形で発見された石段廃墟
そして足下を確認すると……。やはりあった、石組である。この他同様に端部に残る2段程の石組を幾つか確認出来た。古い石段跡に違いない


深禅院推定地東の広谷傍の石段跡を登り辿り着いた山科への尾根道
石段跡の掘込坂は稜線まで続いていた。稜線上に見える道は如意ケ嶽の主道ではなく、南方は山科及び四ノ宮方面に続くものである。つまり、主稜線から分岐した南北支尾根上に出たのであった

石段の道は、かなりの労力で成された特別なものかと思われたが、広谷の北東にある本堂方面とは方角が違うため、主路とは思い難かった。

ただ、尾根の向こう下は以前踏査した本堂下の大平坦地群、即ち如意寺・藤尾口と接しているので、そこにあったと推測している寺院関係者の居住地と深禅院推定地以西とを結ぶ近道である可能性もあった。

あとは、ここが東西の寺領や山科方面を見渡せる頂部に当たるため、望楼的施設や、小規模ながらも何か重要で記念すべき宗教施設があった可能性も考えられる。

まあ、これについては今回の古道考察とは少し逸れるため、今後の課題としたい。


如意寺本堂地区へ続く巻道と浅谷

如意寺西部地区の中核、本堂跡へ

山科への尾根道を北上して主稜線の如意越道に戻る。途中不意にMTB(マウンテンバイク。山行自転車)が現れたり、大きな雄鹿2頭が馬の如く飛び出てきたりして少々驚かされたが、更に東して本堂地区へと向かった。

写真は本堂地区への道。道筋はまた現在の如意越古道から逸れ中腹を巻く道となった。この辺りの如意寺関連の古道は比較的判明しているが、写真のように巻道として直接本堂平坦地へ向かう道は後代のものとみる。

恐らくは右下の浅い谷に主路があった筈である。それは以前踏査・検討した通り、その道筋が本堂跡下に残る要路交点と自然に接続する為である。


凄まじい倒木に見舞われる如意寺本堂跡平坦地

今回はその谷道も再確認したかったが、この付近も凄まじい倒木に見舞われ、探査不能となっていた。写真はなんとか達した本堂跡平坦地。

巻道のみ倒木が切られ辛うじて通行出来たが、被災直後は全く通行出来なかったであろう。現在も道から外れて進むことはほぼ不可能である。

そしてまた、無数の倒木の根が遺構面の土砂を大量に掴んでおり、更なる破壊進行が懸念された。


如意寺東門推定地の門口部分とそこを通過する推定古道

東門推定地如何

倒木の巣窟と化した本堂地区を抜け、その東端で、以前私が独自推定した如意寺・東門跡に達した。写真はその門口部分と通過する推定古道。尾根を掘り込んで平坦地を造り、交通を制御する形となっている。

約700年前の古絵図には描写はないが、道の左右に築地か土塁跡とみられる畝状の高まりが残るのも特徴。


如意寺東門推定地の東裏に続く古道
如意寺東門推定地の東裏に続く古道。道はこの先東の近江側山麓にある如意寺本山・園城寺(三井寺)まで続いていた筈である。これ以東は個人的に未踏査地となり大変興味深いところだが、その調査はまた日を改めたい


如意寺東門推定地跡の倒木の根の土から出土した須恵器らしき遺物

それにしても、倒木の被害は地区外れの東門推定地も例外ではなかった。大きな木が根毎倒れ、遺構面を大きく抉っている。その土を覗くと、やはり幾つもの古い焼物片が確認出来た。

写真はその一部で、須恵器の皿か杯と思われる。門址であるかどうかの確証はともかく、遺構であるとの推論が憂慮すべき形で実証されてしまい、複雑な気分にさせられた。


如意寺東門推定地から見た本堂地区の倒木被害
如意寺東門推定地から見た本堂地区の凄まじい倒木被害

本堂下から東門推定地までの主路古道は以前の踏査で確定している。本来は今日再確認したかったが、見ての通りの有様で不可能となった。

因みに、古道は倒木原の只中を通り本堂下に達している。ただ、今後重機作業等が入ると破壊される恐れもあった。


大文字山火床からみた、京都市街の屋並と始まった樹々の新緑

情勢儘ならぬも……

東門を最後に今日の踏査を終え帰路に就いた。写真は如意ケ嶽稜線付近を通る現在の如意越道を西へ戻り達した大文字山火床(送火の点火地)。

桜が終盤となり新緑が姿を現してきた。本来なら喜ぶべき春到来となるのだが、存知の通り、新型肺炎の所為で世間儘ならぬ状況となっている。

個人的にも色々な事情・影響があり再踏査の実施も定かではないが、近くに住む史学者の義務として、また遺構保全の為にも完了させたいと思う。

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2020年04月05日

近山探道其弐

平成30年の台風21号により倒された如意ケ嶽山中の植林地とその空隙から覗く、南方は山科・醍醐方面の市街や山並み

鍛錬兼ねた裏山古道探査再び

新型コロナウイルスの流行拡大により遠出の雪山鍛錬にも行けず、仕方なく鍛錬兼ねて先日行った、家裏は大文字山での古道探索

今日はその続きとして、前回倒木に阻まれ進めなくなった地区を反対側から踏査することにした。古道は、古代及び中世、山中に存在した天台寺門派の大寺「如意寺」の諸堂を繋ぎつつ京と近江を東西に繋いだ所謂「如意越」。つまり今回はその道跡の一部を東の近江側から探すという形に。

現在伝わる大文字山(如意ケ嶽)稜線付近を通る如意越古道とは異なる寺院経由の主路を探すのだが、そうすることで檜尾古寺(ひのおのふるてら)遺構の発見(比定)により宙に浮いた如意寺「大慈院」推定地の再設定や新遺構の発見、またそれらの破壊防止に資すという思惑があった。


上掲写真 平成30年台風21号により倒された如意ケ嶽山中の植林地とその空隙から覗く、南方は山科・醍醐方面の市街や山並み。


平成30年台風による凄まじい倒木で荒れる如意寺・深禅院推定地
平成30年台風による凄まじい倒木で荒れる如意寺・深禅院推定地

深禅院推定地の荒廃と意外な軟弱土

先ずはまた京都市街東端の鹿ケ谷(ししがたに)から山に入る。今日は前回不通の場所を探るため、一般的な縦走路、即ち現代の如意越古道を進み、当該地東部に入った。

そこには檜尾寺及び大慈院旧推定地から幻の古道で接続されていたとみられる深禅院という如意寺支院の推定地があった。ここを基準に京側(西)へ向かう古道を探しつつ前回見失った道跡を踏査する予定であった。

そして稜線道の傍にある雨神社という、これも如意寺・赤龍社跡とされる祠辺りから山林に分け入り、深禅院推定地に到着した。ところが、そこは以前訪れた時とは全く異なる状況となっていた。

平成30年台風で大規模な倒木が発生し、中に入ることも儘ならぬ荒れ様ったのである。


如意寺・深禅院推定地の一石五輪塔
辛うじて平坦地内部に入り発見した、以前も紹介した五輪塔。正に絨毯爆撃的な倒木被害のなかで、奇跡的に直撃を免れたようであった

深禅院推定地は、元々良好に平坦地や建屋基壇が残っていた大きな遺構であったが、今は平坦地であることすら判らない。また遺構面の土を掴んで根こそぎ倒れた木も多いため今後の被害拡大も懸念される。やはり遺跡への植林は何らかの規制を加えるべきであろう。


如意寺・深禅院推定地西の谷地で見た倒木の根に付く軟弱表土
深禅院推定地西の谷地で見た、倒木の根に付く軟弱表土

さて、深禅院推定地からの古道探しであるが、平坦地がある尾根の周囲はかなりの急斜となっており、その痕跡は全くなかった。それどころか、元より正面からこの平坦地に登る道すら曖昧なものであった。

私は、700年前の鎌倉末期に描かれたとされる如意寺の絵図にある深禅院の姿から、平坦地端の門から下る階段下に主道が接続していたと想定していたが、それも西側の地形が険しく想定し難かった。

平坦地西の土崖を再度覗き、また足を踏み入れてみるが、斜度が強く、また崩れやすい地質のため、やはり道の存在は想定し難い。崩れて廃滅してしまったのであろうか。

そういえば、ここの平坦地は檜尾古寺及び大慈院旧推定地とは異なり、尾根を奥深く掘って造成されている。その特異で人為的な逆凹字形の様は、1/25000という粗い地図上でもはっきり判る程である。元々崩れやすい地質の場所に大面積を得るために意識して造成されたのか。

しかし、東西一線に並ぶ如意寺諸堂の主要支院のため、必ず主路と接していた筈である。

無理やり西斜面上手から西方の谷に出て、更に西の尾根斜面で道跡を探すが無し。それどころか、ここも地質が軟弱で、元より道を維持出来るような場所とは想われなかった。


山科と如意ケ嶽の稜線を繋ぐ南北尾根上の道

仕方なく、一旦その西尾根上に登る。比較的地表が安定した尾根上なら、痕跡が残り易いことを期待したのである。

写真は西尾根上の道。南方は山科方面から如意ケ嶽稜線へ上る主要路の一つとなっている。無理やり這いあがってきた横斜面の崩れ易さとは別世界の安定ぶりであった。

東西古道が在ったとすれば、この道のどこかに交差痕跡がある筈なので、山上諸堂の平均的標高400m付近を重点的に探した。しかし、無し。この尾根にも少なからず倒木荒廃があったので、西斜面にも回り込んで調べたが、やはり地質が軟弱で道の痕跡は疎かその残存も無いように思われた。


南北の尾根道から深禅院推定地へと向かう古道跡
南北の尾根道から深禅院推定地へと向かう道跡

道は上方から

諦めて、尾根道を登り稜線道に出ようとした時、なんと東へ向かう道を発見した。道は交差ではなく尾根道から分岐する形であった。分岐部辺りの道幅は半間程あったので単なる仕事道ではないことは明白である。

元より、尾根道もこの付近より尾根から外れ稜線頂部下を西へ巻きつつ稜線道と接していたので、分岐側が主体であった可能性もある。


倒木に阻まれながらも深禅院推定地へと続く古道
倒木に阻まれながらも東へと続く分岐の道

分岐の道を辿るとやがて細くなったが谷を巻きつつ続いていた。そして、やはり深禅院推定地の西端に接していたのである。そこは平坦地の崖上だったが、西端もしくは西側小平坦地との間に緩やかに下ることが出来た。ここも倒木が多いが、地表を調べれば痕跡を確認出来るかもしれない。

ただ、台風以前の調査に基づく埋文研の図には記載がない未知の古道なので、やはり明瞭ではないかもしれない。

しかし意外にも古道は上方から深禅院推定地に接続されていたのであった。思えばこの辺りの稜線標高は420m程しかなく、主路古道の推定標高に近い。そのため迂回や軟弱地質を避け一旦稜線に上って東へ続くようにされたのか。これなら推定地から直行する道跡がないことも理解出来る。

「古道は稜線ではなく巻き道」との思い込みを反省したのであった。


深禅院推定地東の広谷にあった境界木らしき大木と古い境界石

思わぬ分岐道の発見により諦めかけた古道探しに光明を得たが、深禅院推定地から東への接続はどうであろうか。

先ず、その平坦地の急斜から下る場所が設定し辛い。正面の急斜を斜めに下る不明瞭な道が上方古道との接続が良く、最も合理的と思われたが、絵図に描かれた階段と干渉するため考え難く、後代のものかと思われた。さりとて平坦地東端やその付近の崖には一切痕跡はない。

「車道」としての機能は一旦ここで断絶していたのであろうか……。

それらの問題は一旦置き、深禅院推定地を下って東側の広谷等に道跡を探す。道は見当たらないが、写真の如く、道の推定地付近に境界石があったので、可能性は窺えた。


深禅院推定地東の尾根斜面に連なる台風倒木
次の尾根を巻く道も探してみるが、この通り、また倒木の連発である


深禅院推定地東の尾根上に現れた既知の遺構平坦地
それでも無理やり進むと尾根の突端に明らかな人工平坦地が現れた。ここは詳細不明ながら、埋文研の報告書にも図示された既知の遺構である


深禅院推定地東の尾根上平坦地で見つけた焼物らしい遺物
平坦地遺構にて足下を見ると、焼物らしき遺物を発見


深禅院推定地東の尾根上平坦地で見つけた、下駄の歯状の装飾ある須恵器らしい遺物
平坦地遺構で見つけた遺物を手に取って見る。焼きの甘い須恵器か。皿とも瓦ともつかない器胎の側面に下駄の歯状の装飾がみられた。中世以前のものに違いなく、如意寺との関連を窺わせた


深禅院推定地東の尾根上平坦地の下部の平坦地
深禅院推定地東の尾根上平坦地下には更に一回り小さな平坦地があった。これも既知のものだが、水平具合とそれが良く保たれていることに感心


深禅院推定地東の広谷から東に続く不自然な谷

深禅院推定地東の尾根上平坦地は道跡候補として期待したが、その東側には小さくも鋭い谷があり、道跡の推定はし難かった。元より、地形図を確認すると次に向かうべき本堂とは方角が逸れるため可能性はないと判断。

また深禅院推定地東の広谷に戻り周囲を観察すると、東の森なかに続く不自然な谷地形があることを発見。写真がそれで、人為地形と判断したが、今日は深禅院推定地の西の調査が目的であったため、次回の課題とした。


如意ケ嶽稜線付近に続く現在の如意越古道
如意ケ嶽稜線付近に続く現在の如意越古道

稜線道に接する道跡探す

次は深禅院推定地以西に戻り、今日得た知見に基づき、推定地への分岐道が接する稜線道の西に接続する道跡を探す。偶然にも、そこは前回手詰まりになった場所に近く、倒木地帯を避けて考察することが可能となった。

ただ、道跡らしきものは見つけられず、時間も遅くなってきたので、次回再調査することとして下山することにしたのである。

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2020年03月26日

東山壊乱其肆

夕陽を受ける京都・大豊神社の枝垂桜。2020年3月23日撮影

安祥寺山破壊・土器発見その後

昨年の12月14日同29日に報告した、京都東山・安祥寺山(あんしょうじやま。大文字山南隣)における山体破壊とその現場での土器発見の件。

1月11日の記事で京都市の文化財保護課から現地調査の連絡を受けたことを報告したが、その後連絡が絶えた状態であった。

前の連絡の際、機材持ちで現場に入る際の効率的な路程教示も乞われたので、すぐに車輌と徒歩双方による詳細な接近法を記して返信したが全く音沙汰無し。元より、この地で調査を続けてきた専門部署が私に行き方を訊くのもおかしな話だが、更なる破壊の恐れから一先ず最優先で協力した。

色々と多忙であることは解るが、自ら訊ね早急詳細な返答をもらいながら、一語も返せないとは如何なものか。史学の徒、東洋の文官としての矜持を思う。昨年、京都市内で国内最古級とされる町家が解体された際、当主が市との交渉に失望したとの表明があったが、少々それに同情を覚える気分にさせられた。

実は、昨年末から同様に連絡を取っていた工事施主の林野庁から、今回の施工についての説明面談の申し入れがきていた。そのため、その席で現地山域の価値を示すものとしても、保護課の調査結果が待たれるところとなっていたのである。

為に仕方なくこちらから保護課へ連絡を入れれば、担当者から返答があった。暫く休暇をとっていたという。事情や時機による休暇は仕方ないが、2カ月以上も経て問われる前にどこかの段階で「一語」返せなかったのであろうか。自分の様な規格外の人間があまり言いたくないが、もう少し諸事思い及んで頂きたいと思った。


上掲写真 京都市街東部にある大豊神社の枝垂桜。夕陽を受けた桜花がいつもとはまた違った美麗さを見せる。ここも東山山麓なので、もし同山域で山火事等が起れば犠牲となりかねない。2020年3月23日撮影。


昨年2019年12月29日に安祥寺山北尾根の破壊現場にて発見した古代の土師器と思われる土器片
昨年12月29日に安祥寺山北尾根の破壊現場にて発見した「土師器(はじき)」とみられる古代の土器片。左端に玉縁らしき細工がみえる

面談当日の急報

さて、こうして保護課の調査を待つも進展がなく、4月の官庁異動も迫っていたため、今夕、林野庁との面談を行うこととなった。ところが、今朝保護課から連絡が入り、山城と山岳寺院専門の調査員による現地調査により、私が示していた安祥寺山北尾根の平坦地が遺構として認められ、埋蔵文化財包蔵地(遺跡地区)が拡大されることとなったという。

偶然ながらこれには少々驚かされた。当てに出来なくなっていた保護課の件が急転し、望む保護地拡大が果たされたのである。既に切られた北尾根鞍部や平坦地側面については残念な限りだが、更なる破壊を抑える進歩的朗報となった。また、林野庁に対する説明・説得の良い材料ともなった。

林野庁支所へ

そして夕方から林野庁へと出向く。同庁の支所で、現場山域を管掌し、今回の施工を主導した市内の森林管理事務所である。先にそこの所長さんから丁寧な説明文をメールでもらっていたが、更に話を聞くために今日の面談を約束していたのであった。

場所は府庁等の公館が集まる市街中心部。近年改築したという真新しい近畿農政局の庁舎内にあった。守衛2人と保安改札で護られた受付で手続きを済ませ、カードをかざしてゲートを開け館内に入る。業務柄、府や市の庁舎に比べ警備が厳重なのか。

事務所自体は改札のすぐ傍にあり、扉の前に立つとすぐに所長氏自ら出迎えてくれた。こちらは玄関の厳重さとは対照的に親身である。私も丁重に機会の提供に感謝し、面談場に通された。

面談場では所長の他、説明の為に事務方と技官の責任者計3人で対応してもらうこととなった。私は史学科出の一市民で、地元で史跡や自然観察を有志・個人で行う者として臨席。先ずは私が事前に送付しておいた書類の質問を述べ、その後、所長さんが回答を含めた見解詳細を説明してくれた。

その主な質問内容と回答は以下の通り。

1. 現場に投棄された吸殻と空缶の件1月11日の記事参照) 煙草の吸殻と空缶の投棄場所は、一般ハイカー等が通行や休憩をする地点とは思い難い「作業区域内」にあったと返答したが、これに対する返答はどうなったのか。麓に住む人間として山火事等の危険があり看過し難い(先にこの件を先方へ伝えており「指定場所以外で喫煙することはありえず、空缶投棄もありえない」との調査結果を得ていた)。

回答 所員による現地再調査にて指摘の通り吸殻と空缶を発見した。今回は作業者の供述を信じざるを得ないが、今後は本件を一例に、現場規則の遵守を徹底させたい。

2. 作業現場の施工法1月11日の記事参照) 作業道開削による谷の閉塞・滞水や、表土も浚うような皆伐による土石流等の二次災害の恐れについての質問に関する「地質・地形を調査・計算の上で安全施工しているのか」という質問への返答を頂きたい。

回答 基本的に現場施工は委託業者に任せている(調査や計算はしていない)。指摘の箇所は台風倒木が酷かったため、止む得ず緊急的に皆伐による整理と再植林を行った。ただ施工終了後も継続して現地を監視し、崩落等に備える。また、指摘の滞水箇所については再度現地にて確認したい。

3. 作業現場の原状回復3月15日の記事参照) 作業終了翌月の令和2年3月15日の段階で原状回復工事が行われていないが、計画はないのか。また、左京側からの既存新林道末端に設けられた伐採木置場跡には未だ伐採木の残骸が多量に放置されいるが、回収されないのか。

回答 作業道はその後の林内作業等のため保持する。ただ、恒久的な林道ではなく、擁壁等は設けず、やがて自然に還る扱いとする。勿論それによる崩落の危険等には十分注意する。安祥寺山北谷を埋めるように通された作業道には水の流れ道を切った。また、伐採木置場の残置物の件は、管轄地外の借地のため、元からあった切株等(施工前写真を提示)を谷側に残した(しかし写真の残骸より多かったと私が指摘すると、一度現場を確認して対処したいと返答)。

4. 安祥寺山北尾根等の自然林再生12月14日の記事及び1月11日の記事参照) 安祥寺山と大文字山を繋ぐ北尾根西面は以前豊かな自然林で覆われていたが、今回の整理により伐採及び作業道による地盤破壊が行われた。今後ここへの対処はどうするのか。

回答 既に通した作業道については質問3への回答通り。ただ、その開通に伴い伐採された箇所には自然林を再生させる予定。根本、安祥寺山国有林を含む都市近郊の森林はコスト的に生産利益が望めず、林業経営を目的としない、より自然な混交林への転換を図っている。当国有林についてもその最中であり、今後山内全域に敷衍する予定である。

5. 重機使用不可欠への疑問 以前「風倒木の処理等の作業を安全かつ着実に実施する上で、重機の使用は不可欠」との返答をもらったが、今回のように山腹や尾根に細かく道を通すような施工は、ごく近年しか見受けられないものだと思われる。それ以前には少ない主道のみで対処出来ていたものが、どうして不可能となったのか。工事規模・予算的には更に環境負荷が少ない方法も可能なようにも思われる。

回答 実は林業は全産業のなかで突出して労災事故が多い(資料のグラフ等を提示)。近年少しずつ改善されつつあるが、それでも死傷者が多い状況なので、それを改善するため極力伐採・整理現場に人を入れず、重機等の機械による作業に転換したい。それ故、より現場に機械が接近し易い作業道が必要となる。また、現状他の方法より、作業道を通すこの方法が最もコスト的にも優れているという事情もある。

6. 施工への見解及び今後の展望詳細 今回の施工、またその他所轄における自然・歴史等の文化価値棄損に対する見解、及び今後の御庁・御事務所の展望が知りたい。

回答 我々も歴史関係を含めた山林の文化価値を十分認識しており、その保全を重視している。そのため、施工前には文化財保護課と協議し、施工中はその立会等を受け入れている。ただ、健全かつ安全な山林を恒久的に育て、維持するという主だった役割もある。現在林野庁では、山林を「山地災害防止タイプ」「自然維持タイプ」「森林空間利用タイプ」「快適環境形成タイプ」「水源涵養タイプ」という5つの機能類型に区分して、それぞれの目的に応じた施業を実施している。そういった施策のなかで、景観等も含む文化的価値を保全・活用してゆくつもりである。


以上、こちらの質問に対し各氏交えて答えてもらいつつ、所長氏が代表して事務所の立場や見解を説明してくれた。

投棄の件は事実を認めつつ、これ以上の追求は困難なので以後の周知や対策を強化するという形に。具体的には次の入札から行うという。また崩落危険等の件では、責任重大なので常に全方向に気を遣い、苦慮している旨を率直に語ってもらった。

そして今回の本題でもある重機使用や作業道開削の件は多大な死傷者対策という深刻で切ない事情も知った。作業道の原状回復については他所から土を入れることや改変の履歴が判らなくなるという問題も浮かび上がる。

ただ、林内が不自然な営利植林から、より自然な天然林へと転換が図られていることは喜ばしいことであった。山林利用の転換期でもあり、林野庁としても今後の管理等々で色々模索していることも窺えた。


作業道により切られた安祥寺山北尾根鞍部と無限軌道運搬車。2019年11月23日撮影
作業道により切られた安祥寺山北尾根鞍部と作業用無限軌道車。土器を見つけた小平坦地と平安後期の安祥寺山経塚遺跡の間にあり、山科からの主路古道の接続箇所かつ直下の谷から平安前期の瓦が見つかる要所ながら遺跡指定地ではなかった。そのため無造作に掘削されたと思っていたが、意外にも保護課から8名程の人員が立ち会い慎重に作業が行われたという

林野庁への要望・建議

質問への回答と説明を受けたのち、改めてこちらからの要望も述べておいた。これも、事前送付した一文に記していたが、補足を交えつつ……。

1. 安祥寺山国有林を含む山域は平安京至近という場所柄、山岳寺院や城塞、古道等の遺跡が濃密に存在している。それらには未調査のものも多く、また公が未知の遺跡も数多く存在する。山林整理の重要性は理解するが、他に比して極めて文化価値が高い山域のため、今後地形改変を伴う施工は止めて頂きたい。

補足・建議 現状、作業道開削が安全面・コスト的に最良の方法とのことを今日聞いたので、早急なる代替法の開発や採用をお願いしたい。建議としては、コストや環境負荷が少ないモノレールを使用し、作業に使用しない時は民間に貸し出すなどして歴史・自然観光用と併用するのはどうか。

2. 安祥寺山国有林を含むこの山域は自然観察と共に古代からの人文痕跡も観察出来る豊かでかけがえのない場所、生きた教材でもある。21世紀のつい最近まで残されていた古代・中世そのままの姿を次代へと引継いで頂きたい。人との関わりが深い山は単なる営林・治山治水用の土壌ではない。

補足・建議 現在行われている林野庁の施策や認識より更に広く山林の価値を捉え直し、より複合的な保存・活用をお願いしたい。

3. 既に城塞遺構や遺物散布地、古道が破壊され取り返しのつかない状況になっている。また、切られた急斜が崩壊を起こし、更なる地形変化・遺跡破壊の危険性もうかがえるので、改変箇所の原状回復を望む。特に、切られた尾根(歴史的通路・自然散策路)や途絶した古道(特に安祥寺山北谷や伐採木置場付近の古道)の原状回復を切にお願いしたい。

補足・建議 原状回復については、質問3の回答にある通り現状叶わず、また他所から土を入れることや改変履歴が判らなくなるという問題も浮かび上がった。つまり、現地環境的に、やはり取り返しのつかない状況となったので、改めて今後の施工や工法を考慮してもらいたい。また、安祥寺川の主要水源である安祥寺山北谷が作業道として埋められたことに対し、歴史遺産(平安前期の瓦が発見されている遺跡指定地)や水源価値・動植物生息地棄損に遺憾の意を表する。そして、同谷から北尾根までに存在した山科からの主路古道が消失してしまったことの重大性(学術的・散策路としての価値)を改めてここに告げる。

4. 山火事の危険や他の作業者の健康・環境汚染(山は水源地)に関わるので、施工現場での喫煙は一切禁じて頂きたい。

補足・建議 元より、被害甚大となり易い山火事に注意すべき山中作業で火を使う「嗜好品」が許されること自体おかしく、時代錯誤的状況である。

5. 以上、地元京都はおろか、日本の宝でもあるこれら人文山域を、どうか次世代の為にも慎重かつ大切に扱って頂きたい。森は造林によって回復させることが出来るが、文化痕跡は破壊されると二度と元には戻せない。


面談終了。良き方向に進むよう……

森林管理事務所を通して林野庁に述べた要望は以上の通り。場合により東京の本庁にも直接提出しようかとも思っている。

1時間以上に渡り続いた面談はこれにて終了となった。同事務所の対応は大変真摯であり、好感が持てるものであった。

しかし、肝心の重機使用による地表攪乱が今後も行われる可能性があることが判り、危機感も高まった。ただ、その裏には事故減少を図る切実な事情も明かされ、それに対する意志や行為としては共感・理解出来た。

元より、この件に関しては双方主張が平行線を辿ることを予想しており、実際それに近い結果となった。ただ、そのような状況でも、法令や役所間の遣り取りでは望めない、将来へ好影響を与えるべき細やかな説明をすることが出来たと思う。

特に、古道の存在と重要性を認識してもらったことは一つの成果であった。実際、事務所の人々は遺跡に対する認識はあっても、古道に対する認識はなかったという。

古道は遺跡研究の重要な手がかりともなり、それ自体が遺構であり遺物を秘める可能性を持っている。また人の身の丈にあった規格で古くから定着している通路のため、比較的安全で歩き易いという実用性も有している。

さて、臨席3氏皆さんに面談の礼と今後の善処をお願いして、事務所を後にした。そして、今朝届いた遺跡地区拡大の件共々、万事良き方向に進むことを願いつつ、陽の落ちた家路に就いたのである。

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2020年03月15日

近山探道

大文字山山中の如意寺宝厳院跡辺りで見た平安後期の軒瓦の破片

鍛錬兼ねた裏山古道探査

先週等にも記したが、本来なら自分にとってまだ雪山鍛錬期なのだが、暖冬・少雪により仕方なく体力訓練に重点を置く近山行を繰り返していた。

今日も自宅の裏山的な大文字山(如意ケ嶽)に向かう。ただ、今回は鍛錬というより、以前から気になっていた古代・中世の古道探しを主目的としていた。


上掲写真 平安中期(10世紀前期頃)から中世までの間に大文字山山中に展開していた如意寺(にょいでら)の西部寺域「宝厳院」跡辺りで見た平安後期のものとされる軒瓦の破片。


如意寺宝厳院跡付近の地表に散る平安期の瓦や器

知られざる主路

探査すべき古道は、京と近江を結ぶ所謂「如意越」の一種で、都東郊や同地の天台寺門派寺院・聖護院(但し創建は11世紀末)と、近江にある同派の本山・園城寺(三井寺)を連絡したとみられるものであった。

道の途中山上には同じく寺門派・如意寺の長大な寺地が連なっており、道はその境内路を兼ねていたと思われる。現在、如意古道は山上稜線付近を通過するものが一般に知られているが、如意寺境内より数10m無駄に高度上げなければならず、以前から不可解に感じていたのである。

恐らく、現在の稜線古道は、間道か近世以降や戦国期の如意ケ嶽城(大文字山城)関連のものと想われた。京側斜面を除く如意寺各堂は標高400m程の山上平坦地に東西に並ぶように存在している。その為、それらを直接繋ぐ、荷車運搬が可能な主路が必ずあった筈だと思っていたのである。

今朝は京側・鹿ケ谷(ししがたに)から山上を目指す。写真は前掲のものと同じく如意寺宝厳院跡付近(標高360m前後)の遺物。瓦や器等の破片が無数に散乱しており、一応、京都市考古資料館の同遺構を知る人に画像を見てもらった。

これら重量物の多量の存在も、古代山中に在った主路の存在を裏付けるものといえる。


如意寺宝厳院跡付近の地表に散る平安期の「生焼け」の須恵器(中央右)
同じく如意寺宝厳院跡付近の遺物。中央右のものは赤い色で一見土師器(はじき)のように見えるが、焼きが甘い所謂「生焼け」の須恵器(すえき)という。年代は前掲の瓦と同様とのこと


新林道傍の伐採木置場の残骸で塞がれた推定如意古道

古代要路も免れぬ
文化・自然遺産の破壊


さて、如意寺・宝厳院跡から一般登山道を外れ、堂裏の谷奥へと進む。ここから東山稜線までの間には謎の造成地・平坦地や盛土の古道が続くことは、今年1月に紹介した。

ここに残る古道は平坦地中央に付けられているため、施設廃滅後に造られた可能性もあるが、如意寺東部遺構やそれに隣接する檜尾古寺(ひのおのふるでら)推定地がある如意ケ嶽南斜面に最も効果良く回り込めるルートのため、主路が敷かれた可能性が高い場所であった。

しかし、その要路跡は写真の如く稜線手前で途絶させらていた。近年新たに山上に通された林道と、それを利用して去年から今年2月まで設けられた伐採木置場のため破壊されたからである。


新林道から見た、推定如意古道を途絶させた伐採木置場とその放置残骸
新林道から見た、推定如意古道を途絶させた伐採木置場とその放置残骸。原状回復されていないばかりか、多量の木材類が放置されている。施工は林野庁による国有林整理の一環。業者のいい加減な作業を放置せず、ちゃんと片付けさせるべきである


原状回復されずに放置されている、伐採木置場付近にある東山の稜線古道の破壊箇所
伐採木置場付近にある東山の稜線古道(大文字山城・大日山城遺構間)の破壊箇所。新林道末端のここから、南の伐採地へ通した林道(左の切通し)の原状回復も行われず、放置状態である。元は、歴史的価値のみならず、雑木林に囲まれた静かで良い自然環境が残っていたのに……


新林道による破壊を受けつつ稜線に続く如意古道(中央奥)
新林道により破壊を受けつつ稜線に続く古道(中央奥)


東山稜線裏(東)に続く推定如意古道
東山稜線裏(東)に続く推定如意古道(中央)

要路兼ねる謎の古寺平坦地

そして、稜線付近に残る古道跡(ここはその戦略的位置から大文字山城の堀切跡の可能性もあり)を辿り東側へと緩やかに下る。

鞍部(峠)の標高は約410mで、その東直下には最近、詳細不明の謎の寺院・檜尾古寺跡の可能性が高まった平坦地群があるなど、如意ケ嶽南斜面に通じる最も交通効率の高いルートであった。


檜尾古寺推定地手前の小平坦地下にある広谷と、その奥に残る別の小平坦地
檜尾古寺推定地手前の小平坦地下にある広谷と、その奥に残る別の小平坦地。この下部にも土留めの石積が崩壊したような痕跡があり、更なる平坦地の存在を思わせた。これらのことも、このルートの重要性を窺わせる。


倒木で荒れる檜尾古寺推定地
倒木で荒れる檜尾古寺推定地

古道は東へ進むと等高線に沿って造成されたような露台状の幅広い通路兼平坦地となった。その途中に近年の調査により檜尾古寺推定地とされた開けた場所が現れる。

個人的には、その調査の前から如意寺・大文字山城関連の遺構として何度も見学したことのある場所であったが、今回は平成30年台風の被害を見せつけられることとなった。

写真で見る通り、植林樹が遺構面の土を大量に掴んで倒れている。平安初期のものとされる遺構がこの状況とは頂けない。同様の被害は大文字山城の土塁でも見た。今後遺構への植林は何らかの規制を設けるべきである。


近年、如意寺・大慈院跡から檜尾古寺推定地(東部)に改められた、礎石残る平坦地
かつて如意寺・大慈院跡とされるも近年檜尾古寺推定地(東部)に改められた平坦地。平安前期のものとみられる建屋礎石が残る

推定が改められた根拠は、鎌倉将軍寄進という大慈院なら発見されるべき中世の遺物が見つからないことや建屋の規模がそれより大きい為という。

研究の進展により推定が改められるのは仕方ないが、所在が判らなくなった大慈院や関連の西方院等の調査や見解も早期に望むところである。


檜尾古寺推定地東端から東へ続く古道
檜尾古寺推定地東端から東へと続く古道

未知の山域へ

檜尾古寺推定地東端からは、やはり道跡があり、東へと続く。この先の古道の残存は想像していたのみで未知だったので、今回の踏査は、正にここからが本番となった。

推定では山腹の谷なかや尾根上にテラス状に造成された如意寺東部諸堂が点在する標高400m付近の等高線に沿う形で道が東へと続いている筈である。だが現在ここから東は道がないとされる場所で、幾つもの尾根や谷が連続する複雑な地形が続く山域となるが、一先ず進んでみることにした。

文字で記すと解り難いが、リアス式海岸沿いの道同様に続く、山腹の一定標高を縫う車道(くるまみち)を探す試みである。


檜尾古寺推定地の東の尾根横に続く獣道状の古道?

檜尾古寺推定地東端から東へ続く古道は一旦谷地で消失していたが、次の尾根方向へ続く斜面を見ると、僅かな痕跡があった。

写真がそれであるが、獣道に近い状態のため古道との判断は下し難い。ただ、想定通り比較的高度を一定に保ちつつ尾根を巻くように続いていた。


崩壊しつつあるも、檜尾古寺推定地東の尾根突端を巻き再び谷に向かい続く古道
崩壊しつつあるも、檜尾古寺推定地東の尾根突端を巻き、次の谷に続く古道。どうやら地盤が硬く安定した尾根突端付近に比べ、谷側斜面は崩落し易いため道の残存が悪いように思われた。滑落に気をつけつつ慎重に進む


急斜の崩落地を越えまた明瞭となった推定如意古道
少々危険な急斜の崩落地を越えると道は明瞭となった。やはり、古道は想定通りのルートで続いているように見えた


尾根を巻きつつ続く推定如意古道と倒木
谷を越えまた尾根を巻くが、やはり道は続いている。ただ、所々倒木があり進み難い


推定如意古道上の谷地に現れた標石らしき石柱
そしてまた谷地に入ると境界を示す標石らしき石柱が現れた。近世以降のものとみられるが、土地境界は古道址の有力な証ともなるので重要である


本来の如意古道と思われる、如意ケ嶽山中の尾根突端付近で見つけた幅半間以上の道跡

確たる証見つかるも……

そして次の尾根の突端付近で確たる証を見つけた。写真にある幅半間以上の道跡である。山仕事用の小道を超えた規模で、荷車や貴人の輿が通行可能な正に古道址と思われた。

やはり、本来の如意古道は存在した。結論を出すには更にこの先を調べ、如意寺本堂地区との接続を調べないとならないが、一先ずの確証は得られたと感じられた。


推定如意古道上の谷地に倒れていた標石らしき石柱
そしてまた谷地に達するとまた標石が現れた。それは倒れていたが、この先の谷でも同様を探せば古道の存在・位置を補強出来るように思われた


推定如意古道上に覆いかぶさる凄まじい台風倒木

確たる古道址発見と標石の存在に力を得て更に進むが、やがて写真の如く凄まじい倒木群に阻まれ通行や道の追跡が困難となった。

急斜に横たわる大径木が多いため上下を回り込むことも困難で、また樹皮が滑り易いため乗り越すことも困難であった。しかも延々とそれが続く。

何とか、ひと尾根は回り込んで先へ進んだが、道跡を見失い、また枝葉に覆われた地表を探すことも困難となった。ただ、次の谷地では3段以上と思われる未知の小平坦地跡を見つけ、古道との関連が窺えた。

次の尾根を見るも倒木の困難は更に酷さを増し、雷雨注意が出ていた空模様も怪しくなってきたため、今日はここで打ち切ることとした。残る如意寺本堂方面は後日反対方向等から踏査することとしたのである。


大文字山山頂から見えた京盆地西から迫る雨
大文字山山頂から見えた京盆地西から迫る雨

色々あるも有意義な山行に

撤収を決め、道なき斜面を登って如意ケ嶽稜線上にある現在の如意古道に出る。そこでは如意寺本堂跡を見学してきたという中高年の一団と遭遇し、どこから登ってきたのか訊ねられた。

引率者らしき人物も自分たちが如意古道を歩いているつもりだったらしいので、別路の存在に驚いていたが、危ない場所もあるので無暗に入らないよう告げておいた。

その後、地形図で来た道を確認したり、倒木の根倒れで崩れた稜線上の城塞遺構を観察したりして、西方は京都市街方面への帰路に就いた。

ところが、その途中登山道のすぐ傍でしゃがんでいる人が……。先に出た中高年組の女性らが用を足していたみたいである。申し訳なさそうに詫びを繰り返す横を見ぬよう通過したが、ここは大文字山と滋賀を結ぶハイキング主路であり人通りが多い場所なので気をつけてもらいたいと思った(そういえば去年山科と大文字山のメインルート上でも同様があった)。

さて、その後大文字山頂にて漸くの水分補給と遅めの昼食を摂り下山した。素早く下ったため、何とか雨で身が濡れる前に帰宅できたのである。

今日は少々話が逸れる様なこともあったが、以前から気になっていた本来の如意古道の存在が確認出来た、有意義な山行となった。

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2020年01月11日

東山壊乱其参

豊かな雑木林と古代遺跡との関連深い安祥寺山の尾根を乱暴に切り削って通された伐採作業道

保護課、土器発見うけ
破壊箇所の調査決定!


昨年の12月14日同29日に報告した、京都東山・安祥寺山(あんしょうじやま。大文字山南隣)における山体破壊の件。

今回の破壊箇所の一部で、その昔、私が独自に遺跡推定地とした尾根上平坦地脇で古代の土師器(はじき)片らしき遺物を先日発見した件を市の文化財保護課に画像付で連絡していたが、正月休み明けに返答があった。

平坦地を含む発見地付近が、古代から中世にかけての遺跡の宝庫である大文字山近辺でもノーマークの遺跡指定地外だったためか、「大変驚いた」と記され、早速調査に入りたいとあった。

更に、機材持ちで現場に入る際の効率的な路程教示も乞われたので、調査決定の礼と共に、車輌と徒歩双方による詳細な接近法を記して返信した。

その後返答はないが、一先ずは広くこの山域の歴史的重要性が認識され、保護区拡大の契機となる可能性が生じ、またそれに対する希望を得た。

今日は雪不足による雪山鍛錬行の代替としての運動がてら、発見地の保全監視のため再度現地に向かうことにした。


上掲写真 豊かで趣あった雑木林と、古代遺跡との関連深い安祥寺山の尾根を、乱暴に切り削って通された伐採作業道。


安祥寺山北尾根の西側を切りつつ、同山西側の皆伐で荒れた山肌に続く林野庁の伐採作業道

安祥寺山西部伐採地視察

出発地から約400mの高低差を登り、いつもの如く大文字山を経て北側から現地入りした。

先日発見した遺物等を確認し、撮影後、また北へ戻ろうとしたが、まだ良く確認していない、安祥寺山西側の破壊状況を視察することにした。

年始か週末の為かは知らないが、幸い今日は伐採等の作業は行われておらず、また特に規制等も設けられていなかったため、作業道を辿ってみた。

すると、早速、写真の如く、山肌を切り削る作業道の向こうに、皆伐された荒れた山肌が姿を現した。


安祥寺山西側の国有林内で行われている林野庁の皆伐作業により荒れた山肌とそこを刻む作業道及びショベルカー(休止中)
安祥寺山西側の国有林内で行われている林野庁の皆伐作業により荒れた山肌と、そこを刻む作業道及びショベルカー(休止中)。中央左上の稜線から山腹途中まで伸びる不自然な窪みが見えるが、戦国期の竪堀(たてぼり)ではないか?しかし、これも作業道により切り削られている


安祥寺山西側の国有林内で行われている林野庁の皆伐作業により荒れた山肌とそこを刻む作業道
下部を覗くと、伐採地一帯がかなり傾斜のある谷地であることが解る。そこに、写真の如く無理やり重機で道を切っている。こんな乱暴なやり方で、崩落は起らないのか。因みに下方に見えるのは防火用の貯水池。近年、昭和期の古い林道から延長された防災道に付属するものだが、作業道も正にその道から山上方々に延長されている


つづら折りで山肌を切り削り急斜を登るように付けられた安祥寺山西側の作業道
つづら折りで山肌を切り削り急斜を登るように付けられた作業道


安祥寺山西斜面の谷を横断する伐採作業道により生じた崩落の危険がある泥濘
応急的に浅く山肌を切る作業道分線を覗くと、それが横断する谷部分に水が溜まり、ぬかるんでいることを確認。これこそ正に崩落の種ではないか


つづらで山肌を切り削る作業道と荒廃した安祥寺山西側の山肌
同じくつづらで山肌を切り削る作業道と荒廃した山肌。しかし、道路施工の害は元より、森の土壌が残らない程の皆伐の仕方にも問題があるのではないか。古代、乱暴な伐採法により土壌が流出して荒廃した田上杣(たなかみそま。滋賀県南部の所謂「太神山地」)を想像させる光景である


あるまじきもの発見

安祥寺山西側伐採地の作業道分線上に集められた伐採木の枝葉
先程の作業道分線には伐採木の枝等が集められていたが……


安祥寺山西側の伐採地の柴山に棄てられていたタバコの吸い殻
なんと、その中に真新しい吸い殻を発見。冬の柴山に煙草を投棄するとは大した度胸だが、場所と状況から、伐採関係者によるものとしか考えられなかった。防災道を利用しているのに大火でも起こした日には、笑い話にもなるまい。林野庁は本当にちゃんと施工の指導・監督しているのか


安祥寺山西側伐採地の柴山に投棄された空き缶
そしてまた一つ。今度は空缶投棄である。これも場所と状況から伐採関係者のものとしか思えなかった。実に呆れる状況である。投棄については警察に捜査でもしてもらわないと本当のことは判らないだろうが、一先ず、全体の状況を世に問うためにも、当該施工の目的や責任団体を以下に掲げる。全て山上のある場所に掲示された工事説明文に拠るものである。

事業名 安祥寺山国有林外森林整備事業
事業期間 令和元年5月24日〜令和2年2月14日
事業内容 全木伐倒、集造材・運材、被害木整理、植付、防護柵
発注者 京都大阪森林管理事務所(筆者注:林野庁森林管理局下部組織)
請負業者 株式会社 e・フォレスト
監督員 東山・木津森林事務所(同:上記森林管理事務所の出先事務所)


重機で方々道を切られ皆伐された安祥寺山西の谷地
向こうをジグザグに、手前も重機で切られた安祥寺山西の谷地。実は写真に写っていない背後にも同じく山上からジグザグに下る道が切られている


大文字山と安祥寺山の間に設けられた貯木場
そして先の写真の背後の作業道を上に進んで、先日紹介した貯木場に出た。今回は背後から撮影してみた。大量の伐採木が積まれているのが判る


山上の林道と貯木場により消失した、戦国期の竪堀または古代・中世の古道跡(中央付近)
山上の林道と貯木場により消失した戦国期の竪堀または古代・中世の古道跡(中央付近)。因みに、先程紹介した事業説明の掲示はここにある。つまり、標高約400mのここに来なければ何が行われているのか解らない


大文字山と安祥寺山の間に設けられた貯木場下の平坦地に伸びる盛土古道
大文字・安祥寺山間に設けられた貯木場下の平坦地に伸びる盛土上の古道

破壊された古道の先探る

悔しさを抑えつつ、伐採木の束下を下り、古道を探る。実はこの区間はまだ確り踏査したことがなかった。すると、やはり束下のすぐ下方から真っ直ぐ伸びる古道を発見した。

それは、高さ50cm程の盛土状となっており、大きな平坦地の中心を貫く形となっていた。盛土の設えは後代のものかもしれないが、大きな施設との関連を想わせる、要路らしい姿が確認出来た。


大文字・安祥寺山間の古道を西へ下って見つけた、平坦地末端の石積痕跡?
大文字・安祥寺山間の古道を西へ下って見つけた平坦地下端部分。石積の設えらしきものを確認。谷を埋めて大規模に造成した痕跡か


大文字・安祥寺山間の古道を西へ下って見つけた、謎の人為平坦地
貯木場下の大きな平坦地を下り、また谷なかの平坦地と出あう。古道が下り続くここも、未知の施設跡かと思われた。


切り口を成して謎の平坦地を西へ下る大文字・安祥寺山間の古道
切口を成して謎の平坦地を西へ下る大文字・安祥寺山間の古道


如意寺「宝厳院」跡と推定されている平坦地に盛土状で続く古道
如意寺「宝厳院」跡と推定されている平坦地に盛土状で続く古道

歴史の森に易く触るべからず

そして道は地形図で事前に知っていた通り、宝厳院跡平坦地に出た。700年前の絵にも描かれた、幻の山岳寺院「如意寺」の西部施設の一つである。

古道はこの下の「熊野三所」跡辺りで沢水等の影響により途絶えたが、同寺の都側玄関口と難なく直結していることが証された。

このことからも、破壊された稜線付近や一帯の重要性が理解してもらえると思う。この山域は、まだまだ未知のことが多く、また、そのようなものが数多く埋もれている場所なので、安易に改変してはいけないのである。

森は植樹すればやがて回復するが、歴史遺産は一度破壊されると永遠に失われてしまうことを関係官庁・団体にもっと認識してもらいたいと思う。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2019年12月29日

続東山壊乱

大文字山山頂からみた、京都東山の山々と山科盆地・京都盆地・大阪平野を埋め尽くす市街

関係機関への連絡後
年の瀬、再び山上へ


先日報告した、京都市街東部・大文字山南の安祥寺山に於ける林道造成による自然・歴史遺構破壊。

今日の午後、ひとっ走りして再び山上を訪れた。年の瀬でやるべきことが山積みの状態であったが、新たな破壊を止めるための未知遺構の撮影を優先させたのである。

実は、それに先行して市の文化財保護課と林野庁に連絡をしていた。

保護課からは、工事のことは把握しており、林野庁との打合せや現場立ち合いを経て、工事を進めてもらっているとの回答を得た。つまり保護課公認で破壊が進んでいるのである。

先日報告した通り、造成破壊は遺跡指定地内でも行われており、建屋跡のような重要遺跡以外は犠牲になっているようである。

一方、林野庁からはメールによる問合せの回答が一向になく、再度当地の価値の説明と乱暴な工事の中止を申し入れた途端に返答がきた。

偶々返信の時期と重なったのか、慌てて応答したのか知らないが、件の工事は保護課の指導・監督や各種法令の遵守、費用便益を勘案しつつ適切に行っているとの回答を得た。

両者一見ごもっともな言い分だが、やはり点と線的で、面的で多様的、そして深みある観点を欠いている。更に言うと、現地の環境や歴史に対する愛情が感じられないのである。

適切にやって、昭和に劣るこんな乱工事が罷り通るなら、もはや頼るもの無しの状態ではないか。

結果、今後の官林保全に対する危機感は更に高まったと言わざるを得ない。やはり我々現地末端が監視し、声をあげていくしかないのか……。

とまれ、役所には近々出向いて更に話を訊き、こちらからも説明・申し入れしたいと思う。


上掲写真 大文字山山頂(466m)からみた、京都東山の山々と山科盆地(左)・京都盆地(右)・大阪平野(中央奥)を埋め尽くす市街。都市化により平地上でほぼ消滅した古代・中世の「直の痕跡」が密かに、そして濃密に残る山中で、災害復旧の名の下に新たな破壊が進行している。


安祥寺山付近の林道掘削面で発見した土師器の欠片

古代物証発見!

そして、最近安祥寺山山中で発見した、公に報告されていない謎の大規模遺構の撮影前に、林道による破壊現場を再度確認。

すると、なんとその掘削面で遺物を発見した。写真の茶色い塊などの計5点で、手に取ったところ、轆轤成型された後期型(平安時代)の「土師器(はじき)」かと思われた。

場所は遺跡指定地ではなかったが、ここも自身の観察と研究により古代遺跡の可能性があることを示していた場所であった(先日保護課の要請により小論を提出)。正に「それ見たことか」の状況である。

詳しくは埋文研等での更なる調査を経ないと断定できないが、役所は既に正月休暇中なので、その終了後にでも早速報告したいと思った。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2019年12月14日

東山壊乱

大文字山南の東山稜線傍の材木置場

東山の自然・遺跡またも破壊

先月末、訓練がてら久々に入った京都市街東部の山域で衝撃の光景を目にした。古代や中世の寺や城塞の遺構が数多残る大文字山(如意ケ嶽)と安祥寺山を繋ぐ尾根や周辺山腹が道路工事で切り荒らされていたのである。

その際は時間が無かった為、改めて今日その詳細の視察と記録のため現地入りした。遺跡指定地にも拘わらず、近年大文字山南の稜線や山肌が林道により破壊された件を以前も報告したが、破壊はそれで終らなかったのである。しかも公有財産が守られるべき筈の国有林内であるにも拘わらず。

現地説明板によると、今回の施工は昨年の台風21号による風倒木の整理等が目的のようであった。自らもその被害の重大を実見し、新たな災害の種ともなる倒木撤去の重要性を感じていたが、その為に自然や歴史人跡が新たに破壊されるのは本末転倒であろう。

写真は、大文字山頂から南主稜線を暫く南に下った辺りに現れた作業場。市街・岡崎辺りから見える、標高400m強の東山稜線付近である。

以前紹介した、稜線直下に並走する新林道の脇で、週末にも拘わらず、木を掴む装置を備えた重機が整理作業中であった。時折トラックが来て材木を載せてゆくので、伐り出された材の集積場かと思われた。


東山稜線傍の林道と周辺から伐り出された材木
東山稜線傍の林道と周辺から伐り出された材木


東山稜線傍の作業場の木材整理用重機と運搬用車輌、そして古道の分岐部
東山稜線傍の作業場を西から見る。手前は大文字山と安祥寺山への尾根道、即ち古道の分岐部分。黄色い車輌は木材運搬用の無限軌道車


林道工事で破壊された東山の稜線古道と木材運搬用の無限軌道車
なんと、ここでも古道が切られていることを発見。新林道と今回新たに通された道とを結ぶためと思われるが、この程度の高さなら盛土で乗り越えれば破壊せずに済んだ筈である。これでは何の為に無限軌道車を使っているのか解らない


如意ケ嶽城(大文字山城)南部の稜線古道(上下)と、古代如意寺の連絡路または戦国期の「堀切」跡とみられる尾根の窪み(左右)
大文字山南部の稜線古道と、古代如意寺の連絡路または戦国期の如意ケ嶽城(大文字山城)の「堀切」跡とみられる尾根の窪み

作業場は遺跡指定地かつ歴史的要所付近

この作業場の辺りも、平安中期から戦国期頃まで山中に存在した天台寺門派の巨刹「如意寺」関連域として遺跡指定地となっている。そして、そのすぐ傍にも重要な場所があった。

それが写真に写る尾根上の窪みであった(後代に少し埋められたか)。ここは鹿ケ谷上部にあった如意寺の西部境内と大文字山南の中部境内を最短・高効率で結ぶ場所として要地であった可能性がある。

また、南禅寺・大日山城方面の尾根と山科・安祥寺山方面の尾根が合流する場所の為、如意ケ嶽城防衛の要としての堀切であった可能性も窺える。

因みに、写真はこちらに掲載したものの方が解り易い(ページ下部)。


大文字山南の古道峠或いは堀切跡の東に続く、古道または竪堀(たてぼり)跡
古道峠或いは堀切跡の東に続く、古道または竪堀(たてぼり)跡

この場所の重要性は、古い峠道或いは堀切跡の左右(東西)に、古道または山腹防御の施設「竪堀」が残っていることにも補強される。

しかし、その西側下部は新林道と今回の作業場により破壊・途絶させられてしまったのであった。


稜線西下に造られた新林道と作業場により破壊・途絶させられた大文字山南の古道または竪堀跡
稜線西下に造られた新林道と作業場により破壊・途絶された大文字山南の古道または竪堀遺構


古代・中世からの山容を保ってきた、京都東山遺跡地区の山肌に続く新造成の作業道
古代・中世からの山容を保ってきた、貴重な京都東山遺跡地区の山肌に続く新造成の作業道

安祥寺山北の惨状

新たに東山の主稜線及び古道を切って造成された作業道は、周囲の山肌を切り削って延々と続く。

写真では、道は右側に湾曲して左向こうの斜面へと下降しており、奥側の沿道は皆伐され、地表が荒れて恰もパミール高原の峠道のような惨状を呈している。

これでは、今後山体崩壊を誘発し、無傷の遺構は疎か方々に悪影響を及ぼすのではないか。この山域はホルンフェルスや古生層由来の硬い地質が長くその景観や遺跡を保持してきたが、その均衡が崩れることを危惧した。


西側面が重機で無残に切り削られた安祥寺山北尾根

自然や遺跡・景観への配慮を欠いた林野庁の施工状況に呆れつつ、尾根上の古道を安祥寺山側へ南下すると、写真の如く、その傍にも無残に重機で切られた山肌が続いていた。

本来は、本道から外れた静かな雑木林の道が続く実に良い場所だったが、残念な限りであると同時に怒りが込み上げる。


無残にも作業道に切り削られた安祥寺山北尾根

そして、先日発見して唖然とさせられた、安祥寺山北尾根の切断箇所に来た。写真は、そこから南、即ち安祥寺山方向を見たものである。

無残にも尾根と古道が切られた場所は、大文字山と安祥寺山を結ぶ唯一の尾根の、最も高度の低い鞍部にあった。

平安末期の遺構と推定されている安祥寺山西経塚から僅か50mの地点。安祥寺山中腹にある古代山岳寺院「安祥寺上寺」と如意ケ嶽・鹿ケ谷方面を直接結ぶ唯一の通路であったと思われる注目されるべき場所である。

怒りと共に悲しさを感じる状況であった。


尾根横を切り削りつつ安祥寺山北尾根の鞍部を断つ国有林作業道(北側大文字山方向を見る)
尾根の側面を切り削りつつ安祥寺山北の鞍部を断つ国有林作業道(北は大文字山方向を見る。右端は尾根上の古道)

なお、この鞍部付近は何故か遺跡指定から外れていた。京都市の文化財保護課が遺跡無しと判断した為か、今回はそこを衝かれた形となった。

実は、私は20年程前から、この鞍部のすぐ北側尾根上に古い人為平坦地を認めており、それを考察した小論を書いたことがあった。写真右の林がその場所で、右端に平坦地中心を貫く尾根上の古道が見える。

小論では、手前鞍部に堀切跡が見られなかったなどの為、古代安祥寺の北門か何かの跡ではないかとの推論を下したが、このことを市に知らせて保全処置をとってもらうべきであった。まさかこんな目に遭うとは……。

これでは、堀切の有無を考古学に確定させることも永遠に叶わなくなった。一応、平坦地自体の破壊は免れたが、西の側面が大きく削られたため、崩落の危険が生じた。なんとかせねばならない。

因みに安祥寺上寺は密教秘儀を修めた入唐大家の真言僧・恵運(空海の孫弟子)が開いた山岳寺院である。左右の尾根に守られ、それらの頂部3峰に経塚が築かれるなど、大変シンボリックで特異な寺域構造を有している。

それ故、如意や比叡山方面からの唯一の接続尾根上のこの場所には呪術的施設があった可能性も浮かぶなど、その重要性が感じられるのである。


山科川源流方向から安祥寺山北鞍部へ迫る作業道(左)により切断された山科・大文字山を結ぶ古道(右)
山科川源流方向から安祥寺山北鞍部へ迫る作業道(左)により途絶・破壊された山科と大文字山を結ぶ主古道(右)

この破壊された安祥寺山北鞍部には、別に山科方面の谷から続く古道が接続していた。最も平易に山科と大文字山を繋ぐ道のため山科駅方面からのハイキング主路ともなっていた道で、その条件故に古くから利用された可能性が高い道であった。

それが、今回鞍部を崩して通された作業道により破壊されたことも知った。痕跡は山上に僅かに残るのみで、下部は全く消失していたのである。

これも残念な限り。奥山の遊歩道として魅力や、古道を元にした歴史考察等の可能性が永遠に失われてしまった。

林野庁は、国有林において林業や治山だけではない「多様で豊かな」森林づくりを推進しているのではなかったのか。

これでは、古代からの安祥寺領山林を引き継いだ「安祥寺山国有林」という名の重みも解さない恥晒しである。


山科と大文字山を繋ぐ古道を破壊して下部へと続く作業道
山科と大文字山を繋ぐ古道を破壊して下部へと続く作業道

古代寺院の地脈切り更に山刻む作業道

安祥寺山北尾根を切った作業道は、更に先が見えないほど奥へと延長されていた。安祥寺山北の山腹を巻き削る状況である。

その先を視察すると、実に安祥寺山西端から東端まで延長されていた。


安祥寺山北の山腹を破壊する林野庁の作業道とその分岐に置かれた重機

それどころか、安祥寺山北に延長された作業道は、更に下部の谷底にも分岐延長されていた。写真は分岐部に置かれた重機。


安祥寺山北山腹の作業道分岐付近から谷底に見えた重機
そして、安祥寺山北山腹の作業道分岐付近から谷へ下る作業道を見ると、谷底に何かが見えた


安祥寺山北山腹の作業道分岐付近から見た、谷底に置かれた2台の重機と更に分岐造成された作業道

謎の平安初期の瓦散布地も破壊
豊かな自然・文化遺産を次代へ


何と、谷底に2台の重機があり、分岐の作業道が延ばされ、広範に破壊・改変されていたのであった。

この谷底は付近に建屋痕跡がないにも拘わらず、平安初期の瓦が散乱するという謎の場所で、れっきとした遺跡指定範囲であった。

それにも拘わらず、源流部の自然環境共々破壊されている。今日は何れの重機も稼働せず静置された状態だったが、更に破壊が進むかもしれない。

しかし、改めて大規模で酷い工事であることが判明した。京都市民、いや国民が知らない内に人知れぬ山中でこんなことが行われていたのである。

言うまでもなく、長く都が置かれた京都は日本文化の基幹であり、日本人の心の拠り所である。そんな場所の、古代から継承され、21世紀のつい先日まで残されていた自然と文化の痕跡をこんな乱雑に扱ってもいいのか。

今更、木馬(きんま・きうま。既存古道や木道を利用した動物による木材運搬)をやるべきとは言わないが、こんな大予算が付くくらいなら、今時、鋼索や簡易モノレール・ヘリ等の多様な方法が選べたのではないか。

何やら横着をしているようにしか思われない。都市直近にありながら、豊かな自然や歴史遺産に触れられる、魅力的で活きた教材でもあるこの様な場所を保全し、次代にちゃんと引き継ぐべきあろう。

こんな乱暴施工は昭和の時代で終ったと思っていたが、驚きの大落胆である。正に恥を知るべき行為で、即刻止めるべきである。

とまれ、早急にこの結果を関係機関に知らせなければならない。実は、前述の平坦地の他にも、まだ未知・未確認と思われる付近の遺構を幾つか認知していたのである。

腹立たしさや悲しさを抑え今日はこれにて調査を終えて引き上げることとした。関係機関への対処やそれらの挙動等はまた後日報告したいと思う。

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2018年02月24日

三方長尾行

福井県若狭地方・三方五湖の三方湖南岸から見た湖と対岸の半島「長尾島」

臨海湖群「三方五湖」へ

朝早くから友人の車で福井県若狭(わかさ)方面へと向かう。

若狭は北陸の県である福井西部にあたるが、京都にとっては隣県滋賀の北隣であり、近隣の日本海沿岸地方であった。即ち「近海」であり、車で最短1時間半程の近場でもあった。

今日はこの若狭、即ち若狭湾の東部にある「三方五湖(みかたごこ)」という湖沼に向かった。海岸近くに5つの湖が集中する地学的・水系的にも珍しい場所で、水辺を研究する友人の観察に同行する形となった。

本来は先週末を予定していたが、雪で峠が通行困難であったため、今日に改めた。今日は比較的気温も高く、雪の心配もない好日。個人的に初めての場所でもあり、期待は高まった。

そして、ほぼ予定通りの時間で難なく到着。

写真は最も内陸に在り、唯一完全淡水湖である三方湖南岸から見た湖と対岸の景。今日の目的は内陸3湖を隔てる興味深い半島「長尾島」の探索を主としていたが、それは正に写真奥に低く続く対岸山のことであった。


福井県若狭地方・三方五湖の三方湖と対岸の長尾島の付け根部分
三方湖と対岸「長尾島」付け根部分(右奥の山下の鞍部)

三方五湖と長尾島

三方五湖は、久々子湖(くぐしこ)・日向湖(ひるがこ)・水月湖(すいげつこ)・菅湖(すがこ)・三方湖の5湖で構成される湖沼集合地で、海辺ながらも周囲を山で隔絶されるなどの特異な景観を備える。

その内、久々子湖のみ、元入江の潟湖で、あとの4湖は周辺の断層に関連する陥没湖とみられている。

今日の目的地長尾島は、内陸3湖の中央にY字状にある細長い山地で、正に隔壁的姿。以前から地図で見て気になっており、この地方に詳しい友人も未踏の場所ということもあり、今回共に探索することとなった。

なお、長尾島は半島状の地形であるが、地図を見るとその根元に水路があり、岸の山地とは切れている。写真でいうと、右奥の大きな山の左下に見える鞍部である。水月湖等にある、切通しのような人工開削であろうか。

写真を見ても少々不自然に感じる部分であり、興味深い。ちょうど今日はここから探索を始める予定だったので、その観察も楽しみであった。


長尾島へ続く三方湖東岸の細道
長尾島へ続く三方湖東岸の細道

先程撮影をした道の駅から移動して長尾島の付け根部分へと向かう。国道近くの集落を過ぎ湖岸に出ると、普通車の通行も怪しいような山際の細道となった。


三方湖と長尾島の付け根水路の南口

長尾堀切

道はやがて未舗装となり、所々冠水も見られるような状態となったが、なんとか到着。写真は三方湖と長尾島の付け根水路の南口。車は離合や農作業等の邪魔にならぬよう、ここより手前の空地を探して停めた。


江戸期の手掘りの趣が残る、福井県若狭地方・三方五湖の「長尾堀切」中央部

水路はやはり尾根を人為的に切り通して作られていた。全長160m程の水路を反対口まで観察すると、口側こそ現代的な護岸があったが、その途中は岩を削ったままの姿が残されていた。水深は浅く、何やら手掘りの如き雰囲気さえ漂う。

ひょっとして前近代の施工か。だとすると岩盤質なので大変な作業であったろう。地形図を検討すると、高さ20m以内の尾根を掘り崩しているのではないかと思われた。

後で調べてわかったのは、やはり寛永 19(1642)年に小浜藩により施工されたらしく、「長尾堀切」の名があるという。字名は「長尾」なので、切られて「島」が付けられたのかもしれない。

目的は、三方湖の水を当時内陸3湖唯一の排出河川を擁していた菅湖へ、より早く・多く導き、湖の水位を下げ、湖岸に新田を得るためであったという。


福井県若狭地方・三方五湖の長尾堀切の北口(河口)から見えた菅湖
長尾堀切の北口(河口)から見えた菅湖。奥に続くは山は長尾島。右奥には水月湖と繋がる水道がある。三方湖の水は、以前は水月湖を経て菅湖から排出されていたので、堀切はそのバイパス的役目を持っていた


長尾島の尾根上に切られた道跡
長尾島の尾根上に切られた道跡(山肌左半分)

長尾島尾根道をゆく

堀切に架かる小橋を渡り、獣除けの門を確実に閉め直して長尾島に入る。水堀で隔離されたひょろ長い半島に獣なぞいるのかと思いつつ進むが、鹿やその他の獣糞が数多目につき、その意外な密度を感じさせられた。

道は湖岸に農道状のものがあったが、眺望を求めて尾根を縦走するルートを採る。すると、山上には堀切下から荷車一台が余裕で通れる程の道跡があった。山中の古道との遭遇は数多経験しているが、行き止まりで集落もない半島にしては立派な規模であり、少々驚かされた。

かつて、その一部が山上まであった梅林の収穫用か何かか。しかし、生産者や地権者により開かれたというより、公の資力や動員により開削された観があった。山上は深くはないが自然林が広がっており、獣との関係が窺われた。所々に植林地や、梅林用とみられる段畑も現れた。

興味深いのは、途中幾つか沼田場(ぬたば)を見たこと。沼田場は猪等が水浴びする泥場のことで、山中の谷地等でよく見かけるが、ここでは尾根上に見られた。通常、尾根は水捌けが良すぎるため在り得ないのであるが、何故かここは所々赤土の水溜まりがあり、可能となっていた。

地質図によると、この辺りの地質は丹波高地同様、硬い古生層の筈なので不可解に思えた。隆起と沈降を繰り返した歴史の痕跡であろうか。


福井県若狭地方・三方五湖の長尾島尾根道から見えた長尾島南岸の梅林
長尾島の尾根道から見えた島の南岸の梅林。この辺りを含む三方地方は日本海側随一の梅産地。道がなかった頃は対岸の村まで舟で梅を運んだという


福井県若狭地方・三方五湖の長尾島西部稜線から見えた水月湖と梅丈岳

尾根道は標高50mまで一気に上がり、その後上下を繰り返しつつ同80mの分岐点に達した。Y字の中央である。ここから道は西側の尾根へと続き、西へ向かう予定の我々もその跡を踏み進んだ。

そして、写真の通りの、最も眺めの良い場所が現れた。水面は五湖中最大の水月湖で、対岸中央の山は五湖展望の適地として知られる梅丈岳(ばいじょうたけ)であった。標高400mのその頂にはレインボーラインという観光道路が通じている。


雪に埋もれた、福井県若狭地方・三方五湖の長尾島最高所の四等三角点(中央「+」印が見える石)
雪に埋もれた長尾島最高所の四等三角点(中央「+」印が見える石)

長尾島西端山頂着

そして、長尾島西端で同島最高所でもある標高100.5mの山頂に到着。今日の到達目標点であり、堀切からの距離は1.7km程であった。標高の所為か、その地表は深さ20cm程の雪に覆われていた。

スパイクやストックは用意していたが、これ以上雪が深くなると歩きづらくなるので、この程度で良かった。


福井県若狭地方・三方五湖の長尾島西端部から僅かに見えた、三方湖・水月湖間の瀬戸

しかし、眺望が全くなく、観察予定の三方湖・水月湖間の瀬戸も見えないため、その方向の斜面を少々下ってみることにした。

途中、大きな猪が藪中を走り去るのを目撃し、更には猿にも遭遇。森は完全に冬風情ながら、既に獣の気配が十分感じられる程となっていた。殆ど人が入らない所為か、その天国と化しているのか。信じがたいが、途中熊の爪痕のよう樹皮傷も見たので、単独入山には注意が必要かもしれない。

さて、高低差50m程尾根を下るも展望が乏しいため、少し見えるところで引き返すことにした。写真は樹間から観察出来た瀬戸の様子。対岸とその下の水面が僅かに見える。広く明るく見える右側は水月湖側である。


福井県若狭地方・三方五湖の三方湖・水月湖間の瀬戸と対岸の長尾島

瀬戸にて五湖の壮大な歴史思う

瀬戸の観察後、山上へ戻り、展望の良い先程の場所で昼食に。ところが、それを終える頃、突如天候が悪化し、梅丈岳越しに風雨が襲ってきた。

午後は曇るとは聞いていたが、冷たい風雨になるとは予想外であった。全く油断ならぬ天候である。恥ずかしながら、ここで財布を落としたと勘違いした騒動を起こすが、無事落着して、急ぎ元来た道を引き返した。

下山後はまた車で湖岸を走り、先程長尾西端から見た瀬戸の対岸へと向かう。写真がそれであり、対岸が長尾島で、幅50m程の水道となっている。


風に波立つ、福井県三方五湖の水月湖と右奥の長尾島北東部(今回未踏部)、中央奥の浦見川の開削谷
風に波立つ水月湖。右奥に長尾島北東部、中央奥に開削河川「浦見川」の谷が見える

雨は大したことなかったが、とにかく風が強く寒い。しかし、長くは居られなかったが、瀬戸や水月湖等の様子を観察出来たのは良かった。

久々子湖以外の湖も元は淡水だったらしいが、新田開発や治水のために隣接湖沼や海との短絡普請が行われ汽水化したという。特に重要だったのは、水月湖と久々子湖を繋いだ浦見川の開削である。

この地域は、寛文2(1662)年に所謂「寛文震災」に襲われ一帯が沈降・隆起し自然環境に大きな変化をもたらした。菅湖から流出していた内陸3湖の水が隆起で排出不能となり、湖岸が広く冠水する事態となり、その対策として浦見川が掘られたのであった。

全長324m、高さ41mを掘り崩す難工事の末、2年がかりで完成されたという。全くの手作業で行われたとは信じがたい工事である。本来なら、数m隆起した旧河道を開削した方が楽なように思えるが、後々の事を考え、なるべく海に近い場所に排出させたのか。350年前のことながら、近代治水を先取りしたような思想を感じる。

地殻変動・人為改変等々、中々の壮大さ。この他にも三方五湖には湖底に数万年分の歴史を封じ込めた堆積層を有するなど、興味は尽きない。


煉瓦煙突が特徴的な、三方五湖の旧湖岸集落「鳥浜」の酒蔵

瀬戸見学後、元湖畔だった鳥浜集落や近辺の湖跡等を見学し、帰路に就くことに。その最後に寄ったのが、古い煉瓦煙突が特徴的な写真の酒蔵。

地形的に元は三方湖の湖底と推測され、低湿のためか建物が傷み沈降している様が興味深かった。しかし、その条件により、酒造に必要な水には恵まれるのであろうが……。


JR北陸本線の北陸トンネルを抜けて現れた福井県下有数の降雪地・南今庄駅

帰京のつもりが東行・北上?

その後、帰京するつもりが、何故か小浜線の車中にあり、京都とは逆の東へ向かうことに。

ちょうど最寄り駅に列車が接近しており、友人に頼んで降ろしてもらったのだが、その訳はまた次回。列車が東へ向かうにつれ雪深くなり、少々不安を感じさせられたが、比較的気温が高く、新たに降ることはなかった。

敦賀からは、更に列車を乗り換え、なんと北陸線を北上。写真は長い北陸トンネルを抜けて現れた福井県下有数の降雪地・南今庄駅。除雪されたホームや道以外は雪で埋め尽くされている状況であった。

何やら、いきなり北海道にでも来た気分となり、只々驚かされたのである。

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2016年02月27日

伊吹河跡行

滋賀県北部の古街道沿いの宿場「春照」集落外れの梅園から見えた、雪を戴く伊吹山

意外な不調

先日ひいた風邪は検査の結果流感であった。初罹患である。然程高い熱が出た訳ではなく、医者共々違うだろうと思っていたが、念の為調べたら陽性であった。

その日から5日間の外出禁止を申し渡される。症状に対して過剰な措置に、違和感を覚えたが、他者への感染を考慮すると致し方あるまい。それより、そもそもどうして感染したのか。

最近通勤帯の列車等には近寄っておらず、特に人ごみに出向いた覚えもない。一応、手洗いや嗽等、一通りの対策もしていた。一つ気になったのは、その数日前にホームセンターに寄った際、咳込む子供が放し飼い状態であったこと。

確かな経路は判らないが、これくらいしか考えられない。

比較的早くに回復した子供は外出解除を待たずに外へ出される(出ていく)ことが多いという。それなら、もう少し親なりお上なりが気を遣ってもらいたいところである。

細かいこと言うようであるが、実は病は5日で済まず、その後も続くという損害を受けたという事情があった。補償のない自営の身なので、時間的・経済的損失は多大である。

とまれ、これまで職場の周囲十人が倒れるよう近接流行でも罹患したことがなかったので、少なからぬ衝撃も受けた。流感の故郷、大陸奥地で強力な風邪にかかって鍛えられたので、もはや罹るまいとも思っていたのである。

まあ、幸い流感特有の高熱にこそ遭わなかったが、いつまでも不調が続くのには参った。咳が止まず、熱も下がったかと思えばまた次の日に上がったり……。

踏査行如何!?

しかし、今日、約束の日が来てしまった。約束というのは、友人と実施する手筈であった、滋賀県東北部にある伊吹山山麓の踏査行である。

折角先方が細かな行程を組んでくれた企画。一応、外出禁止は解けていたので、今朝の状態を看て決行することとなった。その際も、無理はしないとの条件をつけさせてもらって、である。


上掲写真: 古街道沿いの宿場「春照(すいじょう)」集落外れの梅園から見えた、雪を戴く伊吹山(1377m)。随分遠くに見えるが、梅園自体も伊吹が吐き出した土砂による扇状地上であった。


滋賀県北部・近江長岡駅より見た、小雪に霞む(?)残雪ある伊吹山
近江長岡駅より見る霞む伊吹山。気温が低いので小雪が舞っているのか

リハビリ・荒行兼行

朝起きると、熱はないようだが、やはりスッキリとはしない。しかし、10日近くも屋内に籠っているのでリハビリがてら出動することとした。ちょっとした荒行の気分である。

友人と電話にてその旨を告げ、予定通りの決行に。夕方から雨が降るらしいので、速度が出せない今日は、場合により中途打切りも予想された。

予行演習がてら駅まで20分以上歩き、予定の列車に乗る。その後、友人が中途乗車してきて無事合流し、「近江長岡」なる最寄駅に着いた。

かの江濃国界の旧跡「関ケ原」手前の地である。


右側の天野川に注ぐ左側の姉川古跡の可能性があるという伊吹山からの流れと、残雪を戴き背後に聳える伊吹山

姉川古跡いずこ

今日の主題は、当地を流れ琵琶湖に下る「天野川」と、当地北方をかすめて琵琶湖に下る別系の「姉川」との関係。

嘗て姉川は当地へ流れ込み、天野川に合していたという。それが5000年程前に伊吹山の崩落により分断されたとの説があるらしい。今日は、その物証である姉川古跡を見つけ、その補強を試みるという趣旨であった。

写真は、天野川(右)に注ぐ伊吹山からの流れ(左)。友人曰く、左が姉川古跡の可能性があるとのこと。

本来なら私も独自に下調べして準備したかったが、体調のため叶わなかった。


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心部にある湧水の池

長岡から歩き始めて友人が組んだ行程を進む。田を越え川を越え、伊吹に向かって、である。やがて土地は僅かな登坂となり、扇状地に達したことが判った。

その扇端近くの集落「杉澤」に入ると、集落中心部は伊吹の豊富な湧水に満たされていた。写真の池がそれである。隣に勝居神社の境内池があり、その周辺からも流れ込んでいるようである。正に湧水適地、セオリー通りの場所である。


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心地・勝居神社境内の湧水ある弁天池
池の上手の神社には弁天が祀られた島を持つ小池があった。これも良く見ると、その背後より水が湧き出ていた


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心地・勝居神社境内の湧水ある手水舎
本殿を挟んだ弁天池の反対側には、この様な池も

実は屋根で覆われており、手水舎となっている。左奥の柱下から水が湧いており、天然の水源を利用したものだと解った。清めの場所としての手水舎の原初的姿か。

神社は社殿とその後背・両脇が高くなっており、その前方や最初の池方向が谷的低地となっている。おそらく、原初は社殿前辺りに大きな湧水湿地があり、それを尊崇する為に造営されたものとみられる。


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心地・勝居神社の境内社に施された雪囲い
勝居神社の境内社の一つに施された雪囲い。豪雪地帯伊吹を物語るもので、豊富な水資源との関りも示すもの


滋賀県北部・伊吹山麓に古の宿場街の趣を僅かに残す、春照集落と町を貫く旧街道
古の宿場街の趣を僅かに残す、街道沿いの春照(すいじょう)集落

寒さと疲労

神社からは、関ケ原から分岐して北国に至る古街道沿いを進む。途中、道沿いの伊吹文化資料館も見学。

本来は大した距離ではないのかもしれないが、ここまで休みなしで来たので、少々休息をとることとなった。

予報とは違い、気温も上がらず寒い。少々熱も出てきたか。うーん、辛い。大丈夫であろうか。

資料館の厠にて喉を整え、5分程休息すると歩けるようになったので、一先ず昼食予定地まで進むこととした。


滋賀県北部・伊吹山麓の古の宿場街「春照」外れの街道分岐点・八幡社の角と石垣上にたつ古い道標
春照外れの分岐点、八幡社の角にて

古い石碑には「左ながはま道」「右北國 きのもと えちぜん道」との案内が見える。江戸中期頃の造りとみたが、紀年はなかった。

路傍にあったものが拡幅により段上に置かれたか。


滋賀県北部・伊吹山麓山際の湧水地「春照の泉(臼谷の泉)」

姉川旧跡?
臼谷・小碓の泉


八幡社からは旧長浜街道へと左折する。山際のそれを進むと程なくして写真の昼食地が現れた。山際の湧水地「春照の泉(臼谷の泉)」である。


大きな朽木脇から水が流れ出る「春照の泉(臼谷の泉)」の水源
春照の泉の水源。大きな朽木脇から水が流れ出ている

泉は庭園様に整備されており、休憩適地。寒いが座るところもあったので、ここで昼食とした。

厳寒期での握り飯の持参を悔いる。冷蔵庫の冷や飯で想像出来るかと思うが、飯は低温だと旨味が出ないからである。

まあ、それでも休息にはなった。少し元気も出たので、池に生息するというハリヨを探す。寒さの所為か全く姿を見ないが、小さな死骸は見つけることができ、その存在を確認できた。

因みに、ここは友人が独自に想定する姉川関連地。湧水は山裏の姉川からのもので、嘗てはここを流れていたのではないかと。

ただ、背後の断崖や地形が唐突的で、5000年くらいで変化したとは思えなかった。ここ自体の標高も高く、川なら、もっと平野下部を通過したのではないか、と意見した。

本人も、水の味が硬かったので、姉川より、石灰質の伊吹山由来の可能性を考慮し始めた。


滋賀県北部・伊吹山麓山際の芦原底に浅く流れる「小碓の泉(間田湧水群)」と彼方に覗く、残雪ある伊吹山

休息後向かったのは、同じ街道つづき、山際つづきの「小碓の泉(おうすのいずみ)」。歩いて数分の場所にあり、山間というか丘なかの浅い谷状で奥へと続いている。

写真がその内部。葦で埋る辺りが浅い水で満たされている。ここも川跡候補といい、確かに川筋のような地形だが、奥には山というか台地が開って(はだかって)おり、わからない。谷の口側、つまり下流を見ても、圃場整備の影響もあり、その痕跡は窺えなかった。

そもそも、ここも標高が高く、川跡を想定することは難しい。また、谷から伊吹が見え、結構距離があることが判明。一応そこから続く裾野地ではあるが、その山体崩落の影響を直接受けたとは考えにくかった。

考えられたのが、崩落のような短期・急変的変化ではなく、隆起・沈降も考慮した長期・漸次的変化による河道変遷である。即ち、ここが川跡なら、それは5000年程度の昔ではなく、数万年かそれ以上前の可能性を考える方が、辻褄が合うのではないかと思われた。

水の硬度も高いらしく、やはりここも姉川伏流ではなく、伊吹からの水の可能性が高いようである。


滋賀県北部・伊吹山裾野にある、姉川からの分水を更に分ける為の施設「間田五川分水」

川跡発見?
崩落説への疑問


小碓からそう遠くない場所で、裾野下方となる間田集落に入る。裾野末端の微高地に形成された村落のようである。この集落後方(北)に谷地形を発見した。

具体的には、集落と入善寺なる寺院がある丘の間の田圃帯である。幅30m程で、東北は姉川方向へ続いており、谷の出口は、西南にある山麓平野の低地方向へ繋がっている。

これは、比較的新しい時代の川跡を想定出来た。因みに、姉川の谷地とを隔てる上方の丘陵もかなり低い場所があり(小田八幡社付近)、その繋がりが補強される。ただ、崩落云々とは全く無縁の場所ではあるが……。

しかし、そんな複雑な考察をせずとも、もっと簡単に川跡想定出来る場所があった。それが写真の地。姉川からの分水を分ける為の施設「間田五川分水」である。

姉川の谷の出口付近の堰から分水されたこの用水は、裾野を迂回して山麓平野へと水を送っている。中世以前から続くという歴史ある水路で、友人によると、昔の川跡を利用しているとの説があるという。

それなら、ここを姉川の旧路とするのが、最も理に適うのではないか。ただ、それなら崩落云々の話は宙に浮いてしまう。ここにきて、先程から気になっていた崩落説への疑いが強まった。


滋賀県北部・伊吹山麓の伊吹集落背後の裾野台地から見た、姉川の出口谷や段丘線

用水を辿り、その上流の姉川谷口へと向かう。幸い雨には降られていないが、昼から気温が高くなるとの予報も外れ、寒さの中を進むこととなった。

「明日からは暖かい、午後からは春になる――」。最近こんな予報ばかり出るが、当る率は低い。狼少年さながらのそれに、少々立腹しながらも先を急ぐ。

河容変化と河道変遷の混同?

用水は裾野丘の北を回り姉川の流域に出る。幅1キロにも満たないその谷地の中程を姉川が流れるのが見えた。現河道は谷地のかなり低い部分を流れているが、近代改修による掘り下げの可能性も考えられる。

やがて、用水の取水部であり、姉川の谷口である伊吹集落に到着。背後の裾野台地の高さは数十mと化し、もはやこのあたりから姉川が南流したとは考え難い。また、山体自体それでもまだ遠く、崩落云々も当らないと思われた。

写真は集落から裾野台地に登り、先程通過した姉川の出口谷を見下ろしたもの。中央右側に段丘線が見えるが(木立線2本のうち下部のもの)、姉川はこれに沿わない。

あとで調べたところ、河岸丘ではなく、断層線のようである。対岸の七尾山麓には、著名な木之本―関ケ原断層が通る。過去、一気に数mの高低差を生んだ痕跡もあるらしいので、これによる沈降での河道変遷も有力視される。

とまれ、現地観察の結果でも、崩落変遷説の無理を友に告げる。途中、裾野北部の断面も観察したが、崩落堆積ではなく殆ど岩盤的ということもあった。彼も山体との距離を見て、その説の難儀を悟ったようであった。

友人が一体どの論文を参考にしたかは定かではないが、帰宅後少し調べたところ、そのようなものは見当たらなかった。「5000年前の崩落」ということでは、姉川谷口の少し奥で山体崩落が起き、その際堰止め湖(堰塞湖)が出来たとする調査結果や論文は目にすることは出来た。

確かに、伊吹集落背後の現地形にもその痕跡は残っており、押し曲げられた現河道の様も明瞭である。ひょっとして、この渓谷内の河容変化と河道変遷の混同が生じているのであろうか。これは、また友人に問い合わさなければならない。

踏査の結論

今回の踏査の結論としては、姉川南流の可能性はあったが、それは5000年前の山体崩落が契機となったとは言えないというもの。

可能性としては、伊吹集落下部から南流し始め、裾野北に沿って小田八幡辺りで裾野端を抜けるか、そのまま小田・間田の用水辺りを流れ、低地に向かうというもの。高低差からいうと、裾野抜けの流路はより古い時代が想定される。

低地に出たあとは、天満集落、長岡を経て天野川と合するか、市場集落から三島池、志賀谷集落辺りを経て更に下流で天野川と合するかの経路が想定された。

まあ、本来は更なる材料を集めて精度を上げなければなんとも言えないことなので、あくまでも簡易な想定ではあるが……。


滋賀県北部・伊吹山の裾野高所で見た、伊吹名産のセメント材料「石灰」を採掘場から運ぶコンベヤ通路
石灰運搬の為のコンベヤ通路

裾野上からは、また南へ向かい高所の上野集落などを通過。途中、採掘場からセメント材料の石灰を運ぶコンベヤ通路と交差する。伊吹らしい光景であり、水の硬度の源を知るものでもあった。

雪はないが、高地の為か一段と寒く感じられる。雪を頂く伊吹山に一番近いということもあるだろう。


滋賀県北部・伊吹山麓の登山口際から湧く古来有名な湧水「ケカチの水」

裾野台地から扇頂部へ

上野の中心地は三之宮社という山を祀る神社。伊吹山頂やスキー場への登り口ともなっており、旅館などが集まり観光地然としている。

写真は、登山口際から湧く「ケカチの水」。古来有名な湧水で、日本武尊が利用したとの伝承もあるという。熱ある額を冷まさんと汲むも、湧水の為冷たからず(笑)。


滋賀県北部・伊吹山麓の上野集落と弥高集落の間で見た、冬枯れの森が広がり春到来の遅さを感じさせる伊吹山の山腹

その後は、杉澤や春照等がある扇状地上部で、扇頂部に当る「弥高集落」を見学。山間ながら、結構家屋数があり、大きな家も多い。

こちらは標高300mに近く、冷えが厳しい。雪も降るときは多そうなので、少々暮しを案じる。写真は上野と弥高の途中で撮影した伊吹の山腹景。冬枯れの森が広がっており、当地の春の遅さを感じさせる。

何とか行程消化
明日の体調を懸念


弥高からは扇状地下部方向へ下り、途中の「伊吹薬草の里センター」からバスに乗って長岡駅に帰還した。体調は何とかもったが、昼食後も休憩せずに行動していたので、もはや限界であった。

駅からは列車に乗り、近江八幡で途中下車。そこにて湖魚料理等を出す店で夕食会となった。体調的にギリギリではあったが折角なので、寄っていく。

しかし、やはり厳しかった。以前の彦根での食事よりかは早めに切り上げたが、結局10時台に京都へ着いてしまい、バス待ちが長くなった為、駅から歩いて帰ることに。気温も頗る寒い。

まあ、列車でぐったりしていたが、目覚ましをかけたお蔭で降りそびれることがなかっただけマシではあるが……。

なんとか帰宅して、すぐに就寝。明日の体調が心配であった。

とまれ、お疲れ様。
何とか行程はこなせたが、心配をかけて申し訳ない限り……。

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2009年10月23日

敦煌東方視察

中国西部敦煌から安西(瓜州)方面の漢代遺構の見学出発前に市内燃料スタンドにて補給するチャーター・タクシーと司機のW氏

予備日。安西方面へ

昨日を以て今回予定していた調査は終了した。入域制限等の関係で予定地全てを踏査出来ず、また実施地でも遺構発見が叶わなかった所も有った為、完全を収めることは成らなかったが、実見に因る状況取得等々、少なからぬ成果を得た。また、最新の現地情報や人脈の獲得といった面でも、好ましいものが得られた。これらの成果を元に、また次回に挑みたい。

さて、予備日となった今日は、以前より希望していた、東方は安西(瓜州)方面にある漢代遺構の見学に充てることとした。朝準備をし、8時半(北京時間。日本の1時間遅れ)頃、昨日の司機(運転手)の携帯へ電話を掛けてみた。しかし、「空番号」との自動音声が……。番号が印刷された名刺をよく見ると、番号の下にインクが切れたボールペンで成された数列が。こちらへ掛けてみて漸く繋がったのであった。

早速、宿前に現れた司機は、山岳用磁針を差し出した。昨日、私が車内に落としたもので、8時頃、宿まで届けに来たが、部屋番号が判らなかった為、渡せずにいたという。実直なその心掛けに感謝し、早速遺構見学の話を纏め、車に乗り込む。途中、電話番号の話をすると、渡した名刺が古いものであることに気づき、新しいものと交換してくれた。あの書込みに気づかなければ、会えないところであった。縁があった、ということか。

写真は、出発前に市内燃料スタンドにて補給するチャーター・タクシー。傍らの人物は、我が司機のW氏である。細いパイプからボンネット内に送り込まれるのはガス燃料。後方に停車する公共ミニバス等にも見られる通り、ガスや電力利用の車輌が急速に普及しているようである。


朝日を追い、戈壁中の一本道「安敦公路」を東へ車行する
朝日を追い、安敦公路を東へ

相変わらずの戈壁中の一本道である。敦煌郊外の敦煌空港や新駅の辺りまでは、車線が多く、高速道路の如き体をなしている。交通量は少ないが、路面状態等は良好である。


荒野の果てに佇む、中国西部瓜州郊外に残る漢代・三国期の複合遺跡「六工古城」

古代辺境迎撃基地「六工古城」

今日の見学場所は2箇所。何れも公路沿いにあり、先ずは近い場所にある「懸泉置遺構」からの予定であったが、場所がわからなかったため先へ進み、瓜州郊外にある2つ目の「六工古城」へ向かった。

それは、瓜州の緑が地平線に見え始めて暫し後に現れた。だが、公路から見えるそれに、中々近づけない。大規模な遺構のため遠くに在りながら近くに見えたこともあるが、そこへと向かう脇道の発見に時間が掛かってしまったからである。途中、司機が何度も土地人に道を聞き、漸く灌漑水路沿いの土道を進んで着くことが出来た。

写真は、荒野に佇む六工古城全貌。全長500m程もある。手前に立つ木棒の右側が、最初に造られた漢代の城障部分。左側が三国期の魏が建造したとされる県城(地方小都市)址である。


中国西部瓜州郊外に残る漢・三国期複合遺跡「六工古城」の東側にある、漢代「宜禾都尉」治所に比定される「昆侖障」遺址
複合遺跡である六工古城の、古く小さい方、即ち漢代の遺址

小さいといっても、停車する車と比較してもらえば解ると思うが、一辺約90m、防壁残高も約10mという威容を誇る。当時ここに駐屯し、一帯の迎撃任務にあたった「宜禾都尉」の治所、「昆侖障」に比定されているという貴重な遺構である。


中国瓜州郊外の漢・三国期複合遺跡複合遺跡「六工古城」東側の、漢代「昆侖障」比定遺構の南壁出入口跡
「昆侖障」比定地の南壁に設けられていた出入口跡

車1台幅程の道が、L字に屈曲しつつ内部に通じる。左右には厚さ数m、見上げるばかりの防壁が設けられている。北を走る長城本線から6kmも離れた内地であるにも拘らず、今も残るこの堅固さ。よく見れば、周囲にも更なる外郭らしき微高地の連続が見られた。当時の、辺境前線に於ける緊迫ぶりが窺える。


中国瓜州郊外の漢・三国期複合遺跡複合遺跡「六工古城」東側の、漢代「昆侖障」比定遺構(手前側防壁内)から魏晋県城址(向こう側防壁内)を見る
昆侖障比定地(手前側防壁内)より魏晋県城址(向こう側防壁内)を見る。南方である背後の山麓に沿って安敦公路が通じるが、古代の古道もそこにあった。長城と交通路の両方を押さえられる中々の好立地


中国瓜州郊外の漢・三国期複合遺跡複合遺跡「六工古城」西側部分の、「角敦」や「馬面」を備えた魏晋県城址の北防壁
魏晋県城の北防壁。角部分に角敦(正しくは土扁付)、中ほどに「馬面」と呼ばれる張出しが設けられている。防壁の面積及び攻撃角を増し、守備を易くする為の設計である

息を呑む凄み。県城廃址

小城見学の後、隣接する大城、即ち魏晋県城址に入った。東西280、南北360mの広大に残墻が屹立する。正に、息を呑むばかりの光景――。一体どれ程の労力が費やされたのであろうか……。只々その凄みに打たれ、暫し呆然と佇む。

防壁以外の建屋は現存していないが、周囲広範に、耕地や墓所等の生活遺構が発見されているようである。また、城外に散乱する土器片等の遺物数も相当なものであった。しかし、それにしては、付近は全くの無人で、管理棟や入場制御施設等の存在もない。公路に近く、著名観光市敦煌から日帰りできる立地にありながら、これ程の遺構がどうして施設化されないのであろうか。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構を探し戈壁上の轍を追って山側へ進むタクシー

「懸泉置」何処へ

さて、古城の見学を終え、車内にて昼寝する司機の元へと戻り、次なる目的地「懸泉置遺址」へと向かう。ところが、帰り道にある筈のそれが見つからない。公路沿いの「甜水井」なる場所にあるというのだが、戈壁只中のそこまで行っても見当たらない。

公路関係の施設か、そこの小屋の人々に司機が訊ねても知らないようである。司機は携帯電話で敦煌の知人に連絡し再度その所在を訊くが、やはりその辺りに違いないという。確かに、手持ちの旅行地図にも甜水井から1.5km南へ入った所にあることが記されている。どうやら、山際にある遺構への通路の問題のようである。しかし、戈壁の一本道たるその近辺に分岐の場所はなく、その在り処を示した標識の如きも無い。

とにかく付近に存在する脇道らしきものを探す。写真はその内の1つ、戈壁上の轍を追って山側へ進む様子である。道とは呼び難い単なる河原跡のような場所で、起伏が多く、当然速度は出ない。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構を探し戈壁上の轍を追ってタクシーで山に入って辿り着いた断崖と泉の傍の黄葉した樹々。古代の懸泉、現代の甜水井・吊吊泉か

轍道を進むと、やがて不毛山地内の谷筋となった。更に進んだが、程なくして分水界の断崖のような場所に出てこれ以上進めなくなった。写真はそこにあった泉の樹々。

一体、遺址はどこにあるのであろうか。本日最後の見学地で、時間的には余裕だった筈が、既に午後を大きく過ぎ、焦りが生じ始めた。とにかく公路へ戻って再度探すしかない。しかし、他にはもう道らしきものは無かった筈……。


戈壁山地の谷口・山下にて漸く発見した敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構の碑

ため息交じりに公路への後退を続けている時、谷の出口辺りで轍数条分の分岐があることに気づいた。念の為、そちらも辿ってみると、なんと、程なくして遺構の碑を見つけることが出来た。司機共々喜んだのは言うまでもない。


敦煌近郊の山裾に起伏状に存在する、漢代郵駅址「懸泉置」遺構
山裾に存在する懸泉置遺址。地表に建造物の残存はなく、写真に見る如く、起伏状、そして地下に遺構が存在する

懸泉置は前漢時代(BC1世紀頃)に古道沿いのこの地に設けられた郵駅站。いわば、古代の通信施設・基地である。その名が後世に伝わらなかった為、長期間存在を知られていなかったが、1987年に発見され、広く知られることとなった。「懸泉」とは、その近くにあった泉の名(恐らくは先程見た山奥のもの。現名「吊吊泉」)から採られた地名だという。

地表に殆ど見るべきものがない地味な遺構ながら、大量の木簡や遺物出土を齎した為、学術的には大変重要な存在となっている。特に、壁に書かれた皇帝詔書がそのまま発見されたことは大きな成果であった。また、地下に眠る遺構自体も、古代の大郵駅址として高い史料価値を有している。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構東方近くの山上に見えた、煙突の如き突起を備える漢代の烽燧「山上亭」(弐師泉烽燧?)遺構
遺址後方の山に登って周囲も見てみる。東方近くの山上に、煙突の如き突起を備える烽燧を確認。出土簡に記された漢代の「山上亭」(文物局呼称:弐師泉烽燧か)址に比定されているものであろう。懸泉置遺址からも観察出来、更に西方、公路沿いの烽燧とも対応している


背後の山上から見た、敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構全容
懸泉置遺址全容

写真中程、車が停車する辺りに地色が変わる場所があるが、それより下方、山際までの小起伏が連続する場所が遺構である。総面積は約2500平方m。郵駅とはいえ、幾重もの防壁や烽燧を備えた要塞的建築群であった。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構で見られた、盗掘が疑われる遺構断面の露出

盗掘?

露出していた遺構断面。漢代、そしてこの地域特有の、葦入り建築構造が窺える。灰や炭の存在は、敷地内の厩舎付近にて火災があったとの調査報告を裏付けるものである。

この遺構は、調査後埋め戻されたことが報告に見えるが、一部地下に至る大穴が開いたままであることを確認した。ひょっとすると、盗掘されているのではないか。早急な対策を望むところである。

祝敦煌全程終了。しかし……

さて、懸泉置見学が終了し、敦煌への帰路につく。これにて敦煌での全予定は終了である。明日より日本への撤収を開始する。途中、友人宅等を訪ねながらである。

しかし、今日既にその旅程に陰が差してしまった。遺構からの帰り、新しい敦煌駅に寄ってもらい、明晩の切符を買おうとしたが、寝台票が手に入らず、座席票しか買えなかったのである。不眠不休が必至の夜行座席車移動――。しかも目的地まで計19時間!2度とやるまいと思っていたが、そうはいかなかった。「仕方ない」とは言い聞かせつつも、構外で待つ司機と顔を合わせるなり溜息一つ……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2009年10月22日

敦煌調査再開

タクシー車内から見た、中国西部敦煌近郊集落「南湖」へ続く荒漠の一本道

南湖調査最終日

休日として過ごした昨日から明けた今日22日、郊外調査を再開した。朝、宿近くの町角で声を掛けてきたタクシーに乗って早速出発。この国では、この様にタクシー側から声を掛けてくることは珍しくない。

行先は、今回の調査重点地区と定めていた南湖。3度目の今日は、最終日として仕上げ的な1日にするつもりであった。


敦煌近郊の南湖集落東郊の砂漠中にある唐代の県城「寿昌城」と漢代の県城「龍勒県城」の複合遺跡

砂に埋もれた廃市、龍勒県城・寿昌城址

最初に訪れたのは、南湖集落東郊にある寿昌城址。唐代の県城(地方小都市)遺址とされていたが、近年の調査で、漢の龍勒県城址を元にして建造された複合遺址であることが判明した。遺構自体は以前から知られていたが、珍しい古代県城遺址でもあるので視察することにした。

写真は、葡萄畑と防砂林を抜け漸く出会ったその現場。南湖「寿昌村」の奥、土面の農道を進む、非常に解り難い場所。県城防壁の残骸の列が流砂から顔を出す。正に、砂に埋もれた廃市。


敦煌近郊南湖集落東郊にある唐代の「寿昌城」と漢代の「龍勒県城」の複合遺址に残る、奇怪な形に風化した廃墟
風化により奇怪な姿を晒す県城残址。かなりの残高があり、付近にはその来歴通り、漢代を初めとする様々な様式の陶片が散乱していた


敦煌近郊南湖集落東郊にある唐代の「寿昌城」と漢代の「龍勒県城」の複合遺址に、近年設けられた防砂設備
これは近年の防砂設備。遺構どころか、現集落すら埋没の危険を抱えている。正に砂との闘い

タクシーとはここにて別れ、徒歩で他所を巡るつもりであったが、運転手の進言により、1日借り切ることとした。少々高くつくが、時間を有効に使え、前回の如く帰路の便で失敗する心配もない。運転手も中々配慮のきく、信頼できる人柄である。


敦煌近郊南湖集落郊外にある「古董灘」の戈壁漠上で見つけた溝跡

古董灘最終確認。陽関何処に

寿昌城址を一回りした後、古董灘に向かった。引き続き塞墻(長城)を探す為である。既に昼となっていたので、運転手に昼食代りのナンを渡して待機を頼み、1人また広大な砂礫に挑んだ。

写真はその際遭遇した溝跡。水路跡か、時代は不詳だが、幾筋か見られた。甘粛省文物局の報告では、この近辺で耕地跡が検出されているという。場合によれば、その関連遺構の可能性も。


敦煌近郊南湖集落郊外にある「古董灘」の古い墓跡らしき場所からのぞく、繊細な臍加工のある板
古い墓跡らしき場所からのぞく板。棺用か。乾き割れたものであるが、接合用の臍加工に、繊細な技が見られた


漢代の「陽関」有力推定地である敦煌近郊南湖集落郊外の河道「西土溝」東岸北側と深い流砂
西土溝東岸を北へ。深い流砂に阻まれる

この辺りは、著名だがその存在に謎が多い古代関門「陽関」の有力推定地。私もその説を支持している。唐代の地誌に基壇が残存していたことが記されていることから、必ず遺構が存在するとみている。文物局もこの流砂中に於ける発見を期待しているが、作業困難の為、未だ調査の手は及んでいないという。

結局、目当ての塞墻址は発見出来ず。破壊されたのか、埋もれたのか、まだ判別はつけ難いが、色々と再考する必要が生じたことは確かである。


敦煌近郊南湖集落南郊の「渥わ池」西端から南に伸びる土道と、広大な湿地跡草原

「二道風墻」「元台子」再捜索

2時間程の探索後、ポプラの木陰で駐車して待つ司機(運転手)の元へ戻り、南方は「渥わ(三水に土2つ)池」方面へ向かった。塞墻址とみられる「二道風墻」や、烽燧址とされる「元台子」を南方深くから再捜索したかったからである。

写真はその途上、「渥わ池」西端から南に伸びる土道を、車輌にて進む様子である。一面のススキ(?)野原で、路面に白色の塩類集積を見ることから広大な湿地跡とみられる。古代「渥わ水」の痕跡か。地図上の記号観察では判らなかった実態である。


敦煌近郊南湖集落南郊の「渥わ池」南方湿地跡で遭遇した水質の良い水源湧水池
「渥わ池」後方(南方)湿地跡にて遭遇した水質良好の水源湧水池。遠方遥かなるアルティンタグ(阿爾金山)か、党河の伏流によるものとみられる。まさに、南湖集落「命の水」


敦煌近郊南湖集落南郊の「渥わ池」南方湿地跡で遭遇した牧民の仮小屋?

道は湧水池辺りで途絶え始めたので、下車し、また1人にて南へ進む。途中、前方に何か建屋が見えると思えば、写真の如き小屋であった。牧民の仮小屋か。炊事か何かの煙が僅かに上がっていた。そういえば、先程逃げ去る羊の小群とも遭遇していた。

牧民住居の場合、近くに牧羊犬が放たれている可能性が高い。凶暴・排他的なそれによる攻撃や、のちの狂犬病の厄介が脳裏に浮かぶ。あまり近づかぬようにして慎重に通過。

そして、途中流砂を越え、数km程南進して一面が見渡せる場所に着いた。単眼鏡で探るも遺構らしきものの確認は叶わなかったが、湿地・古董灘と南方山地の間に、通行容易な裾野地が東西に続いていることが判った。このことは、考察・再調査に於ける重要な材料となる。


敦煌近郊の「党河ダム」近辺に残存する漢代長城(塞墻)遺構とされる土塁

「党河ダム」近辺、塞墻東段と山闕烽

同じく2時間程の探索の後、南湖から撤収した。そして、敦煌への帰路、最後の調査地「党河ダム」近辺で、その辺りに残存することが衛星画像で確認された塞墻址を探った。

写真は敦煌と西蔵(チベット)を結ぶ公路東側にて確認した塞墻址。先日調査した南湖〜党河間を結ぶ土盛の東段にあたる。先日確認した時は東段部分の発見は叶わず、誤認を疑ったが、今日その確かな存在が認められた。少々嬉しい。なお、残高等の状況は西段と同じであった。同じものであることに違いあるまい。


敦煌近郊の「党河ダム」近く残存する漢代長城(塞墻)遺構とされる土塁の、南方山上中央に見えた「山闕烽」
塞墻から南方傍にある山塊を見る

稜線に立つ3つの建屋の内、中央のものが、古い史料にも記載される「山闕烽」であることが確認出来た。後代の烽燧らしいが、敦煌と南湖を結ぶ通路の屈曲点、そして古代の「北工敦(本来は土扁付)烽燧」等とよく対応している為、見過ごせない存在である。


飛天で飾られた「党河水庫」の文字がある、敦煌近郊の「党河ダム」の堰堤

軍略上の必要から、塞墻は必ず党河河岸まで達していた筈だと推定していた為、そこまで車を走らせた。しかし、辺りは既にダムや軍施設に因って地形すら改変されおり、その推定を確かにするものとは出会えなかった。写真はその現場、山側よりダムを見たもの。飛天で飾られた「党河水庫」の文字が見える。

やがて、傾いた陽は、また広大無辺の戈壁へと沈んでいった。我々は車窓横にそれを感じながら、遠く点り始めた敦煌の灯りを目指す。調査はこれにて終了である。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2009年10月20日

敦煌調査3日目

中国甘粛省西部・敦煌郊外の党河から南湖集落までの約10kmを塞ぐ、漢代長城遺構とされる土塁

調査核心地に入域ならず。代替調査へ

朝8時に宿の敷地内にある小さな旅行社を訪ねる。昨午前に予約したチャーター車との待合せの為である。

わざわざ旅行社を利用したのは、今回の調査核心地である「馬迷兎」方面への車輌用意の為であった。衛星画像の分析により、漢長城最西遺構が残るこの地区の更に西に未確認の長城らしきものを発見したが、その真偽を確かめんとしたのである。

しかし、道無き道を進むことが出来る車輌の手配は叶ったが、政府の入域制限によりそこへの調査は叶わなくなった。因って、予定を変更し、他の遺構の再確認等に充てることとなったのである。行先は、現在観光地化されている陽関や玉門関の関係遺址等であった。

結局、少し遅れた8時半頃にワンボックスの車が現れそれに乗り出発した。写真は陽関関係遺址へ向かう途上に立寄った、土塁遺構。党河から南湖集落東辺までの約10kmに存在し、100年前の英国スタイン隊の調査図にも描かれている。甘粛省文物局関係者の著書等で漢代遺構と判定されているが、典型的なそれとは造りが違うので注意が必要な存在であった。今回実見したところでは、やはり砂礫のみで成されているようで、版築や葦補強といった古代工法使用の確認は出来なかった。

しかし、現地状況観察から、軍略的には非常に的を得た設置であることが分かった。このことは非常に重要である。


中国西部敦煌郊外の党河・南湖集落間に続く漢代長城遺構とされる土塁傍の荒漠に、盛り土状に点在する唐代の古墓「山水溝古墓遺址」
土塁南方戈壁に散在する盛り土状の古墓

唐代のものらしく「山水溝古墓遺址」として文化財指定を受けているようである。しかし、対して土塁は破壊が進んでいる。公路に近く、光ファイバーや電線が傍らに埋設され、存続が危ぶまれる。


中国西部敦煌郊外の党河・南湖集落間に続く漢代長城遺構とされる土塁西端にある烽火台(烽燧)遺址「北工敦」
土塁の西端、即ち南湖集落手前にある烽火台遺址。通称「北工敦(本来は土扁付)」、漢代のものとされている遺構である。土塁がこれと良く対応していることも、その重要性を裏付けるものである。付近には、関連施設の跡らしい土盛が幾つか見られた。因みに烽火台は後代の補修利用の可能性が窺われた


中国西部敦煌近郊集落「南湖」の北辺にある陽関博物館の門

次は南湖集落北辺にある「敦敦(本来は土扁付)山」烽燧へ。現在陽関博物館として著名観光地となっている場所である。15年程前に1度来たことがあるのだが、遺構状況の再確認の為、訪れることにした。写真は、以前はなかった立派な表門。入場料も実に立派なものに(笑)。


中国西部の敦煌近郊集落「南湖」北辺の荒漠に佇む敦敦山烽燧
赤い礫山上に聳える敦敦山烽燧。すぐに登れそうだが、これがなかなか……


典型的な漢代建築様式の姿をさらす、敦煌近郊集落「南湖」北辺陽関博物館傍の敦敦山烽燧
敦敦山烽燧。典型的な漢代建築様式。こんな吹き曝しの中で、よく残存できたものである。ところで、よくこの烽燧の写真を以て陽関遺址と方々で紹介されているが、これはあくまで烽火台であり、関址ではないことに注意されたい


敦煌近郊集落「南湖」北辺の敦敦山烽燧より、雪を戴き南方彼方に立ちはだかるアルティン・タグ(阿爾金山)を見る
敦敦山より北方を見る。彼方に雪を戴いた5000m超の高峰、アルティン・タグ(阿爾金山)が見える


敦煌近郊の漢長城遺跡入場門と玉門関有力推定地の中間にあった、スタイン編号T14a燧の1つ南のものとみられる漢代の烽火台(烽燧)

疏勒河沿岸の長城本線遺構群へ

次は北上し、疏勒河沿岸に残存する長城本線遺構群の見学である。ここも8年前に行ったことがあるのだが、同様に再見学することにした。

写真はその途中、入場料徴収門と玉門関有力推定地の中間にあった烽火台。その造りから漢代のものとみられる。恐らくは、スタイン編号T14a燧の、1つ南のものか。ここも、付近に付属施設の痕跡が多数見られた。


残高3m程で長大に続く、敦煌近郊の漢代玉門関有力推定地から3km程西の漢長城本線遺址
玉門関有力推定地から西へ3km程行った場所にある漢長城本線遺址。残高3m程で長大に続く。正に圧巻


砂礫と葦を交互に積み塩水で固めたという特殊な構造がわかる、敦煌近郊の漢長城側面
長城接写。粘土や黄土が採取し難いこの地の長城は、砂礫と葦を交互に積み塩類含有水で固めるという、世界的に珍しい工法が採られている。線状に見えるのは、各段を隔てる敷物状葦の断面である


敦煌近郊にある漢長城至近のD23号燧(甘粛省編号)付近に残る狼煙材料「積薪」
漢長城至近のD23号燧(甘粛省編号)付近にある「積薪」

用途は地上で焚く狼煙用材。葦や紅柳等を漆喰で固めたもので、大きさは2m四方。西からの強い卓越風の作用か、東側へ倒れている。


漢代の軍糧庫跡とみられ、「河倉城」の別名でも知られる敦煌近郊の大型遺址「大方盤」

古代大型建造物「大方盤遺址」

漢長城の次は、そこから18km程東にある「大方盤遺址」へ。別名「河倉城」(この呼称は誤りの可能性が高い)とも呼ばれる漢代の軍糧庫跡とみられている大型遺址である。以前は未舗装で砂埃に苦しめられたが、今は舗装されたおかげで苦も無く短時間で着いた。

写真の遺構が正にそれである。全長130m強、全幅18mで、外墻遺構の存在から、同様のものが少なくともあと1つはあったと推定されている。内部は3室に区切られ、壁面にある菱形の大穴は通風口ではないかとみられている。今年春、東京で行った「胡羌隔絶展」の案内状にある遺構と同じものである。


大方盤専用の特殊用途と見られている烽燧遺構から、大方盤と後方の疏勒河河床・北山山脈を見る
大方盤専用の特殊用途と見られている烽燧の丘より大方盤を見る。大方盤と、その後方の北山山脈の間に疏勒河河床が存在する

河岸にあり、舟運利用の可能性が指摘されている大方盤であるが、実見してみると本流河床より、意外に高い位置にあることがわかった。春の融雪増水期に、一気に軍糧を運び込んだのであろうか。これも、実見ならではの貴重な情報収穫である。


敦煌近郊の漢代玉門関有力推定地傍に残る、軍事・事務用砦「塢」の遺構「小方盤」

小方盤遺址

そして最後は玉門関有力推定地「小方盤遺址」へ。長城側に戻った場所にあり、当然以前訪れたことがある。今回はこの地に残る長城の南北支線痕跡を実見するという目的があった。

因みに、ここも敦敦山烽燧同様、写真の建屋が恰も古代関門「玉門関」の如く紹介されている。しかし、この建屋も軍・事務用の砦跡にすぎない可能性が高い。観光振興には効果があるだろうが、どこかの国の旅館みたいに、誤解が既成事実化しないか心配である。


敦煌近郊の漢代玉門関有力推定地南方に残る、低い土塁状と化した漢代長城遺構
小方盤南方に残存する漢長城跡。低い土盛と化しているが、断面等の観察から間違いないと思われる。ここから北の小方盤方向は、観光道路や駐車場の為に不明瞭となっている。10年程前まで明瞭であった小方盤西側の長城址が「観光客の踏み荒らし」の為、消滅したとするK大学F先生の報告は残念ながら事実であった


敦煌近郊の漢代長城遺構見学後の帰路車窓より見た、観光施設「敦煌古城」と背後の「鳴沙山」
帰路、観光施設「敦煌古城」とその背後の「鳴沙山」を見る

古城は日中合作映画「敦煌」の撮影用として1980年代に造られたセットを施設化したもの。内部には宋代の街が復原されているそうだ。それにしても、砂だけで叡山程の高さを持つ鳴沙山が、美しくも恐ろしいばかり……。


中国西部・敦煌市街の食堂で食べた、黒酢と豆板醤で味わう驢馬肉
市内に帰着後、運転手に連れられ、市場内の食堂で食事。名物の驢馬肉や麺を食した。写真はその驢馬肉。焼豚風に調理してあり、手前にある、黒酢と豆板醤に浸けて味わう。感想は、可も無く、不可も無くといったところか

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2009年10月19日

敦煌調査2日目

敦煌近郊緑州集落「南湖」南辺にある、漢代の泉「渥わ水」跡とみられる「渥わ池」の堤と広大な水面

南湖「古董灘」南辺調査

朝、甘粛省省都「蘭州」の名物でもある「牛肉面」を食したあと、宿付近の路地に窯を据える維吾爾(ウイグル)小店のナンと水等の非常食を仕入れタクシーに乗り込んだ。行先は昨日に続いて南湖古董灘。今日はその南方に残存するという、長城や烽燧(狼煙台)の探索である。

写真は、その最寄で、荒漠への出発地となる南湖集落南辺にある「渥わ(三水に土2つ)池」という用水池。古代、「渥わ水」と呼ばれた池沼があった場所とされ、天馬出現伝承も持つ。とまれ、満々と清水を湛える様は、荒漠地に於いては貴重な風景。


敦煌近郊緑州集落「南湖」南辺の水源「渥わ池」の堤下にある、古代「渥わ水」の原景を想わせる湿地
「渥わ池」北側、堤防下にある湿地。恐らくこちらの方が、古代「渥わ水」の原景に近いと思われる


敦煌近郊集落「南湖」南辺の荒漠で遭遇した尾根状に続く土堆
「渥わ池」より、また独り荒漠に入る。タクシーの運転手は、敦煌への帰路を心配してくれたが、公共バスで帰ることを説明し、別れた

写真は流砂の丘陵を越えて発見した尾根状に続く土堆。高さ2m以上、幅数mで、数百m以上続いている。資料に記載されている、古代の長城跡と見られている「二道風墻」の規模・所在地とほぼ一致するが、断面を観察しても人工物かどうかの判別はつかない。勝手に発掘する訳にはいかないので、断面観察で判断がつかないと難儀である。とまれ、一応撮影や採寸等の記録は行う。


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠中に渓谷を成す、川底に少し水がある「西土溝」
川底に少し水を有した西土溝を渡渉し、対岸地帯も探る。昨日紹介した場所より南、即ち上流方向である


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠中の河川「西土溝」上流から眺めた、北方と砂漠の彼方の南湖集落
西土溝上流からの眺め。即ち北、陽関博物館がある敦敦山(本来は敦に土扁が付く)方面である。地平線右に見える緑の帯が、南湖集落である。5km程進んだか


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠中の流砂越しに見た一帯の砂漠風景
流砂に乗って一帯を俯瞰し、遺構を探す。少し前から強い風が出てきた。荷物を含め、砂まみれとなる。カメラの故障が心配である。というか、更に強くなり視界が悪化すると身も危険である。帰路である集落側の方向を、磁針で慎重に確認しつつ備える。かつて敦煌西郊で、1人荒漠に入った地質学者が、砂暴風に巻き込まれ行方不明になった事故を思い出した


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠中に見た、流砂より顔を出す2条の石列
流砂より顔を出す2条の石列

同様に、長城跡を想わせる砂尾根や、烽燧跡を想わせる小丘等を見かけたが、何れも判別が難しいものばかり。


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠中にある西土溝河岸を上り去る羊飼いの若者

すわ追放?無人の荒野に呼び人現る

遺構がありそうな場所の最も南側を調査後、一転して北方へ向かう。その途中、彼方の西土溝対岸に人影を発見した。確かに左右に揺れ動く1人の人間が見える。南方へ向かって進んでいるようなので、そうこうする内、北行する私とかなり近い距離となった。よく見れば、頻りにこちらの様子を窺っている。嫌な予感である。

官憲か軍人か、経験上この様な場合、尋問されて追い払われる可能性が高い。疾しいことは何も無いが、気分を害したくない為、無視して過ぎ去ることにした。だが、やはり対岸から声を掛けてきた。仕方なく振り向くと、何やら大声で訊ねている。風により聞こえ難い為、双方接近し河床にて落ち合う。大柄だが予想に反して線の細い若者。身なりは質素だが、今風に少々髪を染めていたりもする。

「あんたさっき山側にいただろう。俺んちの駱駝とか何とかがそっちの方へ行ったんだが、見なかったか?」

若者の用件は以上であった。安堵である。見なかった旨を答えると去りかけたが、こちらも二道風墻や烽燧について質問した。風墻は知らないが、烽燧なら北側2キロ程の場所にあることを教えてくれる。中々気立てのいいあんちゃんである。写真は、河岸を上り、去り行くその後姿。緊張は一転し、めでたく辺土の長閑と化したのである。


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠中にある漢代の烽火台(烽燧)遺跡「西土溝南敦」
あんちゃんが教えてくれた烽燧。所謂、狼煙台跡である。その姿から、資料にある「西土溝南敦(本来は土扁付)」に違いない。ただ、記述の場所よりかなり北方にあった為、作成した遺跡図を修正しなければならない

日干し煉瓦数段毎に補強の葦束を入れる建築様式は、正に古代のもの。「漢代の烽燧である」との報告は間違いないようである。


敦煌近郊集落南湖郊外の漢代烽火台(烽燧)遺跡「西土溝南敦」の表面に見えた、日干し煉瓦とその間に敷かれた葦束
烽燧の接写。日干し煉瓦の間に葦束が敷かれている。葦は2千年の時を経たものと思われるが、昨日刈り取ったかの如き姿を晒している。偏に、乾燥の恩恵か


敦煌近郊集落南湖郊外の漢代烽火台(烽燧)遺跡「西土溝南敦」の周辺に散乱する、幅広模様の有る漢代の土器片
烽燧周辺に散乱する土器片。幅広模様を有すこの種も、漢代に特徴的なものである


戈壁漠越しに見た、敦煌近郊集落南湖郊外の漢代烽燧遺跡「西土溝南敦」と住人の盛り土墓所
南湖集落へ向かう帰路より、南敦を返り見る。付近の戈壁には遺構めいた小丘が広範に見られた。因みに、烽燧の右横に見える2つの盛り土は、住人の墓所。少々陰惨な印象を与えられる地である

陽も傾いてきたので、本日はこれにて撤収である。


敦煌近郊集落南湖郊外にて遭遇した、干し葡萄製造庫
南湖集落の際にて遭遇した干し葡萄製造庫。風通しの良いこの中に収穫した葡萄を吊るし置く

車が無い!

さて、これでまた今日1日が終る筈であったが、とんだ番狂わせが起った。なんと、敦煌へ帰るバスがなくなっていたのである。バスが出る集落中心地に18時頃着いたが、昨日はそのころまで発車を待っていたバスが既に出てしまっていたのであった。他からの経由便やタクシー等を捜すが、待てど暮らせど来ない。そうこうする内、日は暮れ、辺りは暗くなってしまった。

砂漠気候特有の急激な気温低下。上着を足してもまだ寒いぐらいの状況となった。偶に見る車は皆街から帰って来るものばかり。辺りを見回せど、開き直って泊まる宿も見当たらない。思えば、明日早朝より遺構見学の為に車の予約もしていた。しかも、既に支払済みである。夜通し歩いて帰ることも考えたが、さすがに70kmは遠すぎ、到底間に合わない。さて、如何はせむ……。

考えていても埒が明かないので、蛍光灯光の漏れる一件の店を訪ねる。携帯電話店らしきその中には、既に閉店したのか、3人の若い男女がフロア中程のテーブルにて食事をする姿があった。早速、タクシーの有無を訊ねる。しかし、やはりないという。ただ、内の1人が、携帯電話を取り出し、連絡してくれるという。20代後半程、しゃがれ声に自然な笑みを絶やさない気さくな男子である彼は、早速ドライバーの友人に連絡し、料金の交渉と待合せの手筈を済ませてくれた。そして、暫しの休息と食事まで勧めてくれたのであった。

かの硬派ライダー出身俳優「Tひろし」似の彼は、食後、正にそのイメージ通りに単車を操り、私を後席に乗せ待合せ場所である自家まで連れ出した。彼の腰に掴まり暗闇の戈壁道を快走する。風圧と爆音、そして寒さに見舞われるが、痛快であった。思わぬ奇縁に、ひとりでに笑みまでこぼれる。そして彼の家でも、自家の如く寛ぐことを勧められた。ここで問われ、初めて日本人であることを明かす。少々驚きがあったが、その後も変わらず良く接してくれた。楊某と名乗る彼は、豪華なこの庭付き一戸建ての家で妻子と共に暮らしているようである。

やがて表にタクシーが到着し乗り込む。礼状用の住所問訊を照れながら断る楊氏に厚く礼を言い別れる。彼の友人であるドライバーも実に快い人物であった。

こうして、正に「好漢」の楊氏らに助けられ、無事敦煌の自室へ帰着出来たのであった。有難い限りである。感謝!

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2009年10月18日

敦煌調査初日

漢代敦煌に初めて築かれたとされる都市の遺跡「沙州故城」

沙州故城

敦煌到着翌日である今日より、早速行動を開始することとなった。とはいっても、実際の交通事情等が不明な為。あくまでも予備調査開始といったところである。

先ずは、市内バスで行ける、付近の「沙州故城」を見学した。史上初めて敦煌に築かれたという、漢代(紀元前2世紀〜紀元後2世紀)の都市遺跡である。約1キロ四方の規模があったといい、その城墻の一部が現存している。写真は、その最も残存している部分。西北角の台敦(正しくは土扁に敦。日本の城でいう、角櫓のような場所)と、そこから南に向かう防壁である。黄土に水を与え、つき固める版築と日干し煉瓦が使用されている。


敦煌郊外の鳩摩羅什塔(白馬塔)近くの綿花畑とポプラ並木

故城見学の後は、近くにある、西域人で佛典漢訳に多大な功績を残した鳩摩羅什(クラマジュウ)縁の「白馬塔」を見学。写真はその途中、綿花畑の景色。敦煌郊外の典型的な眺めである。特産の綿花は、今が出荷最盛期を迎えていた。


敦煌郊外の鳩摩羅什塔(白馬塔)近くの村落を構成する西域型住居
同じく、敦煌郊外の村落にて

殆どが漢人住民であるが、集落や建屋のつくりは西域型であった。


敦煌・南湖間の車上より見た、見渡す限りの戈壁漠と彼方に続く車道

南湖へ

午後からは、今回の重点考察領域である敦煌近郊緑州(オアシス)「南湖」へ向かった。距離は凡そ70キロ、公共バスで約1.5時間の道程であった。写真はその車上にて。見渡す限りの戈壁漠をゆく。恰も、月面を行く心地である。


荒野の彼方に見え始めた、ポプラ樹林に守られた敦煌近郊緑州(オアシス)の南湖集落
やがて、荒野の彼方に、ポプラ樹林に守られた「南湖」集落が見え始める


敦煌近郊緑州集落「南湖」郊外で出会った流砂帯

車内の隣人や車掌らに説明し、集落内の「古董灘」最寄の場所で下車する。そこからは土道を歩き、葡萄畑と幾重かの防砂林を抜け、集落外に出た。早速、流砂帯も現れた。

古董灘とは、古物が散乱する場所として古くから土地人が注目していた集落際の荒漠地。古代の重要関門「陽関」の所在比定地の1つとして知られている。私はここに残存するという長城や烽火台を調べ、敦煌の衛星都市的存在であった南湖緑州の防衛体系解明の手懸りを探りに来た。


敦煌近郊緑州集落「南湖」郊外の「古董灘」の砂漠で見つけた、漢代の縄目つき灰色陶器と水甕(?)の破片
古董灘にて、早速古物発見

縄目のついた灰色陶器は漢代遺物の特徴。左側のものは水甕の破片か。


敦煌近郊緑州集落「南湖」郊外の荒漠「古董灘」を貫く河水「西土溝」の峡谷
古董灘を貫く河水、「西土溝」の峡谷

この辺りでは殆ど水を見ない。少し上流に行くと谷が浅く、渡河が容易な場所が現れるが、私はその辺りを、未だ場所が定まらない陽関遺址の所在地ではないかと推測している。


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠「古董灘」を貫く河水「西土溝」西岸の戈壁台地で発見した土堆
西土溝の対岸、西岸の戈壁漠台地内に土堆を発見。地元の調査資料にある、年代不詳の烽燧(烽火台)かと思われた。しかし、近くで観察したところでは、天然の風化土堆か人工物かの判断は得られなかった


強烈な日射が注ぐ、敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠「古董灘」付近の戈壁漠
朝晩の冷え込みを忘れさせる強烈な日射が戈壁に注ぐ

大きな寒暖差は砂漠気候の特徴。これらの作用が硬い石英・玉石をも砕き、「無辺の砂利地」戈壁を形成する。湿潤帯で暮らす我々には、想像を絶する自然様態である。


敦煌近郊集落「南湖」郊外の荒漠「古董灘」付近の戈壁上に現れた、保護色をした蜥蜴
考察中、度々現れた唯一の小動物、蜥蜴の一種

無人の荒野を独り巡る身には、どこか親近感の如きものを感じさせられた。


敦煌近郊緑州集落「南湖」縁辺のポプラ樹林で見つけた黄葉した樹木
南湖緑州縁辺のポプラ樹林にて

緑州にも、秋黄葉の時季が来たようである。今はただ穏やかな景だが、これもまた想像を絶するような寒冷到来の序章でもある。


南湖から敦煌への帰りのバス内から見た、沙漠の彼方の地平線日没

そして、約3時間程の考察ののち、来た道を辿り敦煌市内へと戻った。短い時間ではあったが、あくまでも予備調査としていたので、欲張らずに撤収した。写真はその車窓に現れた戈壁漠に沈む夕陽。我々島嶼人には物珍しい、地平線への日没である。

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2007年11月26日

伯耆「長者伝説」調査行U


西伯の長者原から見た雪を戴く伯耆大山

調査行2日目

調査行初夜が明けて2日目となった。初日の疲れか夜更しか、2人して少々寝坊気味の開幕である。「悠長に鍋の残りで雑炊なぞ作っている場合か」と珍しく苛立つI氏であったが、結局2人して準備し、しっかり食した。その後、家内の諸々を片付け、出発したのは午前10時頃であった。現代の山陰道、国道9号線を更に西にして向かったのは、長者伝説と進家の本地、西伯地方であった。

写真は、後出する「長者原」の長者墓伝承地付近から見た「大山」。昨日分で掲げた北方からの景とは異なり、すっきりとした独立峰的山容は多くの人にとって馴染のものではなかろうか。しかし、名の通りの雄々しさ、そしてどこか無骨な様は保っている。

実は今回巡った地の中で、この長者原から望む大山の姿が一番力があり、また美しいものであった。長者原は、西伯一帯に勢力をはった紀氏長者の根拠地伝承を有すだけでなく、古代中央政権が一帯を治めるのに設置した官衙跡ともみられる場所であった。彼らは、この稀有な台地上に先端の殿舎を構え、大山の威を背に民心を収攬し、そして西伯に君臨したのであろうか。


長者屋敷遺跡発掘現場跡にて鳥取県教育文化財団の担当氏から説明を受ける

長者伝承地「長者原遺跡」

八橋を出発して直に長者原を目指したのだが、その道すがら様々な旧跡に立寄った。先ずは八橋すぐ西の大山裾野丘陵上にある「狐塚」。八橋が属する琴浦町最大の前方後円墳で、古墳時代中期建造と見られる貴重なもの。その次は、八橋西隣の赤碕集落にある西日本最大級の自然発生海岸墓地「花見潟墓地」。展望見学のみで固有形式の鎌倉期石塔が見られなかったが中々の迫力であった。

その後は、隠岐から脱出した後醍醐天皇が上陸したという近くの海岸、そして更に西進して裾野西端地方の淀江古墳群や上淀廃寺跡にも寄った。時間の関係上、何れもあまり見聞は得られなかったが、興味深い場所なので再訪の機会があればじっくり巡りたいと思う。

そして、何とか約束通り、昼前に長者原に辿り着いた。約束というのは、ここの発掘調査を担当している「鳥取県教育文化財団」に、I氏が事前に見学を申し出ていたからである。台地麓にある調査事務所を訪ねると、文化財主事のS氏が別車にて案内してくださる事となった。

台地上に上り、先ずは「長者屋敷遺跡」から見学した。写真は、かつての発掘現場前にてS氏より説明を受けるI氏である。見渡す限りの耕地となっているが、奈良期建造の大型建屋遺構が発見されている。それらは、東西180メートル、南北130メートル以上の堀に囲繞されているという。S氏によると、台地上の広範囲に同時代の遺構が検出されており、それらを含めて、古代会見郡の「郡衙」関連施設の可能性が高いとみられるという。今は郊外の趣が濃厚だが、古代に於いては、ここが米子平野を含む会見郡の中心地であったことは疑いないようである。


坂中廃寺跡に残る礎石や塔心礎に紀成盛を記念する石碑

長者の塔

次いで、そこから少し東にあった「坂長下屋敷遺跡」を経、更にその東の坂中(さかなか)集落只中にある「坂中廃寺」に案内して頂いた。

その、廃寺跡辺りという、さほど古くはない佛堂前にあったのが、写真の礎石であった。数個見えるが、手前側の最も大きなものは佛塔の「塔心礎」という。中央の凸部に佛舎利が納められたらしい。残念ながら未だ調査されておらず、詳細は不明とのことだが、古代の官寺と思われるらしく、郡衙とも関連するものらしい。

左奥の石碑は、江戸期に建てられたとみられる塔の供養(?)碑。現況では判読が難しいが、「紀成盛長者之塔 南無阿弥陀仏」などと記されているらしい。この地に於ける長者伝承の、古くからの存在を証するものといえよう。


坂長廃寺跡に残る奈良時代後期の縄目ある瓦片

S氏が何気に礎石近くの土塊を手にして発した言葉には少々驚かされた。何と、奈良時代後期(8世紀)の瓦片だという。縄目文が施された様をはっきりご覧頂ける写真のものがそれである。国内に於いてこれ程古い時代の遺物が地表に散乱しているのは珍しいことと思われる。相当な枚数が使われていたに違いあるまい。

S氏によると、郡衙の中心施設は未だ見つかっていないが、先ほどの長者屋敷遺構とこの廃寺の中間地点辺りが推定できるという。とうやら、その他の遺構の中心でもあるかららしい。因みにその範囲内には長者伝説との関連が濃厚な「長者屋敷」の地名(字名)が含まれている。口承などに比して、地名が正確かつ重要な歴史情報を宿している可能性が高いことについては後述するが、S氏と調査事務所も郡衙中心推定地と長者地名との符合に着目しているという。

律令体制崩壊の後、その地方支配の拠点を引き継いだ紀氏長者の影。確証的なものではないが、それが活躍した中世初頭の遺構も出始めているという。今度の調査進展が楽しみである。


紀氏長者の墓所と伝えられる長者原の塚状地「キサイさん」

長者墓伝承地「キサイさん」

I氏が紀氏後裔を称する進氏の出と知り、また紀氏長者の話が出たところで、S氏が「そういえば」と、車を走らせてくれたのが、台地西方にある写真の地であった。比較的新しいものと思われる開墾耕地の只中に大樹1本が残るそこは、古くから地元で長者の墓所と伝えられる場所「キサイ(紀宰・紀祭?)さん」という古跡。

確かに、ここだけ塚様の微高地になっており、大樹の根元には尊崇を物語る石佛も見え何か特別な雰囲気を有している。S氏によると、古墳の可能性があるらしく、樹の後方に積まれた平らな大石も古建築の礎石の可能性があるという。しかし、未だ調査は及んでおらず、伝承以外の詳細は明らかにされていないらしい。左方に見える石塔と石板は、その伝承を保持した近隣有志らが紀成盛長者を記念して近年建立したもの。

長者原一帯は台地という性質上、河川氾濫の堆積影響を殆ど受けない地の為、遺構面が極めて浅い場所にあるという。ならば、ここも比較的小さな労力で調査可能の筈である。早期の調査実現と、それに至るまでの現況保全を願うばかりである。

西伯の長者、紀成盛

ところで、この地の長者であった「紀成盛」とは何者であろう。成盛の名は承安年間(1171〜74)年、即ち平安末期に、霊峰大山を管轄する天台大寺「大山寺」に納められた鉄製厨子(現存。重要文化財)の銘文に初出する。また『源平盛衰記』や『玉葉』等の、中央の史料にも登場することから、その存在が確実視される。

それらによると、彼は「会東(会見郡の東半)の地主」であり、「(伯耆で)勢力ある武勇の者」であったという。また、大山寺の内紛や源平争乱と連動しつつ、東伯の有力者「小鴨(おがも)氏」と度々争い、伯耆をそれと二分する程の勢力だったらしい。経済的にも、大山寺の復興を単独で成しえるなど、長者としての姿が伝えられている。

成盛は厨子銘文の解析により、平安前期に文人公卿として中央で名を成した「紀長谷雄」の後裔とみられる。途中の系統は定かではないが、長谷雄の子「淑光」の系統に伯耆に住した「為任」があることから、その子孫ではないかとみられる。為任の伯父「致頼」や弟「成任」が国司として伯耆に赴任していることもあり、平安中期であるその頃、現地に土着したようである。

しかし、中央の任官を受けず、東伯は倉吉付近にあった伯耆の政治中心地「府中」からも遠いこの地に於いて、何故成盛は西伯を代表する長者と成り得たのであろうか。その謎は、彼の根拠地である会見郡という土地にあった。実は会見郡は伯耆は疎か、因幡を合わせた鳥取県内の郡で最も石高が高い郡であった。つまり実入りのいい地、儲かる土地だったのである。

石高統計は江戸前期以降しか伝わっていないが、土地条件や耕地面積の割合はそれ以前から、さほど変わっていない筈なので、成盛の頃もほぼ同じ状況だったといえよう。そして、更に西伯は鉄の産地でもあったので、それによる大きな利益も想定出来る。政治的には辺土であったが、大きな収益を生むここに平安中期頃土着して成長した紀氏の姿が成盛長者だったようである。


米子平野日吉津の蚊屋島神社社殿

進氏ゆかりの「蚊屋島神社」

さて、長者墓伝承地を見学後、調査事務所に戻った。そして、そこで、出土遺物である古代の金床石等を見せて頂いた後、S氏と所長のK氏に見送られて、長者原調査を終了したのであった。そこからは、北方は海浜寄りの平野地帯、箕蚊屋平野へと車を走らせた。そこは、I氏の実家、即ち中世以降の進氏の居館がある地であった。

先に、この地を管轄する米子市の法務局に立寄って資料を入手した後、日吉津というところにある「蚊屋島神社」に向かった(写真)。ここは進氏、即ち成盛長者が創建したとの伝承を持つ場所だったからである。毎日鞍を新調した馬に乗り、長者原から専用道を辿って参拝した話や、毛利の大将杉原氏にここで伝家の宝刀を奪われたとの伝承が伝わっている。元は社務も司ったが室町後期より、伊勢から今の宮司家である田口氏を招いてからは、その補佐職となったという。ともかく、進氏にとっては元は氏神の如き存在であり、その後も密接なかかわりを持ち続けた社だったのである。

到着してみると、社地や社殿の意外な規模に驚かされた。それは、昨日見た一の宮、倭文宮を凌ぐ程に思われた。伝承によると社地は更に広かったという。社地後方には「裏山」と呼ばれる大きな土塁状の高まりが走っていた。社地の後方、即ち北方はかつて海岸だったらしいので、堤防だったのであろうか。しかし、土地の有力者とかかわりが深い社となると、中世に於ける城塞化の可能性もでる。

成盛長者後裔、進氏

ここで紀氏長者と進氏との繋がりをみてみよう。実は、現在のところ紀氏と進氏を結びつける明確な物証は見つかっていない。紀氏自体が、成盛以降、殆ど記録に姿を現さなかったからである。その空白を埋めるものとしては、江戸中期に進家当主が記した備忘家記『紀氏譜記』があるが、一次史料ではない伝記なので物証とは成し難い。しかも戦国期以前の記述は希薄でもあった。

しかし、西伯に於ける進氏の存在意義を考えると、強ちそれらの伝承も否定出来ない。西伯紀氏が進氏を名乗り始めた時期は諸説あって定かではないが、南北朝期である14世紀半ばの史料に初めてその名が見られることから、進氏自体はその頃には確実に存在していたと思われる。その文書は、「進三郎入道長覚」による布美荘(米子辺りの荘園)領家職横領の停止を命じたものであるが、米子市史の見解では、この横領は伯耆守護、山名氏の意向によった可能性が高いという。つまり守護による荘園侵略の代行であり、それを担った進氏は、守護の下で相応の地位を拝し得る有力国人であったのではないかと思われるのである。

そして、かの「応仁の乱」を記した重要な中央史料、『応仁記』には西軍山名側の重要な戦力「伯耆衆」の一員として南条、小鴨、村上らの有力諸氏と共に登場する。同時代のその他の文書の分析からも、この頃進氏は守護に次ぐ在地での有力者「守護代」であった可能性が高いという。しかも、前述2氏は東伯、1氏は淀江付近の勢力の為、進氏は正に平安末の紀氏同様、西伯随一の勢力だった可能性もでる。

これらの事実から、確証はなくとも進氏が長者後裔である可能性の高さが窺える。また、西伯各所に神社や城塞の建造伝承も伝わっており、広域での影響も窺えるのである。何より、古くから地元で長者家本宗であることを認知されているのも軽視できないのではなかろうか。なお、現在の進家は、戦国期に1度男系が絶えたあと、かの山陽の名家「赤松家」の血を受けた女系が継承したものだという。


進家伝来の江戸後期の屋敷絵図

箕進氏居館と屋敷絵図

蚊屋島社を後にして遅い昼食を途中の店で済ませ、いよいよ箕集落にある進家に辿り着いた。一度転出した為、古いものではないが、門構えある中々立派なお宅である。早速お邪魔して、I氏の父君、即ち第39代御当主(但し代数は赤松氏より。つまり村上帝からか)と面会した。そして用意した資料等を用いながら実地調査することとなったのである。

写真はその際見せて頂いた伝来の屋敷図。江戸後期である天保5(1834)年に、家相を見てもらった際に作られたものという。畳1枚程の大きな和紙に諸屋は無論、塀や排水溝、庭木などに至るまでの詳細が描かれている。今の家は、明治半ばに1度土地を手放した後かなりたってから規模を減じて再建されたので、本図は前近代の進家を知る上で実に貴重な史料といえる。

先ずこの絵図を見て目につくのが、屋敷を囲む太い緑の帯と水路である。緑の部分には「竹薮」の文字が記されている。これは屋敷を囲んだ土塁と水濠の跡に違いない。太平の世であった江戸期にこのような要害を成すことはありえない。よってこれは戦国期以前に成されたものの名残であることが判る。即ち、屋敷が廃滅した明治初め頃まで中世進氏の痕跡が残っていたことになる。前出の『紀氏譜記』にも、かつて屋敷が堀で囲われていたとの伝承が記されている。


進家伝来の屋敷絵図の部分拡大

上の画像は、屋敷図各部を拡大したものである。右上の部分は、敷地の右下、つまり東南の隅部分にあたる。緑の土塁跡内側にも水路と水溜りが描かれているのが解ると思うが、これは郭内の排水に用いられる「悪水抜き」であると思われる。この悪水抜きと外濠跡の存在から、当時土塁がまだ幾許かの高さを有していたことが判る。高さがなければ、水はそのまま外濠側に排水され、悪水抜きを機能させる必要はないからである。また、西側門下の土塁部分である左上拡大図には2、3段程の石垣も見られる。


米子法務局蔵の明治24年作成の最古版地籍図(旧公図)「字土居之上弐」

米子法務局蔵の明治24年作成の最古版地籍図(旧公図)「字土居之上一」


現代に浮かび上がる進氏中世城館

上の2図は、先程寄った法務局で取得した古い地籍図(旧公図)である。進家が在る「土居之上」という小字(こあざ)を上下2枚(弐と一)に分けたもので、明治24年に作製された現存最古のもの。画像はモノクロコピーだが、現物は水路や道が彩色表現された和紙製であり、訂正の書込みや紙貼りが施され昭和40年代まで使用された。

この図を、上記の屋敷図を考慮しつつ見ると興味深いことが判った。それは、公図の製作以前に売却されていたと思われていた屋敷の痕跡が残っていたことである。即ちそれは土塁の在り処を示す線で、私が加筆した緑の実線がそれにあたる。線は同一地目の範囲や筆界を表しており、当該範囲は正に「山林」と記されている。平野の只中で、周囲の地目が田や畑となっている中に、ロの字形の山林があるのは、いかにも不自然であり、もはや土塁以外の何物も想定し難い。

あとは、この「ロの字」の内部全てが元は一筆であったことが訂正書きや紙貼りで判ることである。昭和中期に土地の残存を知らされ戻ってきた進家の今の屋敷地は、その西南隅である紫の部分である。よって、上記の発見と共に、「宅地」と記されたこの一筆の土地が、屋敷図に描かれた元の進家の在り処・規模であることが確かになった。この地籍図は、中世から続く進家居館の最後の姿を写し得た実に貴重なものだったのである。

更に興味深いことは、屋敷図がかなりの精度で作成されていることであった。拡大図左上には「南北三拾三間」と記された書込みが見える。これは土塁の各辺に記されており、各辺の長さ、即ち敷地の規模を示している。そして驚くべきは、絵図全体に一定幅を持ったグリッドラインが引かれていることである。拡大図に見える黄みがかった格子線がそれである。各辺の書込みとこのグリッドを検討して判ったのが、その幅がちょうど1間だったことである。この正確な方眼上に全てが描かれている。よって、地籍図に残った屋敷の痕跡と、このグリッドを照らし合わせれば、かなりの精度で遺構の位置が特定可能となる。皆「占い用程度」との認識であった屋敷図は、実は正確な方位や配置を知る必要があった占い用であったが故に、精確に作成されていたのである。

絵図の情報から算出された古の居館の規模は一辺約65メートル。16世紀前半の洪水に罹災する以前は、更にこの外側を幅5メートル程の外濠が囲っていたという。これはもう、個人の宅地としてかなりの規模、設備であるといえよう。加筆図を見て解る通り、現代の「土居之上」中心に、こうして在りし日の進氏城館の威容が浮かび上がったのである。

吉凶判定で消えた土塁の「張出し」と謎の階と石垣

屋敷図と地籍図による「古の発見」はまだ終らない。両図を比較したとき気になるのが、屋敷図左下(西南)にある土塁の「張出し」の存在であったが、地籍図には痕跡が見えないこの謎の解明手懸りは、実は屋敷図そのものの中に記されていたのである。

拡大図左下は、その張出し部分であるが、そこにはちょうどそれを切るかのように朱線が描かれている。これは家相を鑑定した卜師が記したとみられるものである。実は屋敷図には、庭木1本に至るまで、この朱墨による吉凶判断が書き込まれている。そして、正に張出し上の立木には全て「凶」字が朱書きされている。つまり張出しは、卜師の指示により撤去されたとみられるのである。

家相の鑑定結果に基づき屋敷が改変されたことが確かになった。しかも、その場所は土塁という、大きな労力が必要とされる箇所であった。そうなると、他の凶判定箇所も改変された可能性が高いといえる。例えば、張出し右側に見える「築山」と「泉水(池)」などである。恐らく、これらも地籍図の頃には存在しなかった筈である。

では、戦国期以前から天保5年頃まで存在したこの「張出し」は何の為に施されたのであろうか。残念ながら今それを解く手懸りはないが、やはり土塁に付随しているという性質上、居館防衛に関する施設であるということは言えそうである。通常の土塁幅より「張出し」の分広くなるので、天守台の如き望楼が置かれた可能性なども考えられる。ちょうど、「張出し」の右近くにある「築山」には用途不明の切石の階(きざはし)と石垣も見える(拡大図右下)。築山自体も含め、庭園装置としては少々重厚過ぎると思われるこれらも、その関連遺構である可能性があるのかもしれない。


最古版地籍図(旧公図)「字土居之上弐」に見える進家居館の土塁跡や出丸様突出地

居館の更なる広がりを窺わせる奇妙な痕跡

ところで、この進氏城館があった「土居之上」という字名であるが、それ自体が城塞址を示唆するものであることが、多くの類例により判明している。つまり今判明した箇所だけでなく、字全体が城館であった可能性も窺われるのである。その観点から再度地籍図を眺めると、また興味深いことが発見された。それは、「土居之上」上部(北)の左(西)に見られる奇妙な突出地である。

古代条里制の区画単位である、「坪」(約109メートル四方)に影響されているこの辺りの小字設定において、この様な変則は異様と言える。その原因として考えられるのは、この突出地が「土居之上」側と深いかかわりを有していたことである。可能性として挙げられるのが、土地所有者が土居之上と同一であったことや、そこから何らかの構築物が続いていたことなどがあろう。

この場合、突出面が不自然な弓なりを成しているので、所有耕地とするより、構築物の影響とみる方が妥当と思われる。そこで考えられるのが、城郭の防御施設、「出丸」である。出丸は、城塞の防御性と迎撃の安全性を高める為に城壁(土塁)の外側に張り出して設けられた小郭のことである。そこには専用の濠や防壁が設けられていた。但し、当該のものは半反程の広さしかないので、出入口部分に設けられた類似施設「馬出し」とすべきかもしれない。

地籍図には、ちょうどそこを囲う水路が見える。上掲の城館部拡大画像に加筆した水色の線がそれである。城館の東と南側の濠跡から続く水路が突出地を巡り北側へ流れ下っているのである。この水路は城館部分以外は側溝化して現存しているが、この存在からも、出丸説を往古復原考察の俎上に載せる意義があると言えるのではなかろうか。また、屋敷図に見える門の設置方角と、それが一致するのも見逃せない。しかし、方角こそ合えど、屋敷図の頃、即ち地籍図に現れた城館の門跡と、「馬出し」想定地は位置が食い違っている。また、城館に対するそれの過大さもバランスを欠いていると言わざると得ない。

往古屋敷地「2町四方」の伝承とその裏付

そこで考えられるのが、馬出しと現城館の設置年代のズレ、即ち「造り替え」である。実は、進家にはこれを裏付ける伝承が伝わっていた。それは、往古屋敷地が2町(218メートル)四方の規模を有していたというものである。地籍図上の「土居之上」は南北がちょうど2町である。ひょっとして、元の居館は字全体にあったのではないか。小字の名づけの原則からすれば十分有り得る話である。しかし、それだと東西が半町程足りなくなる。だが、その足りない側の東には、その不足分が存在した可能性が地籍図より窺える。

それは、東側に隣接する「勢勇」という不可解な名をもつ小字の存在であった。この名はそのままでは意味が通じないが、「贅疣(ぜいゆう)」と置き換えると、無用地を指す可能性が現れる。つまり、洪水等の災害により荒れ地化したと思われる場所である。地籍図には、河川影響を思わせる蛇行したそれとの境界が見える。実際それに沿った水路も描かれ、現在も存在する。よって、元は2町四方であった土居之上、つまり旧城館の東半町程が水勢により破壊を受け、放棄された可能性が窺われるのである。裏付には更なる検討を要するものではあるが、一考の価値はあろう。

また、現在多く見られる「土居之上」の宅地が、かつては少なかったことも重要である。特に地籍図の「弐」、即ち北側は進家しかなかったことが、図に記載された地目履歴から判明した。「土居之上」という字うちに於ける、進家居館の排他的姿も浮かびあがったのである。このことも、進家居館の更なる広がりを想わせる状況ではなかろうか。

今も残る往古屋敷地の痕跡

では、城館規模が更に大きかったとみられる時代そのものの痕跡はあるのであろうか。難しい問題であるが、1つその可能性を窺わせるものがあった。それは「弐」の図中央にある進家累代墓地から突出地中央に至る「墓道」である。もしこの突出が、出丸や馬出しであるなら、この道上に門、即ち木戸(城戸)が設けられた筈である。具体的な位置でいえば、墓道と南北道路が交わる箇所である。門を出た道は、南北路を用いて南北両側から城外と接続されるか、そのまま直進して馬出しの城戸から接続されたと思われる。つまり、この墓道は標準的な出丸・馬出しの機能とよく対応しているのである。

因みに墓道は南北路で終るが、筆界として更に西へ続いており、隣接の小字「岩屋畑」の中心にある小社、岩屋畑神社に達している。この社は、その規模や字内に於ける位置が進家累代墓地とよく似ている。それは、正に城壁を挟んで対称に配置されている観すら窺えるのである。城壁とその表門を間にして城主の精神要地を繋ぐ当時のメインストリート―。今は手懸りに乏しいが、往古の居館復原考察に於けるこの奇妙な符合発見は、調査に於ける新たな魅力を得た心地にさせられた。

進家城館の構築時期とその推進者

しかし、それにしても2町四方というのはかなりの規模である。もしこの規模が事実であれば、広域領主たる守護代の居城に相応しいものといえよう。しかも、これはあくまでも領主居館部分、即ち「本丸」部分なので、更なる外郭まで想定出来る。恐らくは箕集落全体が要塞化されていたのではあるまいか。現に、集落内には古城址を思わせる「上之代」や、軍事との関連を示す「的場」という小字名も残っている。

これらの城館が構築されたのは、進家が長者原から箕にやってきたとされる南北朝期辺りのことと思われる。しかし、地籍図に見られるような大規模な馬出しや土居濠が整備されたのは、やはり応仁の乱辺りからであろう。それは、世相上これらを構築する必要があり、そしてそれを実現するだけの力が当時の進家にはあったとみられるからである。それならば、この時代の史料に唯一姿を表す守護代と目される人物、「進美濃守」辺りがその推進者であろうか。

乱後、進家の名は歴史の表舞台から消えてしまう。代わって西伯に力を持つのは、かの八橋城主で、山名庶流ともいわれる行松氏である。この間の事情については何も伝わっていない。ただ、隣国出雲の尼子氏が進出してきた16世紀初期頃には既に神職としてその配下にあったことを『紀氏譜記』は伝えている。つまり戦国中期辺りには既に進家は武門であることを放棄し、在地の小領主化しているのである。恐らくは、乱後の在地動揺と、守護家の内紛や尼子の圧迫等の混乱により致命的な打撃を被ったのであろう。そういった意味では、城館も人為損壊を受けた可能性がある。

進氏最盛期、そして西伯紀氏第2黄金期の姿

これまで判ったことを整理すると、箕進氏の城館には少なくとも3期の姿が存在したとみられる。それは進家が初めて箕に入った際「上之代」に造られたとみられる最初期ものと、応仁の乱前後の世情不安定を受けて「土居之上」に造られた馬出し付きの大規模なもの、そしてその後それを改変して明治まで続いたものである。最後ものは更に洪水や占いによる部分改変も考慮することが出来よう。ともかく、2期目と3期目が進氏の最盛期、即ち西伯紀氏としては成盛長者以来の「第2の黄金期」の姿を伝えるものだといえるのではなかろうか。


進氏居館跡の南縁に続く土居痕跡とみられる微高地

では、こうした資料上の発見等を踏まえていよいよ実地調査を行う。先ずは地籍図に現れた居館部分である。写真は居館東南隅近くから西方、つまり現在の進家方向をおさめたものである。敷地界であるブロックの右側、特にビニールハウスの辺りの土地が高くなっていることを確認した。僅かながら土居の痕跡が残っているようである。I氏と御当主も、「なるほど」といって興味深げであった。

小道が見える左の低い方は濠跡である。地籍図にはそれを継承したとみられる水路があったが、今は埋められて無い。しかし、この下には往時の規模そのままの遺構が眠っている可能性が高い。


中世以前の土塁跡の可能性がある現進家居宅南庭の築山
現進家居宅の南庭にある高さ1メートル程の「築山」

ご一家共々、屋敷図にあるそれと同一のもの思われていたが、諸図との照合で違うものであることが判明した。もし、あとで盛られたものでなければ、その位置から、土塁の遺構である可能性が極めて高い。


畑中の微高地に連なる進家累代墓地
進家累代墓地

墓石は主に江戸期のものが多いが、桃山以前のものとみられる小塔類もいくつか見られた。左側一列に並ぶものがそれである。かつては左際にあった大木の根元にあったらしいが、その伐採の際、担当業者によって勝手に組み換え・並び換えされてしまったらしい。

この墓地は周囲とは異なり、起伏のある不思議な島状地となっている。これは前述した岩屋畑神社と同じで、かの「キサイさん」とも類似している。神社には地籍図のころ水濠の囲繞が見えるが、墓所も同様だったのかもしれない。江戸期に西伯を訪れた俳人の日記によれば、キサイさんも水濠に囲まれ、しかも道を挟んで対のものがあったという。「馬出し」の話でも関連したが、やはり何か特別な印象を受ける場所である。元は違う用途で造られたのであろうか。進家では、往古ここで「馬揃え」が行われたことを口伝している。


進氏居館跡北辺より墓地へと続く墓道と堀跡耕地
屋敷地北辺より、東方は墓地へと続く「墓道」を見る

今は畔程の幅しかないが、地籍図以前は広かったとみられる。御当主によると、道右端に見える小石の列が昔から存在するため、石垣の痕跡ではないかと思われているという。

道右側の畑は用途や所有の関係上、周囲と色が異なっているが、即ちそれが水濠の跡と思われる。その右隣にあった土居共々、痕跡は見る影もないが、土地の所有区分、即ち筆界に姿を留めていたのである。これにもI氏は感心の様子。


箕集落東端から見た淡い夕照に霞む大山
箕集落東端から見た、淡い夕照に霞む大山

このあと、箕集落のほぼ全域を巡って外郭の遺構等を探したが、明確なものは見つけることが出来なかった。しかし、進家居館を含め、大規模建設等による地下撹乱状況は認められなかったため全域遺構包含の可能性が高いことが判明した。かつては頻繁に洪水に遭った思われる洪積平野只中のここは、戦国期以降、かなりの土砂堆積に見舞われている筈である。よって、地表には見えなくとも、土塁基壇部等の居館関連遺構がそのまま地下に眠っているとみられるのである。早急な保全と調査が望まれるところである。

調査終了

さて、陽も傾いたのでここで調査は切上げとなった。2日に及んだ長者伝説調査行の終了である。実に興味深いものであった。少ない期間ながら中々の成果を挙げられたのではなかろうか。これからの発掘進展や、新史料の発見が楽しみである。そのような、充実と期待を胸に、我々は秋宵(しゅうしょう)迫る伯耆を後にしたのであった。

元は進家往古の痕跡の有無を巡り、私とI氏がそれぞれ史的見地と見在的見地を頼りに対立して始まったこの調査。やはり、私の史的見地に分があったことが明白となった。夕映えに晴れやかな大山もそれを祝してくれているようである(笑)。

冗談はさておき、お世話頂いた関係各位には末筆ながら深く謝意を表する次第である。

※2007年、絵図及びその他画像掲載について進家より承認済。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:49| Comment(8) | TrackBack(0) | 調査・研究

2007年11月25日

伯耆「長者伝説」調査行T

薄穂の果てに立つ大山山塊

車窓を流れ飛ぶ薄穂(すすきほ)の果てに立つ山塊。豊かな穂並を前にしての、白雪(はくせつ)の様には違和を感じるが、それもその筈、これは西国の大峰、大山(だいせん。1729m)の姿であった。よく見かける写真の姿と異なるのは、あまり馴染ない北方からの撮影の為。しかし、この姿の方が複式火山塊である大山の実体を良く知ることが出来るのではなかろうか。これまで大山を実見したことがなかった斯く言う私も、強くそれを実感させられたからである。

さて、今日はこの大山を正中に頂く伯耆地方にやってきた。出雲の地、島根東部に接する、鳥取県西域である。京都から遠く、個人的にも馴染のない地方であったが、知己のI氏がここの出身であった縁により初めて訪れることとなった。実は、I氏は紀氏後裔を称する「進氏」という、かつて西伯耆一帯に権益を有したという土豪宗家の出であった。伝承では平安期、史料では室町初頭に土着が確認される一族で、その豪富ぶりは地元で有名な「進の長者伝説」としても伝わっていた。

史的見地VS見在的見地。押し問答の末の調査行決定

以前I氏よりその話を聞いた際、「伝承以外にも、さぞや色んなものが伝わっているだろう」と私が言ったところ、I氏は「一度没落しているので、もはや何もない」と返答。私が「物はなくとも、継続居住しているのであれば、必ず土地に痕跡が残っている筈」と史的見地より返すと、氏は見在的見地から「そんなものはあり得ない」と返して、押し問答になってしまった。そこで、その決着の為、機会を見て2人で現地調査をすることとなったのである。

先ずは地元から資料を取り寄せてもらい、予備調査をしつつ2日に渡る調査日程を決定。更にI氏には、地元関係機関に連絡を入れてもらい、関連遺構等への案内も予約してもらって準備を整えた。こうして今日、未知なる伯耆へと旅立つこととなったのである。


伯耆一宮・倭文宮の大手水鉢

濃霧の丹波路を経て、伯耆一の宮へ

時間の有効利用為に明け方市内で集合し、I氏が操る車輌にて出発した。この時期特有の濃霧に沈む丹波路や鳥取砂丘等を経ること約4時間、最初の目的地、倭文(しどり)神社に到着した。倭文宮は、旧伯耆国内で最も社格が高い「一の宮」に当る。東伯耆にあるため進家とは直接関係しないが、I氏の母堂方一族の出身地なので寄ることとなった。そもそも、初日である今日は、御母堂側の関係地を巡ることにしていたのである。

写真は倭文宮の手水鉢。自然石を加工した巨大な硯の如き品である。社殿はその上奥に見えるが、前者の豪様に比して質素とも見える印象を受けるものであった。非礼ながら一の宮らしからぬと思われるその現況は、恐らく、かつての戦乱に因るものかと思われた。

因みに、I氏の母堂方旧地は門前にある「宮内」という集落内にあったという。倭文宮との関連を思わせるこの集落は、史書によると明治初年の神仏分離まで神社を管掌した「神宮寺」があった場所らしい。母堂家も明治半ばに他所へ転出してしまったが、ひょっとすると、神宮寺に何か関係していたのかもしれない。


倭文神社西方に広がる東郷池と東郷平野
倭文宮西方に広がる東郷池と東郷平野。温泉で知られた地であるが、実は中世史研究上に於いても著名な場所であった。それは、「伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図」という、750年前の荘園図にこの地が描かれている為である。

図名にある「下地中分(したじちゅうぶん)」とは、当時の領家(領主)と地頭が、土地を折半して権利争いの決着を図った方法。つまり、この図にはその折半の様子が描かれており、当時広く行われた下地中分の実態が窺える貴重史料となっているのである。またその他にも、当地に於ける当時の自然状況や交通路、地名等に関する貴重な情報を伝えてくれている。当時の東郷池が今より広かったことが知れるのもその一例である。


琴浦町生涯学習センター付属資料館での八橋古図閲覧

山陰の要衝「八橋」探索

東郷から更に西進して今日の宿泊地である八橋(やばせ)に到着した。時は、ちょうど正午。八橋はI氏御母堂実家の所在地で、宮内から移転以来の居住という。今は常住者されていないその実家には、進家からわざわざ御母堂が来られて昼食を馳走して頂いた。そして午後からは、八橋の町を探索することとなったのである。

先ずは最寄の「琴浦町生涯学習センター」付属資料館にて八橋古図を閲覧することとなった。I氏が事前連絡していた為、休館中であったがスムーズかつ丁重に対応頂いた。写真は、展示中であったその古図をわざわざ展開して見易くして頂いたところ。この図は天保15(弘化元。1844)年に鳥取藩が製作した「八橋郡菊里村岩本村田畠村地続全図」と呼ばれるもので、江戸後期の城下町八橋とその周辺の様子を知ることの出来る貴重な史料。特に指定して用意頂いた訳ではないが、八橋探索の始めに相応しい遭遇となった。


大黒天(大国主命)の顔が付く伯耆地方の瓦

さて、古図を脳裏に焼き、いよいよ八橋の街歩きを始めんとした時、早速気になるものが現れた。それが、写真に見える人面瓦である。この様な、陽に白光る素焼の顔がほぼ全ての甍に付いている。家屋は疎か、納屋や便所に至るまでである。しかも、その位置は棟端だけでなく、甍の全端面に及ぶ。

大黒天(大国主命)とみられるそれは、鬼瓦の一種かと思われるが、初めて見たその変りぶりには少々驚かされた。否、驚いたというより、屋根中・街中が「福笑い」に包まれる様に微笑ましささえ感じたのである。この「笑い瓦」。東伯耆の八橋は疎か、翌日訪れた西伯耆地方にも広く見られた。調べてみると、更に美作(岡山北部)や播磨(兵庫西部)にも類似品が存在するらしい。I氏もその由来を知らなかったが、中国地方に於ける出雲大社(大国主命)信仰と関係するものなのであろうか。


JR八橋駅前にある八橋城址
街の中心、八橋駅前にある八橋城址。後方を山陰線に削られ今は小さな丘一つとなってしまったが、かつては多くの郭や濠も備えた大山裾野台地突端を利用した城塞であった。裾野と海浜に挟まれた山陰道を押える要衝で、古より各勢力による争奪戦が行われた。初代城主である「行松氏」は、進氏本拠に本貫が近く、その関連が窺われる一族でもある。


伯耆八橋城址小丘下にある古い石垣
八橋城址小丘下にある古垣。野面(のづら)積みに近い施工状況から、かなりの古式である可能性がある。戦国末の毛利改変期から江戸初期頃か。石垣下を巡るコンクリの通路は、濠の埋め跡とみられる。未だ地下水が豊富なのか、近くにて電動ポンプによる水の汲み上げもみられた。


幕末の八橋古図の道幅や敷地形状が残る八橋の浜側集落と板壁住居

城址の改変ぶりに比して、古図の姿を濃厚に留めているのが街道沿いの町家域である。写真の浜側裏道も正に好例の一つで、道幅や路地位置は疎か、各戸の敷地形状もほぼ古図のままであった。

ところで、古い建屋の造りで気になったのは板壁の多用である。京町家等とは異なり、正面にまでそれが施されている。潮風への対策であろうか。その板面の様子と、そこはかとなく漂う香から、松材が使用されているように感じた。あくまでも推測だが、湿気への耐性を考えると、強ち外れていないような気がする。


八橋の町家域中心に残る旧山陰街道の遠見遮断
町家域中心を貫く旧山陰街道に残る「遠見遮断」。遠見遮断とは、街路をわざと屈曲させて見通しを遮ったもの。これも、古図の頃から変わらず残存していた。遠見遮断は一種の軍事設備で、敵の進軍を阻害し、迎撃を易くする狙いがあった。よく知られる「枡形」は、これを連続で設けて凹型にしたもの。これらは、古くから各地に見られるが、主要街道のものは江戸初期に幕府の意を受けて成されたものが多いようである。

因みに、鳥取に本城がある鳥取藩が「一国(藩)一城令」に反して八橋にも城を保持したのは、藩主池田氏が代々徳川と姻戚関係にあった為。つまり幕府の身内、親藩格として特例を認められていたのである。それを知ると、近世に於ける八橋城とこの遠見遮断の性質が明確になる。即ち、有事の際にはこれらは鳥取藩のみならず、幕軍の施設とも化す性質を有すものだったのである。その際の仮想敵は、西方に力を保持していた、毛利等の西国外様大名であることは言うまでもない。


八橋の町家域で街道沿いにある十字装飾ある古い病院跡
町家域、街道沿いにあった古い病院跡。窓の造り等からすると、昭和初期頃の築か。その職掌を暗示するような赤い壁色と、逆に白抜きを成す側塔部の十字装飾が面白い。

右側の建屋玄関に面して奥に続くのが旧山陰街道。上掲の遠見遮断とは逆方向の西向きを撮影した。病院側面に見えるアスファルトは城へと通じる道。つまり、ここは街道から城へ入る口に当り、古図に「追手(大手)」と記された表玄関であった。病院等の、周辺家屋の様子からは判じ難いが、やはりここも道の付き方等に古図との違いはみられない。敷地も同様なので、ひょっとすると病院も当時の大型商家等を改造して成している可能性がある。


伯耆行初日終了

意外にも、古の痕跡と数多く遭遇出来た八橋探索は、斜陽の訪れと共に終了した。今日はこのままI氏御母堂の実家泊となる。街道沿いの豪壮な造酒屋にて地酒を買い、食材を仕入れて夜宴となった。I氏がさばく近海魚の刺身や、御母堂差入れの蟹が旨い。今日や、明日の様々を語る話も尽きず、初めての伯耆夜は更けていった。明日は、いよいよ長者伝承の調査である。随分遅くなってしまったが、それに備えて漸く就寝したのであった。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2007年05月11日

中世探索「伊庭荘」

水田と内湖に囲まれた伊庭

ここの処、滋賀の話題が続くが、この日訪れたのは江東中部にある「伊庭」という集落。JRの駅でいう、「能登川」近傍といえば解かり易いのではなかろうか。近代以前は能登川を含む一帯を示す地名であったが、今はその本郷集落のみの呼称となっている。写真中央に見える、田圃と内湖の間(はざま)に浮かぶ家並がそれである。

ここを訪れたのは他でもない、古代末から中世末期(戦国中期)まで、この地に拠った、「伊庭氏」の痕跡を探索する為であった。実は、最近仕事関係で偶然、この氏の本宗後裔たるご一家と知り合った。また、別件でもこの氏に関する土地等への不思議な縁が続いた為、当主氏共々、急遽訪ねることとなったのである。


伊庭集落西端の金毘羅宮
伊庭集落突端(西端)にある「金毘羅宮」。金毘羅はいうまでもなく、恒河(ガンジス)の鰐、即ち水神を祀る宮居である。集落を貫く道は、現在鳥居を左に逸れて更に先の内湖(琵琶湖)まで通じているが、以前はここで行止りだったと思われる。恐らく、岬のようにこの社を湖水が囲っていたのであろう。地の果ての、灯台の如き宮居―。色々な意味でシンボリックな場所である。


近江伊庭の金毘羅境内を二分する水路跡と石橋
金毘羅境内を二分する水路跡と石橋。即ち、突端である社側が島状になっている。往時、内湖や湿地は現在に比して格段に広かったという。伊庭集落も湿地に浮かぶ要害であった可能性がある。


古い護岸残る伊庭集落の水路
集落内も、やはり川や水路が縦横に走る「水郷」の趣が強い。古い護岸には階(きざはし)や、接岸用の低段が見られるので、以前は集落内にも舟が進入していたのかもしれない。


伊庭南部の内湖跡麦畑と背後の伊庭山・繖山(観音寺山)
家並を逸れると、忽ち広大な田圃が現れる。眼前に植わっているのは、先月の「鯰会」に同じく麦であった。家屋の背後に見えるのが伊庭山。そしてその峰続きで、右方に聳えるのが、伊庭氏の主家である六角佐々木氏の居城、観音寺城址がある繖山(きぬがさやま)である。

繖山の右に更に低い稜線が続き画(え)は切れるが、その先に、かの安土山がある。言わずと知れた織田信長の居城、安土城址である。伊庭の南方縁に当るこの安土城。実は最初に城塞を築いたのは伊庭氏であったとの説がある。

ともあれ、伊庭は江東の、そして天下の要衝を擁しているのである。


伊庭集落中心の妙楽寺参道から一線に続く伊庭山
集落中心にある、妙楽寺境内。本坊より見た参道と寺門であるが、それらが、奥に立つ伊庭山に向かって一線を成しているのも、またシンボリックな現象である。

山を意識して宮殿や崇拝施設を設けるのは、東アジアに多い都市設計手法である。以前行った、タイ中部の崇佛王都スコータイや、東北チベットはラブラン大寺等がその典型であった。そういえば、伊庭山は頂に繖峰三(さんぽうざん)社があり、有名な神輿の坂下し祭が行われる聖地であった。


妙楽寺境内にあった古い佛堂
妙楽寺境内にあった佛堂(別寺名を持つ塔頭か)。せいぜい江戸中期頃の築とみられる建造物群の中で、一際古さを感じさせたのが、この佛堂である。力強い梁組みは、中世の様式を十分感じさせるが、如何であろうか。


中世様式を有する伊庭の大濱神社「仁王堂」
意外にも、路地裏ではなく、表車道沿いに中世式を有す建屋を発見。大濱神社の「仁王堂」で、正に鎌倉初期の建造という。まだまだ、凄い代物が知らずに存在しているものである。伊庭氏とその歩みを共にしたことが確実な、希少の存在である。


伊庭の大濱神社仁王堂の茅葺と縄留めの軒下
仁王堂の軒下。厚い茅葺と、繊細なその端面処理が威厳と浄潔を醸し出す。屋根下の処理は、丁寧な縄留めが採用されている。日曝し・雨曝しの為か、柱には交換の証ともいえる、形状・様式違いが多く見られた。


妙楽寺近くの伊庭城伝承地で伊庭宗家の居館跡
妙楽寺近くにあった、伊庭城伝承地。伊庭宗家の居館跡という。集落全体を要害と考えると、ここが「本丸」に相当するが、往時を知る確たるものは何もない。主家の次位たる「守護代」をも拝した伊庭宗家は大きな力を有したが、やがて主家に疎まれ、この地と、歴史の表舞台を追われることとなった。そして、その主家自身も、やがて信長という新世の寵児に国を追われるのである。往時を何も有さないここは、そんな世の無常を静かに諭すようである。

近年の研究では、連歌の大成者で、東山文化の一流文人「宗祇」が、この伊庭氏の生れであることが有力になったという。右手に見える石碑はそれを記念して建てられたもの。


安土山向こうにある近江源氏佐々木氏の氏神・沙々貴神社
帰り際、安土山向こうにある「沙々貴宮」に寄った。沙々貴宮は近江源氏佐々木氏の氏神である。佐々木氏の古い分流を称す、伊庭氏縁の場所でもある。


沙々貴宮回廊軒の灯篭に見える佐々木氏の紋「四ツ目結」
沙々貴宮回廊軒の灯篭に見える佐々木氏の紋「四ツ目結」。本来は四角が菱形に転んだ「隅立」(すみたて)が嫡流の紋であり、伊庭氏もそれを用いている。氏神のここが隅立ではないのは、江戸期に社殿を整備した、傍流大名京極家の紋を採用したからであるという。


さて、今回の探索であるが、遺跡図や古図類の用意を怠った為、効率が上らず、あまり成果を感じることが出来なかった。願わくば、準備抜かりなくして再び調査を試みたい所存である。

しかし、道中出会った人々の親切は印象深いものがあった。仕事の手を止めて丁重に道案内をしてくれた人や、わざわざ学校に電話して城址の場所を訪ねてくれた人、そして美味なる茶や菓子で持て成してくれた安楽寺の住職等である。最後になったが、これら土地人に深い謝意を表したい。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2007年03月02日

伝承調査行「血洗町」

京都市山科区の御陵血洗町の住居表示看板

先月下旬、知己の記者I氏より、かつて住んでいた京都東郊山科に伝わる「伝承」についての相談を受けた。何か良さげな話を存知なら教えて欲しいとのことである。

何でも、氏が所属する日刊紙上で、市内各所の伝承に関するコラムが連載されており、その担当回が巡ってきたらしい。

知っての通り、歴史の舞台京都では伝承の類に事欠かない。しかし、そんな全国区で誰もが知っているような話では取り組む意味がないと、仕事熱心な氏は言う。そこで着目されたのが、市内ではありながら、古の京域から外れたユニークな地、山科であった。だが、元より他郷出身の氏に、そんな山科の深部たる伝承を俄に知り得る筈もない。その困惑にあたっての、私への相談であった。

そこで、私が呈したのが5つ程の伝承であった。1つは「御陵血洗町」の由来伝承。2つ目が『今昔物語』の怪異現場を伝える「業平谷」伝承。3つ目は音羽川(山科川)上流に巣くった大蛇伝承。4つ目は山科東北に食い込む県境(旧国界)の由来伝承。そして5つ目が戦中音羽山に計画されていたという要塞伝承である(この他、英国ロック歌手デヴィッド・ボウイの隠れ家伝承もあったが、「都市伝説」であるとして却下された)。

その中で、氏が最も興味を持ち、調査を決められたのが、1つ目の「血洗町」伝承であった。しかし、普段殆ど取材に出向かない山科は、氏にとって不案内の地。そこで、案内役を兼ね、私も取材同行することとなった。

実施は3月1日午後と2日午前の2日間。それに先立ち、氏は単独で地元郷土研究会関係者2人程との接触を果たしていた。だが、詳しい人は既に亡くなられており、有益な情報は得られなかったという。

取材初日

さて、用意した古図や文献史資料を手に初日の取材を開始した。「あがる」との予報を裏切る生憎の雨であったが、傘下2人して山科西北は当該地、「御陵」地区に入った。

「血洗町」由来伝承で私が知るのは、義経が蹴上で武士団を無礼討ち後、ここで太刀を洗った話と、山手にあった刑場との関連話の2つである。その内、町内に関連遺物が現存するのは前者。故に、先ずはその遺物、「義経の腰掛石」を見学することにした。「腰掛石」は太刀を洗った義経が憩ったと伝えられる石で、関係書籍等にも度々登場する有名なものである。

しかし、これまで薬科大の西グラウンド隅にあるということのみ聞いていて、実は何処にあるのかよくわからなかった。グラウンド管理人氏に尋ねて漸く辿り着いたのが、テニスコート隅に密やかに座る黄土の佳石であった。

なるほど、座るに手頃な様である。しかも一見して由緒有りげな品格も備えている。しかし、これまで何度か写真で見ているため、実のところあまり感慨は起こらなかった。それより驚いたのが、その後方塀裏に「血洗池」が現存していたことであった。住宅と大学用地に囲まれた僅か数メートル四方のものであったが、確かに砂底に清水を湛える天然水源が存在した。

石と水場はセットで現存していたのである。小時、一帯の隅々を駆け巡って親しんだ身には只々意外であった。用地内からしか見られないとはいえ、まだまだ近場にも未知の場所があるものである。

伝承縁の遺跡2つが見つかったのは良かったが、今度はこれと絡めて伝承を語る地元の「語部(かたりべ)」を探さなくてはならない。そこで、腰掛石の管理元である薬科大の施設課を訪ねた。

しかし、古いことを知る関係者は既に去り、よくわからないという。故に、2人して付近の旧家へ飛び込み取材をすることにした。

旧道沿いの旧家や土着姓家を当ったが、旧事を知る人物には出会わなかった。しかし、諦め半分で最後に行った竹材店で、詳しい人物を紹介してもらえることとなった。やはり付近も代替りが進み、その人物以外に旧事を知る人は殆どいなくなったらしい。

だが、近くに住むその人物S氏が不在であったため、改めて明日出直すこととした。

取材2日目

翌朝、現地で待ち合わせて向かったのは、血洗町内のS氏宅であった。昨晩I氏が電話連絡にて取材の段取りを付けていたのである。S氏は土地の出身ではないが、若年よりそこに住まわれ、聞取りや実地調査によって同町の旧事を研究されていた人である。そのS氏宅にお邪魔し、早速「血洗町」即ち「血洗池」の話を訊ねた。

氏によると、地元で採取したそれに関わる伝承は全部で4つあるという。1つが刑場の刑刀洗いの話。2つ目が源義仲と巴が都落ちの際、太刀を洗った話。3つ目が義経が蹴上で武者を無礼討ちの後、太刀を洗った話。そして4つ目が武者ではなく、現地にて盗賊を討った義経が太刀を洗った話である。

4説中、2の義仲・巴説は、長く同区に住んだ私も聞いたことがない珍しい説であった。恐らく、新旧の文献にも記載のない話かと思われる。氏によると、典拠は不明だが確かに地元に伝わる話であるという。因みに、最も著名な3の義経武者討ちの説も、江戸期以降の文献までしか遡れない話である。

伝承については、それ以上は全くわからない、とのことであったが、遺跡に関しては更に興味深い話が聞けた。薬科大では腰掛石は当初グラウンドの門辺りにあったと聞いたが、実は昔からあの場所にあったという。グラウンド工事の際、一時的に門付近に移動したが元に戻されたらしい。

また、血洗池は今と異なり以前はかなりの規模を有していたという。このことは古い世代への聞取りからも確かであり、S氏自身も湿地の名残である噴水を随所で目撃していたらしい。それらが埋められ一帯が宅地化される以前の話である。何しろ元は安祥寺川本流も流れ込んだ北山科で最も低湿な地である。十分有り得る話であろう。

あと興味深いのが、古代東海道(平安末頃)が町内を通過していたことである。これは私自身による古図の検討によって明らかになったが、ちょうどその時代に、奥州への途上であった義経や、大津への撤退中であった義仲らと同町の結びつきを強める材料となろう。現存の近世東海道は町外北方を通っているので、辻褄が合い難いのである。

因みに、割り出した古代東海道のルートは、大正初年頃までグラウンド北辺を横切っていた安祥寺川の南(つまりグラウンド只中)である。腰掛石はグラウンド南辺にある。

取材終了

他に街道や刑場等にまつわる様々な地域史話を聞き、S氏宅をあとにした。帰りに、もう一度石と池に寄って撮影し、S氏に教えてもらった他の旧跡を巡りつつ、九条山を歩き越えて戻った。

のち、I氏の記事は無事に成り、血洗町をめぐるS氏の諸説が紹介された。これまで殆ど外に知られていなかった義仲・巴説が活字化されたのは、ちょっとした快挙ではなかろうか。

しかし、刑場関係説は全く伏せられた。何でも、地域に対する「負の情報」を記載するのは新聞的に好ましくないらしい。町と刑場址はかなりの距離があり、子供心にもその説の荒唐無稽ぶりを感じていたが、地理に疎い他所人は必ずしもそうとらないことも事実であろう。


伝承の真偽を究明出来た訳ではないが、一町名にまつわる様々な地元語りを知り得た興味深い調査行であった。たかが郊外の住宅地。しかし、そこに湛えられた営みの積水は、予想外に深いものであった。


京都薬科大学の西グランドの門
薬科大、西グラウンドの門。門を入って真っ直ぐのところ(防球ネットの向こう)に「腰掛石」がある。大学用地なので、見学には大学本部の許可が必要である。


京都薬大内に佇む「義経腰掛石」
グラウンド(テニスコート)隅で密やかにそぼ濡れる「腰掛石」。後背のブロック塀裏に「血洗池」がある。傍らに立つ解説は、「義経盗賊討ち説」を記載。


京都薬科大と宅地の間に残る血洗町
大学用地や宅地境界のコンクリに囲まれ僅かに残る「血洗池」。実に痛々しい有様であるが、白砂底を透く水はあくまでも清澄である。誰かが放したのか、大小の魚影すら見える。この状況にあって、この様に生気を保つ泉は実に珍しい。やはり古来より続く水場に違いなかろう。


義経腰掛石(チャート)のアップ
ところで、この「腰掛石」、中々立派なものである。よくこれまで庭石用等に持ち去られなかったと感心する次第である。グラウンドが整備される昭和30年代までは一帯藪地であった為、それが容易であったろうと思われるからだ。

見た限り、石種は珪質堆積岩の「チャート」と思われる。チャートは深海由来の硬い古岩石で、京都近郊では地層の古い丹波山地等がその産地として知られる。大文字山系である山科北部山域にも見られるが、これほど立派なものは稀であろう。元より砂礫多い扇状地末端のここには在り得ないものである。どこか遠方より運ばれてきたのであろうか。そのことにも、また「伝承」が潜んでいるのかもしれない。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 17:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 調査・研究