2021年05月09日

霾天検古

朝から黄砂に霞む京都大文字山山麓や山腹の新緑

砂煙る朝

先日5月7日金曜から同8日土曜にかけて大規模広範な黄砂予報が出ていたが、ここ京都市街では、それほどの状況にはならなかった。

実際その影響を感じたのは昨夕日没前後からで、意外にも今朝その飛来を強く感じる状況となった。

頗る空気が乾燥するも、透明感と明るさに欠け、そして、どこか埃っぽい――。気象庁の黄砂情報サイトを参照すると昨日程ではないが、まとまった黄砂の流れに市街が覆われており、それが昼頃まで続くという。

本来は洗濯干しのあと少々出掛ける予定だったが、仕方なく屋外干しは午後からにし、一先ず出かけた。


上掲写真 朝から黄砂に霞む、京都市街東郊の山麓や山腹の新緑。


平成30年台風による倒木で明るくなった大文字山山中の谷地

裏山の新遺物再検

向かったのは、裏山の京都東山。緊急事態宣言の延長やらで遠出等の大層なことが出来ぬこともあり、鍛錬がてら山中の遺構確認に出向いた。

実は先般、山中の新たな場所でまた歴史遺物を数多発見しており、再度の位置確認や撮影を行うつもりでいたのである。

そうい訳で、早速山道に入り、登坂し、高度を上げた。写真は途中通過した、山上の谷地。3年前の台風21号による倒木で明るくなった場所の一つ。少々砂で霞むが、まずまずの晴天も現れた。


如意ヶ嶽山中で見つかった、古い緑釉陶器や白色土器とみられる陶器片
新発見の山中遺物。左の緑釉らしき皿と白っぽい皿(右)を主として、付近に比較的大きな陶器・土器の破片が散乱している。その他には少々造りが凝った大きな土器甕の口縁破片なども確認出来た。状況から、台風倒木の根と共に掘り出され、その後風雨により露出したものとみられる

一応、発見地は山中の広大な遺跡地区の範囲内に在ったが、特に建屋跡等としてマークされる場所ではなかった。指定遺跡に関わる未知の施設のものか。時代的にも、付近の遺構同様、中世以前のものかと思われた。


如意ヶ嶽山中でみつけた、糸切跡と輪高台をもつ古い白色土器らしき皿の破片
前掲右の皿裏面。右回転(和轆轤)の糸切跡(轆轤との密着を糸で外した跡)があり、糸切後に精巧な「輪高台」が付けられた大変丁寧な造りとなっている。内裏周辺で出土する儀礼用の特殊器物「白色土器」であろうか

奇しくも現る謎遺物
重要成果の前触れか


比較的遺物が大きく、量も多いことから、発見直後既に市の文化財保護課に連絡はしていたが、それは、ちょうど昨年度の遺跡調査報告書を会が頂いた返礼メールを記した際にであった。

実は、一昨年会が遺跡指定地外で古代遺物を発見し、その後遺跡認定された遺構が、「重要な成果があったもの」として、その経緯を含む詳細が報告書に記載された。その関係で、保護課担当氏から献本されたのである。

奇しくも、そんなタイミングで発見された謎の稀少遺物。これもまた、未知なる遺構が齎す、重要成果現出の前触れなのであろうか。


如意ヶ嶽山中の新茶葉
東山山中で見つけた新茶葉。遺物発見地と場所は異なるが、こうして無人の奥山に茶樹があること自体、嘗てそこに存在した人跡の確実性が窺える。勿論、近世以降の栽培遺存や近隣産地からの種子飛来の可能性もある


大文字山火床から見た、黄砂の霞みに沈む京都市街北部
帰りに経由した大文字山火床から見た、黄砂の霞みに沈む京都市街北部

遺構再確認は叶ったが

さて、遺物の再確認や撮影後、下山した。時は午後になっていたが、気象庁の黄砂予測は外れ、朝にも増してその濃度が高まっていた。しかも、このあとまさかの雨も……。

無事、発見遺物の再確認は出来たが、残念ながら今日は洗濯日和ではなかったようである。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2021年02月21日

西濃古関行

関ヶ原・藤古川河畔から見た雪を戴く伊吹山

今日は少々遠出して

またの雪山景に「懲りずに冬山行か」と思ったり、また詳しい人なら「おっ、伊吹山に行ったか」との感嘆が出そうな表紙画だが、今回は平地行。

場所はその伊吹山麓の関ヶ原。古来著名な合戦地だが、今回は戦国古跡探査ではなく、地名の元となった古代の関門施設「不破関(ふわぜき)」跡の探索であった。

古代著名の「三関(さんげん)」のうち、その土塁遺構が地表に残り、また唯一施設跡が発見されている貴重な場所である。以前から気になっており探訪を望んでいたが、今日機会を得て訪れることとなった。

平地を探索する「平会(ひらかい)」の対象地としても魅力的な場所であったが、京都からは些か遠い岐阜県にあるため、今日は友人のみとゆく私的探訪とした。

まあ、これを試行とし、また機会や要望があれば会としての開催も考えたい。


上掲写真 上述通り、関ヶ原・藤古川(ふじこがわ)河畔から見た雪を戴く伊吹山(標高1377 m)。古の近江・美濃(現滋賀・岐阜)を画する秀峰で、現東海道各鉄路や名神高速から見るその姿は、かの富士山と並ぶほど強い印象を与える山である。北方に開る(はだかる)この山と南方の鈴鹿・養老山地に挟まれた狭隘地が古来交通の要衝を成し、重要関門「不破関」とその遺存地名「関ヶ原」を生じさせた。


古い形式の跨線橋が地方的雰囲気を醸して旅情を刺激するJR関ヶ原駅の駅舎

関ヶ原古代関門址探査

さて、そういう訳で今日は比較的朝早くに関ヶ原を訪れた。遠いとはいえ、家を出て2時間半はかからない場所であった。

写真は、こじんまりとした関ヶ原駅舎。鉄道を乗り継いできたので利用したが、古い形式の跨線橋が地方的雰囲気を醸して旅情を刺激する。

苦笑すべきは、そこら中に徳川や石田等の家紋が記されていること。それは自販機にまで描かれていた。まあ、戦国観光の著名地なので致し方あるまいか……。

ここのところ微妙に忙しく、昨日も急遽山に行ったため不足の資料を補完すべく、駅前の案内所で関連地図等を入手してから、目的の不破関遺址へと向かった。



参照用、国土地理院1/25000地形図関ヶ原中心部分。中央の鉄路がJR東海道本線でその右端に関ヶ原駅、下部の鉄路は東海道新幹線である。国道21号線は右端から中央付近までが旧「中山道」即ち古代東山道(どうざんどう)を踏襲し、同365号線の上半分が旧「北国脇往還」即ち古代の北陸間道、下半分が伊勢街道の近似ルートとなっている


北に逸れた国道に取り残されたように続く、不破関遺址東の残雪ある旧中山道

関ヶ原駅前を南に下り、国道21号線を西へ進む。交通量が多い国道ながら道の両側には古く立派な町家が多く、古の中山道の賑わいを偲ばせた。

写真は、北に逸れた国道に取り残されたように続く旧中山道。家並みは変哲なき郊外風だが、道幅は1車線となり、前近代を彷彿させる姿となった。

過去の発掘調査により、この辺りに不破関の外郭東端が検出され、道上にその東門「東城門(ひがしきもん)」やそれに関連した望楼の如き跡も見つかったという。

今日は朝から温暖であったが、見ての通り路肩等に少なからぬ残雪が見られた。週末までの寒波による積雪のの残りか。前掲の、神々しいばかりの雪山景を晒す伊吹山の姿も、その影響かもしれない。


旧中山道沿いにある不破関庁舎跡への入口

不破関中心施設跡

長閑な風情と化した旧中山道を更に西進し、やがて路傍に不破関庁舎跡の案内板が現れた。しかし、それが指す方向は写真の如く民家となっており、進むべき道もなかった。

ただ、侵入を禁ずる札もなく、地域や地権者との合意が成されているような雰囲気から、静かに奥の納屋と母屋間の通路を進ませてもらった。


民家奥の開けた場所にある古代不破関の中心建屋跡

そして通路の奥には想像通り開けた場所があり、その中程に壬申の乱の際、大海人皇子、即ち乱の勝者・天武天皇が兜(かぶと)を掛け置いたとされる「兜掛石(写真中央)」や沓(くつ)を脱ぎ足を置いたとされる「沓脱石」があった。

これらの伝承の真偽はともかく、この辺りに不破関の中心建屋群があったことが判明している。発掘調査によると、それは瓦葺きの築地塀(ついじべい。土塀)に囲まれた1町(109m)四方の広さがあったという。つまり、外郭の土塁に対して内郭的役割を有する堅固な施設を有していた。


旧不破関西端部で、その西城門があったとされる旧東山道(中山道)上の要地「大木戸」

大木戸の不破関資料館

不破関中心施設跡からまた中山道を西に進むと、間もなく急な下り坂が現れた。写真左の道がそれで、右側は巻きながら北へ続く後代の道である。

ここは旧不破関が展開していた松尾台地が藤古川に接する段丘崖に当り、故関の西部外郭があり、道上には「西城門(にしきもん)」があったという。つまり、要害地形を用いた都側の防御線並びに出入口部分であった。

道幅や傾斜角は改変されているかもしれないが、1300年前の交通痕跡が現代まで継承されている貴重な場所といえる。因みに、この場所には、城門との関連を想わせる「大木戸」という地名が今も残存している。


不破関関守屋敷跡と句碑や歌碑
西城門跡の左(南)には句碑や歌碑が立つ庭園があった。関廃止後の中世頃に置かれた関守の屋敷跡とされるが、古来多くの文学作品に記された不破関を偲んで近世以降碑を立てることが流行した名残りのようである。かの松尾芭蕉がここで詠んだ句の碑もあった


関ヶ原町立・不破関資料館
西城門の右(北)の広場奥には不破関資料館があった。小規模ながら専門の資料館なので当然見学する予定であった


不破関資料館に展示される古代不破関の復原模型(ジオラマ)
不破関資料館に展示される古代不破関の復原模型(ジオラマ)。南から見た姿で、藤古川(左)の段丘上に東山道を塞ぐ形で構築された関の全容が良く解る。中央は築地で囲まれた中心施設、外郭土塁は下部が切れているが、北・東・南の三方をコの字形に囲い、西の崖上は木柵で封鎖していたと推定されている。その他幾つもの望楼や兵舎を備えた堅固かつ大規模な施設で、北が460m、東が432m、南が112mの大きさがあったという

左:不破関復原模型の内郭部分。右:不破関復原模型の「東城門」及び東外郭の築地土塁や望楼施設部分
左:不破関復原模型の内郭部分。律令体制下の地方政庁である国府や郡衙に準じる体裁を備えた確固たる施設であったと推定されいている
右:不破関復原模型の「東城門」及び東外郭の築地土塁や望楼施設部分

不破関とは

不破関は古代最大の内乱とされる壬申の乱(672年)後、政権を掌握した天武天皇の意により設置されたとみられる。それは、天武帝自身が行った、東国に逃れ、兵を集めて中央に敵対するような行動を防ぐためとされる。

その確実な設置年は不詳だが(672年や673年説は後代史料に依拠)、恐らく大宝律令により最重要関門「三関」の一つとして規定されたとみられる。それは、当時の交通上、美濃の不破と伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)の三関を閉ざすと畿内と東国の往来が遮断できる為であった。

藤原仲麻呂(恵美押勝)が失脚逃亡後、愛発を突破できず敗死したのは著名である。但し外郭土塁の基底部から地鎮用とみられる和同開珎が発見されたことから、不破関外郭部の構築は710年代に行われたとみられている。

以降、天皇の崩御や天下不穏の際に有事に備え交通を遮断する「固関(こげん)」が行われたが、延暦8(789)年に三関共々突如廃止される。

その原因は反乱の可能性低下や新京造営等の経費増に対する費用削減ともされる。ただ、主要殿舎や備品は撤去されたが「故関」として固関が続けられたことから、一定の要害性は保持されていたとみられる。そして中世には関銭を徴収する関守が置かれたが軍事防塞としての復活はなかった。

ただ、短期間とはいえ強力堅固な通行制御を行った不破関の印象は後々まで人々の意識に残り、地名や文学作品の中に生き続けることとなった。その後関の正確な位置は解らなくなったが、昭和49(1974)年から5次に渡って行われた発掘調査により、その主要部の概要が明かされたのである。

それは我が国の古代関門では初めてのことであり、地表に当時の土塁が残存することが判明したことも初めてであった。近年鈴鹿でも当時の築地塀跡が判明し国史跡に指定されたが、中心遺構まで判明しているのは不破関のみであり、世界的にも貴重な軍事・交通遺構といえる。


不破関資料館の裏手からみた西方は藤古川方面
不破関資料館の裏手からみた西方は藤古川方面。中央左に橋で川を渡る旧中山道即ち東山道跡が見える。川との高低差は約20mあり、この高さを利用して関が設置されたことが良く解る


藤古川西方に続く旧東山道及び中山道

西関外での古代官道探査

資料館見学後、大木戸の坂を下り、関外は藤古川方面を探る。橋の対岸には、写真の如く近世の中山道をそのまま踏襲したらしき細道が続くが、古代の官道はもう少し広く、しかも極力直線で施工された筈。

関との関係から確実に古代路の通過地と判るため、暫しその痕跡を探す。

規格や類例の知識があれば比較的簡単に痕跡を発見出来るかと思ったが、これが難しい。付近は丘陵地帯となっており、土地利用が限られるにもかかわらず、近世以前の改変跡が見えないのである。

数百m西行し、壬申の乱での激戦伝承がある山中集落や黒血川辺りまで探るも、状況は変わらず。今は迂回路にその座を譲ったが、元は幹線路のため戦前から近代改修を受け続けた所為か……。それとも、既に古代から細く非直線の道だったのか。

視野を拡げて地形図を確かめると、山中集落と不破関の間にある藤下集落の尾根地形が幅広い鞍部になっていることに気づく。古代は今より高い地面に道があり、その後中山道等の改修で掘り落とされた可能性が窺えたのである。

先行調査・研究により、古代官道は傾斜回避より直線性を重んじた向きがあるので、この考えには可能性があり、現況との相違も説明できる。

なお「矢じりの池」という壬申の乱関連の古井戸が藤下鞍部上の切通路と乗越路の両中山道に挟まれた妙な位置にあることにも首を傾げていたが、切通側の上位に嘗て相応の幅を持つ官道があり、それに井戸が接していて、その後掘り崩され井戸のみ宙に浮いた形となった可能性も窺われた。


不破関南限土塁跡

不破関外郭土塁
現存古代遺構求めて


西関外の探索後、また大木戸に戻り、路傍の休憩地にて昼食を摂った。資料館裏手同様の眺めが得られる場所で、暫し古の番兵気分に浸る。

予報通り気温も上がり、折からの快晴と相俟って2月とは思えない探索日和となっていた。

そのような好条件下、食後も探索を続ける。今度は外郭部の探査である。関址に広がる松尾集落の細道を南下して達したのが、写真の南限土塁跡。

段丘面が南(左)に下がり始める肩部分に辺り、そこに南外郭の土塁が構築されていたという。駒札の左に畝状の高まりが見えるが、この区間は地表に残存しない筈なので、右側の溝の影響かと思われた。

そもそも土塁は基底部の幅が5、6mもあるらしいので、やはり地表部は殆ど削平を受けていると思われる。ただ、発掘によりその存在と位置は特定されているようである。


茶畑の段差としてその痕跡が残る、不破関南限土塁
駒札の対面(東)はこの様な感じ。茶畑とそれが傾斜する様が見えるが、即ちその際に土塁があったとみられる。今は奥まですっかり削平されているが、凡その地形は古代から変わっていないことが判る。

その後、南(右)の関外に下り、土塁の角(外郭東南角。写真中央奥の家屋付近)に回り込んだが、後代のものとみられる瓦礫盛土があるのみで、見るべきものはなかった。

まあ、そりゃ、そうだろう。

1300年も前に造られ、1200年以上前に放棄された施設である。こんな雪や雨が多い気候で、しかも交通要所としてその後も一貫して利用され続けてきた土地である。地表に何か残るだけで奇跡みたいなものであろう。

なお、付近からは関内施設と思われる鍛冶工房跡が検出されており、それを紹介した駒札があった。


付近に雪残る、古代不破関の北外郭土塁遺構

外郭東南角跡に接する小道を北上する。ちょうど東外郭の土塁跡に沿う形だが、何の痕跡も無し。

因みに、外郭東南部の駒札によると、この辺りは中世以前の伊勢街道ではないかとみられているとのこと。多くの発掘品でもそれが裏付けられているようである。近世の伊勢道を継承した現伊勢街道はもっと東の関ヶ原駅付近にあるため、これも古代の交通を考える上で興味深い情報であった。

さて、東外郭跡に沿う道を北上し、朝通った東門跡も過ぎて現代の中山道である国道21号線やJR東海道線を越え、ほぼ田畑のみの郊外に達した。

そこに南接する墓地があり、その背後に線状の高まりが現れた。日陰のため未だ雪残る写真の場所がそれであるが、正しく現存の北外郭土塁であった。前掲の地形図では「不破の関跡」上部の鉄路上の墓標印付近である。


不破関北限土塁遺構断面部
不破関北限土塁遺構断面部。残高は然程無いが、基底部の幅は報告通り、かなりの規模があった


不破関北限土塁遺構断面部から西へ進み土塁上から東を返り見る
不破関北限土塁遺構断面部から西進し土塁上から東を返り見る。なかなかの壮観である。よくぞ遥かな歳月を耐え今に残ってくれたものである。

北外郭遺構は道で切られた場所があるものの、東北角を含めてほぼ全線で残高を有しているという。折角なので北東角や藤古川と接する西端の崖際を見たかったが、案内が悪く、また川への道も無かったので断念した。

日本は疎か、東アジア史的にも貴重な場所なので、是非更なる整備を求むところである。

あと、私有地の為か、土塁上に植林がされていたが、風倒木となって根こそぎ遺構を破壊する等の恐れがあるので、もう止めてもらいたいと思う。

このように貴重な北外郭遺構から判明することは、土塁の基底部が5、6mあり、残高が約2mで版築で造られていること。また添柱用とみられる施工があることから、更にその上に築地塀があった可能性が指摘されている。

正に、城壁的堅固さ・規模である。そうなると外壕(堀)の存在が気になるが、今のところ報告されていない。

土塁や築地に使う膨大な土を用意するには傍の地面を掘削して調達する方が効率が良く、またその穴を外壕に利用するのが合理的である。

実際時代は違うが戦国期の防塁等はその手法が取られていることが多い(例えば豊臣秀吉の京都総構「御土居堀」等)。もしそれをしないと遠くから土を運んだり穴を埋める手間が生じるので、少々考え難いのである。


雪を戴く伊吹山に向かい続く旧北国脇往還道と僅か16年で廃された旧東海道線跡を利用する新国道(365号線)
雪を戴く伊吹山に向かい続く旧北国脇往還道と僅か16年で廃された明治中期敷設の旧東海道線跡を辿る新国道(365号線。右上部)。玉地区にて。関ヶ原北西の小関・玉地区の重要性はその交通変遷をみても明らかである

謎の副関「小関」探査

不破関外郭跡の探索を終えた後は関を離れ広大な田圃を北へ向かう。この平原はかの関ヶ原の戦いの開戦地であり、主戦場とされる場所であった。

方々に関連武将らの陣跡等を示す道標が現れたが、我々が目指したのは関の北にあったとされる「小関」跡。

小関は美濃から近江湖北や越前北陸に抜ける間道(古代名称不詳、近世名「北国脇往還」)を押さえるための施設で、「大関」の地名が残る松尾の施設と共に不破関の機能を補完した施設であったとされる。

少なくともこの2関を以てこの地の交通制御を完了できるため、極めて重要な施設であったに違いない。事実、壬申の乱でも近江朝軍がこのルートから奇襲を図ったことが伝えられている。ただこうした「副関」の存在は鈴鹿や逢坂等の他所でも確認できるが、詳細な実態や役割は判っていない。

それどころか、正確な場所や遺構すら発見されていないのであった。手掛りは、集落名に残る「小関」地名のみ。それは、大木戸北方、約2kmの場所にあった。

農家風の家屋が集まる中を旧脇往還が曲がり抜ける小関集落に至るも、痕跡はなし。高低差にも乏しいため手掛りを得ることは出来なかった。ただ、集落西を流れる梨木川が、ある程度の深さある渓谷を成していたことは注目された。

前掲地形図でいうと、「小関」の文字の左横を流れる川である。この川は北と南の山の間にある小関の平野と往還道を東西に区切っている。この状況は大関・東山道と藤古川の関係に似ており、防塞を設置するには都合が良い場所かと思われた。

そうなると、川と往還道の交点東(右)辺りに施設があった可能性が考えられるが、残念ながら明治期の鉄路や現代のバイパス道路また伊吹山ドライブウェイにより大改変を受けており、破壊が案じられる状況にあった。

比較的南側が無傷のようにも思われたが、今後の調査・研究の進展を待つほかない。ただ、こうした視点から保護の網をかけておかないと破壊の危険があるのは言うまでもない。行政の英断に期待するばかりである。

前近代から市街化が進んだ逢坂や鈴鹿と異なり、ここで遺構が出ると古代そのままの貴重な例となる可能性が高い。その為にも先行した施策が必要だと思う。

なお、国史では平安初期の律令解説書『令義解(りょうのぎげ)』の記述を基に、小関のことを防塁のみで「検判」機能がない「サン(戔+りっとう。セン・セキとも)」とする解釈が一般的である。小関で留めた通行者の関契(割符・手形)を大関で確認したのであろうか。

ただ、同書が「検判の処」という「関」の字を使う以上、大関同様の機能があった可能も否定しきれない。その場合、違いがあるとすれば、規模の大小や地位の主副だったのかもしれない。


尾根地形を切通して続く関ヶ原玉地区の旧脇往還道(東を見る)

国界の要害集落・玉地区へ

小関地区の探査後は、そのまま脇往還道を西に進み、近江との国界手前にある玉(たま)地区へと向かった。関ヶ原北西の要所性や古代北陸間道を踏襲した脇往還の道筋を確認したかったからである。

ただ、前述の通り、小関地区から西は現代の道路施設により大規模に改変され、脇往還も分断・攪乱されていた。仕方なく、古代官道跡の可能性が考えられるような間道的な道を探索しつつ改変区間を遣り過した。

写真は玉地区に入って程もなくして現れた、尾根地形を切通す旧脇往還道(東方向)。これも古代路としては狭いので後代に掘り落されたものか。

明治期に右(北)の山際に通された鉄路は長浜港へ貨客を運ぶために造られたという。長浜からは琵琶湖を汽船で南下し大津の鉄道とまた連絡して京阪神以西へ中継するのである。その後東海道線全通により廃されたが、貨物をいち早く琵琶湖水運に連絡するという需要は古来高かったため、前近代の荷車か、近代以降の馬車・自動車用に改修されたのであろうか。

但し大規模な切通しは古代官道にも数多例があるので注意が必要である。


関ヶ原玉地区中心部にある立派な古式石垣と大型民家
山腹の街道沿いに続く関ヶ原玉地区の中心ではこのような立派な石垣に支えられた大型家屋が現れた。写真では判り難いが、石組はコンクリを使わない城郭同様の伝統工法で仕上げられたもので、その歴史を感じさせる。また、背後に菩提寺や氏神社を従え下部の家を睥睨するように並ぶ家屋は、地区内での伝統的支配地位の保持を想わせた。なお街道は左下に続く


関ヶ原玉地区の西外れに残る廃路と化した北国脇往還道

玉地区を貫く脇往還は近世そのままと思われる細さを保ちながら続き、やがて明らかに故意に屈曲させられた場所を最後に集落を抜けた。

屈曲は所謂「京口遠見遮断(とおみしゃだん)」と思われる。恐らく近世初期に、西国や北陸の外様大名に対する進軍障害として江戸幕府や関係諸藩等が設けさせたとみられるもので、各地に同様が残る。

写真は遠見遮断を過ぎ集落の西果てに現れた古道址。藤古川の河谷際に続く道で、その位置や方向等から脇往還の延長部分とみられた。あと200m程進むと江濃国界に至るが今は新国道に因り廃道と化しているようである。

北陸間道としての、ここの江濃国界は、藤古川の河谷が極限まで狭まる場所にあり、その後、玉地区から徐々に谷幅を広げるが、その底は深く、通過できる場所が限られているという、特徴を実見できた。


関ヶ原玉地区の浄土真宗寺院「円通寺」
関ヶ原玉地区の山際に建つ真宗寺院「円通寺」。結構な距離を歩き少々疲れたので少し境内で休憩させてもらった

玉地区には、このほか同じく真宗寺院の玉照寺や玉神社・神明社といった宗教施設があるが、いずれも集落背後の山際にあり戦時転用を意識した配置を想わせた。

集落を抱くように流れる藤古川と背後の山により玉集落自体が要害となっているが、壬申の乱の際もここが激戦地になったとされ、『日本書紀』に記される「玉倉部邑(たまくらべむら)」の比定地となっている。


関ヶ原小関集落東隣りの小池集落外れの推定脇往還道址

小関以東の脇往還と戦国記念館

国界の要害集落・玉地区を探査後、また脇往還を戻り小関に至る。脇往還は東行すると関ヶ原駅近くに達するので、帰り道がてらその跡を追った。

写真は小関集落東隣りの小池集落外れにあった推定脇往還道址。車が通れない程やせ細り、通行が憚られる私道的雰囲気を醸していたが、国道まで出られるようなので抜けさせてもらった。

前掲地形図でいうと、小池集落右下にある国道365号線上にある標高140m表記左横の斜めの細道である。


国道365号線の交点から南東に続く旧北国脇往還道
現代の脇往還道、国道365号線を横断すると旧脇往還道が結構な広さで復活し、関ヶ原駅方面へと続いていた。沿道には所々古く大きな家屋があり、在りし日の街道の賑わいを伝えていた

因みに明治24年測図の正式2万分之1地形図によると、この道の左(東)に沿う形で旧東海道線が北上し脇往還と現国道の交点辺りから現国道と同じルートで北西に向かったことが判る。


旧北国脇往還道から見た真新しい岐阜関ケ原古戦場記念館
国道365号線の交点から南東に続く旧脇往還を進むと、やがて左(東)に関ヶ原戦役での徳川家康の最後の陣跡を記念する「陣場野公園」が現れ、その東隣りにこんな変わった形状の施設が現れた

どうやら、昨年開館したばかりの「岐阜関ケ原古戦場記念館」というものらしい。ゲームや漫画の影響もあり今や世界の関ヶ原ともいえる場所だが、これまでその歴史的意義や知名度に適った施設がなかった。因って実に喜ばしい限りなのであるが、その意匠が……。

野戦陣営を模ったと思うのだが、あまりに捻りが足りない気がする。物の陳腐化は経年劣化より意匠から生じることが多い。今は真新しいが、ある程度歳月を経た時にどうなるか少々心配である。まあ中に入るとまた印象が変わるのかもしれないが。今日は時間がないのでまた機会あれば……。

図らずも得た戦国知見

ところで今回は戦国史跡には触れぬことにしていたが、否応なく目にしたそれにより図らずも関ヶ原合戦に対する新たな知見を得ることが出来た。

それは、圧倒的に有利な西軍の布陣である。西上してくる東軍に対し、南部は藤古川の段差を防御に、北部は小関集落周辺の高地を押さえ、更に東部・東南の関ヶ原入口を塞ぐ用意がされていたことである。

知っての通り、この戦いは小早川金吾らの寝返りにより東軍が勝利したが、寝返りが不確実な状況で家康を含む全軍が関ヶ原という「袋」に入ったことが驚かされた。先方を務めた福島正則などは、数に劣る手勢で不破関址手前の深部まで進出しており、正に自殺行為といえる。

恐らくは、それをさせるだけの確信や保障があったのではないか。故に、寝返りは開戦当初から実行されたという説や、早くも昼頃には戦闘が終了したとする史料への信頼を高めさせられた。

しかし、早々の裏切りがあったとしても、「袋」の後ろや家康本陣の裏山を大軍で押さえている状況ではまだ不利とはいえない。

そこから考えると、やはり最大の敗因は、それら後方を担った毛利勢の不動にあると思わざるを得ない。今も昔も挟撃が最大の脅威であり、たとえ大軍と雖も、その苦境からは逃れられないからである。


JR東海道線車内からみた夕陽を浴びる冠雪する伊吹山

探査終了。強行軍に反省

旧脇往還を南下し線路際の東首塚(関ヶ原戦陣没者の首を埋葬したとされる場所。中山道沿いの西首塚は朝参観)等を見学し関ヶ原駅に帰着した。

写真は、帰途の列車車窓からみた伊吹山。滋賀県側からであるが、朝より雪が減じているように思われたが、どうか……。

今日は念願の不破関遺構やその関連地をじっくり巡ることが出来た。都合により下調べが甘くなったことは否めないが、天候も良く、温暖な条件で無事予定を消化することが叶い、良かった。

ただ、遠方の玉集落まで足を延ばし土地への理解を深く出来たが、同行の友人を疲労させたことは申し訳なく思った。ここは力みが出たというか、少々無理をしてしまった。今回の反省すべき点である。

とまれ、今日は色々とご協力有難う、お疲れ様でした……。

機会あれば、また再行して見識を深めたいと思う。

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2020年12月04日

大和観城

大和郡山城の毘沙門郭と二ノ丸等の郭を隔てる昭和再建の桃山時代風追手門(梅林門)

再び郡山へ

先週、奈良郡山の遊郭巡りを行ったが、今日もまた朝から郡山を訪れた。

だが、今日の目的は遊所ではなく前近代の軍事・都市計画見学。即ち、郡山城址参観であった。本来なら、先週まとめて行う予定だったが、妓楼見学の内容が予想外に濃くなったため、急遽今日に延期したのである。

郡山城は大和一国を扼する要地に築かれた織豊系の貴重な城塞址で、長大な「総構(そうがまえ。武家関連地のほか商工業地等の城下全てを囲う、堀と土塁による防御外郭)」を有した城郭都市址でもあった。

近代明治の廃藩以降失われた箇所も多いが、その痕跡を含めて一日探索してみることにした。


上掲写真 大和郡山城内郭の毘沙門郭(準本丸)と二ノ丸等の下段郭を繋ぐ登城主路にはだかる追手門(梅林門)。城の内郭と城下町を最初に築いた豊臣秀長期に近い姿で昭和58(1983)年に再建されたものという。


明治41年測同45年刊『二万分一地形図「郡山」』の旧郡山城及び総構部分
明治41(1908)年測、同45年刊『二万分一地形図「郡山」』の旧郡山城及び総構部分(筆者蔵刊行原本より)

今日の城巡りは郡山市作成のイラストマップと上掲の古地形図を使用。

古図は陸軍陸地測量部が明治末に作成した「二万分一地形図」で、仮製図(迅速図)に対して「正式図」と呼ばれるもの。明治20年代前期に作られた仮製図が精度に劣る暫定版のため、その名が付けられている。

そこには黒く塗られた20世紀初頭の郡山市街地や城跡、そして当時まだかなり残存していた総構の水堀やその跡である溝状の窪地が描かれている。

例えば、図の左端下にある「矢田口」の文字左の二重点線がそれに該当する。ただ、土塁は、今残るものすら見えないことから、かなり省略されているとみられる。


大和郡山城旧三ノ丸(五軒屋敷)南、現郡山市役所前に残る水堀跡

郡山城内郭探索

さて、前回同様近鉄線にて旧城下に入り、城址を巡る。最初に訪れたのは写真の水堀跡である。周囲と水面の高低差があまりないことから、それとは判り難いが、幅の広さに嘗ての防御施設の姿が偲ばれる。

実は、左側は郡山市役所及びその敷地で、その前面だけに残存する三ノ丸の堀跡であった。嘗ては内郭部の三分の一を占めた大きな三ノ丸を、これと同規模の堀が囲っていたのである。

勿論その郭側は嘗て水面から2間(3.6m)の高さの石垣があり、更にその上に漆喰塀がはだかり、その狭間(銃眼)から対岸への射撃が可能であった。

現在その一部が市役所となった三ノ丸は、家老らの邸宅が並ぶ「五軒屋敷」とも呼ばれていたという。

古図中央上部にある「郡山町」の文字の「町」が載る長大区画である。写真はその下端(南)部分で、二ノ丸及び本丸は写真奥の丘陵上にある。

役所の建物はともかく、そこへ渡るための戦前製の古い橋が残されてるのが良い(噴水後方)。


旧郡山城の二ノ丸(左)と三ノ丸(右)を隔てる水堀や堀端の近鉄線
二ノ丸(左側)と三ノ丸(右側)を隔てる水堀。三ノ丸側堀端には近鉄線が通る。ここも往時は上手側(左)石垣上に土塀が続いていたが今は無し


大和郡山城二ノ丸正門「鉄御門」
二ノ丸の正門「鉄御門(くろがねごもん)」跡。先程水堀を撮影した土橋を渡った坂上にある。近世初期の絵図(北が右)によると、右手前石垣の台上に門櫓の右端が載っていた。即ち、道はその手前で90度屈曲する。因みに、今進んでいるのは正式な登城路である追手道。本来は三ノ丸に入る手前(市役所横)に内郭の総門で、ロの字形の閉鎖構造(桝形虎口)を持つ柳御門があったが、今は駅と役所傍の交差点となり隅の石垣台座しか残っていない


大和郡山城二ノ丸からみた内堀と毘沙門郭東南角の石垣
鉄御門を抜けて上段は二ノ丸内に上ると、すぐに内堀が現れた。古図でいうと、中央にある「山」の字状(実際は左上にも水堀が巡る。即ち「6」を反転して右倒しにした形)の最内郭右下角の部分である。石垣が手前の掘内に少し突き出しているが、古絵図によると櫓があった箇所であった


大和郡山城陣甫郭(二ノ丸の一部)からみた追手向櫓と追手門等の櫓群
現在は車道になっている内堀端の追手道を北上すると、間もなく櫓群が見えてきた。最初に掲げた追手門や、その向かいにある「追手向櫓」等を擁する、毘沙門郭と玄武郭(準本丸)の出入口である


再建された追手向櫓と追手門がはだかる大和郡山城の追手虎口
内堀北端を屈曲すると堂とした追手虎口が眼前にはだかる。左が追手向櫓、右が追手門であり、道は登坂しつつその懐で屈曲後門をくぐり、その後逆向きに屈曲してまた登坂して上面に達する。寄せ手を櫓上から攻囲殲滅する構造である。門以外の櫓は、門再建後の昭和62(1987)年までに再建


大和郡山城毘沙門郭跡に建つ柳沢文庫の車寄せ玄関と師走の紅葉
門をくぐり上面に出るのは後回しにして、追手向櫓前を左に登り、毘沙門郭の柳沢文庫に出た(簡単に上郭に達するこの道は無論往時は無し)。特色ある車寄せ玄関を持つそれは、明治末頃に旧城主の柳沢氏が建てた別宅で(玄関と事務室は大正期に東京本邸から移築)、現在は郡山城保存会が管理する公共施設となっている。そこでちょうど古地図による「郡山城の変遷」という企画展が行われていたので、見学することにしたのであった。既に12月に入りながらも、紅葉が美麗で何より


大和郡山城の玄武郭跡に移築された旧奈良県立図書館

戦国の古式伝える本丸へ

何故か中学生の小班が切れ目なく現れる(修学旅行?)柳沢文庫で古の郡山城に関する知識を仕入れ、また追手門に戻り改めて上郭を見学する。

写真は、その北辺で遭遇した威容の近代建築。城址会館と呼ばれる建屋で、明治41(1908)年に造られ、昭和45(1970)年に移築された旧奈良県立図書館であった。

偶々であろうが、和風色の強い城郭風の洋館建築は、正にこの場所に似合っていた。但し、内部が非公開であったのと、前に職員か誰かの無粋な自家用車が並び、景観を害していたことは残念であった。


大和郡山城の本丸及び天守台
城址会館近くの芝生上で昼食後、広場風の郭上を西へ向かうと本丸及び天守台が見えてきた。古図の、最内郭左部分である。毘沙門郭南西端の石垣通路を渡ると早く本丸に入れるが、外周を観察するため敢えて内堀外を一周。天気も良く、気温も上がって、師走ながら絶好の散策条件となった


大和郡山城の本丸石垣にまぎれる墓石基壇等の転用石
本丸の石垣には、噂通り、墓石・仏塔等の基壇とみられる転用石の使用がみられた(中央少し右の彫刻入りのものや右上の小さいもの二つ)。転用石の使用は比較的施工を急いだ織豊系城郭の特徴だが、石材が乏しい大和では、膨大な数を使うという特徴も併せもっている


大和郡山城の内堀西南からみた本丸と大小の天守台
内堀西南より本丸と天守台をみる。天守台は大小二つ(二段)の構造


大和郡山城廃城後に土橋に改変された竹林橋から竹林門跡の石垣と本丸方面をみる

内堀を回り、本丸南端の竹林門跡から本丸に入る。写真は土橋上から本丸と櫓門跡を見たものだが、石垣のみの残存ながらその堅固さを実感した。

ただ、二ノ丸を貫く東西路から直接土橋で接続されている様に疑問をもった。これでは追手門虎口の厳重さが意味を成さなくなるからである。しかし、それは古絵図を見て解決した。

つまり絵図では土橋ではなく板橋として描かれていたからである。これなら有事の際はすぐに橋を撤去して往来を遮断できる。藩主御殿が二ノ丸にあったので、生活や政務の便宜上ここに橋が必要なこともよく理解できた


再建工事中の大和郡山城の極楽橋
これは現在再建中の極楽橋。準本丸の毘沙門郭と本丸を結ぶもので、これも往時より木橋であった。現在南端に本丸と毘沙門郭を繋ぐ、人ひとり通れる石垣通路があるが、これは往時漆喰塀があり通路ではなかった可能性が高まった。即ちこの橋と竹林橋を撤去すると、本丸を孤立出来ることがわかったのである。因みに橋の再建や天守台修復の際に行われた発掘調査では、共に城の主要部が出来たとされる豊臣氏城主期(1585-1595)に建造されたことが明かになったという。石垣の野面積(のづらづみ。無加工積み)や直線的な立ち上がりから、かなり古いものだと思ったが、的中した


大和郡山城址天守台の石垣隙間にある逆さ地蔵
天守台の石垣のなかにある有名な「逆さ地蔵」。転用石の一つで、石積の隙間に、頭を奥にしてうつ伏せになった地蔵の姿が見える。天守台の石垣は近年その一部が解体修理されたが、その際、裏込めの石材を含め、600石近い転用材が見つかったという


大和郡山城天守台からみた奈良市街や若草山方面
そして天守台に上がり東方は奈良市街方面を見る。若草山や春日山等の南都主要部が一望できた。正に奈良盆地を扼する要地。郡山には中世から城塞があったが、天守を備えた本格的な城が築かれたのは織田信長から大和一国を任された筒井氏時代(1580-1585)という。その後、豊臣秀吉の弟で豊臣政権の重鎮だった豊臣秀長が現在に続く城の原形を完成させ、同政権の奉行・増田長盛の城主時に総構が構築されたという。天守は秀長を継いだ秀保時代に建てられたとされるが、関ヶ原戦での増田氏改易後、二条城、次いで淀城に移され、当地では再建されなかった


大和郡山城の中堀北部分

中堀巡り

本丸見学後は内郭を出て、その周囲を見た。

写真は内郭を囲う中堀の北部分。古図でいうと「郡山町」の「山」字の左下、最内郭右上辺りである。ここから堀沿いに丘陵坂を西へと登る。


大和郡山城中堀西の西御門前の土橋から中堀底の公園等をみる
これは中堀西にある西御門跡前の土橋上から南を見たもの。堀底の一部が陸化して遊歩道ある公園となっている。折角なのでそこに降りて南下する


郡山市街南部に残る、大和郡山城総構の土居跡の土塁と堀跡の駐車場

謎のM字郭探索と総構巡り

築城以前からの溜池とされる、満々と水を湛えた中堀南の「鷺池」は朝見たので、内郭外周から離れ、その南部を探索。

古絵図の内郭左にある鷺池南の謎のM字水堀の跡を探ったが、駅裏の所為か市街化が著しく、叶わなかった。ただ、水堀の内側の土地が周囲よりかなり高い場所にあることが判った。

古絵図では水堀内側は「侍町」となっているが、鷺池との接続部分にしか道が無いことや内郭から鷺池を渡りそこへ続く土橋が見えることから、出丸であった可能性が高い。内郭近くの見通しの良い場所は戦略的弱点となるので、そこを守る為に総構構築以前に造られた郭ではなかろうか。

写真は先週市街南の東岡遊郭を探す際に発見した土塁。その日、城址に対する前知識はなかったが、その際、瞬時に総構の土居と堀跡(手前駐車場部分)だと判じた。果たして、それは見事正解となったのである。

総構の南線が一旦筒井口(柳町口)の大門辺りに突出する場所の、西側面にある南北方向のものである。郡山に限らず総構の土居は総じて残存が悪いので、戦国末期の世相や都市形態を知る貴重な存在であろう。


大和大納言豊臣秀長の墓所と伝わる場所
郡山城南部探索の次は南西に向かい、大納言塚に至る。郡山城下の創始者・大和大納言豊臣秀長の墓所と伝わる場所で、土塀に囲われた墳丘上に五輪塔が立つ場所であった。総構南線の外にあり、このように整備されたのも江戸中期以降のようである。ただ、今はすっかり住宅地の只中に……


大和郡山城総構北部の跡地にある谷底の金魚池や土居下の斜面

その後、総構西部を巡るが、痕跡を辿ることは難しかった。当初は近代古図さえあれば容易いと思っていたが、市街化や道路改変が激しく、跡を追い辛くなっていた。行きつ、戻りつしつつ、城址西部を北上する。

写真はその後辿り着いた総構北部の痕跡。城址側の丘が北側に下降する場所にあり、土居も堀も失われていたが往時を偲ぶことはできた。

古絵図によると、嘗ては金魚池が見える丘下の広い谷地の斜面下に堀があり、その上部に土居があった。


大和郡山城総構の北部にある堀の痕跡
ここは総構北部中央の痕跡。近年改修され古の風情は失われているが、東下する堀の痕跡を窺わせる。右端には大きな池があり本来はそれが外堀を兼ねていた。ただ、手前の堀跡も近世初期から在り、恐らくは東側の低地に水が抜けないための二重構造かと思われた。とまれ、総構を構築した増田長盛が、既存の溜池を繋ぐように施工したとの話を裏付ける場所である


近鉄線で切断される大和郡山城総構の土居跡竹藪

二重堀跡を東に下ると堀跡向こうに小高い竹藪が現れた。総構の土居跡である。高さはかなり減じていたが、貴重な痕跡であることには違いない。

写真は、それが近鉄線で切断されている箇所。


住宅街の只中に残る大和郡山城総構の堀跡

完全ならずも総構一周完了

そして、総構跡東部に達すると、写真の如く、宅地内に堀跡が続いていた。その後も総構跡東部を辿ったが、やがて辺りは宵闇に包まれた。

その後、堀跡がバイパス道路と化した箇所等を経て、外堀緑地なる場所に出たが、意外にも総構跡の区画に水路と遊歩道を配した公園的な場所で、往時を偲ぶことは難しかった。

外堀緑地の南端は先週巡った洞泉寺付近となるので、先週分と併せて総構を一周したこととなり、ここで探索を終え、駅に戻って帰還した。

今日は気候も良く興味深い散策が出来たが、地図の準備が甘く、総構の跡を完全に辿ることが出来なかったことが少々悔やまれた。

まあ、また次の機会にでも、その解明を果たしたいと思う。

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2020年11月14日

秋山見分

鹿ケ谷の「如意越」道から覗く旧藤井彦四郎邸「和中庵」の和洋の館や庭木の紅葉

久々の裏山探査

月初の野営会や週末の荒天により暫く様子を探れなかった自宅裏・東山山中(大文字山・安祥寺山)の発見古代遺構だが、今日その機会を得た。

とはいえ、諸々の用が済んだ午後遅い時間の、ごく短時間である。それでも、清々しい秋の晴天と季節外れの暖かさに恵まれ、良い気晴らし、運動を兼ねることが出来た。


上掲写真 今日の登山口・鹿ケ谷(ししがたに)の「如意越(京江古道)」道から覗く旧藤井彦四郎邸「和中庵」の和洋の館や庭木の紅葉。街場の紅葉もいよいよ本番に入り始めた。因みに現在隣接するノートルダム女学院が管理する和中庵洋館は、端麗瀟洒な同学舎とも調和する昭和初期築のスパニッシュコロニアル様式。解体の話も聞いたが残されて何より。


街樹や山が色づき明るい色を見せ始めた鹿ケ谷「如意越」の道と、道の右の和中庵や左の霊巌寺の土塀
一路大文字山の懐、登山口へと向かう如意越の道。街樹も山も急速に色づき、明るい色を見せ始めた。なお、道の右が和中庵・ノートルダム女学院側、左の土塀が「谷の御所」として著名な尼門跡寺院・霊巌寺である。


安祥寺山北尾根遺構傍の林野庁作業林道の路肩に生じた亀裂

山中の古代遺構へ
保護すべき遺物は


登山口から山に入り、山道を進む。今日は暖かいので初めから上着を仕舞いシャツ1枚でゆく。

下山後用もあるので、短時間で済ませるべく最短の道程を通り、休息無しで一気に遺構に達した。時間は1時間もかからず。鍛錬の為もあり荷はあえて重くしていたが、気候的に負荷も少ないため特に苦もなく辿り着いた。

強いて言えば、途中の藪道でマダニの子に集られたくらいか。他の虫は死に絶えるか冬眠の頃だが、ダニだけは早春と晩秋の今を狙っている。まあ承知の上で除去したので問題はないが、昨今流行りの超軽装トレランスタイルとかなら危ないか。まあ、素人目に道がない藪なんか入らないか。

さて、発見遺構ではまた崖面や林道路面・路肩などを観察するが、今回は特に目ぼしいものはなかった。谷を下った西谷遺跡でも同様。勿論、こまかな遺物は無数にある。

前回来た時からまたかなり風雨が強い日もあったが、以前同行したこの山域の古代寺院専門家K先生と氏が指導する女子大組の調査がまた入ったのであろうか。とまれ、保護すべき露出遺物・貴重遺物がなければ、私の今日の役目は終りである。

ただ、遺物とは異なり別の懸念は発見した。写真の、遺構の端を破壊するように昨年通された林野庁の作業林道路肩の亀裂である。つまり崩落の危険である。写真の場所の対面路肩にはまさに遺構崖面及び遺構本体の平坦地があるので、そこにも被害が及ぶ恐れがあった。

以前も指摘し、その後シートで養生されたのは道奥(南側)の区間だが、やはり速成簡易な施工のため方々で起こり得る状況である。恐らくまた養生が施されるとは思うが、抜本策の有無を案じた。


大文字山山頂からみた、夕陽に照らされる京都市街などの眺め

山の秋を眺めつつ下山

山中での役目も果たし、また稜線に登り返して帰路に就く。帰りは次の用の為、大文字山山頂経由で銀閣寺門前(今出川通)に降りることにした。

写真は途中通過した大文字山山頂からの眺め。陽が傾き始め、光が長く射す夕刻的光景となっていた。遠く朧に浮かぶ大阪のビル群や、夕陽に輝き伸びる東海道線の鉄路等も見えた。


大文字山山腹の「五山送り火」の火床からみた京都市街北部や夕陽に照らされる山の紅葉
続いては大文字山山頂を西へ下った山腹にある「五山送り火」の火床からみた、京都市街北部や夕陽に照らされる山の紅葉やススキ野原


夕陽に照らされる大文字山山腹の天然林黄葉
更に山道を下ると天然林の黄葉とも出会う。但し、夕陽の所為で赤味が強くはなっているが……


夕陽に照らされる銀閣寺門前の紅葉

そして下山。写真は銀閣寺門前の紅葉。こちらも、当然夕陽に照らされ少々オーバーな色合い。観光客も増えてきて感染要注意の状況である。

さて、山行時間は1時間半強で、高低差400m程の登降であった(最高所は大文字山頂の466m)。こうして、短時間ながら無事遺構見分の役目も果たし、良き運動にもなったのである。

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2020年09月20日

残暑新拾

大文字山山中の如意古道脇の巨大きのこ。ドクツルタケか

酷暑落着後の裏山鍛錬・視察

今月上旬までの猛暑気温や熱帯夜の連続よりマシにはなったが、昼は未だ30度を超す暑さが続く。昨日は30度を切ったが日射の所為か十分暑かった。

そして今日も同様の気温予報だったが、夜気温が下がったこともあり、熱帯夜明けの昨朝よりかは過ごし易い朝となった。

まあ、それでもすぐに気温が急上昇してまた暑くなるのであろうが、一度は諦めた今季の北アルプス行を決定したので、その鍛錬等のため、また裏山の京都東山は大文字山域へと向かった。

写真は山上へと向かう古道脇で遭遇した巨大きのこ。猛毒を持つとされる「ドクツルタケ」か。道上の蕾状のものを含め、付近で幾つか目撃した。

なお、この古道は、現在京滋を結ぶ「如意越」とされる谷道ではなく、山腹を巻き滝を避けるように続く古の車道(くるまみち)らしき道である。


シートで養生された、安祥寺山北尾根遺構傍の林道路肩の亀裂部分

稜線遺構傍に現れた養生

鹿ケ谷の車道から大文字山中腹にある戦国城址及び如意寺西部遺構がある平坦地を経て最短距離で東山稜線に上る。古代・中世の如意越探索で独自推定した廃路跡のルートである。

そして、稜線分岐を南の山科方面に進み、昨年陶片を発見し文化財保護から古代遺跡と認定された写真の尾根上平坦地(右上部)と、その側面を破壊した林道部分に着いた。

前回同様、休息がてら遺構破壊面と散乱遺物を観察するつもりだったが、今回はいつもと違う状況となっていた。それは、写真に見える通り、遺構反対側の林道路肩にシートが掛けられていたことである。

この路肩は以前から亀裂による崩落の危険を指摘していた場所。実施したのは地権者で施工者の林野庁だと思うが、点検か、うちの記事で気付いたのであろうか(元来林野庁との会談の際にも崩落の危険を指摘)……。

何れにせよ、掘削土が除けられたものなので、数多の遺物が含まれていることを確認している箇所である。一先ず崩落は食い止められそうだが、遺物の観察が出来なくなったことは少々残念。


安祥寺山北尾根遺構の掘削面に見える、地山上に施された2層の盛土

盛土で1200年の風雪に耐える

ところで、掘削された遺構の断面観察から判ったのだが、写真に見える通り、遺構土台は異なる地質3層で構成されていた。

最下部の林道路肩上にある、傷ついた赤い層が「地山」、即ち山の基体の岩盤層で、遺物は、その上に載る黄土色の層と、更にその上の小石が多い礫層に含まれていた。

当初遺物は最上部の平坦面から落下してきたのだと思ったが、比較的深い地中に含まれており、実際、未だ平坦面からは発見されていない。

それらの状況に因り、尾根の上面を削り成されたと思われたこの遺構は、実は尾根に盛土をして成されたことが確実となったのである。

こんな高地の吹き曝しの稜線に土を運び足すという施工を古代行うことは大変かと思われたが、逆に掘削技術や工具が乏しい時代故に岩盤等を削るより土を足す方が容易だったのかもしれないとも思われた。

ただ、自然条件が厳しい場所故、高度な技術や慎重な施工が必要とされたであろう。1200年の風雪や天変地異に耐えて今ここに残ることが、正にその証。そしてその答えが、地山上に施された2層の盛土かと思われた。

詳細はまだ調査途上だが、きめの細かい黄土層は突き固められた版築粘土基層で、その上の礫層は耐摩耗性や排水を考慮した舗装層かもしれない。

ただの自然層かと思っていた遺構地下が実に興味深いものと化してきた。


安祥寺山北尾根鞍部の林道切通し近くで発見した青海波的圧痕のある古い土器かb器

遺構外での新発見

そうした視点で再度付近を窺うと、遺構面と同じ表層が更にその南北に続いていることに気付いた。かなり大規模な施工がされているようである。

そして、平坦地遺構南の鞍部切通し部分にて、その知見を証するように写真の遺物を拾った。古い土器片である。厚みがあり、無釉なので土器としたが、色は須恵器に近いため、ひょっとすると違うものかもしれない。

湾曲しているため、甕や壺のようなものが想定された。写真は裏面で、青海波模様のような特徴的な圧痕があある。


安祥寺山北尾根鞍部の林道切通し近くで発見した古代須恵器「提瓶」の首片

そして、更にその近くの林道上で写真の如き重要な遺物を発見。精巧な須恵器の破片で、その大きさから、古代の水筒「提瓶(ていへい)」の飲み口・注ぎ口かと思われた。

謎の古代容器「樽型はそう」とも思われたが、口径が小さく、首下の肩部分に扁平変形の跡も窺えたので、扁壺系の提瓶と仮定した。


安祥寺山北尾根鞍部の林道切通し近くで発見した表面に縄目がある古い土器かb器

これら二つの遺物も踏み壊しの危険があったので、後日文化財保護課に渡すべく代理回収したのである。

そして、その後、平坦地遺構東谷下の「西谷遺構」や、付近の独自遺構想定地等を探索し、大文字山山頂経由で帰宅した。

帰宅後、遺物に軽く洗いをかけて再度観察。写真は裏に圧痕があった土器もしくはb器(せっき。須恵器等の焼締め陶器)の表面。現地では気にならなかったが、なんと縄目らしき文様が付いている。


安祥寺山北尾根鞍部の林道切通し近くで発見した古代須恵器「提瓶」の首片とその口縁断面

異質の新遺物にまた謎深まる

同じく提瓶らしき須恵器片を観察しつつ、陶邑(すえむら。大阪南部にある須恵器の基準遺跡)編年と照合すると、これも意外な結果が……。

写真に見える通り、口縁部先端(右上)形状が鋭いものは提瓶の最初期のものとされる。つまり6世紀半ばの古墳時代に遡るという、驚くべき判定が出た。これは古式を想わせる前者の縄目土器の存在と合致するものか。

平安初期の遺物が出る平坦地遺構から僅かに離れた場所でのあまりの違いに驚いたが、これは何を意味しているのであろうか。詳しくは更に調べないと解らないが、またもや、この遺構の謎が深まったのであった。

いやはや、実に奥深い我らが裏山である。

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2020年08月09日

入盆視察

2019年に林野庁の伐採作業に伴う作業道工事で破壊された大文字山中の西谷遺跡と安祥寺川源頭部

盆入り猛暑の裏山鍛錬&視察

8月も半ばに近づいてきた。

盛夏同月の中旬といえば、15日の敗戦記念日と、送り迎えの「盂蘭盆会(うらぼんえ。所謂「お盆」)」が思い起こされる。

盆といえば、全国的・一般的には同13日から始まり16日で終るが、伝統的な京都市域(近世以前からの旧市街)ではそれより早く、7日から10日までが盆入り期間となり、あとは他所と似て、16日の五山送り火を以て終る。

一言でいえば他より期間が長いのであるが、それは偏(ひとえ)に、京盆地の尋常ならざる盛夏の暑さの所為だと例年思わされる。

その暑さ故、最早仕事や勉学等々が儘ならぬ為、開き直って物故者供養を拡大し、休養や親族交流に当てたのではないか、との勘繰りである。

そして、今年も梅雨仕舞いの先月末以降、お約束の暑さが続く。

更に今月4日から市内で35度以上の猛暑気温が観測され、迎え盆後半の今日9日も、同じく36度の予報が出されていたのであった。

一応盆入りとなり、またこんな気候条件、新型肺炎警戒の時期なので、大人しく家に居るべき、とも思えたが、今日もまた裏山は大文字山系に少々出掛けることにした。

実は、昨年行えず、今秋予定していた北アルプス・剱岳(つるぎだけ。標高2999m)登頂の体力鍛錬を行いたかったのと、今年6月に市の文化財保護課担当氏や研究家氏らと踏査した同山系南部の「西谷遺跡(平安初期の遺物散布地)」の再視察をしたいとの思いがあった。

まあ、剱岳の方は、拠点となる山小屋のコロナ休業等々の事情故、実施は難しいので、未練がましいものであったが……。

然りながら、裏山での鍛錬とはいえ、最早無理がかなう暑さではないため(医学的には登山を含む激しい運動を気温31度以上で行うことは危険とされる)、朝出掛け、正午くらいに帰宅する短時間・抑制的なものとした。


上掲写真 昨年林野庁の伐採作業に伴う作業道工事により破壊された西谷遺跡と安祥寺川源頭部。沢筋が重機で削り埋められ、林道化されている。


泥濘化する、安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡を埋めてつくられた林野庁の林道

朝とはいえ、既に30度前後の気温で、登山口までの短い街歩き、登坂も身を焼く道程となりながら山に入る。

そして、京盆地東縁となる東山の稜線を越え1時間程で西谷遺跡に到着した。その前に、前回同様、私が昔遺構に比定し去年遺物を発見して、今年晴れて古代遺跡と認められた山上平坦地付近を観察。

今回は特に新たな発見はなかった。

写真は前掲写真の奥側から逆向きに写したもの。即ち谷下から谷上を見たものであるが、路面がぬかるんでいることが判るであろうか。

水源である谷の源頭部を工事で単純に埋め立てたため、道ながら通行し難い場所と化しており、実際、写真奥に見えるように、歩行者は路肩歩きを余儀なくされている。

谷を埋める不都合は、今年3月に行った林野庁への陳情でも話し、溝切りで対処した旨の回答をもらっていたが、この通りの無施策であった。


林野庁の工事により安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡に生じた水溜まりと水抜き溝
林道泥濘部分の下部には水溜まりがあった。右の斜面に分岐する道により谷が閉塞された為であるが、その路面及び下流に素掘りの溝があった。林野庁が説明した溝切りはこの部分のみの実施であり、山や沢を良く考慮して成されたものではないことが判明した


安祥寺山北の西谷遺跡で見つけた古代の灰釉陶器片

さて、古代遺跡でもあるこの谷地にて観察を行うが、共同踏査の時とは異なり、目についた遺物は写真の物のみ。幅2cm程の小さな陶片で、古代平安期の灰釉陶器の破片であった。

私が発見した遺構で先月見つけ紹介した緑釉陶器と灰釉陶は、色具合により見分けがつき難いとされ、精確な判断には化学分析が必要だが、今回のものは貫入(かんにゅう。釉薬のヒビ)があったためすぐに判断できた。

鉛釉を使い低火度で焼かれる古代の緑釉陶器より、高火度焼成の灰釉陶器の方がそれが起こり易い為である。


安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡を埋めてつくられた林野庁の林道と谷を閉塞するような土塊

西谷遺跡での新たな発見

この様に、西谷遺跡では遺物は殆ど見られなかったが、現地を観察して新たな発見があった。それは遺物が比較的集中して出ている場所に閉塞土塁の痕跡のようなものを見つけたことである。

写真の中央左の土塊がそれで、埋められて林道と化した沢筋右側との接続も窺われた。ひょっとして、この谷の下流にある謎の閉塞遺構と関連するものであろうか。もしくは、この土手の上手に嘗て造成平坦地があり、その後浸食で下端の土留め部のみが残存した名残りであろうか……。

西谷遺跡は建屋跡が想定できない谷奥ながら平安前期の瓦や陶片等の遺物が数多く発見された謎の散布遺構である。今日の発見はこの謎に手掛りを与えるものとなるかもしれないが、尚更破壊を受けたことが悔やまれる。

そういえば、ここへの途中の古道破壊箇所に対して施された丸太階段に、ハイカーによるものと想われる礼を記した紙が貼られていたが、本来はそれより遥かに大きな損失を受けたことに皆着目してもらいたいと思う。勿論、人の配慮に対する純粋な気持ちを否定するものではないが……。

因みに、当初切りっぱなしであった古道への対策は、林野庁での陳情の際に私が依頼したもの。これまで通れた道が突然分断されていると怪我や遭難のもとになると意見した際、逆に対策を問われ階段等の誘導装置の設置を提案したのである(本来は切られた尾根等に丸木橋を渡して欲しかったが、作業規模が大きいことと既に工事が終っていたため言いそびれた)。


安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡下端の斜面下部で拾った古い漆喰か瓦片とみられるもの
西谷遺跡下方で見つけた古い人造物破片。古い漆喰片かと思ったが、湾曲が見られたので、古代の瓦である可能性もある。ただ、布目等の決め手が無いため詳細は不明。工事破壊面より上にあったので、横の山上から落下してきた可能性がある。実はその山上も私が密かに遺跡であることを疑っている場所であった。但し、個別の遺構としては認識されていないが、一応如意寺遺跡の範囲内なので、急な破壊等の心配は少ない場所であった。


五山送り火の火床から見た火床の一部と京都市街

西谷遺跡を視察後、また稜線に登り返す。樹間から市街が望める山上は風もあり涼しかった。そこで休息兼ねて、山科北部安朱(あんしゅ)の知己Wさんに電話し、安朱の小字(こあざ)調査への協力を依頼した。それは、未だその跡が確定していない安祥寺下寺調査の下調べの為であった。

コロナ軽視に似非送り火、一般入山危うし!

休息後、また大文字山山頂を経て下山した。写真はその途上にある五山送り火の火床から見た火床の一部と京都市街。

既に広く知られている通り、今月16日の送り火は新型肺炎の影響により大幅に規模を縮小して行われるという。残念だが、致し方あるまい。

そして、山上や登山道で感染未対策の人が多いことは前回同様だが、これは仕方ないでは済まされない。

以前も記したが、大文字保存会はこのことを大変憂慮しており、また先日あろうことか、大がかりな照明仕掛けを以て勝手に「大」字の送り火が再現される事件があったため、更に危機感を煽る状況となった。

火床を含む大文字登山道の大半は保存会の私有地という。これまで好意で出入りさせてもらえたこの道が近々封鎖される危険も出てきたのである。

皆さん、くれぐれも横着・非礼はされませぬよう……。

さて、予定通り、正午頃には帰宅することが出来た。街は、予報通りの堪らぬ暑さの巷と化しつつあった。

今日の半日山行は、盛夏・運動での疲労に加え、様々な問題も見えたが、新たな発見もあるなど、まあ有意義に終えることが出来た。

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2020年08月02日

暑中要務

安祥寺山北尾根遺構の側面を破壊して通された林道とその崖面崩落箇所

猛暑押し山上へ

漸く梅雨が明けた後の、最初の日曜――。

長雨と引き換えに、予報通りの酷暑がやってきた。

コロナ再拡大のこともあり、本来ならうちで静かにすべきとも思ったが、裏山奥の大文字山(如意ケ嶽)山系で発見した古代遺跡や遺物への豪雨影響が気になり、耐暑鍛錬を兼ねて出かけることにした。

今日も最高気温が猛暑日に近い予報だったので、涼しい内に向かうつもりだったが、色々と都合が悪く、結局午前遅くの出発となった。

一応午前中ながら、山際でも既に気温30度の超過が感じられ、また陽射しも強烈であった。因って、登山口に着く前に早くも暑さに疲れる。

そして、山路の木陰に入っても登坂の労と併せて身体の熱も増し、山上に出る頃には気分の悪さを感じる程となった。本来は斯様の日に「激しい運動」とされる山行をすべきではなく、実際、前回あれほど多かったハイカーも激減していた。

私は比較的短時間・短距離の鍛錬という名目と、水分の備えを厚くして臨んだが、やはり無理は禁物との思いを強くした。これも、今後想定される山での暑さ対策の一環ではあるのだが……。

実は、去年久々に北アルプスに行ったが、秋にも拘わらず、2度の山行(立山槍ヶ岳)何れも高山にあるまじき暑さを感じたという影響もあった。

さて、暑さに喘ぎ1時間程で達した山上は写真の通り。去年遺構の一部を壊して通された林道の崖面崩落が見られたが(画像中央左)、その他はあまり変わりは無さそうであった。ただ、見ての通りの切りっぱなし状態なので、今後の崩落等が案じられる。

そして、前回発見した主な遺物の残存を確認し、その内の一部を回収した。実は、事前に市の文化財保護の担当氏と協議し、近々破損や喪失の恐れある稀少遺物を代理回収し、後日引き渡すことになっていたのである。

これは、あくまでも緊急的措置なので、くれぐれも遺物の持ち帰りはされぬよう……。小さく、地味な存在ながら、窃盗や文化財保護法違反に問われる危険もある。

とはいえ、預かる私も責任重大。先ずは現地で遺物に付く土を乾かし軽く除去し、その後破損せぬよう慎重に梱包を施したのであった。

貴重な遺物の無事に安堵し、その後また周囲を見回し新たな発見を試みるも、無し。そして、下山の途に就いたのである。


大文字の火床からみた京都市街北部
大文字山中腹に開けた「五山送り火」の火床最上部からみた京都市街北部。晴れ間と雲影が混在していおり、恰も今の社会情勢を想わせる

最後にまたも……

山上の尾根道を進み、下山経由地の大文字山山頂(標高465m)を目指す。稜線とはいえ、低山故に樹々に恵まれた木陰の回廊的自然路。渡りゆく風も心地よく、猛暑の巷と化しているであろう下界に戻るのが嫌になる。

大文字山山頂では前回よりかなり減ったものの、多くのハイカーをみた。その多くが何ら感染対策をとっていないこともまた同様で、山上での密集・大声昼食会がたけなわだったのも、また同じであった。

あと気になったのは華人系外国人が山上や麓で見られたこと。留学組と思しき一団もあったが、明らかに俄来訪らしき観光客もいた。前者はともかく、後者はどうして入境したのであろうか。とまれ、両者共誰もマスク一つの対策もなく、人の近くで大声を連発する者さえいた。

京都での新型肺炎感染も日々2桁となり、また市中感染が始まった観があるが、この様に危機感のない者が多い。というか、そもそも「お願い」ばかりに頼って抑え込める訳もなく、実際その通りになった。

別に難しい話ではなかった筈。適所に簡単な規制をかけていれば、こんな二度手間・再難儀は生じなかったのではないか。始めの怪我への対応や費用(または政治責任)を出し惜しみ、結果重篤化し、莫大な出費・損害を強いられるが如き愚行となるような気がしてならない。

国策事業「なんやらトラベル」で京都に来る人も、くれぐれも油断なきよう……。

しかし、このままでは、いつまだっても状況が改善せず、迷惑千万の死活問題である。早くなんとかしてもらいたいものである。

と、また最後にコロナの愚痴が出たが、真面目・善良な読者諸氏には、平にご容赦をお願いしたい!

なお、貴重な回収遺物は引き渡しまでのあいだ観覧可能なので、興味ある人は早めに連絡を……。

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2020年07月19日

雨後発現

哲学の道・琵琶湖疏水分線に漂うオオカナダモ

梅雨の晴れ間にまたしても

最近、九州地方を中心に深刻な水害を起こすような雨が続いていたが、ここ京都付近もかなりの雨に見舞われた。

ただ、彼の地に比して大きな被害にはならなかったが、それでも、土砂崩れにより郊外の道が少なからず不通になるなどの損害を受けていた。

今日はそんな雨天が収まり暫く後ながら、漸く現れた晴天となった。但し、今日は日射が強く、30度以上の高温に曝されることに。実は、これまで厚い雨雲に覆われていた所為か、この時期としては珍しく気温30度未満で熱帯夜も無い日が続いていたが、それが一変したのである。

折角の好天となったが、残念ながら過酷な気候。だが、久々の週末の晴れ間で、かつ豪雨から日を経て土砂崩れの危険も減ったので、短時間の鍛錬山行に出ることにした。まあ、どのみち、予想通り新型肺炎再拡大も始まり、近場以外の選択肢がなかったという事情もあった。

山行の場所は、お馴染み、拙宅裏手の大文字(如意ケ嶽)山系。午前から出掛け、あまり気温が上らない内に下山するつもりの短時予定であった。なお、先月やそれ以前同様、また同地の記事となるが、上記の通り新型コロナのこともあるので、何卒ご諒解を……。


上掲写真 暑さを避け午前から行動したものの強烈な日射と高温はかわせず、多めの飲水共々慣れぬ暑さも負うことに。そんな状況に対し一服(一幅)の涼として掲げた大文字山麓を流れる琵琶湖疏水分線のカナダモ。冷水特有の固有種「梅花藻」なら尚良しの風情だが、まあ贅沢か……。


掘削崖面下部の地層境界に白いスプレーで点線が記された安祥寺山北尾根遺構破壊箇所

古道での発見経て山上遺構へ

裏山に向かうとはいえ、闇雲に行くのもつまらぬので、以前市の文化財保護の担当氏や現地研究家氏らと調査した、安祥寺山を目的地とした。

実は、その付近には調査後も訪れたことがあったが、林道工事で破壊を受けた現地遺構の、豪雨影響を視察したいとの思いがあった。

前回同様、今回も京都市街東郊・鹿ケ谷(ししがたに)から登ったが、中腹まで主路とは異なる間道を進んだ。古道探査を兼ねたものだったが、意外にも新たな竪堀(たてぼり)跡らしい痕跡を発見することが出来た。

何事も観察を続けるものである。良く知ったつもりの場所でも、何度も観察することで見えてくることがある。

竪堀は山腹斜面の横移動や道を断つために掘られた山城特有の防御施設。戦国期の如意ヶ嶽城に関連するものとみられるが、当該古道がその頃まで遡れる存在であることの物証となる可能性を秘める。そして先に確認していた複数の推定竪堀の存在から、その可能性を更に高める発見となった。

ただ、気になったのは、一般登山者には殆ど知られず、これまで人と遇うことも無かったこの道で数人と出会ったこと。あまり慣れた感じではないため、緊急事態宣言後に増えた一時的な遊山者に思われた。そして、マスク無しで対向者に最接近――。方々、益々油断ならぬ状況と化してきた。

思えば、先月辺りから行政が熱中症対策として運動中のマスク取外しを盛んに奨め始めたのを機に、ジョギングや登山者におけるその着用率が急減したように感じられる。話の主旨は解るが、外すのなら、人から離れることも徹底させないと事態悪化に繋がりかねないことは自明の理であろう。

さて、写真は、古道を進み、谷を遡上して辿り着いた今回の目的地。重機で削られた遺構側面と国有林作業路であるが、掘削断面の地層境界に白いスプレー塗りで点線が記されていた(画像左の崖面下部)。

前回、保護課担当氏とK先生が遺構面と地山について話していたが、その後、本格的な調査の前準備として印をつけたのであろうか。


安祥寺山北尾根遺構傍の林道崖で発見した土師器の破片

山体破壊に因り豪雨の影響を受け易いと案じられた現地に、幸いその害は見られなかった。ただ、念のため、以前遺物を発見した場所を観察すると、大きな土器片を発見した。

写真中央のものがそれで、幅7cm程の古代土器「土師器(はじき)」の破片であった。前回皆で念入りに探したので、もはや小片しか無いと思っていたので意外だったが、この他にも新たな物を多く発見できた。

それどころか、遺構対面の林道谷側の土砂にも多くの土器片や灰釉陶器を発見し、散乱範囲が広いことも判明した。


安祥寺山北尾根遺構横の林道路面に突き刺さる緑釉耳皿の破片

珍品発見

こうして、安祥寺山遺構付近で意外の新知見を得たが、そろそろ引き返そうとした時、足下に奇妙な造形があることに気付いた。

写真中央の物がそれで、林道路面から突き出る形で、明らかに人造による丸みと光沢を有し、只ならぬ存在感を発していた(但し、写真は一旦それを引き抜いたあと撮影の為に一時戻した状態)。


安祥寺山北尾根遺構付近で発見した緑釉耳皿の上面

地面からそれを慎重に引き出してみると、写真の如き大きな陶片であった(撮影は塵紙で拭った後)。この場所では初見となる緑釉陶器である。濃い緑の色合いも良く、なかなかの逸品に思われた。

形は皿状ながら、縁が上に反りかえっており、当初は不良品かと思ったが、その後、古代の「耳皿(みみざら)」と判明した。

耳皿は、皿の左右の縁を巻くように上反りさせた形が特徴的な器で、箸置きや匙置きに使われたとされるが、詳細は不明である。平安時代初期頃のみ、生産されたとみられ、同時代の各地の遺構での出土例がある。

その中でも緑釉のものは、初め平安京の北郊、後に西郊でも生産され、その後、猿投(さなげ。現愛知県中部)や防長(周防及び長門国。現山口県)でも作られたという。その存在の位置付けは、大陸からの輸入陶器に次ぐ品として、官営工房で精到に製された高級陶器であった。

とまれ、その規模と場所に因り、人気(ひとけ)が感じにくい遺構ながら、何やらえらい物が出てきた。第一、時代幅の狭いこれが出たということは、遺構が平安初期という頗る古いものであるとの確証を与えるものであった。しかも、その造りの良さから、京郊で製作された物、即ち9世紀初期頃である可能性も高まった。

私が昔記した論考(地形や各種境界及び周辺寺院・城郭との関連等から推察)と、K先生による土師器片の見立てが的中したと言える発見となった。

早速また保護課に連絡しなければならない。場合によれば、私が想う以上に重要な発見となるかもしれない。


安祥寺山北尾根遺構付近の林道上で発見した緑輸耳皿裏面とその平高台
発見した古代の緑釉耳皿の裏面。高台形式は「平高台」。この他、今日諸々の遺物発見で、結局この遺構も尾根東下の西谷遺跡同様、多彩な遺物を包蔵することが判明し、年代的にも益々そことの繋がりが深まったと言えそうである


安祥寺山北尾根遺構の林道崖上部にある謎の掘削跡

もう一つの謎

最後に貴重かつ珍しい遺物を発見して現場を後にしたが、この遺構に関するもう一つの謎についても記しておきたい。

それは、遺物の発見が集中する崖面の上部に更なる掘崩しがあることである。写真がそれで、長い切通し区間の中でもここのみにあり、道を通す施工には本来関係のない処置のため実は遺物発見当初から気になっていた。

よって、今日詳しく観察してみたが、それによると、崖上平坦面に残る施工前から存在する朽木の状態から、重機を使ったものではなく、崩落もしくはショベル掘削等により土が落ちた、または落とされたことが判った。

ただ、画像左のように木の根等により簡単には落ちない筈の表土層が、切り取ったように無くなっていることから、人為である可能性が窺われ、また、比較的多量となる筈の残土が綺麗になくなっていたため、道路施工時にそれが行われたと判断された。

ひょっとして、施工中に何か重要な物、または目立つ物が出土し、余分に掘られたのではないか……。施工法や残土処理のことも含め、一度担当業者に聞き取り調査をした方がいいように思われた。なお、施工中に保護課が試掘等を行った可能性もあるので、それも問い合せたいと思う。

山中での困った状況

諸々の観察を終え、帰路に就く。帰りは大文字山山頂経由で下山することにした。それにしても人が多い。遺構へ向かう尾根道でも、遺構観察中でも多くの登山者と遭遇した。

それらは中高年の団体が多く、恰もコロナ騒動以前の状態に戻ったようである。否、以前は来なかった層も多いので、それ以上の人出とも言えた。

その中には、作業道に立つ私を見て本道と間違え接近する老年集団もあり、危険を教え道を正させても挨拶すら返せない無礼引率らもいた(元より、最近の年寄りは物や礼を知るという年長の徳を備えた者が少なく、却って10代の若者に好感を覚えることが多い)。

そして、マスク持参等の感染対策率が極めて低い。それらの中には数十人が密集の列をなす、観光ツアーさながらの一団もおり、呆れさせられた。身内だから大丈夫、野外だから大丈夫とでも思っているのであろうか。その後、休憩のメッカ、大文字山頂を通過したが、想像通りの密集昼食会の巷と化していたのであった。

やはり、前述の行政による熱中症警告が、誤ったメッセージを送ってしまったようでならない。因みに、私だけが危惧しているのではなく、山中の相当域を管理する「大文字保存会」も緊急宣言頃から急増した登山者とそのマナーの悪さを指摘・公表しており、現に銀閣寺側表登山口には感染対策の徹底を呼び掛ける注意書きを掲げている。

この様な状況なら、早晩何かが起るか、その前に入山が規制されかねない。全く困ったことである。

最高気温避け下山

そして、昼過ぎに無事下山。朝から既に暑かったが、猛暑日気温に近い日中最もの高温は避けることが出来た。

色々と世情への憂慮も生じたが、意外にも興味深い発見を得られた、鍛錬以上の山行となったことは、喜ばしいことであった。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2020年06月12日

古跡共検

京都市山科区北部、安祥寺山麓にある後山階陵

御大と共に彼の地へ

今日は昼過ぎに家の近くで人と待合せし、少々出かける用があった。

先月5月9日に紹介した、安祥寺山山中の謎の人跡のことを京都市の文化財保護課に報告していたが、保護課がその実検を行うこととなった。

それに伴い私にも同行の依頼があり、日時調整の末、今日決行することとなったのである。そして、保護課のK女史の運転する公用車に同乗して現場最寄りの山科へと向かい、山科駅裏で更に同行者を増やした。

地元民しか知らない密やかな駅裏で待っていたのは、某大学で教鞭をとるK先生。元は市の保護課や埋蔵文化財研究所に在籍した人であり、如意寺(にょいでら)や檜尾古寺(ひのおのふるてら)等の如意ヶ嶽(大文字山)山系の古代遺址発見に貢献した現地研究の第一人者であった。

最近、同山系安祥寺山山中にある古代山岳寺院「安祥寺上寺(あんしょうじかみてら)」跡の研究に重点を置くと聞くK先生は、K女史から私の人跡の話を聞き、現地での実見を希望したという。

こうして、思いがけず現地研究の御大との同行踏査が叶うことになったが、喜ばしく思ったのと同時に、神妙な気にもさせられた。

思えば、小時より遊びや行事で関わった山域であり、成人後は京都博物館の「五智如来坐像」に感銘を受け、後にそれが安祥寺上寺の本尊であった可能性があることを知り、奇縁を感じたことを思い出す。ここに関する何か様々なことが、時空を超えて繋がったような感触を覚えたのである。


上掲写真 京都市山科区北部安祥寺山麓にある後山階陵。平安初期の皇太后で安祥寺の発願者である藤原順子(のぶこ)の墓所に比定されている。踏査の始まりはこの墓前を過ぎてから。奇縁の源、象徴的場所である。


山科北部山中にある謎の土門状人跡
山科北部山中にある謎の土門人跡。土塁の上から中央の沢筋を見たものだが、上流側に古い石組が見える。それは対岸の土塁縁にまで続いている

もう一つの謎遺構問う

K先生と軽く挨拶を交わし現場へと向かう。当初車を停める場所を心配したが、先生が熟知していたので林道内の適当な場所に停めることが出来た。

そこから徒歩で山に入ることとなったが、その前に作戦会議と称して先生が持参の地図を広げる。都市計画図と絵図等の必要史料を合成した大判手製のもので、計画図にはこれまで調査された遺構が書き込まれていた。それには報告書等で公表されたものと、未調査・未公表のものがあった。

さすが、長年に渡り現地で成果を挙げられた第一人者。その縁にはビニールが付けられ、現場での利便性向上も図られるなど、「山林考古学者」の強力な工具というべき体裁が整えられていた。

その手製図にて、これから向かう場所等を確認し、先生がまた巻いて片付けようとした際、私は図上の、ある書込みに気付いた。それは、以前から気になっていた谷を閉塞する土門状の人跡がある場所であった。

以前の巡検でも紹介したその場所は、当初は遺跡地区にも入れられず、何の報告もない謎の人跡だったが、やはり先生は留意していたようである。

今回は、ちょうどそこを通過するので、皆で見学し、先生に意見を訊いてみた。すると、やはり古い人跡で、門か貯水遺構を考えているとのこと。ただ、門としては、場所柄、私は戦国期の城塞関連を想定していたが、先生は檜尾古寺の正門等の寺院関連を想定しているとのことであった。

発掘等の詳細な調査をしてみないと判らないが、先生が把握している人跡なら、突然破壊されるようなことはあるまい、と安堵することが出来た。


安祥寺山国有林の伐採作業に伴い、削られ埋められた安祥寺川源流部と古代遺物散布地

源流部の遺物宝庫

土門関(大陸風のあくまでも自分だけの呼び名)の見学を終え、古道を上がって谷の最上流部に至る。ここは、昨年の12月14日の記事後半でも紹介した、林野庁の伐採林道開削により破壊された場所であった。

上部の稜線を切り通し谷底まで延ばされた重機道は、山腹を削り谷を埋めるという痛ましい光景を現出させていた。古代からほぼ変わらなかったとみられる谷底の形状や自然環境は写真の如くほぼ壊滅状態と化していた。

上部から観察して状況を把握していた私も改めてその酷さに驚いたが、なんと、K先生やK女史もこんなことになっているとは知らなかったという。

ここは大変古い遺物が多く出土する謎の散布地で、歴とした遺跡指定地。嘗てその調査を担ったK先生も方々見回して怒ること頻り。どうやら保護課を含め、関係者はこの場所まで壊されることを知らなかったらしい。曰く「聞いていない」と。正に「内堀まで埋めるとは聞いていないぞ江戸幕府」みたいな感じか(但し「大坂の陣」は同意だった可能性がある)。

ただ、私は去年の施工中に連絡した筈ではあったが……。


安祥寺川上流で発見した平安初期の緑釉陶器の蛇の目高台部分の破片
平安初期のものとみられる緑釉陶器の破片。「蛇の目」と呼ばれる底縁が広い高台(器裏)部分で、ある程度の形を保っていたものが、重機の掘削により割られたとみられる

K先生は呆れぼやきながら足下から早速陶片等の遺物を見つける。さすがである。私も真似て探すと、すぐに掘削面で見つけることができた。

写真のものがそれで、黄色い生地に薄緑の釉薬がかかる、所謂「緑釉陶器」であった。平安初期まで遡れる大変古い遺物である。他にも須恵器や土師器等の様々な古代遺物を見つけることが出来た。破壊を受けたものの1200年前の遺物をこんなに容易く目に出来るとは改めて凄い所である。やはりこの山域はまとめて保護しなければならないとの思いを強くした。

そしてK女史が、持参したビニール袋に早速それらを入れ始めるなど、ちょっとした発掘作業となった。写真の左端に見える小さなスコップはK先生秘蔵の発掘道具。訊いてもいないのに「100均やけどな」と自ら明かすところが、気さくで面白い(笑)。

乗っけから寄り道行為に過ぎるとK先生は笑うが、ついでに私が以前踏査で発見した付近の人跡について報告する。散布地の謎とも繋がるため、先生も興味を示したが、更なる脱線となる為その確認はまたの機会となった。


安祥寺山北尾根を斜めに切るように付けられた車道と遺跡側崖面の崩落

稜線上の新遺構にて

破壊の痕跡が生々しい源流谷での採取を経て山上の稜線に出た。そこもまた昨年末から紹介している伐採道による遺構や環境の破壊箇所であった。

写真は今回撮影したもの。尾根を斜めに切るように車道が付けられている。私が左側の平坦地を遺構と推測した一文を昔まとめた縁で掘削面を調査して土器片を発見し、新たに遺跡地区に含まれた場所でもあった。

今回改めて現場を観察すると、やはり危惧通り、掘削面の崩落が始まり(画像中央左の路肩等)、上部にある遺構面を危うくしていた。また、右の谷側も路面に大きな亀裂が現れ、斜面崩壊の危険が生じていた。

K先生もこの辺りの工事についてある程度聞いていたらしいが、改めて現場の状況を見て呆れる。曰く古道が残る尾根は特に改変すべきではないと。


安祥寺山北尾根遺構にて梶川先生が発見した大きな土師器片

ここで、両氏に平坦地及び掘削面での土器・須恵器発見の場所を教え、現場に残る遺物を見てもらう。

K先生は早速付近にて写真(中央)の土師器片や鉄片を発見。土師器はかなり大きなもので、思わず、「さすがゴッドハンド!」と呟いてしまった。但し、これはあくまでも尊敬からくる感嘆であり、昔、世を騒がせた一大考古学事件と関連するものではない(笑)。

とまれ、K先生の見立てによると、ここの遺物も大変古いもので、平安初期まで遡れそうとのこと。いやぁ、僅かな数だったので当初は自信がなかったが、保護課に報告しておいて良かった、と改めて思わされた。


京都市文化財保護課職員により袋に採取された安祥寺山北尾根遺構の遺物

ここでも、ちょっとした発掘作業を行う。写真の如く、K女史が素早く用意した袋に遺物を入れる。袋には、いつの間に記されたのか、現地座標と標高の表記があった。

以前私が発見した遺物は全て風雨により路端に落ちており、踏み砕きや散逸の危険があったが、こうして無事回収されたので安堵出来た。本来の目的ではない、ついでの作業ながら、個人的に喜ばしい寄り道となった。

なお、K先生は上の平坦地について私同様20年程前から気になっていたという。その際、一応上面を調べたらしいが、何も発見できなかったらしい。

平坦地は先程通過した谷底の遺構散布地の直近上部に当たるため、ここが遺構と確定されたことは大変重要なことという。即ち、ここの施設から谷下に遺物が落ちたのではないか、とのこと。谷下は施設を営むには不向きな場所で、遺物の年代的にも合致しているためである。

K先生はここからの京都市街の眺め、即ち当時の平安京の眺めが良いことを指摘しつつ、小堂を伴う祭祀場か何かがあった可能性を示した。即ち、非常住の宗教施設である。その理由として、水場が遠いことや尾根上という居住困難をあげた。

私も同じ理由で、現地南にあった安祥寺上寺の寺門等の境界施設を、嘗て小文上で推論した。


作業道の路端に散乱する採取前の安祥寺山北尾根遺構の遺物
作業道の路端に散乱する土師器片(煉瓦色の破片)。これらも全て採取。K先生は、この他相当な遺物が重機に削り取られたのではないか、と語った。残念無念、正に「言わんこっちゃない!」の惨状である


側面からみた斜面上にある後山階陵の墳丘

本題の謎遺構へ

さて、有意義な寄り道が続いたが、結構時間を費やしたので本題の場所へと急ぐ。そこは、一旦安祥寺山を登り切ってから暫く下った先にあった。

皆で頂部の急登等を進むが、K先生の足の速さ、歩きの確かさに少々驚く。後で聞いたところによると、私同様遺跡とは別に登山も好きで方々登っていたらしい。また、事務所をそのまま抜けてきた装いのK女史の歩みも確かであった。登山に馴染みはないが方々の調査により慣れているとのこと。

その後、本題の箇所に着く。最初に現れたのは安祥寺上寺の真横に位置する別尾根上の小頂。経塚跡と同じ石材の散乱が見られるため同様の遺構か小堂のようなものがあったとみる。なお、そこを含む今日の本題3箇所についての画像や詳細は、先月5月9日の記事にある。

小頂の場所についてK先生にも説明したが、先生としては経塚らしい盛り上がりが欲しいところ、とのこと。なるほど、確かに既存の経塚跡は小頂上に更なる盛り上がりを持っている。それでも、私としては留意すべき位置であることを伝えられたので、一先ずの役目は果たせた。

次は、平坦地用に掘られたと思われる尾根上の切岸である。地面に傾斜が残るので平坦地としては微妙な場所だが、確かに人為的なので皆写真に収めたりした。

そして、最後の今日の本命的人跡はそのすぐ下部にあったが、K先生はそれを見た途端、これは戦時中の高射砲陣地跡だと発した。以前そういう話を聞いたことがあるらしい。確かに入口が小さく奥が広く深いという各穴の形状は火砲を置くのに適しており、窯跡や採掘址のような矛盾は少ない。

ということで、あれだけ悩んだ本命の謎遺構は瞬時に解決となった。一先ずお騒がせとなったことを両氏に詫び、踏査を終えることとした。

北山科製鉄遺跡の謎解決

写真は下山時に傍を通った後山階陵の側面である。

安祥寺山山裾斜面上に墳丘のようなものが見えるが、本当に御陵かどうかは解らないらしい。それでも、安祥寺の発願者で、今日の縁の源的人物の墓所だったので、K先生を始めとして皆でその墓前に詣でた。その後、陵墓前の林道上にて先生が「鉄滓(てつさい)」を探す。

この付近は奈良時代の製鉄址として遺跡地図にも記載されており、付近に散らばる精錬残滓の鉄滓はその根拠になっているとのこと。先生曰く、昔は大きなものが沢山見られたが、今は減っていると。

皆で探してみると、黒く重い小塊のそれが、路上に幾つもあることが判った。昭和期の産廃残土が混ざる変哲無き林道上に、古代遺物が多く残ることに驚く。但し、鉄滓はごく狭い範囲にしか見られず、炉跡等も見つかっていないらしい。即ち、鉄滓のみの歴史痕跡である。

ここに古代の製鉄址があることは前から知っており、近くに石碑もあったが、遺構を示すものがなく、今までどこがその跡なのか謎であった。だが、調査したK先生と同行出来たお蔭で、その謎を解決することが出来た。

空振りあるも有意義な共同終了

そして車輌まで戻り、一同帰還することとなった。今日は本題本命の人跡については空振りとなったが、稜線平坦地遺構を研究大家のK先生及び保護課のK女史に実見してもらうことが出来た。

また、それにより谷底遺構等との関連等、新たな知見を得ることが出来た。何より、専門家・専門部署との共同により私自身の得難い学びとなった。時間的には短時間ではあったが実に有意義な機会となったのである。

溝穴人跡砲台説への疑問と謎

のち、私自身で空振りとなった溝穴人跡の件をまとめようとしたが、そのなかで幾つかの疑問が生じたので、制作した現地の略図を送付するついでに、意見を付すという形でK女史に報告しておいた。本来はK先生の情報源への調査が優先されるべきだが、一応その疑問点を以下に掲げる。

1.高射砲は空中を縦横に行き交う航空機に対応するため通常回転台座を備えており、そのため陣地は一般的に円形(穴)となるが、当該地は異なる。

2.当該地は後方の土崖が死角となるため対空陣地としては不向き。

3.空襲は高高度侵入が基本で、旧軍はそれに対応した砲不足に悩んでおり、設置場所はより高所で航空機の通路下に設定された筈。実際、周辺で最も標高が高い牛尾山(音羽山。東海道上の要衝)山上に砲台があったとの話を聞いたことがあり、当該地を高射砲台とする価値は低い。

以上のことから、当該地は高射砲ではなく、水平・仰角射撃を目的とした固定砲台であった可能性を考えた。

実際、電子データを合成した当該地南方の仮想眺望図では、手前の山陵(鏡山)や東山を越え、遠く府南部一帯まで見渡せる。

当該地に設置可能な当時の砲の最大射程は15km前後なので、機甲師団の通路となる府境や山科盆地(醍醐含む)入口付近に達した目標を迎撃出来る。また戦中軍需工場と化していた鐘紡山科工場の低空守備にも使える。

しかし、上記の理由でも当該地がその適地であったことの確証はとれない。一応、時代を広げ、幕末辺りの東海道警備も考えたが、山陵が邪魔になるため不適であった。

その後、調査により更に以下のことが判明。

山科と京都市街の間にある花山天文台南の山上に戦中構築された高射砲陣地跡があり、やはり円形であった。

そして、その調査の際、奇妙なことに気づく。それは、終戦翌年に米軍が撮影した高解像空撮写真に当該地構築の様子が見られず、現在同様の山林として写っていること。花山砲台の同写真では円形陣地がはっきり確認出来るにも拘わらず、である。偽装されている可能性もあるが、20m×100m程にも及ぶ真新しい掘削が全く確認出来ないことは不思議である。

そもそも、時節柄、迅速に構築せねばならない射撃陣地を、重機も入れない尾根を10mも掘り崩してから成すとも考え難く、大量の土砂の処理だけでも大変だった筈。あと、元々あった筈の尾根古道が残存尾根上に見られない(尾根が遮断され相当の時間が経った?)ことも謎であった。

以上のことから、砲台に先行する何かの古い人跡があり、その場所に砲台が設置されたか、そもそも砲台ではない可能性も考えざるを得ない。K先生の情報源の確認が優先されるべきとは思うが、個人的には注意が必要な存在ではないか、との結論を暫定ながら得た。

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2020年05月09日

続連休急用

鹿ケ谷上方・大文字山中の如意寺(にょいでら)宝厳院跡の平坦地と、その奥に続く古道候補地の谷

「連休急務」裏山編

新型肺炎騒動における日本全土・緊急事態宣言下の黄金週間――。

一般的には5月6日の振替休日を以て終了したようだが、人や会社に依っては同10日、日曜までということもあるようだ。

元より各種学校なぞはそれ以前から閉じられたままだが、それより、業務が再開出来ない、出社出来ないという施設や人も多いと思われる。その証に、6日以降の平日も、街や公園には砕けた格好の働き盛り世代が多く行き交う、正に万年休日の如き状況が現出している……。

改めて、大変なことになってしまった、と感じざるを得ない。

基本連休の恩恵のない零細の身ながら、自身のこと以上に世間を心配してしまう。まあ、零細故にその影響が大きいということもあろう。

そのような情勢下、また週末が巡ってきた。表題に「連休」の文字を記したのは上述の状況故。本来個人的に土曜は業務予備日、準営業日なのであるが、天候の関係から、予定を入替え、急遽出掛けることにした。

場所は家裏の大文字山(如意ヶ嶽)山域。目的は山行鍛錬を兼ねた健康保持のための自粛対象外の散歩・ジョギング的行動。そのついでとして、以前から取り組んでいた山中の古道や遺跡の探査も予定した。

実はついでながらの遺跡探査は、気温が日に日に高まるなか、藪の繁茂で今後困難になる恐れがあった。最近把握した公未知の遺構を市の文化財保護課に報告し、先日の様にそれらを含めた保護区域の早急なる拡大を促す必要があったため、前回同様「急務」の文字を表題に記したのである。

なお、人と会い難い山中(実は今公園や河原等は人が増え危険性が高まっている)とはいえ感染対策を施し、また裏山での短時行とはいえ救難装備を完備して望んだのも前回同様。くれぐれも安易に真似されぬよう……。


上掲写真 京都市街東部・鹿ケ谷(ししがたに)上方の大文字山中にある如意寺(にょいでら。10世紀中?-16世紀?)宝厳院推定地とされる平坦地(手前)と、その奥に続く古道候補地の浅い谷(中央奥)。


如意寺宝厳院推定地南から稜線へと続く、古道候補地の浅く広い谷

先ずは古道探査しつつ山登る

今日も鹿ケ谷から山に入るが、先ずは明治中期の初の近代地図に描かれた、沢筋や滝の急斜を避けるように中腹を巻く古道の、麓接続部を踏査。

それは、現車道から分岐して山に続く形で存在するのだが、古道自体は途中で民家の敷地に取り込まれて不明瞭となっていた。恐らくは明治以降に延伸された現車道の突き当り部分との接続に変更され廃れたのであろう。

また、大文字山の火床方面から小さいながらも鋭い谷が横切るので、往時は橋が必要だったとみられることも判明。鎌倉期の如意寺を描いた古図にある、小橋と築地門を備えた麓の施設「鹿谷門」の場所であろうか。

その後、沢筋や楼門滝を通る「現在の如意越」古道を進み、中腹の宝厳院推定地に達した。以前は堂跡背後の谷から稜線に至る道を古代・中世の如意越の有力候補としていたが、今日は堂跡の右(南)にある谷を探った。

実は、地形図の検討により、峠とは直接繋がらないものの、近江方面の東の山腹や堂跡に抜けるには、このルートの方が一寸交通効率が良いのではないかと感じられた為である。

さて、宝厳院推定地から当該の谷を進む。写真の如く、広く浅い谷となって上部へと続いていた。


如意寺・宝厳院推定地南の浅谷で発見した、古道跡とみられる掘り込み
宝厳院推定地南の浅谷で発見した、古道跡とみられる掘り込み(中央)


如意寺・宝厳院推定地南の浅谷上部を覆う崩落土

宝厳院推定地南の浅谷では、古道跡らしき痕跡を発見したが長くは続かなかった。平坦地裏の谷とは異なり、後代に引き継がれなかったからか。

そして稜線近くに至ると、写真の如く谷全面に崩落土を見る地貌となった。雪崩れたような地表、小石を多量に含む様が判るであろうか。

どうやら、地質的に問題があるのかもしれない。


京都東山の稜線古道から見た、如意寺宝厳院推定地の南に続く谷の源頭部

浅谷内の崩落土地帯を抜けると傾斜が増し、間もなく稜線に出た。写真は稜線古道から見た浅谷方面。だが、それへの分岐は確認出来なかった。

谷全体としては地形図通り傾斜が緩く、主路としての可能性も窺えたが、結果的に、堂跡背後の谷と比べ、平坦地や道跡等の人跡に劣り、また崩落土の存在や雰囲気的にも、有力視し難いルートであるとの感想を得た。

ただ、遺構後背地や接続地として価値はあり、保全の必要は十分感じられた。


東山稜線から見た安祥寺山国有林の風倒木皆伐現場

本題手前での思わぬ発見

東山の稜線反対側には写真の如く、先日報告した林野庁の風倒木伐採現場やその作業道が見えた。所謂「安祥寺山国有林」である。

東山の稜線まで登りつつ古道踏査したあとは、今日の本題であるその安祥寺山の遺構に向かう。大文字山山頂へと北上する尾根道を途中から離れ、南は安祥寺山への尾根道に入った。


安祥寺山北尾根の林道掘削現場で発見した古代の須恵器とみられる陶片

安祥寺山へ向かう途中、以前土器を発見した、伐採林道による山腹破壊箇所に立ち寄る。前に報告した通り、土器発見を報せた文化財保護課の調査が入り、遺跡地区拡大のきっかけとなった場所である。

発見した土師器(はじき。土器)のその後を見ようと寄ったのだが、なんと、その付近で新たな遺物を発見した。それは写真中央の陶片である。

膨らみのある器物の破片で、灰色・無釉・焼締めであることから、古代の大陸式高火度陶器・須恵器(すえき)とみられた。手に取って見ると、薄いその表面に轆轤(ろくろ)に因るとみられる回転痕も見られた。

この他、近くでまた新たな土器片を数点発見した。いずれも最初の土師器同様、上部遺構面から滑り落ち、掘削面に留まった状態である。以前念入りに確認して見つからなかったにも拘わらず今回容易に発見出来たのは、恐らく風雨で洗われたか、新たに遺構面から落ちた為かと思われた。

ともかく、この遺構や尾根の価値を高める良い材料となる。実は、自らの論考と少数の土師器のみでは、少々心許なさを感じていた。しかし、こうして更なる遺物を目に出来たので、確信を持つことが出来た。

是非また保護課へ連絡し、遺構の存在及び価値の補強にしたいと思った。


安祥寺山北尾根の林道掘削現場で発見した古代の土師器とみられる土器片
安祥寺山北尾根の林道掘削現場で新たに発見した古代の土師器とみられる土器片(中央上と同左下にある肌色の2点)


安祥寺山山中の尾根上にある謎の大平坦地と段差面

安祥寺山の未知遺構

本題前の立ち寄りでの思わぬ発見に因り、少々時間を取られたが、更に進んで安祥寺山の核心部に入る。

そこは平安初期創建の真言山岳寺院「安祥寺上寺(かみでら)」があった山地で、その主要堂舎跡と経塚が遺跡指定されている他、個人的に様々な人跡を確認していた。

その一つが、写真の平坦地段差。樹々で判り難いが、写真の上部1/3くらいの位置に高さ50cm程の土崖が一線に続いている。付近は幅40m前後もある尾根上の平坦地になっており、それを数段に分けるようにした、切り落としの一つかと思われた。

寺院関連の施設、しかもかなり大規模なものの遺構の可能性もあるが、地表を観察しただけでは遺物は見られなかった。


安祥寺山山中にある謎の人跡

そして、今回最も核心的遺構に至る。同じく尾根上に構築された溝穴である。恐らく人為製と思われる土崖の下に、大小幾つも連なって存在する、かなり大規模かつ謎の人跡であった。

写真はその内の大型のものを傾斜の下部側から捉えたもの。下部に谷状の口を備え、その奥に逆三角形状の大きくかつ深い穴がある。

周囲に遺物は見当たらないが、大量の灰状土が見られるため、何かの窯が想像された。だが、管見に該当するものはない。古代の穴窯や中世の大窯等の焼物窯、炭焼窯・製鉄遺構等を考えたが、入口より穴底が深いため、燃焼効率に劣り、それらに当てはめるには無理があった。また、地下資源等の採取跡の可能性も、穴が成型され個別に存在するため考え難い。

とまれ、一先ず保護課への報告用に撮影や観察を行う。因みに、数十年来付近を通行していたが、最近まで全く気付かなかった。近年、詳細不明の古代寺院・檜尾古寺(ひのおのふるてら)の推定遺物が大文字山付近で発見されたように、鹿の食害で藪が払われた所為か。


古代の経塚か仏堂跡を疑う、安祥寺山の小ピーク

謎の人跡の次は同じく尾根上の小ピーク(頂)へ。写真がそこで、一見何の変哲もない山上景に見えるが、実はその位置や姿、そして類似石材の存在等から、未確認の経塚跡、若しくは堂跡等ではないかと考えている。

安祥寺山は大変対称的な形状をした山で、既知の遺構もそれに拠り実にシンボリックに配置されている。その為、密教曼荼羅の「中台八葉」のような施設配置も想定され、実際それに対応するような地形がみられる(中心伽藍、安祥寺上寺本堂「礼仏堂」には正に金剛界曼荼羅の中心「五智如来(現存国宝)」が配置されていたという)。

故に、安祥寺山は全山遺跡区域化され、保護されなければならない。近年、恒久車道(防災道?)の延伸により核心部にも破壊の手が伸び、更に拡大の恐れも生じているので、一刻も早い遺跡指定が望まれる。

私の個人的調査の目的も実はそこにあり、なんとか実現させるべく、こうして行動していたのであった。


大文字山火床から見た京盆地を覆う厚い雲と緊急事態宣言下のハイカー

帰路大文字山頂と火床視察

謎の平坦地や大規模掘削遺構、そして経塚推定地を踏査後、更に別の推定地等を巡り安祥寺山を後にした。

今日も午後から天気が崩れるとのことで、帰路立ち寄った写真の大文字山火床(送り火の点火場所)では京盆地を覆う厚い雲の姿が見られた。

人と会わない間道を選べたにも拘わらず、敢えて人がいる道程を採ったのは、緊急事態宣言下の人の様子を窺うため。目論見通り、山頂や火床では時勢・天候にも拘わらず多くの人がおり、写真にもそれが窺える。

相変わらずマスク無しで、密集も多く見られ、特に欧米系の集まりが気になった。日本は彼の地に比して感染者が少ないため、別天地とでも思っているのか。山に限らず日頃感じていたが、開放感や親睦を妥協しないその質が、彼の地での感染爆発に影響したのではないかとも感じさせられた。

勿論日本人にも同様はいる。まあ、ある程度は仕方ないとは思うが、こちらも年寄りと接触する身(そもそも自身も低リスク世代ではない)。狭い登山路で律儀に待ち構え元気良く挨拶を放ってくれる、そこの姉ちゃん。心掛けは立派だが、ちょっとは時勢を考えてくれ(DTBWB風。笑)。


週末の昼間、しかも連休中にも拘わらず人の絶えた、新型コロナ緊急事態宣言下の銀閣寺
週末の昼間、しかも連休中にも拘わらず人の絶えた銀閣寺門前


新型コロナ自粛で観光客が消え、店も閉じられた銀閣寺参道商店街
観光自粛に連動して遊山客が消え、店も閉じられた銀閣寺参道商店街

下山。恐るべき銀閣寺門前の状況

そして、下山し無事市街へと達した。大文字山表登山路の起点となる銀閣寺門前である。連休に関係なく、週末はいつも賑わうというか、混み合う場所であるが、殆ど人が絶えた状態であった。繁盛していた店はシャッターを下ろし、中には既に空店舗と化していたものもあった。

知ってはいたが、改めて恐ろしい状況であることを確認する。恐らく、京都に限らず、全国の著名観光地でも同様なのであろう。山とは異なり、観光統制は上手くいっているようだが、これはこれで、深刻な経済的打撃は免れまい。どう転んでも難儀な状況である。

さて、その後雨にも遇わず無事帰宅。憂慮すべきことも感じたが、今日も短時間ながら有意義な散歩探査を終えることが出来た。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2020年04月11日

近山探道其参

鹿ケ谷から山腹を巻きつつ東へ続く古道と樹上に花を咲かせる山桜

身近に眠る幻の道求めて

今週末もまた、先週同様、鍛錬兼ねた近山の古道探査へ。

場所も同じく京都市街東部・大文字(如意ケ嶽)山。京都と滋賀に跨るこの山上を通り、嘗ての都と近江を結んだ「如意越(にょいごえ)」という古道が現在も残るが、それより古くかつ主路だったとみられる道を探す試みである。

それは、嘗て山中に存在した檜尾古寺(ひのおのふるでら)や如意寺(にょいじ)という古寺群を繋ぎつつ、都と近江を結んだ古代及び中世の道筋であった。その存在は私が長年この地を観察し、個人的に推論したものだが前回までの踏査でその実体を掴みつつあった。

それらの詳しい経緯や現地の状況等については前回までの記事を参照頂きたいが、とまれ、その幻の道探しに今日も挑んだ。


上掲写真 京都市街東部・鹿ケ谷(ししがたに)から山腹を巻きつつ東へ続く古道と樹上に花を咲かせる山桜。この道は谷筋を通る現在一般的な如意越ではないが、中腹の難所・楼門滝の急斜を避けられること、地盤が硬く安定していること、この道に対応した戦国期の竪堀や防塞らしきものが存在すること、明治中期の測量図に主路として描かれていること等から、中世以前に遡る物資運搬用の車道(くるまみち)であった可能性がある。


IMGP6534.jpg

今日も鹿ケ谷から山上を目指す。写真は山中の如意越古道沿いにある如意寺西部地区の支院・宝厳院推定地(上手である東側から撮影)。

現在一般的な如意越古道はこの平坦地右下の谷から稜線に向かうが、私の古道考察では同東部地区へ抜ける峠との接続効率や途中の各遺構との関係から、ここを経由することを有力視している。

実際、画像左上から右下かけて、かなり確りとした古道の路盤が残るのが確認出来る。ただ、この古道は平坦地只中を通り堂宇との干渉の恐れがあるため戦国期以降の寺院廃滅後に造られた可能性も窺われる。

それを考えると、新たな可能性が見えてきた。それは、画像左下から平坦地左端に下る一見自然地形のような傾斜である。所々荒れてはいるが、明らかに幅を持たせて造られた人為地形であり、当初の道筋かと思われた。


東山の稜線の東裏辺りの推定如意越古道の傍にあった山躑躅の花
私が推定する如意越古道が東山の稜線を越えた付近の路傍にあった、花を咲かせる山躑躅(つつじ)。今時分の、近畿の低山らしい光景

因みに、この後珍しくズボンにマダニ(子?)が付着していることに気づいた。人気のない藪めいた場所を通過したからか。

大文字山歴数十年、噂では聞いていたが、これまで道なき藪も気にせず巡った私でも、この山域では初めてのことであった。昨今獣が増えている弊害か。感染症の宿主でもあるので、皆さんご注意を。

消えた道跡追う

さて、東山の稜線峠を越え、東西に続く如意ケ嶽南面に出る。檜尾古寺推定地及び如意寺・大慈院旧推定地の平坦地がある山腹である。

その後、踏査初日に発見した、山腹の尾根を巻きつつ続く古道を東へと進む。その道筋の再確認や見逃し探査のためである。

そして、前回の知見を基に、発見古道と標高420m辺りにある現在一般的な如意越古道である稜線道との接続箇所を探した。踏査初日に倒木等で道跡を見失ったその区間を前回反対側(東)から探索したが、意外にもその時発見した東の古道が当該地手前で一旦稜線道に接続していたからである。

しかし、最後に古道痕跡が消える谷から山上に向かう道跡をどうしても見つけることが出来なかった。想定ではその谷から稜線道への巻道に上るか、もう一つ尾根を巻いたあとに接続するかの何れかとしていた。

前者が距離効率的に有力であったが、斜度が若干強く車道を設定するには少々難があった。高低差はせいぜい2、30mなので徒歩であれば大したことはないのであるが……。念のため、もう一つの尾根と手前の尾根に乗り古道の交差箇所等を探ったが、一切の痕跡を見つけることは出来なかった。

奇妙な人々

ところで、この思案と踏査の最中に奇妙なことが生じた。それは、私の行動が、どうも人に付けられているように思われたのである。

それは道の絶えた谷なかで思案している時に察した。尾根の裏側からバリバリと倒木の枝葉を踏み、こちらに向かい来る足音が聞こえたのである。

誰かに追跡されている?

考え過ぎのように思われるかもしれなが、これまで辿った道筋は一般のハイカーが知り得る場所ではなく、入る意味もない場所であった。また、途中には数多の倒木や崩落した危険な崖際を進む必要もあった。

最初は偶々別路を進んできた者かとも思ったが、方々倒木だらけで通行困難となっている。そして、近づいていた足音は何故か急に静まった。ここで一旦別路を進んだ可能性や林業関係者かとの想像も生じたが、手前側の尾根を踏査している際、私と全く同様を進む谷なかの人影を発見した。

それは、中高年のハイカー風の男女2人であった。しかも、彼らはその後、私が先に調べていた向こう側の尾根まで同様に探り始めた。

足を止め、身を隠してこちらの行動を見ていたのか。そういえば、その2人は古寺推定地で倒木越しにすれ違っていた。食事休憩をしていたように見え、その際1人と目が合い会釈したが、友好的な感じではなかった。

元より古寺推定地も難所ではないが、何の案内もなく、一般ハイカーが来るような場所ではない。恐らくは近年の調査報道で知って興味本位で来たのだと思うが、ひょっとして私が来るのを待って後を付けてきたのか。

その後、彼らの姿を見ることはなかったが、その不可解な行動に、少々薄気味悪い気分にさせられた。


深禅院推定地東の広谷から東に続く1間幅程の掘り込み地形

深禅院推定地東の広谷での発見

話が逸れたので戻す。推定古道と既存の稜線古道の接続路は確認出来なかったが、最短で100m程の区間なので保留することにした。

そして前回発見した稜線道から深禅院推定地へ向かう道から、推定地東の広谷に入る。そこでは前回見つけた東の森に続く不自然な谷を探査した。

写真はその谷に入ってすぐの場所。1間幅程の、明らかに整地された水もない掘り込みが、左に回り込みつつ上方へと続いている。


深禅院推定地東の広谷から続く一定幅・一定傾斜で上方へ続く人為地形
その先を進むと、この通り一定幅・一定傾斜で上方へと続く地形が現れた。これは、もしやして……。


深禅院推定地東の広谷傍の掘込地形で発見された石段廃墟
そして足下を確認すると……。やはりあった、石組である。この他同様に端部に残る2段程の石組を幾つか確認出来た。古い石段跡に違いない


深禅院推定地東の広谷傍の石段跡を登り辿り着いた山科への尾根道
石段跡の掘込坂は稜線まで続いていた。稜線上に見える道は如意ケ嶽の主道ではなく、南方は山科及び四ノ宮方面に続くものである。つまり、主稜線から分岐した南北支尾根上に出たのであった

石段の道は、かなりの労力で成された特別なものかと思われたが、広谷の北東にある本堂方面とは方角が違うため、主路とは思い難かった。

ただ、尾根の向こう下は以前踏査した本堂下の大平坦地群、即ち如意寺・藤尾口と接しているので、そこにあったと推測している寺院関係者の居住地と深禅院推定地以西とを結ぶ近道である可能性もあった。

あとは、ここが東西の寺領や山科方面を見渡せる頂部に当たるため、望楼的施設や、小規模ながらも何か重要で記念すべき宗教施設があった可能性も考えられる。

まあ、これについては今回の古道考察とは少し逸れるため、今後の課題としたい。


如意寺本堂地区へ続く巻道と浅谷

如意寺西部地区の中核、本堂跡へ

山科への尾根道を北上して主稜線の如意越道に戻る。途中不意にMTB(マウンテンバイク。山行自転車)が現れたり、大きな雄鹿2頭が馬の如く飛び出てきたりして少々驚かされたが、更に東して本堂地区へと向かった。

写真は本堂地区への道。道筋はまた現在の如意越古道から逸れ中腹を巻く道となった。この辺りの如意寺関連の古道は比較的判明しているが、写真のように巻道として直接本堂平坦地へ向かう道は後代のものとみる。

恐らくは右下の浅い谷に主路があった筈である。それは以前踏査・検討した通り、その道筋が本堂跡下に残る要路交点と自然に接続する為である。


凄まじい倒木に見舞われる如意寺本堂跡平坦地

今回はその谷道も再確認したかったが、この付近も凄まじい倒木に見舞われ、探査不能となっていた。写真はなんとか達した本堂跡平坦地。

巻道のみ倒木が切られ辛うじて通行出来たが、被災直後は全く通行出来なかったであろう。現在も道から外れて進むことはほぼ不可能である。

そしてまた、無数の倒木の根が遺構面の土砂を大量に掴んでおり、更なる破壊進行が懸念された。


如意寺東門推定地の門口部分とそこを通過する推定古道

東門推定地如何

倒木の巣窟と化した本堂地区を抜け、その東端で、以前私が独自推定した如意寺・東門跡に達した。写真はその門口部分と通過する推定古道。尾根を掘り込んで平坦地を造り、交通を制御する形となっている。

約700年前の古絵図には描写はないが、道の左右に築地か土塁跡とみられる畝状の高まりが残るのも特徴。


如意寺東門推定地の東裏に続く古道
如意寺東門推定地の東裏に続く古道。道はこの先東の近江側山麓にある如意寺本山・園城寺(三井寺)まで続いていた筈である。これ以東は個人的に未踏査地となり大変興味深いところだが、その調査はまた日を改めたい


如意寺東門推定地跡の倒木の根の土から出土した須恵器らしき遺物

それにしても、倒木の被害は地区外れの東門推定地も例外ではなかった。大きな木が根毎倒れ、遺構面を大きく抉っている。その土を覗くと、やはり幾つもの古い焼物片が確認出来た。

写真はその一部で、須恵器の皿か杯と思われる。門址であるかどうかの確証はともかく、遺構であるとの推論が憂慮すべき形で実証されてしまい、複雑な気分にさせられた。


如意寺東門推定地から見た本堂地区の倒木被害
如意寺東門推定地から見た本堂地区の凄まじい倒木被害

本堂下から東門推定地までの主路古道は以前の踏査で確定している。本来は今日再確認したかったが、見ての通りの有様で不可能となった。

因みに、古道は倒木原の只中を通り本堂下に達している。ただ、今後重機作業等が入ると破壊される恐れもあった。


大文字山火床からみた、京都市街の屋並と始まった樹々の新緑

情勢儘ならぬも……

東門を最後に今日の踏査を終え帰路に就いた。写真は如意ケ嶽稜線付近を通る現在の如意越道を西へ戻り達した大文字山火床(送火の点火地)。

桜が終盤となり新緑が姿を現してきた。本来なら喜ぶべき春到来となるのだが、存知の通り、新型肺炎の所為で世間儘ならぬ状況となっている。

個人的にも色々な事情・影響があり再踏査の実施も定かではないが、近くに住む史学者の義務として、また遺構保全の為にも完了させたいと思う。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2020年04月05日

近山探道其弐

平成30年の台風21号により倒された如意ケ嶽山中の植林地とその空隙から覗く、南方は山科・醍醐方面の市街や山並み

鍛錬兼ねた裏山古道探査再び

新型コロナウイルスの流行拡大により遠出の雪山鍛錬にも行けず、仕方なく鍛錬兼ねて先日行った、家裏は大文字山での古道探索

今日はその続きとして、前回倒木に阻まれ進めなくなった地区を反対側から踏査することにした。古道は、古代及び中世、山中に存在した天台寺門派の大寺「如意寺」の諸堂を繋ぎつつ京と近江を東西に繋いだ所謂「如意越」。つまり今回はその道跡の一部を東の近江側から探すという形に。

現在伝わる大文字山(如意ケ嶽)稜線付近を通る如意越古道とは異なる寺院経由の主路を探すのだが、そうすることで檜尾古寺(ひのおのふるてら)遺構の発見(比定)により宙に浮いた如意寺「大慈院」推定地の再設定や新遺構の発見、またそれらの破壊防止に資すという思惑があった。


上掲写真 平成30年台風21号により倒された如意ケ嶽山中の植林地とその空隙から覗く、南方は山科・醍醐方面の市街や山並み。


平成30年台風による凄まじい倒木で荒れる如意寺・深禅院推定地
平成30年台風による凄まじい倒木で荒れる如意寺・深禅院推定地

深禅院推定地の荒廃と意外な軟弱土

先ずはまた京都市街東端の鹿ケ谷(ししがたに)から山に入る。今日は前回不通の場所を探るため、一般的な縦走路、即ち現代の如意越古道を進み、当該地東部に入った。

そこには檜尾寺及び大慈院旧推定地から幻の古道で接続されていたとみられる深禅院という如意寺支院の推定地があった。ここを基準に京側(西)へ向かう古道を探しつつ前回見失った道跡を踏査する予定であった。

そして稜線道の傍にある雨神社という、これも如意寺・赤龍社跡とされる祠辺りから山林に分け入り、深禅院推定地に到着した。ところが、そこは以前訪れた時とは全く異なる状況となっていた。

平成30年台風で大規模な倒木が発生し、中に入ることも儘ならぬ荒れ様ったのである。


如意寺・深禅院推定地の一石五輪塔
辛うじて平坦地内部に入り発見した、以前も紹介した五輪塔。正に絨毯爆撃的な倒木被害のなかで、奇跡的に直撃を免れたようであった

深禅院推定地は、元々良好に平坦地や建屋基壇が残っていた大きな遺構であったが、今は平坦地であることすら判らない。また遺構面の土を掴んで根こそぎ倒れた木も多いため今後の被害拡大も懸念される。やはり遺跡への植林は何らかの規制を加えるべきであろう。


如意寺・深禅院推定地西の谷地で見た倒木の根に付く軟弱表土
深禅院推定地西の谷地で見た、倒木の根に付く軟弱表土

さて、深禅院推定地からの古道探しであるが、平坦地がある尾根の周囲はかなりの急斜となっており、その痕跡は全くなかった。それどころか、元より正面からこの平坦地に登る道すら曖昧なものであった。

私は、700年前の鎌倉末期に描かれたとされる如意寺の絵図にある深禅院の姿から、平坦地端の門から下る階段下に主道が接続していたと想定していたが、それも西側の地形が険しく想定し難かった。

平坦地西の土崖を再度覗き、また足を踏み入れてみるが、斜度が強く、また崩れやすい地質のため、やはり道の存在は想定し難い。崩れて廃滅してしまったのであろうか。

そういえば、ここの平坦地は檜尾古寺及び大慈院旧推定地とは異なり、尾根を奥深く掘って造成されている。その特異で人為的な逆凹字形の様は、1/25000という粗い地図上でもはっきり判る程である。元々崩れやすい地質の場所に大面積を得るために意識して造成されたのか。

しかし、東西一線に並ぶ如意寺諸堂の主要支院のため、必ず主路と接していた筈である。

無理やり西斜面上手から西方の谷に出て、更に西の尾根斜面で道跡を探すが無し。それどころか、ここも地質が軟弱で、元より道を維持出来るような場所とは想われなかった。


山科と如意ケ嶽の稜線を繋ぐ南北尾根上の道

仕方なく、一旦その西尾根上に登る。比較的地表が安定した尾根上なら、痕跡が残り易いことを期待したのである。

写真は西尾根上の道。南方は山科方面から如意ケ嶽稜線へ上る主要路の一つとなっている。無理やり這いあがってきた横斜面の崩れ易さとは別世界の安定ぶりであった。

東西古道が在ったとすれば、この道のどこかに交差痕跡がある筈なので、山上諸堂の平均的標高400m付近を重点的に探した。しかし、無し。この尾根にも少なからず倒木荒廃があったので、西斜面にも回り込んで調べたが、やはり地質が軟弱で道の痕跡は疎かその残存も無いように思われた。


南北の尾根道から深禅院推定地へと向かう古道跡
南北の尾根道から深禅院推定地へと向かう道跡

道は上方から

諦めて、尾根道を登り稜線道に出ようとした時、なんと東へ向かう道を発見した。道は交差ではなく尾根道から分岐する形であった。分岐部辺りの道幅は半間程あったので単なる仕事道ではないことは明白である。

元より、尾根道もこの付近より尾根から外れ稜線頂部下を西へ巻きつつ稜線道と接していたので、分岐側が主体であった可能性もある。


倒木に阻まれながらも深禅院推定地へと続く古道
倒木に阻まれながらも東へと続く分岐の道

分岐の道を辿るとやがて細くなったが谷を巻きつつ続いていた。そして、やはり深禅院推定地の西端に接していたのである。そこは平坦地の崖上だったが、西端もしくは西側小平坦地との間に緩やかに下ることが出来た。ここも倒木が多いが、地表を調べれば痕跡を確認出来るかもしれない。

ただ、台風以前の調査に基づく埋文研の図には記載がない未知の古道なので、やはり明瞭ではないかもしれない。

しかし意外にも古道は上方から深禅院推定地に接続されていたのであった。思えばこの辺りの稜線標高は420m程しかなく、主路古道の推定標高に近い。そのため迂回や軟弱地質を避け一旦稜線に上って東へ続くようにされたのか。これなら推定地から直行する道跡がないことも理解出来る。

「古道は稜線ではなく巻き道」との思い込みを反省したのであった。


深禅院推定地東の広谷にあった境界木らしき大木と古い境界石

思わぬ分岐道の発見により諦めかけた古道探しに光明を得たが、深禅院推定地から東への接続はどうであろうか。

先ず、その平坦地の急斜から下る場所が設定し辛い。正面の急斜を斜めに下る不明瞭な道が上方古道との接続が良く、最も合理的と思われたが、絵図に描かれた階段と干渉するため考え難く、後代のものかと思われた。さりとて平坦地東端やその付近の崖には一切痕跡はない。

「車道」としての機能は一旦ここで断絶していたのであろうか……。

それらの問題は一旦置き、深禅院推定地を下って東側の広谷等に道跡を探す。道は見当たらないが、写真の如く、道の推定地付近に境界石があったので、可能性は窺えた。


深禅院推定地東の尾根斜面に連なる台風倒木
次の尾根を巻く道も探してみるが、この通り、また倒木の連発である


深禅院推定地東の尾根上に現れた既知の遺構平坦地
それでも無理やり進むと尾根の突端に明らかな人工平坦地が現れた。ここは詳細不明ながら、埋文研の報告書にも図示された既知の遺構である


深禅院推定地東の尾根上平坦地で見つけた焼物らしい遺物
平坦地遺構にて足下を見ると、焼物らしき遺物を発見


深禅院推定地東の尾根上平坦地で見つけた、下駄の歯状の装飾ある須恵器らしい遺物
平坦地遺構で見つけた遺物を手に取って見る。焼きの甘い須恵器か。皿とも瓦ともつかない器胎の側面に下駄の歯状の装飾がみられた。中世以前のものに違いなく、如意寺との関連を窺わせた


深禅院推定地東の尾根上平坦地の下部の平坦地
深禅院推定地東の尾根上平坦地下には更に一回り小さな平坦地があった。これも既知のものだが、水平具合とそれが良く保たれていることに感心


深禅院推定地東の広谷から東に続く不自然な谷

深禅院推定地東の尾根上平坦地は道跡候補として期待したが、その東側には小さくも鋭い谷があり、道跡の推定はし難かった。元より、地形図を確認すると次に向かうべき本堂とは方角が逸れるため可能性はないと判断。

また深禅院推定地東の広谷に戻り周囲を観察すると、東の森なかに続く不自然な谷地形があることを発見。写真がそれで、人為地形と判断したが、今日は深禅院推定地の西の調査が目的であったため、次回の課題とした。


如意ケ嶽稜線付近に続く現在の如意越古道
如意ケ嶽稜線付近に続く現在の如意越古道

稜線道に接する道跡探す

次は深禅院推定地以西に戻り、今日得た知見に基づき、推定地への分岐道が接する稜線道の西に接続する道跡を探す。偶然にも、そこは前回手詰まりになった場所に近く、倒木地帯を避けて考察することが可能となった。

ただ、道跡らしきものは見つけられず、時間も遅くなってきたので、次回再調査することとして下山することにしたのである。

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2020年03月26日

東山壊乱其肆

夕陽を受ける京都・大豊神社の枝垂桜。2020年3月23日撮影

安祥寺山破壊・土器発見その後

昨年の12月14日同29日に報告した、京都東山・安祥寺山(あんしょうじやま。大文字山南隣)における山体破壊とその現場での土器発見の件。

1月11日の記事で京都市の文化財保護課から現地調査の連絡を受けたことを報告したが、その後連絡が絶えた状態であった。

前の連絡の際、機材持ちで現場に入る際の効率的な路程教示も乞われたので、すぐに車輌と徒歩双方による詳細な接近法を記して返信したが全く音沙汰無し。元より、この地で調査を続けてきた専門部署が私に行き方を訊くのもおかしな話だが、更なる破壊の恐れから一先ず最優先で協力した。

色々と多忙であることは解るが、自ら訊ね早急詳細な返答をもらいながら、一語も返せないとは如何なものか。史学の徒、東洋の文官としての矜持を思う。昨年、京都市内で国内最古級とされる町家が解体された際、当主が市との交渉に失望したとの表明があったが、少々それに同情を覚える気分にさせられた。

実は、昨年末から同様に連絡を取っていた工事施主の林野庁から、今回の施工についての説明面談の申し入れがきていた。そのため、その席で現地山域の価値を示すものとしても、保護課の調査結果が待たれるところとなっていたのである。

為に仕方なくこちらから保護課へ連絡を入れれば、担当者から返答があった。暫く休暇をとっていたという。事情や時機による休暇は仕方ないが、2カ月以上も経て問われる前にどこかの段階で「一語」返せなかったのであろうか。自分の様な規格外の人間があまり言いたくないが、もう少し諸事思い及んで頂きたいと思った。


上掲写真 京都市街東部にある大豊神社の枝垂桜。夕陽を受けた桜花がいつもとはまた違った美麗さを見せる。ここも東山山麓なので、もし同山域で山火事等が起れば犠牲となりかねない。2020年3月23日撮影。


昨年2019年12月29日に安祥寺山北尾根の破壊現場にて発見した古代の土師器と思われる土器片
昨年12月29日に安祥寺山北尾根の破壊現場にて発見した「土師器(はじき)」とみられる古代の土器片。左端に玉縁らしき細工がみえる

面談当日の急報

さて、こうして保護課の調査を待つも進展がなく、4月の官庁異動も迫っていたため、今夕、林野庁との面談を行うこととなった。ところが、今朝保護課から連絡が入り、山城と山岳寺院専門の調査員による現地調査により、私が示していた安祥寺山北尾根の平坦地が遺構として認められ、埋蔵文化財包蔵地(遺跡地区)が拡大されることとなったという。

偶然ながらこれには少々驚かされた。当てに出来なくなっていた保護課の件が急転し、望む保護地拡大が果たされたのである。既に切られた北尾根鞍部や平坦地側面については残念な限りだが、更なる破壊を抑える進歩的朗報となった。また、林野庁に対する説明・説得の良い材料ともなった。

林野庁支所へ

そして夕方から林野庁へと出向く。同庁の支所で、現場山域を管掌し、今回の施工を主導した市内の森林管理事務所である。先にそこの所長さんから丁寧な説明文をメールでもらっていたが、更に話を聞くために今日の面談を約束していたのであった。

場所は府庁等の公館が集まる市街中心部。近年改築したという真新しい近畿農政局の庁舎内にあった。守衛2人と保安改札で護られた受付で手続きを済ませ、カードをかざしてゲートを開け館内に入る。業務柄、府や市の庁舎に比べ警備が厳重なのか。

事務所自体は改札のすぐ傍にあり、扉の前に立つとすぐに所長氏自ら出迎えてくれた。こちらは玄関の厳重さとは対照的に親身である。私も丁重に機会の提供に感謝し、面談場に通された。

面談場では所長の他、説明の為に事務方と技官の責任者計3人で対応してもらうこととなった。私は史学科出の一市民で、地元で史跡や自然観察を有志・個人で行う者として臨席。先ずは私が事前に送付しておいた書類の質問を述べ、その後、所長さんが回答を含めた見解詳細を説明してくれた。

その主な質問内容と回答は以下の通り。

1. 現場に投棄された吸殻と空缶の件1月11日の記事参照) 煙草の吸殻と空缶の投棄場所は、一般ハイカー等が通行や休憩をする地点とは思い難い「作業区域内」にあったと返答したが、これに対する返答はどうなったのか。麓に住む人間として山火事等の危険があり看過し難い(先にこの件を先方へ伝えており「指定場所以外で喫煙することはありえず、空缶投棄もありえない」との調査結果を得ていた)。

回答 所員による現地再調査にて指摘の通り吸殻と空缶を発見した。今回は作業者の供述を信じざるを得ないが、今後は本件を一例に、現場規則の遵守を徹底させたい。

2. 作業現場の施工法1月11日の記事参照) 作業道開削による谷の閉塞・滞水や、表土も浚うような皆伐による土石流等の二次災害の恐れについての質問に関する「地質・地形を調査・計算の上で安全施工しているのか」という質問への返答を頂きたい。

回答 基本的に現場施工は委託業者に任せている(調査や計算はしていない)。指摘の箇所は台風倒木が酷かったため、止む得ず緊急的に皆伐による整理と再植林を行った。ただ施工終了後も継続して現地を監視し、崩落等に備える。また、指摘の滞水箇所については再度現地にて確認したい。

3. 作業現場の原状回復3月15日の記事参照) 作業終了翌月の令和2年3月15日の段階で原状回復工事が行われていないが、計画はないのか。また、左京側からの既存新林道末端に設けられた伐採木置場跡には未だ伐採木の残骸が多量に放置されいるが、回収されないのか。

回答 作業道はその後の林内作業等のため保持する。ただ、恒久的な林道ではなく、擁壁等は設けず、やがて自然に還る扱いとする。勿論それによる崩落の危険等には十分注意する。安祥寺山北谷を埋めるように通された作業道には水の流れ道を切った。また、伐採木置場の残置物の件は、管轄地外の借地のため、元からあった切株等(施工前写真を提示)を谷側に残した(しかし写真の残骸より多かったと私が指摘すると、一度現場を確認して対処したいと返答)。

4. 安祥寺山北尾根等の自然林再生12月14日の記事及び1月11日の記事参照) 安祥寺山と大文字山を繋ぐ北尾根西面は以前豊かな自然林で覆われていたが、今回の整理により伐採及び作業道による地盤破壊が行われた。今後ここへの対処はどうするのか。

回答 既に通した作業道については質問3への回答通り。ただ、その開通に伴い伐採された箇所には自然林を再生させる予定。根本、安祥寺山国有林を含む都市近郊の森林はコスト的に生産利益が望めず、林業経営を目的としない、より自然な混交林への転換を図っている。当国有林についてもその最中であり、今後山内全域に敷衍する予定である。

5. 重機使用不可欠への疑問 以前「風倒木の処理等の作業を安全かつ着実に実施する上で、重機の使用は不可欠」との返答をもらったが、今回のように山腹や尾根に細かく道を通すような施工は、ごく近年しか見受けられないものだと思われる。それ以前には少ない主道のみで対処出来ていたものが、どうして不可能となったのか。工事規模・予算的には更に環境負荷が少ない方法も可能なようにも思われる。

回答 実は林業は全産業のなかで突出して労災事故が多い(資料のグラフ等を提示)。近年少しずつ改善されつつあるが、それでも死傷者が多い状況なので、それを改善するため極力伐採・整理現場に人を入れず、重機等の機械による作業に転換したい。それ故、より現場に機械が接近し易い作業道が必要となる。また、現状他の方法より、作業道を通すこの方法が最もコスト的にも優れているという事情もある。

6. 施工への見解及び今後の展望詳細 今回の施工、またその他所轄における自然・歴史等の文化価値棄損に対する見解、及び今後の御庁・御事務所の展望が知りたい。

回答 我々も歴史関係を含めた山林の文化価値を十分認識しており、その保全を重視している。そのため、施工前には文化財保護課と協議し、施工中はその立会等を受け入れている。ただ、健全かつ安全な山林を恒久的に育て、維持するという主だった役割もある。現在林野庁では、山林を「山地災害防止タイプ」「自然維持タイプ」「森林空間利用タイプ」「快適環境形成タイプ」「水源涵養タイプ」という5つの機能類型に区分して、それぞれの目的に応じた施業を実施している。そういった施策のなかで、景観等も含む文化的価値を保全・活用してゆくつもりである。


以上、こちらの質問に対し各氏交えて答えてもらいつつ、所長氏が代表して事務所の立場や見解を説明してくれた。

投棄の件は事実を認めつつ、これ以上の追求は困難なので以後の周知や対策を強化するという形に。具体的には次の入札から行うという。また崩落危険等の件では、責任重大なので常に全方向に気を遣い、苦慮している旨を率直に語ってもらった。

そして今回の本題でもある重機使用や作業道開削の件は多大な死傷者対策という深刻で切ない事情も知った。作業道の原状回復については他所から土を入れることや改変の履歴が判らなくなるという問題も浮かび上がる。

ただ、林内が不自然な営利植林から、より自然な天然林へと転換が図られていることは喜ばしいことであった。山林利用の転換期でもあり、林野庁としても今後の管理等々で色々模索していることも窺えた。


作業道により切られた安祥寺山北尾根鞍部と無限軌道運搬車。2019年11月23日撮影
作業道により切られた安祥寺山北尾根鞍部と作業用無限軌道車。土器を見つけた小平坦地と平安後期の安祥寺山経塚遺跡の間にあり、山科からの主路古道の接続箇所かつ直下の谷から平安前期の瓦が見つかる要所ながら遺跡指定地ではなかった。そのため無造作に掘削されたと思っていたが、意外にも保護課から8名程の人員が立ち会い慎重に作業が行われたという

林野庁への要望・建議

質問への回答と説明を受けたのち、改めてこちらからの要望も述べておいた。これも、事前送付した一文に記していたが、補足を交えつつ……。

1. 安祥寺山国有林を含む山域は平安京至近という場所柄、山岳寺院や城塞、古道等の遺跡が濃密に存在している。それらには未調査のものも多く、また公が未知の遺跡も数多く存在する。山林整理の重要性は理解するが、他に比して極めて文化価値が高い山域のため、今後地形改変を伴う施工は止めて頂きたい。

補足・建議 現状、作業道開削が安全面・コスト的に最良の方法とのことを今日聞いたので、早急なる代替法の開発や採用をお願いしたい。建議としては、コストや環境負荷が少ないモノレールを使用し、作業に使用しない時は民間に貸し出すなどして歴史・自然観光用と併用するのはどうか。

2. 安祥寺山国有林を含むこの山域は自然観察と共に古代からの人文痕跡も観察出来る豊かでかけがえのない場所、生きた教材でもある。21世紀のつい最近まで残されていた古代・中世そのままの姿を次代へと引継いで頂きたい。人との関わりが深い山は単なる営林・治山治水用の土壌ではない。

補足・建議 現在行われている林野庁の施策や認識より更に広く山林の価値を捉え直し、より複合的な保存・活用をお願いしたい。

3. 既に城塞遺構や遺物散布地、古道が破壊され取り返しのつかない状況になっている。また、切られた急斜が崩壊を起こし、更なる地形変化・遺跡破壊の危険性もうかがえるので、改変箇所の原状回復を望む。特に、切られた尾根(歴史的通路・自然散策路)や途絶した古道(特に安祥寺山北谷や伐採木置場付近の古道)の原状回復を切にお願いしたい。

補足・建議 原状回復については、質問3の回答にある通り現状叶わず、また他所から土を入れることや改変履歴が判らなくなるという問題も浮かび上がった。つまり、現地環境的に、やはり取り返しのつかない状況となったので、改めて今後の施工や工法を考慮してもらいたい。また、安祥寺川の主要水源である安祥寺山北谷が作業道として埋められたことに対し、歴史遺産(平安前期の瓦が発見されている遺跡指定地)や水源価値・動植物生息地棄損に遺憾の意を表する。そして、同谷から北尾根までに存在した山科からの主路古道が消失してしまったことの重大性(学術的・散策路としての価値)を改めてここに告げる。

4. 山火事の危険や他の作業者の健康・環境汚染(山は水源地)に関わるので、施工現場での喫煙は一切禁じて頂きたい。

補足・建議 元より、被害甚大となり易い山火事に注意すべき山中作業で火を使う「嗜好品」が許されること自体おかしく、時代錯誤的状況である。

5. 以上、地元京都はおろか、日本の宝でもあるこれら人文山域を、どうか次世代の為にも慎重かつ大切に扱って頂きたい。森は造林によって回復させることが出来るが、文化痕跡は破壊されると二度と元には戻せない。


面談終了。良き方向に進むよう……

森林管理事務所を通して林野庁に述べた要望は以上の通り。場合により東京の本庁にも直接提出しようかとも思っている。

1時間以上に渡り続いた面談はこれにて終了となった。同事務所の対応は大変真摯であり、好感が持てるものであった。

しかし、肝心の重機使用による地表攪乱が今後も行われる可能性があることが判り、危機感も高まった。ただ、その裏には事故減少を図る切実な事情も明かされ、それに対する意志や行為としては共感・理解出来た。

元より、この件に関しては双方主張が平行線を辿ることを予想しており、実際それに近い結果となった。ただ、そのような状況でも、法令や役所間の遣り取りでは望めない、将来へ好影響を与えるべき細やかな説明をすることが出来たと思う。

特に、古道の存在と重要性を認識してもらったことは一つの成果であった。実際、事務所の人々は遺跡に対する認識はあっても、古道に対する認識はなかったという。

古道は遺跡研究の重要な手がかりともなり、それ自体が遺構であり遺物を秘める可能性を持っている。また人の身の丈にあった規格で古くから定着している通路のため、比較的安全で歩き易いという実用性も有している。

さて、臨席3氏皆さんに面談の礼と今後の善処をお願いして、事務所を後にした。そして、今朝届いた遺跡地区拡大の件共々、万事良き方向に進むことを願いつつ、陽の落ちた家路に就いたのである。

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2020年03月15日

近山探道

大文字山山中の如意寺宝厳院跡辺りで見た平安後期の軒瓦の破片

鍛錬兼ねた裏山古道探査

先週等にも記したが、本来なら自分にとってまだ雪山鍛錬期なのだが、暖冬・少雪により仕方なく体力訓練に重点を置く近山行を繰り返していた。

今日も自宅の裏山的な大文字山(如意ケ嶽)に向かう。ただ、今回は鍛錬というより、以前から気になっていた古代・中世の古道探しを主目的としていた。


上掲写真 平安中期(10世紀前期頃)から中世までの間に大文字山山中に展開していた如意寺(にょいでら)の西部寺域「宝厳院」跡辺りで見た平安後期のものとされる軒瓦の破片。


如意寺宝厳院跡付近の地表に散る平安期の瓦や器

知られざる主路

探査すべき古道は、京と近江を結ぶ所謂「如意越」の一種で、都東郊や同地の天台寺門派寺院・聖護院(但し創建は11世紀末)と、近江にある同派の本山・園城寺(三井寺)を連絡したとみられるものであった。

道の途中山上には同じく寺門派・如意寺の長大な寺地が連なっており、道はその境内路を兼ねていたと思われる。現在、如意古道は山上稜線付近を通過するものが一般に知られているが、如意寺境内より数10m無駄に高度上げなければならず、以前から不可解に感じていたのである。

恐らく、現在の稜線古道は、間道か近世以降や戦国期の如意ケ嶽城(大文字山城)関連のものと想われた。京側斜面を除く如意寺各堂は標高400m程の山上平坦地に東西に並ぶように存在している。その為、それらを直接繋ぐ、荷車運搬が可能な主路が必ずあった筈だと思っていたのである。

今朝は京側・鹿ケ谷(ししがたに)から山上を目指す。写真は前掲のものと同じく如意寺宝厳院跡付近(標高360m前後)の遺物。瓦や器等の破片が無数に散乱しており、一応、京都市考古資料館の同遺構を知る人に画像を見てもらった。

これら重量物の多量の存在も、古代山中に在った主路の存在を裏付けるものといえる。


如意寺宝厳院跡付近の地表に散る平安期の「生焼け」の須恵器(中央右)
同じく如意寺宝厳院跡付近の遺物。中央右のものは赤い色で一見土師器(はじき)のように見えるが、焼きが甘い所謂「生焼け」の須恵器(すえき)という。年代は前掲の瓦と同様とのこと


新林道傍の伐採木置場の残骸で塞がれた推定如意古道

古代要路も免れぬ
文化・自然遺産の破壊


さて、如意寺・宝厳院跡から一般登山道を外れ、堂裏の谷奥へと進む。ここから東山稜線までの間には謎の造成地・平坦地や盛土の古道が続くことは、今年1月に紹介した。

ここに残る古道は平坦地中央に付けられているため、施設廃滅後に造られた可能性もあるが、如意寺東部遺構やそれに隣接する檜尾古寺(ひのおのふるでら)推定地がある如意ケ嶽南斜面に最も効果良く回り込めるルートのため、主路が敷かれた可能性が高い場所であった。

しかし、その要路跡は写真の如く稜線手前で途絶させらていた。近年新たに山上に通された林道と、それを利用して去年から今年2月まで設けられた伐採木置場のため破壊されたからである。


新林道から見た、推定如意古道を途絶させた伐採木置場とその放置残骸
新林道から見た、推定如意古道を途絶させた伐採木置場とその放置残骸。原状回復されていないばかりか、多量の木材類が放置されている。施工は林野庁による国有林整理の一環。業者のいい加減な作業を放置せず、ちゃんと片付けさせるべきである


原状回復されずに放置されている、伐採木置場付近にある東山の稜線古道の破壊箇所
伐採木置場付近にある東山の稜線古道(大文字山城・大日山城遺構間)の破壊箇所。新林道末端のここから、南の伐採地へ通した林道(左の切通し)の原状回復も行われず、放置状態である。元は、歴史的価値のみならず、雑木林に囲まれた静かで良い自然環境が残っていたのに……


新林道による破壊を受けつつ稜線に続く如意古道(中央奥)
新林道により破壊を受けつつ稜線に続く古道(中央奥)


東山稜線裏(東)に続く推定如意古道
東山稜線裏(東)に続く推定如意古道(中央)

要路兼ねる謎の古寺平坦地

そして、稜線付近に残る古道跡(ここはその戦略的位置から大文字山城の堀切跡の可能性もあり)を辿り東側へと緩やかに下る。

鞍部(峠)の標高は約410mで、その東直下には最近、詳細不明の謎の寺院・檜尾古寺跡の可能性が高まった平坦地群があるなど、如意ケ嶽南斜面に通じる最も交通効率の高いルートであった。


檜尾古寺推定地手前の小平坦地下にある広谷と、その奥に残る別の小平坦地
檜尾古寺推定地手前の小平坦地下にある広谷と、その奥に残る別の小平坦地。この下部にも土留めの石積が崩壊したような痕跡があり、更なる平坦地の存在を思わせた。これらのことも、このルートの重要性を窺わせる。


倒木で荒れる檜尾古寺推定地
倒木で荒れる檜尾古寺推定地

古道は東へ進むと等高線に沿って造成されたような露台状の幅広い通路兼平坦地となった。その途中に近年の調査により檜尾古寺推定地とされた開けた場所が現れる。

個人的には、その調査の前から如意寺・大文字山城関連の遺構として何度も見学したことのある場所であったが、今回は平成30年台風の被害を見せつけられることとなった。

写真で見る通り、植林樹が遺構面の土を大量に掴んで倒れている。平安初期のものとされる遺構がこの状況とは頂けない。同様の被害は大文字山城の土塁でも見た。今後遺構への植林は何らかの規制を設けるべきである。


近年、如意寺・大慈院跡から檜尾古寺推定地(東部)に改められた、礎石残る平坦地
かつて如意寺・大慈院跡とされるも近年檜尾古寺推定地(東部)に改められた平坦地。平安前期のものとみられる建屋礎石が残る

推定が改められた根拠は、鎌倉将軍寄進という大慈院なら発見されるべき中世の遺物が見つからないことや建屋の規模がそれより大きい為という。

研究の進展により推定が改められるのは仕方ないが、所在が判らなくなった大慈院や関連の西方院等の調査や見解も早期に望むところである。


檜尾古寺推定地東端から東へ続く古道
檜尾古寺推定地東端から東へと続く古道

未知の山域へ

檜尾古寺推定地東端からは、やはり道跡があり、東へと続く。この先の古道の残存は想像していたのみで未知だったので、今回の踏査は、正にここからが本番となった。

推定では山腹の谷なかや尾根上にテラス状に造成された如意寺東部諸堂が点在する標高400m付近の等高線に沿う形で道が東へと続いている筈である。だが現在ここから東は道がないとされる場所で、幾つもの尾根や谷が連続する複雑な地形が続く山域となるが、一先ず進んでみることにした。

文字で記すと解り難いが、リアス式海岸沿いの道同様に続く、山腹の一定標高を縫う車道(くるまみち)を探す試みである。


檜尾古寺推定地の東の尾根横に続く獣道状の古道?

檜尾古寺推定地東端から東へ続く古道は一旦谷地で消失していたが、次の尾根方向へ続く斜面を見ると、僅かな痕跡があった。

写真がそれであるが、獣道に近い状態のため古道との判断は下し難い。ただ、想定通り比較的高度を一定に保ちつつ尾根を巻くように続いていた。


崩壊しつつあるも、檜尾古寺推定地東の尾根突端を巻き再び谷に向かい続く古道
崩壊しつつあるも、檜尾古寺推定地東の尾根突端を巻き、次の谷に続く古道。どうやら地盤が硬く安定した尾根突端付近に比べ、谷側斜面は崩落し易いため道の残存が悪いように思われた。滑落に気をつけつつ慎重に進む


急斜の崩落地を越えまた明瞭となった推定如意古道
少々危険な急斜の崩落地を越えると道は明瞭となった。やはり、古道は想定通りのルートで続いているように見えた


尾根を巻きつつ続く推定如意古道と倒木
谷を越えまた尾根を巻くが、やはり道は続いている。ただ、所々倒木があり進み難い


推定如意古道上の谷地に現れた標石らしき石柱
そしてまた谷地に入ると境界を示す標石らしき石柱が現れた。近世以降のものとみられるが、土地境界は古道址の有力な証ともなるので重要である


本来の如意古道と思われる、如意ケ嶽山中の尾根突端付近で見つけた幅半間以上の道跡

確たる証見つかるも……

そして次の尾根の突端付近で確たる証を見つけた。写真にある幅半間以上の道跡である。山仕事用の小道を超えた規模で、荷車や貴人の輿が通行可能な正に古道址と思われた。

やはり、本来の如意古道は存在した。結論を出すには更にこの先を調べ、如意寺本堂地区との接続を調べないとならないが、一先ずの確証は得られたと感じられた。


推定如意古道上の谷地に倒れていた標石らしき石柱
そしてまた谷地に達するとまた標石が現れた。それは倒れていたが、この先の谷でも同様を探せば古道の存在・位置を補強出来るように思われた


推定如意古道上に覆いかぶさる凄まじい台風倒木

確たる古道址発見と標石の存在に力を得て更に進むが、やがて写真の如く凄まじい倒木群に阻まれ通行や道の追跡が困難となった。

急斜に横たわる大径木が多いため上下を回り込むことも困難で、また樹皮が滑り易いため乗り越すことも困難であった。しかも延々とそれが続く。

何とか、ひと尾根は回り込んで先へ進んだが、道跡を見失い、また枝葉に覆われた地表を探すことも困難となった。ただ、次の谷地では3段以上と思われる未知の小平坦地跡を見つけ、古道との関連が窺えた。

次の尾根を見るも倒木の困難は更に酷さを増し、雷雨注意が出ていた空模様も怪しくなってきたため、今日はここで打ち切ることとした。残る如意寺本堂方面は後日反対方向等から踏査することとしたのである。


大文字山山頂から見えた京盆地西から迫る雨
大文字山山頂から見えた京盆地西から迫る雨

色々あるも有意義な山行に

撤収を決め、道なき斜面を登って如意ケ嶽稜線上にある現在の如意古道に出る。そこでは如意寺本堂跡を見学してきたという中高年の一団と遭遇し、どこから登ってきたのか訊ねられた。

引率者らしき人物も自分たちが如意古道を歩いているつもりだったらしいので、別路の存在に驚いていたが、危ない場所もあるので無暗に入らないよう告げておいた。

その後、地形図で来た道を確認したり、倒木の根倒れで崩れた稜線上の城塞遺構を観察したりして、西方は京都市街方面への帰路に就いた。

ところが、その途中登山道のすぐ傍でしゃがんでいる人が……。先に出た中高年組の女性らが用を足していたみたいである。申し訳なさそうに詫びを繰り返す横を見ぬよう通過したが、ここは大文字山と滋賀を結ぶハイキング主路であり人通りが多い場所なので気をつけてもらいたいと思った(そういえば去年山科と大文字山のメインルート上でも同様があった)。

さて、その後大文字山頂にて漸くの水分補給と遅めの昼食を摂り下山した。素早く下ったため、何とか雨で身が濡れる前に帰宅できたのである。

今日は少々話が逸れる様なこともあったが、以前から気になっていた本来の如意古道の存在が確認出来た、有意義な山行となった。

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2020年01月11日

東山壊乱其参

豊かな雑木林と古代遺跡との関連深い安祥寺山の尾根を乱暴に切り削って通された伐採作業道

保護課、土器発見うけ
破壊箇所の調査決定!


昨年の12月14日同29日に報告した、京都東山・安祥寺山(あんしょうじやま。大文字山南隣)における山体破壊の件。

今回の破壊箇所の一部で、その昔、私が独自に遺跡推定地とした尾根上平坦地脇で古代の土師器(はじき)片らしき遺物を先日発見した件を市の文化財保護課に画像付で連絡していたが、正月休み明けに返答があった。

平坦地を含む発見地付近が、古代から中世にかけての遺跡の宝庫である大文字山近辺でもノーマークの遺跡指定地外だったためか、「大変驚いた」と記され、早速調査に入りたいとあった。

更に、機材持ちで現場に入る際の効率的な路程教示も乞われたので、調査決定の礼と共に、車輌と徒歩双方による詳細な接近法を記して返信した。

その後返答はないが、一先ずは広くこの山域の歴史的重要性が認識され、保護区拡大の契機となる可能性が生じ、またそれに対する希望を得た。

今日は雪不足による雪山鍛錬行の代替としての運動がてら、発見地の保全監視のため再度現地に向かうことにした。


上掲写真 豊かで趣あった雑木林と、古代遺跡との関連深い安祥寺山の尾根を、乱暴に切り削って通された伐採作業道。


安祥寺山北尾根の西側を切りつつ、同山西側の皆伐で荒れた山肌に続く林野庁の伐採作業道

安祥寺山西部伐採地視察

出発地から約400mの高低差を登り、いつもの如く大文字山を経て北側から現地入りした。

先日発見した遺物等を確認し、撮影後、また北へ戻ろうとしたが、まだ良く確認していない、安祥寺山西側の破壊状況を視察することにした。

年始か週末の為かは知らないが、幸い今日は伐採等の作業は行われておらず、また特に規制等も設けられていなかったため、作業道を辿ってみた。

すると、早速、写真の如く、山肌を切り削る作業道の向こうに、皆伐された荒れた山肌が姿を現した。


安祥寺山西側の国有林内で行われている林野庁の皆伐作業により荒れた山肌とそこを刻む作業道及びショベルカー(休止中)
安祥寺山西側の国有林内で行われている林野庁の皆伐作業により荒れた山肌と、そこを刻む作業道及びショベルカー(休止中)。中央左上の稜線から山腹途中まで伸びる不自然な窪みが見えるが、戦国期の竪堀(たてぼり)ではないか?しかし、これも作業道により切り削られている


安祥寺山西側の国有林内で行われている林野庁の皆伐作業により荒れた山肌とそこを刻む作業道
下部を覗くと、伐採地一帯がかなり傾斜のある谷地であることが解る。そこに、写真の如く無理やり重機で道を切っている。こんな乱暴なやり方で、崩落は起らないのか。因みに下方に見えるのは防火用の貯水池。近年、昭和期の古い林道から延長された防災道に付属するものだが、作業道も正にその道から山上方々に延長されている


つづら折りで山肌を切り削り急斜を登るように付けられた安祥寺山西側の作業道
つづら折りで山肌を切り削り急斜を登るように付けられた作業道


安祥寺山西斜面の谷を横断する伐採作業道により生じた崩落の危険がある泥濘
応急的に浅く山肌を切る作業道分線を覗くと、それが横断する谷部分に水が溜まり、ぬかるんでいることを確認。これこそ正に崩落の種ではないか


つづらで山肌を切り削る作業道と荒廃した安祥寺山西側の山肌
同じくつづらで山肌を切り削る作業道と荒廃した山肌。しかし、道路施工の害は元より、森の土壌が残らない程の皆伐の仕方にも問題があるのではないか。古代、乱暴な伐採法により土壌が流出して荒廃した田上杣(たなかみそま。滋賀県南部の所謂「太神山地」)を想像させる光景である


あるまじきもの発見

安祥寺山西側伐採地の作業道分線上に集められた伐採木の枝葉
先程の作業道分線には伐採木の枝等が集められていたが……


安祥寺山西側の伐採地の柴山に棄てられていたタバコの吸い殻
なんと、その中に真新しい吸い殻を発見。冬の柴山に煙草を投棄するとは大した度胸だが、場所と状況から、伐採関係者によるものとしか考えられなかった。防災道を利用しているのに大火でも起こした日には、笑い話にもなるまい。林野庁は本当にちゃんと施工の指導・監督しているのか


安祥寺山西側伐採地の柴山に投棄された空き缶
そしてまた一つ。今度は空缶投棄である。これも場所と状況から伐採関係者のものとしか思えなかった。実に呆れる状況である。投棄については警察に捜査でもしてもらわないと本当のことは判らないだろうが、一先ず、全体の状況を世に問うためにも、当該施工の目的や責任団体を以下に掲げる。全て山上のある場所に掲示された工事説明文に拠るものである。

事業名 安祥寺山国有林外森林整備事業
事業期間 令和元年5月24日〜令和2年2月14日
事業内容 全木伐倒、集造材・運材、被害木整理、植付、防護柵
発注者 京都大阪森林管理事務所(筆者注:林野庁森林管理局下部組織)
請負業者 株式会社 e・フォレスト
監督員 東山・木津森林事務所(同:上記森林管理事務所の出先事務所)


重機で方々道を切られ皆伐された安祥寺山西の谷地
向こうをジグザグに、手前も重機で切られた安祥寺山西の谷地。実は写真に写っていない背後にも同じく山上からジグザグに下る道が切られている


大文字山と安祥寺山の間に設けられた貯木場
そして先の写真の背後の作業道を上に進んで、先日紹介した貯木場に出た。今回は背後から撮影してみた。大量の伐採木が積まれているのが判る


山上の林道と貯木場により消失した、戦国期の竪堀または古代・中世の古道跡(中央付近)
山上の林道と貯木場により消失した戦国期の竪堀または古代・中世の古道跡(中央付近)。因みに、先程紹介した事業説明の掲示はここにある。つまり、標高約400mのここに来なければ何が行われているのか解らない


大文字山と安祥寺山の間に設けられた貯木場下の平坦地に伸びる盛土古道
大文字・安祥寺山間に設けられた貯木場下の平坦地に伸びる盛土上の古道

破壊された古道の先探る

悔しさを抑えつつ、伐採木の束下を下り、古道を探る。実はこの区間はまだ確り踏査したことがなかった。すると、やはり束下のすぐ下方から真っ直ぐ伸びる古道を発見した。

それは、高さ50cm程の盛土状となっており、大きな平坦地の中心を貫く形となっていた。盛土の設えは後代のものかもしれないが、大きな施設との関連を想わせる、要路らしい姿が確認出来た。


大文字・安祥寺山間の古道を西へ下って見つけた、平坦地末端の石積痕跡?
大文字・安祥寺山間の古道を西へ下って見つけた平坦地下端部分。石積の設えらしきものを確認。谷を埋めて大規模に造成した痕跡か


大文字・安祥寺山間の古道を西へ下って見つけた、謎の人為平坦地
貯木場下の大きな平坦地を下り、また谷なかの平坦地と出あう。古道が下り続くここも、未知の施設跡かと思われた。


切り口を成して謎の平坦地を西へ下る大文字・安祥寺山間の古道
切口を成して謎の平坦地を西へ下る大文字・安祥寺山間の古道


如意寺「宝厳院」跡と推定されている平坦地に盛土状で続く古道
如意寺「宝厳院」跡と推定されている平坦地に盛土状で続く古道

歴史の森に易く触るべからず

そして道は地形図で事前に知っていた通り、宝厳院跡平坦地に出た。700年前の絵にも描かれた、幻の山岳寺院「如意寺」の西部施設の一つである。

古道はこの下の「熊野三所」跡辺りで沢水等の影響により途絶えたが、同寺の都側玄関口と難なく直結していることが証された。

このことからも、破壊された稜線付近や一帯の重要性が理解してもらえると思う。この山域は、まだまだ未知のことが多く、また、そのようなものが数多く埋もれている場所なので、安易に改変してはいけないのである。

森は植樹すればやがて回復するが、歴史遺産は一度破壊されると永遠に失われてしまうことを関係官庁・団体にもっと認識してもらいたいと思う。

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2019年12月29日

続東山壊乱

大文字山山頂からみた、京都東山の山々と山科盆地・京都盆地・大阪平野を埋め尽くす市街

関係機関への連絡後
年の瀬、再び山上へ


先日報告した、京都市街東部・大文字山南の安祥寺山に於ける林道造成による自然・歴史遺構破壊。

今日の午後、ひとっ走りして再び山上を訪れた。年の瀬でやるべきことが山積みの状態であったが、新たな破壊を止めるための未知遺構の撮影を優先させたのである。

実は、それに先行して市の文化財保護課と林野庁に連絡をしていた。

保護課からは、工事のことは把握しており、林野庁との打合せや現場立ち合いを経て、工事を進めてもらっているとの回答を得た。つまり保護課公認で破壊が進んでいるのである。

先日報告した通り、造成破壊は遺跡指定地内でも行われており、建屋跡のような重要遺跡以外は犠牲になっているようである。

一方、林野庁からはメールによる問合せの回答が一向になく、再度当地の価値の説明と乱暴な工事の中止を申し入れた途端に返答がきた。

偶々返信の時期と重なったのか、慌てて応答したのか知らないが、件の工事は保護課の指導・監督や各種法令の遵守、費用便益を勘案しつつ適切に行っているとの回答を得た。

両者一見ごもっともな言い分だが、やはり点と線的で、面的で多様的、そして深みある観点を欠いている。更に言うと、現地の環境や歴史に対する愛情が感じられないのである。

適切にやって、昭和に劣るこんな乱工事が罷り通るなら、もはや頼るもの無しの状態ではないか。

結果、今後の官林保全に対する危機感は更に高まったと言わざるを得ない。やはり我々現地末端が監視し、声をあげていくしかないのか……。

とまれ、役所には近々出向いて更に話を訊き、こちらからも説明・申し入れしたいと思う。


上掲写真 大文字山山頂(466m)からみた、京都東山の山々と山科盆地(左)・京都盆地(右)・大阪平野(中央奥)を埋め尽くす市街。都市化により平地上でほぼ消滅した古代・中世の「直の痕跡」が密かに、そして濃密に残る山中で、災害復旧の名の下に新たな破壊が進行している。


安祥寺山付近の林道掘削面で発見した土師器の欠片

古代物証発見!

そして、最近安祥寺山山中で発見した、公に報告されていない謎の大規模遺構の撮影前に、林道による破壊現場を再度確認。

すると、なんとその掘削面で遺物を発見した。写真の茶色い塊などの計5点で、手に取ったところ、轆轤成型された後期型(平安時代)の「土師器(はじき)」かと思われた。

場所は遺跡指定地ではなかったが、ここも自身の観察と研究により古代遺跡の可能性があることを示していた場所であった(先日保護課の要請により小論を提出)。正に「それ見たことか」の状況である。

詳しくは埋文研等での更なる調査を経ないと断定できないが、役所は既に正月休暇中なので、その終了後にでも早速報告したいと思った。

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2019年12月14日

東山壊乱

大文字山南の東山稜線傍の材木置場

東山の自然・遺跡またも破壊

先月末、訓練がてら久々に入った京都市街東部の山域で衝撃の光景を目にした。古代や中世の寺や城塞の遺構が数多残る大文字山(如意ケ嶽)と安祥寺山を繋ぐ尾根や周辺山腹が道路工事で切り荒らされていたのである。

その際は時間が無かった為、改めて今日その詳細の視察と記録のため現地入りした。遺跡指定地にも拘わらず、近年大文字山南の稜線や山肌が林道により破壊された件を以前も報告したが、破壊はそれで終らなかったのである。しかも公有財産が守られるべき筈の国有林内であるにも拘わらず。

現地説明板によると、今回の施工は昨年の台風21号による風倒木の整理等が目的のようであった。自らもその被害の重大を実見し、新たな災害の種ともなる倒木撤去の重要性を感じていたが、その為に自然や歴史人跡が新たに破壊されるのは本末転倒であろう。

写真は、大文字山頂から南主稜線を暫く南に下った辺りに現れた作業場。市街・岡崎辺りから見える、標高400m強の東山稜線付近である。

以前紹介した、稜線直下に並走する新林道の脇で、週末にも拘わらず、木を掴む装置を備えた重機が整理作業中であった。時折トラックが来て材木を載せてゆくので、伐り出された材の集積場かと思われた。


東山稜線傍の林道と周辺から伐り出された材木
東山稜線傍の林道と周辺から伐り出された材木


東山稜線傍の作業場の木材整理用重機と運搬用車輌、そして古道の分岐部
東山稜線傍の作業場を西から見る。手前は大文字山と安祥寺山への尾根道、即ち古道の分岐部分。黄色い車輌は木材運搬用の無限軌道車


林道工事で破壊された東山の稜線古道と木材運搬用の無限軌道車
なんと、ここでも古道が切られていることを発見。新林道と今回新たに通された道とを結ぶためと思われるが、この程度の高さなら盛土で乗り越えれば破壊せずに済んだ筈である。これでは何の為に無限軌道車を使っているのか解らない


如意ケ嶽城(大文字山城)南部の稜線古道(上下)と、古代如意寺の連絡路または戦国期の「堀切」跡とみられる尾根の窪み(左右)
大文字山南部の稜線古道と、古代如意寺の連絡路または戦国期の如意ケ嶽城(大文字山城)の「堀切」跡とみられる尾根の窪み

作業場は遺跡指定地かつ歴史的要所付近

この作業場の辺りも、平安中期から戦国期頃まで山中に存在した天台寺門派の巨刹「如意寺」関連域として遺跡指定地となっている。そして、そのすぐ傍にも重要な場所があった。

それが写真に写る尾根上の窪みであった(後代に少し埋められたか)。ここは鹿ケ谷上部にあった如意寺の西部境内と大文字山南の中部境内を最短・高効率で結ぶ場所として要地であった可能性がある。

また、南禅寺・大日山城方面の尾根と山科・安祥寺山方面の尾根が合流する場所の為、如意ケ嶽城防衛の要としての堀切であった可能性も窺える。

因みに、写真はこちらに掲載したものの方が解り易い(ページ下部)。


大文字山南の古道峠或いは堀切跡の東に続く、古道または竪堀(たてぼり)跡
古道峠或いは堀切跡の東に続く、古道または竪堀(たてぼり)跡

この場所の重要性は、古い峠道或いは堀切跡の左右(東西)に、古道または山腹防御の施設「竪堀」が残っていることにも補強される。

しかし、その西側下部は新林道と今回の作業場により破壊・途絶させられてしまったのであった。


稜線西下に造られた新林道と作業場により破壊・途絶させられた大文字山南の古道または竪堀跡
稜線西下に造られた新林道と作業場により破壊・途絶された大文字山南の古道または竪堀遺構


古代・中世からの山容を保ってきた、京都東山遺跡地区の山肌に続く新造成の作業道
古代・中世からの山容を保ってきた、貴重な京都東山遺跡地区の山肌に続く新造成の作業道

安祥寺山北の惨状

新たに東山の主稜線及び古道を切って造成された作業道は、周囲の山肌を切り削って延々と続く。

写真では、道は右側に湾曲して左向こうの斜面へと下降しており、奥側の沿道は皆伐され、地表が荒れて恰もパミール高原の峠道のような惨状を呈している。

これでは、今後山体崩壊を誘発し、無傷の遺構は疎か方々に悪影響を及ぼすのではないか。この山域はホルンフェルスや古生層由来の硬い地質が長くその景観や遺跡を保持してきたが、その均衡が崩れることを危惧した。


西側面が重機で無残に切り削られた安祥寺山北尾根

自然や遺跡・景観への配慮を欠いた林野庁の施工状況に呆れつつ、尾根上の古道を安祥寺山側へ南下すると、写真の如く、その傍にも無残に重機で切られた山肌が続いていた。

本来は、本道から外れた静かな雑木林の道が続く実に良い場所だったが、残念な限りであると同時に怒りが込み上げる。


無残にも作業道に切り削られた安祥寺山北尾根

そして、先日発見して唖然とさせられた、安祥寺山北尾根の切断箇所に来た。写真は、そこから南、即ち安祥寺山方向を見たものである。

無残にも尾根と古道が切られた場所は、大文字山と安祥寺山を結ぶ唯一の尾根の、最も高度の低い鞍部にあった。

平安末期の遺構と推定されている安祥寺山西経塚から僅か50mの地点。安祥寺山中腹にある古代山岳寺院「安祥寺上寺」と如意ケ嶽・鹿ケ谷方面を直接結ぶ唯一の通路であったと思われる注目されるべき場所である。

怒りと共に悲しさを感じる状況であった。


尾根横を切り削りつつ安祥寺山北尾根の鞍部を断つ国有林作業道(北側大文字山方向を見る)
尾根の側面を切り削りつつ安祥寺山北の鞍部を断つ国有林作業道(北は大文字山方向を見る。右端は尾根上の古道)

なお、この鞍部付近は何故か遺跡指定から外れていた。京都市の文化財保護課が遺跡無しと判断した為か、今回はそこを衝かれた形となった。

実は、私は20年程前から、この鞍部のすぐ北側尾根上に古い人為平坦地を認めており、それを考察した小論を書いたことがあった。写真右の林がその場所で、右端に平坦地中心を貫く尾根上の古道が見える。

小論では、手前鞍部に堀切跡が見られなかったなどの為、古代安祥寺の北門か何かの跡ではないかとの推論を下したが、このことを市に知らせて保全処置をとってもらうべきであった。まさかこんな目に遭うとは……。

これでは、堀切の有無を考古学に確定させることも永遠に叶わなくなった。一応、平坦地自体の破壊は免れたが、西の側面が大きく削られたため、崩落の危険が生じた。なんとかせねばならない。

因みに安祥寺上寺は密教秘儀を修めた入唐大家の真言僧・恵運(空海の孫弟子)が開いた山岳寺院である。左右の尾根に守られ、それらの頂部3峰に経塚が築かれるなど、大変シンボリックで特異な寺域構造を有している。

それ故、如意や比叡山方面からの唯一の接続尾根上のこの場所には呪術的施設があった可能性も浮かぶなど、その重要性が感じられるのである。


山科川源流方向から安祥寺山北鞍部へ迫る作業道(左)により切断された山科・大文字山を結ぶ古道(右)
山科川源流方向から安祥寺山北鞍部へ迫る作業道(左)により途絶・破壊された山科と大文字山を結ぶ主古道(右)

この破壊された安祥寺山北鞍部には、別に山科方面の谷から続く古道が接続していた。最も平易に山科と大文字山を繋ぐ道のため山科駅方面からのハイキング主路ともなっていた道で、その条件故に古くから利用された可能性が高い道であった。

それが、今回鞍部を崩して通された作業道により破壊されたことも知った。痕跡は山上に僅かに残るのみで、下部は全く消失していたのである。

これも残念な限り。奥山の遊歩道として魅力や、古道を元にした歴史考察等の可能性が永遠に失われてしまった。

林野庁は、国有林において林業や治山だけではない「多様で豊かな」森林づくりを推進しているのではなかったのか。

これでは、古代からの安祥寺領山林を引き継いだ「安祥寺山国有林」という名の重みも解さない恥晒しである。


山科と大文字山を繋ぐ古道を破壊して下部へと続く作業道
山科と大文字山を繋ぐ古道を破壊して下部へと続く作業道

古代寺院の地脈切り更に山刻む作業道

安祥寺山北尾根を切った作業道は、更に先が見えないほど奥へと延長されていた。安祥寺山北の山腹を巻き削る状況である。

その先を視察すると、実に安祥寺山西端から東端まで延長されていた。


安祥寺山北の山腹を破壊する林野庁の作業道とその分岐に置かれた重機

それどころか、安祥寺山北に延長された作業道は、更に下部の谷底にも分岐延長されていた。写真は分岐部に置かれた重機。


安祥寺山北山腹の作業道分岐付近から谷底に見えた重機
そして、安祥寺山北山腹の作業道分岐付近から谷へ下る作業道を見ると、谷底に何かが見えた


安祥寺山北山腹の作業道分岐付近から見た、谷底に置かれた2台の重機と更に分岐造成された作業道

謎の平安初期の瓦散布地も破壊
豊かな自然・文化遺産を次代へ


何と、谷底に2台の重機があり、分岐の作業道が延ばされ、広範に破壊・改変されていたのであった。

この谷底は付近に建屋痕跡がないにも拘わらず、平安初期の瓦が散乱するという謎の場所で、れっきとした遺跡指定範囲であった。

それにも拘わらず、源流部の自然環境共々破壊されている。今日は何れの重機も稼働せず静置された状態だったが、更に破壊が進むかもしれない。

しかし、改めて大規模で酷い工事であることが判明した。京都市民、いや国民が知らない内に人知れぬ山中でこんなことが行われていたのである。

言うまでもなく、長く都が置かれた京都は日本文化の基幹であり、日本人の心の拠り所である。そんな場所の、古代から継承され、21世紀のつい先日まで残されていた自然と文化の痕跡をこんな乱雑に扱ってもいいのか。

今更、木馬(きんま・きうま。既存古道や木道を利用した動物による木材運搬)をやるべきとは言わないが、こんな大予算が付くくらいなら、今時、鋼索や簡易モノレール・ヘリ等の多様な方法が選べたのではないか。

何やら横着をしているようにしか思われない。都市直近にありながら、豊かな自然や歴史遺産に触れられる、魅力的で活きた教材でもあるこの様な場所を保全し、次代にちゃんと引き継ぐべきあろう。

こんな乱暴施工は昭和の時代で終ったと思っていたが、驚きの大落胆である。正に恥を知るべき行為で、即刻止めるべきである。

とまれ、早急にこの結果を関係機関に知らせなければならない。実は、前述の平坦地の他にも、まだ未知・未確認と思われる付近の遺構を幾つか認知していたのである。

腹立たしさや悲しさを抑え今日はこれにて調査を終えて引き上げることとした。関係機関への対処やそれらの挙動等はまた後日報告したいと思う。

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2018年02月24日

三方長尾行

福井県若狭地方・三方五湖の三方湖南岸から見た湖と対岸の半島「長尾島」

臨海湖群「三方五湖」へ

朝早くから友人の車で福井県若狭(わかさ)方面へと向かう。

若狭は北陸の県である福井西部にあたるが、京都にとっては隣県滋賀の北隣であり、近隣の日本海沿岸地方であった。即ち「近海」であり、車で最短1時間半程の近場でもあった。

今日はこの若狭、即ち若狭湾の東部にある「三方五湖(みかたごこ)」という湖沼に向かった。海岸近くに5つの湖が集中する地学的・水系的にも珍しい場所で、水辺を研究する友人の観察に同行する形となった。

本来は先週末を予定していたが、雪で峠が通行困難であったため、今日に改めた。今日は比較的気温も高く、雪の心配もない好日。個人的に初めての場所でもあり、期待は高まった。

そして、ほぼ予定通りの時間で難なく到着。

写真は最も内陸に在り、唯一完全淡水湖である三方湖南岸から見た湖と対岸の景。今日の目的は内陸3湖を隔てる興味深い半島「長尾島」の探索を主としていたが、それは正に写真奥に低く続く対岸山のことであった。


福井県若狭地方・三方五湖の三方湖と対岸の長尾島の付け根部分
三方湖と対岸「長尾島」付け根部分(右奥の山下の鞍部)

三方五湖と長尾島

三方五湖は、久々子湖(くぐしこ)・日向湖(ひるがこ)・水月湖(すいげつこ)・菅湖(すがこ)・三方湖の5湖で構成される湖沼集合地で、海辺ながらも周囲を山で隔絶されるなどの特異な景観を備える。

その内、久々子湖のみ、元入江の潟湖で、あとの4湖は周辺の断層に関連する陥没湖とみられている。

今日の目的地長尾島は、内陸3湖の中央にY字状にある細長い山地で、正に隔壁的姿。以前から地図で見て気になっており、この地方に詳しい友人も未踏の場所ということもあり、今回共に探索することとなった。

なお、長尾島は半島状の地形であるが、地図を見るとその根元に水路があり、岸の山地とは切れている。写真でいうと、右奥の大きな山の左下に見える鞍部である。水月湖等にある、切通しのような人工開削であろうか。

写真を見ても少々不自然に感じる部分であり、興味深い。ちょうど今日はここから探索を始める予定だったので、その観察も楽しみであった。


長尾島へ続く三方湖東岸の細道
長尾島へ続く三方湖東岸の細道

先程撮影をした道の駅から移動して長尾島の付け根部分へと向かう。国道近くの集落を過ぎ湖岸に出ると、普通車の通行も怪しいような山際の細道となった。


三方湖と長尾島の付け根水路の南口

長尾堀切

道はやがて未舗装となり、所々冠水も見られるような状態となったが、なんとか到着。写真は三方湖と長尾島の付け根水路の南口。車は離合や農作業等の邪魔にならぬよう、ここより手前の空地を探して停めた。


江戸期の手掘りの趣が残る、福井県若狭地方・三方五湖の「長尾堀切」中央部

水路はやはり尾根を人為的に切り通して作られていた。全長160m程の水路を反対口まで観察すると、口側こそ現代的な護岸があったが、その途中は岩を削ったままの姿が残されていた。水深は浅く、何やら手掘りの如き雰囲気さえ漂う。

ひょっとして前近代の施工か。だとすると岩盤質なので大変な作業であったろう。地形図を検討すると、高さ20m以内の尾根を掘り崩しているのではないかと思われた。

後で調べてわかったのは、やはり寛永 19(1642)年に小浜藩により施工されたらしく、「長尾堀切」の名があるという。字名は「長尾」なので、切られて「島」が付けられたのかもしれない。

目的は、三方湖の水を当時内陸3湖唯一の排出河川を擁していた菅湖へ、より早く・多く導き、湖の水位を下げ、湖岸に新田を得るためであったという。


福井県若狭地方・三方五湖の長尾堀切の北口(河口)から見えた菅湖
長尾堀切の北口(河口)から見えた菅湖。奥に続くは山は長尾島。右奥には水月湖と繋がる水道がある。三方湖の水は、以前は水月湖を経て菅湖から排出されていたので、堀切はそのバイパス的役目を持っていた


長尾島の尾根上に切られた道跡
長尾島の尾根上に切られた道跡(山肌左半分)

長尾島尾根道をゆく

堀切に架かる小橋を渡り、獣除けの門を確実に閉め直して長尾島に入る。水堀で隔離されたひょろ長い半島に獣なぞいるのかと思いつつ進むが、鹿やその他の獣糞が数多目につき、その意外な密度を感じさせられた。

道は湖岸に農道状のものがあったが、眺望を求めて尾根を縦走するルートを採る。すると、山上には堀切下から荷車一台が余裕で通れる程の道跡があった。山中の古道との遭遇は数多経験しているが、行き止まりで集落もない半島にしては立派な規模であり、少々驚かされた。

かつて、その一部が山上まであった梅林の収穫用か何かか。しかし、生産者や地権者により開かれたというより、公の資力や動員により開削された観があった。山上は深くはないが自然林が広がっており、獣との関係が窺われた。所々に植林地や、梅林用とみられる段畑も現れた。

興味深いのは、途中幾つか沼田場(ぬたば)を見たこと。沼田場は猪等が水浴びする泥場のことで、山中の谷地等でよく見かけるが、ここでは尾根上に見られた。通常、尾根は水捌けが良すぎるため在り得ないのであるが、何故かここは所々赤土の水溜まりがあり、可能となっていた。

地質図によると、この辺りの地質は丹波高地同様、硬い古生層の筈なので不可解に思えた。隆起と沈降を繰り返した歴史の痕跡であろうか。


福井県若狭地方・三方五湖の長尾島尾根道から見えた長尾島南岸の梅林
長尾島の尾根道から見えた島の南岸の梅林。この辺りを含む三方地方は日本海側随一の梅産地。道がなかった頃は対岸の村まで舟で梅を運んだという


福井県若狭地方・三方五湖の長尾島西部稜線から見えた水月湖と梅丈岳

尾根道は標高50mまで一気に上がり、その後上下を繰り返しつつ同80mの分岐点に達した。Y字の中央である。ここから道は西側の尾根へと続き、西へ向かう予定の我々もその跡を踏み進んだ。

そして、写真の通りの、最も眺めの良い場所が現れた。水面は五湖中最大の水月湖で、対岸中央の山は五湖展望の適地として知られる梅丈岳(ばいじょうたけ)であった。標高400mのその頂にはレインボーラインという観光道路が通じている。


雪に埋もれた、福井県若狭地方・三方五湖の長尾島最高所の四等三角点(中央「+」印が見える石)
雪に埋もれた長尾島最高所の四等三角点(中央「+」印が見える石)

長尾島西端山頂着

そして、長尾島西端で同島最高所でもある標高100.5mの山頂に到着。今日の到達目標点であり、堀切からの距離は1.7km程であった。標高の所為か、その地表は深さ20cm程の雪に覆われていた。

スパイクやストックは用意していたが、これ以上雪が深くなると歩きづらくなるので、この程度で良かった。


福井県若狭地方・三方五湖の長尾島西端部から僅かに見えた、三方湖・水月湖間の瀬戸

しかし、眺望が全くなく、観察予定の三方湖・水月湖間の瀬戸も見えないため、その方向の斜面を少々下ってみることにした。

途中、大きな猪が藪中を走り去るのを目撃し、更には猿にも遭遇。森は完全に冬風情ながら、既に獣の気配が十分感じられる程となっていた。殆ど人が入らない所為か、その天国と化しているのか。信じがたいが、途中熊の爪痕のよう樹皮傷も見たので、単独入山には注意が必要かもしれない。

さて、高低差50m程尾根を下るも展望が乏しいため、少し見えるところで引き返すことにした。写真は樹間から観察出来た瀬戸の様子。対岸とその下の水面が僅かに見える。広く明るく見える右側は水月湖側である。


福井県若狭地方・三方五湖の三方湖・水月湖間の瀬戸と対岸の長尾島

瀬戸にて五湖の壮大な歴史思う

瀬戸の観察後、山上へ戻り、展望の良い先程の場所で昼食に。ところが、それを終える頃、突如天候が悪化し、梅丈岳越しに風雨が襲ってきた。

午後は曇るとは聞いていたが、冷たい風雨になるとは予想外であった。全く油断ならぬ天候である。恥ずかしながら、ここで財布を落としたと勘違いした騒動を起こすが、無事落着して、急ぎ元来た道を引き返した。

下山後はまた車で湖岸を走り、先程長尾西端から見た瀬戸の対岸へと向かう。写真がそれであり、対岸が長尾島で、幅50m程の水道となっている。


風に波立つ、福井県三方五湖の水月湖と右奥の長尾島北東部(今回未踏部)、中央奥の浦見川の開削谷
風に波立つ水月湖。右奥に長尾島北東部、中央奥に開削河川「浦見川」の谷が見える

雨は大したことなかったが、とにかく風が強く寒い。しかし、長くは居られなかったが、瀬戸や水月湖等の様子を観察出来たのは良かった。

久々子湖以外の湖も元は淡水だったらしいが、新田開発や治水のために隣接湖沼や海との短絡普請が行われ汽水化したという。特に重要だったのは、水月湖と久々子湖を繋いだ浦見川の開削である。

この地域は、寛文2(1662)年に所謂「寛文震災」に襲われ一帯が沈降・隆起し自然環境に大きな変化をもたらした。菅湖から流出していた内陸3湖の水が隆起で排出不能となり、湖岸が広く冠水する事態となり、その対策として浦見川が掘られたのであった。

全長324m、高さ41mを掘り崩す難工事の末、2年がかりで完成されたという。全くの手作業で行われたとは信じがたい工事である。本来なら、数m隆起した旧河道を開削した方が楽なように思えるが、後々の事を考え、なるべく海に近い場所に排出させたのか。350年前のことながら、近代治水を先取りしたような思想を感じる。

地殻変動・人為改変等々、中々の壮大さ。この他にも三方五湖には湖底に数万年分の歴史を封じ込めた堆積層を有するなど、興味は尽きない。


煉瓦煙突が特徴的な、三方五湖の旧湖岸集落「鳥浜」の酒蔵

瀬戸見学後、元湖畔だった鳥浜集落や近辺の湖跡等を見学し、帰路に就くことに。その最後に寄ったのが、古い煉瓦煙突が特徴的な写真の酒蔵。

地形的に元は三方湖の湖底と推測され、低湿のためか建物が傷み沈降している様が興味深かった。しかし、その条件により、酒造に必要な水には恵まれるのであろうが……。


JR北陸本線の北陸トンネルを抜けて現れた福井県下有数の降雪地・南今庄駅

帰京のつもりが東行・北上?

その後、帰京するつもりが、何故か小浜線の車中にあり、京都とは逆の東へ向かうことに。

ちょうど最寄り駅に列車が接近しており、友人に頼んで降ろしてもらったのだが、その訳はまた次回。列車が東へ向かうにつれ雪深くなり、少々不安を感じさせられたが、比較的気温が高く、新たに降ることはなかった。

敦賀からは、更に列車を乗り換え、なんと北陸線を北上。写真は長い北陸トンネルを抜けて現れた福井県下有数の降雪地・南今庄駅。除雪されたホームや道以外は雪で埋め尽くされている状況であった。

何やら、いきなり北海道にでも来た気分となり、只々驚かされたのである。

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2016年02月27日

伊吹河跡行

滋賀県北部の古街道沿いの宿場「春照」集落外れの梅園から見えた、雪を戴く伊吹山

意外な不調

先日ひいた風邪は検査の結果流感であった。初罹患である。然程高い熱が出た訳ではなく、医者共々違うだろうと思っていたが、念の為調べたら陽性であった。

その日から5日間の外出禁止を申し渡される。症状に対して過剰な措置に、違和感を覚えたが、他者への感染を考慮すると致し方あるまい。それより、そもそもどうして感染したのか。

最近通勤帯の列車等には近寄っておらず、特に人ごみに出向いた覚えもない。一応、手洗いや嗽等、一通りの対策もしていた。一つ気になったのは、その数日前にホームセンターに寄った際、咳込む子供が放し飼い状態であったこと。

確かな経路は判らないが、これくらいしか考えられない。

比較的早くに回復した子供は外出解除を待たずに外へ出される(出ていく)ことが多いという。それなら、もう少し親なりお上なりが気を遣ってもらいたいところである。

細かいこと言うようであるが、実は病は5日で済まず、その後も続くという損害を受けたという事情があった。補償のない自営の身なので、時間的・経済的損失は多大である。

とまれ、これまで職場の周囲十人が倒れるよう近接流行でも罹患したことがなかったので、少なからぬ衝撃も受けた。流感の故郷、大陸奥地で強力な風邪にかかって鍛えられたので、もはや罹るまいとも思っていたのである。

まあ、幸い流感特有の高熱にこそ遭わなかったが、いつまでも不調が続くのには参った。咳が止まず、熱も下がったかと思えばまた次の日に上がったり……。

踏査行如何!?

しかし、今日、約束の日が来てしまった。約束というのは、友人と実施する手筈であった、滋賀県東北部にある伊吹山山麓の踏査行である。

折角先方が細かな行程を組んでくれた企画。一応、外出禁止は解けていたので、今朝の状態を看て決行することとなった。その際も、無理はしないとの条件をつけさせてもらって、である。


上掲写真: 古街道沿いの宿場「春照(すいじょう)」集落外れの梅園から見えた、雪を戴く伊吹山(1377m)。随分遠くに見えるが、梅園自体も伊吹が吐き出した土砂による扇状地上であった。


滋賀県北部・近江長岡駅より見た、小雪に霞む(?)残雪ある伊吹山
近江長岡駅より見る霞む伊吹山。気温が低いので小雪が舞っているのか

リハビリ・荒行兼行

朝起きると、熱はないようだが、やはりスッキリとはしない。しかし、10日近くも屋内に籠っているのでリハビリがてら出動することとした。ちょっとした荒行の気分である。

友人と電話にてその旨を告げ、予定通りの決行に。夕方から雨が降るらしいので、速度が出せない今日は、場合により中途打切りも予想された。

予行演習がてら駅まで20分以上歩き、予定の列車に乗る。その後、友人が中途乗車してきて無事合流し、「近江長岡」なる最寄駅に着いた。

かの江濃国界の旧跡「関ケ原」手前の地である。


右側の天野川に注ぐ左側の姉川古跡の可能性があるという伊吹山からの流れと、残雪を戴き背後に聳える伊吹山

姉川古跡いずこ

今日の主題は、当地を流れ琵琶湖に下る「天野川」と、当地北方をかすめて琵琶湖に下る別系の「姉川」との関係。

嘗て姉川は当地へ流れ込み、天野川に合していたという。それが5000年程前に伊吹山の崩落により分断されたとの説があるらしい。今日は、その物証である姉川古跡を見つけ、その補強を試みるという趣旨であった。

写真は、天野川(右)に注ぐ伊吹山からの流れ(左)。友人曰く、左が姉川古跡の可能性があるとのこと。

本来なら私も独自に下調べして準備したかったが、体調のため叶わなかった。


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心部にある湧水の池

長岡から歩き始めて友人が組んだ行程を進む。田を越え川を越え、伊吹に向かって、である。やがて土地は僅かな登坂となり、扇状地に達したことが判った。

その扇端近くの集落「杉澤」に入ると、集落中心部は伊吹の豊富な湧水に満たされていた。写真の池がそれである。隣に勝居神社の境内池があり、その周辺からも流れ込んでいるようである。正に湧水適地、セオリー通りの場所である。


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心地・勝居神社境内の湧水ある弁天池
池の上手の神社には弁天が祀られた島を持つ小池があった。これも良く見ると、その背後より水が湧き出ていた


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心地・勝居神社境内の湧水ある手水舎
本殿を挟んだ弁天池の反対側には、この様な池も

実は屋根で覆われており、手水舎となっている。左奥の柱下から水が湧いており、天然の水源を利用したものだと解った。清めの場所としての手水舎の原初的姿か。

神社は社殿とその後背・両脇が高くなっており、その前方や最初の池方向が谷的低地となっている。おそらく、原初は社殿前辺りに大きな湧水湿地があり、それを尊崇する為に造営されたものとみられる。


滋賀県北部・伊吹山麓扇状地の扇端集落「杉澤」の中心地・勝居神社の境内社に施された雪囲い
勝居神社の境内社の一つに施された雪囲い。豪雪地帯伊吹を物語るもので、豊富な水資源との関りも示すもの


滋賀県北部・伊吹山麓に古の宿場街の趣を僅かに残す、春照集落と町を貫く旧街道
古の宿場街の趣を僅かに残す、街道沿いの春照(すいじょう)集落

寒さと疲労

神社からは、関ケ原から分岐して北国に至る古街道沿いを進む。途中、道沿いの伊吹文化資料館も見学。

本来は大した距離ではないのかもしれないが、ここまで休みなしで来たので、少々休息をとることとなった。

予報とは違い、気温も上がらず寒い。少々熱も出てきたか。うーん、辛い。大丈夫であろうか。

資料館の厠にて喉を整え、5分程休息すると歩けるようになったので、一先ず昼食予定地まで進むこととした。


滋賀県北部・伊吹山麓の古の宿場街「春照」外れの街道分岐点・八幡社の角と石垣上にたつ古い道標
春照外れの分岐点、八幡社の角にて

古い石碑には「左ながはま道」「右北國 きのもと えちぜん道」との案内が見える。江戸中期頃の造りとみたが、紀年はなかった。

路傍にあったものが拡幅により段上に置かれたか。


滋賀県北部・伊吹山麓山際の湧水地「春照の泉(臼谷の泉)」

姉川旧跡?
臼谷・小碓の泉


八幡社からは旧長浜街道へと左折する。山際のそれを進むと程なくして写真の昼食地が現れた。山際の湧水地「春照の泉(臼谷の泉)」である。


大きな朽木脇から水が流れ出る「春照の泉(臼谷の泉)」の水源
春照の泉の水源。大きな朽木脇から水が流れ出ている

泉は庭園様に整備されており、休憩適地。寒いが座るところもあったので、ここで昼食とした。

厳寒期での握り飯の持参を悔いる。冷蔵庫の冷や飯で想像出来るかと思うが、飯は低温だと旨味が出ないからである。

まあ、それでも休息にはなった。少し元気も出たので、池に生息するというハリヨを探す。寒さの所為か全く姿を見ないが、小さな死骸は見つけることができ、その存在を確認できた。

因みに、ここは友人が独自に想定する姉川関連地。湧水は山裏の姉川からのもので、嘗てはここを流れていたのではないかと。

ただ、背後の断崖や地形が唐突的で、5000年くらいで変化したとは思えなかった。ここ自体の標高も高く、川なら、もっと平野下部を通過したのではないか、と意見した。

本人も、水の味が硬かったので、姉川より、石灰質の伊吹山由来の可能性を考慮し始めた。


滋賀県北部・伊吹山麓山際の芦原底に浅く流れる「小碓の泉(間田湧水群)」と彼方に覗く、残雪ある伊吹山

休息後向かったのは、同じ街道つづき、山際つづきの「小碓の泉(おうすのいずみ)」。歩いて数分の場所にあり、山間というか丘なかの浅い谷状で奥へと続いている。

写真がその内部。葦で埋る辺りが浅い水で満たされている。ここも川跡候補といい、確かに川筋のような地形だが、奥には山というか台地が開って(はだかって)おり、わからない。谷の口側、つまり下流を見ても、圃場整備の影響もあり、その痕跡は窺えなかった。

そもそも、ここも標高が高く、川跡を想定することは難しい。また、谷から伊吹が見え、結構距離があることが判明。一応そこから続く裾野地ではあるが、その山体崩落の影響を直接受けたとは考えにくかった。

考えられたのが、崩落のような短期・急変的変化ではなく、隆起・沈降も考慮した長期・漸次的変化による河道変遷である。即ち、ここが川跡なら、それは5000年程度の昔ではなく、数万年かそれ以上前の可能性を考える方が、辻褄が合うのではないかと思われた。

水の硬度も高いらしく、やはりここも姉川伏流ではなく、伊吹からの水の可能性が高いようである。


滋賀県北部・伊吹山裾野にある、姉川からの分水を更に分ける為の施設「間田五川分水」

川跡発見?
崩落説への疑問


小碓からそう遠くない場所で、裾野下方となる間田集落に入る。裾野末端の微高地に形成された村落のようである。この集落後方(北)に谷地形を発見した。

具体的には、集落と入善寺なる寺院がある丘の間の田圃帯である。幅30m程で、東北は姉川方向へ続いており、谷の出口は、西南にある山麓平野の低地方向へ繋がっている。

これは、比較的新しい時代の川跡を想定出来た。因みに、姉川の谷地とを隔てる上方の丘陵もかなり低い場所があり(小田八幡社付近)、その繋がりが補強される。ただ、崩落云々とは全く無縁の場所ではあるが……。

しかし、そんな複雑な考察をせずとも、もっと簡単に川跡想定出来る場所があった。それが写真の地。姉川からの分水を分ける為の施設「間田五川分水」である。

姉川の谷の出口付近の堰から分水されたこの用水は、裾野を迂回して山麓平野へと水を送っている。中世以前から続くという歴史ある水路で、友人によると、昔の川跡を利用しているとの説があるという。

それなら、ここを姉川の旧路とするのが、最も理に適うのではないか。ただ、それなら崩落云々の話は宙に浮いてしまう。ここにきて、先程から気になっていた崩落説への疑いが強まった。


滋賀県北部・伊吹山麓の伊吹集落背後の裾野台地から見た、姉川の出口谷や段丘線

用水を辿り、その上流の姉川谷口へと向かう。幸い雨には降られていないが、昼から気温が高くなるとの予報も外れ、寒さの中を進むこととなった。

「明日からは暖かい、午後からは春になる――」。最近こんな予報ばかり出るが、当る率は低い。狼少年さながらのそれに、少々立腹しながらも先を急ぐ。

河容変化と河道変遷の混同?

用水は裾野丘の北を回り姉川の流域に出る。幅1キロにも満たないその谷地の中程を姉川が流れるのが見えた。現河道は谷地のかなり低い部分を流れているが、近代改修による掘り下げの可能性も考えられる。

やがて、用水の取水部であり、姉川の谷口である伊吹集落に到着。背後の裾野台地の高さは数十mと化し、もはやこのあたりから姉川が南流したとは考え難い。また、山体自体それでもまだ遠く、崩落云々も当らないと思われた。

写真は集落から裾野台地に登り、先程通過した姉川の出口谷を見下ろしたもの。中央右側に段丘線が見えるが(木立線2本のうち下部のもの)、姉川はこれに沿わない。

あとで調べたところ、河岸丘ではなく、断層線のようである。対岸の七尾山麓には、著名な木之本―関ケ原断層が通る。過去、一気に数mの高低差を生んだ痕跡もあるらしいので、これによる沈降での河道変遷も有力視される。

とまれ、現地観察の結果でも、崩落変遷説の無理を友に告げる。途中、裾野北部の断面も観察したが、崩落堆積ではなく殆ど岩盤的ということもあった。彼も山体との距離を見て、その説の難儀を悟ったようであった。

友人が一体どの論文を参考にしたかは定かではないが、帰宅後少し調べたところ、そのようなものは見当たらなかった。「5000年前の崩落」ということでは、姉川谷口の少し奥で山体崩落が起き、その際堰止め湖(堰塞湖)が出来たとする調査結果や論文は目にすることは出来た。

確かに、伊吹集落背後の現地形にもその痕跡は残っており、押し曲げられた現河道の様も明瞭である。ひょっとして、この渓谷内の河容変化と河道変遷の混同が生じているのであろうか。これは、また友人に問い合わさなければならない。

踏査の結論

今回の踏査の結論としては、姉川南流の可能性はあったが、それは5000年前の山体崩落が契機となったとは言えないというもの。

可能性としては、伊吹集落下部から南流し始め、裾野北に沿って小田八幡辺りで裾野端を抜けるか、そのまま小田・間田の用水辺りを流れ、低地に向かうというもの。高低差からいうと、裾野抜けの流路はより古い時代が想定される。

低地に出たあとは、天満集落、長岡を経て天野川と合するか、市場集落から三島池、志賀谷集落辺りを経て更に下流で天野川と合するかの経路が想定された。

まあ、本来は更なる材料を集めて精度を上げなければなんとも言えないことなので、あくまでも簡易な想定ではあるが……。


滋賀県北部・伊吹山の裾野高所で見た、伊吹名産のセメント材料「石灰」を採掘場から運ぶコンベヤ通路
石灰運搬の為のコンベヤ通路

裾野上からは、また南へ向かい高所の上野集落などを通過。途中、採掘場からセメント材料の石灰を運ぶコンベヤ通路と交差する。伊吹らしい光景であり、水の硬度の源を知るものでもあった。

雪はないが、高地の為か一段と寒く感じられる。雪を頂く伊吹山に一番近いということもあるだろう。


滋賀県北部・伊吹山麓の登山口際から湧く古来有名な湧水「ケカチの水」

裾野台地から扇頂部へ

上野の中心地は三之宮社という山を祀る神社。伊吹山頂やスキー場への登り口ともなっており、旅館などが集まり観光地然としている。

写真は、登山口際から湧く「ケカチの水」。古来有名な湧水で、日本武尊が利用したとの伝承もあるという。熱ある額を冷まさんと汲むも、湧水の為冷たからず(笑)。


滋賀県北部・伊吹山麓の上野集落と弥高集落の間で見た、冬枯れの森が広がり春到来の遅さを感じさせる伊吹山の山腹

その後は、杉澤や春照等がある扇状地上部で、扇頂部に当る「弥高集落」を見学。山間ながら、結構家屋数があり、大きな家も多い。

こちらは標高300mに近く、冷えが厳しい。雪も降るときは多そうなので、少々暮しを案じる。写真は上野と弥高の途中で撮影した伊吹の山腹景。冬枯れの森が広がっており、当地の春の遅さを感じさせる。

何とか行程消化
明日の体調を懸念


弥高からは扇状地下部方向へ下り、途中の「伊吹薬草の里センター」からバスに乗って長岡駅に帰還した。体調は何とかもったが、昼食後も休憩せずに行動していたので、もはや限界であった。

駅からは列車に乗り、近江八幡で途中下車。そこにて湖魚料理等を出す店で夕食会となった。体調的にギリギリではあったが折角なので、寄っていく。

しかし、やはり厳しかった。以前の彦根での食事よりかは早めに切り上げたが、結局10時台に京都へ着いてしまい、バス待ちが長くなった為、駅から歩いて帰ることに。気温も頗る寒い。

まあ、列車でぐったりしていたが、目覚ましをかけたお蔭で降りそびれることがなかっただけマシではあるが……。

なんとか帰宅して、すぐに就寝。明日の体調が心配であった。

とまれ、お疲れ様。
何とか行程はこなせたが、心配をかけて申し訳ない限り……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2009年10月23日

敦煌東方視察

中国西部敦煌から安西(瓜州)方面の漢代遺構の見学出発前に市内燃料スタンドにて補給するチャーター・タクシーと司機のW氏

予備日。安西方面へ

昨日を以て今回予定していた調査は終了した。入域制限等の関係で予定地全てを踏査出来ず、また実施地でも遺構発見が叶わなかった所も有った為、完全を収めることは成らなかったが、実見に因る状況取得等々、少なからぬ成果を得た。また、最新の現地情報や人脈の獲得といった面でも、好ましいものが得られた。これらの成果を元に、また次回に挑みたい。

さて、予備日となった今日は、以前より希望していた、東方は安西(瓜州)方面にある漢代遺構の見学に充てることとした。朝準備をし、8時半(北京時間。日本の1時間遅れ)頃、昨日の司機(運転手)の携帯へ電話を掛けてみた。しかし、「空番号」との自動音声が……。番号が印刷された名刺をよく見ると、番号の下にインクが切れたボールペンで成された数列が。こちらへ掛けてみて漸く繋がったのであった。

早速、宿前に現れた司機は、山岳用磁針を差し出した。昨日、私が車内に落としたもので、8時頃、宿まで届けに来たが、部屋番号が判らなかった為、渡せずにいたという。実直なその心掛けに感謝し、早速遺構見学の話を纏め、車に乗り込む。途中、電話番号の話をすると、渡した名刺が古いものであることに気づき、新しいものと交換してくれた。あの書込みに気づかなければ、会えないところであった。縁があった、ということか。

写真は、出発前に市内燃料スタンドにて補給するチャーター・タクシー。傍らの人物は、我が司機のW氏である。細いパイプからボンネット内に送り込まれるのはガス燃料。後方に停車する公共ミニバス等にも見られる通り、ガスや電力利用の車輌が急速に普及しているようである。


朝日を追い、戈壁中の一本道「安敦公路」を東へ車行する
朝日を追い、安敦公路を東へ

相変わらずの戈壁中の一本道である。敦煌郊外の敦煌空港や新駅の辺りまでは、車線が多く、高速道路の如き体をなしている。交通量は少ないが、路面状態等は良好である。


荒野の果てに佇む、中国西部瓜州郊外に残る漢代・三国期の複合遺跡「六工古城」

古代辺境迎撃基地「六工古城」

今日の見学場所は2箇所。何れも公路沿いにあり、先ずは近い場所にある「懸泉置遺構」からの予定であったが、場所がわからなかったため先へ進み、瓜州郊外にある2つ目の「六工古城」へ向かった。

それは、瓜州の緑が地平線に見え始めて暫し後に現れた。だが、公路から見えるそれに、中々近づけない。大規模な遺構のため遠くに在りながら近くに見えたこともあるが、そこへと向かう脇道の発見に時間が掛かってしまったからである。途中、司機が何度も土地人に道を聞き、漸く灌漑水路沿いの土道を進んで着くことが出来た。

写真は、荒野に佇む六工古城全貌。全長500m程もある。手前に立つ木棒の右側が、最初に造られた漢代の城障部分。左側が三国期の魏が建造したとされる県城(地方小都市)址である。


中国西部瓜州郊外に残る漢・三国期複合遺跡「六工古城」の東側にある、漢代「宜禾都尉」治所に比定される「昆侖障」遺址
複合遺跡である六工古城の、古く小さい方、即ち漢代の遺址

小さいといっても、停車する車と比較してもらえば解ると思うが、一辺約90m、防壁残高も約10mという威容を誇る。当時ここに駐屯し、一帯の迎撃任務にあたった「宜禾都尉」の治所、「昆侖障」に比定されているという貴重な遺構である。


中国瓜州郊外の漢・三国期複合遺跡複合遺跡「六工古城」東側の、漢代「昆侖障」比定遺構の南壁出入口跡
「昆侖障」比定地の南壁に設けられていた出入口跡

車1台幅程の道が、L字に屈曲しつつ内部に通じる。左右には厚さ数m、見上げるばかりの防壁が設けられている。北を走る長城本線から6kmも離れた内地であるにも拘らず、今も残るこの堅固さ。よく見れば、周囲にも更なる外郭らしき微高地の連続が見られた。当時の、辺境前線に於ける緊迫ぶりが窺える。


中国瓜州郊外の漢・三国期複合遺跡複合遺跡「六工古城」東側の、漢代「昆侖障」比定遺構(手前側防壁内)から魏晋県城址(向こう側防壁内)を見る
昆侖障比定地(手前側防壁内)より魏晋県城址(向こう側防壁内)を見る。南方である背後の山麓に沿って安敦公路が通じるが、古代の古道もそこにあった。長城と交通路の両方を押さえられる中々の好立地


中国瓜州郊外の漢・三国期複合遺跡複合遺跡「六工古城」西側部分の、「角敦」や「馬面」を備えた魏晋県城址の北防壁
魏晋県城の北防壁。角部分に角敦(正しくは土扁付)、中ほどに「馬面」と呼ばれる張出しが設けられている。防壁の面積及び攻撃角を増し、守備を易くする為の設計である

息を呑む凄み。県城廃址

小城見学の後、隣接する大城、即ち魏晋県城址に入った。東西280、南北360mの広大に残墻が屹立する。正に、息を呑むばかりの光景――。一体どれ程の労力が費やされたのであろうか……。只々その凄みに打たれ、暫し呆然と佇む。

防壁以外の建屋は現存していないが、周囲広範に、耕地や墓所等の生活遺構が発見されているようである。また、城外に散乱する土器片等の遺物数も相当なものであった。しかし、それにしては、付近は全くの無人で、管理棟や入場制御施設等の存在もない。公路に近く、著名観光市敦煌から日帰りできる立地にありながら、これ程の遺構がどうして施設化されないのであろうか。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構を探し戈壁上の轍を追って山側へ進むタクシー

「懸泉置」何処へ

さて、古城の見学を終え、車内にて昼寝する司機の元へと戻り、次なる目的地「懸泉置遺址」へと向かう。ところが、帰り道にある筈のそれが見つからない。公路沿いの「甜水井」なる場所にあるというのだが、戈壁只中のそこまで行っても見当たらない。

公路関係の施設か、そこの小屋の人々に司機が訊ねても知らないようである。司機は携帯電話で敦煌の知人に連絡し再度その所在を訊くが、やはりその辺りに違いないという。確かに、手持ちの旅行地図にも甜水井から1.5km南へ入った所にあることが記されている。どうやら、山際にある遺構への通路の問題のようである。しかし、戈壁の一本道たるその近辺に分岐の場所はなく、その在り処を示した標識の如きも無い。

とにかく付近に存在する脇道らしきものを探す。写真はその内の1つ、戈壁上の轍を追って山側へ進む様子である。道とは呼び難い単なる河原跡のような場所で、起伏が多く、当然速度は出ない。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構を探し戈壁上の轍を追ってタクシーで山に入って辿り着いた断崖と泉の傍の黄葉した樹々。古代の懸泉、現代の甜水井・吊吊泉か

轍道を進むと、やがて不毛山地内の谷筋となった。更に進んだが、程なくして分水界の断崖のような場所に出てこれ以上進めなくなった。写真はそこにあった泉の樹々。

一体、遺址はどこにあるのであろうか。本日最後の見学地で、時間的には余裕だった筈が、既に午後を大きく過ぎ、焦りが生じ始めた。とにかく公路へ戻って再度探すしかない。しかし、他にはもう道らしきものは無かった筈……。


戈壁山地の谷口・山下にて漸く発見した敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構の碑

ため息交じりに公路への後退を続けている時、谷の出口辺りで轍数条分の分岐があることに気づいた。念の為、そちらも辿ってみると、なんと、程なくして遺構の碑を見つけることが出来た。司機共々喜んだのは言うまでもない。


敦煌近郊の山裾に起伏状に存在する、漢代郵駅址「懸泉置」遺構
山裾に存在する懸泉置遺址。地表に建造物の残存はなく、写真に見る如く、起伏状、そして地下に遺構が存在する

懸泉置は前漢時代(BC1世紀頃)に古道沿いのこの地に設けられた郵駅站。いわば、古代の通信施設・基地である。その名が後世に伝わらなかった為、長期間存在を知られていなかったが、1987年に発見され、広く知られることとなった。「懸泉」とは、その近くにあった泉の名(恐らくは先程見た山奥のもの。現名「吊吊泉」)から採られた地名だという。

地表に殆ど見るべきものがない地味な遺構ながら、大量の木簡や遺物出土を齎した為、学術的には大変重要な存在となっている。特に、壁に書かれた皇帝詔書がそのまま発見されたことは大きな成果であった。また、地下に眠る遺構自体も、古代の大郵駅址として高い史料価値を有している。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構東方近くの山上に見えた、煙突の如き突起を備える漢代の烽燧「山上亭」(弐師泉烽燧?)遺構
遺址後方の山に登って周囲も見てみる。東方近くの山上に、煙突の如き突起を備える烽燧を確認。出土簡に記された漢代の「山上亭」(文物局呼称:弐師泉烽燧か)址に比定されているものであろう。懸泉置遺址からも観察出来、更に西方、公路沿いの烽燧とも対応している


背後の山上から見た、敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構全容
懸泉置遺址全容

写真中程、車が停車する辺りに地色が変わる場所があるが、それより下方、山際までの小起伏が連続する場所が遺構である。総面積は約2500平方m。郵駅とはいえ、幾重もの防壁や烽燧を備えた要塞的建築群であった。


敦煌近郊の漢代郵駅址「懸泉置」遺構で見られた、盗掘が疑われる遺構断面の露出

盗掘?

露出していた遺構断面。漢代、そしてこの地域特有の、葦入り建築構造が窺える。灰や炭の存在は、敷地内の厩舎付近にて火災があったとの調査報告を裏付けるものである。

この遺構は、調査後埋め戻されたことが報告に見えるが、一部地下に至る大穴が開いたままであることを確認した。ひょっとすると、盗掘されているのではないか。早急な対策を望むところである。

祝敦煌全程終了。しかし……

さて、懸泉置見学が終了し、敦煌への帰路につく。これにて敦煌での全予定は終了である。明日より日本への撤収を開始する。途中、友人宅等を訪ねながらである。

しかし、今日既にその旅程に陰が差してしまった。遺構からの帰り、新しい敦煌駅に寄ってもらい、明晩の切符を買おうとしたが、寝台票が手に入らず、座席票しか買えなかったのである。不眠不休が必至の夜行座席車移動――。しかも目的地まで計19時間!2度とやるまいと思っていたが、そうはいかなかった。「仕方ない」とは言い聞かせつつも、構外で待つ司機と顔を合わせるなり溜息一つ……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究