2016年02月27日

伊吹河跡行

調査・研究「伊吹山,湧水,近江長岡,杉澤,湧水の手水舎,湧水の弁天,北国脇往還,石灰コンベヤ,春照,八幡神社,勝居神社,社殿の雪囲い,伊吹山と梅花,春照の泉,小碓の泉,間田湧水群,ケカチの水,伊吹山登山口,冬枯れの伊吹山麓,姉川,断層崖,間田五川分水」

意外な不調

先日ひいた風邪は検査の結果流感であった。初罹患である。然程高い熱が出た訳ではなく、医者共々違うだろうと思っていたが、念の為調べたら陽性であった。

その日から5日間の外出禁止を申し渡される。症状に対して過剰な措置に、違和感を覚えたが、他者への感染を考慮すると致し方あるまい。それより、そもそもどうして感染したのか。

最近通勤帯の列車等には近寄っておらず、特に人ごみに出向いた覚えもない。一応、手洗いや嗽等、一通りの対策もしていた。一つ気になったのは、その数日前にホームセンターに寄った際、咳込む子供が放し飼い状態であったこと。

確かな経路は判らないが、これくらいしか考えられない。

比較的早くに回復した子供は外出解除を待たずに外へ出される(出ていく)ことが多いという。それなら、もう少し親なりお上なりが気を遣ってもらいたいところである。

細かいこと言うようであるが、実は病は5日で済まず、その後も続くという損害を受けたという事情があった。補償のない自営の身なので、時間的・経済的損失は多大である。

とまれ、これまで職場の周囲十人が倒れるよう近接流行でも罹患したことがなかったので、少なからぬ衝撃も受けた。流感の故郷、大陸奥地で強力な風邪にかかって鍛えられたので、もはや罹るまいとも思っていたのである。

まあ、幸い流感特有の高熱にこそ遭わなかったが、いつまでも不調が続くのには参った。咳が止まず、熱も下がったかと思えばまた次の日に上がったり……。

踏査行如何!?

しかし、今日、約束の日が来てしまった。約束というのは、友人と実施する手筈であった、滋賀県東北部にある伊吹山山麓の踏査行である。

折角先方が細かな行程を組んでくれた企画。一応、外出禁止は解けていたので、今朝の状態を看て決行することとなった。その際も、無理はしないとの条件をつけさせてもらって、である。


上掲写真: 古街道沿いの宿場「春照(すいじょう)」集落外れの梅園から見えた、雪を戴く伊吹山(1377m)。随分遠くに見えるが、梅園自体も伊吹が吐き出した土砂による扇状地上であった。


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近江長岡駅より見る霞む伊吹山。気温が低いので小雪が舞っているのか

リハビリ・荒行兼行

朝起きると、熱はないようだが、やはりスッキリとはしない。しかし、10日近くも屋内に籠っているのでリハビリがてら出動することとした。ちょっとした荒行の気分である。

友人と電話にてその旨を告げ、予定通りの決行に。夕方から雨が降るらしいので、速度が出せない今日は、場合により中途打切りも予想された。

予行演習がてら駅まで20分以上歩き、予定の列車に乗る。その後、友人が中途乗車してきて無事合流し、「近江長岡」なる最寄駅に着いた。

かの江濃国界の旧跡「関ケ原」手前の地である。


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姉川古跡いずこ

今日の主題は、当地を流れ琵琶湖に下る「天野川」と、当地北方をかすめて琵琶湖に下る別系の「姉川」との関係。

嘗て姉川は当地へ流れ込み、天野川に合していたという。それが5000年程前に伊吹山の崩落により分断されたとの説があるらしい。今日は、その物証である姉川古跡を見つけ、その補強を試みるという趣旨であった。

写真は、天野川(右)に注ぐ伊吹山からの流れ(左)。友人曰く、左が姉川古跡の可能性があるとのこと。

本来なら私も独自に下調べして準備したかったが、体調のため叶わなかった。


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長岡から歩き始めて友人が組んだ行程を進む。田を越え川を越え、伊吹に向かって、である。やがて土地は僅かな登坂となり、扇状地に達したことが判った。

その扇端近くの集落「杉澤」に入ると、集落中心部は伊吹の豊富な湧水に満たされていた。写真の池がそれである。隣に勝居神社という境内地があり、その周辺からも流れ込んでいるようである。正に湧水適地、セオリー通りの場所である。


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池の上手の神社には弁天が祀られた島を持つ小池があった。これも良く見ると、その背後より水が湧き出ていた


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本殿を挟んだ弁天池の反対側には、この様な池も

実は屋根で覆われており、手水舎となっている。左奥の柱下から水が湧いており、天然の水源を利用したものだと解った。清めの場所としての手水舎の原初的姿か。

神社は社殿とその後背・両脇が高くなっており、その前方や最初の池方向が谷的低地となっている。おそらく、原初は社殿前辺りに大きな湧水湿地があり、それを尊崇する為に造営されたものとみられる。


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勝居神社の境内社の一つに施された雪囲い。豪雪地帯伊吹を物語るもので、豊富な水資源との関りも示すもの


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古の宿場街の趣を僅かに残す、街道沿いの春照(すいじょう)集落

寒さと疲労

神社からは、関ケ原から分岐して北国に至る古街道沿いを進む。途中、道沿いの伊吹文化資料館も見学。

本来は大した距離ではないのかもしれないが、ここまで休みなしで来たので、少々休息をとることとなった。

予報とは違い、気温も上がらず寒い。少々熱も出てきたか。うーん、辛い。大丈夫であろうか。

資料館の厠にて喉を整え、5分程休息すると歩けるようになったので、一先ず昼食予定地まで進むこととした。


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春照外れの分岐点、八幡社の角にて

古い石碑には「左ながはま道」「右北國 きのもと えちぜん道」との案内が見える。江戸中期頃の造りとみたが、紀年はなかった。

路傍にあったものが拡幅により段上に置かれたか。


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姉川旧跡?
臼谷・小碓の泉


八幡社からは旧長浜街道へと左折する。山際のそれを進むと程なくして写真の昼食地が現れた。山際の湧水地「春照の泉(臼谷の泉)」である。


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春照の泉の水源。大きな朽木脇から水が流れ出ている

泉は庭園様に整備されており、休憩適地。寒いが座るところもあったので、ここで昼食とした。

厳寒期での握り飯の持参を悔いる。冷蔵庫の冷や飯で想像出来るかと思うが、飯は低温だと旨味が出ないからである。

まあ、それでも休息にはなった。少し元気も出たので、池に生息するというハリヨを探す。寒さの所為か全く姿を見ないが、小さな死骸は見つけることができ、その存在を確認できた。

因みに、ここは友人が独自に想定する姉川関連地。湧水は山裏の姉川からのもので、嘗てはここを流れていたのではないかと。

ただ、背後の断崖や地形が唐突的で、5000年くらいで変化したとは思えなかった。ここ自体の標高も高く、川なら、もっと平野下部を通過したのではないか、と意見した。

本人も、水の味が硬かったので、姉川より、石灰質の伊吹山由来の可能性を考慮し始めた。


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休息後向かったのは、同じ街道つづき、山際つづきの「小碓の泉(おうすのいずみ)」。歩いて数分の場所にあり、山間というか丘なかの浅い谷状で奥へと続いている。

写真がその内部。葦で埋る辺りが浅い水で満たされている。ここも川跡候補といい、確かに川筋のような地形だが、奥には山というか台地が開って(はだかって)おり、わからない。谷の口側、つまり下流を見ても、圃場整備の影響もあり、その痕跡は窺えなかった。

そもそも、ここも標高が高く、川跡を想定することは難しい。また、谷から伊吹が見え、結構距離があることが判明。一応そこから続く裾野地ではあるが、その山体崩落の影響を直接受けたとは考えにくかった。

考えられたのが、崩落のような短期・急変的変化ではなく、隆起・沈降も考慮した長期・漸次的変化による河道変遷である。即ち、ここが川跡なら、それは5000年程度の昔ではなく、数万年かそれ以上前の可能性を考える方が、辻褄が合うのではないかと思われた。

水の硬度も高いらしく、やはりここも姉川伏流ではなく、伊吹から水の可能性が高いようである。


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川跡発見?
崩落説への疑問


小碓からそう遠くない場所で、裾野下方となる間田集落に入る。裾野末端の微高地に形成された村落のようである。この集落後方(北)に谷地形を発見した。

具体的には、集落と入善寺なる寺院がある丘の間の田圃帯である。幅30m程で、東北は姉川方向へ続いており、谷の出口は、西南にある山麓平野の低地方向へ繋がっている。

これは、比較的新しい時代の川跡を想定出来た。因みに、姉川の谷地とを隔てる上方の丘陵もかなり低い場所があり(小田八幡社付近)、その繋がりが補強される。ただ、崩落云々とは全く無縁の場所ではあるが……。

しかし、そんな複雑な考察をせずとも、もっと簡単に川跡想定出来る場所があった。それが写真の地。姉川からの分水を分ける為の施設「間田五川分水」である。

姉川の谷の出口付近の堰から分水されたこの用水は、裾野を迂回して山麓平野へと水を送っている。中世以前から続くという歴史ある水路で、友人によると、昔の川跡を利用しているとの説があるという。

それなら、ここを姉川の旧路とするのが、最も理に適うのではないか。ただ、それなら崩落云々の話は宙に浮いてしまう。ここにきて、先程から気になっていた崩落説への疑いが強まった。


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用水を辿り、その上流の姉川谷口へと向かう。幸い雨には降られていないが、昼から気温が高くなるとの予報も外れ、寒さの中を進むこととなった。

「明日からは暖かい、午後からは春になる――」。最近こんな予報ばかり出るが、当る率は低い。狼少年さながらのそれに、少々立腹しながらも先を急ぐ。

河容変化と河道変遷の混同?

用水は裾野丘の北を回り姉川の流域に出る。幅1キロにも満たないその谷地の中程を姉川が流れるのが見えた。現河道は谷地のかなり低い部分を流れているが、近代改修による掘り下げの可能性も考えられる。

やがて、用水の取水部であり、姉川の谷口である伊吹集落に到着。背後の裾野台地の高さは数十mと化し、もはやこのあたりから姉川が南流したとは考え難い。また、山体自体それでもまだ遠く、崩落云々も当らないと思われた。

写真は集落から裾野台地に登り、先程通過した姉川の出口谷を見下ろしたもの。中央右側に段丘線が見えるが(木立線2本のうち下部のもの)、姉川はこれに沿わない。

あとで調べたところ、河岸丘ではなく、断層線のようである。対岸の七尾山麓には、著名な木之本―関ケ原断層が通る。過去、一気に数mの高低差を生んだ痕跡もあるらしいので、これによる沈降での河道変遷も有力視される。

とまれ、現地観察の結果でも、崩落変遷説の無理を友に告げる。途中、裾野北部の断面も観察したが、崩落堆積ではなく殆ど岩盤的ということもあった。彼も山体との距離を見て、その説の難儀を悟ったようであった。

友人が一体どの論文を参考にしたかは定かではないが、帰宅後少し調べたところ、そのようなものは見当たらなかった。「5000年前の崩落」ということでは、姉川谷口の少し奥で山体崩落が起き、その際堰止め湖(堰塞湖)が出来たとする調査結果や論文は目にすることは出来た。

確かに、伊吹集落背後の現地形にもその痕跡は残っており、押し曲げられた現河道の様も明瞭である。ひょっとして、この渓谷内の河容変化と河道変遷の混同が生じているのであろうか。これは、また友人に問い合わさなければならない。

踏査の結論

今回の踏査の結論としては、姉川南流の可能性はあったが、それは5000年前の山体崩落が契機となったとは言えないというもの。

可能性としては、伊吹集落下部から南流し始め、裾野北に沿って小田八幡辺りで裾野端を抜けるか、そのまま小田・間田の用水辺りを流れ、低地に向かうというもの。高低差からいうと、裾野抜けの流路はより古い時代が想定される。

低地に出たあとは、天満集落、長岡を経て天野川と合するか、市場集落から三島池、志賀谷集落辺りを経て更に下流で天野川と合するかの経路が想定された。

まあ、本来は更なる材料を集めて精度を上げなければなんとも言えないことなので、あくまでも簡易な想定ではあるが……。


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石灰運搬の為のコンベヤ通路

裾野上からは、また南へ向かい高所の上野集落などを通過。途中、採掘場からセメント材料の石灰を運ぶコンベヤ通路と交差する。伊吹らしい光景であり、水の硬度の源を知るものでもあった。

雪はないが、高地の為か一段と寒く感じられる。雪を頂く伊吹山に一番近いということもあるだろう。


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裾野台地から扇頂部へ

上野の中心地は三之宮社という山を祀る神社。伊吹山頂やスキー場への登り口ともなっており、旅館などが集まり観光地然としている。

写真は、登山口際から湧く「ケカチの水」。古来有名な湧水で、日本武尊が利用したとの伝承もあるという。熱ある額を冷まさんと汲むも、湧水の為冷たからず(笑)。


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その後は、杉澤や春照等がある扇状地上部で、扇頂部に当る「弥高集落」を見学。山間ながら、結構家屋数があり、大きな家も多い。

こちらは標高300mに近く、冷えが厳しい。雪も降るときは多そうなので、少々暮しを案じる。写真は上野と弥高の途中で撮影した伊吹の山腹景。冬枯れの森が広がっており、当地の春の遅さを感じさせる。

何とか行程消化
明日の体調を懸念


弥高からは扇状地下部方向へ下り、途中の「伊吹薬草の里センター」からバスに乗って長岡駅に帰還した。体調は何とかもったが、昼食後も休憩せずに行動していたので、もはや限界であった。

駅からは列車に乗り、近江八幡で途中下車。そこにて湖魚料理等を出す店で夕食会となった。体調的にギリギリではあったが折角なので、寄っていく。

しかし、やはり厳しかった。以前の彦根での食事よりかは早めに切り上げたが、結局10時台に京都へ着いてしまい、バス待ちが長くなった為、駅から歩いて帰ることに。気温も頗る寒い。

まあ、列車でぐったりしていたが、目覚ましをかけたお蔭で降りそびれることがなかっただけマシではあるが……。

なんとか帰宅して、すぐに就寝。明日の体調が心配であった。

とまれ、お疲れ様。
何とか行程はこなせたが、心配をかけて申し訳ない限り……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2009年10月23日

敦煌東方視察

逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

予備日。安西方面へ

昨日を以て今回予定していた調査は終了した。入域制限等の関係で予定地全てを踏査出来ず、また実施地でも遺構発見が叶わなかった所も有った為、完全を収めることは成らなかったが、実見に因る状況取得等々、少なからぬ成果を得た。また、最新の現地情報や人脈の獲得といった面でも、好ましいものが得られた。これらの成果を元に、また次回に挑みたい。

さて、予備日となった今日は、以前より希望していた、東方は安西(瓜州)方面にある漢代遺構の見学に充てることとした。朝準備をし、8時半(北京時間。日本の1時間遅れ)頃、昨日の司機(運転手)の携帯へ電話を掛けてみた。しかし、「空番号」との自動音声が……。番号が印刷された名刺をよく見ると、番号の下にインクが切れたボールペンで成された数列が。こちらへ掛けてみて漸く繋がったのであった。

早速、宿前に現れた司機は、山岳用磁針を差し出した。昨日、私が車内に落としたもので、8時頃、宿まで届けに来たが、部屋番号が判らなかった為、渡せずにいたという。実直なその心掛けに感謝し、早速遺構見学の話を纏め、車に乗り込む。途中、電話番号の話をすると、渡した名刺が古いものであることに気づき、新しいものと交換してくれた。あの書込みに気づかなければ、会えないところであった。縁があった、ということか。

写真は、出発前に市内燃料スタンドにて補給するチャーター・タクシー。傍らの人物は、我が司機のW氏である。細いパイプからボンネット内に送り込まれるのはガス燃料。後方に停車する公共ミニバス等にも見られる通り、ガスや電力利用の車輌が急速に普及しているようである。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

朝日を追い、安敦公路を東へ。

相変わらずの戈壁中の一本道である。敦煌郊外の敦煌空港や新駅の辺りまでは、車線が多く、高速道路の如き体をなしている。交通量は少ないが、路面状態等は良好である。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

古代辺境迎撃基地「六工古城」

今日の見学場所は2箇所。何れも公路沿いにあり、先ずは近い場所にある「懸泉置遺構」からの予定であったが、場所がわからなかったため先へ進み、瓜州郊外にある2つ目の「六工古城」へ向かった。

それは、瓜州の緑が地平線に見え始めて暫し後に現れた。だが、公路から見えるそれに、中々近づけない。大規模な遺構のため遠くに在りながら近くに見えたこともあるが、そこへと向かう脇道の発見に時間が掛かってしまったからである。途中、司機が何度も土地人に道を聞き、漸く灌漑水路沿いの土道を進んで着くことが出来た。

写真は、荒野に佇む六工古城全貌。全長500m程もある。手前に立つ木棒の右側が、最初に造られた漢代の城障部分。左側が三国期の魏が建造したとされる県城(地方小都市)址である。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

複合遺跡である六工古城の、古く小さい方、即ち漢代の遺址。

小さいといっても、停車する車と比較してもらえば解ると思うが、一辺約90m、防壁残高も約10mという威容を誇る。当時ここに駐屯し、一帯の迎撃任務にあたった「宜禾都尉」の治所、「昆侖障」に比定されているという貴重な遺構である。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

「昆侖障」比定地の南壁に設けられていた出入口跡。

車1台幅程の道が、L字に屈曲しつつ内部に通じる。左右には厚さ数m、見上げるばかりの防壁が設けられている。北を走る長城本線から6kmも離れた内地であるにも拘らず、今も残るこの堅固さ。よく見れば、周囲にも更なる外郭らしき微高地の連続が見られた。当時の、辺境前線に於ける緊迫ぶりが窺える。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

昆侖障比定地(手前側防壁内)より魏晋県城址(向こう側防壁内)を見る。南方である背後の山麓に沿って安敦公路が通じるが、古代の古道もそこにあった。長城と交通路の両方を押さえられる中々の好立地。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

魏晋県城の北防壁。角部分に角敦(正しくは土扁付)、中ほどに「馬面」と呼ばれる張出しが設けられている。防壁の面積及び攻撃角を増し、守備を易くする為の設計である。

息を呑む凄み。県城廃址

小城見学の後、隣接する大城、即ち魏晋県城址に入った。東西280、南北360mの広大に残墻が屹立する。正に、息を呑むばかりの光景――。一体どれ程の労力が費やされたのであろうか……。只々その凄みに打たれ、暫し呆然と佇む。

防壁以外の建屋は現存していないが、周囲広範に、耕地や墓所等の生活遺構が発見されているようである。また、城外に散乱する土器片等の遺物数も相当なものであった。しかし、それにしては、付近は全くの無人で、管理棟や入場制御施設等の存在もない。公路に近く、著名観光市敦煌から日帰りできる立地にありながら、これ程の遺構がどうして施設化されないのであろうか。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

「懸泉置」何処へ

さて、古城の見学を終え、車内にて昼寝する司機の元へと戻り、次なる目的地「懸泉置遺址」へと向かう。ところが、帰り道にある筈のそれが見つからない。公路沿いの「甜水井」なる場所にあるというのだが、戈壁只中のそこまで行っても見当たらない。

公路関係の施設か、そこの小屋の人々に司機が訊ねても知らないようである。司機は携帯電話で敦煌の知人に連絡し再度その所在を訊くが、やはりその辺りに違いないという。確かに、手持ちの旅行地図にも甜水井から1.5km南へ入った所にあることが記されている。どうやら、山際にある遺構への通路の問題のようである。しかし、戈壁の一本道たるその近辺に分岐の場所はなく、その在り処を示した標識の如きも無い。

とにかく付近に存在する脇道らしきものを探す。写真はその内の1つ、戈壁上の轍を追って山側へ進む様子である。道とは呼び難い単なる河原跡のような場所で、起伏が多く、当然速度は出ない。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

轍道を進むと、やがて不毛山地内の谷筋となった。更に進んだが、程なくして分水界の断崖のような場所に出てこれ以上進めなくなった。写真はそこにあった泉の樹々。

一体、遺址はどこにあるのであろうか。本日最後の見学地で、時間的には余裕だった筈が、既に午後を大きく過ぎ、焦りが生じ始めた。とにかく公路へ戻って再度探すしかない。しかし、他にはもう道らしきものは無かった筈……。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

ため息交じりに公路への後退を続けている時、谷の出口辺りで轍数条分の分岐があることに気づいた。念の為、そちらも辿ってみると、なんと、程なくして遺構の碑を見つけることが出来た。司機共々喜んだのは言うまでもない。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

山裾に存在する懸泉置遺址。地表に建造物の残存はなく、写真に見る如く、起伏状、そして地下に遺構が存在する。

懸泉置は前漢時代(BC1世紀頃)に古道沿いのこの地に設けられた郵駅站。いわば、古代の通信施設・基地である。その名が後世に伝わらなかった為、長期間存在を知られていなかったが、1987年に発見され、広く知られることとなった。「懸泉」とは、その近くにあった泉の名(恐らくは先程見た山奥のもの。現名「吊吊泉」)から採られた地名だという。

地表に殆ど見るべきものがない地味な遺構ながら、大量の木簡や遺物出土を齎した為、学術的には大変重要な存在となっている。特に、壁に書かれた皇帝詔書がそのまま発見されたことは大きな成果であった。また、地下に眠る遺構自体も、古代の大郵駅址として高い史料価値を有している。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

遺址後方の山に登って周囲も見てみる。東方近くの山上に、煙突の如き突起を備える烽燧を確認。出土簡に記された漢代の「山上亭」(文物局呼称:弐師泉烽燧か)址に比定されているものであろう。懸泉置遺址からも観察出来、更に西方、公路沿いの烽燧とも対応している。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

懸泉置遺址全容。

写真中程、車が停車する辺りに地色が変わる場所があるが、それより下方、山際までの小起伏が連続する場所が遺構である。総面積は約2500平方m。郵駅とはいえ、幾重もの防壁や烽燧を備えた要塞的建築群であった。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,六工古城,懸泉置」

盗掘?

露出していた遺構断面。漢代、そしてこの地域特有の、葦入り建築構造が窺える。灰や炭の存在は、敷地内の厩舎付近にて火災があったとの調査報告を裏付けるものである。

この遺構は、調査後埋め戻されたことが報告に見えるが、一部地下に至る大穴が開いたままであることを確認した。ひょっとすると、盗掘されているのではないか。早急な対策を望むところである。

祝敦煌全程終了。しかし……

さて、懸泉置見学が終了し、敦煌への帰路につく。これにて敦煌での全予定は終了である。明日より日本への撤収を開始する。途中、友人宅等を訪ねながらである。

しかし、今日既にその旅程に陰が差してしまった。遺構からの帰り、新しい敦煌駅に寄ってもらい、明晩の切符を買おうとしたが、寝台票が手に入らず、座席票しか買えなかったのである。不眠不休が必至の夜行座席車移動――。しかも目的地まで計19時間!2度とやるまいと思っていたが、そうはいかなかった。「仕方ない」とは言い聞かせつつも、構外で待つ司機と顔を合わせるなり溜息一つ……。
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2009年10月22日

敦煌調査再開

逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,寿昌城,龍勒県城」

南湖調査最終日

休日として過ごした昨日から明けた今日22日、郊外調査を再開した。朝、宿近くの町角で声を掛けてきたタクシーに乗って早速出発。この国では、この様にタクシー側から声を掛けてくることは珍しくない。

行先は、今回の調査重点地区と定めていた南湖。3度目の今日は、最終日として仕上げ的な1日にするつもりであった。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,寿昌城,龍勒県城」

砂に埋もれた廃市、龍勒県城・寿昌城址

最初に訪れたのは、南湖集落東郊にある寿昌城址。唐代の県城(地方小都市)遺址とされていたが、近年の調査で、漢の龍勒県城址を元にして建造された複合遺址であることが判明した。遺構自体は以前から知られていたが、珍しい古代県城遺址でもあるので視察することにした。

写真は、葡萄畑と防砂林を抜け漸く出会ったその現場。南湖「寿昌村」の奥、土面の農道を進む、非常に解り難い場所。県城防壁の残骸の列が流砂から顔を出す。正に、砂に埋もれた廃市。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,寿昌城,龍勒県城」

風化により奇怪な姿を晒す県城残址。かなりの残高があり、付近にはその来歴通り、漢代を初めとする様々な様式の陶片が散乱していた。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,寿昌城,龍勒県城」

これは近年の防砂設備。遺構どころか、現集落すら埋没の危険を抱えている。正に砂との闘い。

タクシーとはここにて別れ、徒歩で他所を巡るつもりであったが、運転手の進言により、1日借り切ることとした。少々高くつくが、時間を有効に使え、前回の如く帰路の便で失敗する心配もない。運転手も中々配慮のきく、信頼できる人柄である。


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古董灘最終確認。陽関何処に

寿昌城址を一回りした後、古董灘に向かった。引き続き塞墻(長城)を探す為である。既に昼となっていたので、運転手に昼食代りのナンを渡して待機を頼み、1人また広大な砂礫に挑んだ。

写真はその際遭遇した溝跡。水路跡か、時代は不詳だが、幾筋か見られた。甘粛省文物局の報告では、この近辺で耕地跡が検出されているという。場合によれば、その関連遺構の可能性も。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,寿昌城,龍勒県城」

古い墓跡らしき場所からのぞく板。棺用か。乾き割れたものであるが、接合用の臍加工に、繊細な技が見られた。


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西土溝東岸を北へ。深い流砂に阻まれる。

この辺りは、著名だがその存在に謎が多い古代関門「陽関」の有力推定地。私もその説を支持している。唐代の地誌に基壇が残存していたことが記されていることから、必ず遺構が存在するとみている。文物局もこの流砂中に於ける発見を期待しているが、作業困難の為、未だ調査の手は及んでいないという。

結局、目当ての塞墻址は発見出来ず。破壊されたのか、埋もれたのか、まだ判別はつけ難いが、色々と再考する必要が生じたことは確かである。


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「二道風墻」「元台子」再捜索

2時間程の探索後、ポプラの木陰で駐車して待つ司機(運転手)の元へ戻り、南方は「渥わ(三水に土2つ)池」方面へ向かった。塞墻址とみられる「二道風墻」や、烽燧址とされる「元台子」を南方深くから再捜索したかったからである。

写真はその途上、「渥わ池」西端から南に伸びる土道を、車輌にて進む様子である。一面のススキ(?)野原で、路面に白色の塩類集積を見ることから広大な湿地跡とみられる。古代「渥わ水」の痕跡か。地図上の記号観察では判らなかった実態である。


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「渥わ池」後方(南方)湿地跡にて遭遇した水質良好の水源湧水池。遠方遥かなるアルティンタグ(阿爾金山)か、党河の伏流によるものとみられる。まさに、南湖集落「命の水」。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,寿昌城,龍勒県城」

道は湧水池辺りで途絶え始めたので、下車し、また1人にて南へ進む。途中、前方に何か建屋が見えると思えば、写真の如き小屋であった。牧民の仮小屋か。炊事か何かの煙が僅かに上がっていた。そういえば、先程逃げ去る羊の小群とも遭遇していた。

牧民住居の場合、近くに牧羊犬が放たれている可能性が高い。凶暴・排他的なそれによる攻撃や、のちの狂犬病の厄介が脳裏に浮かぶ。あまり近づかぬようにして慎重に通過。

そして、途中流砂を越え、数km程南進して一面が見渡せる場所に着いた。単眼鏡で探るも遺構らしきものの確認は叶わなかったが、湿地・古董灘と南方山地の間に、通行容易な裾野地が東西に続いていることが判った。このことは、考察・再調査に於ける重要な材料となる。


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党河ダム」近辺、塞墻東段と山闕烽

同じく2時間程の探索の後、南湖から撤収した。そして、敦煌への帰路、最後の調査地「党河ダム」近辺で、その辺りに残存することが衛星画像で確認された塞墻址を探った。

写真は敦煌と西蔵(チベット)を結ぶ公路東側にて確認した塞墻址。先日調査した南湖〜党河間を結ぶ土盛の東段にあたる。先日確認した時は東段部分の発見は叶わず、誤認を疑ったが、今日その確かな存在が認められた。少々嬉しい。なお、残高等の状況は西段と同じであった。同じものであることに違いあるまい。


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塞墻から南方傍にある山塊を見る。

稜線に立つ3つの建屋の内、中央のものが、古い史料にも記載される「山闕烽」であることが確認出来た。後代の烽燧らしいが、敦煌と南湖を結ぶ通路の屈曲点、そして古代の「北工敦(本来は土扁付)烽燧」等とよく対応している為、見過ごせない存在である。


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軍略上の必要から、塞墻は必ず党河河岸まで達していた筈だと推定していた為、そこまで車を走らせた。しかし、辺りは既にダムや軍施設に因って地形すら改変されおり、その推定を確かにするものとは出会えなかった。写真はその現場、山側よりダムを見たもの。飛天で飾られた「党河水庫」の文字が見える。

やがて、傾いた陽は、また広大無辺の戈壁へと沈んでいった。我々は車窓横にそれを感じながら、遠く点り始めた敦煌の灯りを目指す。調査はこれにて終了である。
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2009年10月20日

敦煌調査3日目

逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡,小方盤,大方盤,長城,烽火台」

調査核心地に入域ならず。代替調査へ

朝8時に宿の敷地内にある小さな旅行社を訪ねる。昨午前に予約したチャーター車との待合せの為である。

わざわざ旅行社を利用したのは、今回の調査核心地である「馬迷兎」方面への車輌用意の為であった。衛星画像の分析により、漢長城最西遺構が残るこの地区の更に西に未確認の長城らしきものを発見したが、その真偽を確かめんとしたのである。

しかし、道無き道を進むことが出来る車輌の手配は叶ったが、政府の入域制限によりそこへの調査は叶わなくなった。因って、予定を変更し、他の遺構の再確認等に充てることとなったのである。行先は、現在観光地化されている陽関や玉門関の関係遺址等であった。

結局、少し遅れた8時半頃にワンボックスの車が現れそれに乗り出発した。写真は陽関関係遺址へ向かう途上に立寄った、土塁遺構。党河から南湖集落東辺までの約10kmに存在し、100年前の英国スタイン隊の調査図にも描かれている。甘粛省文物局関係者の著書等で漢代遺構と判定されているが、典型的なそれとは造りが違うので注意が必要な存在であった。今回実見したところでは、やはり砂礫のみで成されているようで、版築や葦補強といった古代工法使用の確認は出来なかった。

しかし、現地状況観察から、軍略的には非常に的を得た設置であることが分かった。このことは非常に重要である。


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土塁南方戈壁に散在する盛り土状の古墓。

唐代のものらしく「山水溝古墓遺址」として文化財指定を受けているようである。しかし、対して土塁は破壊が進んでいる。公路に近く、光ファイバーや電線が傍らに埋設され、存続が危ぶまれる。


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土塁の西端、即ち南湖集落手前にある烽火台遺址。通称「北工敦(本来は土扁付)」、漢代のものとされている遺構である。土塁がこれと良く対応していることも、その重要性を裏付けるものである。付近には、関連施設の跡らしい土盛が幾つか見られた。因みに烽火台は後代の補修利用の可能性が窺われた。


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次は南湖集落南辺にある「敦敦(本来は土扁付)山」烽燧へ。現在陽関博物館として著名観光地となっている場所である。15年程前に1度来たことがあるのだが、遺構状況の再確認の為、訪れることにした。写真は、以前はなかった立派な表門。入場料も実に立派なものに(笑)。


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赤い礫山上に聳える敦敦山烽燧。すぐに登れそうだが、これがなかなか……。


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敦敦山烽燧。典型的な漢代建築様式。こんな吹き曝しの中で、よく残存できたものである。ところで、よくこの烽燧の写真を以て陽関遺址と方々で紹介されているが、これはあくまで烽火台であり、関址ではないことに注意されたい。


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敦敦山より北方を見る。彼方に雪を戴いた5000m超の高峰、アルティン・タグ(阿爾金山)が見える。


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疏勒河沿岸の長城本線遺構群へ

次は北上し、疏勒河沿岸に残存する長城本線遺構群の見学である。ここも8年前に行ったことがあるのだが、同様に再見学することにした。

写真はその途中、入場料徴収門と玉門関有力推定地の中間にあった烽火台。その造りから漢代のものとみられる。恐らくは、スタイン編号T14a燧の、1つ南のものか。ここも、付近に付属施設の痕跡が多数見られた。


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玉門関有力推定地から西へ3km程行った場所にある漢長城本線遺址。残高3m程で長大に続く。正に圧巻。


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長城接写。粘土や黄土が採取し難いこの地の長城は、砂礫と葦を交互に積み塩類含有水で固めるという、世界的に珍しい工法が採られている。線状に見えるのは、各段を隔てる敷物状葦の断面である。


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漢長城至近のD23号燧(甘粛省編号)付近にある「積薪」。

用途は地上で焚く狼煙用材。葦や紅柳等を漆喰で固めたもので、大きさは2m四方。西からの強い卓越風の作用か、東側へ倒れている。


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古代大型建造物「大方盤遺址」

漢長城の次は、そこから18km程東にある「大方盤遺址」へ。別名「河倉城」(この呼称は誤りの可能性が高い)とも呼ばれる漢代の軍糧庫跡とみられている大型遺址である。以前は未舗装で砂埃に苦しめられたが、今は舗装されたおかげで苦も無く短時間で着いた。

写真の遺構が正にそれである。全長130m強、全幅18mで、外墻遺構の存在から、同様のものが少なくともあと1つはあったと推定されている。内部は3室に区切られ、壁面にある菱形の大穴は通風口ではないかとみられている。今年春、東京で行った「胡羌隔絶展」の案内状にある遺構と同じものである。


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大方盤専用の特殊用途と見られている烽燧の丘より大方盤を見る。大方盤と、その後方の北山山脈の間に疏勒河河床が存在する。

河岸にあり、舟運利用の可能性が指摘されている大方盤であるが、実見してみると本流河床より、意外に高い位置にあることがわかった。春の融雪増水期に、一気に軍糧を運び込んだのであろうか。これも、実見ならではの貴重な情報収穫である。


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小方盤遺址

そして最後は玉門関有力推定地「小方盤遺址」へ。長城側に戻った場所にあり、当然以前訪れたことがある。今回はこの地に残る長城の南北支線痕跡を実見するという目的があった。

因みに、ここも敦敦山烽燧同様、写真の建屋が恰も古代関門「玉門関」の如く紹介されている。しかし、この建屋も軍・事務用の砦跡にすぎない可能性が高い。観光振興には効果があるだろうが、どこかの国の旅館みたいに、誤解が既成事実化しないか心配である。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡,小方盤,大方盤,長城,烽火台」

小方盤南方に残存する漢長城跡。低い土盛と化しているが、断面等の観察から間違いないと思われる。ここから北の小方盤方向は、観光道路や駐車場の為に不明瞭となっている。10年程前まで明瞭であった小方盤西側の長城址が「観光客の踏み荒らし」の為、消滅したとするK大学F先生の報告は残念ながら事実であった。


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帰路、観光施設「敦煌古城」とその背後の「鳴沙山」を見る。

古城は日中合作映画「敦煌」の撮影用として1980年代に造られたセットを施設化したもの。内部には宋代の街が復原されているそうだ。それにしても、砂だけで叡山程の高さを持つ鳴沙山が、美しくも恐ろしいばかり……。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡,小方盤,大方盤,長城,烽火台」

市内に帰着後、運転手に連れられ、市場内の食堂で食事。名物の驢馬肉や麺を食した。写真はその驢馬肉。焼豚風に調理してあり、手前にある、黒酢と豆板醤に浸けて味わう。感想は、可も無く、不可も無くといったところか。
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2009年10月19日

敦煌調査2日目

逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡,西土溝」

南湖「古董灘」南辺調査

朝、甘粛省省都「蘭州」の名物でもある「牛肉面」を食したあと、宿付近の路地に窯を据える維吾爾(ウイグル)小店のナンと水等の非常食を仕入れタクシーに乗り込んだ。行先は昨日に続いて南湖古董灘。今日はその南方に残存するという、長城や烽燧(狼煙台)の探索である。

写真は、その最寄で、荒漠への出発地となる南湖集落南辺にある「渥わ(三水に土2つ)池」という用水池。古代、「渥わ水」と呼ばれた池沼があった場所とされ、天馬出現伝承も持つ。とまれ、満々と清水を湛える様は、荒漠地に於いては貴重な風景。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡,西土溝」

「渥わ池」北側、堤防下にある湿地。恐らくこちらの方が、古代「渥わ水」の原景に近いと思われる。


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「渥わ池」より、また独り荒漠に入る。タクシーの運転手は、敦煌への帰路を心配してくれたが、公共バスで帰ることを説明し、別れた。

写真は流砂の丘陵を越えて発見した尾根状に続く土堆。高さ2m以上、幅数mで、数百m以上続いている。資料に記載されている、古代の長城跡と見られている「二道風墻」の規模・所在地とほぼ一致するが、断面を観察しても人工物かどうかの判別はつかない。勝手に発掘する訳にはいかないので、断面観察で判断がつかないと難儀である。とまれ、一応撮影や採寸等の記録は行う。


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川底に少し水を有した西土溝を渡渉し、対岸地帯も探る。昨日紹介した場所より南、即ち上流方向である。


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西土溝上流からの眺め。即ち北、陽関博物館がある敦敦山(本来は敦に土扁が付く)方面である。地平線右に見える緑の帯が、南湖集落である。5km程進んだか。


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流砂に乗って一帯を俯瞰し、遺構を探す。少し前から強い風が出てきた。荷物を含め、砂まみれとなる。カメラの故障が心配である。というか、更に強くなり視界が悪化すると身も危険である。帰路である集落側の方向を、磁針で慎重に確認しつつ備える。かつて敦煌西郊で、1人荒漠に入った地質学者が、砂暴風に巻き込まれ行方不明になった事故を思い出した。


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流砂より顔を出す2条の石列。

同様に、長城跡を想わせる砂尾根や、烽燧跡を想わせる小丘等を見かけたが、何れも判別が難しいものばかり。


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すわ追放?無人の荒野に呼び人現る

遺構がありそうな場所の最も南側を調査後、一転して北方へ向かう。その途中、彼方の西土溝対岸に人影を発見した。確かに左右に揺れ動く1人の人間が見える。南方へ向かって進んでいるようなので、そうこうする内、北行する私とかなり近い距離となった。よく見れば、頻りにこちらの様子を窺っている。嫌な予感である。

官憲か軍人か、経験上この様な場合、尋問されて追い払われる可能性が高い。疾しいことは何も無いが、気分を害したくない為、無視して過ぎ去ることにした。だが、やはり対岸から声を掛けてきた。仕方なく振り向くと、何やら大声で訊ねている。風により聞こえ難い為、双方接近し河床にて落ち合う。大柄だが予想に反して線の細い若者。身なりは質素だが、今風に少々髪を染めていたりもする。

「あんたさっき山側にいただろう。俺んちの駱駝とか何とかがそっちの方へ行ったんだが、見なかったか?」

若者の用件は以上であった。安堵である。見なかった旨を答えると去りかけたが、こちらも二道風墻や烽燧について質問した。風墻は知らないが、烽燧なら北側2キロ程の場所にあることを教えてくれる。中々気立てのいいあんちゃんである。写真は、河岸を上り、去り行くその後姿。緊張は一転し、めでたく辺土の長閑と化したのである。


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あんちゃんが教えてくれた烽燧。所謂、狼煙台跡である。その姿から、資料にある「西土溝南敦(本来は土扁付)」に違いない。ただ、記述の場所よりかなり北方にあった為、作成した遺跡図を修正しなければならない。

日干し煉瓦数段毎に補強の葦束を入れる建築様式は、正に古代のもの。「漢代の烽燧である」との報告は間違いないようである。


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烽燧の接写。日干し煉瓦の間に葦束が敷かれている。葦は2千年の時を経たものと思われるが、昨日刈り取ったかの如き姿を晒している。偏に、乾燥の恩恵か。


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烽燧周辺に散乱する土器片。幅広模様を有すこの種も、漢代に特徴的なものである。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡,西土溝」

南湖集落へ向かう帰路より、南敦を返り見る。付近の戈壁には遺構めいた小丘が広範に見られた。因みに、烽燧の右横に見える2つの盛り土は、住人の墓所。少々陰惨な印象を与えられる地である。

陽も傾いてきたので、本日はこれにて撤収である。


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南湖集落の際にて遭遇した干し葡萄製造庫。風通しの良いこの中に収穫した葡萄を吊るし置く。

車が無い!

さて、これでまた今日1日が終る筈であったが、とんだ番狂わせが起った。なんと、敦煌へ帰るバスがなくなっていたのである。バスが出る集落中心地に18時頃着いたが、昨日はそのころまで発車を待っていたバスが既に出てしまっていたのであった。他からの経由便やタクシー等を捜すが、待てど暮らせど来ない。そうこうする内、日は暮れ、辺りは暗くなってしまった。

砂漠気候特有の急激な気温低下。上着を足してもまだ寒いぐらいの状況となった。偶に見る車は皆街から帰って来るものばかり。辺りを見回せど、開き直って泊まる宿も見当たらない。思えば、明日早朝より遺構見学の為に車の予約もしていた。しかも、既に支払済みである。夜通し歩いて帰ることも考えたが、さすがに70kmは遠すぎ、到底間に合わない。さて、如何はせむ……。

考えていても埒が明かないので、蛍光灯光の漏れる一件の店を訪ねる。携帯電話店らしきその中には、既に閉店したのか、3人の若い男女がフロア中程のテーブルにて食事をする姿があった。早速、タクシーの有無を訊ねる。しかし、やはりないという。ただ、内の1人が、携帯電話を取り出し、連絡してくれるという。20代後半程、しゃがれ声に自然な笑みを絶やさない気さくな男子である彼は、早速ドライバーの友人に連絡し、料金の交渉と待合せの手筈を済ませてくれた。そして、暫しの休息と食事まで勧めてくれたのであった。

かの硬派ライダー出身俳優「Tひろし」似の彼は、食後、正にそのイメージ通りに単車を操り、私を後席に乗せ待合せ場所である自家まで連れ出した。彼の腰に掴まり暗闇の戈壁道を快走する。風圧と爆音、そして寒さに見舞われるが、痛快であった。思わぬ奇縁に、ひとりでに笑みまでこぼれる。そして彼の家でも、自家の如く寛ぐことを勧められた。ここで問われ、初めて日本人であることを明かす。少々驚きがあったが、その後も変わらず良く接してくれた。楊某と名乗る彼は、豪華なこの庭付き一戸建ての家で妻子と共に暮らしているようである。

やがて表にタクシーが到着し乗り込む。礼状用の住所問訊を照れながら断る楊氏に厚く礼を言い別れる。彼の友人であるドライバーも実に快い人物であった。

こうして、正に「好漢」の楊氏らに助けられ、無事敦煌の自室へ帰着出来たのであった。有難い限りである。感謝!
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2009年10月18日

敦煌調査初日

逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡」

沙州故城

敦煌到着翌日である今日より、早速行動を開始することとなった。とはいっても、実際の交通事情等が不明な為。あくまでも予備調査開始といったところである。

先ずは、市内バスで行ける、付近の「沙州故城」を見学した。史上初めて敦煌に築かれたという、漢代(紀元前2世紀〜紀元後2世紀)の都市遺跡である。約1キロ四方の規模があったといい、その城墻の一部が現存している。写真は、その最も残存している部分。西北角の台敦(正しくは土扁に敦。日本の城でいう、角櫓のような場所)と、そこから南に向かう防壁である。黄土に水を与え、つき固める版築と日干し煉瓦が使用されている。


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故城見学の後は、近くにある、西域人で佛典漢訳に多大な功績を残した鳩摩羅什(クラマジュウ)縁の「白馬塔」を見学。写真はその途中、綿花畑の景色。敦煌郊外の典型的な眺めである。特産の綿花は、今が出荷最盛期を迎えていた。


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同じく、敦煌郊外の村落にて。

殆どが漢人住民であるが、集落や建屋のつくりは西域型であった。


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南湖へ

午後からは、今回の重点考察領域である敦煌近郊緑州(オアシス)「南湖」へ向かった。距離は凡そ70キロ、公共バスで約1.5時間の道程であった。写真はその車上にて。見渡す限りの戈壁漠をゆく。恰も、月面を行く心地である。


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やがて、荒野の彼方に、ポプラ樹林に守られた「南湖」集落が見え始める。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡」

車内の隣人や車掌らに説明し、集落内の「古董灘」最寄の場所で下車する。そこからは土道を歩き、葡萄畑と幾重かの防砂林を抜け、集落外に出た。早速、流砂帯も現れた。

古董灘とは、古物が散乱する場所として古くから土地人が注目していた集落際の荒漠地。古代の重要関門「陽関」の所在比定地の1つとして知られている。私はここに残存するという長城や烽火台を調べ、敦煌の衛星都市的存在であった南湖緑州の防衛体系解明の手懸りを探りに来た。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡」

古董灘にて、早速古物発見。

縄目のついた灰色陶器は漢代遺物の特徴。左側のものは水甕の破片か。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡」

古董灘を貫く河水、「西土溝」の峡谷。

この辺りでは殆ど水を見ない。少し上流に行くと谷が浅く、渡河が容易な場所が現れるが、私はその辺りを、未だ場所が定まらない陽関遺址の所在地ではないかと推測している。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡」

西土溝の対岸、西岸の戈壁漠台地内に土堆を発見。地元の調査資料にある、年代不詳の烽燧(烽火台)かと思われた。しかし、近くで観察したところでは、天然の風化土堆か人工物かの判断は得られなかった。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡」

朝晩の冷え込みを忘れさせる強烈な日射が戈壁に注ぐ。

大きな寒暖差は砂漠気候の特徴。これらの作用が硬い石英・玉石をも砕き、「無辺の砂利地」戈壁を形成する。湿潤帯で暮らす我々には、想像を絶する自然様態である。


逍遥雑記「中国,大陸,敦煌,南湖,漢代,遺跡」

考察中、度々現れた唯一の小動物、蜥蜴の一種。

無人の荒野を独り巡る身には、どこか親近感の如きものを感じさせられた。


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南湖緑州縁辺のポプラ樹林にて。

緑州にも、秋黄葉の時季が来たようである。今はただ穏やかな景だが、これもまた想像を絶するような寒冷到来の序章でもある。


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そして、約3時間程の考察ののち、来た道を辿り敦煌市内へと戻った。短い時間ではあったが、あくまでも予備調査としていたので、欲張らずに撤収した。写真はその車窓に現れた戈壁漠に沈む夕陽。我々島嶼人には物珍しい、地平線への日没である。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2007年11月26日

伯耆「長者伝説」調査行U


逍遥雑記「伯耆行,西伯紀氏,進氏,紀成盛,長者伝説,行松氏,赤松氏,田口氏,坂中廃寺,会見郡,長者原,箕蚊屋,蚊屋島神社,尾高,大山,城館,豪族屋敷」

調査行2日目

調査行初夜が明けて2日目となった。初日の疲れか夜更しか、2人して少々寝坊気味の開幕である。「悠長に鍋の残りで雑炊なぞ作っている場合か」と珍しく苛立つI氏であったが、結局2人して準備し、しっかり食した。その後、家内の諸々を片付け、出発したのは午前10時頃であった。現代の山陰道、国道9号線を更に西にして向かったのは、長者伝説と進家の本地、西伯地方であった。

写真は、後出する「長者原」の長者墓伝承地付近から見た「大山」。昨日分で掲げた北方からの景とは異なり、すっきりとした独立峰的山容は多くの人にとって馴染のものではなかろうか。しかし、名の通りの雄々しさ、そしてどこか無骨な様は保っている。

実は今回巡った地の中で、この長者原から望む大山の姿が一番力があり、また美しいものであった。長者原は、西伯一帯に勢力をはった紀氏長者の根拠地伝承を有すだけでなく、古代中央政権が一帯を治めるのに設置した官衙跡ともみられる場所であった。彼らは、この稀有な台地上に先端の殿舎を構え、大山の威を背に民心を収攬し、そして西伯に君臨したのであろうか。


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長者伝承地「長者原遺跡」

八橋を出発して直に長者原を目指したのだが、その道すがら様々な旧跡に立寄った。先ずは八橋すぐ西の大山裾野丘陵上にある「狐塚」。八橋が属する琴浦町最大の前方後円墳で、古墳時代中期建造と見られる貴重なもの。その次は、八橋西隣の赤碕集落にある西日本最大級の自然発生海岸墓地「花見潟墓地」。展望見学のみで固有形式の鎌倉期石塔が見られなかったが中々の迫力であった。

その後は、隠岐から脱出した後醍醐天皇が上陸したという近くの海岸、そして更に西進して裾野西端地方の淀江古墳群や上淀廃寺跡にも寄った。時間の関係上、何れもあまり見聞は得られなかったが、興味深い場所なので再訪の機会があればじっくり巡りたいと思う。

そして、何とか約束通り、昼前に長者原に辿り着いた。約束というのは、ここの発掘調査を担当している「鳥取県教育文化財団」に、I氏が事前に見学を申し出ていたからである。台地麓にある調査事務所を訪ねると、文化財主事のS氏が別車にて案内してくださる事となった。

台地上に上り、先ずは「長者屋敷遺跡」から見学した。写真は、かつての発掘現場前にてS氏より説明を受けるI氏である。見渡す限りの耕地となっているが、奈良期建造の大型建屋遺構が発見されている。それらは、東西180メートル、南北130メートル以上の堀に囲繞されているという。S氏によると、台地上の広範囲に同時代の遺構が検出されており、それらを含めて、古代会見郡の「郡衙」関連施設の可能性が高いとみられるという。今は郊外の趣が濃厚だが、古代に於いては、ここが米子平野を含む会見郡の中心地であったことは疑いないようである。


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長者の塔

次いで、そこから少し東にあった「坂長下屋敷遺跡」を経、更にその東の坂中(さかなか)集落只中にある「坂中廃寺」に案内して頂いた。

その、廃寺跡辺りという、さほど古くはない佛堂前にあったのが、写真の礎石であった。数個見えるが、手前側の最も大きなものは佛塔の「塔心礎」という。中央の凸部に佛舎利が納められたらしい。残念ながら未だ調査されておらず、詳細は不明とのことだが、古代の官寺と思われるらしく、郡衙とも関連するものらしい。

左奥の石碑は、江戸期に建てられたとみられる塔の供養(?)碑。現況では判読が難しいが、「紀成盛長者之塔 南無阿弥陀仏」などと記されているらしい。この地に於ける長者伝承の、古くからの存在を証するものといえよう。


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S氏が何気に礎石近くの土塊を手にして発した言葉には少々驚かされた。何と、奈良時代後期(8世紀)の瓦片だという。縄目文が施された様をはっきりご覧頂ける写真のものがそれである。国内に於いてこれ程古い時代の遺物が地表に散乱しているのは珍しいことと思われる。相当な枚数が使われていたに違いあるまい。

S氏によると、郡衙の中心施設は未だ見つかっていないが、先ほどの長者屋敷遺構とこの廃寺の中間地点辺りが推定できるという。とうやら、その他の遺構の中心でもあるかららしい。因みにその範囲内には長者伝説との関連が濃厚な「長者屋敷」の地名(字名)が含まれている。口承などに比して、地名が正確かつ重要な歴史情報を宿している可能性が高いことについては後述するが、S氏と調査事務所も郡衙中心推定地と長者地名との符合に着目しているという。

律令体制崩壊の後、その地方支配の拠点を引き継いだ紀氏長者の影。確証的なものではないが、それが活躍した中世初頭の遺構も出始めているという。今度の調査進展が楽しみである。


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長者墓伝承地「キサイさん」

I氏が紀氏後裔を称する進氏の出と知り、また紀氏長者の話が出たところで、S氏が「そういえば」と、車を走らせてくれたのが、台地西方にある写真の地であった。比較的新しいものと思われる開墾耕地の只中に大樹1本が残るそこは、古くから地元で長者の墓所と伝えられる場所「キサイ(紀宰・紀祭?)さん」という古跡。

確かに、ここだけ塚様の微高地になっており、大樹の根元には尊崇を物語る石佛も見え何か特別な雰囲気を有している。S氏によると、古墳の可能性があるらしく、樹の後方に積まれた平らな大石も古建築の礎石の可能性があるという。しかし、未だ調査は及んでおらず、伝承以外の詳細は明らかにされていないらしい。左方に見える石塔と石板は、その伝承を保持した近隣有志らが紀成盛長者を記念して近年建立したもの。

長者原一帯は台地という性質上、河川氾濫の堆積影響を殆ど受けない地の為、遺構面が極めて浅い場所にあるという。ならば、ここも比較的小さな労力で調査可能の筈である。早期の調査実現と、それに至るまでの現況保全を願うばかりである。

西伯の長者、紀成盛

ところで、この地の長者であった「紀成盛」とは何者であろう。成盛の名は承安年間(1171〜74)年、即ち平安末期に、霊峰大山を管轄する天台大寺「大山寺」に納められた鉄製厨子(現存。重要文化財)の銘文に初出する。また『源平盛衰記』や『玉葉』等の、中央の史料にも登場することから、その存在が確実視される。

それらによると、彼は「会東(会見郡の東半)の地主」であり、「(伯耆で)勢力ある武勇の者」であったという。また、大山寺の内紛や源平争乱と連動しつつ、東伯の有力者「小鴨(おがも)氏」と度々争い、伯耆をそれと二分する程の勢力だったらしい。経済的にも、大山寺の復興を単独で成しえるなど、長者としての姿が伝えられている。

成盛は厨子銘文の解析により、平安前期に文人公卿として中央で名を成した「紀長谷雄」の後裔とみられる。途中の系統は定かではないが、長谷雄の子「淑光」の系統に伯耆に住した「為任」があることから、その子孫ではないかとみられる。為任の伯父「致頼」や弟「成任」が国司として伯耆に赴任していることもあり、平安中期であるその頃、現地に土着したようである。

しかし、中央の任官を受けず、東伯は倉吉付近にあった伯耆の政治中心地「府中」からも遠いこの地に於いて、何故成盛は西伯を代表する長者と成り得たのであろうか。その謎は、彼の根拠地である会見郡という土地にあった。実は会見郡は伯耆は疎か、因幡を合わせた鳥取県内の郡で最も石高が高い郡であった。つまり実入りのいい地、儲かる土地だったのである。

石高統計は江戸前期以降しか伝わっていないが、土地条件や耕地面積の割合はそれ以前から、さほど変わっていない筈なので、成盛の頃もほぼ同じ状況だったといえよう。そして、更に西伯は鉄の産地でもあったので、それによる大きな利益も想定出来る。政治的には辺土であったが、大きな収益を生むここに平安中期頃土着して成長した紀氏の姿が成盛長者だったようである。


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進氏ゆかりの「蚊屋島神社」

さて、長者墓伝承地を見学後、調査事務所に戻った。そして、そこで、出土遺物である古代の金床石等を見せて頂いた後、S氏と所長のK氏に見送られて、長者原調査を終了したのであった。そこからは、北方は海浜寄りの平野地帯、箕蚊屋平野へと車を走らせた。そこは、I氏の実家、即ち中世以降の進氏の居館がある地であった。

先に、この地を管轄する米子市の法務局に立寄って資料を入手した後、日吉津というところにある「蚊屋島神社」に向かった(写真)。ここは進氏、即ち成盛長者が創建したとの伝承を持つ場所だったからである。毎日鞍を新調した馬に乗り、長者原から専用道を辿って参拝した話や、毛利の大将杉原氏にここで伝家の宝刀を奪われたとの伝承が伝わっている。元は社務も司ったが室町後期より、伊勢から今の宮司家である田口氏を招いてからは、その補佐職となったという。ともかく、進氏にとっては元は氏神の如き存在であり、その後も密接なかかわりを持ち続けた社だったのである。

到着してみると、社地や社殿の意外な規模に驚かされた。それは、昨日見た一の宮、倭文宮を凌ぐ程に思われた。伝承によると社地は更に広かったという。社地後方には「裏山」と呼ばれる大きな土塁状の高まりが走っていた。社地の後方、即ち北方はかつて海岸だったらしいので、堤防だったのであろうか。しかし、土地の有力者とかかわりが深い社となると、中世に於ける城塞化の可能性もでる。

成盛長者後裔、進氏

ここで紀氏長者と進氏との繋がりをみてみよう。実は、現在のところ紀氏と進氏を結びつける明確な物証は見つかっていない。紀氏自体が、成盛以降、殆ど記録に姿を現さなかったからである。その空白を埋めるものとしては、江戸中期に進家当主が記した備忘家記『紀氏譜記』があるが、一次史料ではない伝記なので物証とは成し難い。しかも戦国期以前の記述は希薄でもあった。

しかし、西伯に於ける進氏の存在意義を考えると、強ちそれらの伝承も否定出来ない。西伯紀氏が進氏を名乗り始めた時期は諸説あって定かではないが、南北朝期である14世紀半ばの史料に初めてその名が見られることから、進氏自体はその頃には確実に存在していたと思われる。その文書は、「進三郎入道長覚」による布美荘(米子辺りの荘園)領家職横領の停止を命じたものであるが、米子市史の見解では、この横領は伯耆守護、山名氏の意向によった可能性が高いという。つまり守護による荘園侵略の代行であり、それを担った進氏は、守護の下で相応の地位を拝し得る有力国人であったのではないかと思われるのである。

そして、かの「応仁の乱」を記した重要な中央史料、『応仁記』には西軍山名側の重要な戦力「伯耆衆」の一員として南条、小鴨、村上らの有力諸氏と共に登場する。同時代のその他の文書の分析からも、この頃進氏は守護に次ぐ在地での有力者「守護代」であった可能性が高いという。しかも、前述2氏は東伯、1氏は淀江付近の勢力の為、進氏は正に平安末の紀氏同様、西伯随一の勢力だった可能性もでる。

これらの事実から、確証はなくとも進氏が長者後裔である可能性の高さが窺える。また、西伯各所に神社や城塞の建造伝承も伝わっており、広域での影響も窺えるのである。何より、古くから地元で長者家本宗であることを認知されているのも軽視できないのではなかろうか。なお、現在の進家は、戦国期に1度男系が絶えたあと、かの山陽の名家「赤松家」の血を受けた女系が継承したものだという。


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箕進氏居館と屋敷絵図

蚊屋島社を後にして遅い昼食を途中の店で済ませ、いよいよ箕集落にある進家に辿り着いた。一度転出した為、古いものではないが、門構えある中々立派なお宅である。早速お邪魔して、I氏の父君、即ち第39代御当主(但し代数は赤松氏より。つまり村上帝からか)と面会した。そして用意した資料等を用いながら実地調査することとなったのである。

写真はその際見せて頂いた伝来の屋敷図。江戸後期である天保5(1834)年に、家相を見てもらった際に作られたものという。畳1枚程の大きな和紙に諸屋は無論、塀や排水溝、庭木などに至るまでの詳細が描かれている。今の家は、明治半ばに1度土地を手放した後かなりたってから規模を減じて再建されたので、本図は前近代の進家を知る上で実に貴重な史料といえる。

先ずこの絵図を見て目につくのが、屋敷を囲む太い緑の帯と水路である。緑の部分には「竹薮」の文字が記されている。これは屋敷を囲んだ土塁と水濠の跡に違いない。太平の世であった江戸期にこのような要害を成すことはありえない。よってこれは戦国期以前に成されたものの名残であることが判る。即ち、屋敷が廃滅した明治初め頃まで中世進氏の痕跡が残っていたことになる。前出の『紀氏譜記』にも、かつて屋敷が堀で囲われていたとの伝承が記されている。


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上の画像は、屋敷図各部を拡大したものである。右上の部分は、敷地の右下、つまり東南の隅部分にあたる。緑の土塁跡内側にも水路と水溜りが描かれているのが解ると思うが、これは郭内の排水に用いられる「悪水抜き」であると思われる。この悪水抜きと外濠跡の存在から、当時土塁がまだ幾許かの高さを有していたことが判る。高さがなければ、水はそのまま外濠側に排水され、悪水抜きを機能させる必要はないからである。また、西側門下の土塁部分である左上拡大図には2、3段程の石垣も見られる。


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現代に浮かび上がる進氏中世城館

上の2図は、先程寄った法務局で取得した古い地籍図(旧公図)である。進家が在る「土居之上」という小字(こあざ)を上下2枚(弐と一)に分けたもので、明治24年に作製された現存最古のもの。画像はモノクロコピーだが、現物は水路や道が彩色表現された和紙製であり、訂正の書込みや紙貼りが施され昭和40年代まで使用された。

この図を、上記の屋敷図を考慮しつつ見ると興味深いことが判った。それは、公図の製作以前に売却されていたと思われていた屋敷の痕跡が残っていたことである。即ちそれは土塁の在り処を示す線で、私が加筆した緑の実線がそれにあたる。線は同一地目の範囲や筆界を表しており、当該範囲は正に「山林」と記されている。平野の只中で、周囲の地目が田や畑となっている中に、ロの字形の山林があるのは、いかにも不自然であり、もはや土塁以外の何物も想定し難い。

あとは、この「ロの字」の内部全てが元は一筆であったことが訂正書きや紙貼りで判ることである。昭和中期に土地の残存を知らされ戻ってきた進家の今の屋敷地は、その西南隅である紫の部分である。よって、上記の発見と共に、「宅地」と記されたこの一筆の土地が、屋敷図に描かれた元の進家の在り処・規模であることが確かになった。この地籍図は、中世から続く進家居館の最後の姿を写し得た実に貴重なものだったのである。

更に興味深いことは、屋敷図がかなりの精度で作成されていることであった。拡大図左上には「南北三拾三間」と記された書込みが見える。これは土塁の各辺に記されており、各辺の長さ、即ち敷地の規模を示している。そして驚くべきは、絵図全体に一定幅を持ったグリッドラインが引かれていることである。拡大図に見える黄みがかった格子線がそれである。各辺の書込みとこのグリッドを検討して判ったのが、その幅がちょうど1間だったことである。この正確な方眼上に全てが描かれている。よって、地籍図に残った屋敷の痕跡と、このグリッドを照らし合わせれば、かなりの精度で遺構の位置が特定可能となる。皆「占い用程度」との認識であった屋敷図は、実は正確な方位や配置を知る必要があった占い用であったが故に、精確に作成されていたのである。

絵図の情報から算出された古の居館の規模は一辺約65メートル。16世紀前半の洪水に罹災する以前は、更にこの外側を幅5メートル程の外濠が囲っていたという。これはもう、個人の宅地としてかなりの規模、設備であるといえよう。加筆図を見て解る通り、現代の「土居之上」中心に、こうして在りし日の進氏城館の威容が浮かび上がったのである。

吉凶判定で消えた土塁の「張出し」と謎の階と石垣

屋敷図と地籍図による「古の発見」はまだ終らない。両図を比較したとき気になるのが、屋敷図左下(西南)にある土塁の「張出し」の存在であったが、地籍図には痕跡が見えないこの謎の解明手懸りは、実は屋敷図そのものの中に記されていたのである。

拡大図左下は、その張出し部分であるが、そこにはちょうどそれを切るかのように朱線が描かれている。これは家相を鑑定した卜師が記したとみられるものである。実は屋敷図には、庭木1本に至るまで、この朱墨による吉凶判断が書き込まれている。そして、正に張出し上の立木には全て「凶」字が朱書きされている。つまり張出しは、卜師の指示により撤去されたとみられるのである。

家相の鑑定結果に基づき屋敷が改変されたことが確かになった。しかも、その場所は土塁という、大きな労力が必要とされる箇所であった。そうなると、他の凶判定箇所も改変された可能性が高いといえる。例えば、張出し右側に見える「築山」と「泉水(池)」などである。恐らく、これらも地籍図の頃には存在しなかった筈である。

では、戦国期以前から天保5年頃まで存在したこの「張出し」は何の為に施されたのであろうか。残念ながら今それを解く手懸りはないが、やはり土塁に付随しているという性質上、居館防衛に関する施設であるということは言えそうである。通常の土塁幅より「張出し」の分広くなるので、天守台の如き望楼が置かれた可能性なども考えられる。ちょうど、「張出し」の右近くにある「築山」には用途不明の切石の階(きざはし)と石垣も見える(拡大図右下)。築山自体も含め、庭園装置としては少々重厚過ぎると思われるこれらも、その関連遺構である可能性があるのかもしれない。


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居館の更なる広がりを窺わせる奇妙な痕跡

ところで、この進氏城館があった「土居之上」という字名であるが、それ自体が城塞址を示唆するものであることが、多くの類例により判明している。つまり今判明した箇所だけでなく、字全体が城館であった可能性も窺われるのである。その観点から再度地籍図を眺めると、また興味深いことが発見された。それは、「土居之上」上部(北)の左(西)に見られる奇妙な突出地である。

古代条里制の区画単位である、「坪」(約109メートル四方)に影響されているこの辺りの小字設定において、この様な変則は異様と言える。その原因として考えられるのは、この突出地が「土居之上」側と深いかかわりを有していたことである。可能性として挙げられるのが、土地所有者が土居之上と同一であったことや、そこから何らかの構築物が続いていたことなどがあろう。

この場合、突出面が不自然な弓なりを成しているので、所有耕地とするより、構築物の影響とみる方が妥当と思われる。そこで考えられるのが、城郭の防御施設、「出丸」である。出丸は、城塞の防御性と迎撃の安全性を高める為に城壁(土塁)の外側に張り出して設けられた小郭のことである。そこには専用の濠や防壁が設けられていた。但し、当該のものは半反程の広さしかないので、出入口部分に設けられた類似施設「馬出し」とすべきかもしれない。

地籍図には、ちょうどそこを囲う水路が見える。上掲の城館部拡大画像に加筆した水色の線がそれである。城館の東と南側の濠跡から続く水路が突出地を巡り北側へ流れ下っているのである。この水路は城館部分以外は側溝化して現存しているが、この存在からも、出丸説を往古復原考察の俎上に載せる意義があると言えるのではなかろうか。また、屋敷図に見える門の設置方角と、それが一致するのも見逃せない。しかし、方角こそ合えど、屋敷図の頃、即ち地籍図に現れた城館の門跡と、「馬出し」想定地は位置が食い違っている。また、城館に対するそれの過大さもバランスを欠いていると言わざると得ない。

往古屋敷地「2町四方」の伝承とその裏付

そこで考えられるのが、馬出しと現城館の設置年代のズレ、即ち「造り替え」である。実は、進家にはこれを裏付ける伝承が伝わっていた。それは、往古屋敷地が2町(218メートル)四方の規模を有していたというものである。地籍図上の「土居之上」は南北がちょうど2町である。ひょっとして、元の居館は字全体にあったのではないか。小字の名づけの原則からすれば十分有り得る話である。しかし、それだと東西が半町程足りなくなる。だが、その足りない側の東には、その不足分が存在した可能性が地籍図より窺える。

それは、東側に隣接する「勢勇」という不可解な名をもつ小字の存在であった。この名はそのままでは意味が通じないが、「贅疣(ぜいゆう)」と置き換えると、無用地を指す可能性が現れる。つまり、洪水等の災害により荒れ地化したと思われる場所である。地籍図には、河川影響を思わせる蛇行したそれとの境界が見える。実際それに沿った水路も描かれ、現在も存在する。よって、元は2町四方であった土居之上、つまり旧城館の東半町程が水勢により破壊を受け、放棄された可能性が窺われるのである。裏付には更なる検討を要するものではあるが、一考の価値はあろう。

また、現在多く見られる「土居之上」の宅地が、かつては少なかったことも重要である。特に地籍図の「弐」、即ち北側は進家しかなかったことが、図に記載された地目履歴から判明した。「土居之上」という字うちに於ける、進家居館の排他的姿も浮かびあがったのである。このことも、進家居館の更なる広がりを想わせる状況ではなかろうか。

今も残る往古屋敷地の痕跡

では、城館規模が更に大きかったとみられる時代そのものの痕跡はあるのであろうか。難しい問題であるが、1つその可能性を窺わせるものがあった。それは「弐」の図中央にある進家累代墓地から突出地中央に至る「墓道」である。もしこの突出が、出丸や馬出しであるなら、この道上に門、即ち木戸(城戸)が設けられた筈である。具体的な位置でいえば、墓道と南北道路が交わる箇所である。門を出た道は、南北路を用いて南北両側から城外と接続されるか、そのまま直進して馬出しの城戸から接続されたと思われる。つまり、この墓道は標準的な出丸・馬出しの機能とよく対応しているのである。

因みに墓道は南北路で終るが、筆界として更に西へ続いており、隣接の小字「岩屋畑」の中心にある小社、岩屋畑神社に達している。この社は、その規模や字内に於ける位置が進家累代墓地とよく似ている。それは、正に城壁を挟んで対称に配置されている観すら窺えるのである。城壁とその表門を間にして城主の精神要地を繋ぐ当時のメインストリート―。今は手懸りに乏しいが、往古の居館復原考察に於けるこの奇妙な符合発見は、調査に於ける新たな魅力を得た心地にさせられた。

進家城館の構築時期とその推進者

しかし、それにしても2町四方というのはかなりの規模である。もしこの規模が事実であれば、広域領主たる守護代の居城に相応しいものといえよう。しかも、これはあくまでも領主居館部分、即ち「本丸」部分なので、更なる外郭まで想定出来る。恐らくは箕集落全体が要塞化されていたのではあるまいか。現に、集落内には古城址を思わせる「上之代」や、軍事との関連を示す「的場」という小字名も残っている。

これらの城館が構築されたのは、進家が長者原から箕にやってきたとされる南北朝期辺りのことと思われる。しかし、地籍図に見られるような大規模な馬出しや土居濠が整備されたのは、やはり応仁の乱辺りからであろう。それは、世相上これらを構築する必要があり、そしてそれを実現するだけの力が当時の進家にはあったとみられるからである。それならば、この時代の史料に唯一姿を表す守護代と目される人物、「進美濃守」辺りがその推進者であろうか。

乱後、進家の名は歴史の表舞台から消えてしまう。代わって西伯に力を持つのは、かの八橋城主で、山名庶流ともいわれる行松氏である。この間の事情については何も伝わっていない。ただ、隣国出雲の尼子氏が進出してきた16世紀初期頃には既に神職としてその配下にあったことを『紀氏譜記』は伝えている。つまり戦国中期辺りには既に進家は武門であることを放棄し、在地の小領主化しているのである。恐らくは、乱後の在地動揺と、守護家の内紛や尼子の圧迫等の混乱により致命的な打撃を被ったのであろう。そういった意味では、城館も人為損壊を受けた可能性がある。

進氏最盛期、そして西伯紀氏第2黄金期の姿

これまで判ったことを整理すると、箕進氏の城館には少なくとも3期の姿が存在したとみられる。それは進家が初めて箕に入った際「上之代」に造られたとみられる最初期ものと、応仁の乱前後の世情不安定を受けて「土居之上」に造られた馬出し付きの大規模なもの、そしてその後それを改変して明治まで続いたものである。最後ものは更に洪水や占いによる部分改変も考慮することが出来よう。ともかく、2期目と3期目が進氏の最盛期、即ち西伯紀氏としては成盛長者以来の「第2の黄金期」の姿を伝えるものだといえるのではなかろうか。


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では、こうした資料上の発見等を踏まえていよいよ実地調査を行う。先ずは地籍図に現れた居館部分である。写真は居館東南隅近くから西方、つまり現在の進家方向をおさめたものである。敷地界であるブロックの右側、特にビニールハウスの辺りの土地が高くなっていることを確認した。僅かながら土居の痕跡が残っているようである。I氏と御当主も、「なるほど」といって興味深げであった。

小道が見える左の低い方は濠跡である。地籍図にはそれを継承したとみられる水路があったが、今は埋められて無い。しかし、この下には往時の規模そのままの遺構が眠っている可能性が高い。


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現進家居宅の南庭にある高さ1メートル程の「築山」。

ご一家共々、屋敷図にあるそれと同一のもの思われていたが、諸図との照合で違うものであることが判明した。もし、あとで盛られたものでなければ、その位置から、土塁の遺構である可能性が極めて高い。


逍遥雑記「伯耆行,西伯紀氏,進氏,紀成盛,長者伝説,行松氏,赤松氏,田口氏,坂中廃寺,会見郡,長者原,箕蚊屋,蚊屋島神社,尾高,大山,城館,豪族屋敷」

進家累代墓地。

墓石は主に江戸期のものが多いが、桃山以前のものとみられる小塔類もいくつか見られた。左側一列に並ぶものがそれである。かつては左際にあった大木の根元にあったらしいが、その伐採の際、担当業者によって勝手に組み換え・並び換えされてしまったらしい。

この墓地は周囲とは異なり、起伏のある不思議な島状地となっている。これは前述した岩屋畑神社と同じで、かの「キサイさん」とも類似している。神社には地籍図のころ水濠の囲繞が見えるが、墓所も同様だったのかもしれない。江戸期に西伯を訪れた俳人の日記によれば、キサイさんも水濠に囲まれ、しかも道を挟んで対のものがあったという。「馬出し」の話でも関連したが、やはり何か特別な印象を受ける場所である。元は違う用途で造られたのであろうか。進家では、往古ここで「馬揃え」が行われたことを口伝している。


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屋敷地北辺より、東方は墓地へと続く「墓道」を見る。

今は畔程の幅しかないが、地籍図以前は広かったとみられる。御当主によると、道右端に見える小石の列が昔から存在するため、石垣の痕跡ではないかと思われているという。

道右側の畑は用途や所有の関係上、周囲と色が異なっているが、即ちそれが水濠の跡と思われる。その右隣にあった土居共々、痕跡は見る影もないが、土地の所有区分、即ち筆界に姿を留めていたのである。これにもI氏は感心の様子。


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箕集落東端から見た、淡い夕照に霞む大山。

このあと、箕集落のほぼ全域を巡って外郭の遺構等を探したが、明確なものは見つけることが出来なかった。しかし、進家居館を含め、大規模建設等による地下撹乱状況は認められなかったため全域遺構包含の可能性が高いことが判明した。かつては頻繁に洪水に遭った思われる洪積平野只中のここは、戦国期以降、かなりの土砂堆積に見舞われている筈である。よって、地表には見えなくとも、土塁基壇部等の居館関連遺構がそのまま地下に眠っているとみられるのである。早急な保全と調査が望まれるところである。

調査終了

さて、陽も傾いたのでここで調査は切上げとなった。2日に及んだ長者伝説調査行の終了である。実に興味深いものであった。少ない期間ながら中々の成果を挙げられたのではなかろうか。これからの発掘進展や、新史料の発見が楽しみである。そのような、充実と期待を胸に、我々は秋宵(しゅうしょう)迫る伯耆を後にしたのであった。

元は進家往古の痕跡の有無を巡り、私とI氏がそれぞれ史的見地と見在的見地を頼りに対立して始まったこの調査。やはり、私の史的見地に分があったことが明白となった。夕映えに晴れやかな大山もそれを祝してくれているようである(笑)。

冗談はさておき、お世話頂いた関係各位には末筆ながら深く謝意を表する次第である。

※2007年、絵図及びその他画像掲載について進家より承認済。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:49| Comment(8) | TrackBack(0) | 調査・研究

2007年11月25日

伯耆「長者伝説」調査行T

逍遥雑記「伯耆行,西伯紀氏,伯耆衆,進氏,紀成盛,長者伝説,行松氏,津田氏,倭文神社,東郷池,八橋城,遠見遮断,大山」

車窓を流れ飛ぶ薄穂(すすきほ)の果てに立つ山塊。豊かな穂並を前にしての、白雪(はくせつ)の様には違和を感じるが、それもその筈、これは西国の大峰、大山(だいせん。1729m)の姿であった。よく見かける写真の姿と異なるのは、あまり馴染ない北方からの撮影の為。しかし、この姿の方が複式火山塊である大山の実体を良く知ることが出来るのではなかろうか。これまで大山を実見したことがなかった斯く言う私も、強くそれを実感させられたからである。

さて、今日はこの大山を正中に頂く伯耆地方にやってきた。出雲の地、島根東部に接する、鳥取県西域である。京都から遠く、個人的にも馴染のない地方であったが、知己のI氏がここの出身であった縁により初めて訪れることとなった。実は、I氏は紀氏後裔を称する「進氏」という、かつて西伯耆一帯に権益を有したという土豪宗家の出であった。伝承では平安期、史料では室町初頭に土着が確認される一族で、その豪富ぶりは地元で有名な「進の長者伝説」としても伝わっていた。

史的見地VS見在的見地。押し問答の末の調査行決定

以前I氏よりその話を聞いた際、「伝承以外にも、さぞや色んなものが伝わっているだろう」と私が言ったところ、I氏は「一度没落しているので、もはや何もない」と返答。私が「物はなくとも、継続居住しているのであれば、必ず土地に痕跡が残っている筈」と史的見地より返すと、氏は見在的見地から「そんなものはあり得ない」と返して、押し問答になってしまった。そこで、その決着の為、機会を見て2人で現地調査をすることとなったのである。

先ずは地元から資料を取り寄せてもらい、予備調査をしつつ2日に渡る調査日程を決定。更にI氏には、地元関係機関に連絡を入れてもらい、関連遺構等への案内も予約してもらって準備を整えた。こうして今日、未知なる伯耆へと旅立つこととなったのである。


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濃霧の丹波路を経て、伯耆一の宮へ

時間の有効利用為に明け方市内で集合し、I氏が操る車輌にて出発した。この時期特有の濃霧に沈む丹波路や鳥取砂丘等を経ること約4時間、最初の目的地、倭文(しどり)神社に到着した。倭文宮は、旧伯耆国内で最も社格が高い「一の宮」に当る。東伯耆にあるため進家とは直接関係しないが、I氏の母堂方一族の出身地なので寄ることとなった。そもそも、初日である今日は、御母堂側の関係地を巡ることにしていたのである。

写真は倭文宮の手水鉢。自然石を加工した巨大な硯の如き品である。社殿はその上奥に見えるが、前者の豪様に比して質素とも見える印象を受けるものであった。非礼ながら一の宮らしからぬと思われるその現況は、恐らく、かつての戦乱に因るものかと思われた。

因みに、I氏の母堂方旧地は門前にある「宮内」という集落内にあったという。倭文宮との関連を思わせるこの集落は、史書によると明治初年の神仏分離まで神社を管掌した「神宮寺」があった場所らしい。母堂家も明治半ばに他所へ転出してしまったが、ひょっとすると、神宮寺に何か関係していたのかもしれない。


逍遥雑記「伯耆行,西伯紀氏,伯耆衆,進氏,紀成盛,長者伝説,行松氏,津田氏,倭文神社,東郷池,八橋城,遠見遮断,大山」

倭文宮西方に広がる東郷池と東郷平野。温泉で知られた地であるが、実は中世史研究上に於いても著名な場所であった。それは、「伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図」という、750年前の荘園図にこの地が描かれている為である。

図名にある「下地中分(したじちゅうぶん)」とは、当時の領家(領主)と地頭が、土地を折半して権利争いの決着を図った方法。つまり、この図にはその折半の様子が描かれており、当時広く行われた下地中分の実態が窺える貴重史料となっているのである。またその他にも、当地に於ける当時の自然状況や交通路、地名等に関する貴重な情報を伝えてくれている。当時の東郷池が今より広かったことが知れるのもその一例である。


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山陰の要衝「八橋」探索

東郷から更に西進して今日の宿泊地である八橋(やばせ)に到着した。時は、ちょうど正午。八橋はI氏御母堂実家の所在地で、宮内から移転以来の居住という。今は常住者されていないその実家には、進家からわざわざ御母堂が来られて昼食を馳走して頂いた。そして午後からは、八橋の町を探索することとなったのである。

先ずは最寄の「琴浦町生涯学習センター」付属資料館にて八橋古図を閲覧することとなった。I氏が事前連絡していた為、休館中であったがスムーズかつ丁重に対応頂いた。写真は、展示中であったその古図をわざわざ展開して見易くして頂いたところ。この図は天保15(弘化元。1844)年に鳥取藩が製作した「八橋郡菊里村岩本村田畠村地続全図」と呼ばれるもので、江戸後期の城下町八橋とその周辺の様子を知ることの出来る貴重な史料。特に指定して用意頂いた訳ではないが、八橋探索の始めに相応しい遭遇となった。


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さて、古図を脳裏に焼き、いよいよ八橋の街歩きを始めんとした時、早速気になるものが現れた。それが、写真に見える人面瓦である。この様な、陽に白光る素焼の顔がほぼ全ての甍に付いている。家屋は疎か、納屋や便所に至るまでである。しかも、その位置は棟端だけでなく、甍の全端面に及ぶ。

大黒天(大国主命)とみられるそれは、鬼瓦の一種かと思われるが、初めて見たその変りぶりには少々驚かされた。否、驚いたというより、屋根中・街中が「福笑い」に包まれる様に微笑ましささえ感じたのである。この「笑い瓦」。東伯耆の八橋は疎か、翌日訪れた西伯耆地方にも広く見られた。調べてみると、更に美作(岡山北部)や播磨(兵庫西部)にも類似品が存在するらしい。I氏もその由来を知らなかったが、中国地方に於ける出雲大社(大国主命)信仰と関係するものなのであろうか。


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街の中心、八橋駅前にある八橋城址。後方を山陰線に削られ今は小さな丘一つとなってしまったが、かつては多くの郭や濠も備えた大山裾野台地突端を利用した城塞であった。裾野と海浜に挟まれた山陰道を押える要衝で、古より各勢力による争奪戦が行われた。初代城主である「行松氏」は、進氏本拠に本貫が近く、その関連が窺われる一族でもある。


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八橋城址小丘下にある古垣。野面(のづら)積みに近い施工状況から、かなりの古式である可能性がある。戦国末の毛利改変期から江戸初期頃か。石垣下を巡るコンクリの通路は、濠の埋め跡とみられる。未だ地下水が豊富なのか、近くにて電動ポンプによる水の汲み上げもみられた。


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城址の改変ぶりに比して、古図の姿を濃厚に留めているのが街道沿いの町家域である。写真の浜側裏道も正に好例の一つで、道幅や路地位置は疎か、各戸の敷地形状もほぼ古図のままであった。

ところで、古い建屋の造りで気になったのは板壁の多用である。京町家等とは異なり、正面にまでそれが施されている。潮風への対策であろうか。その板面の様子と、そこはかとなく漂う香から、松材が使用されているように感じた。あくまでも推測だが、湿気への耐性を考えると、強ち外れていないような気がする。


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町家域中心を貫く旧山陰街道に残る「遠見遮断」。遠見遮断とは、街路をわざと屈曲させて見通しを遮ったもの。これも、古図の頃から変わらず残存していた。遠見遮断は一種の軍事設備で、敵の進軍を阻害し、迎撃を易くする狙いがあった。よく知られる「枡形」は、これを連続で設けて凹型にしたもの。これらは、古くから各地に見られるが、主要街道のものは江戸初期に幕府の意を受けて成されたものが多いようである。

因みに、鳥取に本城がある鳥取藩が「一国(藩)一城令」に反して八橋にも城を保持したのは、藩主池田氏が代々徳川と姻戚関係にあった為。つまり幕府の身内、親藩格として特例を認められていたのである。それを知ると、近世に於ける八橋城とこの遠見遮断の性質が明確になる。即ち、有事の際にはこれらは鳥取藩のみならず、幕軍の施設とも化す性質を有すものだったのである。その際の仮想敵は、西方に力を保持していた、毛利等の西国外様大名であることは言うまでもない。


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町家域、街道沿いにあった古い病院跡。窓の造り等からすると、昭和初期頃の築か。その職掌を暗示するような赤い壁色と、逆に白抜きを成す側塔部の十字装飾が面白い。

右側の建屋玄関に面して奥に続くのが旧山陰街道。上掲の遠見遮断とは逆方向の西向きを撮影した。病院側面に見えるアスファルトは城へと通じる道。つまり、ここは街道から城へ入る口に当り、古図に「追手(大手)」と記された表玄関であった。病院等の、周辺家屋の様子からは判じ難いが、やはりここも道の付き方等に古図との違いはみられない。敷地も同様なので、ひょっとすると病院も当時の大型商家等を改造して成している可能性がある。


伯耆行初日終了

意外にも、古の痕跡と数多く遭遇出来た八橋探索は、斜陽の訪れと共に終了した。今日はこのままI氏御母堂の実家泊となる。街道沿いの豪壮な造酒屋にて地酒を買い、食材を仕入れて夜宴となった。I氏がさばく近海魚の刺身や、御母堂差入れの蟹が旨い。今日や、明日の様々を語る話も尽きず、初めての伯耆夜は更けていった。明日は、いよいよ長者伝承の調査である。随分遅くなってしまったが、それに備えて漸く就寝したのであった。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2007年05月11日

中世探索「伊庭荘」

逍遥雑記「伊庭探索」

ここの処、滋賀の話題が続くが、この日訪れたのは江東中部にある「伊庭」という集落。JRの駅でいう、「能登川」近傍といえば解かり易いのではなかろうか。近代以前は能登川を含む一帯を示す地名であったが、今はその本郷集落のみの呼称となっている。写真中央に見える、田圃と内湖の間(はざま)に浮かぶ家並がそれである。

ここを訪れたのは他でもない、古代末から中世末期(戦国中期)まで、この地に拠った、「伊庭氏」の痕跡を探索する為であった。実は、最近仕事関係で偶然、この氏の本宗後裔たるご一家と知り合った。また、別件でもこの氏に関する土地等への不思議な縁が続いた為、当主氏共々、急遽訪ねることとなったのである。


逍遥雑記「伊庭探索」

伊庭集落突端(西端)にある「金毘羅宮」。金毘羅はいうまでもなく、恒河(ガンジス)の鰐、即ち水神を祀る宮居である。集落を貫く道は、現在鳥居を左に逸れて更に先の内湖(琵琶湖)まで通じているが、以前はここで行止りだったと思われる。恐らく、岬のようにこの社を湖水が囲っていたのであろう。地の果ての、灯台の如き宮居―。色々な意味でシンボリックな場所である。


逍遥雑記「伊庭探索」

金毘羅境内を二分する水路跡と石橋。即ち、突端である社側が島状になっている。往時、内湖や湿地は現在に比して格段に広かったという。伊庭集落も湿地に浮かぶ要害であった可能性がある。


逍遥雑記「伊庭探索」

集落内も、やはり川や水路が縦横に走る「水郷」の趣が強い。古い護岸には階(きざはし)や、接岸用の低段が見られるので、以前は集落内にも舟が進入していたのかもしれない。


逍遥雑記「伊庭探索」

家並を逸れると、忽ち広大な田圃が現れる。眼前に植わっているのは、先月の「鯰会」に同じく麦であった。家屋の背後に見えるのが伊庭山。そしてその峰続きで、右方に聳えるのが、伊庭氏の主家である六角佐々木氏の居城、観音寺城址がある繖山(きぬがさやま)である。

繖山の右に更に低い稜線が続き画(え)は切れるが、その先に、かの安土山がある。言わずと知れた織田信長の居城、安土城址である。伊庭の南方縁に当るこの安土城。実は最初に城塞を築いたのは伊庭氏であったとの説がある。

ともあれ、伊庭は江東の、そして天下の要衝を擁しているのである。


逍遥雑記「伊庭探索」

集落中心にある、妙楽寺境内。本坊より見た参道と寺門であるが、それらが、奥に立つ伊庭山に向かって一線を成しているのも、またシンボリックな現象である。

山を意識して宮殿や崇拝施設を設けるのは、東アジアに多い都市設計手法である。以前行った、タイ中部の崇佛王都スコータイや、東北チベットはラブラン大寺等がその典型であった。そういえば、伊庭山は頂に繖峰三(さんぽうざん)社があり、有名な神輿の坂下し祭が行われる聖地であった。


逍遥雑記「伊庭探索」

妙楽寺境内にあった佛堂(別寺名を持つ塔頭か)。せいぜい江戸中期頃の築とみられる建造物群の中で、一際古さを感じさせたのが、この佛堂である。力強い梁組みは、中世の様式を十分感じさせるが、如何であろうか。


逍遥雑記「伊庭探索」

意外にも、路地裏ではなく、表車道沿いに中世式を有す建屋を発見。大濱神社の「仁王堂」で、正に鎌倉初期の建造という。まだまだ、凄い代物が知らずに存在しているものである。伊庭氏とその歩みを共にしたことが確実な、希少の存在である。


逍遥雑記「伊庭探索」

仁王堂の軒下。厚い茅葺と、繊細なその端面処理が威厳と浄潔を醸し出す。屋根下の処理は、丁寧な縄留めが採用されている。日曝し・雨曝しの為か、柱には交換の証ともいえる、形状・様式違いが多く見られた。


逍遥雑記「伊庭探索」

妙楽寺近くにあった、伊庭城伝承地。伊庭宗家の居館跡という。集落全体を要害と考えると、ここが「本丸」に相当するが、往時を知る確たるものは何もない。主家の次位たる「守護代」をも拝した伊庭宗家は大きな力を有したが、やがて主家に疎まれ、この地と、歴史の表舞台を追われることとなった。そして、その主家自身も、やがて信長という新世の寵児に国を追われるのである。往時を何も有さないここは、そんな世の無常を静かに諭すようである。

近年の研究では、連歌の大成者で、東山文化の一流文人「宗祇」が、この伊庭氏の生れであることが有力になったという。右手に見える石碑はそれを記念して建てられたもの。


逍遥雑記「伊庭探索」

帰り際、安土山向こうにある「沙々貴宮」に寄った。沙々貴宮は近江源氏佐々木氏の氏神である。佐々木氏の古い分流を称す、伊庭氏縁の場所でもある。


逍遥雑記「伊庭探索」

沙々貴宮回廊軒の灯篭に見える佐々木氏の紋「四ツ目結」。本来は四角が菱形に転んだ「隅立」(すみたて)が嫡流の紋であり、伊庭氏もそれを用いている。氏神のここが隅立ではないのは、江戸期に社殿を整備した、傍流大名京極家の紋を採用したからであるという。


さて、今回の探索であるが、遺跡図や古図類の用意を怠った為、効率が上らず、あまり成果を感じることが出来なかった。願わくば、準備抜かりなくして再び調査を試みたい所存である。

しかし、道中出会った人々の親切は印象深いものがあった。仕事の手を止めて丁重に道案内をしてくれた人や、わざわざ学校に電話して城址の場所を訪ねてくれた人、そして美味なる茶や菓子で持て成してくれた安楽寺の住職等である。最後になったが、これら土地人に深い謝意を表したい。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2007年03月02日

伝承調査行「血洗町」

御陵血洗町の住居表示,京都市山科区,血洗町伝承・由来・歴史調査

先月下旬、知己の記者I氏より、かつて住んでいた京都東郊山科に伝わる「伝承」についての相談を受けた。何か良さげな話を存知なら教えて欲しいとのことである。

何でも、氏が所属する日刊紙上で、市内各所の伝承に関するコラムが連載されており、その担当回が巡ってきたらしい。

知っての通り、歴史の舞台京都では伝承の類に事欠かない。しかし、そんな全国区で誰もが知っているような話では取り組む意味がないと、仕事熱心な氏は言う。そこで着目されたのが、市内ではありながら、古の京域から外れたユニークな地、山科であった。だが、元より他郷出身の氏に、そんな山科の深部たる伝承を俄に知り得る筈もない。その困惑にあたっての、私への相談であった。

そこで、私が呈したのが5つ程の伝承であった。1つは「御陵血洗町」の由来伝承。2つ目が『今昔物語』の怪異現場を伝える「業平谷」伝承。3つ目は音羽川(山科川)上流に巣くった大蛇伝承。4つ目は山科東北に食い込む県境(旧国界)の由来伝承。そして5つ目が戦中音羽山に計画されていたという要塞伝承である(この他、英国ロック歌手デヴィッド・ボウイの隠れ家伝承もあったが、「都市伝説」であるとして却下された)。

その中で、氏が最も興味を持ち、調査を決められたのが、1つ目の「血洗町」伝承であった。しかし、普段殆ど取材に出向かない山科は、氏にとって不案内の地。そこで、案内役を兼ね、私も取材同行することとなった。

実施は3月1日午後と2日午前の2日間。それに先立ち、氏は単独で地元郷土研究会関係者2人程との接触を果たしていた。だが、詳しい人は既に亡くなられており、有益な情報は得られなかったという。

取材初日

さて、用意した古図や文献史資料を手に初日の取材を開始した。「あがる」との予報を裏切る生憎の雨であったが、傘下2人して山科西北は当該地、「御陵」地区に入った。

「血洗町」由来伝承で私が知るのは、義経が蹴上で武士団を無礼討ち後、ここで太刀を洗った話と、山手にあった刑場との関連話の2つである。その内、町内に関連遺物が現存するのは前者。故に、先ずはその遺物、「義経の腰掛石」を見学することにした。「腰掛石」は太刀を洗った義経が憩ったと伝えられる石で、関係書籍等にも度々登場する有名なものである。

しかし、これまで薬科大の西グラウンド隅にあるということのみ聞いていて、実は何処にあるのかよくわからなかった。グラウンド管理人氏に尋ねて漸く辿り着いたのが、テニスコート隅に密やかに座る黄土の佳石であった。

なるほど、座るに手頃な様である。しかも一見して由緒有りげな品格も備えている。しかし、これまで何度か写真で見ているため、実のところあまり感慨は起こらなかった。それより驚いたのが、その後方塀裏に「血洗池」が現存していたことであった。住宅と大学用地に囲まれた僅か数メートル四方のものであったが、確かに砂底に清水を湛える天然水源が存在した。

石と水場はセットで現存していたのである。小時、一帯の隅々を駆け巡って親しんだ身には只々意外であった。用地内からしか見られないとはいえ、まだまだ近場にも未知の場所があるものである。

伝承縁の遺跡2つが見つかったのは良かったが、今度はこれと絡めて伝承を語る地元の「語部(かたりべ)」を探さなくてはならない。そこで、腰掛石の管理元である薬科大の施設課を訪ねた。

しかし、古いことを知る関係者は既に去り、よくわからないという。故に、2人して付近の旧家へ飛び込み取材をすることにした。

旧道沿いの旧家や土着姓家を当ったが、旧事を知る人物には出会わなかった。しかし、諦め半分で最後に行った竹材店で、詳しい人物を紹介してもらえることとなった。やはり付近も代替りが進み、その人物以外に旧事を知る人は殆どいなくなったらしい。

だが、近くに住むその人物S氏が不在であったため、改めて明日出直すこととした。

取材2日目

翌朝、現地で待ち合わせて向かったのは、血洗町内のS氏宅であった。昨晩I氏が電話連絡にて取材の段取りを付けていたのである。S氏は土地の出身ではないが、若年よりそこに住まわれ、聞取りや実地調査によって同町の旧事を研究されていた人である。そのS氏宅にお邪魔し、早速「血洗町」即ち「血洗池」の話を訊ねた。

氏によると、地元で採取したそれに関わる伝承は全部で4つあるという。1つが刑場の刑刀洗いの話。2つ目が源義仲と巴が都落ちの際、太刀を洗った話。3つ目が義経が蹴上で武者を無礼討ちの後、太刀を洗った話。そして4つ目が武者ではなく、現地にて盗賊を討った義経が太刀を洗った話である。

4説中、2の義仲・巴説は、長く同区に住んだ私も聞いたことがない珍しい説であった。恐らく、新旧の文献にも記載のない話かと思われる。氏によると、典拠は不明だが確かに地元に伝わる話であるという。因みに、最も著名な3の義経武者討ちの説も、江戸期以降の文献までしか遡れない話である。

伝承については、それ以上は全くわからない、とのことであったが、遺跡に関しては更に興味深い話が聞けた。薬科大では腰掛石は当初グラウンドの門辺りにあったと聞いたが、実は昔からあの場所にあったという。グラウンド工事の際、一時的に門付近に移動したが元に戻されたらしい。

また、血洗池は今と異なり以前はかなりの規模を有していたという。このことは古い世代への聞取りからも確かであり、S氏自身も湿地の名残である噴水を随所で目撃していたらしい。それらが埋められ一帯が宅地化される以前の話である。何しろ元は安祥寺川本流も流れ込んだ北山科で最も低湿な地である。十分有り得る話であろう。

あと興味深いのが、古代東海道(平安末頃)が町内を通過していたことである。これは私自身による古図の検討によって明らかになったが、ちょうどその時代に、奥州への途上であった義経や、大津への撤退中であった義仲らと同町の結びつきを強める材料となろう。現存の近世東海道は町外北方を通っているので、辻褄が合い難いのである。

因みに、割り出した古代東海道のルートは、大正初年頃までグラウンド北辺を横切っていた安祥寺川の南(つまりグラウンド只中)である。腰掛石はグラウンド南辺にある。

取材終了

他に街道や刑場等にまつわる様々な地域史話を聞き、S氏宅をあとにした。帰りに、もう一度石と池に寄って撮影し、S氏に教えてもらった他の旧跡を巡りつつ、九条山を歩き越えて戻った。

のち、I氏の記事は無事に成り、血洗町をめぐるS氏の諸説が紹介された。これまで殆ど外に知られていなかった義仲・巴説が活字化されたのは、ちょっとした快挙ではなかろうか。

しかし、刑場関係説は全く伏せられた。何でも、地域に対する「負の情報」を記載するのは新聞的に好ましくないらしい。町と刑場址はかなりの距離があり、子供心にもその説の荒唐無稽ぶりを感じていたが、地理に疎い他所人は必ずしもそうとらないことも事実であろう。


伝承の真偽を究明出来た訳ではないが、一町名にまつわる様々な地元語りを知り得た興味深い調査行であった。たかが郊外の住宅地。しかし、そこに湛えられた営みの積水は、予想外に深いものであった。


京都薬科大学の西グランドの門,血洗池と腰掛け石の所在地,血洗町伝承・由来・歴史調査

薬科大、西グラウンドの門。門を入って真っ直ぐのところ(防球ネットの向こう)に「腰掛石」がある。大学用地なので、見学には大学本部の許可が必要である。


義経腰掛石,京都薬科大学西グランド,血洗町伝承・由来・歴史調査

グラウンド(テニスコート)隅で密やかにそぼ濡れる「腰掛石」。後背のブロック塀裏に「血洗池」がある。傍らに立つ解説は、「義経盗賊討ち説」を記載。


血洗池,京都薬科大学西グランド,血洗町伝承・由来・歴史調査

大学用地や宅地境界のコンクリに囲まれ僅かに残る「血洗池」。実に痛々しい有様であるが、白砂底を透く水はあくまでも清澄である。誰かが放したのか、大小の魚影すら見える。この状況にあって、この様に生気を保つ泉は実に珍しい。やはり古来より続く水場に違いなかろう。


腰掛石のアップ,京都薬科大学西グランド,血洗町伝承・由来・歴史調査

ところで、この「腰掛石」、中々立派なものである。よくこれまで庭石用等に持ち去られなかったと感心する次第である。グラウンドが整備される昭和30年代までは一帯藪地であった為、それが容易であったろうと思われるからだ。

見た限り、石種は珪質堆積岩の「チャート」と思われる。チャートは深海由来の硬い古岩石で、京都近郊では地層の古い丹波山地等がその産地として知られる。大文字山系である山科北部山域にも見られるが、これほど立派なものは稀であろう。元より砂礫多い扇状地末端のここには在り得ないものである。どこか遠方より運ばれてきたのであろうか。そのことにも、また「伝承」が潜んでいるのかもしれない。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 17:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 調査・研究