2018年08月26日

府北納涼

舞鶴郊外を流れる岡田川とその河原

納涼高地泊中止
府北舞鶴で代替避暑を


昨日から舞鶴の友人宅にお邪魔していた。本来なら、京都市街北部「北山」にある高地集落の宿にて恒例の納涼泊を行うつもりだったが、先日の台風による停電で中止となった。

灯火でも、月明りでも我慢するので、是非行きたいと思い、当日昼ぐらいまで様子を窺ったが、水が出ず準備不能となったため、中止となった。水に恵まれた山間ながら、ポンプによる配水だったため、停電の影響を逃れることが出来なかったのである。

致し方ないが、年一回の楽しみだったので、誠に残念であった。

しかし、予定を空けていたのと、変わらず猛暑日が続くことなどから、おさまりがつかず、共に宿泊する予定だった友人の家に急遽お邪魔することにしたのであった。


上掲写真: 舞鶴2日目の今日訪ねた、同市郊外の清流河原。


加佐地区の集落と田園

初日の昨日は到着が遅かったので、友人宅での会食にとどめ、2日目の今日、郊外を案内してもらうこととなった。場所は川遊びができる郊外の清流である。

北部とはいえ、今年は舞鶴も連日猛暑に見舞われていた。よって、涼しい場所を目指したのである。

写真は舞鶴市街から車で30分程の場所にある山間の集落。そんなに山奥や標高の高い場所でもないが、豊かな自然と農村風情が残っていた。


舞鶴・岡田川での水浴

山間清流で水浴納涼

特に良かったのは、目的地にしただけはある「川」。集落近くを流れ、また中流的な場所にもかかわらず、水や河原が大変美麗であった。

友人の知人である地元の人から水浴びに適した場所を聞き、少し深みと木陰のある写真の場所で水浴することにした。適度に水が冷たく、気持ちが良い。昨晩から暑かったので、ちょっと一息である。


加佐の大庄屋上野家

小魚と戯れつつ水浴を堪能したあと、近くの集落に残る古い屋敷を見学。

写真の建屋がそれで、19世紀半ばの幕末に建てられたという庄屋屋敷。付近の14箇村を束ねる田辺藩管轄の大庄屋、上野家の所有であったが、平成15(2003)年に舞鶴市に寄贈され、公開施設となっていた。

庄屋家見学後は市街へと戻り友人宅で昼寝休憩。そして夕方から食事を頂きつつまた一献。結局もう一泊して早朝帰宅することにしたのであった。

高地泊の中止は残念であったが、こうして、別所での歓待と避暑を得ることが出来た。感謝!

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2018年05月04日

奥越観城

恐竜博物館と恐竜の足跡形案内標示

「勝山」の由来地へ

越前勝山(福井県)2日目。

昨夜は当地の従兄宅でバーベキューの集いがあり、それを片した後も、居間にて遅くまで飲み語らっていた。

そして今朝は意外にも早くに起床し、折角の休みを有意義に使おうかと思ったが、前夜遅くからの雨が残り、時折強めの雨になるなどの状況となっていた。

仕方なく、親類と話すなどして時を過ごすと、9時過ぎ頃から漸く天気が回復してきた。よって、以前から気になっていた近くの小山「村岡山(むらこやま)」へ独り向かうことにした。

村岡山は集落傍にある里山風情の小山だが、鉄道等から眺めると、勝山平野の中心で結構な存在感を放つ存在であった。

それもそのはず、実はこの山、勝山の名の由来になったという由緒深い山だったのである。


上掲写真: 村岡山への途上に見た歩道の足跡標示。点々と続くその先には、白く大きな恐竜オブジェと白銀色のドーム建造物から成る恐竜博物館があった。つまりそこへの道標か。なかなか遊び心のある試み。


恐竜博物館と村岡山(御立山)
恐竜博物館と村岡山。両者は別の丘陵端にあり、間には暮見川が流れる

村岡山は地形図等では「御立山(みたてやま)」との表記がされているが、地元では周辺の地名でもある村岡山が専ら使われているようである。

標高は301m。随分低く見えるが、それは平地の標高が145m程あるため。即ち、比高150m程である。


村岡山西麓の「村岡神社」
村岡神社の鳥居

先ずは登山口がある、村岡山西麓の「村岡神社」に向かう。神社横には清冽な沢水が流れており、手水を兼ねた竹樋の備えがあった。孤立した小さな山にもかかわらず水場を持つことに、城山としての適性をみる。


石段が続く村岡山尾根道への登り
石段と石仏続く村岡山尾根道への登り

神社も本来は城と関連した筈だが、特に痕跡は見られず。登城・登山の道は沢沿いと尾根道の二つがあったが、林道的な前者は避け、風情ある尾根道を採った。

神社横から続く石段の細道を登る。陽が射してきたが、先ほどまでの雨により足下が悪く少々慎重を要す。道沿いには四国霊場を模した石仏が続いていた。


村岡山尾根道に現れたカモシカ

石段道を登りきると、明るく広い尾根道に出た。そして、そこを暫く進むと写真の如く獣を発見。

毛の色からするとカモシカか。関西では珍しい動物なので少々驚く。というより、こんな孤立した山にどうやって入ってきたのか。

まあ、従兄の話ではこの近辺では街場近くでも熊が出るらしいので、珍しいことではないか。しかし、この鹿は人慣れしているのか、こちらをじっと見たまま立ち去ろうとしない。先を塞がれた形となり困ったが、一旦引き下がるふりをしたら、先へ行ってくれたので、進むことが出来た。


村岡山城址の山上広場

村岡山城址

尾根道の後はまた森なかの登りとなり、間もなく山上にでた。高低差が少ないだけに、あっという間の散策的登山であった。

山上は写真の如く平坦で広く、寛ぎのための椅子やテーブルの備えもあった。


村岡山城跡縄張図
現地の解説板にあった「村岡山城跡縄張図」

実は広場は城跡であり、現地の縄張(なわばり)図にあった最も広い空間に当たる。主郭(本丸)直下なので二ノ丸のような要所か。

城跡は図の如く、山頂とそれに隣接する尾根上に郭が連なる形で残存していた。城は天正2(1574)年に一向一揆勢により構築され、同年攻撃してきた平泉寺勢を大敗させて「勝ち山」の名を得たという、勝山地名由来の城とされる。

その後、一揆を制圧した織田方柴田氏の居城となり、1580年にその後維新まで続く市街中心の城に拠点が移され廃されたという。僅か数年の存在ながら、抜かりない縄張に当時の緊迫した奥越情勢が窺える。


村岡山城址から大野方面の眺めと荒島岳
村岡山城址から南東は大野方面の眺め。左奥には百名山の一つ、荒島岳(1523m)が見える


村岡山城址の土塁と城戸口の遺構
村岡山城址広場と下位の郭を隔てる土塁と城戸口の遺構。土塁は場所により数mの高さを残す。因みにこの城戸は屈曲のない「平入虎口(ひらいりこぐち)」。左の土塁が縦、右が横方向になっており、2面防御が可能なのためと思われる。最下位の郭にある城の東口には喰い違いにされた「喰違虎口」があった。


村岡山城址の広場からみた主郭
広場から主郭方面を見ると、それが一段高い場所に構築されていることがわかる。山頂の一部を掘り残して造られたか


主郭と広場の間にある堀跡
主郭と広場の間にある堀跡。素掘りながら、水や逆茂木があれば主郭への侵入は困難となる。更に堀にも屈曲があり、近世的な垢抜けた縄張法が感じられた。そのようなことから、主郭周辺の城塞東部は、一揆が急造した砦を織田勢が改造したとの見解が示されているという


村岡山城主郭跡からみた堀と土橋と広場
主郭より広場をみる。中央は広場と主郭を繋ぐ唯一の通路「土橋」


主郭広場と忠魂碑
主郭広場と忠魂碑

唯一堀を区切る土橋と急坂を経て主郭に登る。そこもまた広場となっていた。その端には戦没者の慰霊塔があり、城址を示す古い石碑もあった。


村岡山城址主郭内の櫓台跡
主郭広場の西北端にあった「櫓台」とされる場所

主郭広場の端には、他よりまだ少し高い場所があった。「櫓台」即ち、のちの天守に相当する建屋があったのではないかと推察される場所である。確かに、主郭の角に在るところなどは、近世城郭との類似を想わせた。


村岡山城址主郭櫓台跡からみた九頭竜川河谷と福井方面
主郭櫓台跡から九頭竜川河谷と福井方面を見る

城址からは四方の景色がよく見渡せた。麓の勝山は勿論、大野・美濃、福井・沿海、山越え加賀方面等である。正に軍事・交通の要所。そう考えると、一揆以前から城塞が営まれていてもおかしくない立地に思われた。


主郭櫓台跡からみた恐竜博物館と雪残る大日山
主郭櫓台跡からみた恐竜博物館(左下)と未だ雪残る大日山(1368m)

北方には恐竜博物館と大日山(だいにちさん)が見えた。後者はまだ雲が晴れず頂は見えないが、未だ多くの残雪の存在が窺えた。さすがは豪雪地帯。2月の大雪の時はどれほど積ったのであろうか。

因みに、大日山の右側稜線に「大日峠」や「谷峠」等の加賀越えの古道、一向一揆往来の道があった。谷峠付近には現在立派な国道隧道がある。


村岡山城址西部の郭跡平坦地
村岡山城址西部の郭跡平坦地。即ち、一揆勢構築の原形が残るとされる場所。確かに土塁や屈曲部等がなく、原初的に感じられた


IMGP6461.jpg
主郭下広場にまた現れたカモシカ

有意義な村岡山見学終了。整備・公開のお手本に

村岡山城址西部を見学後、また元の広場に戻り、来た道を下山することに。ところが、広場には先ほどのカモシカがまた草をはみに来ており、進めなくなった。向こうもこちらを見ているのだが、逃げようとしない。

下山口前におり、いつまで待っても降りられないため、仕方なく驚かさない程度に近づくことに。すると、漸く広場東側に逃れてくれた。ひょっとすると、餌付けでもされているのであろうか。

下山後は折角なので村岡山を一周観察して帰ることに。村岡山は、東側がその先の高地から伸びる丘陵と接続しているが、その間は微高地程度でやはり孤立した不思議な存在であった。ひょっとすると、防備のため微高地上の寺尾集落辺りの200m四方程が掘り落とされているのかもしれない。

また、北麓の暮見川や南麓の浄土寺川等の河川に守られた堅固な立地であることも確認できた。

昼過ぎに従兄宅に戻ると、なかなか帰らないことに呆れられつつ、従兄手料理のオムソバを頂く。申し訳ない、お待ち遠さまのご馳走様でした(笑)。

とまれ短時間ながら良い歴史地理散策が出来た。村岡山城址は無名の山城にもかかわらず、確りと整備・説明がなされていたことに感心した。著名な如意ケ嶽(大文字山)城址や将軍地蔵山(瓜生山)城址を擁しながら、ほったらかしの荒れ放題にしている京都市も是非見習ってほしいと思う。

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2018年05月03日

代替豪奢

JR湖西線の特急車内よりみた滋賀県近江今津辺りの水田景

野営会・代替山会共に中止で……

今日予定していた恒例の野営会は、残念ながら荒天のため中止。そして、翌4日に予定していた代替の日帰り山会も中止となった。

よって、連休後半の初日ながら、今日は朝から仕事に。そして、一段落着いた夕方から急遽列車で福井へ向かった。二重の予定により事前に誘いを断っていた従兄家のバーベキュー会に参加することとなったのである。

場所は、今年の2月末に左義長祭でも訪れた福井県内陸の勝山。昔より改善されたとはいえ、うちから列車等で3時間程かかるため再度断ったが、「まだ間に合う」との誘いと、折角の連休なので向かうことにした。

市内の混雑を見越して自転車で京都駅まで急ぎ、列車や車を乗り継ぎ、20時前に会場宅に着いた。しかし、既に出来上がっていた面々に「遅い」と批難された。どうやら17時から始めていたらしく、連絡を取り合っていた伯母に騙されたようであった(笑)。

とまれ、一旦落ち着いていたものの、まだやっていたので、その後十分馳走にはなれた。


上掲写真: 福井へ向かい北上する列車の車窓から見た琵琶湖岸の平野。滋賀県北西部の近江今津を過ぎた辺り。方々で水田に水が張られ、田植えの準備が行われていた。今時らしい景色。


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車庫屋根の下で行われていた炭焼会の一景。炉は3台あり、これは最も小さいもの

豪勢な炭焼も偶には良し

毎年の恒例らしい従兄宅の炭焼会は、従兄夫婦を始め、その娘夫婦2組や伯母、従兄嫁の親類らがいて結構な大所帯であった。炉も3台用意されている。

比較的質素な野営会とは違い、豪勢で過剰にも見受けられたが、まあ、偶には悪くはないか……。とまれ、兄さん姉さん、そして皆さん、ご馳走様でした、有難う!。

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2018年04月07日

近代残影

舞鶴要塞の一部「葦谷砲台」へと続く山中の道と、巨木ある原始林

舞鶴への1泊行

今日は午後から知人の車に同乗し、京都府北部の舞鶴(まいづる)へ。

4月の新学期を前に、同地の友人を訪ねたのである。いつもながら機会や空を利用した急な行動となったが、友人もちょうど良い時期だったので、好意に甘え、1泊の訪問をさせてもらうこととなった。

舞鶴は京都市街から北へ100km程離れた海辺の港町。近年全通した高速路を辿って2時間程で到着し、別用のある知人と別れ、友人と落ち合った。

夕方ではあったが、まだ陽があったので、友人の提案で郊外山上にある砲台跡を見学することにした。舞鶴といえば、近代明治から昭和の終戦まで運用された軍港が有名である。

かつて日本海側における最重要拠点であったそれを守るために往時周辺が要塞化されたが、砲台はその一部であった。

これも予定にない急な参観となったが、近代遺産として興味深いものなので、期待して向かうことにしたのである。


上掲写真: 急遽向かった舞鶴要塞の一部「葦谷砲台」へと続く山中の道。そこには樹齢数百年とみられる樹々もある豊かな自然林が広がっていた。人家・街道から遠く離れた半島僻地のため元は人が入らない、入れない秘境だった証であろう。そんな場所に突如近代施設が他に先んじて設置されるとは誰が予想できたであろう。正に歴史のダイナミズム。


葦谷砲台の入口石組と内部施設
葦谷砲台の入口石組と内部施設

旧舞鶴要塞「葦谷砲台」跡

舞鶴東郊を北上して山中に入り、幾つか隧道を潜って、やがて林道の果てのような場所に辿り着いた。そこから先は道が荒れ、舗装もなくなっていたため、車を降りて歩くことになった。

ここ暫く随分な陽気が続いていたが、今日は一転して寒さが戻ったので、上着を着こんでの再出である。土道の林道を登るとやがて巨木ある自然林が現れたのは、前述の通り。

そして、下界の明るさが戻ったような山上に到着すると、石組等が用いられた大規模な人跡が現れた。葦谷砲台跡である。砲台は舞鶴東部の標高200m超の山上を大規模に改変して設けられていた。


葦谷砲台内の井筒状遺構
葦谷砲台内の井筒状遺構

山上を刳り抜いて造られたとみられる砲台は、正にこれ一つが堅固な要塞であった。石組や煉瓦の質や施工状態は、地方の僻地とは思えぬほどの抜かりないものであった。

舞鶴市の説明によると、明治30(1897)年に着工し、同36(1903)年に完成して、その後、終戦まで運用されたという。明治36年といえば、彼の日露戦争前年である。迫りくるロシアとの対決に備え、急ぎ整備されたに違いない。

写真は花崗岩で造られた井筒のような設備。弾薬庫らしき施設前にあり、中に水が溜まっていたが、内部が井筒より広いため、井戸型をした貯水槽とも思われた。とまれ、伝統と近代の技術を組み合わせた明治の日本らしい、精緻な設備である。


砲側にあった待避所とみられる堅固な施設
砲側にあった堅固な施設

後方にあった弾薬庫とは別に、前方海側には待避所とみられる堅固な施設が点在していた。施設の合間には砲座跡らしき窪地や砲座用の構造を持つ石組側壁が設けられていた。


葦谷砲台の下部砲座と待避所前方を守る土手上に広がる海の見える平坦地
下部砲座と待避所前方を守る土手上に広がる、海の見える平坦地

施設の横、砲座の前方にある土手の階段跡を登ると海が見える平らな場所があった。下の砲座や施設を守りつつ状況を窺える造りである。


葦谷砲台の上部砲座跡

そして、平坦地の後方一角には写真の如き別の砲座跡が現れた。それは確認出来ただけで3座あり、水平射撃用の露出砲台のように思われた。下部の砲台は、角度撃ちで榴弾を飛ばす28サンチ砲用か。


葦谷砲台の上部砲座横にあった観測・指揮用と思われる施設跡
上部砲座の1つにはこのような待避所が併置されていた。観測・指揮用の施設か


葦谷砲台の上部平坦地より日本海(若狭湾)をみる
葦谷砲台の上部平坦地より日本海(若狭湾)をみる

葦谷砲台の位置は舞鶴湾口の東側にあり、湾内に侵入する艦船を迎撃出来る場所にあった。似た条件の場所が幾つもあるなかで、艦砲攻撃や陸戦攻略が難しいこの場所が選ばれていることに、ただただ感心。


葦谷砲台から続く尾根上にあった人為的窪地

ただ、少し海から遠く感じられたので、平坦地から前方に続く尾根を辿って他の施設を探してみた。

山中の畑や電波塔を過ぎ、約200m離れた森なかの小頂部に至ると、やはり人為的な窪みと石材等が見つかった。樹々が無ければ平坦地側より良く海上が観察出来るため、別の砲座か観測所の跡かと思われた。

その他には、平坦地の直下、畑の手前に土塁に囲まれた広い平坦地があり、何かの施設跡である可能性が感じられた。


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舞鶴湾口の夕景

明治150年に相応しい参観終了

やがて陽も陰ってきたので、引き返すことに。急ではあったが思わず近代遺産に触れることが出来て良かった。明治150年の年に相応しい参観である。

しかし、重機や自動車が無かった明治期に、よくもこんな僻地・高地にこれだけ重厚な施設を造れたものである。しかも短期間に。立地選定を含め、これも近代西洋を猛追する日本の姿が垣間見られるような遺構であった。

その後、市内に戻り、友人宅で手料理等を頂きながら積る話に花を咲かせた。友人はこの春転居しており、その新居がまた軍港時代に関連する興味深い遺構でもあった。

色々な体験を有難う、感謝!

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2018年03月29日

讃岐桜行

金刀比羅宮の銅鳥居と桜

四国・香川への小旅行

今日は日帰りで四国に出かけることにしていた日。

これまで行ったことがない香川県内の、こんぴらさんや城郭、うどん店等を巡る予定であった。交通手段は列車で、新幹線や特急を使わない旅程ながら、快速や瀬戸大橋等のお蔭で、比較的時間に余裕も得られた。

逆に言うと、宿や列車の手配が不要で、気軽に行けるために企画した小旅行であった。ただ、時間節約のため、早朝から動かなければならず、予想外の混雑にも遭遇し、2時間程座れないことなどもあった。

とまれ小時より列車に乗ること自体が好みであり、知らない地に行けるのも楽しみであった。折よく快晴と温暖な気候に恵まれたのも、また幸い。


上掲写真: 「こんぴらさん」こと金刀比羅(ことひら)宮の銅鳥居と桜。京都市では昨日満開宣言が出されたが、四国北部も花盛りであった。


瀬戸大橋線の車窓からみた瀬戸内海と島々
児島(岡山)発、琴平(香川)行の列車から見えた瀬戸大橋と瀬戸内海

乗り換えは大阪と姫路、岡山で行い、岡山からの瀬戸大橋線では本州最後の児島でまた乗り換えた。こんぴらんさんの最寄駅・琴平(ことひら)行きの列車と連絡していたからである。

朝6時過ぎの出発にもかかわらず、意外にも長い区間混雑しており、驚く。早朝から長距離通勤する人が多いのである。特に大阪方面から姫路へと向かう人が多いことに驚いた。帰りは早く退社出来るのであろうか。

また、姫路からの列車も混んだが、これは都市圏際の不便であり、観光客等の集中によるものであった。そして岡山からは比較的穏やかなものとなり、琴平行の列車も何処か長閑な感じで瀬戸大橋を渡り始めたのである。


瀬戸大橋と瀬戸内海の島を連絡する車道
同じく瀬戸大橋上から。途中にある島の家屋や、そこと橋の車道を繋ぐ連絡橋が見える。開通から今年で30年。島の暮しはどう変わったのであろうか


瀬戸大橋線からみた四国坂出のコンビナート「番の州臨海工業団地」
そして、間もなく四国側の坂出(さかいで)にコンビナートが見えてきた。「番の州臨海工業団地」と呼ばれる香川随一の工業団地である。瀬戸大橋線もそこに接するが、瀬戸内横断は意外にも短時間であった。距離は10km程なので、そこに達するまでの岡山・児島間の方が数倍距離がある


土讃線の金蔵寺駅(香川県)
四国に入り、宇多津、丸亀、多度津等の沿岸主要駅を過ぎると、列車は讃岐平野内陸へと進み始めた。やがて現れたのが、この金蔵寺駅。棕櫚生える南国風情に溢れた地方駅だが、傍らに智証大師円珍の生誕地を示す石碑があり注目する。天台座主であり、寺門派の祖となった円珍は、なんと競合一派ともいえる真言宗祖で同じく讃岐出身の空海の甥であった


児島からの列車が到着した琴平駅

金刀比羅宮

そして10時40分、琴平駅着。快速・普通のみの利用としては、京都から4時間半という、まずまずの早さ。古い駅舎を改装した真新しい琴平駅には少々古めかしい色合いの電車から、観光客と思しき多くの人が降り立つ。


桜咲く琴平駅前
琴平駅前と金刀比羅神社がある象頭山(ぞうずさん)。駅前にも寄進された石灯籠が並び、金比羅信仰の厚さが感じられる


金刀比羅宮の石段開始箇所

駅前通りと商店街を経て神社直下の表参道に至る。

そう、ここからは山の中腹にある本殿まで続く彼の有名な石段が始まるのである。写真のここは表参道最初の石段。両側には参拝者向けの土産や飲食の店が続く。


金刀比羅宮の石段参道と桜
聞きしに勝る立派な石段が続く金刀比羅宮表参道。傾斜も徐々に強くなってきた。参道脇の方々で桜をみたが、開花状況は意外と満開手前で、京都と同様に感じられた。土産店の奥から聞こえた店と客の会話によると、今年は当地もかなり寒かったらしく、若干遅れ気味となったのかもしれない


金刀比羅宮の石段参道脇の屋根付石塀
金刀比羅宮参道脇にあった石塀。「布積(ぬのづみ)」と呼ばれる一般的な工法ながら、長い石材を傾斜地に積み、大きな笠石を設けているのが珍しい。崩れやすい工法・条件なので見えない場所に何らかの対策が施されている筈である。なお、笠石は継ぎ目のない一枚板という豪勢な仕様


金刀比羅宮の旭社社殿
金刀比羅神社本宮下にあった旭社(あさひしゃ)。幕末築の豪壮な建築で、重要文化財に指定されている


金刀比羅神社本宮前の最後の急段
旭社の横には本宮へ至る最後の急段があった


金刀比羅神社本宮
金刀比羅神社本宮

最後の急段を上がりきると金刀比羅宮中核の本宮前に到着した。石段総数は785段とのことだが、個人的には疲労を感じることはなかった。この先最後の奥宮まで進むと、その倍近い石段数になるというが、昨年の台風被害により道が閉ざされており、行くことは叶わなかった。


金刀比羅神社本宮と南渡殿
金刀比羅神社本宮(右)と、そこから隣地の三穂津姫社まで続く南渡殿(左)。本宮の左横を見た格好だが、かなり凝った造りとなっている


金刀比羅神社本宮南側壁の蒔絵
金刀比羅神社本宮の南側壁(正面向かって左側)には豪華な蒔絵がみられた。樹幹に金、花弁に銀を使った桜で、これほど大きく、高く盛った高蒔絵は見たことがない。但し、残念ながら花弁の銀は黒化している


金刀比羅神社本宮横より見た讃岐平野や讃岐富士
高所にある金刀比羅神社本宮横の広場からは、讃岐平野や讃岐富士(左奥)が一望できた。讃岐平野は南の山脈が吐き出した砂礫により瀬戸内が埋まって出来たらしく、象頭山と似た小山が無数に点在する特徴を有している。小山はサヌカイト等の火成岩で出来た残丘で、元は島だったという


旧金毘羅大芝居
旧金毘羅大芝居正面

大きな平坦地に社殿が並ぶ本宮区域を参観後、元来た道を下る。麓近くでは参道を逸れ、有名な「旧金毘羅大芝居」を見学した。幕末に建造されたという現存最古の芝居小屋である。但し、興行準備のため、中の見学は叶わなかった。

そういえば、帰途寄るつもりでいた金刀比羅宮の書院見学を失念してしまった。神社の案内にも「帰りにどうぞ」みたいなことが記されていたが、下山者の目に付きやすい案内がなく見過ごした。対策すれば参観者が激増するように思われるが、如何であろう


桜と琴平町公会堂
未だ現役の文化財級建築「琴平町公会堂」

旧金毘羅大芝居への途上に興味深い古建築があったので帰路寄ってみた。「琴平町公会堂」という昭和初年築の大型和様建築で、現役の公会堂という。これも文化財級の存在


大手から見た桜咲く丸亀城
丸亀市街中心に聳える石垣の名城、丸亀城

丸亀へ

金刀比羅宮の表参道を下り、繁華街の外れでうどん店を見つけ、本場讃岐うどんを初体験したあと、列車で沿岸部の丸亀に入った。

時間を有効に使うため、駅前で自転車を借り、先ずは市街中心に聳える丸亀城に向かう。丸亀城は17世紀初期に築城の名手・山崎家治が再建し、その後、元近江北半守護家の京極氏が長く治した城として知られる。

特に総高日本一とされる高石垣が有名で、駅前から見ても、その威容が目を惹く。本来は亀山という天然の小山を利用したものらしいが、その気配はなく、全てが人造的に感じられるという、特異な平山城である。


丸亀城大手一の門の櫓内
丸亀城「一の門」の櫓内

丸亀城では大手門にある「一の門」の櫓が公開されていたため、参観した。17世紀後半の建造とされ、江戸初期の城郭建築の実態を今に伝える。


丸亀城の高石垣
美しい丸亀城の石垣。この部分だけで20m以上の高さがあるという


丸亀城天守閣
古格遺す丸亀城天守閣

各郭を経由する登城路を登りきると天守閣が見えた。四国最古の現存天守で、17世紀半ばの築という。高さは15m、標高66mの本丸上に聳える。


丸亀城本丸よりみた讃岐平野と象頭山
丸亀城本丸からみた西方の讃岐平野と象頭山(左奥)。即ち、先程登った金刀比羅宮の所在地


丸亀城本丸より見た丸亀港と瀬戸内海
こちらは北方、丸亀城本丸より見た丸亀港と瀬戸内海


丸亀城本丸からみた坂出方面
続いて東北、丸亀城本丸からみた坂出方面


丸亀城本丸からみた瀬戸大橋
前掲画の拡大。瀬戸大橋が見える


丸亀で食べた讃岐うどん
丸亀で食した本場讃岐うどん

丸亀城址見学後、丸亀市街にてまた讃岐うどんを食す。予備知識無しで目についた店に入ったが、麺・つゆともに美味であった。しかも安い!

うどん目当ての場合は、本来なら朝郊外を巡らないといけないようだが、欲張った旅程なので、まあご諒解あれ……。


丸亀港の太助灯籠
旧丸亀港にあった、幕末の豪勢な銅製寄進灯籠「太助灯籠」。丸亀での滞在時間は少なかったが、自転車の機動力を活かして城や海辺を巡った


高松城址の石垣と琴電
高松城址の石垣と私鉄「琴電」の車輌

最後は高松から帰路に

最後は、また列車で香川の中心都市・高松まで移動。県庁所在地らしい、垢抜けた市街を巡り、また讃岐うどんを楽しむなどする。

食後、高松城址の傍を通るなどして市街を見、その後、岡山行の列車に乗り帰路に就いた。山陽線の事故で20分近く列車が遅れるなどしたが、2度の乗り換えを経て無事京都に帰着した。

列車の時間に気を取られた旅ではあったが、色々と堪能出来たとは思う。何より、旅費が全て込みで3000円程となったことも愉快であった。

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2018年02月26日

雪寒如夢

福井平野南部の雪景色と日野山

豪雪の名残を見つつ祭より帰る

越前勝山での左義長祭観覧から一夜明けた今朝。

福井駅前の職場まで仕事に向かう従兄嫁の車に同乗させてもらい、駅へと向かう。素晴らしい快晴で、心配していた降雪もなかったが、予報通り、その気温は低いものであった。恐らくは氷点下数度程ではなかろうか。

道路上には薄っすらと白い霜も見え、用心が必要な程。車内に暖気が満ちるまで、手袋・耳当て等の全てを着こんだ。山上を通る新しい高速から望める、信じ難い一面の雪景色を眺めつつ、西行40分程で駅に着いた。今回の滞在と歓待共々、従兄嫁に礼を言い、下車した。

福井からは列車でひたすら南下。往路の一昨晩には見え難かった、嶺南(福井県東部)一帯を覆う豪雪の残りを目にすることが出来た。写真は車窓より見た福井平野南部に聳える日野山(ひのさん。794.4m)。列車での道中いつも気になる山であったが、それもまた然り。

豪雪以降は一度少々降ったくらいの筈だが、山だけでなく平野もこの通り。内陸豪雪地として知られる勝山同様の姿であった。


雪に埋もれた今庄駅
福井平野南の谷地で嶺北(福井東部)最後の平地となる今庄の雪景色。標高は120m程で高くはないが、ここも有名な豪雪地。勝山・大野等の内陸同様、国から「特別豪雪地帯」の指定を受けている。写真の場所は駅構内なのだが、ホーム(不使用部分)共々埋もれている


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福井から山越えして達した滋賀北部「近江塩津」の雪景色。一面に雪が残るのはこの辺りまでか。中央奥に琵琶湖の水面が光る

今朝の厳寒・深雪も夢の如し

列車は福井を抜け、やがて滋賀に入る。雪は徐々に少なくなり、琵琶湖西岸に達する頃には山上のみとなった。

そして、滋賀南部でいよいよ京都に接近すると、全く消え失せてしまった。陽射しが強いばかりでなく、気温も高い。今朝の厳寒や深雪は、皆夢の如くに感じられたのであった。

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2018年02月25日

奥越観祭

勝山の旧町家域に立てられた左義長祭の竹飾り

昨夕の帰着地・目的は……

昨日の若狭三方(わかさみかた)行の帰路、突如友人と別れ、独り列車で東へ北へと向かったが、その到着地は越前勝山(かつやま)であった。福井県内陸部、所謂「奥越地方」に在る、河谷平野の街である。

実は昨日から同地で全国的にも有名な「左義長祭」が行われており、その観覧に来たのである。親戚が在住していたので小時から勝山には馴染みがあったが、休暇の時期ではないこともあり、今まで観たことがなかった。

今回、三方行で県内に入ったのでいい機会だったが、友人を忙しくさせるのも悪いと半ば諦めていた。しかし、帰路本数の少ない小浜線の列車に折よく乗れたため、急遽向かうこととなったのである。宿は事前に勝山の従兄夫婦からの誘いがあったので問題なかった。

ただ、同じ県内でもやはり若狭から奥越までは遠かった。16時前に列車に乗ったが、待ち時間等も長く、結局20時過ぎの勝山着となった。それには最後に乗った「えちぜん鉄道」が信号故障で長く停車したことも響いた。

しかし、従兄宅では所用で来ていた伯母共々歓待してもらい、楽しい夜が過ごせたのである。


上掲写真: 越前勝山市街の旧町家域に立てられた左義長祭の松飾り。各町にあり、御神体される。


勝山市郊外にある家の残雪
勝山市郊外にある家の残雪

勝山にみる「30豪雪」の痕跡

福井県嶺北地方(県東部域)の残雪の多さは、昨晩でも判ったが、朝起きてその凄さを実感。従兄宅は玄関前や道路こそ除雪されているものの、周囲は最大2階まで達する程の雪で埋め尽くされていた。

周囲の畑や山を見ても全てが白で覆われる真冬景。春の兆しが感じられる京都から直線150kmもない地のこの有様に、ただ唖然とするばかりであった。

嶺北で記録的降雪「平成30年豪雪」があったのは、もう2週間以上前のことだが、未だにその時の残雪が残っているのである。降雪時は除けても除けても間に合わず、玄関前も塞がれていたらしい。

1階の居間の窓は雪の壁で外が見えず、昼でも暗い状況だったので、午前中にその除去を少々手伝うこととした。昨日は殆ど役に立たなかった冬山用の手袋や雪靴が威力を発揮するも、やはり大変な作業であった。雪が柔らかい降雪時などは更に大変かつ危険であったろう。

僅かながらも、雪国の苦労をこの歳になり初めて体感出来た。


勝山旧市街の寺前を塞ぐ残雪
勝山旧市街の寺前を塞ぐ残雪。折角の祭日なのに参拝は無理そうである


上で三味や鉦、下で太鼓が演奏される勝山左義長の櫓

勝山左義長見物

午後からは伯母や従兄夫人に連れられ、いよいよ左義長見物に。

旧正月を締めくくる行事、左義長は全国で見られるが、越前勝山のそれは、旧城下の各町毎に12の櫓を建て、笛や鉦・太鼓・三味線等で軽快な演奏を披露しあうという。

特に、その際の「浮かれた様」が特徴的らしく、奇祭とも呼ばれているとのこと。写真はそんな櫓の1つで、上では三味や鉦、下では何やら滑稽な仕草による太鼓演奏が行われていた。


左義長祭の見物客で賑わう旧城下の商店街
左義長祭の見物客で賑わう旧城下の商店街。果てに聳える雪山が北国風情を高める


左義長祭で最も演技力が高いとされる櫓の演奏
左義長祭で最も演技力が高いとされる櫓の演奏。戯れ歌めいた歌唱がつき、楽しく続けられる。確かに玄人並であった


近世作と思しき左義長櫓の破風部分
櫓は最近新調されたものが目に付いたが、中にはこの様に近世作と思しき物もあった。近年の物も確り作られているが、やはり昔の造りは一味違って感じられる


勝山駅前の橋上からみた大日山(だいにちさん。中央奥。1368m)
途中、九頭竜川の橋上からみた大日山(だいにちさん。中央奥。1368m)。「ふるさとの山」的存在か。途方もない量の雪に覆われている


雪残る勝山市郊外の夜の歩道

冬との別れ「どんど焼き」

さて、親戚共々、櫓見物や露店飲食等を楽しんだが、一旦帰宅後の夜、また出かけることとなった。

それは、午後8時から九頭竜川の河原で行われる「どんど焼き」を観るためである。気温も低く、年配のため伯母等は在宅で、私のみ出向くことにした。そして、写真の如く雪残る夜の歩道を歩きゆく……。


勝山弁天河原でのどんど焼き

勝山駅前を流れる福井県最大の川・九頭竜川。駅対岸にあるその「弁天河原」にてどんど焼きが行われていた。

越年の飾り物等を焼いて、正月をしめる行事である。昔は日本全国で見られたが、我々の世代、特に都市住民はそれを知らない。

勝山のそれは、雪国らしく雪上にて、昼間見た松飾り等が燃やされていた。


どんど焼きの火の傍で棒の先に餅を付けて控える人々

周囲に目を凝らせば、棒の先に餅を付けた人たちが控えていた。焔が落ち着いたのちに、炙って食すのである。これも、昔親から聞いた話と同じ。昔の日本の正月に普遍的な習慣・光景であろう。

地味な行事ではあるが、こうして実際に観ることが出来て良かった。


どんど焼き後も続く左義長櫓での演奏

やがて、どんど焼きの火が小さくなり人も疎らに。

河原を離れ、旧城下から従兄宅に帰ろうとすると、意外にも櫓での演奏が続けられていた。観客も殆ど去ったなか、老若男女実に熱心で、今日で祭が終り、明日から平日の日常が始まるとは思えないほどであった。

その様に、祭の原姿のようなものが見えて、少々嬉しく感じられた。


終り近づく、どんど焼き後の露店
祭の露店もそろそろお開きか


どんど焼きの晩に勝山の街角でみた雪人形
帰路の街角で見つけた雪人形?愛らしく、面白い

暗い街外れを辿り、従兄宅に戻る。今日はもう列車がないので、明日の早朝帰京することとなったが、気温低下の予報と雪を気にする。

しかし、勝山人である従兄夫人は、左義長後は大した降雪はないと言い切った。そう、左義長は寒冷の底・旧正月の終りと春を告げる祭でもあった。長い経験に裏打ちされた祭と土地人の言葉に納得し、気を休めることにした。

今日は、この雪国にも冬との別れが来たことを感じた貴重な1日となった。

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2017年09月09日

畿央水跡行

紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,巨椋池の蓮の花」

近畿中部の水集めた池跡へ

数日前に急に決まったのだが、友人と旧巨椋池(おぐらいけ)跡を巡ることとなった。

巨椋池とは、京都府南部に昭和初期まで存在した池。その昔「大池」と呼ばれ、東西4km、南北3kmという広大な面積を有した。琵琶湖からの宇治川、丹波山地からの桂川、伊賀高地からの木津川という、淀三川が流入して出来た近畿中部の一大低湿地であった。

今日は水辺観察をライフワークとする友人に誘われ、その痕跡を辿る。巨椋池がはっきり描かれた明治中期の仮製地形図を所有している関係等で、以前から平会(ひらかい)開催を考えていたので、その下見も兼ねることとした。


上掲写真: 嘗て巨椋池の名物だったという蓮の花。東一口集落近くの旧池底の栽培地にて。そろそろ散り時か。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,高架化した京阪淀駅」
首都圏の高架駅の如き様に生まれ変わっていた京阪淀駅

三川の要地・淀から出発

友人とは京都市街南郊の京阪淀駅にて待ち合わせることとなった。かの淀競馬場で有名な地である。その人出のお蔭か、以前は旧市街に埋もれるようにあった古い地上駅は、大規模な高架駅に建て替えられていた。

高架化したことは、大阪への往復等で以前から知っていたが、降り立つのは10年ぶりだったので、少々驚く。落ち合った友人も同様の感慨をもったようである。

淀は、巨椋池の西北にある三川の合流地で、近世初頭の城下町整備等で池とも深い関りを有しており、至る所に水の痕跡を持っていた。今回は地域の中核都市であったここから探索を始めたのである。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀小橋増築碑,石碑,宇治川旧路拡幅」
淀駅と納所(のうそ)集落の間にある「淀小橋増築碑」

友人共々出発すると早速曰く有り気な石碑が現れた。読むと、宇治川にあった淀小橋が明治初期の河川拡幅時に延長されたことを記念するものであった。

そう、今では想像もつかないが、嘗てはこの付近を宇治川本流が流れていたのである。淀小橋とは淀城下北方の納所と城下を繋ぐための、北の玄関橋であった。

市の碑文解説によると、橋の旧台石を材料としているとの伝承があり、元は淀城址に置かれ、再開発を機に小橋跡近くのここに移されたようである。

しかし、美麗すぎて複製のようにも見える。再設置を前に洗いや研磨が行われたのであろうか。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀納所の唐人雁木旧趾石碑」
淀北方、旧京街道に立つ「唐人雁木旧趾碑」(左下)

友人は先ず宇治川旧路跡を見たかったらしく、その為の目印として淀小橋跡を探した。

その為に、基準となる納所の「唐人雁木(とうじんがんぎ)跡」に至る。駅前の納所交差点から千本通(旧京街道)を北に入ったすぐの場所で、堤防跡を想わせる坂上に碑が立っていた。

唐人雁木とは、近世以前に、船で淀川を遡ってきた朝鮮通信使等の外国使節が上陸した船着き場である。石段による接岸設備「雁木」があったとされる。

即ち納所の交差点辺りは川底で、石碑辺りに雁木があったのであろう。現在は車道用に坂が交差点まで均されているが、本来は石碑辺りで河岸となっていた筈である。

とまれ、ここの東隣りにあった小橋跡を探す。古図では京街道はここで雁木と接しつつ一度内陸側に折れて再度鉤形に折れて河岸の小橋と接続していた。戦時を意識した遠見遮断の一種であろう。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀小橋旧趾石碑」
背後を国道で切られた狭い台地際に立つ「淀小橋旧趾碑」

淀小橋と宇治川旧路跡

古図と現代図の両方を参照したが、小橋の位置は意外と判り辛い。後で通された京阪国道の切通し等が判断を狂わせていたのである。

今に残る古道を丁寧に辿り、漸く住宅街にて小橋と河岸の跡を発見した。岸上との高低差はかなりあり、正しく旧路の趣である。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀駅前に残る宇治川旧路跡の落ち込み」

幻の小橋を渡るように、今は宅地の河跡低地を進む。そして、間もなく先程居た「淀小橋増築碑」前の駅前通に出た。

写真は駅前通と旧路の段差。ここが小橋の南袂かと思ったが、「旧趾碑」と「増築碑」がちょうど碑文に記された拡幅寸の166mとなることが帰宅後の図上計測で判明した。

駅前通整備の為に一部埋められたのか。しかし、拡幅を反映している古図を見ると、南袂手前の数10mに水の描写がない。よって、この段差は拡幅前の河岸を継承したものとの想像も出来た。

それにしても、増築碑は古図が示す南袂そのものに置かれている。対岸との角度も正確。再開発の余興で適当に置かれたのかと思ったが、密かに心憎い処置が施されていた。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀城下、大坂街道裏の段差,堀跡,堤防都市」

宇治川旧路判明後は、駅南の旧城下を通って巨椋池を目指す。

淀は中洲に作られた島状の都市。水辺の痕跡に満ちた場所なので、友人の希望で城下周縁を歩く。

宅地化が進んでいたが、やはり街外れには湿地跡らしき原野もみられた。淀の東から東北にかけては巨椋池からの唯一の流路があり、淀小橋東手前で宇治川と合していた。

写真は、淀城下の裏道から見た城内を通過する街道沿いの古い町家と向かい側敷地端の段差。街道は城下の主要道かつ繁華街でもあり、西側には水濠もあったので、水害や防御への対応か土手状となっている。

淀とその近辺の古い集落には同様が多くみられるので、私は以前から淀を「堤防都市」として認識している。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀・川顔集落裏手に残る木津川旧路」
川顔地区裏手の近世木津川の河岸跡

淀城下を南へ進み、巨椋池からの旧流路で江戸前期までの木津川本流跡でもあった堀を渡り、南郊の川顔(かわづら)地区にでる。

ここも堤防街で、北は江戸初期まで淀城本丸近くに接していた木津川、南は明治初年までの同川河岸だったという興味深い地区。写真は道路両側に家が並ぶ地区の南側で、即ち江戸期の大半ここにあった木津川の北岸。

10年前に来た時は古い町家が多くの残る場所であったが、今回は建て替えや廃滅状態が多くみられた。残念。一応ここまでは京都市伏見区。これも京都の文化財の消失といえよう。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀府道15号線よりみた旧木津川・淀大橋の城下側袂部分,大橋辺」

近世の長橋「淀大橋」跡

川顔地区の西北には、淀城の南出入口となる淀大橋の北袂跡があった。

写真は近世木津川跡を走る府道15号線からみた大坂街道。登坂となっている道奥が、川顔の道と交わる城下の主路端で、京街道・伏見街道との接点であり淀大橋の北袂であった。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,淀府道15号線よりみた旧木津川・淀大橋跡の八幡側,大橋辺」
近世の木津川川底跡であり、淀大橋跡をなぞる道

そして、反対方向を見ると、先が見え難いが、この先の堤防集落・美豆(みず)に淀大橋の南袂があった。即ち、この道は嘗ての橋跡をなぞる。今では信じ難いが、近世ここに全長約300mもの木造橋がかかっていた。

因みに、この辺りの字名は「大橋辺」。現町名にも引き継がれている。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,府道淀大橋上からみた宇治川現流路」
府道15号線を南へ下がり、現代の淀大橋を渡って出会う現宇治川

今日は穏やかだが、ダム制御等の近代治水がない時代での荒れを想うと恐ろしい。20世紀初頭まで、ここには川顔から続く北川顔という堤防集落があったが、宇治川の付け替えにより大半が消滅した。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,現宇治川堤防上よりみた巨椋池方向の東一口集落と排水機場」
宇治川堤防から見た巨椋池排水機場(左端)と東一口集落(中央)

巨椋池へ

宇治川を渡り淀を離れる。南岸の堤防から競馬場や山城盆地全景を眺めつつ、東へと向かう。天気が良いのは有難いが、予報通りの暑さに見舞われる。

強い日射しに耐えつつ橋の袂から2km程歩くと、南眼下に目的の東一口(ひがしいもあらい)の家並が見えてきた。旧巨椋池の水が流れ出す唯一の「口」に隣接した集落である。難読地名として全国に知られたその名の由来は所説あって定かではない。

また、集落の左右には大型の建屋があり、左は巨椋池排水機場、右は久御山排水機場と記されていた。遮水と排水により干拓された(されている?)巨椋池を象徴する施設であり、地区存立の基幹的存在である。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,堤防(縄手)上に続く東一口集落」
旧巨椋池の池中へ伸びる堤防路両側に家が並ぶ東一口集落

東一口も堤防集落であるが、「大池堤」と呼ばれる池中を横切り淀と宇治・城陽方面を連絡する特殊な通路兼用堤(縄手)に存在する。

同様のものに向島(むかいじま)と小倉(おぐら)集落を結ぶ大和街道(縄手通)とそこに置かれた西目川と三軒家集落があり、同じく伏見城下の整備に伴い16世紀末に豊臣秀吉により築かれたとされる。

それ以前は小倉同様に巨椋池に突き出た半島上に「一口村」として存在したらしく、築堤後、旧地は西一口となり、東一口が分離新設されたという。半島側は孤立水域となった為、舟運・漁業民を縄手へ移したのであろうか。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,東一口集落の民家裏の段差に残る旧巨椋池の痕跡」
東一口集落の町家奥に見える池側との段差


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,東一口集落のなかで威容を誇る旧山田家住宅」
東一口集落内で威容を誇る、旧山田家住宅の長屋門と切石積みの漆喰塀

巨椋池の重鎮・山田家住宅

東西方向へ1q程も続く東一口集落を進むと、その中程で突如城塞の様な家屋が現れた。

池中の辺鄙、しかも個人宅ながら、ただならぬ威容を誇るのは旧山田家住宅であった。巨椋池西岸の御牧郷(みまきごう)13カ村と巨椋池漁業を取りまとめた元の大庄屋家で、今日の重要な目的地の一つである。

国の有形文化財にも指定されているここは、当地を管轄する久御山町に寄贈され、修繕を経た今春から一般公開が始まっていたのである。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,旧山田家住宅主屋玄関」
旧山田家住宅主屋(しゅおく)の式台付玄関

周囲より更に高く造られた山田家に、豪壮な長屋門をくぐり入る。受付にて小額を払うと係の人から主屋の説明を受けた。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,旧山田家住宅主屋座敷」
主屋内部北側。3間続きの畳部屋で、北面する縁側越しに庭園と接する

建屋は長屋門と主屋が現存しており、共に江戸後期の1800年前後の建造という。主屋は南半分が近年の改築を受けており、現在の公開は北側に限られていた。

巨椋池漁業との関連を窺わせる鯉や網代柄の欄間彫刻や京狩野絵師による襖絵もあった。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,」
旧山田家住宅の庭園。奇岩・貴石が多く使われている。嘗て塀の向こうに巨椋池の広大な水面が見えたという


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,旧山田家住宅敷地内に残る蔵跡」
旧山田家住宅敷地内に残る道具蔵・衣装蔵・味噌蔵跡地


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,旧山田家住宅長屋門内に展示されている近世初期の巨椋池の堤図」

長屋門内では、嘗て巨椋池漁業で使われていた漁具や巨椋池に関する展示が行われていた。

写真は、近世初期、即ち豊臣政権が改修した頃の堤防や巨椋池・周辺河川等を示した図。中央の大きな水色が巨椋池で、その左右に池中を渡る大池堤や大和街道(小倉堤・太閤堤)が太線で描かれている。

東一口は大池堤が巨椋池に入った辺りにある。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,東一口集落と旧山田家住宅を旧巨椋池側よりみる。」
巨椋池排水路の橋上より東一口集落と旧山田家住宅(中央)をみる

巨椋池復活時の証言得る

友人が蓮を見たいという為、一旦、東一口から干拓地へ下り、付近の栽培地へ向かう。その前に集落(堤)下で商店見つけたので、氷菓での一服をはかった。

店は堤下、即ち巨椋池の水際辺りにあったので、店番のおばあさんに訊ねると、池の記憶はないが、昭和28(1953)年の洪水は憶えているという。近くの宇治川の堤防が切れ、恰も巨椋池が復活した如き事態となった時のことである。

その時は店の1階は完全に水没したが、堤上の旧集落は無事であったという。店は写真の左端にあるが、その並びの家の2階下まで水が来たと考えると、往時の池を少し想像することが出来た。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,東一口から続く大池堤跡を踏襲した排水路堤防道と広大な干拓地を横切る京滋バイパス」

堤上に戻り、また東一口集落を東へと進む。

やがて外れとなり一面の田園地帯となった。戦中戦後の食糧増産期に年間4500tの収量を上げたという巨椋池干拓地である。一面の水面を作物の緑に変えるという干拓趣旨をみた。

堤の道は、その後も排水路の一つ「古川」の堤防と化しつつ続き、それを辿って巨椋池南岸地区を目指した。写真は堤の道(手前)と池跡を横切る平成の大縄手・京滋バイパス。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,巨椋池干拓地内に残る堤防跡?」
南へ進路を変えた古川の西に見えた、堤状の高まり

大池堤の西にあった中池堤の遺構かと思ったが、後で調べると距離が近く、違った。古図になく、詳細は不明。因みに、この付近の中池堤はイオンタウンや第二京阪道路となっていた。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,巨椋池南部・伊勢田付近に残る池畔微高地跡」

旧巨椋池南岸から東岸へ

旧巨椋池南岸の旧安田村辺りから進路を北東にとり、東岸は巨椋神社を目指す。

南岸辺りは市街地としての改変が著しく、巨椋池の痕跡を見ることは困難であった。ここが大池の水底であったことを自覚している住民はどれくらいいるのか、ふと気になる。

写真は唯一発見の推定痕跡。西小倉小学校の西隣の微高地で、明治図にある伊勢田西北にあった名木川(山川)辺りの堤跡かもしれない。付近には、明治図でこの辺りのみに記載されているのと同じ、茶畑の集まりも見られた。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,小倉堤(太閤堤)上の旧大和街道とそれを切り通す旧国道24号線」

巨椋池東岸の主要集落であった小倉にある巨椋神社にて休息後、大和街道を北上し、それが巨椋池を渡る場所を目指した。

写真は小倉からの街道が池中に出た辺りで、旧国道24号線によって寸断されている箇所。街道は一旦旧国道の路面まで下がり、また上がって京都方面へと続いているが、往時はそのまま堤防集落が続いていた。

この辺りの地名は「三軒家」。東一口同様の池上堤防集落で、今も道の両側に古い家屋が残っている。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,槙島西方で寸断される小倉堤」
旧大和街道の路盤(堤)の切れ目。干拓前は右の道がそのまま左へと続いていた

三軒家地区を北上すると、突如堤が切れ、屈曲下降を余儀なくされる場所に至った。高さ数mの段差となった北側下方には宅地が広がっていたので、干拓後の開発により撤去されたとみられる。

一応貴重な桃山遺構なのではあるが……。


紀行「淀と巨椋池干拓地を巡る,小倉堤下の巨椋池旧池畔部」
三軒家地区南裏の巨椋池池畔跡。ここも堤防集落だったことが明瞭である

下見行終了。池の広大と風光明媚を夢想

街道の切れ目より暫し広大な干拓地を眺める。堤の高まりにより、僅かながら往時の水面を想像することが出来た。洪水や水質の悪化がない時は、さぞや風光明媚な場所であったろうと夢想する。

今日の巨椋池巡りはこれにて終了である。もう一つの要地・向島等も観たかったが、徒歩の為、時間的・体力的に難しくなった。

広い場所のため駆け足的な踏査行となったが、中々興味深いものとなった。平会の下見としても、自転車の利用が有効であること等の知見が得られた。

しかし、暑かった……。だがお誘いは有難い限り。お疲れ様でした。

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2017年09月03日

続芹生避暑泊

紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,芹生集落内の美麗な灰屋川」

北山高地・芹生泊2日目

昨日1年ぶりに訪れた京都盆地北縁高地の芹生(せりう・せりょう)の宿。溜まった暑さ疲れや夕食による満腹の所為か、早めに寝たにも拘わらず、今朝は遅めの起床となった。

しかし、朝食は9時からにしてもらっていたので、特段慌てることもなく、ゆったり目を覚ますことが出来た。

京都市街近郊ながら、高地故に、昨夕から上着が要る涼しさ(寒さ?)。夜は外気温が測れなかったので、不明だが、昨夕既に縁側で10度台まで下がっていた。

女将さんが、「夜はもう寒い」と言っていた通り、恐らくは15度前後まで下がっていたのではなかろうか。


上掲写真: 今朝も綺麗な芹生の流れ。昨夕、足の疲れをとろうと素足を浸したが、痺れる程の冷たさで長く行うことは出来なかった。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,旧芹生小中学校前のブナの大木」
旧芹生小中学校前のブナの大木

朝食と散策

芹生の山菜や近傍産の野菜を中心とした朝食が、また素晴らしかった。了解を得ていないので、写真を掲げることは止めたが、有難い限り。そして、炊きたてのご飯に加えて、また栗ご飯を頂いた。

女将さんは頻りに「こんなもんしかないですが」と謙遜するが、いやいや、これこそ最高の食の一種なのである。是非、この素朴で奥深い味を末永く伝えてもらいたいと思う。

さて、食後はまた散策に。朝の芹生はよく陽が入り、清々しい限り。

また東方へ向かうと、小中学校跡前に聳えるブナの大木を発見した。何度も通った道だが、陽射しの所為か、今まで気付かなかった。幹の直径は1m程なので、樹齢300年程か。きっと廃校前は良い目印、象徴であったろう。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,芹生奥、灰屋川源流際の台杉」
去年も見たが、前記のブナに触発され今年も見に行った雲取山下の沢沿いの台杉(櫓杉)。周囲5m以上、樹齢500年以上か


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,灰屋川支流谷の林道上で動くもの」
未知の林道上に何やら動くものあり……

初めての遭遇

台杉の健在を確認後、引き返して、昨日の花脊道に入る。

やがて林道の分岐があり、未知たるそこを進んだ。昨日旧花脊峠へ行く際に見つけて気になっていたのである。地形図によれば、ここを登り詰めると旧山城・丹波国界の「城丹尾根」に達し、市街方面の展望や古道跡等が見られるかもしれないと思ったのであった。

しかし、道は水気が多く荒れ気味で、薄暗くあまり雰囲気が良くなかった。警戒した蛭はいなかったが、かわりに虻の攻撃に見舞われた。

暫し様子見と決めて奥へ進むと、前方に何やら動くものが……。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,灰屋川支流谷の林道上のうり坊」

何と、猪の子「うり坊」であった。

大きさは年若い猫程か。写真の如く、互いに目が合い、一瞬考えるような様子の後、危険とみたのか、道奥に走り去った。よく言われるように、うり坊の近くには親猪がいる可能性が高いとのことだったので、警戒するが見当たらず。

しかし、先程から感じていた雰囲気の悪さや親猪の危険性、そしてしつこい虻の攻撃により撤収することにした。

路面が方々で掘り返されていたのは猪の所為か。しかし、これまで山で数えきれない程猪の痕跡を見てきたが、初めて山中にてそれと遭遇することとなった。ただ、うり坊だったのは幸いだったのかもしれないが……。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,芹生の湧水」

もっと居たいが、また来年

散策後、宿に戻り休んだり、傍の沢で寛いだりしてゆるりと過ごす。昨年に同じく、女将さんの好意に甘えて、午後遅くまで厄介になり、芹生をあとにしたのである。

写真は、最後に汲ませてもらった集落内の湧水。山から直接出る水で、味は勿論、水質も良いものという。

1泊ながら、内容濃い避暑を楽しむことが出来た。しかし、毎度のことながら、振り返れば楽しいことは一瞬に思われる。もっと居たいが、致し方あるまい。また来年を楽しみにしよう。

宿の皆さん、そして芹生の諸々有難う!

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2017年09月02日

芹生避暑泊

紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,冷たい芹生の川,灰屋川」

北山高地での避暑泊再び

今週末は、京都盆地北縁の山間集落「芹生(せりう)」への1泊旅行に出かけた。

昨夏避暑旅行として初めて行い、今年も8月後半での再行を計画していたが、福井行等の影響により、9月最初の今日となった。

猛暑や熱帯夜からの気軽な避暑が趣旨。最近熱帯夜こそ落ち着き始めたものの、昼はなお強烈な暑さがあったので、一応名目は立つこととなった。

あと、避暑のほか、集落での見聞や宿の女将さんからの聞き取り等も深めたかったので、夏期のみの宿泊営業に間に合ったことは、喜ばしく貴重な機会ともなった。

本来は、去年の話等を聞いて興味をもってくれた友人らを加えて同行したかったが、日程が合わず、またの機会での実施となった。


上掲写真: 冷えた水を変化に富む山間の川筋に躍らせる芹生の沢。淀川水系桂川上流の灰屋川源流の清水でもある。即ち嵐山を越え、遥々大阪湾へと注ぐ水である。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,芹生の宿の庭」
芹生の宿庭と杉林

今年も去年と同じく、昼過ぎに現地入りした。

去年凄まじかった途中の貴船の混雑は、9月に入ったためか、かなりマシになっていた。今回は前回より天気が良く、市街では既に午前中からかなりの暑さとなっていたが、やはり標高600mの芹生は涼しかった。

女将さんに挨拶し、部屋に荷を置き、早速散策に出かけることとした。本当は、まだ登ったことがない最寄りの雲取山(911m)に行きたかったのだが、山蛭の最盛期なので、近辺の古道散策にした。

向かったのは芹生東方で灰屋川源頭向こうの旧花脊峠(約750m)。鞍馬とその北方山間の花脊や広河原、そして遥か若狭の海辺を結ぶ要所である。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,芹生・花脊間の林道の峠」
芹生と旧花脊峠を隔てる峠の尾根(中央)を切り通す林道

旧花脊峠方面を初散策

灰屋川に沿って続く林道を東へ進む。途中までは去年来たが、その先は初めてである。川筋は浅い谷地となっており、所々に水路跡等がみられる、耕作や居住可能な平坦地を目撃した。

道は未舗装ながら悪くはなく、小型の作業車等なら走行可能な状況である。そして道は源頭近くで勾配を強め、やがて花脊側の尾根を越える。写真はそれを東から振り返ったものである。

道は尾根を切り通して付けられており、東側は道が分岐し、車輌が転回可能な程の広さを有していた。以前何か作業でも行われた跡であろうか。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,旧花脊峠の大木と祠」
昔日の山間要地「旧花脊峠」

そして、緩やかな下りを降りると、間もなく大杉と祠がある旧花脊峠に到着した。芹生からゆっくり歩いて1時間程、約3kmの距離であろうか。

車行用の改修は受けているが、祠の存在や未舗装の様は戦前的風情を保って興味深い。主要路の峠は戦後の改修で大きく姿を変えることが多いが、峠の場所が変更された為、珍しくも残ったのであろう。今後の保存と活用を期待したい。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,花脊・天狗杉山頂」

さらに巨木?

旧峠は芹生への分岐を擁す丁字路となっているが、分岐の対面山肌には山道があり、東方山上へと続いていた。傍にあった案内板には「天狗杉」との説明があったので、近くに巨木があるのかと思い、一先ず登ってみる。

人通りはないが、頻繁な通行の跡をみる急傾斜の道を進み、やがて雑木林の山頂に着いた。眺望はないが、ちょっとした広場状となっており、周辺の樹々には天狗杉の名と837mの標高が記されていた。

どうやら、天狗杉とは巨木ではなく、山の名前だったようである。ただ、なだらかな山容なので、嘗て大木があったのかもしれない。

ところで、「837」という数字で思い出したのが、随分昔のこの記事。広い伐採地が冬場雪原となって京都市街から見える北山の無名峰を紹介したが、正にこの天狗杉であった。国土地理院等の地図では標高表記のみだったが、山名があったようである。

10年近い昔に気になったことと、今日計らずもその頂上へ到達したことに奇縁を感じたのであった。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,花脊・天狗杉山頂の古い三等三角点」
天狗杉山頂にあった古い三等三角点。書体からすると明治期設置のものか

天狗杉への途中には、祇園祭に欠かせない「チマキザサ」の養生場所があった。最近激減しているらしく、祭文化継続の為にも、その回復が急がれているという。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,天狗杉側から見た旧花脊峠と芹生への分岐,峠掘り下げ前の地面の残存」
天狗杉への道上から眺めた旧花脊峠。左下から右上に伸びる道が芹生への林道、右下へ真っすぐ伸びる道が花脊道。花脊道の向こう際上面には茶屋か番屋、または車道以前の路面とみられる平坦地がみられる。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,花脊峠から芹生への旧道の山道」
旧花脊峠裏の尾根上に発見した確たる芹生古道

最も興味深かったのが、峠の祠裏から尾根を割るように続く古道跡であった。幅半間程、方角からして元の芹生道に違いない。現林道は車行の傾斜を考慮して山腹を無理やり削ったもので、そのまま古道を継承したとは思い難い。

地理交通的に、ここと芹生を結ぶ道は古来から存在した筈。今日は事情により諦めたが、次回にでも是非踏査してみたいと思った。


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,灰屋川源流部の清澄の河水」
芹生奥の灰屋川の流れ


紀行「芹生小旅行,京都市右京区,旧京北町,日没前の芹生集落」
まだ青空のぞく夕方の芹生

湯と地元食楽しみ、日を終える

元来た道をたどり、芹生に戻る。

集落西側等も少々散策し、夕方宿に入った。暫し休んで、風呂に入る。昨年と同じ、今様の浴室ながら灰屋川の伏流水を薪で沸かしたもの。今回は気分的に余裕が有った所為か、ガス風呂・都市水道との違いがよく判った。肌当たりが良く、何か力が宿る感じであった。

その後、日没となり、夕食に。女将さん手作りの実に多種多量の当地料理が並ぶ。これも芹生泊の大きな目的の一つであった。

山菜・地鶏等を沢山頂き、最後には今夏初という新栗による栗ご飯まで頂戴して驚かされた。勿論、全て美味。

文字通りの満腹となり、雨戸を閉めてもまだ涼しい寝室にて高地の日を閉じたのである。

聞こえるのは沢の流れと虫の音のみ……。

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2017年08月27日

続残暑北陸行

紀行「福井,勝山・大野への道,鉄塔」

内陸の小京都・大野へ

福井行2日目。

前夜はわざわざ従兄らが集まってくれたにもかかわらず、不覚にも早く寝てしまった反動で比較的早く目覚める。

ただ、遅くまで飲んでいた伯母や従姉などは、もう起きていた。やがて他の親類も起き始め、顔を合わせる度に前夜の中座への平謝りを繰り返した。

昼近くまで皆バラバラの食事を採りつつ歓談し、一先ずお開きに。今夜帰路に就くまでゆっくりしようかと思ったが、折角なので勝山へ帰る従兄の車に同乗し、県東部の小京都・大野城下見物に出かけることにした。

写真は大野手前の内陸都市・勝山西部の北郷町辺りの田圃と鉄塔。


紀行「福井,大野,御清水」

そして勝山を越え到着したのが、福井最東部盆地のまち大野であった。

周囲を標高1500m以上の多雪山地に囲まれた同市は、古来湧水できこえた地でもあった。写真の泉は、その中でも著名な「御清水(おしょうず)」。所謂名水百選の湧水である。

美味の名水を味わえる良い施設だが、何やら整備し過ぎ、やり過ぎな観も……。

それにしても暑い。従兄から聞いていたが、大野は盆地なので、標高の割に気温が上るらしい。とまれ、ここで礼を述べて従兄と別れ、独り城下散策を始めることとなった。

大野には小時より何度も訪れたことがあるが、ゆっくり城下を巡ったことがなかった。今日訪れたのは、その為である。


紀行「福井,大野,御清水近くの屋敷の池」
御清水近くの屋敷庭の池。これも湧水源とみられる透明度を有していた


紀行「福井,大野,大野市民俗資料館」

城山登城

御清水からは一路城址へと向かう。市街西方に聳える小山の頂部である。

そして城山麓では写真の古建築と出会う。大野市民俗資料館で、明治22年築の大野治安裁判所(地裁)を転用したものらしい。外観は社寺的な和風、内部は洋風という折衷建築である。


紀行「福井,大野,復元大野城」

資料館を過ぎ、山中の登城路に入る。大した高さ・距離ではないが、厳しい残暑が疲労を感じさせる。

やがて、山上に出、写真の如く間近の天守が現れた。安永4(1775)年に焼失して以降再建されることなく維新を迎え、昭和43(1968)年に旧藩士の寄付によりコンクリート製で再建されたという。


紀行「福井,大野,大野城復元天守からの眺め」
再建大野城天守上階よりの眺め

大野城天守の内部は有料で、史資料の展示が行われている。そして上階は展望台となっていた。さすがに風があり若干涼しく感じられたが、湿度が高いことは京都と変わらず。


紀行「福井,大野,大野城下の古い銭湯」

天守見学を終え、城山を東北へ下り、再び城下を散策。

写真はその途上出会った古い銭湯。昭和初期頃のものか。未だ営業されているようで、地方都市では稀少な存在かと思われた。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧田村家」

公開武家屋敷「旧田村家」

城下散策は特に目標を定めていなかったが、武家屋敷の案内幟に誘導される形で、その見学をすることとなった。

城下では2軒公開されており、最初は「旧田村家」という屋敷に入る。配慮細やかな受付の女史から、城や資料館等を安価で参観出来る「通し券」の所持を訊かれるが、既に城を個別で見学したため、別払いとせざるを得なくなった。

全市的な取り組みにも拘わらず、最初の城でそれが通知されなかったことに少々立腹。始めに知っていれば、より効率良い観光が叶うため残念に思った。是非改善をお願いしたいところである。

写真は田村家奥庭より、その主屋を見たもの。江戸後期の19世紀前期に郊外の農村古屋を移築改造して構えられたものだという。特異なその経緯には大火からの復興という事情が影響している。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧田村家,残存土居,総郭」

受付女史の解説によると、庭奥の築山は大野城外堀土塁(土居)の唯一の現存遺構だという。写真では判り辛いが木立奥に高さ2m程のそれが見える。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧田村家,内部」
田村家囲炉裏部屋。どことなく農家的雰囲気を感じる


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧田村家,浴室」
田村家浴室。改装されているが、浮世絵等でも見かける古式のものである


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧田村家,居間」
囲炉裏部屋から玄関・居間方向をみる


紀行「福井,大野,城下の町家」

田村家を出てまた城下を歩く。城に近い武家地ではあるが、その残存は殆どなさそうである。

写真の如く、近代以降の町家の存在が目についた。これも風情があり良いのだが、今はこれすらなくなりつつあるように見受けられた。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,」

公開武家屋敷「旧内山家」

暫く歩き、やがて2軒目の公開武家屋敷・旧内山家に入る。写真はその主屋の外観一部。縁の下に空きがないことを奇異に思う。水気の多い土地なので、湿気は大丈夫なのであろうか。もしくは、冬の寒さ対策か。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,庭」
内山家の庭園。主屋と離れに面した長大なもの

内山家は旧大野藩の家老を務めた家柄で、現存の建屋は明治15(1882)年頃に建てられたものだという。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,台所」
内山家主屋の囲炉裏部屋。奥に金網が張られた格子戸をもつ水屋のような納戸が見える


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,炊事場」
内山家主屋の水場。石材には福井名産の笏谷石(しゃくだにいし)が使われている


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,厠」
内山家の厠。焼物の便器が美麗である


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,二階の間,湾曲した竿縁天井」
内山家主屋の2階部屋。湾曲した竿縁天井がある珍しい構造。圧迫感の緩和であろうか


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,二階薪炭置場」
前記2階部屋隣の薪炭置場。床に扉蓋があり、囲炉裏部屋から燃料の出し入れがかなう


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,渡り廊下」
内山家主屋から離れにのびる渡り廊下。中ほどの床や建具が外せる構造とみられ、庭への荷車進入の為の配慮かと思われた


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,浴室」
内山家浴室。湯船と水桶を有する過渡期的な設えか


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,浴室天井,昔の換気装置」
浴室天井にある排気口


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,浴室外面の井戸と導水穴」
浴室外には井戸と手押しポンプがあった。内壁に空いた丸穴を訝しく思っていたが、どうやら導水口のようである


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,葵葉の釘隠し」

内山家の離れは和風ながら天井が高く、更に新しい造りかと思われた。写真はその釘隠し。葵葉を模ったものとみられる。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,蓋の外れた葵葉の釘隠し」
釘隠しの蓋が外れ、和釘が見えているものも。構造が解って興味深い


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,離れから母屋をみる」
離れからみる内山家主屋


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,離れの庭よりみえる大野城天守」
離れの西縁からは城山と天守が見えた


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,味噌蔵内部」

内山家の居室見学を終え、敷地内に点在する蔵をみる。

写真は主屋に最も近い味噌蔵。2階建てで、象徴的な桶が置かれている。


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,衣装蔵内部」
次は衣装蔵。こちらも2階建てで、箪笥や長持が置かれていた


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,米蔵内部」
最後は米蔵。こちらは1階建てで、荷崩れ対策か、柱数が多くなっている。用途により色々な造りが採用されていることに感心


紀行「福井,大野,武家屋敷,旧内山家,味噌蔵・衣装蔵・米蔵」
内山家の敷地外からみた3棟の蔵。「頬杖」で軒を支える地方独特の様式もみられる


紀行「福井,大野,日吉神社,亥山城堀跡」

危機脱し寺町散策

ここで散策を終え、バスで勝山に移動し、えち鉄で親類宅に戻る予定であったが、当てにしていたバスが休日運休しており、2時間近く動けなくなった。

一先ず伯母に電話し、夜一緒に福井駅まで向かうつもりの東京のいとこの予定等を伺う。すると、勝山の従兄に電話してくれ、車で迎えに来てくれることとなった。

助かった。次のバスだと松岡宅に帰るのが夜になり、自身の帰宅も危うくなりそうであったからである。大野と勝山は近隣だが歩くには遠方であった。

地方の旅は交通の希薄さが何かと制約になる。仕方ないことなのではあるが……。

とまれ、従兄がこちらに来るまで20分程時間が出来たので、最後に城下郊外の寺町地区を見学することにした。写真は戦国期に朝倉氏が居したという亥山城の堀跡と伝わる日吉神社の池。


紀行「福井,大野,大野城下七間通」
寺町から古い商家が残る「七間通」をみる

歴史観光を意識した石畳風の舗装が施されている。好きな清酒「花垣」の本店所在地でもある。


紀行「福井,大野,大野城下寺町」
石畳風舗装が施された寺町通。通り沿いに比較的規模の大きな寺が続く。他所と同じく、城下周縁防御に資する為の企図であろう


紀行「福井,大野,寺町にある寺の長屋門」
寺町通に面する寺院の豪壮な長屋門。寺が城塞機能の一部を担ったことが良くわかる姿である


紀行「福井,大野,寺町外れの飲食店街」
寺町の北辺にて

戦前から続くとみられる古い飲食店街の名残りの如き場所があった。大野の遊郭跡は寺町南方にあり、ここに対する記録は見当たらないが、他所の見聞から極めて似た雰囲気に思われた。


紀行「福井,大野,えちぜん鉄道列車よりみた勝山(村岡山)」
えち鉄車窓から見えた、勝山の名の元となったとされる村岡山(中央小山)

早く滑らかに大野から戻り、無事夜帰京

寺町散策後、待ち合わせ場所にて無事従兄と会い、勝山駅まで送ってもらった。えち鉄発車5分前の到着という幸運も得た。感謝!

そして、下車駅では従姉の婿氏の迎えを受け、早く滑らかに帰ることが出来たのである。

その後、夕食をもらいつつ皆で歓談し、19時過ぎに従姉の車で福井駅に向かった。

先にバスが出る東京のいとこを見送り、20時過ぎの列車に乗る。敦賀と長浜で乗り換え(帰りも勿論、普通と快速と徒歩)京都市街に達し、無事日が変わる前に帰宅出来たのであった。

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2017年08月26日

残暑北陸行

紀行「福井小旅行,えちてつ車輌,えちぜん鉄道福井駅にて」

残暑の福井へ

この週末は朝から列車を乗り継ぎ福井へと向かった。

彼の地の伯母家に出向き、年初に亡くなった伯父の初盆代わりのお参りと、東京から来るいとこ(同い年なので適切な漢字表記が見当たらない)と久々に落ち合う為である。

当初は自転車持参で列車に乗る「輪行(りんこう)」を企てていたが、福井での前夜の大雨や夏休みの混雑を考慮して出発直前に断念。時間がかかるが、歩いて地下鉄駅まで行き、更にJRに乗り換える行程となった。

行程の大半を占めるJRは、新快速と普通列車を使う。特急を使えば早いが、精々1時間ぐらいの違いで、停車駅への乗り継ぎと料金が倍になること等を考えると妥当な判断かと思った。というか、スピードより、ゆっくり車窓を眺める旅が好きなのである。

時間に関しては、1時間早く出発すれば良いことなので、正に三文(2000円)の得(笑)。

写真は福井で乗り換えた私鉄線「えちぜん鉄道」の車輌。福井に馴染みある県外在住者には以前の京福電車の名の方が通りがいいかもしれない。

大正初年開業の由緒ある路線だが、駅も車輌もすっかり更新されている。存続の為には仕方ないことだとは思うが、木製の駅舎や車輌床を知る人間として少々寂しさも感じる。


紀行「福井小旅行,えちぜん鉄道車内のアテンダント」
無人駅での乗降に対応する、えち鉄「アテンダント」嬢

えち鉄になってから何度か乗車したことがあるが、今回は自転車置き場が設けられた車輌を目にした。車内にも丁度その利用に関する吊広告が下げられていた。

車輌前部には、えち鉄になって導入されたアテンダントさんが涼やかに起立待機。頑張る地方私鉄のお手本のような存在である。これらの努力が報われることを願いたい。


紀行「福井小旅行,えちぜん鉄道(旧京福)松岡駅」

2両編成のえち鉄線車輌は20分程の走行で松岡駅に到着。終点の勝山まではまだ30分以上の道程であるが、親類宅の最寄り駅なので下車した。

短小長閑なホームを出て後を振り返ると、写真の如き趣ある駅舎があった。古いものながら斬新なファサード。開業時のものかと思えば、昭和8年頃のもの、とのことであった。今は国の登録文化財に。よくぞ残った。

そういえば、福井県内の北陸線等にも、戦前築と想われる古く趣ある駅舎を多くみかける。それらを巡ってみるのも面白いかもしれないと思った。


紀行「福井小旅行,大雨後の九頭竜川」
橋梁下に濁流を見せる九頭竜川

駅から親類宅までは少々遠いのであるが、バスの本数も少ない為、歩いて行くこととした。

途中、福井随一の河川・九頭竜の長い橋を渡る。遥か県境高地から水を集め下る川で、その名の通り古来荒れると恐ろしい存在であった。今日はやはり昨日の大雨の影響の濁流が見受けられた。


紀行「福井小旅行,福井平野から東部勝山方面をみる」

橋を渡ると一面の耕地が広がる。ここは米どころ福井平野の東端でもあった。

写真はその終端側、即ち東方の景。奥の巨大な山は彼の白山とも繋がる経ヶ岳(1625m)。左側に隠れている白山はこれより更に1000mも高い。


紀行「福井小旅行,松岡の古い町家」
松岡駅近辺にある古い商家

そして親類宅に到着し、挨拶やらお参りをこなし、一旦休息。北陸とはいえ、気温・湿度共に高く、残暑が厳しい。

そういえば、昨日この小旅行の為に仕事やら家事やらを前倒しして行ったので、4時間しか寝ていなかった。列車で寝ればよかったのだが、風景観察に忙しく、それどころとはならなかった。親類宅で少し寝ようとも思ったが、何かそれも落ち着かず、結局叶わず仕舞いに。

思えば、昨日から福井入りしていた東京のいとこも朝から敦賀方面に出かけていて不在。他の従兄・従姉らも仕事により夕方以降の集合だったので、ちょっと散策に出ることにした。

向かったのは、古い町並みや寺等が残る松岡駅周辺である。


紀行「福井小旅行,松岡,黒龍酒造本店」
旧松岡城下に残る古い酒造商家

旧松岡城下散策

先程の道程を逆に歩き、駅付近に到着。新道辺りで「えい坊館」なる真新しくも古式の建屋を見つける。地区を管轄する永平寺町が今年開いた交流施設らしい。中に入ると、町内の物産紹介や展示が行われていた。

気になったのは、建屋前に掲示されていた案内地図。それは、一帯が嘗て城下町であったことを示すものであった。江戸初期に福井藩から分かれるも、2代70数年で廃された幻の松岡藩城下である。

以前から、大野城下に似た郊外らしからぬ町割りと商家の様が気になっていたが、やはりそうであったか。えい坊館で携帯用の城下図を貰い、散策の目的を急遽城下探索に切り替えた。

写真は、旧松岡城下を代表する「黒龍酒造」本店。米と水の良い福井を代表する酒蔵である。私もよく晩酌等で楽しませてもらう馴染みの蔵であった。


紀行「福井小旅行,松岡,松岡藩城下町図」
永平寺町編「まつおか まちあるき 絵図」

上部に九頭竜川、南部に山地が迫る要所で、勝山・大野・美濃方面への街道(赤線)をおさえつつ、北接する最大外様大名、加賀前田家に備えた縄張とみられる。

中央の肌色は主郭部、その周囲の緑は武家地、街道沿いの黄色は町家域である。


紀行「福井小旅行,松岡,柴神社,笏谷石製の参道石段」

先ずは、城下南方山手の寺町辺りを探索。

山と城下外堀の間を埋めるように寺地が続く場所である。城の後背警護や詰の城の役割を期待されたものであろう。

また、図では南方城外に掘りと土塁に囲まれた不可思議な丸い敷地が記されていた。城の防御施設「出丸」にしては孤立しているので、不思議に思い探索したが、その痕跡は全くなかった。

後で調べると、藩の年貢米集積所である「御蔵所(おくらしょ)」であることが判明。建屋が密集する城内での火災を警戒しつつ、警備も考えた立地と構造であろうか。

写真は御蔵所跡傍の山腹にあった「柴神社」の参道階段。石材は、独特の青みと肌を持つ、福井足羽山名産の「笏谷石(しゃくだにいし)」がふんだんに使われている。


紀行「福井小旅行,松岡,柴神社,本殿の「おはらい箱」」
柴神社本殿にて。奇しくも慣用語の源に接するか?


紀行「福井小旅行,松岡,松岡藩松平家墓所」

寺町裏の山にも登る。山腹には写真の如く、松岡藩主松平家の墓所もあった。ちょうど本丸方面が見渡せる場所である。


紀行「福井小旅行,松岡,春日山古墳石棺」

松平墓所の近くの小頂には写真の如き古墳も。

史跡「春日山古墳」で、6世紀末から7世紀初頭頃に構築された地元有力氏族のものという。ガラス張りの覆い屋が付き、自由に見学できた。


紀行「福井小旅行,松岡,寺院関連建屋前の越前焼?」

山麓には松岡の名刹・天龍寺があるが、その近辺に興味深いものを発見。

箒入れに使われていた写真の大甕である。然程古いようには見えないが、名古窯・越前焼のものかと想われた。


紀行「福井小旅行,松岡,古いタイルの流し」
個人的にはこれも好み。古いタイルの流し台である


紀行「福井小旅行,松岡,御館の椿」

寺町から城下中心に向かい、主郭辺りを探る。

外堀も含め、主郭にもその痕跡を見つけることは出来なかった。なにせ300年も前に破却された城である。仕方あるまいか。僅かに内堀跡地の路面に陥没を見たが、関係あるやなしや……。

写真は唯一の遺構と伝わる「御館の椿」。主郭内の御殿のものとされるが、樹勢も弱く、風前の灯火状態で、往時を想像することは困難であった。


紀行「福井小旅行,松岡,武家屋敷の名残りを想わせる民家の庭園」

もはや地表には何も残らぬ風情の松岡城址。

しかし、旧武家屋敷地では写真の如き大きな庭を持つ民家があった。主郭際の立地の為、ひょっとすると上級藩士の屋敷庭でも継承したものかもしれないが、さて如何(いかん)。


紀行「福井小旅行,松岡,旧松岡城二ノ丸跡?の古い織物工場」

こちらの写真も主郭際。古い繊維工場である。昭和初期の所謂「人絹王国」期のものか。


紀行「福井小旅行,松岡,旧松岡城二ノ丸跡?の傾斜地際の三角屋根の織物工場」

広い敷地に様々な建屋をもつ繊維工場は段丘上にあった。九頭竜川を渡る五松橋からの車道がその際を切り通しているが、城の健在期にはそのまま防壁として利用されていたのであろう。


紀行「福井小旅行,松岡,松岡城本丸と九頭竜川河岸との高低差」
繊維工場向かいの段丘上、即ち主郭面より河原を見る。かなりの高低差があるのが判る


紀行「福井小旅行,松岡,夕方の光を反す九頭竜川」

主郭に続き、武家地やその城門部等を観察したが、微妙な高低差を含め、その痕跡を得ることは叶わなかった。さて、陽も傾いてきたので親類宅へと戻ることにしよう。

写真は本日3度目となる九頭竜川の橋渡り。平時の落ち着きを取り戻しつつ、陽を反し滔々と大海へ退く河の流れ。


紀行「福井小旅行,松岡,福井平野の夕焼け」
福井平野の夕焼け。親類の話によると、今日は特段美麗だという

申し訳ない限りの日の仕舞い

結局、少しのつもりが2時間もの城址探索となった。しかも、かなりの暑さのなか。この後、集まったいとこらと旧交あたためる宴となったが、不覚にも途中で眠気に襲われ、早々に寝てしまうことに。しかも、夜わざわざ来てくれた従兄夫妻とも挨拶出来ないことにも……。

うーん、松岡城下の探索は新知見であり、有意義であったが、少々力み過ぎたか(笑)。泊まり覚悟で来てくれたもう1組の従兄夫婦共々も、皆に申し訳ない限りの、日の仕舞いとなったのである。

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2017年05月07日

京艮小巡

紀行「大原の田圃と山々,風と波が和邇の浜,和邇中浜,5月の残雪ある比良山脈」

連休最後の小紀行

連休最終日。

朝はひと仕事し、昼前から人に誘われ郊外へ食事に出ることにした。

向かったのは京都市街北東山間の大原。家と同じ左京区内とはいえ結構距離があったが、信号が少ないので交通状況さえ良ければ、比較的身近な地であった。

そして、著しい混雑には遭わず、無事現地入り。

連休で皆消耗したのか、はたまた流行りの分散か。ここのところ売り切れでフラれていた地元食材による食事にもありつけた。写真は大原盆地中央部からみた北方の景。左山麓が寂光院、右山麓が三千院方面で、中央谷間に薄く覗く山体は滋賀湖西の比良山塊である。

山間なので、食材共々、里の春は始まったばかりの様相であったが、陽気は平地と変わることはなかった。


紀行「大原の田圃と山々,風と波が和邇の浜,和邇中浜,5月の残雪ある比良山脈」

朽木・湖西へ

食後、折角なので、更に北進し、滋賀県は比良山麓朽木(くつき)谷に寄る。山菜等が欲しかったからである。そして、コシアブラやコゴミ、タケノコ等を地元の店や市にて安価に得た。

その後、引き返しついでに、琵琶湖岸へと下り和邇中浜(わに・なかはま)に出た。湖西・比良山麓のこの辺りは普段でも風が強い地域であるが、黄砂が飛ぶ今日は、やはり荒れ気味であった。

写真は浜の様子。波が高く、波打ち際が茶色く濁っていた。


紀行「大原の田圃と山々,風と波が和邇の浜,和邇中浜,5月の残雪ある比良山脈」
同じく風に荒れる和邇中浜の湖岸。南東方面をみる


紀行「大原の田圃と山々,風と波が和邇の浜,和邇中浜,5月の残雪ある比良山脈,蓬莱山」
中浜から見た、北西上方の比良・蓬莱山(1174 m)に残る残雪

多雪地なので、山上には連休頃まで雪が残るが、麓から見える程の様は初めてであった。

今年初の湖岸昼寝断念で撤収

中浜では湖岸で昼寝でもしたかったが、風があり寒さを感じたため、暫くして撤収した。比較的早い時間だったためか、帰りも混雑はなかった。

そして、帰宅後、夜までまた仕事となった。

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2017年03月20日

初登男山

紀行「男山,石清水八幡宮,鳥居,石垣,隅切り石垣,平坦地,八幡の竹林,石清水八幡宮本殿前舞台での催事,展望台からみる京都市街と比叡山,石清水,松花堂跡,大谷川」

交通不具合で予定変更

今日は、知人から貰った博物館展示の招待券をもって大阪南部に行く予定であったが、電車が事故で止まり、更にその後も混乱が続いて時間的に厳しくなったので中止とした。

しかし、既に乗車していたので、途中下車し、意外にもこれまで行ったことがなかった石清水八幡宮に寄ることとした。

最寄りの京阪八幡市(やわたし)駅は京都・大阪府境に近い場所。通常なら普通列車でも20分強で着くが、事故復旧後の混乱にあった今日は1時間近くかかった。

石清水八幡宮は府境の小山上に鎮座する社なので、駅近くからケーブルカーが運航。しかし、昔ながらの参道を味わいたかったので、徒歩での参観を試みた。


上掲写真: 石清水八幡宮麓にある頓宮前の「一ノ鳥居」。参道の始まりである。


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男山登拝

一ノ鳥居とその後続く頓宮境内を抜け、参道の登坂に入る。駅前案内所の係氏の勧めに従い、表裏2道ある参道のうち、表参道を選んだ。

写真は、急崖をつづらで登った後に参道脇に現れた石垣。階段状に続く山中の大きな平坦地端に当たり、明治初年の廃仏毀釈以前に栄えた神宮寺の子院の跡という。神仏習合の典型地らしく、その規模や数は実に大なるものであった。


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同じく子院跡石垣の角

角に面が付けられた、珍しい「隅切り」の処理がされている。方角的に表鬼門に当たるので、敢えて構築されたものか。

しかし、この端面から下方の見通しかなり良いことから、戦時転用可能な銃撃用櫓土台とも考えられた。もしくは、単に荷重耐性か、角用の算木石材の不足を補う等の土木的理由に因るものか……。

とまれ、男山は、京(のちには伏見も)・難波・奈良に通じる古道と淀三川に接する要地で、南北朝の昔から城が営まれた場所。色々な可能性が考えられよう。


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山上近くになって写真の如き竹藪が現れた。

そういえば、男山の竹はエジソン最初の実用化電球のフィラメントに使われたものであることを思い出す。確か境内どこかにその記念碑がある筈。

思わぬところで小学校以来の知識を思い出した。


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山上の本殿地区南端の出入口

要害的山上部

やがて登坂が終り、山上の大きな平坦地端に出た。本殿がある中心地区である。

本殿の標高は120m強(wiki等にある140m強は誤り)なので、そこの高さはそれに近いものかと思われた。

写真はその背後、つまり本殿前参道の南端にあった出入口。八幡市南部に下る谷道の始点で、その位置や方角的に元来の要地と思われた。

気になったのは、右横の石垣と門状に設けられた古い築地塀。土塀は、その剥落箇所から、鉄砲防御の役割もある瓦の仕込みが覗いている。

因みに、一ノ鳥居辺りの標高は11m程しかない。つまり、男山は僅かな高さとはいえ、急峻な要害地形を成しているといえる。


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本殿前参道南端の「三ノ鳥居」


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広く平坦になった本殿前参道を進み、やがて本殿に至る。

修復間もない為か、朱塗りが鮮やかな本殿前には特設状の舞台が設けられており、古代風の衣装を着た人たちが何かの準備をしていた。

恒例の「桜まつり」に合わせた催事らしく(開花は全くないが)、この後、奉納の舞等が披露された。


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信長好みの形式のため「信長塀」と呼ばれるという、瓦仕込みの築地塀

本殿付近で一番目についたのが、本殿地区を囲う豪壮な写真の築地塀。やはり先ほどの古塀と同じく、瓦が仕込まれている。神社には珍しいもの。

本殿は、京郊東山の寺院群等と同じく、江戸初期(17世紀前期)に徳川将軍家光が整備したと伝わるが、やはり、有事の城塞転用が意図されていたのであろうか。


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突出地形にある展望台

本殿参拝後、その北側へと回り展望台なる場所へ着いた。

写真はそこからの眺めで、東北方面の京都市街とその奥の比叡山の頂が見える。

そういえば、石清水八幡宮は平安初期(9世紀半ば)に、平安京裏鬼門の守護も兼ねて造られたものであったことを思い出す。

つまり、相対する叡山は、表鬼門の護りである。

展望台は三方の眺望に優れた突出地で、もし、古くからあるものだとすると、城塞の物見台に相当しよう。麓の街道や三川並びに都方面の動向が一目で把握出来るからである。

もし、この推理が正しければ、本殿台地とこの突出地の間には堀切の跡が埋まっている筈である。


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北風が冷たく感じられた展望台を後にして、下山を始める。帰りは裏参道の名がつく、往路の北よりの道である。

表参道より細いつづらの道が続くが、木立の中には、写真の如く無数の平坦地が見られた。しかもその一つひとつの面積が大きい。

それらは、子院を兼ねた防御用の「郭」としての役割があった可能性も窺われる。

しかし、全山かなりの規模で改変を受けている。将来研究が進めば、観音寺城等に匹敵する山城として認識されるかもしれない。


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石清水の原点的霊泉

つづら道の途中で、石清水の名の由来となった石清水社に立ち寄る。

古代からの霊泉「石清水」を祀った社で、本殿創建以前の信仰原型を伝える聖地。

ただ、水量が減った等の為か、個人的には水源特有の生気・瑞々しさのようなものは感じられなかった。


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山内立地から見えた
松花堂のもう一つの顔


石清水社の直下には、彼の寛永三筆・松花堂昭乗縁の「松花堂」跡があった。

写真の参道向こうの台地上がそれで、何段かの平坦地となっている。ここの住職であった昭乗は、引退後の江戸初期に草庵・松花堂を建てたという。

それらは廃仏毀釈で破壊の危機に瀕したが、麓に移築され難を逃れたという。

裏参道は松花堂跡の入口である写真右端に下ったあと、左に進路を変え谷中を下り表参道と合する。実は松花堂跡はこの裏参道と背後の表参道狭間の尾根上に構築されている。

つまり、本丸的な本殿方面に上がる際の分岐要地であった。このことから、文人として著名な松花堂昭乗の知られざる顔、役割のようなものの存在も窺われた。


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下山。麓古街にも残る要害痕跡

下山後は、麓の街を散策。

松花堂が移築されている松花堂庭園にも行きたかったが、結構な距離があったため断念。「城ノ内」といういわく有り気な地名を持つ古い街並等を巡った。

写真はその近く、即ち男山山麓に沿って流れる大谷川。河岸上部には近代改修以前の古い石垣の姿も見受けられた。恐らく、これも内堀的役割があったのかもしれない。

この後、駅前の古い茶店で餅と茶による休息を過ごしてから帰宅した。

今日は予定が狂い、思わぬ場所の散策となったが、一先ずは色々な知見を得ることが出来た。見逃した松花堂を含め、また近々再訪したいと思う。

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2017年03月12日

温日観梅

紀行「城南宮,梅園,梅にメジロ,曲水の椿,築山,秋の山,鳥羽離宮跡公園,京都御苑の梅園,白梅,蝋梅」

梅の評判と陽気に誘われ

今日の昼間は比較的温暖だったので、予てから聞いていた京都市街南部は城南宮(じょうなんぐう)の梅を観に行くことにした。

住地の左京区南部からは直線距離的に然程遠い場所ではないが、電車・バス共に一本では行けず、若干不便な場所にあった。

その不便や、あまり目ぼしい文化財を持たない等のことから、今まで出向いたことがない場所だったので、梅見の評判を機に行ってみることにしたのである。


上掲写真: 城南宮の梅樹に集うメジロ。花の蜜でも味わっているのであろうか。


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城南宮には昼前に着いたが、人が混み始めていたので、参拝の先に有料梅園に入った。

しかし、中は既に混雑しており、散策路の始点直後から人の流れが滞っていた。実は梅がある場所が然程広くないのと、観覧者が梅樹のメジロに気をとられていることが原因であった。

写真がその梅樹。咲き具合は、樹によって満開か、少し盛りを過ぎた頃であった。


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梅園と同じく、有料神苑内にあった小川(曲水?)の椿


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鳥羽離宮跡

梅園を観覧後、改めて初参拝を済まし、近くで昼食。

その後向かったのが、城南宮の西方近所にある写真の公園であった。少年野球や子供らの遊戯が盛んに行なわれていたここは、平安末期に付近一帯にあったとされる離宮跡の一部であった。

その名も、「鳥羽離宮跡公園」。後方に見える小山は離宮の庭園築山跡とされるもの。離宮の築山遺構とみられるものは、城南宮の神苑内にもあるが、ここが最も大きい。

近づいて登ってみると、後代に削平されて出来たとみられる平坦面があった。辺りに高い場所がない低湿地帯なので、戦国期等に城塞化されていたのかもしれない。なお、この辺りは彼の鳥羽伏見戦役の戦跡でもある。


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梅は遠くに行かずとも……

離宮公園を後にして一旦帰宅して用を済ます。その後、再び外出してそのついでに市街中心の京都御苑(御所)を覗いてみた。

行ったのは、城南宮続きの梅園であったが、こちらは無料。特に柵等もなく出入りも自由である。写真がその様子。既に夕方となってしまったが、人が少なく、ゆっくり観られた。

遠くに行かずとも梅見に限っては、ここでも良かったか――。

わざわざ出かけたことが拍子抜けの想いであった。まあ、梅の縁で未知の場所行けたの良しとしよう。


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御苑の白梅


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同じく御苑の梅(豊後梅?)


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遅咲き?の蝋梅

今日の個人的一番?

そして梅園南側には、なんと未だ多くの花をつけた蝋梅も数多観られた。

本来ならとうに落花している筈なのだが……。実は好みの花なので、大変嬉しく感じられた。今日はこれが個人的な一番かもしれない。

本題の梅と違い、季節外れでもあるが(笑)。

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2017年03月05日

惜冬観雪

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冬の仕舞いを惜しんで

ここ数日、昼の温度がかなり上昇してきた。

朝の気温は真冬並みの1、2度だが、昼は15度を超える程となったのである。家の近くの梅も盛りを過ぎて、花を散らすようになった。

色々と辛さの多い冬であったが、それも仕舞いの気配である。そう思うと、何やらそれへの惜別の念も湧く。思えば、まだ気温は上がり始めたばかり。市街北辺の峰を見れば多くの残雪も見えた。

そこで、思い立ち、市街北郊まで雪見に行くことにした。


上掲写真: 京都盆地北縁の山を越えてすぐの場所にある高所集落・花脊別所(はなせべっしょ。標高600m前後)の、残雪を戴く土蔵。屋根上のその厚さは50cm弱か。先月くらいまでは相当な量があったことを想わせた。


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雪見行、一先ず大原へ

急に決めたことなので、特に現地の状況もわからず、一先ず昼食を兼ねて2輪で大原まで行くこととした。

しかし、山地ながら大きく開けて標高もせいぜい250m程しかない大原は、市街同様の温暖にあった。途中谷あいの温度表示も14度とあったので間違いあるまい。

よって、周囲を見回しても全く雪はなし。

僅かに、叡山山頂付近の森なかにその斑を見るのみであった。例外的だったのは、北方彼方に麓まで雪を戴く比良山塊が見えたこと。写真中央の雪山がそれである。未だ上部はm単位で残雪が有りそうな程である。

まあ、元々多雪地帯で、標高も1000mを超すので、特別であろう。


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雪現る前ヶ畑峠

大原で昼食後、更に北へ向かい小出石(こでいし)へ。そこから脇道を西へ入り、山を駆け上がった。急登のつづらを幾つか越えて至ったのは、写真の前ヶ畑(まえがはた)峠である。

標高は約630m。道に雪はなく乾燥しているが、山中には多くの残雪があった。朝の気温からすると車道に氷雪がある恐れがあったので、その時は引き返すつもりでいたが、無事辿りつけた。


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残雪の百井集落

峠を越すとすぐ集落が見えた。

京都市街北方の高所集落・百井(ももい)である。標高はその中心地で620m。さすがに舗装路以外は一面の雪で覆われていた。

この様な特殊環境の地ではあるが、一応古代から山城国所属で、そのまま現在の京都市、即ち左京区管轄に引き継がれている。


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前ヶ畑峠を下った道が接続する、百井集落中心地


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百井峠と危険な下り

百井から更に北方奥地の大見(おおみ)廃村方面を探ろうかと思ったが、結構距離があり、道の状態も危惧された為、途中で引き返し、元来た国道(一応477号線となっている)の先である西方へと向かった。

百井集落西端の青少年村で子供が雪遊びする様などを一瞥しつつ、やがて百井峠に至る。標高は約740m。前ヶ畑峠より100m以上も上がったのに、写真の通り雪は少ない。日当たりが良い為、溶けやすいのか。

しかし、その後の下りが怖かった。直線的な急坂で、雪こそないが、周囲からの雪解け水で路面が濡れており、更に雪が運んだとみられる落石も方々に見られた。

今日は偶々条件が良かったが、本来はまだ2輪で入るには厳しい区間に思われた。特に朝晩は凍結も懸念される。


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意外にも温暖な花脊峠

そして百井別れという分岐で鞍馬から北へ向かう道と出合い、それを北行。まだ山地の中腹なので、つづらの連続に揺られて、やがて花脊峠に着いた。

ここの標高は約760m。本日の最高所である。京都に詳しくない人の為に説明すると、市街から見える北方連山の、最奥の稜線に当たる場所である。

ここは真夏でも23度くらいしかない冷涼の場所なのであるが、今日は意外にも10度と表示されていた。為か、雪の量も少なく感じられた。しかし、一歩路肩に入ると足が沈む程の雪がある。


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花脊峠の路肩に沈むブーツ足


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高所地帯に入ってから、冷蔵庫に居るような冷えに包まれた為、寒さを感じ、市街へ下ることも考えたが、どうせならもう一回りして下山することにした。

よって、花脊峠を市街とは逆の北方へ下る。

写真の如く、路肩には先ほどより多くの雪が現れた。除雪の痕跡であろう。多い場所では高さ2m程もあった。北斜面なので、降雪が多かったのであろうか。


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花脊別所。「恵まれた地」の苦労見る

これまでに比して広く緩やかな道を下ると、間もなく花脊別所集落に下降した。

写真は、その広く大きな谷地集落の中心地辺りの景(標高600m弱)。

日照や耕地の多さ、そして比較的交通事情にも恵まれて例外的に人口を維持する地ではあったが、かなりの残雪で覆われていた。

その様(さま)に、他の季節では窺えない苦労たるものが感じられた。玄関や窓に押し寄せる雪を防ぐ防壁の様にも、また然り……。


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その後、北へ下り続け、大堰川(おおいがわ)即ち桂川上流部に出た。

標高は一旦300m台まで下がったが、北方の為か、冷涼で残雪も方々で見られた。

一応積雪的に最も多かったのが、別所からそこまでの間に通過した大布施(おふせ)の角子橋(つのこばし。標高約400m)辺りであった。60cm程だったであろうか……。

最後の峠へ

そして大堰川沿いの黒田集落からまた分岐の山道へ入り、南へ向かう。

道はまた登坂となり、細く険しいものとなった。最後の常住集落である灰屋(はいや)を越えて更に進む。本日最もの辺鄙区間で、通れるかどうかは、正に一か八かであった。

灰屋から結構な距離を進んで着いたのが、写真の集落。去年夏に避暑に来た芹生(せりう・せりょう)である。

予想通りの残雪具合であった。まあ、これでも先月辺りまでよりかは、マシなのであろうが……。


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芹生集落中心地付近(標高620m)の積雪状況

主要路は除雪されているが、その他は見ての通り。しかし、舗装路にも僅かに雪の残る箇所もあり、朝晩なぞは注意が必要であろう。


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芹生峠北側直下から、南方即ち市街側を見る

芹生峠下り別界に

少々懐かしささえ感じる芹生の里を過ぎ、間もなく芹生峠(標高約700m)に至った。積雪は花脊峠と同じくらいか。

そして、そのまま急坂を下る。元々荒れ気味の道に落石が追加されているので、慎重に進み、やがて貴船に出た。

奥宮辺りには若干の残雪が見られたが、そこから下方は完全に消え失せた。峠との標高差350m、時間は10分程であったが、正に別界の趣である。

先程まで身の回りにあった、北国や如何に――。

寒さ的に限界だったので、気温も温み、身体的には助かったが、どこか不可思議な気分、そして寂しい気にもさせられた。

「極端」に世の不思議思う

今日は、思い付きの行動ながら、随分と名残りの雪を観回れた。際どい条件でもあったので、無事戻れて良かったとも思う。

しかし、北国風情の峠から、風ぬるむ貴船までは3キロ弱。想えば、桜の春到来もあと一月もない。

この極端に、この世の不可思議たるを、改めて感じさせられたのであった。

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2017年01月25日

雪下往弔

紀行「2017年1月25日湖西大雪,湖北大雪,吹雪,比良山麓,蓬莱,近江今津,マキノ,永原,塩津,滋賀福井県境の積雪」

雪中、北陸へ

前夜、北陸の伯父の訃報を聞く。

血の繋がりはないが、住地が親の田舎より近かったこともあり、小時より色々面倒をみてもらっていた。病により数年前から歩行困難となり、時折顔を出しに行っていたが、遂にその時がきた。

年末頃から気になっており、仕事が一段落すれば顔を出そうかと思っていた矢先の出来事。日々の暮しにかまけて、何もお返しが出来なかったことを含め、後悔や反省等の様々が胸中をめぐる。

伯父が没したのは一昨日朝。そして昨晩が通夜、今日が葬儀となり、急遽その為に北行することとなった。折角仕事が一段落したのに、出向くは葬儀……。

しかし、せめて伯父の遺骸と対面し、その骨を拾えることは、忙しい現代人にとっては、不幸中の幸いなのかもしれない。

あとは、先日から出たままの大雪への警戒予報が、実害を成さないでくれればよいのだが……。

上掲写真: 北陸へ向かう列車車窓より見えた、滋賀県湖西地方の雪景。その南部では雪は殆ど見られなかったが、報道通り中部以北からは例年にない状況となっていた。写真は、特に積雪が深まり始めた比良山麓の蓬莱駅付近。


紀行「2017年1月25日湖西大雪,湖北大雪,吹雪,比良山麓,蓬莱,近江今津,マキノ,永原,塩津,滋賀福井県境の積雪」
滋賀県湖西地方北部、近江今津辺りの積雪と吹雪

早朝に家を出て列車を乗り継ぐ。

幸い雪は無かったが、今季一番といわれる−2度の低温により、駅までの路面には凍結する場所も。南禅寺境内なぞは、前日観光客らに踏まれた砂利がそのままの形で固まっていた。

JRに乗り換えてからは湖西線と北陸線を北上するのみであったが、大津辺りでは殆どなかった積雪が、堅田辺りから本格的となり、比良山麓へ接近する頃には降雪まで始まった。

予報では雪は昨日までで、今日は収まるとのことであったが……。とまれ、京都市街から僅か25km弱での変わりように驚かされる。

そして、近江高島から始まる安曇川平野に入ると強烈な吹雪となった。積雪も北上するにつれて増し、この辺りでは見たことのないような状況と化した。


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屋根の外が雪に埋もれる近江中庄駅


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想定外の雪?時機誤るか

平野北方の近江今津(京都市街から50km)では、大量の積雪により家が潰れかねないような光景にも遭遇。前夜報道されていた積雪70cmに偽りはなく、現在もその厚み増しているように感じられた。

写真はマキノ駅付近のその状況。ここ20年程で急速に市街化が進んだ地域の為、これ程の積雪は想定していないように思われ、今見ていても小屋根から崩れそうである。

また、除雪は僅かな主道のみで、他は全く歩けるような状況には見えず、多くの人が玄関から出られず孤立しているのではないかとも想わされた。

列車は京都市街から既に5分程遅れていたが、このまま北行が叶うのか。場合によれば途中で止まるかもしれない。前夜はそれを警戒し通夜に出られなかったが、時機を誤ったか……。


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やがて永原(京都市街から65km)辺りまでくると漸く吹雪は収まり、積雪も幾分マシになった。写真は、永原駅の状況。積雪50cm程だが、ホーム屋根下まで雪で溢れている。

どうやら、安曇川平野の北辺りを中心に降雪が集中しているようである。


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着雪する樹々が立ち並ぶ湖北の森(近江塩津手前)


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青空見える近江塩津駅。向かいのホームには厚く雪が載り、乗降不能の趣である

湖北にて状況収まり会葬叶う

そして、湖西線終端で、もはや湖北地方となる近江塩津(京都市街から75km)に至ると、晴れ間も見え始めた。

一件落着――。この辺りも雪が深いが、これは例年、いつものこと。やはり、湖西北部が異常だったのであろう。

この後は福井市内周辺で少し降雪があったが、積雪共々大したものではなく、無事葬儀会場入りが叶い、式に間に合ったのであった。

とまれ、伯父には再度哀悼の意と長く辛い闘病期を生き抜いたことへの敬意を表したい。そして、それを支えた誇らしい伯父一家への感謝と労いも、共に表したいと思う。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行

2016年11月06日

東播金物行

紀行「三木金物祭,金槌,玄能,即売,会場内,鋸刃の古式鍛造実演」

図らずも、感興の金物祭へ

山会翌日の、今日日曜朝も少々慌ただしい。

朝から知人と出かける約束があり、その前に山会の片づけや家事、仕事用資料の処理等々をしなければならなかったからである。

結局昨夜も帰宅・就寝が遅くなったので、朝起き難かったが、何とか予定をこなし、約束の時間に間に合わせた。

その時間は朝9時15分。幸い自宅まで車で出迎えを受けたので時間を有効に使うことが出来た。そこから向かったのは、兵庫県南東部にある三木市であった。

今日そこで年に1度の金物祭が行われていたので、それを目的とした。三木は古くから鍛冶・金物の町。以前、左官関係の友人から、祭の話を聞いて興味を持ったが、先日偶然、知人の大工氏に誘われた為、図らずも参観することとなった。


上掲写真: 三木市役所一帯で行われた金物祭の一会場(勤労者体育センター)。生憎の曇り空となったが、様々なイベントと融合され、多くの人で賑わっていた。


紀行「三木金物祭,金槌,玄能,即売,会場内,鋸刃の古式鍛造実演」
三木金物展示・直売会第1会場の賑わい

地場産業展覧の機会活かした全市的催し

催事は市役所前広場を中心に幾つかの施設の内外で行われていた。

予想外に大きなイベントである。金物に限らず、食べ物・雑貨等の露店も多く、コンサート会場まであり、地元の人々を始め、多くの老若男女で繁盛していた。

地場産業とその展覧の機会を活かした、全市的な催しなのであろう。勿論、肝心の金物・工具類も充実しており、興味深くそして楽しく見回ることが出来た。


紀行「三木金物祭,金槌,玄能,即売,会場内,鋸刃の古式鍛造実演」
知人の大工氏お気に入りの、金槌工房のコーナー

一応、大工氏の買物に付き合う形で、鍛冶職人氏や関係者らの話も聞けた。意匠や技術等の内訳話もあって興味は尽きない。


紀行「三木金物祭,昔作りの金槌,玄能,即売,会場内,鋸刃の古式鍛造実演」
大工氏お気に入りの玄能(げんのう)頭部

今風の造りではなく、あえて歪みや凹凸を残した仕上げだという。刻印が映え、慶長期の銀塊みたいで格好いい。残念ながら、注文品により既に買い手が決まっているという。

因みに、左側の艶ある金槌は今風の仕上げで、上部の包み紙入りは極上品。この玄能のような昔仕上げは修正が効かない為、これらの間くらいの価格になるという。ただ、実用は側面の平滑や表面処理が考慮された今風が勝るという。

大工氏、収集品として昔仕上げの小玄能を購入。腐食風の側面が表情を醸す、中々の逸品。


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露店での食事後、催事広場の端にて古式鍛鉄の実演が始まったので見学

鞴(ふいご)手や鍛え手が、それぞれの持ち場を引き受け、分業的に生産するらしい。


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鉄材に熱が回り、窯から引き出される度に、鍛えが行われる。

正に、熱いうちを逃さず鉄を打つ――。


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実演されていたのは鋸刃の鍛造。この様に数枚重ねて伸し鍛えられる


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試し買いの鋼包丁や如何?

素晴らしい手作りの鍛造品やその他の展示品の見学、そして露店での食事等を楽しみ会場をあとにした。高速のサービスエリアで休憩しつつ夕方無事帰着したが、その後、早速今日買った唯一の金物を確認した。

それは写真の菜切包丁で、一応鉄製鋼入りのものであった。別に高価なものではない。それどころか、無名工房製の既製品で中でも最安のものであった。

技術職を長くしていたこともあり、安物の虚しさ、危険性は熟知しているつもりである。しかし、この包丁は値段以上に物が良かったので、一か八か試してみることにしたのであった。


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手工品の造りを想わせる試し買いの包丁

箱すらなく、新聞に包まれただけの状態を解いて早速試用。刃は鋼製らしく切れ味は頗る良い。口金や柄の造りも抜かりない。更に刀身をよく見るとハンマーでの鍛え跡も認められた。どうやら値に見合わぬ手作りの品のようである。

シール貼りなどから推測すると、恐らくは昭和中期頃から小工場で半ば手作りされていた製品で、店に新古品として残っていたのではないかと想われた。そうなると、今は当時の定価以上の価値があることに納得できる。

耐久性については使用を続けないと判らないが、一先ず賭けは吉と出たようである。まあ、包丁初心者には申し分ない品であることに間違いはあるまい。

とまれ、今日1日色々とお世話になった大工氏に感謝したい。

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2016年09月27日

逢墓水浴行

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今季最後の水浴へ

先週週末は、忙しさとちょっとした「事故」の所為であまり休めなかったので、今日出かけることに。しかし、事務や連絡等があり、結局午後遅くの出発となった。

向かったのは、琵琶湖。お馴染みの湖西・雄松浜(近江舞子)である。半端な日で、しかも急な決定だったので、単独行となった。目的は、水浴と読書等々。

実は、以前から9月中の暑い日の週末を狙って今季最後の水浴を企てていたが、用があったり荒天だったりして叶わなかったのである。

幸い、今日は台風のお陰か、京都市街も32度の夏日が予想される、正に最適の日であった。


上掲写真: 琵琶湖特有の、淡い夕色に染まる湖面に向かい立ち並ぶ、戦没者墓碑。帰途立ち寄った南比良集落の墓地にて。


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陽が射してきた雄松浜。北方は高島方面に臨む

水上暴走に呆れつつ泳ぎ仕舞い成る

2輪を駆って山越えし、1時間半程で到着。生憎、空は京都にいる時から曇天であったが、気温と湿度はかなりのものがあった。

浜は遊泳域を区画する浮き縄が撤去され、人も少なく既に季節外の風情であった。それでも、バーベキュー組や水浴組もちらほら見られた。

ただ、水上バイク、所謂ジェットスキーがうるさい。縄や監視がないのをいいことに、禁止されている浜近くでの暴走を繰り返している。場所を変えようかと思ったが、あまり時間も無い為、なるべく離れた所を選んだ。

真夏と違い、裸でいると水に入らなくても丁度良い感じでもあったが、折角なので泳ぐ。水はまだ夏の熱を残しており、問題なく泳げた。時折、同じように自転車単独で現れた外国人が、近くで泳ぎ始めたりした。

他所人ながら、良い贅沢を知っている。我々も見習うべきか……。

しかし、それにしてもジェットスキーが鳴りやまない。一度県警の船が来た時は姿を消したが、それが去れば元通りである。しかも、生身を曝す水浴客や半身を浸す釣人の直近を、物凄い速度で駆け回る。

県や警察は何をしているのだろう。先月ここでひき逃げ事件があったばかりではないのか。しかも、未だ逃走中。もはやルールや自発性では御せない、この高級遊具の末路が見えてきた気がした。

気を取り直して寛ぐ。夕方になって少し陽も出てきた。


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夏の終りの雄松浜夕景。南方の叡山方面を望む

騒がしい水上暴走に寛ぎを妨げられることもあったが、無事念願の泳ぎ仕舞いを果たすことが出来た。さっと着替え、茣蓙等を片して撤収。滞在は2時間半程か。

帰路は折角なので、なるべく湖岸沿いの道を進むこととした。


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桃色さす夕凪の湖面に佇む伝統漁具エリ(魞)

17時ちょうどに浜を出て、湖岸を走る。

辺りは、すっかり夕景に。琵琶湖岸特有の、桃色が差すというか、何とも言えない色合いに、ただ感心。湖面は凪の平滑を湛えて延々と続く。

湖岸の風情が今より豊かで、水や野山も健全だった昔なら、更に得難い景色だったろうと夢想する。そうしていると、南比良という集落で車の離合も困難な湖岸路端に墓地が現れた。


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一般墓石の最前列、湖岸の一等地に戦没墓が並ぶ南比良の墓地

不帰の者と不迎の者との心の軌跡窺う

古い集落に墓所はつきもの。

しかし、そこに目が留まったのは、浜の小石が敷き詰められた、明るく美麗なものだったからである。そして湖に面して並べられた墓標の特異さも、その理由であった。

並んでいたのは、すべて軍人墓。即ち戦没者のものであった。里人のものと思われる雑多な墓石の最前列に、一線にそれが並べられていたのである。

それらの墓碑は、地元比良山の花崗岩が用いられ、同じく切り石の台座も設けられた大変立派なものであった。墓碑を読むと昭和10年代が多く、同20年の終戦直前のものまで見られた。

満蘇紛争や支那事変に始まる、大陸・大洋各地での戦死者であろう。さぞや美しかったであろう当時の湖辺で育つも、遂に帰ることが叶わなかった若者達――。

若者なぞと呼ぶ余所よそしい言い方はやめよう。皆、誇るべき郷土・南比良で暮らしていた、おにいちゃん達である。

きっと本心では、素晴らしい郷里を離れ、荒涼たる辺境や悪疫潜む密林などには行きたくなかったであろう。しかし、当時は誰かがやらねばならず、里の人にとっても、やってもらわなければならないことであった。

皆の犠牲となって彼方に倒れた、おにいちゃん達――。そんな彼らの為に、一等地に立派な墓石が用意されたのではないか……。

不帰の者と、不迎の者との(正しくは不能帰・不能迎とすべきか)、心の軌跡、魂の交流が窺えるようである。

世の悪弊に気付かされ反省させられる

自分の小時、従軍戦死者を国家追従者、騙された愚か者とするような風潮があった。

しかし、戦争の善し悪しはさておき、大半はただ義務に殉じた人達である。そしてその深層には、それが郷里や家族を守ること、との想いがあったに違いない。

そのような人達を嘲笑するような風潮こそが、自分さえ良ければ他はどうでも良いとする、今の世相に導いたのではないか。

このことは、上述の水上暴走の件等とも繋がっていると感じられる。

そして、私自身にもその悪弊があることに気付かされ、大いに反省させられた。


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少し奥まっているが、墓地内で最大の戦没者墓。高位者のものかと思えば、軍属に近い人もみられた。この有様にも、残された里人の手厚い心が感じられた。せめて遺骨は帰ってきたのであろうか。正に断腸の思い……。

考えさせられた水浴行終え帰京

美しくも切ない、浜の墓所を後にする。

後方に迫る比良山塊の色が更に重さを増す。夏の終り、そして初秋の夜が迫っている。暗闇に追いつかれないよう、速度を上げ、山間の道を抜けて帰京した。

僅か数時間の水浴行だったが、色々と考えさせられるものとなった。

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2016年08月28日

続北山高地泊

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京郊の隠れ里・芹生2日目

芹生2日目は予報通りの雨。

しかも、かなりまとまったものであった。下界(京都市街)にいる時は、全く降らなかった為、少々立腹するも仕方なし。まあ、どのみち、散策は昨日済ませたので、今日は出発まで寛ぐ予定ではいた。

狭小の芹生、悪くいうと観るものも少ないが、その分気分的にも割り切れて避暑の寛ぎが得られる場所でもあった。この辺は、まあ当初の計算通り、といったところか。

写真は、前庭に鎮座する蛙の置物。庭の木石共々、雨に濡れそぼ濡れる姿がお似合いであった。


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見えにくいが、ザーザーと糸を引く雨に打たれる杉林(さんりん)。宿の縁側より

冷涼清新の気に十分寛ぎ出立

朝、少し傘もちで近所を散策し、8時過ぎより朝食に。朝食時間は宿が決めるのではなく、我々の希望で決められていた。配慮深い女将さんに感謝。

朝食も、夕食に劣らず、山菜料理尽くしで嬉しい限り。しかも、前夜と被る献立がないという、徹底ぶりであった。実は食事を入れた宿泊費は高くないのであるが、女将さんの志と努力には頭が下がるばかり。

宿は1泊1組限定。それでいて2日間押さえているとのことで、退室は何時でも構わないとのこと。女将さんの有難い申し出に甘えて、食後は昼寝をしたり、茶で寛いだりして過ごした。

そして、折々また様々な話を聞く。女将さんからは芹生の里保存会の資料も譲り受けた。是非、再度の聞き取り等の調査を行いたいと思う。

結局、お茶を頂き、菓子を頂き、そして冷涼清新の気に浸りながら寛ぎ、2時過ぎに出立した。まだ雨が降っていたが、じきにあがり、無事周山経由で下山・帰着することが叶ったのである。

女将さんをはじめ、宿の人には、ただ感謝、であった。

こうして、2日間ではあったが、暑気を払い、有意義な休暇を過ごすことが出来たのである。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行