消えゆく色町へ今日は朝から奈良の郡山へ向かった。
11年程前に古図と共に
環濠集落を巡る「平会(ひらかい)」の企画で同地を訪れたが、その際、偶然目にした遊郭建築が近々破壊されることを知ったからである。
正確に言うと、既に今春から破壊が始まっており、今秋破壊予定の一軒が辛うじてコロナ禍の影響で実施中断となっていた。また、別の1軒が近年公開されていることを知り、その見学を兼ね急遽出かけたのであった。
なお、今回の表題は、
昔巡ってこのサイトで紹介した京都府西部にある「橋本遊郭」の続編的に、その時の表題に「新」を付して表した。
上掲写真 大和郡山・洞泉寺遊郭跡に残る、地区最大の大正13年築妓楼「川本楼」の内部と中庭。郡山市が買取り、修繕・耐震工事を施し、現在は「町家物語館」という名称で一般公開されている。
奈良四大公許遊郭之一「旧洞泉寺遊郭」
(旧大和郡山城下東南)写真は、2009年3月1日の平会時撮影の旧洞泉寺遊郭の3棟の大型妓楼。近鉄郡山駅から東へと続く城下古道から眺めた際に発見し、ここを遊所と断定し、興味を持つきっかけとなった妓楼群だが……

今回訪れると、報道通り、きれいさっぱり破壊・撤去され更地と化していた(前掲写真とは逆方向から撮影)

こちらは同じく2009年3月1日の平会時に撮影した前掲妓楼群奥(南)から伸びる路地。突き当りに川本楼、即ち現町家物語館が見えるが……

今回はこの通り手前側の妓楼がなくなり、川本楼手前に今秋破壊予定だった3階建大型妓楼「中山楼」が露出していた。前の3楼が破壊される直前に内部見学が催されたとのことだが、知らずに逃してしまった。残念!

こちらは解体更地前の路地を更に奥に進んだ場所に残る大型妓楼2軒。現在賃貸し中とのことで、差し迫った解体危機はないようである。遊郭建築に特徴的な軒下の電灯群が往時のまま完存。手前側の妓楼右には別玄関があり建屋裏の離れと接続している。内外相当な格式の造り。賓客か当主用か

上の妓楼2棟の奥突き当りには源九郎稲荷という古社と地名の元となった洞泉寺があるが、その隣はこの様に広大な更地が広がっていた。寺社前で路地が屈曲し更にその先で巻いてロの字を形成することから、ここも旧遊郭街の一部で、その最奥区画だったとみられる

奥の更地前を過ぎ、また屈曲を右に折れると川本楼の側面が見えた(写真左の3階建)。道はその奥の寺門前でまた右に屈曲し最初の場所に戻るので遊郭街がロの字で構成されていることが判る。因って、この路地に面した寺社以外の場所は遊郭か、その関連施設が占めていたと思われる
遊郭街への出入りは、表通りからの接続と奥の更地前を真っすぐ進んだ先の前後2道しかなく、京都・三本木遊郭等と同じ閉鎖構造を成している。
嘗てこの地区は二辺が外壕に接する城下東南隅に当たり、城外に通じた表通り直近の要地であった。そのため、藩政期に軍事転用に都合よい大建築の寺社や妓楼が計画的に配されたのではなかろうか。閉鎖的で見通しの悪い町割も、その防塞的役割に因るものとみられる。
写真手前の路面を横切る石畳は、花崗岩製の小橋。古く趣のあるもので、遊郭時代の名残りかと思われる。左の欄干に車の衝突とみられる割れが見られるが、是非このまま現地保存してもらいたいものである。

因みに、2009年3月1日の平会時に撮影した旧川本楼の側面はこの様な状態であった。土壁の保護板破損が著しく、土壁自体にも傷みが多く見られた。本格的な一般公開にあたり上掲写真の如く補修・一新されて何より
公開妓楼・旧川本楼(町家物語館)内部見学さて、遊郭街を一周し、いよいよ旧川本楼・現町家物語館を見学する。その建屋傍に立ち、改めて見上げると、木造3階建のその威容が迫る。

1階中央にある玄関から中に入る。間口は然程で広くないが、その奥行は深い。左壁際に内庭状の石組みや床の間状の設えがあるが、その昔妓女の写真を飾った場所という。本来は、玄関左の和室「娼妓溜」に集う娼妓を客が外から格子越しに、また店内で直接見るなどして見定めたが、禁止され大正末年に写真式に定められたという

こちらは玄関室右隣の客引用控室。箪笥等の調度品はこの部屋に限らず適当に飾られたもので、往時を様子を再現したものではないとのこと

玄関室奥の土間から玄関方向を見る。土間は「通庭(とおりにわ)」として1階各部屋を繋ぎつつ屈折しながら奥へと続く。ここで係の人から声をかけられ、解説付の見学が始まる

こちらは玄関室奥の土間向こうにある帳場。中央の磨硝子に設けられた猪目(いのめ。ハート)状の透明部分で来客を察知し、右の障子小窓で前払い料金を徴収したとのこと。因みに、この部屋や左側(正面から見て右側)に連なる和室は事務や当主らの生活の場となっていた

帳場から建物の奥を見ると、その奥行の深さが実感できた。硝子越しに、井戸がある中庭や、その奥の大広間、そのまた向こうの奥庭や土蔵までの連なりが窺える。洞泉寺遊郭最大の妓楼であったという説明内容を実感

こちらは中央左手奥の廊下際にあった洗面室。蛇口以外の全てが古式のまま残され、今なお手洗場として機能している

これも、同じく廊下際にあった浴室。3畳程の広さで天井が高く、洋館的な設え。浴槽等は撤去されたようである。天井は漆喰左官仕上げで、中央に楼主家の柏葉の家紋が表現されている。楼主一家が使い、妓女らは銭湯通いと聞いたが、場合により共用していたかもしれないとのこと

こちらは1階左手奥、洗面室背後にある料理坊。玄関から続く土間「通庭」の一部である。今は撤去されているが右端壁際に竈があったという

これは料理坊左横に続く吹き抜け。今は天部に覆いがあるが、本来は開口しており、猪目型の窓(欄間)共々、煙出しを成していたという。猪目窓は建屋側面に見えたものであり、以前は傷んでいたが、見ての通り、補修されたようである。心配していたので良かった。安堵である

そして廊下奥の突き当りには洗浄室なる小部屋があった。感染症予防等、妓女の衛生のための施設とのこと。内部は非公開か。右の窓外は奥庭

洗浄室の左には厠が並ぶ。華奢ながら開閉が頻繁という宿命をもつその瀟洒な建具が往時のまま残存しているのも珍しく、貴重。因みに、内部の器具は更新されているものの、来館者等用に現役利用されている

厠前の廊下を右折して奥庭を見る。築山風に奥が高くなっており、敷地最後部に納屋や土蔵がはだかる。それらの建屋は母屋に先んじて大正11年に造られたという、敷地内最古の建造物

奥庭の右、即ち厠対面には楼主用の茶室があった。四畳半の奥に水屋があり、庭の飛び石と接続する躙り(にじり)口を持つ本格的なものである。茶室を持つ遊郭は川本家だけの特殊ではなく他にも類例がある。現在売色の経営者に茶の心得がある者は一体どれほどいるのか。そのことからも、暗く語られがちな遊所の、今とは異なる性質・時代性が感じられる

会計部屋(現係員詰所。通庭左)手前奥の階段から2階へと上る。階段の欄干や床板に至る全てが往時のまま保存されていて心地よい。ただ公開施設として法的に耐震性を備えなければならないので、改修工事の際、土壁隅に柱を繋ぐ金具が仕込まれたという。嘗て耐震性を得る為には無粋な鉄骨を入れる必要があったが、技術の進歩か、趣を壊さぬ施工が叶って何より

そして2階の表側(道側)廊下には妓女たちの小部屋が並んでいた。彼女たちが寝泊まりし、客の応対も行った「客間」である。これは3階の写真だが、2階も同様ながら、廊下が狭く後ろに下がれなかったため掲げた。ただ、2階は4室と納戸、3階は5室が一線に並んでいる

2階の柱上方々には瓦斯(ガス)灯が往時のまま残っていた。妓楼の施工時は既に郡山市街にも電気が通っていたが、当時の電力事情の悪さを考慮し補助的に用意されたものという

2階表側の客間内部。3畳板床付の間取りとなっており、外からの視線を遮るため格子が狭く、磨硝子も用いられているため室内は暗めである。2階には同様の客間が全6室あり、その他「案内所(客接待用の広間)」「客座敷(同)」「髪結場」があり、右奥には楼主の居住空間もあった

2階と3階を繋ぐ大階段。以前参観者が転倒して負傷したため、通行禁止となっている。この他、2階と3階を繋ぐ階段は全2所、1階と2階を繋ぐ階段は全4所もあり、それぞれ妓女用・給仕用・楼主用・客用等と使い分けられており、それぞれ顔を合わせず通行出来たという

3階隅の客間。2階と異なり格子の間隔が広く磨硝子もないためかなり明るい。その為か、人気妓女らが占めたようである。この部屋は4畳半ある最大のもので、他は2階同様、3畳に半畳板間付で、全9室あった。但し、この様に明るい部屋はこの部屋を含む表側5室のみである
以上で旧川本楼の見学は終了。慎重かつ丁寧な補修方針と施工の賜物か、妓楼という範疇に拘らず、公開古屋として稀に見る、非の打ち所のない優良施設であった。公開の箇所も広く、非公開とされた場所は当主間等の極一部で、懇切丁寧な解説がつくのもいい。
土地家屋の取得を始め、補修・維持等々の莫大な経費負担を決断した郡山市の英断を称えたい。ただ、20年前にこの動きがあれば、遊所遺構として多くの妓楼を保存・活用出来たかもしれないことが少々悔やまれた。
そして、係の人に丁重に礼を述べ、募金箱に寸志を投じ、楼を後にした。
古き町家残る郡山城下洞泉寺遊郭を出て次の旧遊所「東岡」に向かうが、その途中少し遠回りして旧川本楼で紹介してもらった、箱本館「紺屋」という施設に立ち寄った。箱本(はこもと)とは城下町衆の自治組織で、豊臣秀長が城下を築いた天正年間(16世紀後期)に遡るものという。
写真は箱本館の正面全景で、前を流れる紺屋川の名の通り、藍染めを生業にした元紺屋の古建築であった。現在は郡山城下最古の町家として保存され、箱本の歴史や郡山名物の金魚養殖等を紹介する施設となっている。
平屋にもかかわらず屋根が二重になっているのは、奈良盆地及びその周辺に特徴的な「大和棟(やまとむね)」の影響とみられる。恐らく、古い時代は同様式と同じく、上段が茅葺だったのではなかろうか。

箱本館内部。板を使わない屋根下造作や太い梁組みに古式が窺われる。18世紀後期の建築とされ、20世紀末の廃業後に郡山市が買い取り、現在は内部に休憩室や地場産品販売場、藍染め工房等を擁する総合観光施設となっている。勿論座敷を見学することも可能で、収蔵品展示室にもなっていた。ここも、実習費用や飲食・物品販売以外、全て無料で感心させられた

箱本館の他、旧城下地区では、この様な大型の町家が方々で見られた。この町家は2階部分の低さから、幕末近世後期から明治初期頃建造の近世型と思われる。浮き出る様に仕上げられた2階の角張った虫籠窓(むしこまど)が特徴的で、方々で同様が見られた。1階左に備えられた「ばったり床几(ばったん床几。畳み上げ式長椅子)」は他では見られなかったので一写
旧東岡遊郭
(旧大和郡山城下南)町家が残る旧郡山城下の商店街を経て、やがて市街南部の東岡町域に入った。とはいえ、市街東南の洞泉寺地区からは直線半キロ程の近さである。
その町域は、南外堀の門跡近くにあったが、土居(土塁)と堀の囲繞から外れた城外の地であった。一応近世から続くとされる奈良4大遊所の一つらしいが、少々特殊な立地である。洞泉寺より後で設けられたのであろうか(町割り自体は17世紀中頃の最古級絵図にあり、武家奉公人街と記載)。
さて、町域に入るも、変哲なき住宅街が続き、妓楼が見当たらない。洞泉寺のように以前訪れた場所ではなく、下調べも甘かったので少々手間取ったが、生来の勘を働かせて宅地の奥に聳える妓楼を発見した。
写真はその一つ。しかし、見ての通りかなり荒れ果てた姿であった。昭和31(1956)年の売春防止法制定で一斉に営業を止めた洞泉寺遊郭とは異なり平成初年まで密かに営業を続けたとされる割には随分な荒れ様である。
以前郡山に住んでいた知人によると、市街南辺は治安的に憚られる場所だったらしく、そのことなどと関係があるのかもしれない。また、妓楼正面向かいには他の妓楼撤去後に放置されている様な広大な空地があった。

上記妓楼の側面。雨戸も朽ち破れ、ただ無残のひとこと。割れた窓から中を覗くと、既に屋根や各階の床全てが崩落していた。もはや手の施しようがない状態である。敷地及び建屋奥行も深く、旧川本楼と同じかそれを以上の大建築で、各部の意匠や構造も多彩なため、大変惜しく感じられた
倒壊の危険すら感じられる妓楼傍で見学や撮影をしていると、地元の老婆が現れ、この建屋のことや他の残存妓楼の場所等を教えてくれた。
曰く、この妓楼については近所の住民も心配しているが、所有者と連絡がつかないため対処不能の状態だという。また、洞泉寺地区と同じく、近年多くの妓楼が取り壊れたとの話も聞いた。

朽ちた妓楼傍の路地を奥へと進むと老婆の言う通り、もう一つの大型妓楼があった。写真がそれで、擬似洋館造の玄関を持つ、個性的な3階建妓楼であった。こちらは状態が良く、玄関には賃貸物件を示す貼紙さえあった。
一体幾らぐらいの賃料なのであろう。興味深い物件だが、部屋数が多いため、掃除などが大変そうである。

上記擬似洋館玄関を持つ妓楼の背面。川本楼には及ばないが、やはり木造建築としてはかなりの規模である。本来は後方の広い空地にも妓楼が建ち並んでいたと思われる

こちらも老婆教授の妓楼。上記2軒とは異なる路地に孤立してあり、恐らく周辺で唯一残ったものか。これも、正面3階、奥2階建という川本楼同様の大建築である。民家として使用されているらしく、状態は良かった。願わくば、中を見てみたいものである

こちらも別の路地のもの。2階建の妓楼が2軒並んでおり、橋本等で良くみる標準的な大きさの妓楼か。やはり民家として使われているため状態は悪しからず、破壊を免れたとみられる。しかし、手前空地にあった妓楼は近年失われたという

奈良郡山市街南部・旧東岡遊郭外れの湿地と、東岡と西岡を隔てる近鉄線
以上で東岡町の妓楼見学は終了。旧川本楼の人から東岡の妓楼はもう2軒しか残存していないと聞いていたので、意外の収穫だったが、公的保護が無い状態を見て、存続への危機感は高まった。
そして、洞泉寺地区とは異なる場末感漂う東岡を南へ抜けると、一面に広がる金魚養殖池や湿地があった。
東西の岡町自体は近世17世紀前期から存在したが、城外でしかも湿地に面したこの立地を見ると、語られぬその特異な成り立ちや、それに影響された特殊で長い歴史を感じる思いがした。
西岡町に残る謎の和洋折衷建築東岡から郡山城方面に行くため一旦西へ向かおうとして人道踏切を渡った際、西岡側の特異な建築が目に入った。
写真がそれで、川本楼の客間と同じ形を持つ欄間や、洋館造との折衷構造が認められた。下調べでは東岡の外に妓楼はなかった筈……。

西岡に残る謎の戦前建築。洋館造の側面に格式高い別玄関が造られている
謎の折衷建築に接近すると、やはり戦前築の、古く素性の良いものであった。抜かりなく修繕や清掃がされており、恐らくは人家として再生され、使われているようである。
詳細は不明で、元妓楼かどうかの判断も下せなかったが、先の欄間の件や、普通の人家にはない豪壮な屋根造に銅製の樋、そして賓客か亭主用の別玄関の存在等に、妓楼との類似性を感じた。
もし、それが当たっていれば、和室が接客空間、洋室が帳場や事務空間だったのではないかと思われた。いずれにせよ、後世に伝えるべき価値ある建築であることに違いはない。ただ、周辺も探ったが、それらしき建屋はこの1軒のみであった。
予想以上の内容での妓楼見学終了その後、郡山城址に達し、そこにある公園にて遅い昼食や休息をとった。そして、城の内郭を見学しつつ駅へ向かい、郡山を離れた。
一般的に負の印象が強いものの、古のもてなし文化の一端であり、贅を凝らした建築技術の宝庫たる妓楼の見学を予想外の濃い内容で終えることが出来た。本来は奈良市街の2所も訪れ奈良の旧遊郭街全てを巡るつもりだったが、意義ある誤算により、また次の課題となった。
見るべきもの、残すべき価値はまだまだ身近なところに潜んでいる。そんなことを改めて教えてもらった大和郡山行であった。
皆さんにも是非、その実見をお勧めしたい。