今日は少々遠出してまたの雪山景に「懲りずに冬山行か」と思ったり、また詳しい人なら「おっ、伊吹山に行ったか」との感嘆が出そうな表紙画だが、今回は平地行。
場所はその伊吹山麓の関ヶ原。古来著名な合戦地だが、今回は戦国古跡探査ではなく、地名の元となった古代の関門施設「不破関(ふわぜき)」跡の探索であった。
古代著名の「三関(さんげん)」のうち、その土塁遺構が地表に残り、また唯一施設跡が発見されている貴重な場所である。以前から気になっており探訪を望んでいたが、今日機会を得て訪れることとなった。
平地を探索する「
平会(ひらかい)」の対象地としても魅力的な場所であったが、京都からは些か遠い岐阜県にあるため、今日は友人のみとゆく私的探訪とした。
まあ、これを試行とし、また機会や要望があれば会としての開催も考えたい。
上掲写真 上述通り、関ヶ原・藤古川(ふじこがわ)河畔から見た雪を戴く伊吹山(標高1377 m)。古の近江・美濃(現滋賀・岐阜)を画する秀峰で、現東海道各鉄路や名神高速から見るその姿は、かの富士山と並ぶほど強い印象を与える山である。北方に開る(はだかる)この山と南方の鈴鹿・養老山地に挟まれた狭隘地が古来交通の要衝を成し、重要関門「不破関」とその遺存地名「関ヶ原」を生じさせた。
関ヶ原古代関門址探査さて、そういう訳で今日は比較的朝早くに関ヶ原を訪れた。遠いとはいえ、家を出て2時間半はかからない場所であった。
写真は、こじんまりとした関ヶ原駅舎。鉄道を乗り継いできたので利用したが、古い形式の跨線橋が地方的雰囲気を醸して旅情を刺激する。
苦笑すべきは、そこら中に徳川や石田等の家紋が記されていること。それは自販機にまで描かれていた。まあ、戦国観光の著名地なので致し方あるまいか……。
ここのところ微妙に忙しく、
昨日も急遽山に行ったため不足の資料を補完すべく、駅前の案内所で関連地図等を入手してから、目的の不破関遺址へと向かった。
参照用、国土地理院1/25000地形図関ヶ原中心部分。中央の鉄路がJR東海道本線でその右端に関ヶ原駅、下部の鉄路は東海道新幹線である。国道21号線は右端から中央付近までが旧「中山道」即ち古代東山道(どうざんどう)を踏襲し、同365号線の上半分が旧「北国脇往還」即ち古代の北陸間道、下半分が伊勢街道の近似ルートとなっている

関ヶ原駅前を南に下り、国道21号線を西へ進む。交通量が多い国道ながら道の両側には古く立派な町家が多く、古の中山道の賑わいを偲ばせた。
写真は、北に逸れた国道に取り残されたように続く旧中山道。家並みは変哲なき郊外風だが、道幅は1車線となり、前近代を彷彿させる姿となった。
過去の発掘調査により、この辺りに不破関の外郭東端が検出され、道上にその東門「東城門(ひがしきもん)」やそれに関連した望楼の如き跡も見つかったという。
今日は朝から温暖であったが、見ての通り路肩等に少なからぬ残雪が見られた。週末までの寒波による積雪のの残りか。前掲の、神々しいばかりの雪山景を晒す伊吹山の姿も、その影響かもしれない。
不破関中心施設跡長閑な風情と化した旧中山道を更に西進し、やがて路傍に不破関庁舎跡の案内板が現れた。しかし、それが指す方向は写真の如く民家となっており、進むべき道もなかった。
ただ、侵入を禁ずる札もなく、地域や地権者との合意が成されているような雰囲気から、静かに奥の納屋と母屋間の通路を進ませてもらった。

そして通路の奥には想像通り開けた場所があり、その中程に壬申の乱の際、大海人皇子、即ち乱の勝者・天武天皇が兜(かぶと)を掛け置いたとされる「兜掛石(写真中央)」や沓(くつ)を脱ぎ足を置いたとされる「沓脱石」があった。
これらの伝承の真偽はともかく、この辺りに不破関の中心建屋群があったことが判明している。発掘調査によると、それは瓦葺きの築地塀(ついじべい。土塀)に囲まれた1町(109m)四方の広さがあったという。つまり、外郭の土塁に対して内郭的役割を有する堅固な施設を有していた。
大木戸の不破関資料館不破関中心施設跡からまた中山道を西に進むと、間もなく急な下り坂が現れた。写真左の道がそれで、右側は巻きながら北へ続く後代の道である。
ここは旧不破関が展開していた松尾台地が藤古川に接する段丘崖に当り、故関の西部外郭があり、道上には「西城門(にしきもん)」があったという。つまり、要害地形を用いた都側の防御線並びに出入口部分であった。
道幅や傾斜角は改変されているかもしれないが、1300年前の交通痕跡が現代まで継承されている貴重な場所といえる。因みに、この場所には、城門との関連を想わせる「大木戸」という地名が今も残存している。

西城門跡の左(南)には句碑や歌碑が立つ庭園があった。関廃止後の中世頃に置かれた関守の屋敷跡とされるが、古来多くの文学作品に記された不破関を偲んで近世以降碑を立てることが流行した名残りのようである。かの松尾芭蕉がここで詠んだ句の碑もあった

西城門の右(北)の広場奥には不破関資料館があった。小規模ながら専門の資料館なので当然見学する予定であった

不破関資料館に展示される古代不破関の復原模型(ジオラマ)。南から見た姿で、藤古川(左)の段丘上に東山道を塞ぐ形で構築された関の全容が良く解る。中央は築地で囲まれた中心施設、外郭土塁は下部が切れているが、北・東・南の三方をコの字形に囲い、西の崖上は木柵で封鎖していたと推定されている。その他幾つもの望楼や兵舎を備えた堅固かつ大規模な施設で、北が460m、東が432m、南が112mの大きさがあったという

左:不破関復原模型の内郭部分。律令体制下の地方政庁である国府や郡衙に準じる体裁を備えた確固たる施設であったと推定されいている
右:不破関復原模型の「東城門」及び東外郭の築地土塁や望楼施設部分
不破関とは不破関は古代最大の内乱とされる壬申の乱(672年)後、政権を掌握した天武天皇の意により設置されたとみられる。それは、天武帝自身が行った、東国に逃れ、兵を集めて中央に敵対するような行動を防ぐためとされる。
その確実な設置年は不詳だが(672年や673年説は後代史料に依拠)、恐らく大宝律令により最重要関門「三関」の一つとして規定されたとみられる。それは、当時の交通上、美濃の不破と伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)の三関を閉ざすと畿内と東国の往来が遮断できる為であった。
藤原仲麻呂(恵美押勝)が失脚逃亡後、愛発を突破できず敗死したのは著名である。但し外郭土塁の基底部から地鎮用とみられる和同開珎が発見されたことから、不破関外郭部の構築は710年代に行われたとみられている。
以降、天皇の崩御や天下不穏の際に有事に備え交通を遮断する「固関(こげん)」が行われたが、延暦8(789)年に三関共々突如廃止される。
その原因は反乱の可能性低下や新京造営等の経費増に対する費用削減ともされる。ただ、主要殿舎や備品は撤去されたが「故関」として固関が続けられたことから、一定の要害性は保持されていたとみられる。そして中世には関銭を徴収する関守が置かれたが軍事防塞としての復活はなかった。
ただ、短期間とはいえ強力堅固な通行制御を行った不破関の印象は後々まで人々の意識に残り、地名や文学作品の中に生き続けることとなった。その後関の正確な位置は解らなくなったが、昭和49(1974)年から5次に渡って行われた発掘調査により、その主要部の概要が明かされたのである。
それは我が国の古代関門では初めてのことであり、地表に当時の土塁が残存することが判明したことも初めてであった。近年鈴鹿でも当時の築地塀跡が判明し国史跡に指定されたが、中心遺構まで判明しているのは不破関のみであり、世界的にも貴重な軍事・交通遺構といえる。

不破関資料館の裏手からみた西方は藤古川方面。中央左に橋で川を渡る旧中山道即ち東山道跡が見える。川との高低差は約20mあり、この高さを利用して関が設置されたことが良く解る
西関外での古代官道探査資料館見学後、大木戸の坂を下り、関外は藤古川方面を探る。橋の対岸には、写真の如く近世の中山道をそのまま踏襲したらしき細道が続くが、古代の官道はもう少し広く、しかも極力直線で施工された筈。
関との関係から確実に古代路の通過地と判るため、暫しその痕跡を探す。
規格や類例の知識があれば比較的簡単に痕跡を発見出来るかと思ったが、これが難しい。付近は丘陵地帯となっており、土地利用が限られるにもかかわらず、近世以前の改変跡が見えないのである。
数百m西行し、壬申の乱での激戦伝承がある山中集落や黒血川辺りまで探るも、状況は変わらず。今は迂回路にその座を譲ったが、元は幹線路のため戦前から近代改修を受け続けた所為か……。それとも、既に古代から細く非直線の道だったのか。
視野を拡げて地形図を確かめると、山中集落と不破関の間にある藤下集落の尾根地形が幅広い鞍部になっていることに気づく。古代は今より高い地面に道があり、その後中山道等の改修で掘り落とされた可能性が窺えたのである。
先行調査・研究により、古代官道は傾斜回避より直線性を重んじた向きがあるので、この考えには可能性があり、現況との相違も説明できる。
なお「矢じりの池」という壬申の乱関連の古井戸が藤下鞍部上の切通路と乗越路の両中山道に挟まれた妙な位置にあることにも首を傾げていたが、切通側の上位に嘗て相応の幅を持つ官道があり、それに井戸が接していて、その後掘り崩され井戸のみ宙に浮いた形となった可能性も窺われた。
不破関外郭土塁
現存古代遺構求めて西関外の探索後、また大木戸に戻り、路傍の休憩地にて昼食を摂った。資料館裏手同様の眺めが得られる場所で、暫し古の番兵気分に浸る。
予報通り気温も上がり、折からの快晴と相俟って2月とは思えない探索日和となっていた。
そのような好条件下、食後も探索を続ける。今度は外郭部の探査である。関址に広がる松尾集落の細道を南下して達したのが、写真の南限土塁跡。
段丘面が南(左)に下がり始める肩部分に辺り、そこに南外郭の土塁が構築されていたという。駒札の左に畝状の高まりが見えるが、この区間は地表に残存しない筈なので、右側の溝の影響かと思われた。
そもそも土塁は基底部の幅が5、6mもあるらしいので、やはり地表部は殆ど削平を受けていると思われる。ただ、発掘によりその存在と位置は特定されているようである。

駒札の対面(東)はこの様な感じ。茶畑とそれが傾斜する様が見えるが、即ちその際に土塁があったとみられる。今は奥まですっかり削平されているが、凡その地形は古代から変わっていないことが判る。
その後、南(右)の関外に下り、土塁の角(外郭東南角。写真中央奥の家屋付近)に回り込んだが、後代のものとみられる瓦礫盛土があるのみで、見るべきものはなかった。
まあ、そりゃ、そうだろう。
1300年も前に造られ、1200年以上前に放棄された施設である。こんな雪や雨が多い気候で、しかも交通要所としてその後も一貫して利用され続けてきた土地である。地表に何か残るだけで奇跡みたいなものであろう。
なお、付近からは関内施設と思われる鍛冶工房跡が検出されており、それを紹介した駒札があった。

外郭東南角跡に接する小道を北上する。ちょうど東外郭の土塁跡に沿う形だが、何の痕跡も無し。
因みに、外郭東南部の駒札によると、この辺りは中世以前の伊勢街道ではないかとみられているとのこと。多くの発掘品でもそれが裏付けられているようである。近世の伊勢道を継承した現伊勢街道はもっと東の関ヶ原駅付近にあるため、これも古代の交通を考える上で興味深い情報であった。
さて、東外郭跡に沿う道を北上し、朝通った東門跡も過ぎて現代の中山道である国道21号線やJR東海道線を越え、ほぼ田畑のみの郊外に達した。
そこに南接する墓地があり、その背後に線状の高まりが現れた。日陰のため未だ雪残る写真の場所がそれであるが、正しく現存の北外郭土塁であった。前掲の地形図では「不破の関跡」上部の鉄路上の墓標印付近である。

不破関北限土塁遺構断面部。残高は然程無いが、基底部の幅は報告通り、かなりの規模があった

不破関北限土塁遺構断面部から西進し土塁上から東を返り見る。なかなかの壮観である。よくぞ遥かな歳月を耐え今に残ってくれたものである。
北外郭遺構は道で切られた場所があるものの、東北角を含めてほぼ全線で残高を有しているという。折角なので北東角や藤古川と接する西端の崖際を見たかったが、案内が悪く、また川への道も無かったので断念した。
日本は疎か、東アジア史的にも貴重な場所なので、是非更なる整備を求むところである。
あと、私有地の為か、土塁上に植林がされていたが、風倒木となって根こそぎ遺構を破壊する等の恐れがあるので、もう止めてもらいたいと思う。
このように貴重な北外郭遺構から判明することは、土塁の基底部が5、6mあり、残高が約2mで版築で造られていること。また添柱用とみられる施工があることから、更にその上に築地塀があった可能性が指摘されている。
正に、城壁的堅固さ・規模である。そうなると外壕(堀)の存在が気になるが、今のところ報告されていない。
土塁や築地に使う膨大な土を用意するには傍の地面を掘削して調達する方が効率が良く、またその穴を外壕に利用するのが合理的である。
実際時代は違うが戦国期の防塁等はその手法が取られていることが多い(例えば豊臣秀吉の
京都総構「御土居堀」等)。もしそれをしないと遠くから土を運んだり穴を埋める手間が生じるので、少々考え難いのである。

雪を戴く伊吹山に向かい続く旧北国脇往還道と僅か16年で廃された明治中期敷設の旧東海道線跡を辿る新国道(365号線。右上部)。玉地区にて。関ヶ原北西の小関・玉地区の重要性はその交通変遷をみても明らかである
謎の副関「小関」探査不破関外郭跡の探索を終えた後は関を離れ広大な田圃を北へ向かう。この平原はかの関ヶ原の戦いの開戦地であり、主戦場とされる場所であった。
方々に関連武将らの陣跡等を示す道標が現れたが、我々が目指したのは関の北にあったとされる「小関」跡。
小関は美濃から近江湖北や越前北陸に抜ける間道(古代名称不詳、近世名「北国脇往還」)を押さえるための施設で、「大関」の地名が残る松尾の施設と共に不破関の機能を補完した施設であったとされる。
少なくともこの2関を以てこの地の交通制御を完了できるため、極めて重要な施設であったに違いない。事実、壬申の乱でも近江朝軍がこのルートから奇襲を図ったことが伝えられている。ただこうした「副関」の存在は鈴鹿や逢坂等の他所でも確認できるが、詳細な実態や役割は判っていない。
それどころか、正確な場所や遺構すら発見されていないのであった。手掛りは、集落名に残る「小関」地名のみ。それは、大木戸北方、約2kmの場所にあった。
農家風の家屋が集まる中を旧脇往還が曲がり抜ける小関集落に至るも、痕跡はなし。高低差にも乏しいため手掛りを得ることは出来なかった。ただ、集落西を流れる梨木川が、ある程度の深さある渓谷を成していたことは注目された。
前掲地形図でいうと、「小関」の文字の左横を流れる川である。この川は北と南の山の間にある小関の平野と往還道を東西に区切っている。この状況は大関・東山道と藤古川の関係に似ており、防塞を設置するには都合が良い場所かと思われた。
そうなると、川と往還道の交点東(右)辺りに施設があった可能性が考えられるが、残念ながら明治期の鉄路や現代のバイパス道路また伊吹山ドライブウェイにより大改変を受けており、破壊が案じられる状況にあった。
比較的南側が無傷のようにも思われたが、今後の調査・研究の進展を待つほかない。ただ、こうした視点から保護の網をかけておかないと破壊の危険があるのは言うまでもない。行政の英断に期待するばかりである。
前近代から市街化が進んだ逢坂や鈴鹿と異なり、ここで遺構が出ると古代そのままの貴重な例となる可能性が高い。その為にも先行した施策が必要だと思う。
なお、国史では平安初期の律令解説書『令義解(りょうのぎげ)』の記述を基に、小関のことを防塁のみで「検判」機能がない「サン(戔+りっとう。セン・セキとも)」とする解釈が一般的である。小関で留めた通行者の関契(割符・手形)を大関で確認したのであろうか。
ただ、同書が「検判の処」という「関」の字を使う以上、大関同様の機能があった可能も否定しきれない。その場合、違いがあるとすれば、規模の大小や地位の主副だったのかもしれない。
国界の要害集落・玉地区へ小関地区の探査後は、そのまま脇往還道を西に進み、近江との国界手前にある玉(たま)地区へと向かった。関ヶ原北西の要所性や古代北陸間道を踏襲した脇往還の道筋を確認したかったからである。
ただ、前述の通り、小関地区から西は現代の道路施設により大規模に改変され、脇往還も分断・攪乱されていた。仕方なく、古代官道跡の可能性が考えられるような間道的な道を探索しつつ改変区間を遣り過した。
写真は玉地区に入って程もなくして現れた、尾根地形を切通す旧脇往還道(東方向)。これも古代路としては狭いので後代に掘り落されたものか。
明治期に右(北)の山際に通された鉄路は長浜港へ貨客を運ぶために造られたという。長浜からは琵琶湖を汽船で南下し大津の鉄道とまた連絡して京阪神以西へ中継するのである。その後東海道線全通により廃されたが、貨物をいち早く琵琶湖水運に連絡するという需要は古来高かったため、前近代の荷車か、近代以降の馬車・自動車用に改修されたのであろうか。
但し大規模な切通しは古代官道にも数多例があるので注意が必要である。

山腹の街道沿いに続く関ヶ原玉地区の中心ではこのような立派な石垣に支えられた大型家屋が現れた。写真では判り難いが、石組はコンクリを使わない城郭同様の伝統工法で仕上げられたもので、その歴史を感じさせる。また、背後に菩提寺や氏神社を従え下部の家を睥睨するように並ぶ家屋は、地区内での伝統的支配地位の保持を想わせた。なお街道は左下に続く

玉地区を貫く脇往還は近世そのままと思われる細さを保ちながら続き、やがて明らかに故意に屈曲させられた場所を最後に集落を抜けた。
屈曲は所謂「京口遠見遮断(とおみしゃだん)」と思われる。恐らく近世初期に、西国や北陸の外様大名に対する進軍障害として江戸幕府や関係諸藩等が設けさせたとみられるもので、各地に同様が残る。
写真は遠見遮断を過ぎ集落の西果てに現れた古道址。藤古川の河谷際に続く道で、その位置や方向等から脇往還の延長部分とみられた。あと200m程進むと江濃国界に至るが今は新国道に因り廃道と化しているようである。
北陸間道としての、ここの江濃国界は、藤古川の河谷が極限まで狭まる場所にあり、その後、玉地区から徐々に谷幅を広げるが、その底は深く、通過できる場所が限られているという、特徴を実見できた。

関ヶ原玉地区の山際に建つ真宗寺院「円通寺」。結構な距離を歩き少々疲れたので少し境内で休憩させてもらった
玉地区には、このほか同じく真宗寺院の玉照寺や玉神社・神明社といった宗教施設があるが、いずれも集落背後の山際にあり戦時転用を意識した配置を想わせた。
集落を抱くように流れる藤古川と背後の山により玉集落自体が要害となっているが、壬申の乱の際もここが激戦地になったとされ、『日本書紀』に記される「玉倉部邑(たまくらべむら)」の比定地となっている。
小関以東の脇往還と戦国記念館国界の要害集落・玉地区を探査後、また脇往還を戻り小関に至る。脇往還は東行すると関ヶ原駅近くに達するので、帰り道がてらその跡を追った。
写真は小関集落東隣りの小池集落外れにあった推定脇往還道址。車が通れない程やせ細り、通行が憚られる私道的雰囲気を醸していたが、国道まで出られるようなので抜けさせてもらった。
前掲地形図でいうと、小池集落右下にある国道365号線上にある標高140m表記左横の斜めの細道である。

現代の脇往還道、国道365号線を横断すると旧脇往還道が結構な広さで復活し、関ヶ原駅方面へと続いていた。沿道には所々古く大きな家屋があり、在りし日の街道の賑わいを伝えていた
因みに明治24年測図の正式2万分之1地形図によると、この道の左(東)に沿う形で旧東海道線が北上し脇往還と現国道の交点辺りから現国道と同じルートで北西に向かったことが判る。

国道365号線の交点から南東に続く旧脇往還を進むと、やがて左(東)に関ヶ原戦役での徳川家康の最後の陣跡を記念する「陣場野公園」が現れ、その東隣りにこんな変わった形状の施設が現れた
どうやら、昨年開館したばかりの「岐阜関ケ原古戦場記念館」というものらしい。ゲームや漫画の影響もあり今や世界の関ヶ原ともいえる場所だが、これまでその歴史的意義や知名度に適った施設がなかった。因って実に喜ばしい限りなのであるが、その意匠が……。
野戦陣営を模ったと思うのだが、あまりに捻りが足りない気がする。物の陳腐化は経年劣化より意匠から生じることが多い。今は真新しいが、ある程度歳月を経た時にどうなるか少々心配である。まあ中に入るとまた印象が変わるのかもしれないが。今日は時間がないのでまた機会あれば……。
図らずも得た戦国知見ところで今回は戦国史跡には触れぬことにしていたが、否応なく目にしたそれにより図らずも関ヶ原合戦に対する新たな知見を得ることが出来た。
それは、圧倒的に有利な西軍の布陣である。西上してくる東軍に対し、南部は藤古川の段差を防御に、北部は小関集落周辺の高地を押さえ、更に東部・東南の関ヶ原入口を塞ぐ用意がされていたことである。
知っての通り、この戦いは小早川金吾らの寝返りにより東軍が勝利したが、寝返りが不確実な状況で家康を含む全軍が関ヶ原という「袋」に入ったことが驚かされた。先方を務めた福島正則などは、数に劣る手勢で不破関址手前の深部まで進出しており、正に自殺行為といえる。
恐らくは、それをさせるだけの確信や保障があったのではないか。故に、寝返りは開戦当初から実行されたという説や、早くも昼頃には戦闘が終了したとする史料への信頼を高めさせられた。
しかし、早々の裏切りがあったとしても、「袋」の後ろや家康本陣の裏山を大軍で押さえている状況ではまだ不利とはいえない。
そこから考えると、やはり最大の敗因は、それら後方を担った毛利勢の不動にあると思わざるを得ない。今も昔も挟撃が最大の脅威であり、たとえ大軍と雖も、その苦境からは逃れられないからである。
探査終了。強行軍に反省旧脇往還を南下し線路際の東首塚(関ヶ原戦陣没者の首を埋葬したとされる場所。中山道沿いの西首塚は朝参観)等を見学し関ヶ原駅に帰着した。
写真は、帰途の列車車窓からみた伊吹山。滋賀県側からであるが、朝より雪が減じているように思われたが、どうか……。
今日は念願の不破関遺構やその関連地をじっくり巡ることが出来た。都合により下調べが甘くなったことは否めないが、天候も良く、温暖な条件で無事予定を消化することが叶い、良かった。
ただ、遠方の玉集落まで足を延ばし土地への理解を深く出来たが、同行の友人を疲労させたことは申し訳なく思った。ここは力みが出たというか、少々無理をしてしまった。今回の反省すべき点である。
とまれ、今日は色々とご協力有難う、お疲れ様でした……。
機会あれば、また再行して見識を深めたいと思う。