2010年02月21日

安土城会

古道沿いに古い家並が続く、観音寺城の麓でその城下町跡とされる、滋賀県湖東の石寺集落

今年初の戸外催事「城会」開催

未だ冬風情に満ちる2月下旬、今年初の戸外催事を行った。場所は滋賀県湖東の安土。そこにある観音寺山と安土山への踏査行であった。観音寺山は戦国期以前に巨大山城「観音寺城」が存在し、安土山は安土桃山時代開幕の象徴「安土城」が築かれた場所。今回はその遺構の実見が目的であった。よって、会の名義は、山へ行くも「城会」となった。

気温は低いが、折しも空は快晴という中々の日和。初の「城会」の開催であった。

先ずは観音寺城麓集落「石寺」へ

朝、JR線の能登川(のとがわ)という駅に集合し、バスにて観音寺山麓へ移動。「観音寺口」という停留所で下車するが、そこは予定していた観音寺城の大手(追手。正面口)ルート起点である「石寺」集落ではなかった。地元の人に聞き、西方数キロにあるというそこまで徒歩にて移動。思い込みに因るのっけからのハプニングであったが、何とか遣り過ごした。


上掲写真: 古道沿いに古い家並が続く石寺集落。観音寺山山麓で、かつて観音寺城関連施設とその城下町があった場所とされる。今は田園集落的風情に満ちるが、実は全国の近世城下町、そしてかの「楽市楽座」の起源地かもしれないという、重要な場所であった。


観音寺城の麓でその城下町跡とされる、滋賀県湖東・石寺集落の、中心地から観音寺山に向かって伸びる旧道の急坂
石寺集落中心から観音寺山に向かって伸びる旧道急坂

発掘調査等により、観音寺城城下町時代の街路を踏襲したものではないかと推測されている。それによると、当時は5m以上の道幅があったのではないかとみられている。


近世城郭の祖、安土城前身「観音寺城」

観音寺城は、湖東平野内に孤立する観音寺山系の主峰「繖山(きぬがさやま)」山上の尾根や谷筋に構築された無数の郭からなる山城。鎌倉期以降、近江最大の権威と化す源姓佐々木氏系の六角氏が居城とし、戦国末期まで存在した。規模は東西700m、南北700m。その大きさから、日本5大山城の1つにも数えられる。特筆すべきは、卓越した石垣技術の利用で、のちに大いにそれを用いて近世城郭の祖となった安土城の、前身的存在とも見做されている。

つまり、これから向かう場所は、姫路城や二条城などの、今見られる城、そしてイメージされる日本の城の、源泉ともいえる場所であった。


戦国時代の観音寺城の大手道跡とみられる、比較的整備された石段・木段の急登をゆく城会一行

嘗ての登城路から山上へ

さて、城会一行は石寺集落最上部にある六角氏麓居館「屋形」跡地等を見学して山へ入った。道は写真の通り比較的整備された石段・木段の急登。嘗ての正面登城路「大手道」とみられるルートであったが途中より断絶する為、脇の観音正寺参道を行くこととなった。だが古図によると、それも登城路の1つ。当時の遺構と思われる古い石垣が散見されることからも、それを確かとさせる。

それにしても、「山会同様の準備が必要」と告知したにも拘らず、街歩き同様の軽装者が多いことに少々心配する。途中、山を下り来るお遍路さん達の、杖つく行者姿にもそれが増幅される次第であった。まあ、仕方なかろう。途中での泣き言は許すまい(笑)。


戦国期には観音寺城の郭の1つであったという、観音寺山(繖山)中腹の観音寺正寺から見た湖東平野や近江富士「三上山」

観音正寺にて昼食

幾度かの休憩を経つつ、ひたすら段を踏むこと暫し。やがて山上に開けた観音正寺に到着した。西国三十二番札所、近江有数の古寺である。戦災や火災により残念ながら古物の残存はないが、少なからぬ参拝者の姿から、今なお尊崇集める様が窺えるこの寺。実は、城の郭跡の1つでもあるという。城の機能強化が図られた戦国期に、一旦麓に移されていたというのである。

時は早くも正午過ぎ。眺めが良く、座る場所も確保出来るここの門前にて昼食休憩となった。ここが頂上で、登坂も終りだと喜んでいる人。申し訳ないが甘い(笑)。しっかり休んで、気力と体力を回復させるように……。


上掲写真: 観音正寺境内より望む湖東平野。地平右端に見える円錐型の小山は、かの近江冨士「三上山(432m)」である。即ち、南方は守山・草津方面。


観音寺城の頂上方面の郭に向かう直登の石段を登る城会参加者

本郭方面の探索開始。繖山山頂へ

昼食後、観音正寺を出ていよいよ本郭方面への探索を開始。森中に入り、古跡を探す。写真は、その途上頂上方面の郭に向かう直登の石段を登る参加者。恐らくは防御目的とも目されるその急峻さに、音をあげる人も出たが、何とか頑張って登ってもらえた。


観音寺城の頂上方面の郭前に現れた古い石組防壁と犬走的通路
頂上方面の郭に向かう急登の果てに現れた古い石組防壁

観音寺城最上部の郭で「三国丸」跡と伝承される場所の外壁である。防壁前に伸びる通路状の空間は、「犬走り」であろう。犬走りは、石垣の崩れ止めや、寄せ手(攻城者)姿の捕捉の為に設けられたとされる施設である。石垣高は3m弱程か、放棄されて約450年の時を経た戦国遺構である。


繖山(観音寺山)山頂の標識と、湖東平野や雪を戴く伊吹山の眺め

三国丸伝承地の郭から尾根伝いに5分程歩いて山頂へ出た。途中、尾根上に城戸状の石組を発見。施設裏門跡か。標高432.9mの繖山山頂に郭跡はないが、眺めがいいので見張り場のようなものはあったのかもしれない。写真はそこより北方を見たもの。中央遠くに、雪を戴く伊吹山(1377m)が見える。


大きな石で組まれた、観音寺城西方本郭地帯の最大郭「平井丸」の正面外壁

観音寺城本郭部

山頂より引き返し、先程登った急登を下って、西方の本郭地帯に入った。現れる石組の規模が大きくなり、郭内の見通しも良くなる。その中で最大のものが「平井丸」という伝承名を持つ郭であった。写真はその正面側外壁である。大石を以て成された大壁中央に階段状の大玄関を有する大郭である。この城が、安土城そして豊臣大坂城の前身であるという意味が最も腑に落ちる場所であった。


観音寺城西方本郭地帯の最大郭「平井丸」の正面石垣西角部分
「伝平井丸」正面外壁西端部

崩れ易い石垣の端面(角)は、高い施工技術が要求される場所という。450年間放置されているにも拘らず、崩落をあまり見ないこの石垣の様は、観音寺城の施工技術水準を知らしめるようで興味深い。また、後代に積み直し等の補修を受けた可能性が殆どないということから、戦国期以前の技術を直に観察出来るという貴重な存在でもあった。

なお、平井丸の「平井」というのは、六角家重臣の平井氏のこと。本郭部中心である「本城(本丸)」周囲には、様々な重臣の名が伝承上付されている郭が存在する。平井丸もその1つであった。


観音寺城本郭部にある、城主六角氏の居館・本丸推定地内の広い平坦地

広い平井丸内部を観察中、途中参加のK君より到着の連絡が入った。子供を担いで安土駅から遥々歩き、裏登城路を上ってきたという。ご苦労様である。平井丸上部の本丸伝承地にて落ち合い、皆で労う。写真は正にその本丸伝承地。他の郭同様、石垣の防壁に囲まれ、内部にはかなりの広さを有する平坦地があった。ここに、城の主たる近江南半守護家六角氏の居館があった筈だが、今は静かな山風情に包まれるのみである。


観音寺城本郭部にある、六角氏の居館・本丸推定地裏口の石組み虎口跡
K君も通過した、安土駅からの裏登城路が繋がる本丸裏口

態と外壁を前後に食い違いに開口して防御性を高めるという、「虎口(こぐち)」という建設形態を採っている。これも、ここが城塞であったことの証となる。


繖山から安土山への尾根道から見た、琵琶湖の内湖「西の湖」や湖跡平野そして半島状の安土城址

下山。安土城址へ

本丸見学後、尾根伝いに安土城址へ向かうこととなった。実は、安土城行きは、開催前既に距離的・時間的な理由から諦めていた。よって、観音寺城本郭部見学後は裏登城口から下山する予定であったが、安土城見学を希望する参加者が多かった為、距離や体力消耗を納得してもらった上で変更することとした。

来た道を一旦を戻り、先程の急登をまた上る。繖山頂上を経て、尾根伝いにある安土山まで行く為である。写真は、頂上直下の尾根道上に現れた安土山全景。手前から続く山地の先、琵琶湖の内湖「西の湖」に接する小山が、嘗てその豪華が欧州まで聞こえたという安土城があった安土山である。七重にして上部総金箔張りと伝えられるその天主(天守)は、小山頂上(画像中央)に聳えていたという。

当時、安土山は三面を内湖に囲まれた半島の如き場所であったという。防御施設としての堅固さと、天下人の権威を示す華美を兼ね備えた前代未聞の存在であったことを、この眺めから少し想像出来た。


以前の火災により木が少ない繖山から安土山へ続く急な尾根道を下る城会参加者
繖山から安土山へ続く急な尾根道を下る

周囲に樹木が少ないのは、10年程前に一帯で起った火災の為。相当な被害規模だったらしく、炭化した樹々を今も方々で見かけた。


安土城址大手門跡付近から見た、天守台に続く復原石垣や石段

入城刻限過ぎるも、ほぼ予定消化

やがて、山道を下りきり車道へ出た。安土山手前にあって尾根を乗り越す旧朝鮮人街道の峠「北腰越」である。安土城下へ通じるこの道は、元は安土築城の際整備された大手道「下街道」であったという。

その下街道を下りつつ安土山縁辺を行き、やがて城址正面である大手門跡に着いた。皆長い歩行によく耐え無事本日最終地に着いたが、残念ながら城内入場の刻限は過ぎていた。だが、城址に石垣しか残っていないことを知った参加者の多くは、あまり気にしない様子。観音寺城址石垣で満腹となったのか、疲労が興味に勝ったのか原因は不明だが、時間配分ミスの責任を問われかねぬ身としては、不幸中の幸いであった(笑)。

まあ、安土城は要望でもあれば、別の機会にでも独立企画としてまた行ってもいい。

さて、暫し大手門跡付近にて休息し、観察可能な石塁や門址を見学。その後、城と旧城下を繋ぐ「百々橋(どどばし)」を渡り、城下町跡の集落を経て安土駅へ向かった。そして、JR線に乗り、草津駅にて下車し、入浴と打上げの食事会を行ったのである。

当初は参加者の体力等に不安もあったが、頑張ってもらえたお蔭で、ほぼ予定を消化することが出来た。皆さん、お疲れ様!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城会