2023年02月21日

続雨水訪駿

久能山麓の土産店街から見上げた山上と東照宮の建屋群

静岡名所行2日目

雪氷が雨水に変じるとされる二十四節気の「雨水」。

そんな春の予兆日を過ぎた頃に似合う温暖の地、東海静岡行の2日目。今日もまた、駿河湾沿いの名所を探訪することとなった。

その場所は久能山(くのうざん)。沿岸平野と海岸の合間に広がる稀有な独立丘陵の一部で、以前から個人的に見学したかった場所のため、知人が連れて行ってくれたのである。

写真は、駐車場がある麓の土産店街から久能山を見上げたもの。山上に在るのは、かの東照権現(徳川家康の神号)を祀り、また、その墓所の一つとされる久能山東照宮。

見ての通り、山自体の標高は高くはないが、これから徒歩で山上を目指すこととなった。


静岡の久能山東照宮麓近くの参道からみた快晴の空と駿河湾の海
17度近くまで気温が上がった昨日とは異なり、朝寒かった今日の空気は冷たく、2月らしい気候に。しかし、見ての通りの快晴のため、屋外活動に難はなかった。変わった石敷き(石畳?)の参道を進み、東照宮へと向かわんとして振り返ると、鳥居越しに春のような空と海が……


久能梅園の見頃の梅花と麓の石垣苺のビニールハウス、そして駿河湾の海
参道脇には東照宮付属の「久能梅園」があったので立ち寄る。前日の地元報道の通り、海を臨むそれは、花の見頃を迎えていた。園下に並ぶビニールハウスは名産の「石垣苺」の栽培用。こちらも、ちょうど盛りとあって、麓にて関連商品共々、多々売られていた


久能山東照宮参道の石垣と石段
梅園上の参道は、このような石垣沿いの石段道となった。それは、山肌に沿い、ジグザグ状に続く。所謂スイッチバック的に社殿地までの急斜を登るのである。かなり無理があるその施工に驚くが、やはり石垣や石畳の補修の多さにも、その特異性、維持の困難が窺われた。石垣は幕府関連特有の二条城等に似た丁寧かつ権威的な施工も見られたが、何故か近世式の高石垣を用いず、前代技法の多段式で施工されていた


久能山東照宮参道の一ノ門裏から見えた、額縁様に覗く青い駿河湾の海
ジグザグの石段を右左往しつつ標高差100m程を登り、城門様の社殿地門「一ノ門」を潜る。正に城郭施設「桝形虎口」的なその裏側からは、青く輝く海原が額縁画の如く見えた


久能山東照宮本殿下の展望所からみた久能山・日本平丘陵南端の崩落山体と駿河湾
門からは傾斜が緩くなるも、また登りの石段が暫し続く。そして本殿下の展望所からは久能山の実態が知れる眺めが現れた。それは、海に向かい複雑な崩落地形を成す丘陵南端の姿でもあった

久能山の姿

背後にある日本平を含め、久能山がある有度丘陵(うど・きゅうりょう)は、元は安部川等が運んだ土砂堆積物が隆起し、その後、風波に浸食されて形成されたらしいので、脆い地質という。

ジグザグ参道の非高石垣や数多の石段補修はそうした地質と関係するのではなかろうか。しかし、よくもこんな難所に霊廟を置いたものである。

久能山東照宮は元は戦国期の城塞を改変したものらしく、海岸沿いの久能街道を押さえる要所として、元来不可欠な施設だったので、有事の軍事転用を見据え、無理にでも維持されたのかもしれない。


石段上に聳える久能山東照宮の楼門
その後有料エリアに入り、本殿へと向かう。元山城そして山中でもあるので、登りの石段が続く。華やかに加飾された楼門も、また石段上にあった


煌びやかな久能山東照宮の本殿「御社殿」
そして幾つかの石段を登り、本殿(御社殿)に到着。徳川家康死没翌年の元和3(1617)年に建てられたという国宝建築。規模は小さいが、日光同様の煌びやかな加飾建築であった。塀等も含め、周辺施設共々、新築の如く刷新されている。最近、全社的な大規模修繕が行われたのか


久能山東照宮の最上部にある徳川家康墓所とされる神廟
本殿後方の石段を更に登ると、徳川家康の当初の墓所と伝わる「神廟」に到着。久能山山上に当る場所で、境内最上部となる

家康は遺言によりここに葬られたとされるが、その決定や東照宮造営には、かの天台僧・慈眼大師天海が関わっていたとの説もあった。

土地にまつわる貴賤思想・力学のようなものに通じた天海が、日光等と共に、ここを幕府永続の聖地としたとの説である。

私が以前から久能山に来たかったのは、それへの興味もあったが、実際訪れると、意外に穏やかな場所のように感じられた。

静岡の温暖に思う

石造宝塔が立つ神廟見学後、元来た道を辿り東照宮をあとにした。その後、静岡市街中心部にある駿府城に移動し、少々見学して外出を終えた。

これにて2日間の静岡名所見学は終了。真冬ながら、両日とも当地らしい温暖で良き日和であった。以前から気になっていたが、同じ静岡県内でも、あれら静岡市内沿岸部は寒波が来ず、殆ど雪を見ないという。

これだけ温暖な地は山陽・東海の幹線沿いでは他に無いのではなかろうか。そう考えると、徳川家康が晩年駿府に隠居した理由がこの気候にあるように思われた。

幼少から12年も駿府で人質生活を送った家康は、当地の気候特色をよく知っていた筈だからである。

東海道沿いの要地でありながら、寒くないここで、朝廷や西国大名等に睨みをきかせつつ、老いの養生をしていたのか……。今回は、そんな考えも思い及ばされた、東海静岡行となった。

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2023年02月20日

雨水訪駿

三保の松原の浜から見た、夕陽を浴びる雪の富士山

馴染みなき地の名所へ

2月も下旬に入った20日の今日。海越しに富士山が見える地を訪れた。

二十四節気の「雨水」を過ぎた今らしい温暖のそこは、東海・静岡の名勝「三保の松原」であった。

これまでの人生で馴染み無いここに突如現れたのは、年末から続けていた知人支援の関係。無事難局の峠を越えたので、今回は逆に当地の名所を案内してもらうこととなったのである。


東海大学海洋科学博物館エントランス
三保の松原の前に連れて行ってもらったのは、この博物館。松原がある砂嘴というか半島の先端部分にある東海大学運営の「海洋科学博物館」で、所謂水族館であった。これはエントランス部分なのだが、屋根上にある施設名の幅広字体を含め、何か懐かしいというか見覚えある雰囲気である


東海大海洋科学博物館の海洋水槽
東海大海洋科学博物館の目玉的展示である「海洋水槽」。その大きさは幅10m四方・高さ6mで、アクリル張りでは日本最大という規模といい、約50種1000体以上の生物を飼育とのこと。水槽右上に写っているが、かの鮫も遊泳している。弱小の魚等とどうやって共生させているのであろうか


東海大海洋科学博物館の津波実験水槽での人口津波実演
こちらは個人的に気になった津波実験装置。屋外に設置されたもので、毎時人口津波を発生させて街の浸水や波の河川遡行等を実体的に見せる。写真は第一波のあと再び港湾に波が入るところ。昭和期に造られたものとしては先進的だが、もっと危機啓発を広めるものとして、後の被害軽減につながったなら、と複雑な気にもさせられた

実は水族館を含む一帯の施設は3月で廃止されるという。知人は、そのこともあり、急ぎ私を連れてきたが、こうした有益な施設は更に進化させて活用して欲しいと思った


東海大自然史博物館の山田守建築

古式建築の正体

海洋水槽や津波実験の他、多くの興味深い水族展示等を見たあと海洋博物館をあとにし、隣にある、写真の自然史博物館を訪れた。ここであることに気づく。この博物館建屋は何処かで見たものではないか。というか、日本では珍しい、古のゼツェション様式ではないか。

ここで一瞬日本の建築史を考えた。そうだ、日本モダニズム建築の旗手・山田守氏の作品に違いない。入場時に受付の女子に訊けば、正しく氏の設計との返答があった。ただ、前身施設の開館が1970年とのことなので60年代に没した氏の活動期と合わない。

また晩年に設計を済ませていたとしても、アーティストたる建築家が若年期の作風を再用するのかという疑問も生じた。真相はともあれ、受付女子によると3月の閉館と共に壊されるとのことなので、更なる衝撃を受けた。

惜しまれつつ戦後解体消失した氏の大正期の傑作「東京中央電信局」を想わせる建築なので、何とか残してほしい。きけば、同じ山田建築の水族館(入口での既視感の原因!)も惜しむ声に押され、暫く日を減らして継続することになったらしいが、ここも解体だけは避けてほしいと思った。


山田守建築のドーム天井の下に恐竜の大型骨格標本等が展示される、東海大自然史博物館上階
さて、自然史博物館の内部はこの様な具合に。主に恐竜等の古生物を紹介する施設となっていたが、上階の山田建築のドーム天井が大型骨格標本等の展示に良く合っていた


三保の松原の浜と松並木

雄々しくも残念?な並木

東海大の両博物館見学の後は、半島の先端から付け根側に戻り、いよいよ三保の松原を訪れた。

波が高い太平洋に面しているだけあり、去年行った天橋立より、土砂の盛り上がりが高く、雄々しく感じられた。昔削られ、海中に堆積した、西方は久能山の土砂が運ばれ形成されたらしいが、それでも、よく高波に削られないものだと感心した。


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三保の松原は松並木の樹勢が強く、大径木が多いのも橋立とは異なる点であった。環境的には厳しいが、土の厚み等で養分が得やすいのか。また、管理養生が行き届いている為か

ただ、少々残念なのが、周辺の市街化が進み、それとの境界が曖昧なところであった。海側から見るとそれらしく見えるが、陸側から見ると他の防風林と変わらない……という具合である。

知人によると、近年地元では「残念名所」と呼ばれているらしいが(笑)、そう言われるのも仕方ないようにも感じられた。まあ、それでも古代から知られた天下の名勝なので、今後も存続し、良くなってほしいと思った。

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2022年10月23日

丹後勝地行

京都府北部の大江山8合目・鬼嶽稲荷神社からみた日の出前の空と雲海

未明より話題の景へ

今朝珍しく3時半に起きて4時から外出。

自動車に同乗して向かったのは京都府北部の丹後大江山(今は大半が丹波側福知山市)。暗い京都市街から高速に入って北上し、更に下道から山間のつづら道をひたに上って着いたのが、標高650mの同山八合目であった。

明るみ始めた森なかの車道終端にある鬼嶽稲荷神社(おにたけいなり)前の路端には、なんと、整理係の人に誘導されて駐車する多くの車が。そして神社前の少し開けた場所には既に多くの人影があった。

神社前で転回し、車列後方に停車して広場に向かうと、写真の如き、山麓に押し寄せる雲海が……。そう、今朝は誘われて昨今府北で話題の、この雲海を観に来たのであった。

時は6時前。出発時間的に危惧したが、何とか6時10分頃の日の出にも間に合ったのである。


京都府北部の大江山8合目・鬼嶽稲荷神社からみた雲海上に現れた日の出
そして暫くして東の雲上から太陽が上ってきた。鬼嶽社前の展望所で待ち構えていた人達も一斉に撮影に集中


朝日に赤らむ、京都府北部の大江山8合目・鬼嶽稲荷神社横のブナの大木等の原生林
朝日を浴びて赤らむ、大江山八合目付近のブナの大木や天然林。そう、大江山はブナの原生林でも著名な場所であった。その黄葉は始まったばかりに見受けられた


西舞鶴、五老ヶ岳山上からみた建部山向こうの雲海や大江山

大江山での雲海とご来光観賞後、車行約40km(直線20km)東方の、西舞鶴湾を一望する五老ヶ岳(標高300m)山上へ移動。

写真は、そこからみた雲海(中央左から中央)。中央の台形の小山・建部山(旧軍港防御用の陸戦砲台)右奥にあるのが大江山である。

雲海は、この建部山と大江山の間を流れる府北の主要河川・由良川の影響により発生するといい、その流域に雲海が広がっているのである。


京都府北部・宮津の国分寺遺跡と阿蘇海対岸に続く天橋立

幻の古代丹後国府探索

五老ヶ岳での展望の後、車行約30km西北の宮津に移動して運転者の関係先で休ませもらい、その後港で昼食を摂り、宮津の名勝・天橋立を訪ねた。

ここで用がある運転者と一旦別れ、独りで橋立を初横断する予定だったが、その前に以前から気になっていた丹後国府推定地を巡ることにした。

写真は様々な記録や発掘により判明している、国府と同じ古代律令時代に造られた国分寺跡地。内海の阿蘇海対岸に連なるのが、天橋立である。

国分寺や国分尼寺は、古代令制国の中心地・国府に近い場所に造られることが多かったため、失われた国府跡を推定するには重要な存在であった。

恐らく、丹後国府も、この寺同様、内海を見下ろすこの丘陵続きに存在したと思われる。


京都府北部・宮津市中野集落を貫通する古代官道を踏襲したと思われる旧道と人為的切岸
その後、国分寺遺跡下の丘陵縁に続く、集落を縫う古道を東行。恐らくは古代官道を踏襲した前近代幹線跡だと思われる。後代の整形はあろうが、左山手の切岸が続く様にも、以前探査した関ヶ原付近の官道跡と似ている。実はこの付近は国府を意味する「府中」の地名を持っており、切岸上一帯が丹後国府の有力推定地となっている


京都府北部・宮津市中野集落の古道辻に立つ土蔵と成相寺参道「本坂」の町石等の石碑
国分寺下古道を更に進むと土蔵ある辻が現れた。傍らの古い碑(いしぶみ)には、背後の山上にある成相寺(なりあいじ)の主参道「本坂」の始点であることが記されていた。西国札所で著名な同寺へは現在国分寺背後から上る車道が一般的だが、前近代はここが主路だったようである。実は車を降りる前に成相寺まで上がってみたが、車でも急で遠い山上にあったので、必ず古い短絡参道がある筈と話していたが、奇しくもそれを証せた


京都府北部・宮津市中野地区にある府中小学校
国分寺下の古道はやがて学校用地に突き当たり終った。学校の名は府中小学校。国府関連地名を冠した学校である。衛星画像の地目・境界分析から、官道は本坂の辻手前から学校裏の古道に繋がっていたと思われた。恐らくは江戸幕府の方針や宮津藩の有事対策のために近世初期に遠見遮断化されたのであろう。本坂の町石も江戸初期の寛永年間に設置されたという


京都府北部・宮津市府中地区にある丹後一宮・元伊勢籠神社
古道端から、開放された小学校校庭を抜け海際の国道を東へ進むと元伊勢籠(この)神社門前に到達。丹後一宮に当るこの社も、国府と関連深い存在である。鳥居左山上に見えるのはケーブルカー施設で、所謂「橋立の股覗き」をする場所への交通であった。橋立東北端に近いため、籠社付近も観光地的雰囲気で、賑やか。しかし、結局国府関連の案内はなく、地表の痕跡は見られなかった。まだ発掘が進んでおらず、あくまで推定の域を脱していないからか。今後の調査進展に期待したい


元伊勢籠神社付近の浜からみた天橋立とその北東端

橋立初渡り

籠社前で国道を渡り、土産物街を抜けると、写真の如く橋立北東端が見えてきた。これから歩いてその西南端を目指す。

天橋立は昔ドライブ途中に寄ったことがあるが、駅近くの西南端を少し歩いただけで、渡ったことがなかった。そのため、今回初めて端から端までを歩き渡ることとなった。


京都府北部・宮津市の天橋立上に続く松並木と道
車止めがある橋立の入口を過ぎると、松並木のある未舗装の一本道が続く。面白いのが、特別名勝の天然の砂州道ながら、125t以下の2輪や軽車輌の通行が許されていたこと


京都府北部・宮津市の天橋立東縁の砂浜
天橋立の東縁・外海側には美麗な砂浜が広がり続く。道々にやたら厠が多く現れたのを怪訝に感じたが、思えばここは夏に水泳場となるのであった。珍しい、「使える」名勝・三景の一つか


京都府北部・宮津市の天橋立西縁の護岸と阿蘇海及び対岸の国分寺・国府推定地
対して橋立の西縁・内海側は護岸となっており浜はなかった。波も荒く、常識的想像とは異なる景色である。偏西風や山の吹きおろしの影響か。説明板によると、約2000年前に今と似た形となった橋立は、比較的深い海中に立つ壁の如き存在だという。これも、実に意外のことであった。この「特殊」が、基本不安定な砂州である橋立を、恒久的名勝とさせたのか


京都府北部・宮津市の天橋立上にある磯清水
橋立南部の最も幅が広い場所に現れた天橋立神社の磯清水。海に囲まれた砂州上ながら、甘い真水が樋から流れ出ていた。名水百選に指定されているが、何故か汲む人・立ち寄る人がおらず、人気がない。まあ、全長3km以上あり、大半の人が貸自転車を使用しているので、気づきにくいのか


京都府北部・宮津市の天橋立西南端の廻旋橋

文殊堂の賑わい最後に

北東端から歩き始めて30分以上、漸く南西端の文珠水路に架かる写真の廻旋橋が見えてきた。文殊堂で有名な智恩寺や駅に近いため、徒歩の遊山客も格段に増えてきた。

その後、智恩寺境内を通り、天橋立駅で待つ運転者と合流し宮津を後にした。橋立初渡り及び、今回の丹後観覧の終了である。そして、夕方、無事京都市街に帰着したのであった。

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2022年10月14日

北陸族会

永平寺唐門(勅使門)と苔むした参道

急参加の親族会翌日

昨晩から急遽福井入り。従姉等に誘われ、伯母宅を秘密訪問する、という催しの為であった。伯母宅の訪問や首都圏の従姉と会うのは、コロナ禍突入以来の実に3年振り以上のことである。

進めるべき仕事があったが急に決めたのは、伯母が高齢のため。また、自身を含め、いとこ達もそこそこの年齢に達していたので、貴重な集合機会を重視したのであった。

とまれ、突然の来訪に、伯母が驚きつつ喜んでくれたのは何より。

そして、久々の再会翌日の今日は当地の従姉の運転で、近くの名古刹・永平寺を訪ねた。写真はその顔的存在である唐門(勅使門)。

菊紋が並び付く皇族や住持用の貴賓門で、普段は開かず、また接近も叶わないが、気品あるその建屋と苔むした参道が目を惹く。


人も疎らな平日午前の永平寺門前
週末ながら平日とあって、永平寺門前もこの通りの空き具合。先日、コロナ関連の水際対策が緩和され、早京都に海外客が数多訪問し始めたが、地方のここはまだ暫く静かそうである


中雀門から見た永平寺山門
上方の中雀門(ちゅうじゃくもん)から見た永平寺山門(正門)。江戸中期建造ながら唐朝様式を伝える貴重な楼閣大門。下階に少々増え始めた参観者が見えるが、それでも人の少なさを感じさせた。コロナ禍以前に訪れた際は、人波を避けて撮影するのが難しいくらいであった

無事参観終え夜宴に

午後から増え始めた人と入れ替わるように参観を終え、寺を後に。すっかり足が悪くなった伯母が何とか階段多い諸殿を巡れたのは幸いであった。

その後、従姉等が門前街で人気の洋菓子を購入したあと、永平寺蕎麦店で遅めの昼食を摂り、伯母宅に帰還。家での休息後、夕食と共にまた皆で宴席となり、楽しく一日を終えたのであった。

関東の従姉共々、私も翌日離福・帰宅となったのである。

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2022年08月21日

続避暑再開

旧芹生小中学校前・淀川源流灰屋川傍に聳えるブナの大木

再びの機会に感謝

再開・芹生避暑行2日目。

暑さで知られる京盆地近郊ながら、例外的冷涼を誇る高所集落・芹生(せりょう・せりう)での久々の避暑泊。

いつもなら雨戸を閉め、冬布団を被らないと寝られないほど夜は冷えるが、今回は湿度の所為か、窓を開けても掛布団が要らない程であった。

それでも、同晩生じていた下界は京都市街の熱帯夜よりは雲泥の差で、快適なことには変わりはなかった。

そんな近郊高所での有難い夜を過ごし、比較的朝遅くに起き(一部の人は明け方から活動。笑)、その後、少々遅めの手料理朝食を頂いた。その美味しさ・多彩さにも、初めて来た同行者らは感心頻り。

そして、その後、午後遅くまでひたすら寛がせてもらってから芹生をあとにした。帰りは往路経た貴船には下りず、一路丹波山地を北上してから、山間の灰屋や黒田・花脊等の集落を経て鞍馬に下り、帰宅した。

近場での僅かな避暑行であったが、同行者には喜んでもらえたようで何より。個人的にも久々に滞在することが出来て良かった。

コロナ禍継続の時世柄、宿の人に無理を強いたかもしれないことは少々心苦しかったが、一先ずは感謝で締めくくりたい。


上掲写真 旧芹生小中学校前・淀川源流灰屋川傍に聳えるブナの大木。今日も芹生は時折雨が降る天候となったが、これも、緑色(りょくしょく)新たにして、また良し。


清澄な芹生集落を流れる灰屋川の流れ
今朝も清澄な、芹生集落を流れる灰屋川の流れ

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2022年08月20日

避暑再開

京都貴船奥にある高所集落・芹生の家並と集落を流れる灰屋川

こちらも3年ぶり

今日は午後から京盆地北縁の山村・芹生(せりょう・せりう)に向かう。

その目的は、事情に因り長くお預けとなっていた身内の退職祝と避暑を兼ねた1泊休養であった。

京都市街近郊の高所集落・芹生は、最近毎年の如く訪れていた個人的避暑地。だが、コロナ禍の影響に因り、去年・一昨年と来ることが出来ず、祇園祭や五山送り火同様、3年ぶりの再訪となった。

とはいえ、死亡率が下がったものの未だコロナ禍は続いており、しかも感染者は過去最高の多さになっていたので対策に留意しての決行となった。

ひょっとして、2年間断り続けた宿の女将さんが、こちらを気の毒に感じ、無理に開けてくれたのかもしれない。事実、人数等を含め色々と制限をしている、とのことだったので、特別だった可能性は高い。

もし、そうであれば申し訳ない限り……。

貴船奥の冷涼天地

さて、借りた車輌にて貴船を過ぎ、芹生に到着。混雑を身構えていた貴船の細道は警備員導入による上下交互通行が導入されていたので、思った程時間を費やさずに通過することが出来た。

そして、芹生はやはり涼しかった――。

さすがは標高620mの高地。今日麓の市街は33度超の暑さであったが、25度前後の低さであった。ただ、湿度が高く、例年よりかは暑く感じられた。久々に会う女将さんも、そのことを詫びること頻り。

まあ、それでも冷房の必要は感じないので、連日暑さに苦しめられていた身心も一休み。初めてここに来た同行者らも驚くこと頻りであった。

ここより高所の街でかなりの暑さを感じたことが多々あり、以前から不思議に感じていたが、ひょっとすると、ここは周辺の山の頂と然程高さが変わらないので、所謂フェーン現象が起こらないから涼しいのか……。

天候は下界同様の曇りだったが、折角なので、コロナ禍前と同じく水着に着替え、少し川に浸かってみることにした。結果はお約束通りの冷水。

今年はまだ泳ぎに行けてないので、少しでもそれをしたかったが、数秒浸かるのが限界であった(笑)。

この後、空は益々重さを増し、まとまった雨を北山杉囲む山あいに注ぐ。

そして、それがあがったあと、少々周辺を散策し、夕方、湯に独特の「力」をもつ薪ボイラーの風呂に入り、名物の鶏料理等を頂く等した。


上掲写真 京都貴船奥にある高所集落・芹生の家並と、集落を流れる淀川水系桂川の源・灰屋川。

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2022年04月22日

芸備新緑行(其肆)

広島・呉市街の縁から続く山腹・崖上住居への登り坂

最後は方々巡りつつ

今日は広島行4日目で、即ち最終日。

朝また友人宅付近を散策し、その後、子守の応援に来たお母さんや仕事へ向かう細君と別れ、友人と共にその車で広島をあとにした。

終日雨だった昨日と異なり、また暑さ感じる快晴のなか向かったのは、広島東南の呉であった。昨日もそこを少し歩いたが、今日は市街山手等も巡ってみることにした。

旧軍港の呉は戦前、海軍の発達や国際関係の変化により拡大を続けたため平坦地が枯渇し、周囲の山腹・崖上にまで住宅が犇めく特異な姿となった。そうした、呉市街の特質的箇所を踏査したのである。

写真は、正にそんな崖上・山腹に続く坂・石段の始点。呉の平地端には、こうした細坂が無数にあり、麓と上方を繋いでいる。


呉の崖上宅地から見た呉市街と呉港及び自衛隊艦船等
市街中心の商店街から近い、しかし怖い程急な石段を登ると市街の家並と共に港が見えてきた。今も自衛隊艦船等が停泊する軍港・呉の姿である


呉の崖上宅地から見た山腹住居
同じく崖上宅地から見た山腹住居。一部には車道が通されているが、殆どが徒歩でしか辿りつけない場所にある。建築資材をどうやって運んだのであろうか。因みに、そうした災害に弱い条件や、崩落の危険性から、撤去された空地への再建築を禁じる公示が方々で見られた


古い石垣や煉瓦壁、そして住宅が残る呉の崖上宅地と急階段
呉の崖上宅地の見所は、こうした戦前築らしき石垣・煉瓦壁や建屋が多く残っていること。険しいながらも、大きく立派な家も少なくなく、中には洋館部屋を備えたものも散見された。元海軍士官等の住居であろうか


呉の市街平坦地に残る古い木造住宅
こちらは崖下の古い住宅(町家)。市街平坦地にも空襲の難を逃れた意外の古民家が数多残っていた


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呉の古街探索のあとは、休息を兼ね、B級グルメ賞味に。大通り沿いながら、これもまた戦前築を想わせる古い家屋を利用した地元著名のクレープ&お好み店だが、残念ながら午後休みで食べることは叶わなかった。代わりに、近くのこれまた地元人気店にて拉麺を馳走になる


広島県・仁方に残る旧亀甲ヤマト醤油醸造所の古い建物
その後、呉を離れ、東に進んで仁方という街に。ここも海辺だが、過密気味の呉とは対照的な開放感に満ちた良所であった。古い煉瓦煙突を擁する中央の屋敷は、その川辺にあった旧醤油蔵。仁方は鑢(やすり)製造の他、酒や醤油の醸造が盛んだったという


三原城の天守石垣と新幹線ホーム

広島最後は三原にて

仁方の次はひたすら海岸や内陸を東行し、三原に。今日はここから新幹線で帰京する予定であった。

友人が途中の竹原の古い町並を案内してくれる予定だったが、三原と間違えたようで(笑)叶わなかった。しかし、途中の瀬戸内の眺めが素晴らしかったので満足であった。

写真は、彼の豊臣五大老・小早川隆景が整備した三原城の天守石垣。右上に新幹線ホームが乗るが(笑)、大和郡山城本丸同様の古式(石垣隅の傾斜角等)を伝える貴重な遺構であった。


三原駅構内に掲げられた三原城古図や城の説明
三原駅構内に掲げられた近世の三原城古図や城の説明。駅構内から自由に天守台に上れるため、我々も暫し見学


三原名物「たこめし」弁当

その後、友人と別れ、17時半過ぎのこだま号に乗車した。そして程なく福山でのぞみ号に乗り換え、そこから1時間程で京都に着いた。行きの車行では時間がかかりその遠さを痛感したが、改めて近さも実感したのである。

結局自宅には京都駅からバスに乗り換えた後の、20時過ぎに帰着出来た。

写真は乗車前に友人が駅で買って持たせてくれた三原名物「たこめし」。乗車時間が短かったため結局家で食べることになったが、蛸が柔らかく、想像以上の美味であった。個人的に、福井の鯖寿司に並ぶ名駅弁か。

とまれ、終始お世話になった友人及び家族に感謝。良い旅を有難う!


「芸備新緑行」1日目(其壱)の記事はこちら
「芸備新緑行」2日目(其弐)の記事はこちら
「芸備新緑行」3日目(其参)の記事はこちら
「芸備新緑行」4日目(其肆)の記事はこちら

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2022年04月21日

芸備新緑行(其参)

広島向洋集落に残る、丘裾の花崗岩を刳り抜いて造られた澤井井戸と清澄な水

荒天に因り近場楽しむ

今日は広島行3日目。

朝から生憎の雨で、雨量もそこそこに……。そんなこともあり、今日は遠出せず、ゆっくりすることとした。

ただ、それでも友人宅付近の古街を散策したり、広島市街のショッピングモールやホームセンターを訪れ、友人の買物支援や食事等を楽しんだ。

写真は、向洋(むかいなだ)という広島市街東部の集落奥にあった古い共同井戸。路地奥の共同井戸は京都の他、珍しいものではないが、ここのものは地盤の花崗岩を刳り抜いた珍しいものであった。

しかも、現在でも清澄な水を湛えている。向洋集落は今は内陸風情だが、嘗ては広島湾内の入江に面していた。そのため、背後の花崗岩丘陵を源とするこの様な井戸が数多く造られ、残存している。

ただ、丘上が全て宅地開発されたため、場所により水質が落ちてしまったらしい。


広島市街東部向洋集落に残る古い日本家屋や町家
向洋集落は原爆の加害半径から外れたため、この様な戦前築の日本家屋や町家が数多く残っていた。ただ、多分に漏れず、ここでも再開発や建て替えが進んでいた。嘗ては広島東郊の漁村・農村であったこの地域も、戦後に市街化・ベッドタウン化した為である


広島・呉市の繁華街付近にあった飲み屋街「やよい通」
呉市中心の繁華街に隣接する飲み屋街「やよい通」

意外のまち呉

夕方からは、友人が広島南東の都市・呉近くのパン屋に行くついでに、同市中心部を訪れ、少々散策したり、当地の甘味や拉麺を食したりした。

同じく旧海軍要港で現海自関連都市・舞鶴に比して繁華だったことは意外であった。また、戦中激しい空爆に曝されたにもかかわらず、古い木造家屋が数多く残ることにも感心した。

そして、その後広島に戻り、友人宅にて飲み語らい、日を終えたのであった。


「芸備新緑行」1日目(其壱)の記事はこちら
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2022年04月20日

芸備新緑行(其弐)

広島市西郊のマンションの狭間に現れた宮島の峰々

月並ながらの?名所へ

出張仕事の予定が不意に旅行扱いとなった広島行の2日目。今日は朝から私が希望していた宮島へと向かった。

広島在住の友人にすれば、京都人が金閣寺に行くようなものなので、乗り気ではなかっただろうが、快く準備してくれていた。


上掲写真 広島市街を抜け、その西にある宮島口に向かう途中に現れた高楼彼方の山群。その鋭い山容や只ならぬ雰囲気に驚き、惹かれる。果たして、この山の正体は……。


真新しい宮島口の渡船乗場
広島西郊にある宮島への渡し場「宮島口」に到着すると、真新しい乗船施設に出迎えられた。友人も驚く最近落成の建屋のようで、付近ではまだ関連工事が続いてた。彼曰く、以前の昭和色は一掃されたようである(笑)


宮島口港で出発を待つ宮島フェリー
新しい宮島口港施設で待つこと暫して渡しのフェリーに乗船。元官営のJRと民営の2路線が盛んに船を往復させていたが、券売や乗場が微妙に異なるので解り辛い


宮島口出発直後のフェリーから見た、対岸は宮島の島影
宮島口出発直後のフェリーから見た、対岸は宮島の島影。陸では暑いくらいの陽気だったが、海風の所為もあり、船上は忽ち寒くなった。友人が半袖の無防備だったので、着ていた胴着(ベスト。絹製)を貸す(笑)


神々しい存在感を持つ宮島の山々
先程広島西郊から覗いた存在感ある山嶺は宮島の峰であった。そして彼の厳島神社は、この山々の麓にあった。恐らく、古代、神社はこの神々しい山々を意識して造られたに違いない。これは子供の時には気づかなかった発見であった。実は宮島には大昔修学旅行で来たことがあり、その時感銘を受けた神社周辺の清々しさが気になり、月並の名所ながら再訪を望んだが、往時は何かの理由でこの威容に気づかなかったようである


食べ物をねだり付きまとう宮島の鹿
そして間もなく宮島の港に着き、懐かしい厳島神社へと歩き始める。途中、土産店街で友人から牡蠣カレーパンやアナゴ竹輪を馳走になったが、早速古来からの住民・鹿が現れ、無心を受けた。餌やりは禁止されているため無視するも、暫し付きまとい、余所見した瞬間、食べ物を持つ手を鼻で突かれたが、何とか防ぐ


厳島神社前の石灯籠やその先の干潟上に聳える修復中の大鳥居
明るい海辺の参道を歩くこと暫しして厳島神社前に到着。少時見た社前の干潟が時空を超えてそのままの姿で現れたが、残念ながらその先に聳える大鳥居は修理足場で覆われていた


入江奥の干潟上に広がる厳島神社の社殿群
そして入江側を見ると厳島社の社殿群が干潟奥に広がっていた。随分昔に訪れて以来、台風による大きな被害も受けたが、無事元の姿に戻り何より


厳島神社裏のロープウェイ駅行バス停付近の新緑や青紅葉
厳島神社裏の新緑や青紅葉

時間の関係と友人の希望で厳島神社には寄らず、社殿裏を進む。本来は社殿に入り、稀少な水上回廊を巡りつつ参拝したかったが、既に時間も遅かったため、またの機会の朝訪れることを密かに決した(少時の思い出もあるが、実は先祖にここを厚く崇拝した平家方がいることも影響)。


新緑の紅葉谷を行き交う宮島ロープウェイ
厳島神社裏の新緑の森を暫し歩き、鋼索線(ロープウェイ)に乗る。友人の希望によるもので、これまで乗ったことがなかったらしい。勿論、私も乗ったことがないので、山上のことを含め、大いに興味をもった


宮島ロープウェイ獅子岩線の大型ゴンドラ
「紅葉谷線」という鋼索線は10分程上昇した山上の「榧谷」という駅で終り、写真の「獅子岩線」の大型ゴンドラに乗り換えとなった


宮島の獅子岩山頂から眺めた、榧谷鋼索駅方面や彼方の広島市街及び広島湾
大型ゴンドラは対面の峰に向かって上昇し、5分程で獅子岩に終着。そこからは更に歩いて最高峰の弥山(みせん。標高535m)やその近くの大聖院伽藍に行けるが、時間の関係で獅子岩山頂から周囲を眺めるだけとした。写真は、北は来し方の榧谷駅がある稜線や、彼方の広島湾及び広島市街


宮島・獅子岩山頂から見た、南は周防大島方面の安芸灘
同じく宮島・獅子岩山頂から見た、南は周防大島方面の安芸灘


宮島の町家通りと厳島神社横の五重塔

またゆっくり再訪したい宮島

獅子岩山頂からまた鋼索線を伝い厳島神社裏に下る。山上もまた、改めてゆっくり再訪したい。その際は歩いて登るのも良いかもしれない。

神社帰着後は往路と異なり内陸から港に通じる写真の「町家通り」をゆく。その名の通り戦前築とみられる古い町並みが残る場所である。

そして、また連絡船に乗って島を後にし、広島市街に戻った。その後は新たな知人を加え市街中心にある名店にて広島焼を馳走になったのである。

同行の友人親子及びその知己に感謝!


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2022年04月19日

芸備新緑行(其壱)

岡山県三石地区の古い洋館事務所

コロナ以降最長・最遠の旅

今日は昼から友人の車に同乗して一路西へ。

向かったのは、何と広島。所蔵の古建具を彼に譲ることとなり、その運搬を兼ね、私も彼の地に行くこととなった。

本来は、彼が買う予定だった古民家の改装監修と手伝いのため仕事として1週間程出向く予定だったが、事情により延期となった。

しかし、帰りの切符等が手配されていたので、業務中止の詫びがてら、招待旅行としてくれたのである。

その旅程は3泊4日。コロナ禍以降としては最長・最遠の旅行となった。


上掲写真 広島行の途中で立ち寄った、岡山県東南の三石(みついし)地区の古い洋館事務所。恐らく補修のため全面金板張りにされているが、各部の意匠や建具・電灯設備等から、戦前の建築とみられた。

岡山県三石の耐火煉瓦工場の古い煉瓦煙突や洋館棟

備前窯業の地・三石

加古川まで高速で行き、その後バイパスを利用して西へ進んだ。国道でいうと2号線、即ち旧山陽道付近をゆくルートである。

そして、岡山県の山間に入り、友人の勧めで三石という集落で旧道に入り、暫し見学することとなった。新緑の山々に囲まれた小さな地区だが、幾つかの事業所があり、僻地らしからぬ生気があった。

実は、ここ三石は備前窯業、即ち近代備前焼の一産地で、煉瓦工業が盛んな地であった。写真はその中の代表的な事業所。古い事務棟や煉瓦積み煙突が窺われるが、現役で稼働する工場である。


岡山県三石の煉瓦工場
こちらは上述会社の斜め向かいにある別会社。同じく煉瓦を扱っており、奥に製品らしき各種煉瓦が積まれていた。三石は古くから蝋石の著名産地で、後にその屑を利用した耐火煉瓦の製造が主流になったという。それには、この地方の伝統産業「備前焼」の技術や設備が役立ったらしい


岡山県三石の煉瓦工場横の路地
上掲会社の横には背後の山へと向かう路地があり、そこを進むと……


岡山県三石の煉瓦工場裏山に残る古い煉瓦煙突
山裾に古い煉瓦煙突があった。この地を何度も通過した友人が教えてくれたものだが、焚口のない不思議なものであった。平地側が土崖となっているので、嘗てその下に登窯的な焼成棟があり、その排煙口と接続されていたのか。通り(谷)を挟んだ向こうにも同様の煙突があったが、それは倒壊していた。恐らく、この煙突も何れ同様となるに違いない

煙突山で知る地方史の奥深さ

ところで、倒壊した煙突辺りは平坦地となっており、その上部の山腹には更に何面かの平坦地が続いていた。そこには古い野面積みの石垣跡や倒壊した石鳥居もあり、近代以前の人跡が疑われた。

山上への主要通路には成り難い場所であったが、中世の城塞とその跡を利用した近世以降の宗教施設の存在が想われた。

後で調べると、やはり山上には南北朝から戦国期に使われた城塞・三石城の跡があり、ここはその主郭直下の支尾根末端という要地に当っていた。

煉瓦工場が並ぶ旧道は、実は中世以前に遡る山陽道の跡で、城はその要路を押さえるために築かれたものであった。山間の小工業地・三石は意外の要衝だったのである。その証に、元赤松氏配下で彼の豊臣大老・宇喜多氏の主君であった備前・美作の雄・浦上氏が居城にしていたという。

何気ない散策とそこでの発見に、地方史の奥深さを知る思いであった。


備前焼の中心地・伊部の天津神社

備前焼の本場

三石を後にして、更に山間を西に進み、伊部(いんべ)に到着。日本六古窯の一つ・備前焼の中心地である。ここでも車を置いて暫し散策した。

以前から訪れたい場所だったので、良い機会となった。写真は、旧道沿いに続く古い町並みの途中に現れた天津神社(あまつじんじゃ)。

旧伊部集落の中心、氏神社として、小社ながら大変良い雰囲気をもつ社であった。


備前焼の中心地・伊部の天津神社の随身門
伊部・天津社本殿下の中門(随身門)。脇の塀や下段の「神門」等を含め、瓦は全て備前焼が使用されており、地域色溢れる装いであった


夕陽眩い伊部集落と旧山陽道
夕陽眩い伊部集落と旧山陽道。煙突ある備前焼窯元や直売所等が並ぶ

伊部もまた、三石同様、旧山陽道沿いの要地であった。ただ、その平野は広く、既に市街地と呼べる家屋数や人口を有していた。

そこの直売所にて、記念に伝統的な火襷(ひだすき。藁を添えて焼しるす赤い筋模様)の備前杯を購入。そして街を後にした。

初日終了
日本の広さ?実感


伊部のあとは、岡山手前の温泉施設に寄り、その近くの中華食堂にて食事。繊細美味な料理を供する店の主は瀋陽出身の東北華人らしく、コロナ禍での大陸事情等の話も楽しんだ。

そして、すっかり日の沈んだ山陽路をまた西へ進む。高速とバイパスを乗り継ぎ岡山・福山・三原と進み、23時過ぎ広島市街の友人宅に到着した。

色々寄り道し、また友人が道を間違えたりもしたが(笑)、日本の広さを少々感じさせられたような旅行初日となったのである。


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2020年11月27日

新艶地余香

奈良郡山の洞泉寺遊郭跡に残る大型妓楼「川本楼」の中庭(現・町家物語館)

消えゆく色町へ

今日は朝から奈良の郡山へ向かった。

11年程前に古図と共に環濠集落を巡る「平会(ひらかい)」の企画で同地を訪れたが、その際、偶然目にした遊郭建築が近々破壊されることを知ったからである。

正確に言うと、既に今春から破壊が始まっており、今秋破壊予定の一軒が辛うじてコロナ禍の影響で実施中断となっていた。また、別の1軒が近年公開されていることを知り、その見学を兼ね急遽出かけたのであった。

なお、今回の表題は、昔巡ってこのサイトで紹介した京都府西部にある「橋本遊郭」の続編的に、その時の表題に「新」を付して表した。


上掲写真 大和郡山・洞泉寺遊郭跡に残る、地区最大の大正13年築妓楼「川本楼」の内部と中庭。郡山市が買取り、修繕・耐震工事を施し、現在は「町家物語館」という名称で一般公開されている。


2009年3月1日撮影時に残存していた旧洞泉寺遊郭の大型妓楼3棟

奈良四大公許遊郭之一「旧洞泉寺遊郭」
(旧大和郡山城下東南)


写真は、2009年3月1日の平会時撮影の旧洞泉寺遊郭の3棟の大型妓楼。近鉄郡山駅から東へと続く城下古道から眺めた際に発見し、ここを遊所と断定し、興味を持つきっかけとなった妓楼群だが……


2020年春及びそれ以前に妓楼が破壊され更地となった旧洞泉寺遊郭の一角
今回訪れると、報道通り、きれいさっぱり破壊・撤去され更地と化していた(前掲写真とは逆方向から撮影)


2009年3月1日の平会時に撮影した大和郡山・洞泉寺遊郭の妓楼横から伸びる路地と突き当りの川本楼(現・町家物語館)
こちらは同じく2009年3月1日の平会時に撮影した前掲妓楼群奥(南)から伸びる路地。突き当りに川本楼、即ち現町家物語館が見えるが……


手前側の妓楼が撤去されて手前に露出した今秋破壊予定の3階建大型妓楼「中山楼」
今回はこの通り手前側の妓楼がなくなり、川本楼手前に今秋破壊予定だった3階建大型妓楼「中山楼」が露出していた。前の3楼が破壊される直前に内部見学が催されたとのことだが、知らずに逃してしまった。残念!


奈良・大和郡山の洞泉寺遊郭跡地の源九郎稲荷前に残る2棟の大型妓楼
こちらは解体更地前の路地を更に奥に進んだ場所に残る大型妓楼2軒。現在賃貸し中とのことで、差し迫った解体危機はないようである。遊郭建築に特徴的な軒下の電灯群が往時のまま完存。手前側の妓楼右には別玄関があり建屋裏の離れと接続している。内外相当な格式の造り。賓客か当主用か


奈良・大和郡山の源九郎稲荷・洞泉寺横に広がる旧遊郭妓楼跡の更地
上の妓楼2棟の奥突き当りには源九郎稲荷という古社と地名の元となった洞泉寺があるが、その隣はこの様に広大な更地が広がっていた。寺社前で路地が屈曲し更にその先で巻いてロの字を形成することから、ここも旧遊郭街の一部で、その最奥区画だったとみられる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の南奥から見た旧川本楼(現・町家物語館)の側面
奥の更地前を過ぎ、また屈曲を右に折れると川本楼の側面が見えた(写真左の3階建)。道はその奥の寺門前でまた右に屈曲し最初の場所に戻るので遊郭街がロの字で構成されていることが判る。因って、この路地に面した寺社以外の場所は遊郭か、その関連施設が占めていたと思われる

遊郭街への出入りは、表通りからの接続と奥の更地前を真っすぐ進んだ先の前後2道しかなく、京都・三本木遊郭等と同じ閉鎖構造を成している。

嘗てこの地区は二辺が外壕に接する城下東南隅に当たり、城外に通じた表通り直近の要地であった。そのため、藩政期に軍事転用に都合よい大建築の寺社や妓楼が計画的に配されたのではなかろうか。閉鎖的で見通しの悪い町割も、その防塞的役割に因るものとみられる。

写真手前の路面を横切る石畳は、花崗岩製の小橋。古く趣のあるもので、遊郭時代の名残りかと思われる。左の欄干に車の衝突とみられる割れが見られるが、是非このまま現地保存してもらいたいものである。


2009年3月1日に撮影した奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の旧川本楼(現・町家物語館)側面の傷み具合
因みに、2009年3月1日の平会時に撮影した旧川本楼の側面はこの様な状態であった。土壁の保護板破損が著しく、土壁自体にも傷みが多く見られた。本格的な一般公開にあたり上掲写真の如く補修・一新されて何より


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡に残る木造3階建の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」

公開妓楼・旧川本楼(町家物語館)内部見学

さて、遊郭街を一周し、いよいよ旧川本楼・現町家物語館を見学する。その建屋傍に立ち、改めて見上げると、木造3階建のその威容が迫る。


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の玄関内部
1階中央にある玄関から中に入る。間口は然程で広くないが、その奥行は深い。左壁際に内庭状の石組みや床の間状の設えがあるが、その昔妓女の写真を飾った場所という。本来は、玄関左の和室「娼妓溜」に集う娼妓を客が外から格子越しに、また店内で直接見るなどして見定めたが、禁止され大正末年に写真式に定められたという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の玄関室右横の客引控室
こちらは玄関室右隣の客引用控室。箪笥等の調度品はこの部屋に限らず適当に飾られたもので、往時を様子を再現したものではないとのこと


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の玄関奥の通庭
玄関室奥の土間から玄関方向を見る。土間は「通庭(とおりにわ)」として1階各部屋を繋ぎつつ屈折しながら奥へと続く。ここで係の人から声をかけられ、解説付の見学が始まる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の帳場
こちらは玄関室奥の土間向こうにある帳場。中央の磨硝子に設けられた猪目(いのめ。ハート)状の透明部分で来客を察知し、右の障子小窓で前払い料金を徴収したとのこと。因みに、この部屋や左側(正面から見て右側)に連なる和室は事務や当主らの生活の場となっていた


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の帳場奥に続く中庭や大広間
帳場から建物の奥を見ると、その奥行の深さが実感できた。硝子越しに、井戸がある中庭や、その奥の大広間、そのまた向こうの奥庭や土蔵までの連なりが窺える。洞泉寺遊郭最大の妓楼であったという説明内容を実感


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階の洗面所
こちらは中央左手奥の廊下際にあった洗面室。蛇口以外の全てが古式のまま残され、今なお手洗場として機能している


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階浴室
これも、同じく廊下際にあった浴室。3畳程の広さで天井が高く、洋館的な設え。浴槽等は撤去されたようである。天井は漆喰左官仕上げで、中央に楼主家の柏葉の家紋が表現されている。楼主一家が使い、妓女らは銭湯通いと聞いたが、場合により共用していたかもしれないとのこと


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階奥にある料理坊
こちらは1階左手奥、洗面室背後にある料理坊。玄関から続く土間「通庭」の一部である。今は撤去されているが右端壁際に竈があったという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の料理坊横の吹き抜けと補修された猪の目窓
これは料理坊左横に続く吹き抜け。今は天部に覆いがあるが、本来は開口しており、猪目型の窓(欄間)共々、煙出しを成していたという。猪目窓は建屋側面に見えたものであり、以前は傷んでいたが、見ての通り、補修されたようである。心配していたので良かった。安堵である


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階廊下突き当りにある洗浄室
そして廊下奥の突き当りには洗浄室なる小部屋があった。感染症予防等、妓女の衛生のための施設とのこと。内部は非公開か。右の窓外は奥庭


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階奥の厠(便所)
洗浄室の左には厠が並ぶ。華奢ながら開閉が頻繁という宿命をもつその瀟洒な建具が往時のまま残存しているのも珍しく、貴重。因みに、内部の器具は更新されているものの、来館者等用に現役利用されている


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の奥庭と納屋と土蔵
厠前の廊下を右折して奥庭を見る。築山風に奥が高くなっており、敷地最後部に納屋や土蔵がはだかる。それらの建屋は母屋に先んじて大正11年に造られたという、敷地内最古の建造物


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の1階右奥の茶室
奥庭の右、即ち厠対面には楼主用の茶室があった。四畳半の奥に水屋があり、庭の飛び石と接続する躙り(にじり)口を持つ本格的なものである。茶室を持つ遊郭は川本家だけの特殊ではなく他にも類例がある。現在売色の経営者に茶の心得がある者は一体どれほどいるのか。そのことからも、暗く語られがちな遊所の、今とは異なる性質・時代性が感じられる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」2階の階段室と廊下
会計部屋(現係員詰所。通庭左)手前奥の階段から2階へと上る。階段の欄干や床板に至る全てが往時のまま保存されていて心地よい。ただ公開施設として法的に耐震性を備えなければならないので、改修工事の際、土壁隅に柱を繋ぐ金具が仕込まれたという。嘗て耐震性を得る為には無粋な鉄骨を入れる必要があったが、技術の進歩か、趣を壊さぬ施工が叶って何より


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の3階廊下沿いに並ぶ客間
そして2階の表側(道側)廊下には妓女たちの小部屋が並んでいた。彼女たちが寝泊まりし、客の応対も行った「客間」である。これは3階の写真だが、2階も同様ながら、廊下が狭く後ろに下がれなかったため掲げた。ただ、2階は4室と納戸、3階は5室が一線に並んでいる


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」の2階のガス灯
2階の柱上方々には瓦斯(ガス)灯が往時のまま残っていた。妓楼の施工時は既に郡山市街にも電気が通っていたが、当時の電力事情の悪さを考慮し補助的に用意されたものという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」2階の客間
2階表側の客間内部。3畳板床付の間取りとなっており、外からの視線を遮るため格子が狭く、磨硝子も用いられているため室内は暗めである。2階には同様の客間が全6室あり、その他「案内所(客接待用の広間)」「客座敷(同)」「髪結場」があり、右奥には楼主の居住空間もあった


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」2階と3階を繋ぐ大階段
2階と3階を繋ぐ大階段。以前参観者が転倒して負傷したため、通行禁止となっている。この他、2階と3階を繋ぐ階段は全2所、1階と2階を繋ぐ階段は全4所もあり、それぞれ妓女用・給仕用・楼主用・客用等と使い分けられており、それぞれ顔を合わせず通行出来たという


奈良・大和郡山洞泉寺遊郭跡の公開妓楼「町家物語館(旧川本楼)」3階表側隅の客間
3階隅の客間。2階と異なり格子の間隔が広く磨硝子もないためかなり明るい。その為か、人気妓女らが占めたようである。この部屋は4畳半ある最大のもので、他は2階同様、3畳に半畳板間付で、全9室あった。但し、この様に明るい部屋はこの部屋を含む表側5室のみである

以上で旧川本楼の見学は終了。慎重かつ丁寧な補修方針と施工の賜物か、妓楼という範疇に拘らず、公開古屋として稀に見る、非の打ち所のない優良施設であった。公開の箇所も広く、非公開とされた場所は当主間等の極一部で、懇切丁寧な解説がつくのもいい。

土地家屋の取得を始め、補修・維持等々の莫大な経費負担を決断した郡山市の英断を称えたい。ただ、20年前にこの動きがあれば、遊所遺構として多くの妓楼を保存・活用出来たかもしれないことが少々悔やまれた。

そして、係の人に丁重に礼を述べ、募金箱に寸志を投じ、楼を後にした。


奈良・大和郡山の旧城下に残る最古の町家で紺屋建築の箱本館全景と紺屋川

古き町家残る郡山城下

洞泉寺遊郭を出て次の旧遊所「東岡」に向かうが、その途中少し遠回りして旧川本楼で紹介してもらった、箱本館「紺屋」という施設に立ち寄った。箱本(はこもと)とは城下町衆の自治組織で、豊臣秀長が城下を築いた天正年間(16世紀後期)に遡るものという。

写真は箱本館の正面全景で、前を流れる紺屋川の名の通り、藍染めを生業にした元紺屋の古建築であった。現在は郡山城下最古の町家として保存され、箱本の歴史や郡山名物の金魚養殖等を紹介する施設となっている。

平屋にもかかわらず屋根が二重になっているのは、奈良盆地及びその周辺に特徴的な「大和棟(やまとむね)」の影響とみられる。恐らく、古い時代は同様式と同じく、上段が茅葺だったのではなかろうか。


太り梁組みに古式が窺われる奈良・大和郡山最古の町家・旧紺屋奥野家箱本館
箱本館内部。板を使わない屋根下造作や太い梁組みに古式が窺われる。18世紀後期の建築とされ、20世紀末の廃業後に郡山市が買い取り、現在は内部に休憩室や地場産品販売場、藍染め工房等を擁する総合観光施設となっている。勿論座敷を見学することも可能で、収蔵品展示室にもなっていた。ここも、実習費用や飲食・物品販売以外、全て無料で感心させられた


ばったり床几と角張った虫籠窓のある奈良・郡山の古い町家
箱本館の他、旧城下地区では、この様な大型の町家が方々で見られた。この町家は2階部分の低さから、幕末近世後期から明治初期頃建造の近世型と思われる。浮き出る様に仕上げられた2階の角張った虫籠窓(むしこまど)が特徴的で、方々で同様が見られた。1階左に備えられた「ばったり床几(ばったん床几。畳み上げ式長椅子)」は他では見られなかったので一写


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る荒れ果てた3階建大型妓楼

旧東岡遊郭
(旧大和郡山城下南)


町家が残る旧郡山城下の商店街を経て、やがて市街南部の東岡町域に入った。とはいえ、市街東南の洞泉寺地区からは直線半キロ程の近さである。

その町域は、南外堀の門跡近くにあったが、土居(土塁)と堀の囲繞から外れた城外の地であった。一応近世から続くとされる奈良4大遊所の一つらしいが、少々特殊な立地である。洞泉寺より後で設けられたのであろうか(町割り自体は17世紀中頃の最古級絵図にあり、武家奉公人街と記載)。

さて、町域に入るも、変哲なき住宅街が続き、妓楼が見当たらない。洞泉寺のように以前訪れた場所ではなく、下調べも甘かったので少々手間取ったが、生来の勘を働かせて宅地の奥に聳える妓楼を発見した。

写真はその一つ。しかし、見ての通りかなり荒れ果てた姿であった。昭和31(1956)年の売春防止法制定で一斉に営業を止めた洞泉寺遊郭とは異なり平成初年まで密かに営業を続けたとされる割には随分な荒れ様である。

以前郡山に住んでいた知人によると、市街南辺は治安的に憚られる場所だったらしく、そのことなどと関係があるのかもしれない。また、妓楼正面向かいには他の妓楼撤去後に放置されている様な広大な空地があった。


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る荒れ果てた3階建大型妓楼
上記妓楼の側面。雨戸も朽ち破れ、ただ無残のひとこと。割れた窓から中を覗くと、既に屋根や各階の床全てが崩落していた。もはや手の施しようがない状態である。敷地及び建屋奥行も深く、旧川本楼と同じかそれを以上の大建築で、各部の意匠や構造も多彩なため、大変惜しく感じられた

倒壊の危険すら感じられる妓楼傍で見学や撮影をしていると、地元の老婆が現れ、この建屋のことや他の残存妓楼の場所等を教えてくれた。

曰く、この妓楼については近所の住民も心配しているが、所有者と連絡がつかないため対処不能の状態だという。また、洞泉寺地区と同じく、近年多くの妓楼が取り壊れたとの話も聞いた。


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る擬似洋館造りの玄関を持つ3階建大型妓楼

朽ちた妓楼傍の路地を奥へと進むと老婆の言う通り、もう一つの大型妓楼があった。写真がそれで、擬似洋館造の玄関を持つ、個性的な3階建妓楼であった。こちらは状態が良く、玄関には賃貸物件を示す貼紙さえあった。

一体幾らぐらいの賃料なのであろう。興味深い物件だが、部屋数が多いため、掃除などが大変そうである。


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る擬似洋館造りの玄関を持つ3階建大型妓楼の後面
上記擬似洋館玄関を持つ妓楼の背面。川本楼には及ばないが、やはり木造建築としてはかなりの規模である。本来は後方の広い空地にも妓楼が建ち並んでいたと思われる


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る木造3階建の大型妓楼
こちらも老婆教授の妓楼。上記2軒とは異なる路地に孤立してあり、恐らく周辺で唯一残ったものか。これも、正面3階、奥2階建という川本楼同様の大建築である。民家として使用されているらしく、状態は良かった。願わくば、中を見てみたいものである


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡に残る2棟の2階建妓楼
こちらも別の路地のもの。2階建の妓楼が2軒並んでおり、橋本等で良くみる標準的な大きさの妓楼か。やはり民家として使われているため状態は悪しからず、破壊を免れたとみられる。しかし、手前空地にあった妓楼は近年失われたという


奈良郡山南部・旧東岡遊郭跡外れの湿地と近鉄線
奈良郡山市街南部・旧東岡遊郭外れの湿地と、東岡と西岡を隔てる近鉄線

以上で東岡町の妓楼見学は終了。旧川本楼の人から東岡の妓楼はもう2軒しか残存していないと聞いていたので、意外の収穫だったが、公的保護が無い状態を見て、存続への危機感は高まった。

そして、洞泉寺地区とは異なる場末感漂う東岡を南へ抜けると、一面に広がる金魚養殖池や湿地があった。

東西の岡町自体は近世17世紀前期から存在したが、城外でしかも湿地に面したこの立地を見ると、語られぬその特異な成り立ちや、それに影響された特殊で長い歴史を感じる思いがした。


奈良郡山市街南部・旧東岡遊郭隣の西岡町の和洋折衷の古建築

西岡町に残る謎の和洋折衷建築

東岡から郡山城方面に行くため一旦西へ向かおうとして人道踏切を渡った際、西岡側の特異な建築が目に入った。

写真がそれで、川本楼の客間と同じ形を持つ欄間や、洋館造との折衷構造が認められた。下調べでは東岡の外に妓楼はなかった筈……。


奈良郡山市街南部・旧東岡遊郭隣の西岡町にあった和洋折衷の古建築
西岡に残る謎の戦前建築。洋館造の側面に格式高い別玄関が造られている

謎の折衷建築に接近すると、やはり戦前築の、古く素性の良いものであった。抜かりなく修繕や清掃がされており、恐らくは人家として再生され、使われているようである。

詳細は不明で、元妓楼かどうかの判断も下せなかったが、先の欄間の件や、普通の人家にはない豪壮な屋根造に銅製の樋、そして賓客か亭主用の別玄関の存在等に、妓楼との類似性を感じた。

もし、それが当たっていれば、和室が接客空間、洋室が帳場や事務空間だったのではないかと思われた。いずれにせよ、後世に伝えるべき価値ある建築であることに違いはない。ただ、周辺も探ったが、それらしき建屋はこの1軒のみであった。

予想以上の内容での妓楼見学終了

その後、郡山城址に達し、そこにある公園にて遅い昼食や休息をとった。そして、城の内郭を見学しつつ駅へ向かい、郡山を離れた。

一般的に負の印象が強いものの、古のもてなし文化の一端であり、贅を凝らした建築技術の宝庫たる妓楼の見学を予想外の濃い内容で終えることが出来た。本来は奈良市街の2所も訪れ奈良の旧遊郭街全てを巡るつもりだったが、意義ある誤算により、また次の課題となった。

見るべきもの、残すべき価値はまだまだ身近なところに潜んでいる。そんなことを改めて教えてもらった大和郡山行であった。

皆さんにも是非、その実見をお勧めしたい。

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2019年09月01日

続2019芹生避暑泊

先日の雨のため普段の数倍の水量で涼しさを供する、京都市街北部・芹生集落を流れる灰屋川

芹生避暑2日目

京都市街北部・北山山地の標高600mを超える場所にある高位集落「芹生(せりょう・せりう)」。そこで前日から恒例の避暑泊を行ったが、前夜遅くまで起きていたにもかかわらず、沢音に誘われ比較的早く起床した。

写真の通り、今日も普段の数倍と思われる豊かな灰屋川の水量は変わらず、避暑に適う情景を供してくれていた。

ただ、いつものような、山地または高地特有の冷えは感じなかった。宿の女将さんが話していた通り、湿度が高いためか……。

何分、自然の行い故、致し方あるまい。また、空も厚い雲で覆われていた。ただ、これは予報通り、承知のことであった。


京都市街北部・芹生集落を流れる灰屋川に朝から飛び込み泳ぐ避暑泊同行者
しかし、そんな天候の清流に、写真の如く朝から水しぶきが上る。昨日に続き、同行のF君が川に飛び込み、泳ぎ始めたのであった


京都市街北部・芹生集落を流れる灰屋川の強く冷たい流れに逆らい元気よく泳ぐ避暑泊同行者
そして、強く冷たい流れに逆らい元気よく泳ぐ。陽射しがないため、昨日より一段と冷たいらしいが……。しかし、結局それを羨み、私も着衣のまま少々泳ぐ(笑)。うーん、とんでもない冷たさで、数十秒が限界であった


京都市北部の北山山地内を流れる大堰川(桂川)の本流沿いにある黒田地区の中心集落「宮」の春日神社

帰路は他の北山集落を巡りつつ

水浴のあと、宿の好意で薪風呂に入れてもらい、冷えた身体を回復させる。その後は雨が降り出したこともあり、各々屋内で寛ぐ。そして、いつもの如く、午後遅くまでゆっくりさせてもらい、宿をあとにした。

帰りは、すぐ峠を下り貴船経由で京都市街に戻る元来た道を避け、他の北山集落の案内を兼ね、北行する別路を採った。写真はその際立ち寄った、大堰川(桂川)の本流沿いにある黒田地区の中心集落「宮」の春日神社。

春日といえば、奈良興福寺と密接に関わる藤原氏の氏神「春日大社」が思い出されるが、正に黒田が同氏の所領だった縁によるものだという。

境内左手前にある、一重と八重の花が混ざる珍しい「百年桜」で有名な神社でもあった。


京都市北部山間にある黒田地区宮集落の春日神社境内に残る、貴重な南北朝期建築「宝蔵」
黒田宮の春日神社の境内片隅にあった、建武4(1337年)に再建された「宝蔵」。地味な存在ながら、中世様式を伝える貴重なもの


方々で稲穂が実る豊かな農村景を見せる、京都市北部の山上集落「氷室」

古道際の隠れ里「氷室」

黒田からは大堰川の流れに沿って西へ向かい、芹生も含まれる旧京北地区の中心地「周山」を経て、中世以前発祥の京街道「長坂道」に入った。

本来は周山街道を南下して京都市街に戻るのが常道だが、同行の友人らが未知ということで、その経路を選んだ。

そして、その道筋にある杉坂集落を過ぎ、京都市街へ下る京見峠手前の急登の脇道に入った。その後、程なくして至ったのが写真の氷室集落。

標高400m弱、嘗ては同じく京都北山の山間集落「雲ケ畑」地区と都を結ぶ交通要地であったが、今は行き止まりの高位集落と化している。

しかし、京都市街に近い所為か、意外と過疎の気配は見られず、方々で稲穂が実る、豊かな農村景が広がっている。

ここに立ち寄ったのも、同行の友人らが未知の場所であったため。個人的には、山を歩き始めた頃に偶然入り込んで感銘を受けた場所なので、懐かしく感じられた。


京都市北部の山上集落「氷室」に残る、前近代の貯氷施設・氷室跡の入口とそれを示す石碑

この氷室の里には、知る人ぞ知る名所があった。それは、集落の名の元になったとされる、前近代の貯氷施設「氷室」の遺跡である。

冬の間、厚く丹念に作った氷を断熱保存し、夏に都の貴人らが飲食その他に用いたという、古代以来の施設であった。その貴重な遺構が、この里の名と共にここに残っているのである。

その場所は、田圃外れの丘上にあり、民家裏から畦伝いに達するという判り辛いもの。基本的に私の様な案内者がなければ辿り着くことは難しい。

写真は、草を踏み分け辿り着いた遺構の入口。氷室跡を示す石碑が立てられている。


京都市北部の山上集落「氷室」に残る前近代の貯氷施設・氷室遺跡に立てられた、ユニークな図示のある案内板

入口の道を登って丘上に出ると、写真の看板が現れた。かなり昔からある案内板で、ユニークな図示が目を惹くが、簡素で解り易いもの。

下部にある「ユリは育てています」の後書きも面白い。このお願い通り、ここの野花は摘まないようにしたい。


京都市北部の山上集落「氷室」に残る、前近代の貯氷施設・氷室跡の窪地

そして案内図の通り、付近で氷室遺構とされる円い窪地三つを確認出来た。写真はその内の一つ。水を入れ難い丘上にあることを当初訝ったが、貯氷池に濁りやゴミが混入しないための工夫かと思われた。

友人らは話では聞いていた氷室の現物を実見出来て感激すること頻り。


IMGP1167.jpg

最後は「激坂」に挑む

その後、長坂道に戻り、京見峠を下ったが、京都北山堪能の旅はまだ終らなかった。京見峠から直線で一気に麓まで下る、前近代の古道を継承した急坂の車道があることを伝えると、見学がてら通過することとなった。

森なかの細く暗い道で少々荒れていたが、何とか通行が叶い、古の杉坂道(長坂道)の起点・千束集落に下ることが出来た。

その後は、千束から京都市街の鷹峯台地に登り返すとんでもない勾配の車道を登る。写真が上からみたその坂で、一同冷や汗の思いで、何とか登りきることが出来た。

これにて、京都北山を存分に堪能した我々の近場避暑行は終了したのである。皆さんお疲れ様でした!

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2019年08月31日

2019芹生避暑泊

茅葺民家(屋根は金属板で隠蔽)と北山杉ある典型的な京都・北山風情を見せる芹生集落の一景

「台風の年」前年以来の京都北山泊

盛夏の象徴的期間である8月も今日で終り。

諸般の都合により遅れ馳せながら避暑に出かけた。とは言え、京都市街東部のうちから車輌で1時間もかからない近場の山里であった。

場所は、京都市街北部の芹生(せりょう・せりう)。京都盆地北縁に連なる北山山地(丹波高地)の標高600m超える山中にある高位集落であった。

盛夏でも驚くほど涼しいここでの避暑は、ここ数年恒例的であったが、去年は度重なる台風被害により叶わなかった。

よって今年は、その補填や限界集落であることへの細やかな支援、そして近場としての魅力や状況を知ってもらうために、人数を増やして訪れた。

色々あったものの、集落も人も、一先ず急場を凌げて何より。


上掲写真 観光客で混みあう貴船の背後山上に、茅葺民家(屋根は金属板で隠蔽)と北山杉ある典型的な京都・北山風情を見せる芹生集落の一景。


先日の雨で増水するもあくまでも清冽な、芹生を貫く灰屋川
先日の雨の所為か、芹生を貫く灰屋川の水量が大幅に増えていた。しかし、濁りはなく、あくまでも清冽であった。それでも、長年住む宿の人は濁っていると話していたが……


倒木被害の整理が進む、京都・芹生集落奥の「勢龍天満宮(せりょうてんまんぐう)」裏の山林
今年1月に冬山鍛錬で通過した際に、無数の倒木被害があった「勢龍天満宮(せりょうてんまんぐう)」裏の山林も整理が進んでおり、一安心


台風被害による屋根の損傷が放置される、京都・芹生集落の茅葺民家
ただ、なかには倒木による屋根の損傷が放置されている民家もあり、危惧するところもあった


冷たくて手足を浸けるのも憚られる、京都・芹生の灰屋川で泳ぐ友人
皆で集落を見学後、なんと、冷たくて手足を浸けるのも憚られる灰屋川で泳ぐ人が……。実はうちの同行者であった(笑)。海パンや水中メガネを持参してきたほどの準備の良さだったが、案の定身体が冷え過ぎてしまい、早めにお風呂を沸かしてもらうこととなった

里のもてなしと高地の涼楽しむ

さて、涼しい芹生での散策等を楽しみ、その後、薪沸かしの風呂や美味しい郷土料理を頂くこととなった。

そして、食後はまた皆で語らい、熱帯夜知らずの高地の涼を楽しんだのである。

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2019年03月03日

国界地学人文行

京都唯一の火山「宝山(田倉山)」中腹より見た夜久野ヶ原東部

溶岩が成す境界要地「夜久野」へ

今日は朝から友人と京都府北西部に出掛けた。

目的地は、兵庫県との境を成す「夜久野(やくの)」。そこに在るという溶岩台地や京都府唯一の火山を巡検しようという、地学紀行への付き添いであった。

夜久野は、京都と山陰地方を結ぶ鉄道山陰線や国道9号線が通り、古くは旧但馬・丹波の国界でもあり、古来畿内と西日本日本海地方を結ぶ要地。「野」という地名から、なだらかな高燥斜地を想像していたが、実は広い谷地が溶岩により塞がれて形成された場所であることを教えてもらった。

そうした夜久野の地学的特異性は勿論、元々地政学的・歴史地理学的にも当地に興味があったので、期待して向かうこととなった。


上掲写真 京都唯一の火山「宝山(たからやま。田倉山)」中腹より見た夜久野ヶ原東部(京都府側)。低い山地に囲まれた平野に、手前または右側から二層以上の溶岩が押し出し台地を形成しているのが判る。



国土地理院1/25000地形図の夜久野ヶ原中心付近。上部(北)に標高349.7mの三角点をもつ山があるが、そこが夜久野溶岩台地の生みの親とされる宝山。即ち、ここから四方八方に溶岩が流出し、古くは「二国嶽」と呼ばれた最大比高100mに及ぶ台地が形成された。なお、この図は縮小・拡大・移動が自在なので、以降記述に沿って参照してもらえれば幸いである


高内方面から見た、山陰・夜久野台地東端
高内集落の西に立ちはだかる夜久野台地東端。中腹に単線の山陰線が通る

先ずは歴史地理的発見

京都から車で北行し、府北部の主要都市・福知山をかすめて夜久野台地東部に至る。麓には高内(たかうち)という集落と、東流・福知山に至る由良川水系の牧川があり、その西に小山の如く、防壁の如く立ちはだかる台地突端があった。


石畳残る夜久野ヶ原東部「面坂」の古い山陰道の跡
石畳残る古い山陰道の跡

今の国道から外れる高内集落から続く旧山陰道は、台地下の耕地の農道として行き止まったが、写真の如く、台地を上る小道として続いていることを発見した。良く見れば石畳の設えさえあった。

半間程の幅だが、確かに山陰線の踏切を経て上方へと続いている。徒歩にて辿るとやがて道はつづらを成して台地崖を上り、その上方へ出ることが出来た。

路端には古い石積みがあり、頂部には城戸の如き切通しもあった。何の予備知識もなく来たが、前近代に遡る山陰道と関連するものに違いないと感じた。ひょっとして、上部に関所か古くは城塞でもあったのか。

また、つづらになる前に真っすぐ崖を巻き進むような分岐もみられ、更に古いルート・遺構の可能性も窺えた。


面坂の山陰道跡にあった多孔質の溶岩
推定古山陰道跡には本日の主目的たる、多孔質の溶岩片もあった


山陰・夜久野台地東部の面坂上部に続く古道跡
推定古道の上部、即ち夜久野台地上にも、やはり土道が続いていた。


農道化する夜久野台地東部の古山陰道
土道を更に西へ進むと農地や湿地が現れた。今は完全に農道化しているが、この先は9号線重複部分まで続いていた。地形図にも、黒線の小道としてその効率の良いコース採りが窺える


古山陰道と成相道方面への分岐を示す夜久野台地東部の石仏兼道標
そして、十字路の脇に天保年間(19世紀前期)の紀年のある道標兼用の石佛が現れた。帰宅後に調べたところ、やはりこの道は近世以前の山陰道の有力候補らしく、地蔵が指さす左(北)の道は丹後宮津へと向かう西国巡礼路「成相道(なりありみち)」に合するものという


古山陰道の南近くの夜久野台地を通る、国道9号線の切通し登坂
古山陰道の南近くには現代の山陰道、国道9号の切通し登坂があった。古道の坂は「面坂(めんさか)」というらしく、明治17(1884)年にそれに替えて通されたとされる新道がこれか。後代の改修もあろうが、硬い溶岩をこれほど深く長く掘り取るのは容易なことではなかったと思われる。

因みに、最初の官道・古代山陰道は『延喜式』等の研究から、福知山を通らず篠山経由で夜久野南数kmの遠阪峠を越えていたという。夜久野が主路と化したのは中世以降で、『上夜久野村史』は面坂ではなく北回りで台地を越えるルート、『夜久野町史』はその説を踏まえて面坂ルートを近世路として推定している。


山陰・夜久野の牧川沿いにある柱状節理の崖
牧川沿いの柱状節理の崖

各所に残る溶岩地帯の証

今日の主題は地学紀行の筈が、乗っけから歴史地理的となったが、その後また高内に下降し、近くの路端にあった柱状節理の崖を見学した。案内板も設置され、それが溶岩由来であることなどが解説されていた。個人的には崖上に通された灌漑水路への興味もあったが、その後の行程や時間を気にして止めた。


山陰・夜久野の水上集落にある古民家の溶岩石垣
続いて「成相道」の途上であり、溶岩台地の北口ともなる水上集落を経て上夜久野駅に向かう。水上集落では民家の古い石垣に溶岩が利用されていることが確認出来た


上夜久野駅西方の山陰線と台地崖
上夜久野駅西方の山陰線と台地崖

上夜久野駅周辺の謎

写真手前には台地を潜る長い夜久野トンネルの入口があり、台地南西麓に通じている。単線ながらトンネルの入口は2つあり、南側の使われていないものは明治44(1911)年の開業当初のものという。ここにも、交通の障壁たる溶岩台地に対する難儀の痕跡があった。


山陰・上夜久野駅の駅前集落と下部に広がる谷地
上夜久野駅東方の山陰線路盤近くより駅前集落と下部に広がる谷地を見る

トンネル付近の山陰線は当初台地を掘りとって造られたのかと思ったが、駅前で突如谷に落ちる川の流れや、その他不自然な地形を見て、不可解の念を禁じ得なくなった。

地形図を検討すると、どうやら、元々あった谷を埋めて駅や路盤が造られているように思われた。そう考えると線路の掘りこみは沢筋であった可能性が高い。その証拠に、線路上部に沿う車道に代替的な暗渠河川があり、線路傍にも排水ポンプらしき設えがあった。

難儀な地質・地形故に、色々と知恵や労力を用いたのか。


夜久野ヶ原の京都府・兵庫県境辺りからみた宝山
次はいよいよ台地上にあがり、京都府唯一の火山・宝山を目指す。写真は地形図の中心にある府県境辺りからその姿を見たもの。頂部にカルデラ状の窪みがあり、手前側が崩落してるのが判る

宝山登頂参観

因みに、この中心地は図中右下から黒線車道として接する古山陰道や、同右上の水上方面へ伸びる成相道等が交差する要所で、傍には旅人に湯茶を供して「茶堂」と呼ばれた放光院も立つ。


山陰・夜久野の宝山山上への遊歩道
宝山の登り口の駐車場から徒歩で山上を目指す。道は急だが、写真の如く遊歩道的なもので、道程も高低差もさしたるものではなかった。ただ、予報より早く雨が降り始めたのは気掛かりなところ


輪状で平坦な、山陰・夜久野の宝山山頂
山頂は遠くから見た通りの輪状で、平坦な場所であった。確かに噴火口的地形ではあるが、一帯植林されており、火山的雰囲気は皆無であった。まあ、30数万年前に活動した場所なので、致し方あるまいか


山陰・夜久野の宝山噴火口跡推定地
山頂の輪を巡り、登り口とは反対方向から噴火口跡と推定されている窪地に下降した

ここも針葉樹が密植させられた場所であったが、地形の観察は行い易かった。ただ、枝打ちされぬ荒れた風情と、噴火口近くまで通された車道により谷側(山体崩落地)が破壊されていることが気になった。身近に火山跡を観察できる近畿では貴重な場所で、上手く整備すれば、大きな観光資源と化す可能性が窺われたので、勿体なく思われた。

夜久野の溶岩台地は、30数万年前にここが3度程の噴火を起こして形成されたという。そして最後の噴火の際の噴出物(スコリア)により、今の宝山が出来たとされる。ただ、崩落部の形成原因を始め、まだ未知のことが多く、その活動全容は解明されていないようである。

因みに夜久野の地名由来には、薬草生育地「薬野」の異字化、8世紀初頭の山火事、屋久島(史書記載名は掖玖・夜久)人の居住、古代官道の「駅」の転訛等の諸説があり定かではない(駅説は古代官道から外れていたため可能性は低い)。別に火山に関するという説もあるが、噴火は有史の遥か以前のことなので、それへの信用は低い。ただ、古代湖等、有史以前の環境を示唆する古地名は全国に数多あり、個人的に関心を持っている。


山陰・夜久野の二国神社鳥居と境内
丹但境界付近にある二国神社の鳥居と境内

旧国界・分水界をゆく

本日の主要目的地であった宝山踏査を無事小雨で乗り切り、台地上の道の駅で夜久野蕎麦を食して暫し休息。雨は止まず少々強まりさえしたので、タイミングがよかった。食後は同じ敷地内にある郷土資料館に寄るが、町内個人の化石コレクションが主体で、残念ながら地学や郷土史に関する資料は乏しかった。

その後、台地南部の二国神社という社に向かう。溶岩流が南縁の山地に当たって止まった辺りで、現府県境で古の但馬・丹波国界付近に在る名の通りの神社であった。友人はこの裏手にあるという分水界を見たかったらしいが、その平地分水界は地形図よると、両方共丹波由良川水系であった。


土塁状の丹但国界(現京都・兵庫府県境)
二国社の次は、また台地中心部に戻り、その付近の旧国界を踏査。中央部の平地を横切る境界は写真の如く、樹々のある小高い土塁の如き姿で長く続いていた。境界の緩衝地帯として開発から外された元の原野や、人為的に構築された防塁等が考えられたが、手がかりはなかった


夜久野ヶ原中心部にたつ丹但国界碑
その土塁状の高まりの北に何やら石が立っていたので近づくと、写真の通り古い石碑であった。「従是東丹波国福智(ママ)山領」とあり、これより東が丹波福知山藩領であることを示す明治初年頃までに建てられたものであった。友人はそれに柱状節理の六角溶岩が使われていることを指摘。確かにその通りで、現地の材料を上手く利用したものであった

その後調べたところ、国界の高まりの謎は解らなかったが、地形図を観察すると、両国の水系つまり円山川と由良川の分水界に沿って国境が引かれていることが判明した。よって、元から存在した台地の背的場所であり、両国の耕地開発により残った残丘的なものである可能性が高まった。


水の聖地、山陰・和田山「宮」の石部神社の池
国界の次は、古山陰道の名残りとみられる、中心地から北西に伸びる道を辿り台地西麓にある石部神社に向かう。そこは台地斜面の途中から生じる谷の下部にあり、豊富な水源を擁する潤いの神域であった。溶岩台地の地下水が谷水や湧水として現れる場所で、境内には写真の如く清澄な池もあった。その西には広大な耕地が広がっている。恐らくそれらを育む水の聖地として古くから崇拝された場所であろう。実際平安初期の『延喜式』に記載がある「刀我(とが)石部神社」に比定されているという


地形図上で人為改変が疑われた小山のなかに山城特有の平坦地「郭(くるわ)」や土塁の跡が残る、山陰・夜久野城址

気になる地形の正体は……

溶岩台地と水の関係を見たあとは、また中心地に戻り、その南方にある小山に向かう。これは国界見学同様、私の歴史地理的興味によるものであった。実は夜久野訪問前に地形図で奇妙な地形を見つけていた。

それは、中心地南部に見える228.0mの標高が記された三角点がある小山である。小山は台地南端に突き出た形状であるが、北の台地との付け根に不自然な谷の存在が観察された。

恐らくこれは城塞で、人為的掘切りで台地から切り離されているのではないか……。北には古山陰道や成相道が通り、崖下には現国道9号、即ち間道的谷道がある夜久野随一の要衝である。

これまでの経験や知識、勘を試すためもあり、敢えて下調べをせず、これを確かめに向かったのであった。

結果は写真の通り、その山中には山城特有の平坦地「郭(くるわ)」や土塁の跡が見られた。ただ、現地には何の案内もなく、確定はのちの調査後となった。町史等によると、やはり連郭式の城塞址で、城主は不明ながら16世紀後半の戦国末期に運用された「夜久野城」と呼ばれる城という。

戦国末の夜久野周辺では、高内を本拠とする土豪・夜久氏や、台地南西麓の磯部を本拠とした山名庶流の磯部氏、同北西麓東河(とが)の土豪・上道(うえみち)氏らが活動したが、但馬側の立地であること、その本城の造りと似ていることなどから磯部氏との関連が窺われる。実際、磯部氏の本城も、同様のものを地形図上に認め、発見できた。

雪の影響が少なく通年通行が可能だった為か、中世以降山陰道の主路と化した夜久野は、その要地性故に争乱の場ともなった。史料上では、南北朝動乱(14世紀)や応仁の乱(15世紀)での合戦が記録されている。

とまれ推察が当たったことは良かったが、ここでも貴重な歴史教材・観光資源が活かされていないことを残念に思った。


山陰・夜久野にある夜久野玄武岩公園の柱状節理
夜久野玄武岩公園の柱状節理

最後は夜久野を象徴する場所へ

雨の城塞探査後は、友人が最後の目的地に設定していた台地東南の玄武岩公園へ。写真の如く柱状節理を最も観察出来る、溶岩地帯・夜久野を象徴するが如き公園であった。

ここは元石切り場で、国界碑の如き六角柱の石材を切り出した跡地を公園化したという。学校教育で知っている人も多いだろうが、柱状節理は溶岩が冷え固まった際の割れ目により生じた岩石である。

公園は左右に採石面が見えるもので、その間に小川の川床があった。しかし、溶岩台地の末端を掘りとった場所に思えたので、小川は採石後に出来たようにも。そうなると、南西や南の谷から来る小川の水は元はどこに排出されていたのか。

ここにもまた、地学・人文的謎が感じられたのであった(存知の人は是非ご教示を……)。

玄武岩公園の参観を以て夜久野探索は終了。あとは元来た道を辿り、京都市街へと戻ったのであった。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行

2019年02月24日

奥越澄日

井筒より清水湧き出る越前勝山の「清水(しょうず)」

奥越登山翌日
予報通りの氷点下


福井県内陸の街、勝山での滞在2日目。

予報通り、市街でも-1度まで気温が下がり、寒さが厳しい朝を迎えた。ただ、それを見越して従兄宅で多くの寝具を重ねてもらっていたので、逆に暑くて朝遅く二度寝する事態に。

昨日の冬山登山や遅くまでの宴席・深酒に疲れていた筈だったが、それほどでもなかったか。今日は昨年に続き当地の「左義長(地元呼称「さぎっちょ」)祭」を観覧する予定であった。


上掲写真 花崗岩の井筒より湧き出る清水。さて何に関係するのやら……。


晴天に白く輝く越前大日(越前甲)
晴天に白く輝く越前大日(越前甲)

昨日とは異なり朝より快晴。従兄宅の北裏を見れば、昨日強風と雪に難儀した大日山(だいにちさん。標高1319m。右側頂部)の、発光するが如き威容が見られた。

「越前甲(えちぜんかぶと)」、また地元では「かぶと」とも呼ばれる荒々しい屹立を改めて眺め、無事の登頂への感慨を深くする。往復した山頂右の細く急な尾根が見えているが、あの強風下よくも挑めたものである。送迎してくれた従兄共々、諸々に感謝。

裏庭に出てきた、山に馴染みない親類らにも昨日のルートを説明する。今日は風も弱く、午前中は皆のんびりしていたので、今朝登った方が良かったか、とも思ったが、まあ致し方あるまい。


快晴の空に色短冊翻る左義長祭の福井県勝山市街
快晴の空に色短冊翻る左義長祭の勝山市街

午後からは、親類らと勝山市街に出て、今回訪問の本題たる祭見物を行った。気温は春到来と見まがう日射と共に急速に上昇しており、既に上着が要らない程となっていた。

市街各所に置かれた祭櫓(やぐら)を巡り、その途中、屋台にて名物のおろし蕎麦等を食べるなどする。

勝山左義長は、旧暦の小正月とその前日に行われた祭で、春の訪れと積雪の終焉を告げる行事でもあった。現在もそれに近い日に設定されているが、例年小雪舞う寒い気象となるため、今日のように晴れて温暖なことは数十年来初めてのことではないか、と知人・他人共々が口にしていた。


越前勝山左義長祭の「左義長太鼓」と「左義長囃子」の実演
勝山左義長を盛り上げる祭の見せ場「左義長太鼓」と「左義長囃子」の実演。その演目・衣装共々、あでやか


越前勝山の旧城下に立てられていた「七里壁」の説明図
越前勝山の旧城下街に立てられていた「七里壁」の説明図

祭見学の途中の坂道で写真のような案内図が目に入った。「七里壁」と呼ばれる、総延長20数kmに及ぶ河岸段丘についての説明で、奥越の奔流・九頭竜川と関連するその段差を利用して市街が作られていることが記載されていた。

注目すべきは、現在地表に痕跡のない勝山城の姿が下段の図に示されていたこと。段丘上に内郭だけ記されていたが、地上ではもはや想像も出来ないため、興味深く感じられた。


越前勝山の「清水(しょうず)」
勝山市街の「清水」

続いて気になり立ち寄ったのが、段丘下の水場。当地の言葉で「清水(しょうず)」と呼ばれる湧水で、最初の写真はその井筒であった。

以前、勝山の隣町大野の清水を紹介したことがあるが、勝山にもあることを初めて知った。今はこの場所が代表的に保存されているようだが、昔は数多くあり、昭和30年代頃まで飲水や各種作業用に使われていたらしい。


段丘下を流れる勝山清水(しょうず)の水(福井県)
勝山清水から段丘下を流れ九頭竜川へと向かう湧き水

清水見学後は、段丘下に沿うその流れを辿って駐車場へ戻り、従兄宅に帰った。そして、今朝干して置いた山道具を手入れしつつ片す。快晴で気温も上がったので、諸々乾いて助かった。

夜は帰宅により人数が減るも、また鍋など馳走になりつつ親類同士の歓談を楽しむ。私は明朝早くに起きて帰路に就く予定であった。

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2018年08月26日

府北納涼

京都府北部・舞鶴郊外を流れる岡田川とその河原

納涼高地泊中止
府北舞鶴で代替避暑を


昨日から舞鶴の友人宅にお邪魔していた。本来なら、京都市街北部「北山」にある高地集落の宿にて恒例の納涼泊を行うつもりだったが、先日の台風による停電で中止となった。

灯火でも、月明りでも我慢するので、是非行きたいと思い、当日昼ぐらいまで様子を窺ったが、水が出ず準備不能となったため、中止となった。水に恵まれた山間ながら、ポンプによる配水だったため、停電の影響を逃れることが出来なかったのである。

致し方ないが、年一回の楽しみだったので、誠に残念であった。

しかし、予定を空けていたのと、変わらず猛暑日が続くことなどから、おさまりがつかず、共に宿泊する予定だった友人の家に急遽お邪魔することにしたのであった。


上掲写真: 舞鶴2日目の今日訪ねた、同市郊外の清流河原。


京都府北部・加佐地区の集落と田園

初日の昨日は到着が遅かったので、友人宅での会食にとどめ、2日目の今日、郊外を案内してもらうこととなった。場所は川遊びができる郊外の清流である。

北部とはいえ、今年は舞鶴も連日猛暑に見舞われていた。よって、涼しい場所を目指したのである。

写真は舞鶴市街から車で30分程の場所にある山間の集落。そんなに山奥や標高の高い場所でもないが、豊かな自然と農村風情が残っていた。


京都府北部・舞鶴・岡田川での水浴

山間清流で水浴納涼

特に良かったのは、目的地にしただけはある「川」。集落近くを流れ、また中流的な場所にもかかわらず、水や河原が大変美麗であった。

友人の知人である地元の人から水浴びに適した場所を聞き、少し深みと木陰のある写真の場所で水浴することにした。適度に水が冷たく、気持ちが良い。昨晩から暑かったので、ちょっと一息である。


京都府北部・加佐の大庄屋上野家

小魚と戯れつつ水浴を堪能したあと、近くの集落に残る古い屋敷を見学。

写真の建屋がそれで、19世紀半ばの幕末に建てられたという庄屋屋敷。付近の14箇村を束ねる田辺藩管轄の大庄屋、上野家の所有であったが、平成15(2003)年に舞鶴市に寄贈され、公開施設となっていた。

庄屋家見学後は市街へと戻り友人宅で昼寝休憩。そして夕方から食事を頂きつつまた一献。結局もう一泊して早朝帰宅することにしたのであった。

高地泊の中止は残念であったが、こうして、別所での歓待と避暑を得ることが出来た。感謝!

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2018年05月04日

奥越観城

福井県内陸部・勝山郊外にある恐竜博物館と恐竜の足跡形案内標示

「勝山」の由来地へ

越前勝山(福井県)2日目。

昨夜は当地の従兄宅でバーベキューの集いがあり、それを片した後も、居間にて遅くまで飲み語らっていた。

そして今朝は意外にも早くに起床し、折角の休みを有意義に使おうかと思ったが、前夜遅くからの雨が残り、時折強めの雨になるなどの状況となっていた。

仕方なく、親類と話すなどして時を過ごすと、9時過ぎ頃から漸く天気が回復してきた。よって、以前から気になっていた近くの小山「村岡山(むらこやま)」へ独り向かうことにした。

村岡山は集落傍にある里山風情の小山だが、鉄道等から眺めると、勝山平野の中心で結構な存在感を放つ存在であった。

それもそのはず、実はこの山、勝山の名の由来になったという由緒深い山だったのである。


上掲写真: 村岡山への途上に見た歩道の足跡標示。点々と続くその先には、白く大きな恐竜オブジェと白銀色のドーム建造物から成る恐竜博物館があった。つまりそこへの道標か。なかなか遊び心のある試み。


福井県内陸部・勝山郊外にある恐竜博物館と村岡山(御立山)
恐竜博物館と村岡山。両者は別の丘陵端にあり、間には暮見川が流れる

村岡山は地形図等では「御立山(みたてやま)」との表記がされているが、地元では周辺の地名でもある村岡山が専ら使われているようである。

標高は301m。随分低く見えるが、それは平地の標高が145m程あるため。即ち、比高150m程である。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山西麓の「村岡神社」
村岡神社の鳥居

先ずは登山口がある、村岡山西麓の「村岡神社」に向かう。神社横には清冽な沢水が流れており、手水を兼ねた竹樋の備えがあった。孤立した小さな山にもかかわらず水場を持つことに、城山としての適性をみる。


石段が続く、福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山尾根道への登り
石段と石仏続く村岡山尾根道への登り

神社も本来は城と関連した筈だが、特に痕跡は見られず。登城・登山の道は沢沿いと尾根道の二つがあったが、林道的な前者は避け、風情ある尾根道を採った。

神社横から続く石段の細道を登る。陽が射してきたが、先ほどまでの雨により足下が悪く少々慎重を要す。道沿いには四国霊場を模した石仏が続いていた。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山の尾根道に現れたカモシカ

石段道を登りきると、明るく広い尾根道に出た。そして、そこを暫く進むと写真の如く獣を発見。

毛の色からするとカモシカか。関西では珍しい動物なので少々驚く。というより、こんな孤立した山にどうやって入ってきたのか。

まあ、従兄の話ではこの近辺では街場近くでも熊が出るらしいので、珍しいことではないか。しかし、この鹿は人慣れしているのか、こちらをじっと見たまま立ち去ろうとしない。先を塞がれた形となり困ったが、一旦引き下がるふりをしたら、先へ行ってくれたので、進むことが出来た。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址の山上広場

村岡山城址

尾根道の後はまた森なかの登りとなり、間もなく山上にでた。高低差が少ないだけに、あっという間の散策的登山であった。

山上は写真の如く平坦で広く、寛ぎのための椅子やテーブルの備えもあった。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城跡の縄張図
現地の解説板にあった「村岡山城跡縄張図」

実は広場は城跡であり、現地の縄張(なわばり)図にあった最も広い空間に当たる。主郭(本丸)直下なので二ノ丸のような要所か。

城跡は図の如く、山頂とそれに隣接する尾根上に郭が連なる形で残存していた。城は天正2(1574)年に一向一揆勢により構築され、同年攻撃してきた平泉寺勢を大敗させて「勝ち山」の名を得たという、勝山地名由来の城とされる。

その後、一揆を制圧した織田方柴田氏の居城となり、1580年にその後維新まで続く市街中心の城に拠点が移され廃されたという。僅か数年の存在ながら、抜かりない縄張に当時の緊迫した奥越情勢が窺える。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址から見た、大野方面と荒島岳
村岡山城址から南東は大野方面の眺め。左奥には百名山の一つ、荒島岳(1523m)が見える


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址の土塁と城戸口の遺構
村岡山城址広場と下位の郭を隔てる土塁と城戸口の遺構。土塁は場所により数mの高さを残す。因みにこの城戸は屈曲のない「平入虎口(ひらいりこぐち)」。左の土塁が縦、右が横方向になっており、2面防御が可能なのためと思われる。最下位の郭にある城の東口には喰い違いにされた「喰違虎口」があった。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址の広場からみた主郭
広場から主郭方面を見ると、それが一段高い場所に構築されていることがわかる。山頂の一部を掘り残して造られたか


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址の主郭と広場の間にある堀跡
主郭と広場の間にある堀跡。素掘りながら、水や逆茂木があれば主郭への侵入は困難となる。更に堀にも屈曲があり、近世的な垢抜けた縄張法が感じられた。そのようなことから、主郭周辺の城塞東部は、一揆が急造した砦を織田勢が改造したとの見解が示されているという


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城主郭跡からみた堀と土橋と広場
主郭より広場をみる。中央は広場と主郭を繋ぐ唯一の通路「土橋」


福井県勝山・村岡山山上の村岡山城主郭跡広場と忠魂碑
主郭広場と忠魂碑

唯一堀を区切る土橋と急坂を経て主郭に登る。そこもまた広場となっていた。その端には戦没者の慰霊塔があり、城址を示す古い石碑もあった。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址主郭内の櫓台跡
主郭広場の西北端にあった「櫓台」とされる場所

主郭広場の端には、他よりまだ少し高い場所があった。「櫓台」即ち、のちの天守に相当する建屋があったのではないかと推察される場所である。確かに、主郭の角に在るところなどは、近世城郭との類似を想わせた。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址主郭櫓台跡からみた九頭竜川河谷と福井方面
主郭櫓台跡から九頭竜川河谷と福井方面を見る

城址からは四方の景色がよく見渡せた。麓の勝山は勿論、大野・美濃、福井・沿海、山越え加賀方面等である。正に軍事・交通の要所。そう考えると、一揆以前から城塞が営まれていてもおかしくない立地に思われた。


福井県内陸部・勝山郊外の村岡山城主郭櫓台跡からみた恐竜博物館と雪残る大日山
主郭櫓台跡からみた恐竜博物館(左下)と未だ雪残る大日山(1368m)

北方には恐竜博物館と大日山(だいにちさん)が見えた。後者はまだ雲が晴れず頂は見えないが、未だ多くの残雪の存在が窺えた。さすがは豪雪地帯。2月の大雪の時はどれほど積ったのであろうか。

因みに、大日山の右側稜線に「大日峠」や「谷峠」等の加賀越えの古道、一向一揆往来の道があった。谷峠付近には現在立派な国道隧道がある。


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址西部の郭跡平坦地
村岡山城址西部の郭跡平坦地。即ち、一揆勢構築の原形が残るとされる場所。確かに土塁や屈曲部等がなく、原初的に感じられた


福井県内陸部・勝山郊外にある村岡山城址主郭下の広場にまた現れたカモシカ
主郭下広場にまた現れたカモシカ

有意義な村岡山見学終了。整備・公開のお手本に

村岡山城址西部を見学後、また元の広場に戻り、来た道を下山することに。ところが、広場には先ほどのカモシカがまた草をはみに来ており、進めなくなった。向こうもこちらを見ているのだが、逃げようとしない。

下山口前におり、いつまで待っても降りられないため、仕方なく驚かさない程度に近づくことに。すると、漸く広場東側に逃れてくれた。ひょっとすると、餌付けでもされているのであろうか。

下山後は折角なので村岡山を一周観察して帰ることに。村岡山は、東側がその先の高地から伸びる丘陵と接続しているが、その間は微高地程度でやはり孤立した不思議な存在であった。ひょっとすると、防備のため微高地上の寺尾集落辺りの200m四方程が掘り落とされているのかもしれない。

また、北麓の暮見川や南麓の浄土寺川等の河川に守られた堅固な立地であることも確認できた。

昼過ぎに従兄宅に戻ると、なかなか帰らないことに呆れられつつ、従兄手料理のオムソバを頂く。申し訳ない、お待ち遠さまのご馳走様でした(笑)。

とまれ短時間ながら良い歴史地理散策が出来た。村岡山城址は無名の山城にもかかわらず、確りと整備・説明がなされていたことに感心した。著名な如意ケ嶽(大文字山)城址や将軍地蔵山(瓜生山)城址を擁しながら、ほったらかしの荒れ放題にしている京都市も是非見習ってほしいと思う。

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2018年05月03日

代替豪奢

JR湖西線の特急車内よりみた滋賀県近江今津辺りの水田景

野営会・代替山会共に中止で……

今日予定していた恒例の野営会は、残念ながら荒天のため中止。そして、翌4日に予定していた代替の日帰り山会も中止となった。

よって、連休後半の初日ながら、今日は朝から仕事に。そして、一段落着いた夕方から急遽列車で福井へ向かった。二重の予定により事前に誘いを断っていた従兄家のバーベキュー会に参加することとなったのである。

場所は、今年の2月末に左義長祭でも訪れた福井県内陸の勝山。昔より改善されたとはいえ、うちから列車等で3時間程かかるため再度断ったが、「まだ間に合う」との誘いと、折角の連休なので向かうことにした。

市内の混雑を見越して自転車で京都駅まで急ぎ、列車や車を乗り継ぎ、20時前に会場宅に着いた。しかし、既に出来上がっていた面々に「遅い」と批難された。どうやら17時から始めていたらしく、連絡を取り合っていた伯母に騙されたようであった(笑)。

とまれ、一旦落ち着いていたものの、まだやっていたので、その後十分馳走にはなれた。


上掲写真: 福井へ向かい北上する列車の車窓から見た琵琶湖岸の平野。滋賀県北西部の近江今津を過ぎた辺り。方々で水田に水が張られ、田植えの準備が行われていた。今時らしい景色。


車庫屋根の下で行われた親類同士のバーベキュー
車庫屋根の下で行われていた炭焼会の一景。炉は3台あり、これは最も小さいもの

豪勢な炭焼も偶には良し

毎年の恒例らしい従兄宅の炭焼会は、従兄夫婦を始め、その娘夫婦2組や伯母、従兄嫁の親類らがいて結構な大所帯であった。炉も3台用意されている。

比較的質素な野営会とは違い、豪勢で過剰にも見受けられたが、まあ、偶には悪くはないか……。とまれ、兄さん姉さん、そして皆さん、ご馳走様でした、有難う!。

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2018年04月07日

近代残影

京都府北部・舞鶴要塞の一部「葦谷砲台」へと続く山中の道と、巨木ある原始林

舞鶴への1泊行

今日は午後から知人の車に同乗し、京都府北部の舞鶴(まいづる)へ。

4月の新学期を前に、同地の友人を訪ねたのである。いつもながら機会や空を利用した急な行動となったが、友人もちょうど良い時期だったので、好意に甘え、1泊の訪問をさせてもらうこととなった。

舞鶴は京都市街から北へ100km程離れた海辺の港町。近年全通した高速路を辿って2時間程で到着し、別用のある知人と別れ、友人と落ち合った。

夕方ではあったが、まだ陽があったので、友人の提案で郊外山上にある砲台跡を見学することにした。舞鶴といえば、近代明治から昭和の終戦まで運用された軍港が有名である。

かつて日本海側における最重要拠点であったそれを守るために往時周辺が要塞化されたが、砲台はその一部であった。

これも予定にない急な参観となったが、近代遺産として興味深いものなので、期待して向かうことにしたのである。


上掲写真: 急遽向かった舞鶴要塞の一部「葦谷砲台」へと続く山中の道。そこには樹齢数百年とみられる樹々もある豊かな自然林が広がっていた。人家・街道から遠く離れた半島僻地のため元は人が入らない、入れない秘境だった証であろう。そんな場所に突如近代施設が他に先んじて設置されるとは誰が予想できたであろう。正に歴史のダイナミズム。


京都府北部舞鶴の葦谷砲台入口の石組と内部施設
葦谷砲台の入口石組と内部施設

旧舞鶴要塞「葦谷砲台」跡

舞鶴東郊を北上して山中に入り、幾つか隧道を潜って、やがて林道の果てのような場所に辿り着いた。そこから先は道が荒れ、舗装もなくなっていたため、車を降りて歩くことになった。

ここ暫く随分な陽気が続いていたが、今日は一転して寒さが戻ったので、上着を着こんでの再出である。土道の林道を登るとやがて巨木ある自然林が現れたのは、前述の通り。

そして、下界の明るさが戻ったような山上に到着すると、石組等が用いられた大規模な人跡が現れた。葦谷砲台跡である。砲台は舞鶴東部の標高200m超の山上を大規模に改変して設けられていた。


京都府北部舞鶴の葦谷砲台内の井筒状遺構
葦谷砲台内の井筒状遺構

山上を刳り抜いて造られたとみられる砲台は、正にこれ一つが堅固な要塞であった。石組や煉瓦の質や施工状態は、地方の僻地とは思えぬほどの抜かりないものであった。

舞鶴市の説明によると、明治30(1897)年に着工し、同36(1903)年に完成して、その後、終戦まで運用されたという。明治36年といえば、彼の日露戦争前年である。迫りくるロシアとの対決に備え、急ぎ整備されたに違いない。

写真は花崗岩で造られた井筒のような設備。弾薬庫らしき施設前にあり、中に水が溜まっていたが、内部が井筒より広いため、井戸型をした貯水槽とも思われた。とまれ、伝統と近代の技術を組み合わせた明治の日本らしい、精緻な設備である。


砲側にあった待避所とみられる京都府北部舞鶴・葦谷砲台の堅固な施設
砲側にあった堅固な施設

後方にあった弾薬庫とは別に、前方海側には待避所とみられる堅固な施設が点在していた。施設の合間には砲座跡らしき窪地や砲座用の構造を持つ石組側壁が設けられていた。


京都府北部舞鶴の葦谷砲台下部の砲座と待避所前方の土手上に広がる海の見える平坦地
下部砲座と待避所前方を守る土手上に広がる、海の見える平坦地

施設の横、砲座の前方にある土手の階段跡を登ると海が見える平らな場所があった。下の砲座や施設を守りつつ状況を窺える造りである。


京都府北部舞鶴の葦谷砲台の上部砲座跡

そして、平坦地の後方一角には写真の如き別の砲座跡が現れた。それは確認出来ただけで3座あり、水平射撃用の露出砲台のように思われた。下部の砲台は、角度撃ちで榴弾を飛ばす28サンチ砲用か。


京都府北部舞鶴の葦谷砲台の上部砲座横にあった観測・指揮用と思われる施設跡
上部砲座の1つにはこのような待避所が併置されていた。観測・指揮用の施設か


京都府北部舞鶴の葦谷砲台の上部平坦地より日本海(若狭湾)をみる
葦谷砲台の上部平坦地より日本海(若狭湾)をみる

葦谷砲台の位置は舞鶴湾口の東側にあり、湾内に侵入する艦船を迎撃出来る場所にあった。似た条件の場所が幾つもあるなかで、艦砲攻撃や陸戦攻略が難しいこの場所が選ばれていることに、ただただ感心。


京都府北部舞鶴の葦谷砲台から続く尾根上にあった人為的窪地

ただ、少し海から遠く感じられたので、平坦地から前方に続く尾根を辿って他の施設を探してみた。

山中の畑や電波塔を過ぎ、約200m離れた森なかの小頂部に至ると、やはり人為的な窪みと石材等が見つかった。樹々が無ければ平坦地側より良く海上が観察出来るため、別の砲座か観測所の跡かと思われた。

その他には、平坦地の直下、畑の手前に土塁に囲まれた広い平坦地があり、何かの施設跡である可能性が感じられた。


京都府北部舞鶴近郊の山上から見た、舞鶴湾口の夕景
舞鶴湾口の夕景

明治150年に相応しい参観終了

やがて陽も陰ってきたので、引き返すことに。急ではあったが思わず近代遺産に触れることが出来て良かった。明治150年の年に相応しい参観である。

しかし、重機や自動車が無かった明治期に、よくもこんな僻地・高地にこれだけ重厚な施設を造れたものである。しかも短期間に。立地選定を含め、これも近代西洋を猛追する日本の姿が垣間見られるような遺構であった。

その後、市内に戻り、友人宅で手料理等を頂きながら積る話に花を咲かせた。友人はこの春転居しており、その新居がまた軍港時代に関連する興味深い遺構でもあった。

色々な体験を有難う、感謝!

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2018年03月29日

讃岐桜行

讃岐金刀比羅宮の銅鳥居と桜

四国・香川への小旅行

今日は日帰りで四国に出かけることにしていた日。

これまで行ったことがない香川県内の、こんぴらさんや城郭、うどん店等を巡る予定であった。交通手段は列車で、新幹線や特急を使わない旅程ながら、快速や瀬戸大橋等のお蔭で、比較的時間に余裕も得られた。

逆に言うと、宿や列車の手配が不要で、気軽に行けるために企画した小旅行であった。ただ、時間節約のため、早朝から動かなければならず、予想外の混雑にも遭遇し、2時間程座れないことなどもあった。

とまれ小時より列車に乗ること自体が好みであり、知らない地に行けるのも楽しみであった。折よく快晴と温暖な気候に恵まれたのも、また幸い。


上掲写真: 「こんぴらさん」こと金刀比羅(ことひら)宮の銅鳥居と桜。京都市では昨日満開宣言が出されたが、四国北部も花盛りであった。


瀬戸大橋線の車窓からみた瀬戸内海と島々
児島(岡山)発、琴平(香川)行の列車から見えた瀬戸大橋と瀬戸内海

乗り換えは大阪と姫路、岡山で行い、岡山からの瀬戸大橋線では本州最後の児島でまた乗り換えた。こんぴらんさんの最寄駅・琴平(ことひら)行きの列車と連絡していたからである。

朝6時過ぎの出発にもかかわらず、意外にも長い区間混雑しており、驚く。早朝から長距離通勤する人が多いのである。特に大阪方面から姫路へと向かう人が多いことに驚いた。帰りは早く退社出来るのであろうか。

また、姫路からの列車も混んだが、これは都市圏際の不便であり、観光客等の集中によるものであった。そして岡山からは比較的穏やかなものとなり、琴平行の列車も何処か長閑な感じで瀬戸大橋を渡り始めたのである。


瀬戸大橋と瀬戸内海の島を連絡する車道
同じく瀬戸大橋上から。途中にある島の家屋や、そこと橋の車道を繋ぐ連絡橋が見える。開通から今年で30年。島の暮しはどう変わったのであろうか


瀬戸大橋線からみた四国坂出のコンビナート「番の州臨海工業団地」
そして、間もなく四国側の坂出(さかいで)にコンビナートが見えてきた。「番の州臨海工業団地」と呼ばれる香川随一の工業団地である。瀬戸大橋線もそこに接するが、瀬戸内横断は意外にも短時間であった。距離は10km程なので、そこに達するまでの岡山・児島間の方が数倍距離がある


土讃線の金蔵寺駅(香川県)
四国に入り、宇多津、丸亀、多度津等の沿岸主要駅を過ぎると、列車は讃岐平野内陸へと進み始めた。やがて現れたのが、この金蔵寺駅。棕櫚生える南国風情に溢れた地方駅だが、傍らに智証大師円珍の生誕地を示す石碑があり注目する。天台座主であり、寺門派の祖となった円珍は、なんと競合一派ともいえる真言宗祖で同じく讃岐出身の空海の甥であった


岡山県の児島からの列車が到着した香川県の琴平駅

金刀比羅宮

そして10時40分、琴平駅着。快速・普通のみの利用としては、京都から4時間半という、まずまずの早さ。古い駅舎を改装した真新しい琴平駅には少々古めかしい色合いの電車から、観光客と思しき多くの人が降り立つ。


桜咲く香川県琴平駅前
琴平駅前と金刀比羅神社がある象頭山(ぞうずさん)。駅前にも寄進された石灯籠が並び、金比羅信仰の厚さが感じられる


讃岐金刀比羅宮の石段開始箇所

駅前通りと商店街を経て神社直下の表参道に至る。

そう、ここからは山の中腹にある本殿まで続く彼の有名な石段が始まるのである。写真のここは表参道最初の石段。両側には参拝者向けの土産や飲食の店が続く。


讃岐金刀比羅宮の石段参道と桜
聞きしに勝る立派な石段が続く金刀比羅宮表参道。傾斜も徐々に強くなってきた。参道脇の方々で桜をみたが、開花状況は意外と満開手前で、京都と同様に感じられた。土産店の奥から聞こえた店と客の会話によると、今年は当地もかなり寒かったらしく、若干遅れ気味となったのかもしれない


讃岐金刀比羅宮の石段参道脇の屋根付石塀
金刀比羅宮参道脇にあった石塀。「布積(ぬのづみ)」と呼ばれる一般的な工法ながら、長い石材を傾斜地に積み、大きな笠石を設けているのが珍しい。崩れやすい工法・条件なので見えない場所に何らかの対策が施されている筈である。なお、笠石は継ぎ目のない一枚板という豪勢な仕様


讃岐金刀比羅宮の旭社社殿
金刀比羅神社本宮下にあった旭社(あさひしゃ)。幕末築の豪壮な建築で、重要文化財に指定されている


金刀比羅神社本宮前の最後の急段
旭社の横には本宮へ至る最後の急段があった


讃岐金刀比羅神社本宮
金刀比羅神社本宮

最後の急段を上がりきると金刀比羅宮中核の本宮前に到着した。石段総数は785段とのことだが、個人的には疲労を感じることはなかった。この先最後の奥宮まで進むと、その倍近い石段数になるというが、昨年の台風被害により道が閉ざされており、行くことは叶わなかった。


讃岐金刀比羅神社本宮と南渡殿
金刀比羅神社本宮(右)と、そこから隣地の三穂津姫社まで続く南渡殿(左)。本宮の左横を見た格好だが、かなり凝った造りとなっている


讃岐金刀比羅神社本宮南側壁の蒔絵
金刀比羅神社本宮の南側壁(正面向かって左側)には豪華な蒔絵がみられた。樹幹に金、花弁に銀を使った桜で、これほど大きく、高く盛った高蒔絵は見たことがない。但し、残念ながら花弁の銀は黒化している


讃岐金刀比羅神社本宮横より見た讃岐平野や讃岐富士
高所にある金刀比羅神社本宮横の広場からは、讃岐平野や讃岐富士(左奥)が一望できた。讃岐平野は南の山脈が吐き出した砂礫により瀬戸内が埋まって出来たらしく、象頭山と似た小山が無数に点在する特徴を有している。小山はサヌカイト等の火成岩で出来た残丘で、元は島だったという


旧金毘羅大芝居
旧金毘羅大芝居正面

大きな平坦地に社殿が並ぶ本宮区域を参観後、元来た道を下る。麓近くでは参道を逸れ、有名な「旧金毘羅大芝居」を見学した。幕末に建造されたという現存最古の芝居小屋である。但し、興行準備のため、中の見学は叶わなかった。

そういえば、帰途寄るつもりでいた金刀比羅宮の書院見学を失念してしまった。神社の案内にも「帰りにどうぞ」みたいなことが記されていたが、下山者の目に付きやすい案内がなく見過ごした。対策すれば参観者が激増するように思われるが、如何であろう


桜と琴平町公会堂
未だ現役の文化財級建築「琴平町公会堂」

旧金毘羅大芝居への途上に興味深い古建築があったので帰路寄ってみた。「琴平町公会堂」という昭和初年築の大型和様建築で、現役の公会堂という。これも文化財級の存在


大手から見た桜咲く丸亀城
丸亀市街中心に聳える石垣の名城、丸亀城

丸亀へ

金刀比羅宮の表参道を下り、繁華街の外れでうどん店を見つけ、本場讃岐うどんを初体験したあと、列車で沿岸部の丸亀に入った。

時間を有効に使うため、駅前で自転車を借り、先ずは市街中心に聳える丸亀城に向かう。丸亀城は17世紀初期に築城の名手・山崎家治が再建し、その後、元近江北半守護家の京極氏が長く治した城として知られる。

特に総高日本一とされる高石垣が有名で、駅前から見ても、その威容が目を惹く。本来は亀山という天然の小山を利用したものらしいが、その気配はなく、全てが人造的に感じられるという、特異な平山城である。


丸亀城大手一の門の櫓内
丸亀城「一の門」の櫓内

丸亀城では大手門にある「一の門」の櫓が公開されていたため、参観した。17世紀後半の建造とされ、江戸初期の城郭建築の実態を今に伝える。


丸亀城の高石垣
美しい丸亀城の石垣。この部分だけで20m以上の高さがあるという


丸亀城天守閣
古格遺す丸亀城天守閣

各郭を経由する登城路を登りきると天守閣が見えた。四国最古の現存天守で、17世紀半ばの築という。高さは15m、標高66mの本丸上に聳える。


丸亀城本丸よりみた讃岐平野と象頭山
丸亀城本丸からみた西方の讃岐平野と象頭山(左奥)。即ち、先程登った金刀比羅宮の所在地


丸亀城本丸より見た丸亀港と瀬戸内海
こちらは北方、丸亀城本丸より見た丸亀港と瀬戸内海


丸亀城本丸からみた坂出方面
続いて東北、丸亀城本丸からみた坂出方面


丸亀城本丸からみた瀬戸大橋
前掲画の拡大。瀬戸大橋が見える


丸亀で食べた讃岐うどん
丸亀で食した本場讃岐うどん

丸亀城址見学後、丸亀市街にてまた讃岐うどんを食す。予備知識無しで目についた店に入ったが、麺・つゆともに美味であった。しかも安い!

うどん目当ての場合は、本来なら朝郊外を巡らないといけないようだが、欲張った旅程なので、まあご諒解あれ……。


丸亀港の太助灯籠
旧丸亀港にあった、幕末の豪勢な銅製寄進灯籠「太助灯籠」。丸亀での滞在時間は少なかったが、自転車の機動力を活かして城や海辺を巡った


高松城址の石垣と琴電
高松城址の石垣と私鉄「琴電」の車輌

最後は高松から帰路に

最後は、また列車で香川の中心都市・高松まで移動。県庁所在地らしい、垢抜けた市街を巡り、また讃岐うどんを楽しむなどする。

食後、高松城址の傍を通るなどして市街を見、その後、岡山行の列車に乗り帰路に就いた。山陽線の事故で20分近く列車が遅れるなどしたが、2度の乗り換えを経て無事京都に帰着した。

列車の時間に気を取られた旅ではあったが、色々と堪能出来たとは思う。何より、旅費が全て込みで3000円程となったことも愉快であった。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行