2023年08月27日

奥貴船避暑

奥貴船・芹生の避暑地近くの山上に立ち並ぶ北山杉

朝も北地凌ぐ近場の涼

恒例の避暑泊で昨日昼から滞在した奥貴船の山上――。

今日も下界では猛烈な暑さと熱帯夜が予想されていたが、ここでの朝の最低気温はなんと18度であった。

提供された冬布団を確り被らないと風邪をひくような涼しさ。まさに目論見通りの、快適な避暑泊を過ごせたのである。

昨日に続き重ねて言うが、それは、朝晩酷暑の京都市街の自宅から僅か10数kmしか離れていない場所でのことであった。ちなみに、昨日例に挙げた北海道・札幌でも今朝の最低気温は26.4度という、熱帯夜であった。

近場なのに実に有難い限り。ただ、涼しい山上とはいえ、著名避暑地の如く標高1000m前後に達するような高地ではないことも特異的であった。

世の中、そして自然はまだまだ奥深い……。


上掲写真 避暑泊地近くの山上に立ち並ぶ北山杉。同杉の産地・旧丹波国南東に位置する、奥貴船らしい眺めである。


「佛返りの地蔵尊」への参道となっている府道沿いの擁壁の切れ目
例年手作りの郷土料理が並ぶ美味しい宿の朝食を食べたあとは、以前から勧められていた地蔵尊の参拝に向かう。そして、山の舗装路を歩いて辿り着いたのが、道際の巨大なこの擁壁であった。意外にも、この擁壁切れ目の階段が地蔵尊への入口となっていた


府道際の擁壁裏の崩落斜面の合間にあった佛返りの地蔵尊の祠
大小の落石が寄せ溜まる危険な擁壁裏には更に階段があり、この様な祠があった。地蔵尊の祭祀施設のようである。それは、安定した岩盤裏にあったが、両側は軟弱な崩落急斜地という特異な立地となっていた


祠内で地元の人々に手厚く祀られる「佛返りの地蔵尊」

伝説的地蔵にまつわる大発見?

そして、階段を上がり祠内を覗くと、写真の如く「佛返りの地蔵尊」が手厚く祀られていた。それは、高さ1尺程の石像で、笏を持つ神仏習合様とされる珍しい姿であった。

造形的巧みさは見出し難いが、洛東の銘石「白川石」製とみられ、都から運ばれた可能性が窺われた。何より、小像とはいえ地元の伝説に彩られた存在で、様々な難病に利益があるとされ、広く尊崇されているらしい。

実は、私も、何気に訪れたこの地蔵にまつわる大きな発見をしてしまった。詳細はまだ明かせないが、ひょっとすると、この地域の歴史に新たな頁を加えることになるかもしれない。


清冽で冷たい奥貴船・芹生の渓流
貴船川より更に清冽な奥貴船の沢水。氷水の如く冷たく、昨日に続き今日午後もその水に身を浸し、身中籠る猛暑の暑気を払った(水着持参。笑)

帰路へ
願わくば後も涼しく……


その後も座敷で寛いだり、宿の人と話し込んだりして避暑地の涼を楽しむ。そして、夕方、鞍馬経由で帰宅したのであった。

下界はまた暑かったが、貴船の混雑を避けつつ、一番暑い時間もかわせたので、都合よく避暑泊を締めくくることが出来た。

あとは、このまま気候が冷涼化くれることを願うばかりだが、それはまだ叶わぬ願いか……(苦笑)。


奥貴船避暑行初日の記事はこちら

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2023年08月26日

貴船暑鬧

貴船川の渓流とその水面に設けられた納涼床

盆過ぎ後も猛暑続く

予報通りなのだが、盆過ぎてもここ京都市街の猛暑が終らない。

朝から暑く、午後からは外出困難な猛烈な暑さとなり、その後深夜に至るまで30度を切らないような日々が先月初旬から続く。

市街でも比較的涼しいとされる山手に住んではいるが、もはや空調機器を常時使わないと危険極まりない暑さであった。

そして、今日も猛暑日予報。

いや、明日も明後日も明々後日もその次も、猛暑の連続が予報されていた。まさにうんざり、気が遠くなるような有様であった。いい加減少しはマシになって欲しい。

ただ、今日から2日間、恒例の近場避暑に出掛けるので、その効果・価値というか、有難みは増すこととなった。

目指すは奥貴船。午後からの行動は暑すぎ、また途中の貴船が観光客で混むので、それらを避けるべく、朝出発することにした。


上掲写真 避暑地への途上に経る貴船川の渓流とその水面に設けられた納涼床。ご存じ著名の観光地で、近年は外人観光客にも人気となっている。


朝から観光客が多い8月最終週末の貴船神社門前
折角なので久々に貴船に寄ってみたが、その中心地・貴船神社前は御覧の通りの人出であった。まだ朝10時過ぎだが、繁忙期最後の週末だからか。また、今月上旬の大陸団体客解禁の影響か、彼の地の人も多く見られた


午前中から長蛇の列と化していた、貴船の流しそうめんに並ぶ車道際の人々
最近流行りの流しそうめん店には長蛇の列も。高級和食主体の貴船に於いて手頃な値段で食事が出来るため人気なのであろう。ただ、車道沿いで交通量も多いので、店員による交通整理が行われていた


貴船神社本宮辺りの混雑に比して閑散とする午前の貴船神社奥宮境内
反面、流しそうめんから然程遠くない貴船神社奥宮は、その駐車場の繁盛に比して閑散としており、意外であった。車の多さは、下の駐車場混雑の影響で、人は午後から混むのか。それにしても、涼しさが売りの貴船でさえ暑かった。標高300m以上の深い谷地のここも、猛暑には勝てないのか


奥貴船・芹生を流れる灰屋川の渓流
上下の貴船社を参拝・参観後、避暑泊の地・奥貴船に到着。その沢の様子などみると、明るく陽が射して暑そうだが、目論見通り、空調要らずの涼しさであった。貴船より標高が高く、乾燥しているからか

北地に勝る近場に感心

ここでは珍しく午後の最高気温が30度を超えたようだが、それでも快適であった。ちなみに、ここから1000km北の北海道・札幌は今日35.6度の猛暑日で熱帯夜だったという。

そんな状況にもかかわらず、自宅から僅か10数km北のここはこの快適さ。山上のためフェーン現象が起こらないからであろうか。とまれ、近場の魅力を改めて実感することとなった。

今日は数十日ぶりに空調なしで寝られそうである。


奥貴船避暑行2日目の記事はこちら

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2023年08月18日

呉業務行(其参)

広島県呉市両城の、「両城の200階段」が丘上へと続く急峻な階段住宅

今年も呉名物?堪能

広島出張3日目。

即ち最終日であったが、本来は15日からの4日間であったことは以前既述の通り。今日も作業合間の見聞を紹介したい。

今日の昼食も昨日と同じ趣向で、呉郊外の著名ラーメン店に連れて行ってもらった。昨日のうどん店と同じく暫し待たされたが、人気を得る質であることが理解出来た。そしてまた、お店の人の対応が素晴らしい。

忙しい人気店にもかかわらず、店主を始め、全ての従業者が、しっかり目をあわせて退店を見送ってくれるのである。料理の良さと相俟って、良い印象を与えてもらった。

流石はB級グルメの聖地(ここに「B級」は合わないかもしれないが……)呉の一店である。

さて、食後は呉市街に進み、友人がまだ入ったことがない変わった宅地を見学することとなった。急峻な斜面やその丘上まで家が犇めく住宅密集地で、呉空襲を免れた戦前築の古家が残る地域であった。

両城という地名に存在するそれは「階段住宅」との呼ばれていた。実は昨年その一部を友人の案内で訪れたことがあり、このサイトでも紹介した

今回はその時の隣の丘を少々探索予定であったが、友人が間違えて昨年同じ丘を登ってしまい、頂部で気づいて引き返した。そして改めて向かったのが写真の丘・階段住宅であった。


両城の200階段の登り口と呉市の説明板
友人が来たかった場所はここ。「両城の200階段」と呼ばれる、階段住宅を貫き、丘上に続く長い階段がある宅地であった。ここは、その登り口で、海保隊員をモデルにした映画で使われ観光地化しているため、その傍(左)には呉市による説明板もあった


広島県呉市両城の、「両城の200階段」の見上げる程の急斜・急段
「両城の200階段」は、登り口こそ狭い民家裏の石段状であったが、間もなく見上げる程のこんな急斜となった。その高度感に友人は恐れを感じるが、高山に慣れた私は特に問題なし


広島県呉市両城の、「両城の200階段」の途中から下を見た急段や呉市街に、階段住宅基壇の急な石積み
「両城の200階段」の途中から下を見ると、急段と共に麓の呉市街が見えた。通路両脇に切り立つ、階段住宅基壇の、石積みの高さ・急さにも注目


城塞のような両城の階段住宅の丘
そして、丘上に上ると、昨年巡った両城のもう一つの丘の全貌が窺えた。あちらの階段は「両城の100階段」と呼ばれているという。後背山地との間に鞍部がある(左)その様は、どこか城塞のようである

未知の城址?

そういえば「両城」という変わった地名は、主にこちらとあちらの二つの丘で構成されている。ひょっとして、両方の丘にかつて城があり、その名が残ったものではなかろうか。

あとで調べると、こちら側の丘の隣の尾根先端に「有崎城」という城址があった。交通の要所を押さえたというその城に近く、それより高さがあり防御力があるこちらは詰の城だったのではないか。

広島県の遺跡地図に記載がないが、史料に残らず、戦前の宅地開発で早くに破壊された未知の遺構かもしれない。郭跡の平坦地が多くある城址なら、宅地開発にも役立った筈である。


両城の丘上から見た呉港とONEの世界最大級のコンテナ船
両城の200階段上部からは、呉の象徴「呉港」も見えた。中央の赤い船は建造中の世界最大級のコンテナ船らしい


呉港の奥に停泊する海上自衛隊艦艇
呉港奥には何艘もの軍船も。昨日海峡で見たものと同様の、海上自衛隊艦艇で、軍港のまち・呉らしい眺めであった

予定熟し出張終了
間一髪の混乱回避


城址なら本丸があった場所と思われる、丘上の両城中学から、つづらの谷道を下り、麓に。

その後、また友人宅に帰り作業を再開。変わらずの暑さのなか夕方までそれを行い、そのまま細君の夕食を馳走になり、帰京することとなった。

新幹線の発車時間が迫ってきたので、帰りは呉線ではなく、広島駅まで友人の車で送ってもらう。そして、また新幹線とバスを乗り継ぎ22時過ぎに無事帰宅することが出来た。

あとで知ったが、初日に乗車したあと新幹線が大雨で止まり、その後も昨晩まで混乱が続いたらしいので、ちょうど避けられて幸いであった。

今回はとにかく暑かったが、予定以上の作業が出来、また有意義な余暇見聞も得ることが出来た。

色々と気遣ってもらった友人には感謝。最後まで有難う!


「呉業務行」1日目(其壱)の記事はこちら
「呉業務行」2日目(其弐)の記事はこちら

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2023年08月17日

呉業務行(其弐)

呉市街にあるメロン色をしたメロンパン屋社屋や同色の配送車

2日目はメロンから?

広島出張2日目。

昨日は35度前後の高気温のなかでの作業で、少々熱中症気味に。しかし、どこへ行っても、何をしても暑い。そもそも、京都で先月初めから猛暑連続の害を受けていたので、キツい初日となった。

ただ、昨晩は友人の気遣いによる馳走や空調部屋の提供により、良く休むことが出来た。今日も涼しいうちから活動せんとしたが、先ずは腹ごしらえと、呉市街にあるパン屋に連れて行ってもらう。

生憎の曇天空に代り、鮮やかな青色を見せる写真の店で、地元人気の老舗であった。店名はズバリ「メロンパン」。店の名物の名を冠したらしく、店の色もメロンを意識したようであった。

昭和初期創業のこの店の売りは、昔ながらのビニル包装やメロンパン・あんぱん等であったが、実際は多種多彩なパンを数多く製造しており、見た目の素朴さとは裏腹に、その味も良いものであった。

個人的に、本来こうした昔風を売りにした店には賞味経験上、幻滅しており興味が無かったが、ここは例外であった。正に店内の貼紙に記された「外見より中身」の言葉が相応しい質を備えた店であった。

機会あれば、その他色んなパンを試してみたいものである。


呉と江田島の海峡をゆく海上自衛隊の練習艦と護衛艦

メロンパン店で名物のメロンパンやあんぱん、惣菜パンを買いこみ、友人宅で朝食後、作業を開始。そして、昼の休憩時は、また近くの著名うどん店に連れて行ってもらった。

写真は、その待ち時間に現れた、対岸は江田島との海峡をゆく海上自衛隊の練習艦や護衛艦。かつての軍港を想わせる、呉らしい眺めであった。


広島県ロッククライミング発祥の地とされる、呉北郊にある烏帽子岩山
そして昼食の帰路には宅地裏の岩山を視察。然程登山に本気ではない友人も気になっていた山らしく、低山ながらも登り甲斐があるとの評判を有すとのこと。また、広島のロッククライミング発祥の名山でもあるらしい。その登山口まで行き、機会あれば次回一緒の登頂を誘われたのであった


広島県ロッククライミング発祥地とされる、呉北郊の烏帽子岩山の名称由来になったとされる尖った烏帽子岩
その岩山の名は烏帽子岩山。標高は410mで、その左肩にある尖った岩「烏帽子岩(中央)」が山名の由来という

雲っても暑い!

さて、友人宅に戻ってからはまた作業を続ける。

今日は曇天で昨日より気温はマシであったが、湿度が凄く、これまた難儀な暑さを感じることとなった。まあ、仕方なし!


「呉業務行」1日目(其壱)の記事はこちら
「呉業務行」3日目(其参)の記事はこちら

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2023年08月16日

呉業務行(其壱)

広島駅呉線ホームに現れた広行の折り返し列車

盆最終日、広島へ

台風の近畿直撃翌日の今日8月16日。

珍しく明け方に起床し、始発のバスに乗り京都駅へ向かう。昨日台風により延期となった、広島への出張に出かけるためである。

昨日新幹線が運休したための代替だが、幸い鉄道施設への被害が無かったため、列車は始発から定刻通りであった。ただ、終日運休の影響か、早朝からバスや駅・列車内には内外の旅行客が多かった。

そう、今日8月16日は、お盆最終日。年中で最も人が動く時期の一つであり、旅行者への影響は多大だったのである。

盆最終日といえば、京都市街では著名な送り盆行事「五山送り火」が行われる日であった。今年は遠出のため見られないが、まあ、これもコロナ禍制限全廃の恩恵と思うべきか……。

さて、6時台の新幹線に乗車し、8時半過ぎに広島に到着する。昨年は丸一日かけて車で移動した程の遠方を、僅か1時間40分という速さで着いたことに改めて感心。旅費さえあれば実に便利な世である。

ただ、こうした基幹交通が一旦途絶えるとその影響も多大である。昨日の運休では、正にそうしたことを改めて感じさせられた。

広島駅からは、滞在先の呉に向かうための呉線の列車を待つ。京都は雨が降りそうな曇天だったが、こちらは晴れて暑かった。大変な暑さからはまだ逃げられそうになさそうである。

そして10分程待って呉方面に向かう写真の折り返し列車が到着。それは、ローカル線的印象がない都市間交通と呼ぶべき洗練された姿であった。


広島発、広行き列車車窓から見えた広島湾に浮かぶ島嶼と夏雲
そんな呉行き(正確には同市内の「広」行き)列車で広島を発ったが、暫くは都市景が続くも、やがてこの様な海岸景となった。広島市街外れの、瀬戸内は広島湾岸に達したのである。湾内の島嶼と共に、夏雲浮かぶ清涼な眺めだが、既に厳しい暑さであることは既述の通り。ただ、普段海を見ぬ身からすると新鮮で清々しい眺めであった


広島県呉線の天応駅近くでみた現役の呉線トンネル(左)と開業当初の明治隧道(右)
呉郊外方々で見られた呉線のトンネル(左)と開業当初の明治隧道(右)の一つ。元は呉軍港への戦時輸送増強の為に複線化用として造られた新隧道が、戦後新規格の電化トンネルとして採用・付替えされた名残りという

広島湾岸滞在開始!

空いた車内で湾岸の眺めを楽しみつつ、やがて呉郊外の駅で下車した。長閑な駅前を少し歩くと、今回の業務依頼者である友人が子息と共に迎えにきてくれた。色々と有難い限り。

例外的だが、今回はその友人の招聘をうけて、18日まで彼の新居の古家改装のアドバイスや手伝いを行う予定であった。

勿論、諸経費を含めた、ちゃんとしたお代を頂く業務として。暑さが大変そうではあったが、色々と楽しみな3日間が始った。


「呉業務行」2日目(其弐)の記事はこちら
「呉業務行」3日目(其参)の記事はこちら

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2023年06月01日

慰問急行後記

遠軽奥の山間の空に現れた曇天と晴天の境目

名残りの北地

親類の見舞いのため、急遽実施した北海道行3日目。

昨日、病院にて見舞いを済ませ、本日帰京することとなった。

不幸中の幸いで、意識が戻った本人と言葉を交わすことも叶ったが、重病であり、予断許さぬ状況であることには変わりなかったため、後ろ引かれる思いであった。

朝、滞在家を出て親類の車にて、また札幌行バスの始発地まで送ってもらう。並行して列車便もあったが、何故かバスの方が所要時間が短く、運賃も安いため、復路も同様を選んだ。

写真は、バス発車後、酪農農家が点在する山間の車窓に現れた奇妙な雲。朝、道東地方は昨日とは変わり曇り空だったので、曇天と晴天の境目か。


白滝付近のバス車窓から見えた、新緑向こうのニセイチャロマップ岳付近らしき北大雪の雪稜
北海道中央高地越えのバス車窓から見えた、新緑向こうに覗く北大雪(大雪山北部山地)の雪稜。ニセイチャロマップ岳(標高1760m)付近か

帰路も素晴らしき景だが……

雲の境を過ぎると、中央高地越えの山間深くに入ったにもかかわらず、光に満ちた景色となった。

昨晩は暗くて気付かなかった新緑の森も広がり、共々眩さを放つ。更に、時折、それと空の狭間で白光する北大雪の雪稜も現れた。

今日も道東らしい、素晴らしき景色に感じ入るが、やはり、親類のこともあり、心底楽しめなかった。


6月ながら未だ雪を戴く旭岳等の大雪山塊
中央高地を越え旭川近くに達すると、かの大雪山も現れた。右端辺りが、その最高峰の旭岳(2291m)だが、雪を戴く姿を見たのは初めてであった


豊平川下流から見える札幌市街
そして、また北海道米の水田連なる平地を南下して豊平川下流より始まる札幌市街に入った。終点の札幌駅には無事定刻着。4時間弱の車行であった


新千歳発関空行の離陸後、機窓に現れた羊蹄山と尻別岳
新千歳空港離陸後、暫くして機窓に現れた羊蹄山(中央奥。後方羊蹄山。標高1898m)と尻別岳(羊蹄山左手前。同1107m)。名残りの北地である

病晴れますように

札幌駅からは、すぐに列車で空港に移動。時間的余裕はあったが、事故等により遠隔地で孤立しないためであった。そして、また飛行機にて大阪に戻り、空港バスや市バスを乗り継ぎ、夜、無事帰宅した。

病床の親類には、今朝の雲の如く、病が晴れることを願うばかりである。

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2023年05月31日

続慰問急行

乾いた晴天の下に広がる、道東の街外れの牧草地

良き空・景なるも……

親類の見舞いのため、急遽実施した北海道行2日目。

昨日は到着が遅かったため、今日病院に案内してもらうこととなった。時間調整のため、少し郊外に寄りつつ親類の車で病院がある街まで向かう。

車窓からは、道東・オホーツク沿岸らしい、広々とした景色が広がる。そして、梅雨の無い、北地らしい透明感あふれる晴天が、ともすれば平板になりがちな、それらに立体感を与える。

まさに、この上ない景色――。

この時期に当地を訪れるのは初めてだったので、本来なら実に感慨深い眺めだったが、やはり見舞いという事情により楽しむことは出来なかった。

この景色のなかで長年朗らかに暮らし、そして、ここをこよなく愛した人が、今命の危機を迎えている……。

それを想う心は、唯々重く、表し難いものであった。


上掲写真 梅雨のない道東の乾いた晴天の下に広がる、街外れの牧草地。


P5314349.jpg
同じく広々とした道東郊外の牧草地や畑。梅雨入りしないとはいえ、西南彼方の台風による前線の影響か、比較的雲も多かった

どうか何卒

やがて病院に着き、早速病室の親類を見舞う。厳しい状況ながら、数日前に意識が戻っており、少なからず言葉を交わすことが出来たのは不幸中の幸いであった。

その後、日没まで皆で病床を囲みつつ寄り添い、滞在家に引き上げたのである。こんな状況になって慌てて訪れた不精を、何卒お許しあれ。そして、どうかこの状況が好転しますように……。

唯々、請い、願うばかりの、北地での一日であった。

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2023年05月30日

慰問急行

降り出した雨に濡れる飛行機の窓と関西空港駐機場

久々かつ急遽彼の地へ

朝、京都市街の家を出て、バスを乗り継ぎ大阪南部の関西空港へ。

生憎の雨予報だったが、幸い家を出る時は止んでいたので、持参の傘を出さずに飛行機に乗ることが出来た。

そういえば、昨日近畿の梅雨入りが報じられたばかり。5月に梅雨入りするのは10年ぶりで、平年より8日、昨年より16日も早い雨期入りとなった。

南西諸島が1週程遅かったので、こちらも同じ傾向かと思ったが、意外な旅路となった。


上掲写真 降り出した雨に濡れる飛行機の窓と関西空港の駐機場。離陸待ちの機内にて。


札幌時計台とその玄関口
さて、関空から飛行機で一気に飛んだのは、北地・北海道の札幌であった。とはいえ、飛行場から札幌までも距離があるので、降機後に列車で移動。時間調整と夕食買出しのため駅近くの名所・時計台にも寄ったが、急遽北地に飛んだのは旅行が目的ではなかった。実は、道東の親類が今月初めに入院し、その後容態が悪化したための緊急の見舞いが目的であった


高速バスの車窓よりみた道央道と道央の山野
慰問の旅は札幌で終りではなく、更に遠方へ向かう必要があった。そのため、札幌駅からバスに乗り、高速路を延々と北行する


高速バスの車窓よりみた道央道沿いの夕陽と水田
夕方乗ったそのバスは数百Kmを数時間かけて移動するため、買い込んだ食事を摂るなどして車中を過ごす。本来なら久方ぶりの北地の眺めを楽しむところだが、軽からぬ事情の為その気にはなれなかった。そして今時分らしい遅い日没が車窓に現れる。それは北地に広がる意外な水田景を映しつつ、やがて宵闇と換っていった。結局バスの終点から親類の迎えでオホーツク沿岸の目的地に着いたのは家を出て13時間後の夜遅くのことであった

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2023年02月21日

続雨水訪駿

久能山麓の土産店街から見上げた山上と東照宮の建屋群

静岡名所行2日目

雪氷が雨水に変じるとされる二十四節気の「雨水」。

そんな春の予兆日を過ぎた頃に似合う温暖の地、東海静岡行の2日目。今日もまた、駿河湾沿いの名所を探訪することとなった。

その場所は久能山(くのうざん)。沿岸平野と海岸の合間に広がる稀有な独立丘陵の一部で、以前から個人的に見学したかった場所のため、知人が連れて行ってくれたのである。

写真は、駐車場がある麓の土産店街から久能山を見上げたもの。山上に在るのは、かの東照権現(徳川家康の神号)を祀り、また、その墓所の一つとされる久能山東照宮。

見ての通り、山自体の標高は高くはないが、これから徒歩で山上を目指すこととなった。


静岡の久能山東照宮麓近くの参道からみた快晴の空と駿河湾の海
17度近くまで気温が上がった昨日とは異なり、朝寒かった今日の空気は冷たく、2月らしい気候に。しかし、見ての通りの快晴のため、屋外活動に難はなかった。変わった石敷き(石畳?)の参道を進み、東照宮へと向かわんとして振り返ると、鳥居越しに春のような空と海が……


久能梅園の見頃の梅花と麓の石垣苺のビニールハウス、そして駿河湾の海
参道脇には東照宮付属の「久能梅園」があったので立ち寄る。前日の地元報道の通り、海を臨むそれは、花の見頃を迎えていた。園下に並ぶビニールハウスは名産の「石垣苺」の栽培用。こちらも、ちょうど盛りとあって、麓にて関連商品共々、多々売られていた


久能山東照宮参道の石垣と石段
梅園上の参道は、このような石垣沿いの石段道となった。それは、山肌に沿い、ジグザグ状に続く。所謂スイッチバック的に社殿地までの急斜を登るのである。かなり無理があるその施工に驚くが、やはり石垣や石畳の補修の多さにも、その特異性、維持の困難が窺われた。石垣は幕府関連特有の二条城等に似た丁寧かつ権威的な施工も見られたが、何故か近世式の高石垣を用いず、前代技法の多段式で施工されていた


久能山東照宮参道の一ノ門裏から見えた、額縁様に覗く青い駿河湾の海
ジグザグの石段を右左往しつつ標高差100m程を登り、城門様の社殿地門「一ノ門」を潜る。正に城郭施設「桝形虎口」的なその裏側からは、青く輝く海原が額縁画の如く見えた


久能山東照宮本殿下の展望所からみた久能山・日本平丘陵南端の崩落山体と駿河湾
門からは傾斜が緩くなるも、また登りの石段が暫し続く。そして本殿下の展望所からは久能山の実態が知れる眺めが現れた。それは、海に向かい複雑な崩落地形を成す丘陵南端の姿でもあった

久能山の姿

背後にある日本平を含め、久能山がある有度丘陵(うど・きゅうりょう)は、元は安部川等が運んだ土砂堆積物が隆起し、その後、風波に浸食されて形成されたらしいので、脆い地質という。

ジグザグ参道の非高石垣や数多の石段補修はそうした地質と関係するのではなかろうか。しかし、よくもこんな難所に霊廟を置いたものである。

久能山東照宮は元は戦国期の城塞を改変したものらしく、海岸沿いの久能街道を押さえる要所として、元来不可欠な施設だったので、有事の軍事転用を見据え、無理にでも維持されたのかもしれない。


石段上に聳える久能山東照宮の楼門
その後有料エリアに入り、本殿へと向かう。元山城そして山中でもあるので、登りの石段が続く。華やかに加飾された楼門も、また石段上にあった


煌びやかな久能山東照宮の本殿「御社殿」
そして幾つかの石段を登り、本殿(御社殿)に到着。徳川家康死没翌年の元和3(1617)年に建てられたという国宝建築。規模は小さいが、日光同様の煌びやかな加飾建築であった。塀等も含め、周辺施設共々、新築の如く刷新されている。最近、全社的な大規模修繕が行われたのか


久能山東照宮の最上部にある徳川家康墓所とされる神廟
本殿後方の石段を更に登ると、徳川家康の当初の墓所と伝わる「神廟」に到着。久能山山上に当る場所で、境内最上部となる

家康は遺言によりここに葬られたとされるが、その決定や東照宮造営には、かの天台僧・慈眼大師天海が関わっていたとの説もあった。

土地にまつわる貴賤思想・力学のようなものに通じた天海が、日光等と共に、ここを幕府永続の聖地としたとの説である。

私が以前から久能山に来たかったのは、それへの興味もあったが、実際訪れると、意外に穏やかな場所のように感じられた。

静岡の温暖に思う

石造宝塔が立つ神廟見学後、元来た道を辿り東照宮をあとにした。その後、静岡市街中心部にある駿府城に移動し、少々見学して外出を終えた。

これにて2日間の静岡名所見学は終了。真冬ながら、両日とも当地らしい温暖で良き日和であった。以前から気になっていたが、同じ静岡県内でも、あれら静岡市内沿岸部は寒波が来ず、殆ど雪を見ないという。

これだけ温暖な地は山陽・東海の幹線沿いでは他に無いのではなかろうか。そう考えると、徳川家康が晩年駿府に隠居した理由がこの気候にあるように思われた。

幼少から12年も駿府で人質生活を送った家康は、当地の気候特色をよく知っていた筈だからである。

東海道沿いの要地でありながら、寒くないここで、朝廷や西国大名等に睨みをきかせつつ、老いの養生をしていたのか……。今回は、そんな考えも思い及ばされた、東海静岡行となった。

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2023年02月20日

雨水訪駿

三保の松原の浜から見た、夕陽を浴びる雪の富士山

馴染みなき地の名所へ

2月も下旬に入った20日の今日。海越しに富士山が見える地を訪れた。

二十四節気の「雨水」を過ぎた今らしい温暖のそこは、東海・静岡の名勝「三保の松原」であった。

これまでの人生で馴染み無いここに突如現れたのは、年末から続けていた知人支援の関係。無事難局の峠を越えたので、今回は逆に当地の名所を案内してもらうこととなったのである。


東海大学海洋科学博物館エントランス
三保の松原の前に連れて行ってもらったのは、この博物館。松原がある砂嘴というか半島の先端部分にある東海大学運営の「海洋科学博物館」で、所謂水族館であった。これはエントランス部分なのだが、屋根上にある施設名の幅広字体を含め、何か懐かしいというか見覚えある雰囲気である


東海大海洋科学博物館の海洋水槽
東海大海洋科学博物館の目玉的展示である「海洋水槽」。その大きさは幅10m四方・高さ6mで、アクリル張りでは日本最大という規模といい、約50種1000体以上の生物を飼育とのこと。水槽右上に写っているが、かの鮫も遊泳している。弱小の魚等とどうやって共生させているのであろうか


東海大海洋科学博物館の津波実験水槽での人口津波実演
こちらは個人的に気になった津波実験装置。屋外に設置されたもので、毎時人口津波を発生させて街の浸水や波の河川遡行等を実体的に見せる。写真は第一波のあと再び港湾に波が入るところ。昭和期に造られたものとしては先進的だが、もっと危機啓発を広めるものとして、後の被害軽減につながったなら、と複雑な気にもさせられた

実は水族館を含む一帯の施設は3月で廃止されるという。知人は、そのこともあり、急ぎ私を連れてきたが、こうした有益な施設は更に進化させて活用して欲しいと思った


東海大自然史博物館の山田守建築

古式建築の正体

海洋水槽や津波実験の他、多くの興味深い水族展示等を見たあと海洋博物館をあとにし、隣にある、写真の自然史博物館を訪れた。ここであることに気づく。この博物館建屋は何処かで見たものではないか。というか、日本では珍しい、古のゼツェション様式ではないか。

ここで一瞬日本の建築史を考えた。そうだ、日本モダニズム建築の旗手・山田守氏の作品に違いない。入場時に受付の女子に訊けば、正しく氏の設計との返答があった。ただ、前身施設の開館が1970年とのことなので60年代に没した氏の活動期と合わない。

また晩年に設計を済ませていたとしても、アーティストたる建築家が若年期の作風を再用するのかという疑問も生じた。真相はともあれ、受付女子によると3月の閉館と共に壊されるとのことなので、更なる衝撃を受けた。

惜しまれつつ戦後解体消失した氏の大正期の傑作「東京中央電信局」を想わせる建築なので、何とか残してほしい。きけば、同じ山田建築の水族館(入口での既視感の原因!)も惜しむ声に押され、暫く日を減らして継続することになったらしいが、ここも解体だけは避けてほしいと思った。


山田守建築のドーム天井の下に恐竜の大型骨格標本等が展示される、東海大自然史博物館上階
さて、自然史博物館の内部はこの様な具合に。主に恐竜等の古生物を紹介する施設となっていたが、上階の山田建築のドーム天井が大型骨格標本等の展示に良く合っていた


三保の松原の浜と松並木

雄々しくも残念?な並木

東海大の両博物館見学の後は、半島の先端から付け根側に戻り、いよいよ三保の松原を訪れた。

波が高い太平洋に面しているだけあり、去年行った天橋立より、土砂の盛り上がりが高く、雄々しく感じられた。昔削られ、海中に堆積した、西方は久能山の土砂が運ばれ形成されたらしいが、それでも、よく高波に削られないものだと感心した。


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三保の松原は松並木の樹勢が強く、大径木が多いのも橋立とは異なる点であった。環境的には厳しいが、土の厚み等で養分が得やすいのか。また、管理養生が行き届いている為か

ただ、少々残念なのが、周辺の市街化が進み、それとの境界が曖昧なところであった。海側から見るとそれらしく見えるが、陸側から見ると他の防風林と変わらない……という具合である。

知人によると、近年地元では「残念名所」と呼ばれているらしいが(笑)、そう言われるのも仕方ないようにも感じられた。まあ、それでも古代から知られた天下の名勝なので、今後も存続し、良くなってほしいと思った。

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2022年10月23日

丹後勝地行

京都府北部の大江山8合目・鬼嶽稲荷神社からみた日の出前の空と雲海

未明より話題の景へ

今朝珍しく3時半に起きて4時から外出。

自動車に同乗して向かったのは京都府北部の丹後大江山(今は大半が丹波側福知山市)。暗い京都市街から高速に入って北上し、更に下道から山間のつづら道をひたに上って着いたのが、標高650mの同山八合目であった。

明るみ始めた森なかの車道終端にある鬼嶽稲荷神社(おにたけいなり)前の路端には、なんと、整理係の人に誘導されて駐車する多くの車が。そして神社前の少し開けた場所には既に多くの人影があった。

神社前で転回し、車列後方に停車して広場に向かうと、写真の如き、山麓に押し寄せる雲海が……。そう、今朝は誘われて昨今府北で話題の、この雲海を観に来たのであった。

時は6時前。出発時間的に危惧したが、何とか6時10分頃の日の出にも間に合ったのである。


京都府北部の大江山8合目・鬼嶽稲荷神社からみた雲海上に現れた日の出
そして暫くして東の雲上から太陽が上ってきた。鬼嶽社前の展望所で待ち構えていた人達も一斉に撮影に集中


朝日に赤らむ、京都府北部の大江山8合目・鬼嶽稲荷神社横のブナの大木等の原生林
朝日を浴びて赤らむ、大江山八合目付近のブナの大木や天然林。そう、大江山はブナの原生林でも著名な場所であった。その黄葉は始まったばかりに見受けられた


西舞鶴、五老ヶ岳山上からみた建部山向こうの雲海や大江山

大江山での雲海とご来光観賞後、車行約40km(直線20km)東方の、西舞鶴湾を一望する五老ヶ岳(標高300m)山上へ移動。

写真は、そこからみた雲海(中央左から中央)。中央の台形の小山・建部山(旧軍港防御用の陸戦砲台)右奥にあるのが大江山である。

雲海は、この建部山と大江山の間を流れる府北の主要河川・由良川の影響により発生するといい、その流域に雲海が広がっているのである。


京都府北部・宮津の国分寺遺跡と阿蘇海対岸に続く天橋立

幻の古代丹後国府探索

五老ヶ岳での展望の後、車行約30km西北の宮津に移動して運転者の関係先で休ませもらい、その後港で昼食を摂り、宮津の名勝・天橋立を訪ねた。

ここで用がある運転者と一旦別れ、独りで橋立を初横断する予定だったが、その前に以前から気になっていた丹後国府推定地を巡ることにした。

写真は様々な記録や発掘により判明している、国府と同じ古代律令時代に造られた国分寺跡地。内海の阿蘇海対岸に連なるのが、天橋立である。

国分寺や国分尼寺は、古代令制国の中心地・国府に近い場所に造られることが多かったため、失われた国府跡を推定するには重要な存在であった。

恐らく、丹後国府も、この寺同様、内海を見下ろすこの丘陵続きに存在したと思われる。


京都府北部・宮津市中野集落を貫通する古代官道を踏襲したと思われる旧道と人為的切岸
その後、国分寺遺跡下の丘陵縁に続く、集落を縫う古道を東行。恐らくは古代官道を踏襲した前近代幹線跡だと思われる。後代の整形はあろうが、左山手の切岸が続く様にも、以前探査した関ヶ原付近の官道跡と似ている。実はこの付近は国府を意味する「府中」の地名を持っており、切岸上一帯が丹後国府の有力推定地となっている


京都府北部・宮津市中野集落の古道辻に立つ土蔵と成相寺参道「本坂」の町石等の石碑
国分寺下古道を更に進むと土蔵ある辻が現れた。傍らの古い碑(いしぶみ)には、背後の山上にある成相寺(なりあいじ)の主参道「本坂」の始点であることが記されていた。西国札所で著名な同寺へは現在国分寺背後から上る車道が一般的だが、前近代はここが主路だったようである。実は車を降りる前に成相寺まで上がってみたが、車でも急で遠い山上にあったので、必ず古い短絡参道がある筈と話していたが、奇しくもそれを証せた


京都府北部・宮津市中野地区にある府中小学校
国分寺下の古道はやがて学校用地に突き当たり終った。学校の名は府中小学校。国府関連地名を冠した学校である。衛星画像の地目・境界分析から、官道は本坂の辻手前から学校裏の古道に繋がっていたと思われた。恐らくは江戸幕府の方針や宮津藩の有事対策のために近世初期に遠見遮断化されたのであろう。本坂の町石も江戸初期の寛永年間に設置されたという


京都府北部・宮津市府中地区にある丹後一宮・元伊勢籠神社
古道端から、開放された小学校校庭を抜け海際の国道を東へ進むと元伊勢籠(この)神社門前に到達。丹後一宮に当るこの社も、国府と関連深い存在である。鳥居左山上に見えるのはケーブルカー施設で、所謂「橋立の股覗き」をする場所への交通であった。橋立東北端に近いため、籠社付近も観光地的雰囲気で、賑やか。しかし、結局国府関連の案内はなく、地表の痕跡は見られなかった。まだ発掘が進んでおらず、あくまで推定の域を脱していないからか。今後の調査進展に期待したい


元伊勢籠神社付近の浜からみた天橋立とその北東端

橋立初渡り

籠社前で国道を渡り、土産物街を抜けると、写真の如く橋立北東端が見えてきた。これから歩いてその西南端を目指す。

天橋立は昔ドライブ途中に寄ったことがあるが、駅近くの西南端を少し歩いただけで、渡ったことがなかった。そのため、今回初めて端から端までを歩き渡ることとなった。


京都府北部・宮津市の天橋立上に続く松並木と道
車止めがある橋立の入口を過ぎると、松並木のある未舗装の一本道が続く。面白いのが、特別名勝の天然の砂州道ながら、125t以下の2輪や軽車輌の通行が許されていたこと


京都府北部・宮津市の天橋立東縁の砂浜
天橋立の東縁・外海側には美麗な砂浜が広がり続く。道々にやたら厠が多く現れたのを怪訝に感じたが、思えばここは夏に水泳場となるのであった。珍しい、「使える」名勝・三景の一つか


京都府北部・宮津市の天橋立西縁の護岸と阿蘇海及び対岸の国分寺・国府推定地
対して橋立の西縁・内海側は護岸となっており浜はなかった。波も荒く、常識的想像とは異なる景色である。偏西風や山の吹きおろしの影響か。説明板によると、約2000年前に今と似た形となった橋立は、比較的深い海中に立つ壁の如き存在だという。これも、実に意外のことであった。この「特殊」が、基本不安定な砂州である橋立を、恒久的名勝とさせたのか


京都府北部・宮津市の天橋立上にある磯清水
橋立南部の最も幅が広い場所に現れた天橋立神社の磯清水。海に囲まれた砂州上ながら、甘い真水が樋から流れ出ていた。名水百選に指定されているが、何故か汲む人・立ち寄る人がおらず、人気がない。まあ、全長3km以上あり、大半の人が貸自転車を使用しているので、気づきにくいのか


京都府北部・宮津市の天橋立西南端の廻旋橋

文殊堂の賑わい最後に

北東端から歩き始めて30分以上、漸く南西端の文珠水路に架かる写真の廻旋橋が見えてきた。文殊堂で有名な智恩寺や駅に近いため、徒歩の遊山客も格段に増えてきた。

その後、智恩寺境内を通り、天橋立駅で待つ運転者と合流し宮津を後にした。橋立初渡り及び、今回の丹後観覧の終了である。そして、夕方、無事京都市街に帰着したのであった。

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2022年10月14日

北陸族会

永平寺唐門(勅使門)と苔むした参道

急参加の親族会翌日

昨晩から急遽福井入り。従姉等に誘われ、伯母宅を秘密訪問する、という催しの為であった。伯母宅の訪問や首都圏の従姉と会うのは、コロナ禍突入以来の実に3年振り以上のことである。

進めるべき仕事があったが急に決めたのは、伯母が高齢のため。また、自身を含め、いとこ達もそこそこの年齢に達していたので、貴重な集合機会を重視したのであった。

とまれ、突然の来訪に、伯母が驚きつつ喜んでくれたのは何より。

そして、久々の再会翌日の今日は当地の従姉の運転で、近くの名古刹・永平寺を訪ねた。写真はその顔的存在である唐門(勅使門)。

菊紋が並び付く皇族や住持用の貴賓門で、普段は開かず、また接近も叶わないが、気品あるその建屋と苔むした参道が目を惹く。


人も疎らな平日午前の永平寺門前
週末ながら平日とあって、永平寺門前もこの通りの空き具合。先日、コロナ関連の水際対策が緩和され、早京都に海外客が数多訪問し始めたが、地方のここはまだ暫く静かそうである


中雀門から見た永平寺山門
上方の中雀門(ちゅうじゃくもん)から見た永平寺山門(正門)。江戸中期建造ながら唐朝様式を伝える貴重な楼閣大門。下階に少々増え始めた参観者が見えるが、それでも人の少なさを感じさせた。コロナ禍以前に訪れた際は、人波を避けて撮影するのが難しいくらいであった

無事参観終え夜宴に

午後から増え始めた人と入れ替わるように参観を終え、寺を後に。すっかり足が悪くなった伯母が何とか階段多い諸殿を巡れたのは幸いであった。

その後、従姉等が門前街で人気の洋菓子を購入したあと、永平寺蕎麦店で遅めの昼食を摂り、伯母宅に帰還。家での休息後、夕食と共にまた皆で宴席となり、楽しく一日を終えたのであった。

関東の従姉共々、私も翌日離福・帰宅となったのである。

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2022年08月21日

続避暑再開

旧芹生小中学校前・淀川源流灰屋川傍に聳えるブナの大木

再びの機会に感謝

再開・芹生避暑行2日目。

暑さで知られる京盆地近郊ながら、例外的冷涼を誇る高所集落・芹生(せりょう・せりう)での久々の避暑泊。

いつもなら雨戸を閉め、冬布団を被らないと寝られないほど夜は冷えるが、今回は湿度の所為か、窓を開けても掛布団が要らない程であった。

それでも、同晩生じていた下界は京都市街の熱帯夜よりは雲泥の差で、快適なことには変わりはなかった。

そんな近郊高所での有難い夜を過ごし、比較的朝遅くに起き(一部の人は明け方から活動。笑)、その後、少々遅めの手料理朝食を頂いた。その美味しさ・多彩さにも、初めて来た同行者らは感心頻り。

そして、その後、午後遅くまでひたすら寛がせてもらってから芹生をあとにした。帰りは往路経た貴船には下りず、一路丹波山地を北上してから、山間の灰屋や黒田・花脊等の集落を経て鞍馬に下り、帰宅した。

近場での僅かな避暑行であったが、同行者には喜んでもらえたようで何より。個人的にも久々に滞在することが出来て良かった。

コロナ禍継続の時世柄、宿の人に無理を強いたかもしれないことは少々心苦しかったが、一先ずは感謝で締めくくりたい。


上掲写真 旧芹生小中学校前・淀川源流灰屋川傍に聳えるブナの大木。今日も芹生は時折雨が降る天候となったが、これも、緑色(りょくしょく)新たにして、また良し。


清澄な芹生集落を流れる灰屋川の流れ
今朝も清澄な、芹生集落を流れる灰屋川の流れ

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2022年08月20日

避暑再開

京都貴船奥にある高所集落・芹生の家並と集落を流れる灰屋川

こちらも3年ぶり

今日は午後から京盆地北縁の山村・芹生(せりょう・せりう)に向かう。

その目的は、事情に因り長くお預けとなっていた身内の退職祝と避暑を兼ねた1泊休養であった。

京都市街近郊の高所集落・芹生は、最近毎年の如く訪れていた個人的避暑地。だが、コロナ禍の影響に因り、去年・一昨年と来ることが出来ず、祇園祭や五山送り火同様、3年ぶりの再訪となった。

とはいえ、死亡率が下がったものの未だコロナ禍は続いており、しかも感染者は過去最高の多さになっていたので対策に留意しての決行となった。

ひょっとして、2年間断り続けた宿の女将さんが、こちらを気の毒に感じ、無理に開けてくれたのかもしれない。事実、人数等を含め色々と制限をしている、とのことだったので、特別だった可能性は高い。

もし、そうであれば申し訳ない限り……。

貴船奥の冷涼天地

さて、借りた車輌にて貴船を過ぎ、芹生に到着。混雑を身構えていた貴船の細道は警備員導入による上下交互通行が導入されていたので、思った程時間を費やさずに通過することが出来た。

そして、芹生はやはり涼しかった――。

さすがは標高620mの高地。今日麓の市街は33度超の暑さであったが、25度前後の低さであった。ただ、湿度が高く、例年よりかは暑く感じられた。久々に会う女将さんも、そのことを詫びること頻り。

まあ、それでも冷房の必要は感じないので、連日暑さに苦しめられていた身心も一休み。初めてここに来た同行者らも驚くこと頻りであった。

ここより高所の街でかなりの暑さを感じたことが多々あり、以前から不思議に感じていたが、ひょっとすると、ここは周辺の山の頂と然程高さが変わらないので、所謂フェーン現象が起こらないから涼しいのか……。

天候は下界同様の曇りだったが、折角なので、コロナ禍前と同じく水着に着替え、少し川に浸かってみることにした。結果はお約束通りの冷水。

今年はまだ泳ぎに行けてないので、少しでもそれをしたかったが、数秒浸かるのが限界であった(笑)。

この後、空は益々重さを増し、まとまった雨を北山杉囲む山あいに注ぐ。

そして、それがあがったあと、少々周辺を散策し、夕方、湯に独特の「力」をもつ薪ボイラーの風呂に入り、名物の鶏料理等を頂く等した。


上掲写真 京都貴船奥にある高所集落・芹生の家並と、集落を流れる淀川水系桂川の源・灰屋川。

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2022年04月22日

芸備新緑行(其肆)

広島・呉市街の縁から続く山腹・崖上住居への登り坂

最後は方々巡りつつ

今日は広島行4日目で、即ち最終日。

朝また友人宅付近を散策し、その後、子守の応援に来たお母さんや仕事へ向かう細君と別れ、友人と共にその車で広島をあとにした。

終日雨だった昨日と異なり、また暑さ感じる快晴のなか向かったのは、広島東南の呉であった。昨日もそこを少し歩いたが、今日は市街山手等も巡ってみることにした。

旧軍港の呉は戦前、海軍の発達や国際関係の変化により拡大を続けたため平坦地が枯渇し、周囲の山腹・崖上にまで住宅が犇めく特異な姿となった。そうした、呉市街の特質的箇所を踏査したのである。

写真は、正にそんな崖上・山腹に続く坂・石段の始点。呉の平地端には、こうした細坂が無数にあり、麓と上方を繋いでいる。


呉の崖上宅地から見た呉市街と呉港及び自衛隊艦船等
市街中心の商店街から近い、しかし怖い程急な石段を登ると市街の家並と共に港が見えてきた。今も自衛隊艦船等が停泊する軍港・呉の姿である


呉の崖上宅地から見た山腹住居
同じく崖上宅地から見た山腹住居。一部には車道が通されているが、殆どが徒歩でしか辿りつけない場所にある。建築資材をどうやって運んだのであろうか。因みに、そうした災害に弱い条件や、崩落の危険性から、撤去された空地への再建築を禁じる公示が方々で見られた


古い石垣や煉瓦壁、そして住宅が残る呉の崖上宅地と急階段
呉の崖上宅地の見所は、こうした戦前築らしき石垣・煉瓦壁や建屋が多く残っていること。険しいながらも、大きく立派な家も少なくなく、中には洋館部屋を備えたものも散見された。元海軍士官等の住居であろうか


呉の市街平坦地に残る古い木造住宅
こちらは崖下の古い住宅(町家)。市街平坦地にも空襲の難を逃れた意外の古民家が数多残っていた


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呉の古街探索のあとは、休息を兼ね、B級グルメ賞味に。大通り沿いながら、これもまた戦前築を想わせる古い家屋を利用した地元著名のクレープ&お好み店だが、残念ながら午後休みで食べることは叶わなかった。代わりに、近くのこれまた地元人気店にて拉麺を馳走になる


広島県・仁方に残る旧亀甲ヤマト醤油醸造所の古い建物
その後、呉を離れ、東に進んで仁方という街に。ここも海辺だが、過密気味の呉とは対照的な開放感に満ちた良所であった。古い煉瓦煙突を擁する中央の屋敷は、その川辺にあった旧醤油蔵。仁方は鑢(やすり)製造の他、酒や醤油の醸造が盛んだったという


三原城の天守石垣と新幹線ホーム

広島最後は三原にて

仁方の次はひたすら海岸や内陸を東行し、三原に。今日はここから新幹線で帰京する予定であった。

友人が途中の竹原の古い町並を案内してくれる予定だったが、三原と間違えたようで(笑)叶わなかった。しかし、途中の瀬戸内の眺めが素晴らしかったので満足であった。

写真は、彼の豊臣五大老・小早川隆景が整備した三原城の天守石垣。右上に新幹線ホームが乗るが(笑)、大和郡山城本丸同様の古式(石垣隅の傾斜角等)を伝える貴重な遺構であった。


三原駅構内に掲げられた三原城古図や城の説明
三原駅構内に掲げられた近世の三原城古図や城の説明。駅構内から自由に天守台に上れるため、我々も暫し見学


三原名物「たこめし」弁当

その後、友人と別れ、17時半過ぎのこだま号に乗車した。そして程なく福山でのぞみ号に乗り換え、そこから1時間程で京都に着いた。行きの車行では時間がかかりその遠さを痛感したが、改めて近さも実感したのである。

結局自宅には京都駅からバスに乗り換えた後の、20時過ぎに帰着出来た。

写真は乗車前に友人が駅で買って持たせてくれた三原名物「たこめし」。乗車時間が短かったため結局家で食べることになったが、蛸が柔らかく、想像以上の美味であった。個人的に、福井の鯖寿司に並ぶ名駅弁か。

とまれ、終始お世話になった友人及び家族に感謝。良い旅を有難う!


「芸備新緑行」1日目(其壱)の記事はこちら
「芸備新緑行」2日目(其弐)の記事はこちら
「芸備新緑行」3日目(其参)の記事はこちら
「芸備新緑行」4日目(其肆)の記事はこちら

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2022年04月21日

芸備新緑行(其参)

広島向洋集落に残る、丘裾の花崗岩を刳り抜いて造られた澤井井戸と清澄な水

荒天に因り近場楽しむ

今日は広島行3日目。

朝から生憎の雨で、雨量もそこそこに……。そんなこともあり、今日は遠出せず、ゆっくりすることとした。

ただ、それでも友人宅付近の古街を散策したり、広島市街のショッピングモールやホームセンターを訪れ、友人の買物支援や食事等を楽しんだ。

写真は、向洋(むかいなだ)という広島市街東部の集落奥にあった古い共同井戸。路地奥の共同井戸は京都の他、珍しいものではないが、ここのものは地盤の花崗岩を刳り抜いた珍しいものであった。

しかも、現在でも清澄な水を湛えている。向洋集落は今は内陸風情だが、嘗ては広島湾内の入江に面していた。そのため、背後の花崗岩丘陵を源とするこの様な井戸が数多く造られ、残存している。

ただ、丘上が全て宅地開発されたため、場所により水質が落ちてしまったらしい。


広島市街東部向洋集落に残る古い日本家屋や町家
向洋集落は原爆の加害半径から外れたため、この様な戦前築の日本家屋や町家が数多く残っていた。ただ、多分に漏れず、ここでも再開発や建て替えが進んでいた。嘗ては広島東郊の漁村・農村であったこの地域も、戦後に市街化・ベッドタウン化した為である


広島・呉市の繁華街付近にあった飲み屋街「やよい通」
呉市中心の繁華街に隣接する飲み屋街「やよい通」

意外のまち呉

夕方からは、友人が広島南東の都市・呉近くのパン屋に行くついでに、同市中心部を訪れ、少々散策したり、当地の甘味や拉麺を食したりした。

同じく旧海軍要港で現海自関連都市・舞鶴に比して繁華だったことは意外であった。また、戦中激しい空爆に曝されたにもかかわらず、古い木造家屋が数多く残ることにも感心した。

そして、その後広島に戻り、友人宅にて飲み語らい、日を終えたのであった。


「芸備新緑行」1日目(其壱)の記事はこちら
「芸備新緑行」2日目(其弐)の記事はこちら
「芸備新緑行」3日目(其参)の記事はこちら
「芸備新緑行」4日目(其肆)の記事はこちら

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2022年04月20日

芸備新緑行(其弐)

広島市西郊のマンションの狭間に現れた宮島の峰々

月並ながらの?名所へ

出張仕事の予定が不意に旅行扱いとなった広島行の2日目。今日は朝から私が希望していた宮島へと向かった。

広島在住の友人にすれば、京都人が金閣寺に行くようなものなので、乗り気ではなかっただろうが、快く準備してくれていた。


上掲写真 広島市街を抜け、その西にある宮島口に向かう途中に現れた高楼彼方の山群。その鋭い山容や只ならぬ雰囲気に驚き、惹かれる。果たして、この山の正体は……。


真新しい宮島口の渡船乗場
広島西郊にある宮島への渡し場「宮島口」に到着すると、真新しい乗船施設に出迎えられた。友人も驚く最近落成の建屋のようで、付近ではまだ関連工事が続いてた。彼曰く、以前の昭和色は一掃されたようである(笑)


宮島口港で出発を待つ宮島フェリー
新しい宮島口港施設で待つこと暫して渡しのフェリーに乗船。元官営のJRと民営の2路線が盛んに船を往復させていたが、券売や乗場が微妙に異なるので解り辛い


宮島口出発直後のフェリーから見た、対岸は宮島の島影
宮島口出発直後のフェリーから見た、対岸は宮島の島影。陸では暑いくらいの陽気だったが、海風の所為もあり、船上は忽ち寒くなった。友人が半袖の無防備だったので、着ていた胴着(ベスト。絹製)を貸す(笑)


神々しい存在感を持つ宮島の山々
先程広島西郊から覗いた存在感ある山嶺は宮島の峰であった。そして彼の厳島神社は、この山々の麓にあった。恐らく、古代、神社はこの神々しい山々を意識して造られたに違いない。これは子供の時には気づかなかった発見であった。実は宮島には大昔修学旅行で来たことがあり、その時感銘を受けた神社周辺の清々しさが気になり、月並の名所ながら再訪を望んだが、往時は何かの理由でこの威容に気づかなかったようである


食べ物をねだり付きまとう宮島の鹿
そして間もなく宮島の港に着き、懐かしい厳島神社へと歩き始める。途中、土産店街で友人から牡蠣カレーパンやアナゴ竹輪を馳走になったが、早速古来からの住民・鹿が現れ、無心を受けた。餌やりは禁止されているため無視するも、暫し付きまとい、余所見した瞬間、食べ物を持つ手を鼻で突かれたが、何とか防ぐ


厳島神社前の石灯籠やその先の干潟上に聳える修復中の大鳥居
明るい海辺の参道を歩くこと暫しして厳島神社前に到着。少時見た社前の干潟が時空を超えてそのままの姿で現れたが、残念ながらその先に聳える大鳥居は修理足場で覆われていた


入江奥の干潟上に広がる厳島神社の社殿群
そして入江側を見ると厳島社の社殿群が干潟奥に広がっていた。随分昔に訪れて以来、台風による大きな被害も受けたが、無事元の姿に戻り何より


厳島神社裏のロープウェイ駅行バス停付近の新緑や青紅葉
厳島神社裏の新緑や青紅葉

時間の関係と友人の希望で厳島神社には寄らず、社殿裏を進む。本来は社殿に入り、稀少な水上回廊を巡りつつ参拝したかったが、既に時間も遅かったため、またの機会の朝訪れることを密かに決した(少時の思い出もあるが、実は先祖にここを厚く崇拝した平家方がいることも影響)。


新緑の紅葉谷を行き交う宮島ロープウェイ
厳島神社裏の新緑の森を暫し歩き、鋼索線(ロープウェイ)に乗る。友人の希望によるもので、これまで乗ったことがなかったらしい。勿論、私も乗ったことがないので、山上のことを含め、大いに興味をもった


宮島ロープウェイ獅子岩線の大型ゴンドラ
「紅葉谷線」という鋼索線は10分程上昇した山上の「榧谷」という駅で終り、写真の「獅子岩線」の大型ゴンドラに乗り換えとなった


宮島の獅子岩山頂から眺めた、榧谷鋼索駅方面や彼方の広島市街及び広島湾
大型ゴンドラは対面の峰に向かって上昇し、5分程で獅子岩に終着。そこからは更に歩いて最高峰の弥山(みせん。標高535m)やその近くの大聖院伽藍に行けるが、時間の関係で獅子岩山頂から周囲を眺めるだけとした。写真は、北は来し方の榧谷駅がある稜線や、彼方の広島湾及び広島市街


宮島・獅子岩山頂から見た、南は周防大島方面の安芸灘
同じく宮島・獅子岩山頂から見た、南は周防大島方面の安芸灘


宮島の町家通りと厳島神社横の五重塔

またゆっくり再訪したい宮島

獅子岩山頂からまた鋼索線を伝い厳島神社裏に下る。山上もまた、改めてゆっくり再訪したい。その際は歩いて登るのも良いかもしれない。

神社帰着後は往路と異なり内陸から港に通じる写真の「町家通り」をゆく。その名の通り戦前築とみられる古い町並みが残る場所である。

そして、また連絡船に乗って島を後にし、広島市街に戻った。その後は新たな知人を加え市街中心にある名店にて広島焼を馳走になったのである。

同行の友人親子及びその知己に感謝!


「芸備新緑行」1日目(其壱)の記事はこちら
「芸備新緑行」2日目(其弐)の記事はこちら
「芸備新緑行」3日目(其参)の記事はこちら
「芸備新緑行」4日目(其肆)の記事はこちら

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2022年04月19日

芸備新緑行(其壱)

岡山県三石地区の古い洋館事務所

コロナ以降最長・最遠の旅

今日は昼から友人の車に同乗して一路西へ。

向かったのは、何と広島。所蔵の古建具を彼に譲ることとなり、その運搬を兼ね、私も彼の地に行くこととなった。

本来は、彼が買う予定だった古民家の改装監修と手伝いのため仕事として1週間程出向く予定だったが、事情により延期となった。

しかし、帰りの切符等が手配されていたので、業務中止の詫びがてら、招待旅行としてくれたのである。

その旅程は3泊4日。コロナ禍以降としては最長・最遠の旅行となった。


上掲写真 広島行の途中で立ち寄った、岡山県東南の三石(みついし)地区の古い洋館事務所。恐らく補修のため全面金板張りにされているが、各部の意匠や建具・電灯設備等から、戦前の建築とみられた。

岡山県三石の耐火煉瓦工場の古い煉瓦煙突や洋館棟

備前窯業の地・三石

加古川まで高速で行き、その後バイパスを利用して西へ進んだ。国道でいうと2号線、即ち旧山陽道付近をゆくルートである。

そして、岡山県の山間に入り、友人の勧めで三石という集落で旧道に入り、暫し見学することとなった。新緑の山々に囲まれた小さな地区だが、幾つかの事業所があり、僻地らしからぬ生気があった。

実は、ここ三石は備前窯業、即ち近代備前焼の一産地で、煉瓦工業が盛んな地であった。写真はその中の代表的な事業所。古い事務棟や煉瓦積み煙突が窺われるが、現役で稼働する工場である。


岡山県三石の煉瓦工場
こちらは上述会社の斜め向かいにある別会社。同じく煉瓦を扱っており、奥に製品らしき各種煉瓦が積まれていた。三石は古くから蝋石の著名産地で、後にその屑を利用した耐火煉瓦の製造が主流になったという。それには、この地方の伝統産業「備前焼」の技術や設備が役立ったらしい


岡山県三石の煉瓦工場横の路地
上掲会社の横には背後の山へと向かう路地があり、そこを進むと……


岡山県三石の煉瓦工場裏山に残る古い煉瓦煙突
山裾に古い煉瓦煙突があった。この地を何度も通過した友人が教えてくれたものだが、焚口のない不思議なものであった。平地側が土崖となっているので、嘗てその下に登窯的な焼成棟があり、その排煙口と接続されていたのか。通り(谷)を挟んだ向こうにも同様の煙突があったが、それは倒壊していた。恐らく、この煙突も何れ同様となるに違いない

煙突山で知る地方史の奥深さ

ところで、倒壊した煙突辺りは平坦地となっており、その上部の山腹には更に何面かの平坦地が続いていた。そこには古い野面積みの石垣跡や倒壊した石鳥居もあり、近代以前の人跡が疑われた。

山上への主要通路には成り難い場所であったが、中世の城塞とその跡を利用した近世以降の宗教施設の存在が想われた。

後で調べると、やはり山上には南北朝から戦国期に使われた城塞・三石城の跡があり、ここはその主郭直下の支尾根末端という要地に当っていた。

煉瓦工場が並ぶ旧道は、実は中世以前に遡る山陽道の跡で、城はその要路を押さえるために築かれたものであった。山間の小工業地・三石は意外の要衝だったのである。その証に、元赤松氏配下で彼の豊臣大老・宇喜多氏の主君であった備前・美作の雄・浦上氏が居城にしていたという。

何気ない散策とそこでの発見に、地方史の奥深さを知る思いであった。


備前焼の中心地・伊部の天津神社

備前焼の本場

三石を後にして、更に山間を西に進み、伊部(いんべ)に到着。日本六古窯の一つ・備前焼の中心地である。ここでも車を置いて暫し散策した。

以前から訪れたい場所だったので、良い機会となった。写真は、旧道沿いに続く古い町並みの途中に現れた天津神社(あまつじんじゃ)。

旧伊部集落の中心、氏神社として、小社ながら大変良い雰囲気をもつ社であった。


備前焼の中心地・伊部の天津神社の随身門
伊部・天津社本殿下の中門(随身門)。脇の塀や下段の「神門」等を含め、瓦は全て備前焼が使用されており、地域色溢れる装いであった


夕陽眩い伊部集落と旧山陽道
夕陽眩い伊部集落と旧山陽道。煙突ある備前焼窯元や直売所等が並ぶ

伊部もまた、三石同様、旧山陽道沿いの要地であった。ただ、その平野は広く、既に市街地と呼べる家屋数や人口を有していた。

そこの直売所にて、記念に伝統的な火襷(ひだすき。藁を添えて焼しるす赤い筋模様)の備前杯を購入。そして街を後にした。

初日終了
日本の広さ?実感


伊部のあとは、岡山手前の温泉施設に寄り、その近くの中華食堂にて食事。繊細美味な料理を供する店の主は瀋陽出身の東北華人らしく、コロナ禍での大陸事情等の話も楽しんだ。

そして、すっかり日の沈んだ山陽路をまた西へ進む。高速とバイパスを乗り継ぎ岡山・福山・三原と進み、23時過ぎ広島市街の友人宅に到着した。

色々寄り道し、また友人が道を間違えたりもしたが(笑)、日本の広さを少々感じさせられたような旅行初日となったのである。


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2020年11月27日

新艶地余香

奈良郡山の洞泉寺遊郭跡に残る大型妓楼「川本楼」の中庭(現・町家物語館)

消えゆく色町へ

今日は朝から奈良の郡山へ向かった。

11年程前に古図と共に環濠集落を巡る「平会(ひらかい)」の企画で同地を訪れたが、その際、偶然目にした遊郭建築が近々破壊されることを知ったからである。

正確に言うと、既に今春から破壊が始まっており、今秋破壊予定の一軒が辛うじてコロナ禍の影響で実施中断となっていた。また、別の1軒が近年公開されていることを知り、その見学を兼ね急遽出かけたのであった。

なお、今回の表題は、昔巡ってこのサイトで紹介した京都府西部にある「橋本遊郭」の続編的に、その時の表題に「新」を付して表した。


上掲写真 大和郡山・洞泉寺遊郭跡に残る、地区最大の大正13年築妓楼「川本楼」の内部と中庭。郡山市が買取り、修繕・耐震工事を施し、現在は「町家物語館」という名称で一般公開されている。


2009年3月1日撮影時に残存していた旧洞泉寺遊郭の大型妓楼3棟

奈良四大公許遊郭之一「旧洞泉寺遊郭」
(旧大和郡山城下東南)


写真は、2009年3月1日の平会時撮影の旧洞泉寺遊郭の3棟の大型妓楼。近鉄郡山駅から東へと続く城下古道から眺めた際に発見し、ここを遊所と断定し、興味を持つきっかけとなった妓楼群だが……


2020年春及びそれ以前に妓楼が破壊され更地となった旧洞泉寺遊郭の一角
今回訪れると、報道通り、きれいさっぱり破壊・撤去され更地と化していた(前掲写真とは逆方向から撮影)


2009年3月1日の平会時に撮影した大和郡山・洞泉寺遊郭の妓楼横から伸びる路地と突き当りの川本楼(現・町家物語館)
こちらは同じく2009年3月1日の平会時に撮影した前掲妓楼群奥(南)から伸びる路地。突き当りに川本楼、即ち現町家物語館が見えるが……


手前側の妓楼が撤去されて手前に露出した今秋破壊予定の3階建大型妓楼「中山楼」
今回はこの通り手前側の妓楼がなくなり、川本楼手前に今秋破壊予定だった3階建大型妓楼「中山楼」が露出していた。前の3楼が破壊される直前に内部見学が催されたとのことだが、知らずに逃してしまった。残念!


奈良・大和郡山の洞泉寺遊郭跡地の源九郎稲荷前に残る2棟の大型妓楼
こちらは解体更地前の路地を更に奥に進んだ場所に残る大型妓楼2軒。現在賃貸し中とのことで、差し迫った解体危機はないようである。遊郭建築に特徴的な軒下の電灯群が往時のまま完存。手前側の妓楼右には別玄関があり建屋裏の離れと接続している。内外相当な格式の造り。賓客か当主用か


奈良・大和郡山の源九郎稲荷・洞泉寺横に広がる旧遊郭妓楼跡の更地
上の妓楼2棟の奥突き当りには源九郎稲荷という古社と地名の元となった洞泉寺があるが、その隣はこの様に広大な更地が広がっていた。寺社前で路地が屈曲し更にその先で巻いてロの字を形成することから、ここも旧遊郭街の一部で、その最奥区画だったとみられる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の南奥から見た旧川本楼(現・町家物語館)の側面
奥の更地前を過ぎ、また屈曲を右に折れると川本楼の側面が見えた(写真左の3階建)。道はその奥の寺門前でまた右に屈曲し最初の場所に戻るので遊郭街がロの字で構成されていることが判る。因って、この路地に面した寺社以外の場所は遊郭か、その関連施設が占めていたと思われる

遊郭街への出入りは、表通りからの接続と奥の更地前を真っすぐ進んだ先の前後2道しかなく、京都・三本木遊郭等と同じ閉鎖構造を成している。

嘗てこの地区は二辺が外壕に接する城下東南隅に当たり、城外に通じた表通り直近の要地であった。そのため、藩政期に軍事転用に都合よい大建築の寺社や妓楼が計画的に配されたのではなかろうか。閉鎖的で見通しの悪い町割も、その防塞的役割に因るものとみられる。

写真手前の路面を横切る石畳は、花崗岩製の小橋。古く趣のあるもので、遊郭時代の名残りかと思われる。左の欄干に車の衝突とみられる割れが見られるが、是非このまま現地保存してもらいたいものである。


2009年3月1日に撮影した奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の旧川本楼(現・町家物語館)側面の傷み具合
因みに、2009年3月1日の平会時に撮影した旧川本楼の側面はこの様な状態であった。土壁の保護板破損が著しく、土壁自体にも傷みが多く見られた。本格的な一般公開にあたり上掲写真の如く補修・一新されて何より


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡に残る木造3階建の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」

公開妓楼・旧川本楼(町家物語館)内部見学

さて、遊郭街を一周し、いよいよ旧川本楼・現町家物語館を見学する。その建屋傍に立ち、改めて見上げると、木造3階建のその威容が迫る。


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の玄関内部
1階中央にある玄関から中に入る。間口は然程で広くないが、その奥行は深い。左壁際に内庭状の石組みや床の間状の設えがあるが、その昔妓女の写真を飾った場所という。本来は、玄関左の和室「娼妓溜」に集う娼妓を客が外から格子越しに、また店内で直接見るなどして見定めたが、禁止され大正末年に写真式に定められたという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の玄関室右横の客引控室
こちらは玄関室右隣の客引用控室。箪笥等の調度品はこの部屋に限らず適当に飾られたもので、往時を様子を再現したものではないとのこと


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の玄関奥の通庭
玄関室奥の土間から玄関方向を見る。土間は「通庭(とおりにわ)」として1階各部屋を繋ぎつつ屈折しながら奥へと続く。ここで係の人から声をかけられ、解説付の見学が始まる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の帳場
こちらは玄関室奥の土間向こうにある帳場。中央の磨硝子に設けられた猪目(いのめ。ハート)状の透明部分で来客を察知し、右の障子小窓で前払い料金を徴収したとのこと。因みに、この部屋や左側(正面から見て右側)に連なる和室は事務や当主らの生活の場となっていた


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の帳場奥に続く中庭や大広間
帳場から建物の奥を見ると、その奥行の深さが実感できた。硝子越しに、井戸がある中庭や、その奥の大広間、そのまた向こうの奥庭や土蔵までの連なりが窺える。洞泉寺遊郭最大の妓楼であったという説明内容を実感


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階の洗面所
こちらは中央左手奥の廊下際にあった洗面室。蛇口以外の全てが古式のまま残され、今なお手洗場として機能している


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階浴室
これも、同じく廊下際にあった浴室。3畳程の広さで天井が高く、洋館的な設え。浴槽等は撤去されたようである。天井は漆喰左官仕上げで、中央に楼主家の柏葉の家紋が表現されている。楼主一家が使い、妓女らは銭湯通いと聞いたが、場合により共用していたかもしれないとのこと


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階奥にある料理坊
こちらは1階左手奥、洗面室背後にある料理坊。玄関から続く土間「通庭」の一部である。今は撤去されているが右端壁際に竈があったという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の料理坊横の吹き抜けと補修された猪の目窓
これは料理坊左横に続く吹き抜け。今は天部に覆いがあるが、本来は開口しており、猪目型の窓(欄間)共々、煙出しを成していたという。猪目窓は建屋側面に見えたものであり、以前は傷んでいたが、見ての通り、補修されたようである。心配していたので良かった。安堵である


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階廊下突き当りにある洗浄室
そして廊下奥の突き当りには洗浄室なる小部屋があった。感染症予防等、妓女の衛生のための施設とのこと。内部は非公開か。右の窓外は奥庭


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階奥の厠(便所)
洗浄室の左には厠が並ぶ。華奢ながら開閉が頻繁という宿命をもつその瀟洒な建具が往時のまま残存しているのも珍しく、貴重。因みに、内部の器具は更新されているものの、来館者等用に現役利用されている


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の奥庭と納屋と土蔵
厠前の廊下を右折して奥庭を見る。築山風に奥が高くなっており、敷地最後部に納屋や土蔵がはだかる。それらの建屋は母屋に先んじて大正11年に造られたという、敷地内最古の建造物


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階右奥の茶室
奥庭の右、即ち厠対面には楼主用の茶室があった。四畳半の奥に水屋があり、庭の飛び石と接続する躙り(にじり)口を持つ本格的なものである。茶室を持つ遊郭は川本家だけの特殊ではなく他にも類例がある。現在売色の経営者に茶の心得がある者は一体どれほどいるのか。そのことからも、暗く語られがちな遊所の、今とは異なる性質・時代性が感じられる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」2階の階段室と廊下
会計部屋(現係員詰所。通庭左)手前奥の階段から2階へと上る。階段の欄干や床板に至る全てが往時のまま保存されていて心地よい。ただ公開施設として法的に耐震性を備えなければならないので、改修工事の際、土壁隅に柱を繋ぐ金具が仕込まれたという。嘗て耐震性を得る為には無粋な鉄骨を入れる必要があったが、技術の進歩か、趣を壊さぬ施工が叶って何より


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の3階廊下沿いに並ぶ客間
そして2階の表側(道側)廊下には妓女たちの小部屋が並んでいた。彼女たちが寝泊まりし、客の応対も行った「客間」である。これは3階の写真だが、2階も同様ながら、廊下が狭く後ろに下がれなかったため掲げた。ただ、2階は4室と納戸、3階は5室が一線に並んでいる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の2階のガス灯
2階の柱上方々には瓦斯(ガス)灯が往時のまま残っていた。妓楼の施工時は既に郡山市街にも電気が通っていたが、当時の電力事情の悪さを考慮し補助的に用意されたものという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」2階の客間
2階表側の客間内部。3畳板床付の間取りとなっており、外からの視線を遮るため格子が狭く、磨硝子も用いられているため室内は暗めである。2階には同様の客間が全6室あり、その他「案内所(客接待用の広間)」「客座敷(同)」「髪結場」があり、右奥には楼主の居住空間もあった


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」2階と3階を繋ぐ大階段
2階と3階を繋ぐ大階段。以前参観者が転倒して負傷したため、通行禁止となっている。この他、2階と3階を繋ぐ階段は全2所、1階と2階を繋ぐ階段は全4所もあり、それぞれ妓女用・給仕用・楼主用・客用等と使い分けられており、それぞれ顔を合わせず通行出来たという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」3階表側隅の客間
3階隅の客間。2階と異なり格子の間隔が広く磨硝子もないためかなり明るい。その為か、人気妓女らが占めたようである。この部屋は4畳半ある最大のもので、他は2階同様、3畳に半畳板間付で、全9室あった。但し、この様に明るい部屋はこの部屋を含む表側5室のみである

以上で旧川本楼の見学は終了。慎重かつ丁寧な補修方針と施工の賜物か、妓楼という範疇に拘らず、公開古屋として稀に見る、非の打ち所のない優良施設であった。公開の箇所も広く、非公開とされた場所は当主間等の極一部で、懇切丁寧な解説がつくのもいい。

土地家屋の取得を始め、補修・維持等々の莫大な経費負担を決断した郡山市の英断を称えたい。ただ、20年前にこの動きがあれば、遊所遺構として多くの妓楼を保存・活用出来たかもしれないことが少々悔やまれた。

そして、係の人に丁重に礼を述べ、募金箱に寸志を投じ、楼を後にした。


奈良・大和郡山の旧城下に残る最古の町家で紺屋建築の箱本館全景と紺屋川

古き町家残る郡山城下

洞泉寺遊郭を出て次の旧遊所「東岡」に向かうが、その途中少し遠回りして旧川本楼で紹介してもらった、箱本館「紺屋」という施設に立ち寄った。箱本(はこもと)とは城下町衆の自治組織で、豊臣秀長が城下を築いた天正年間(16世紀後期)に遡るものという。

写真は箱本館の正面全景で、前を流れる紺屋川の名の通り、藍染めを生業にした元紺屋の古建築であった。現在は郡山城下最古の町家として保存され、箱本の歴史や郡山名物の金魚養殖等を紹介する施設となっている。

平屋にもかかわらず屋根が二重になっているのは、奈良盆地及びその周辺に特徴的な「大和棟(やまとむね)」の影響とみられる。恐らく、古い時代は同様式と同じく、上段が茅葺だったのではなかろうか。


太り梁組みに古式が窺われる奈良・大和郡山最古の町家・旧紺屋奥野家箱本館
箱本館内部。板を使わない屋根下造作や太い梁組みに古式が窺われる。18世紀後期の建築とされ、20世紀末の廃業後に郡山市が買い取り、現在は内部に休憩室や地場産品販売場、藍染め工房等を擁する総合観光施設となっている。勿論座敷を見学することも可能で、収蔵品展示室にもなっていた。ここも、実習費用や飲食・物品販売以外、全て無料で感心させられた


ばったり床几と角張った虫籠窓のある奈良・郡山の古い町家
箱本館の他、旧城下地区では、この様な大型の町家が方々で見られた。この町家は2階部分の低さから、幕末近世後期から明治初期頃建造の近世型と思われる。浮き出る様に仕上げられた2階の角張った虫籠窓(むしこまど)が特徴的で、方々で同様が見られた。1階左に備えられた「ばったり床几(ばったん床几。畳み上げ式長椅子)」は他では見られなかったので一写


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る荒れ果てた3階建大型妓楼

旧東岡遊郭
(旧大和郡山城下南)


町家が残る旧郡山城下の商店街を経て、やがて市街南部の東岡町域に入った。とはいえ、市街東南の洞泉寺地区からは直線半キロ程の近さである。

その町域は、南外堀の門跡近くにあったが、土居(土塁)と堀の囲繞から外れた城外の地であった。一応近世から続くとされる奈良4大遊所の一つらしいが、少々特殊な立地である。洞泉寺より後で設けられたのであろうか(町割り自体は17世紀中頃の最古級絵図にあり、武家奉公人街と記載)。

さて、町域に入るも、変哲なき住宅街が続き、妓楼が見当たらない。洞泉寺のように以前訪れた場所ではなく、下調べも甘かったので少々手間取ったが、生来の勘を働かせて宅地の奥に聳える妓楼を発見した。

写真はその一つ。しかし、見ての通りかなり荒れ果てた姿であった。昭和31(1956)年の売春防止法制定で一斉に営業を止めた洞泉寺遊郭とは異なり平成初年まで密かに営業を続けたとされる割には随分な荒れ様である。

以前郡山に住んでいた知人によると、市街南辺は治安的に憚られる場所だったらしく、そのことなどと関係があるのかもしれない。また、妓楼正面向かいには他の妓楼撤去後に放置されている様な広大な空地があった。


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る荒れ果てた3階建大型妓楼
上記妓楼の側面。雨戸も朽ち破れ、ただ無残のひとこと。割れた窓から中を覗くと、既に屋根や各階の床全てが崩落していた。もはや手の施しようがない状態である。敷地及び建屋奥行も深く、旧川本楼と同じかそれを以上の大建築で、各部の意匠や構造も多彩なため、大変惜しく感じられた

倒壊の危険すら感じられる妓楼傍で見学や撮影をしていると、地元の老婆が現れ、この建屋のことや他の残存妓楼の場所等を教えてくれた。

曰く、この妓楼については近所の住民も心配しているが、所有者と連絡がつかないため対処不能の状態だという。また、洞泉寺地区と同じく、近年多くの妓楼が取り壊れたとの話も聞いた。


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る擬似洋館造りの玄関を持つ3階建大型妓楼

朽ちた妓楼傍の路地を奥へと進むと老婆の言う通り、もう一つの大型妓楼があった。写真がそれで、擬似洋館造の玄関を持つ、個性的な3階建妓楼であった。こちらは状態が良く、玄関には賃貸物件を示す貼紙さえあった。

一体幾らぐらいの賃料なのであろう。興味深い物件だが、部屋数が多いため、掃除などが大変そうである。


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る擬似洋館造りの玄関を持つ3階建大型妓楼の後面
上記擬似洋館玄関を持つ妓楼の背面。川本楼には及ばないが、やはり木造建築としてはかなりの規模である。本来は後方の広い空地にも妓楼が建ち並んでいたと思われる


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る木造3階建の大型妓楼
こちらも老婆教授の妓楼。上記2軒とは異なる路地に孤立してあり、恐らく周辺で唯一残ったものか。これも、正面3階、奥2階建という川本楼同様の大建築である。民家として使用されているらしく、状態は良かった。願わくば、中を見てみたいものである


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る2棟の2階建妓楼
こちらも別の路地のもの。2階建の妓楼が2軒並んでおり、橋本等で良くみる標準的な大きさの妓楼か。やはり民家として使われているため状態は悪しからず、破壊を免れたとみられる。しかし、手前空地にあった妓楼は近年失われたという


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡外れの湿地と近鉄線
奈良郡山市街南部・旧東岡遊郭外れの湿地と、東岡と西岡を隔てる近鉄線

以上で東岡町の妓楼見学は終了。旧川本楼の人から東岡の妓楼はもう2軒しか残存していないと聞いていたので、意外の収穫だったが、公的保護が無い状態を見て、存続への危機感は高まった。

そして、洞泉寺地区とは異なる場末感漂う東岡を南へ抜けると、一面に広がる金魚養殖池や湿地があった。

東西の岡町自体は近世17世紀前期から存在したが、城外でしかも湿地に面したこの立地を見ると、語られぬその特異な成り立ちや、それに影響された特殊で長い歴史を感じる思いがした。


奈良郡山市街南部・旧東岡遊郭隣の西岡町の和洋折衷の古建築

西岡町に残る謎の和洋折衷建築

東岡から郡山城方面に行くため一旦西へ向かおうとして人道踏切を渡った際、西岡側の特異な建築が目に入った。

写真がそれで、川本楼の客間と同じ形を持つ欄間や、洋館造との折衷構造が認められた。下調べでは東岡の外に妓楼はなかった筈……。


奈良郡山市街南部・旧東岡遊郭隣の西岡町にあった和洋折衷の古建築
西岡に残る謎の戦前建築。洋館造の側面に格式高い別玄関が造られている

謎の折衷建築に接近すると、やはり戦前築の、古く素性の良いものであった。抜かりなく修繕や清掃がされており、恐らくは人家として再生され、使われているようである。

詳細は不明で、元妓楼かどうかの判断も下せなかったが、先の欄間の件や、普通の人家にはない豪壮な屋根造に銅製の樋、そして賓客か亭主用の別玄関の存在等に、妓楼との類似性を感じた。

もし、それが当たっていれば、和室が接客空間、洋室が帳場や事務空間だったのではないかと思われた。いずれにせよ、後世に伝えるべき価値ある建築であることに違いはない。ただ、周辺も探ったが、それらしき建屋はこの1軒のみであった。

予想以上の内容での妓楼見学終了

その後、郡山城址に達し、そこにある公園にて遅い昼食や休息をとった。そして、城の内郭を見学しつつ駅へ向かい、郡山を離れた。

一般的に負の印象が強いものの、古のもてなし文化の一端であり、贅を凝らした建築技術の宝庫たる妓楼の見学を予想外の濃い内容で終えることが出来た。本来は奈良市街の2所も訪れ奈良の旧遊郭街全てを巡るつもりだったが、意義ある誤算により、また次の課題となった。

見るべきもの、残すべき価値はまだまだ身近なところに潜んでいる。そんなことを改めて教えてもらった大和郡山行であった。

皆さんにも是非、その実見をお勧めしたい。

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2019年09月01日

続2019芹生避暑泊

先日の雨のため普段の数倍の水量で涼しさを供する、京都市街北部・芹生集落を流れる灰屋川

芹生避暑2日目

京都市街北部・北山山地の標高600mを超える場所にある高位集落「芹生(せりょう・せりう)」。そこで前日から恒例の避暑泊を行ったが、前夜遅くまで起きていたにもかかわらず、沢音に誘われ比較的早く起床した。

写真の通り、今日も普段の数倍と思われる豊かな灰屋川の水量は変わらず、避暑に適う情景を供してくれていた。

ただ、いつものような、山地または高地特有の冷えは感じなかった。宿の女将さんが話していた通り、湿度が高いためか……。

何分、自然の行い故、致し方あるまい。また、空も厚い雲で覆われていた。ただ、これは予報通り、承知のことであった。


京都市街北部・芹生集落を流れる灰屋川に朝から飛び込み泳ぐ避暑泊同行者
しかし、そんな天候の清流に、写真の如く朝から水しぶきが上る。昨日に続き、同行のF君が川に飛び込み、泳ぎ始めたのであった


京都市街北部・芹生集落を流れる灰屋川の強く冷たい流れに逆らい元気よく泳ぐ避暑泊同行者
そして、強く冷たい流れに逆らい元気よく泳ぐ。陽射しがないため、昨日より一段と冷たいらしいが……。しかし、結局それを羨み、私も着衣のまま少々泳ぐ(笑)。うーん、とんでもない冷たさで、数十秒が限界であった


京都市北部の北山山地内を流れる大堰川(桂川)の本流沿いにある黒田地区の中心集落「宮」の春日神社

帰路は他の北山集落を巡りつつ

水浴のあと、宿の好意で薪風呂に入れてもらい、冷えた身体を回復させる。その後は雨が降り出したこともあり、各々屋内で寛ぐ。そして、いつもの如く、午後遅くまでゆっくりさせてもらい、宿をあとにした。

帰りは、すぐ峠を下り貴船経由で京都市街に戻る元来た道を避け、他の北山集落の案内を兼ね、北行する別路を採った。写真はその際立ち寄った、大堰川(桂川)の本流沿いにある黒田地区の中心集落「宮」の春日神社。

春日といえば、奈良興福寺と密接に関わる藤原氏の氏神「春日大社」が思い出されるが、正に黒田が同氏の所領だった縁によるものだという。

境内左手前にある、一重と八重の花が混ざる珍しい「百年桜」で有名な神社でもあった。


京都市北部山間にある黒田地区宮集落の春日神社境内に残る、貴重な南北朝期建築「宝蔵」
黒田宮の春日神社の境内片隅にあった、建武4(1337年)に再建された「宝蔵」。地味な存在ながら、中世様式を伝える貴重なもの


方々で稲穂が実る豊かな農村景を見せる、京都市北部の山上集落「氷室」

古道際の隠れ里「氷室」

黒田からは大堰川の流れに沿って西へ向かい、芹生も含まれる旧京北地区の中心地「周山」を経て、中世以前発祥の京街道「長坂道」に入った。

本来は周山街道を南下して京都市街に戻るのが常道だが、同行の友人らが未知ということで、その経路を選んだ。

そして、その道筋にある杉坂集落を過ぎ、京都市街へ下る京見峠手前の急登の脇道に入った。その後、程なくして至ったのが写真の氷室集落。

標高400m弱、嘗ては同じく京都北山の山間集落「雲ケ畑」地区と都を結ぶ交通要地であったが、今は行き止まりの高位集落と化している。

しかし、京都市街に近い所為か、意外と過疎の気配は見られず、方々で稲穂が実る、豊かな農村景が広がっている。

ここに立ち寄ったのも、同行の友人らが未知の場所であったため。個人的には、山を歩き始めた頃に偶然入り込んで感銘を受けた場所なので、懐かしく感じられた。


京都市北部の山上集落「氷室」に残る、前近代の貯氷施設・氷室跡の入口とそれを示す石碑

この氷室の里には、知る人ぞ知る名所があった。それは、集落の名の元になったとされる、前近代の貯氷施設「氷室」の遺跡である。

冬の間、厚く丹念に作った氷を断熱保存し、夏に都の貴人らが飲食その他に用いたという、古代以来の施設であった。その貴重な遺構が、この里の名と共にここに残っているのである。

その場所は、田圃外れの丘上にあり、民家裏から畦伝いに達するという判り辛いもの。基本的に私の様な案内者がなければ辿り着くことは難しい。

写真は、草を踏み分け辿り着いた遺構の入口。氷室跡を示す石碑が立てられている。


京都市北部の山上集落「氷室」に残る前近代の貯氷施設・氷室遺跡に立てられた、ユニークな図示のある案内板

入口の道を登って丘上に出ると、写真の看板が現れた。かなり昔からある案内板で、ユニークな図示が目を惹くが、簡素で解り易いもの。

下部にある「ユリは育てています」の後書きも面白い。このお願い通り、ここの野花は摘まないようにしたい。


京都市北部の山上集落「氷室」に残る、前近代の貯氷施設・氷室跡の窪地

そして案内図の通り、付近で氷室遺構とされる円い窪地三つを確認出来た。写真はその内の一つ。水を入れ難い丘上にあることを当初訝ったが、貯氷池に濁りやゴミが混入しないための工夫かと思われた。

友人らは話では聞いていた氷室の現物を実見出来て感激すること頻り。


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最後は「激坂」に挑む

その後、長坂道に戻り、京見峠を下ったが、京都北山堪能の旅はまだ終らなかった。京見峠から直線で一気に麓まで下る、前近代の古道を継承した急坂の車道があることを伝えると、見学がてら通過することとなった。

森なかの細く暗い道で少々荒れていたが、何とか通行が叶い、古の杉坂道(長坂道)の起点・千束集落に下ることが出来た。

その後は、千束から京都市街の鷹峯台地に登り返すとんでもない勾配の車道を登る。写真が上からみたその坂で、一同冷や汗の思いで、何とか登りきることが出来た。

これにて、京都北山を存分に堪能した我々の近場避暑行は終了したのである。皆さんお疲れ様でした!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行