2018年06月17日

山寺観望

安祥寺上寺跡「観音平」より見た山科盆地等の眺め

消えた古代寺院の痕跡追う

梅雨中ながら朝から良く晴れた今日は久々の平会(ひらかい)開催日。

「平会」は平地の文化・歴史事象を探索する企画だが、今日は山にも登るので登山企画の「山会(やまかい)」ともいえた。よって両者折衷の「平山会(ひらやまかい)」の種別で告知したが、記事分類を増やすのも煩瑣なので、一先ずは平会扱いとすることにした。

今日の企画は、京都市東郊に広がる山科盆地北端にあったとされる古代真言寺院「安祥寺(あんしょうじ)」の探索。往時の法灯を継いだ同名の寺院が同地に現存するが、近世に場所を移して再建されたもの。

今日探索するのは相当な寺観と寺格を有しながら田野に消えたその「下寺(しもでら)」と、北方山中に遺構として残る「上寺(かみでら)」。つまり、消えた古代寺院の痕跡を追う企画であった。


上掲写真: 今から約1170年前、標高320mの尾根上平坦地に築かれ、今もその遺構面が残存する安祥寺上寺跡より見た山科盆地等々の景(南方向)。平地に広がる市街以外の眺望や清爽感は古代から変わらぬものであったであろう。


山科盆地における琵琶湖疏水の西端部
山科盆地における琵琶湖疏水の西端部。国有形文化財「栗原邸」の近隣

自転車騎乗にて東行山科へ

朝、朝食を兼ねて京盆地東にある馴染みの喫茶店に集合し、各自自転車の騎乗にて出発。

陽射しと共に気温も高めだが、比較的乾燥しているので、まだマシか。京盆地と山科を隔てる東山(九条山)の国道峠を越え、山科盆地に入った。

当初は市街地にある安祥寺下寺跡から巡るつもりであったが、気温上昇や疲労を考え、先に山上の上寺を目指すこととなった。その為、往来が多い市街地を避け、盆地北の山際を流れる琵琶湖疏水縁の小道に入った。

疏水に接すると、有名な洋館建築があったので少々見学。今回の資料や情報の収集でもお世話になった京都市考古資料館の設計でも知られる本野精吾による「栗原邸」である。昭和4(1929)年築という、コンクリートブロック積みによるモダンな邸宅だが、傷みが目立ち、行く末が案じられた。


栗原邸近くの琵琶湖疏水縁の古い高石垣
栗原邸近くの疏水縁にて古い高石垣を発見。近代以降の施工法と見られるので、明治18(1885)年から23(1890)年の疏水建造時の擁壁と思われた。何度も通った道だが今回初めて気づく。前近代のものとは異なる趣と美しさがある


安祥寺上寺遺構へ続く道の始点に立つ「安祥寺上寺跡」の石碑

安祥寺上寺跡へ

疏水縁を東行し、山科駅裏の毘沙門堂門参道との交点からは参道を北上して山間の道に入る。道はやがて未舗装の林道風情となり、路傍に石碑立つ写真の場所に到着した。

「安祥寺上寺跡」を示す近年建てられた石碑の傍には上寺遺構方面へ続く小道が分岐している。自転車をここに停め、軽く準備をして、いよいよ山中に分け入ることとなった。

個人的には10年以上振りの再訪か。期待と変化への不安を感じつつ進む。


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安祥寺上寺跡石碑から続く古道

分岐から林間に入ると状態の良い古道が沢沿いに北奥へと続いていた。途中の渡渉地点には橋の台座を想わせるような石積みの跡も見られた。しかし、その後は昭和期の砂防ダムや防災林道により破壊を受けていた。

現在、上寺へ向かう往時の道は確認されていないが、皇太后の発願寺であり入唐八家ゆかりの寺でもあるので、相応の通路があった筈である。地形・交通の便からみて、この南谷のルートにあった可能性が高いが、破壊を受けたのは残念無念。


安祥寺とは

ここで古代安祥寺について解説しておこう。

地理的には山城国宇治郡北部、即ち現京都市山科区の山科盆地北端に「下寺(しもでら)」、その北2kmの山上(安祥寺山国有林内)に「上寺(かみでら)」として存在した。現存する安祥寺は創建時の位置ではないとする説が有力で、元の位置は安祥寺川が山から出た現山科駅北付近とされるが、詳しいことは判っていない。

開山の恵運が貞観9(867)年に記した『安祥寺資財帳』によると、下寺の広さは18町8段12歩(128354m2)で、東は「諸羽山(もろはやま)」、南は「興福寺地」、西は「山陵」、北は「山川」まで広がっており、下寺は「松山一箇峯」とその周囲の山地50町(594050m2)の広さで、東は「大樫大谷」、南は「山陵」、西は「堺峯」、北は「檜尾古寺(ひのおのふるてら)」まで広がっていたという。

上寺は如意ヶ嶽(大文字山)に連なる安祥寺山の中心尾根上の標高320m地点に開かれた通称「観音平」にあり、人界と隔絶された山岳寺院の趣をもつ。中核施設があった区域の広さは約60m四方。また、左右を尾根に囲まれ、それらの尾根の頂部3箇所全てに経塚の遺址があるなど、古代の土地思想を想わせる非常に対称的な構成が窺える。

下寺は如意ヶ嶽山地から流れ出た安祥寺川の山麓扇状地辺りにあったとされ、平安末には存在した東海道にも近く、都との連絡や貴人参拝の至便さが窺える。中核施設は南北200m強、東西100m弱の広さで、周囲を築地が囲み、三方に門があったという。

歴史的には、安祥寺は仁明天皇の女御で文徳天皇の母である藤原順子(のぶこ)を願主、空海の孫弟子にあたる真言僧恵運を開基として平安初期の9世紀中頃創建された。

史料によると嘉祥元(848)年に建立が始まり、仁寿元(851)年には僧が住み始めたとされる。その記述は最初に開かれた上寺のこととする説が有力だが下寺とする説もある。上寺先行説に従うと下寺の創建は不明だが、『資財帳』にその記載があるので、867年までに整備されたとみられる。

そして斉衡2(855)年に定額寺となり、翌年上寺とみられる寺地の周囲50町歩の山林が順子より寄進された。上寺は施設の数や規模に勝るため法会の場所とみられ、下寺は倉等を備えるため寺院経営の中枢とみられる。

10世紀初頭までその繁栄ぶりが窺えるが、同世紀末には経済的翳りが見え始め、12世紀には経済基盤が動揺。平安末期の12世紀後期には実厳が現安祥寺の付近に西安祥寺を建て、やがてそちらが伝法の中心となった。そして、14世紀後期には上寺の伽藍中枢の壊滅状態が窺え、15世紀後半の応仁の乱で西安祥寺も焼け全寺的な衰微が決定づけられた。

17世紀初期の江戸幕府の調査でも子院一所のみ残る衰退を確認。しかし寛文6(1666)年に寺地10万坪を毘沙門堂に譲渡する代償に現寺地が与えられ、そこでの復興が始められた。


古道跡とみられる観音平横の急斜谷沿いの整地帯と石段的痕跡
ダムを越え、道はいよいよ谷沿いの急斜となる。倒木や間伐材が散乱して通行し難い箇所もあったが、なんとか進む。写真はその区間の最上部から下方を見たもの。足下の谷沿いに幅半間程の古道とみられる整地帯が見られた。そこには石組みか岩盤を削り作ったような階段状の痕跡もあった

安祥寺上寺跡遺構がある観音平中心部
観音平中心部。主要堂舎の基壇や須弥壇跡とされる起伏が見える

平安初期の地表残る天空の平坦地

そして、谷の源頭に達する前に左側の急斜上部を戻り巻く形で観音平へと進んだ。先ずはその一段下の、客亭や浴堂があったと推定される幅数mの細長い平坦地に出る。その後、平坦地南端から緩傾斜の小道を登り、観音平に出た。

調査が行われた直後だった以前より樹木が茂っていたが、険しい道の先に現れた天空の平坦地に一同感心。石などを動かさないように注意し、軽く観察後、前掲の展望地にて昼食休憩とした。


安祥寺上寺跡にあった布目瓦
到着間もなく古い布目瓦を発見。写真でわかるように、裏面に布貼りの跡がある瓦である。古代奈良期から中世室町期にかけて使われたもので、比較的早くに廃れた上寺の歴史を考えると、創建時のものの可能性もある。因みに写真では下面となり見えない表側に圧縮の際につく縄目がある


安祥寺上寺跡右奥にあるL字形の溝跡
観音平右奥にあるL字形の溝跡(深さ数mで手前を横切り右奥へ下る)。調査機関によると、尾根上方から伝い来る水の害から境内を守る為に掘られた溝の可能性があるという。但し、この溝はかなりの規模を保って100m程上方まで続いており、類例もみないことから、個人的にその説には納得し難い。元からあった水源を利用した貯水施設のようなものも想定できる

昼食後、遺構面を巡って礼仏堂や僧房等の主要堂舎の痕跡を確認した。目に見える形で各建屋や廊下の基壇が残り、落葉のすぐ下には『資財帳』に記載通りの建屋とその規模に合致する礎石が多数残存しているという。

この遺構は凄さは、後代の改変や転用の跡が窺えず、創建時の境内構成を保ち、かつ遺構面が極めて浅いということにあった。ある意味、古代そのままの地面なのである。因みに、氾濫堆積や人為攪乱の影響を受けている同年代の平安京遺構は地下を1m程掘らなければ探れないという。

道の絶えた天空の高台に静かに眠る安祥寺上寺跡。都市近郊にありながらこのように貴重な遺構であった。しかも本格的な発掘調査は未だ行われておらず、その実施は後代に委ねられている。我々も大切に扱い次代に伝えたいものである。訪れる人には是非慎重な行動をお願いしたいと思う。


安祥寺上寺跡から山頂へと続く尾根とその上の古道

安祥寺山山頂の経塚遺址へ

観音平見学後はその上方、即ち北方の尾根を登り安祥寺山山頂を目指した。写真はその尾根の様子。この山域の尾根の標準的な姿で、頂部には古道が続いていた。

地形図を検討した結果、この尾根が下方で分岐する場所を大きく削平して観音平が造成されたことが判明した。この山域は硬い丹波層群のため、道具に乏しい古代での施工困難が窺われたのである。


安祥寺山頂部に残る平安後期の経塚跡

そして、程なく尾根の頂に到達。標高400m前後の安祥寺山の山頂である。そこには写真の如く、頂部が陥没し、石が散乱する様子が観察できた。平安後期に造られたとみられる経塚の遺構である。

経塚は、末法思想が流行した平安後期に、荒廃から回復した未来に備え経巻を埋め置いた施設。ここで見る陥没と石の散乱は後世の盗掘跡であり、遺跡指定がされる以前に遺物が無くなっていた証でもある。

興味深いのは安祥寺上寺跡を囲う左右の尾根頂部にも同じく経塚跡が存在することである。ここを含む全3箇所の尾根頂部はそれぞれ東西方向の尾根上にあり隣接して共に安祥寺山の頂を成している。標高も殆ど変わらぬ対称的な造りであり、他には見られない何か深い意図の存在が感じられた。

実は観音平真横の左右の尾根上にも大きな平坦地があり、個人的にはそこにも何か塔のような施設があったのではないかと考えている。


安祥寺山西頂から下る尾根と古道
3箇所の経塚を観察した後、その西端遺構から西方尾根を下ることにした。写真は尾根の様子。一見変哲ない様だが、古道とみられる跡が続いている


安祥寺山西尾根に設けられていた鹿の捕獲檻
西方尾根を下る途上で遭遇した鹿用の大きな捕獲器。どこも獣害が問題化しているようである


安祥寺山西方尾根の下端部と古道
そして尾根を下りきり、入山口の古道と合流。体調不良を訴える参加者もいたので、一先ず安堵


山科聖天の門前階段

安祥寺とも関わる上寺麓の古寺見学

安祥寺山下山後は、平野に出るまでにある古寺を見学した。写真は通称・山科聖天と呼ばれる双林院。

残念ながら参加者が希望した歓喜天は見られなかったが、良い雰囲気を味わえた


山門越しに見た双林院本堂
山門越しに見た双林院本堂


山科毘沙門堂の正面石段
山科毘沙門堂の正面石段

双林院の次は安祥寺川谷口にある毘沙門堂を見学。個人的に小時よりの馴染みの寺なので、詳しく案内した。

安祥寺の歴史解説でも記した通り、ここも元は安祥寺の寺領であったという。故に、ここにもその関連施設があったのかもしれない。


改修で美麗になった毘沙門堂本堂
念願の改修が終り美麗の姿を見せる毘沙門堂本堂。約350年前の建造物

下寺推定地を観察し予定終了

毘沙門堂の見学後、麓の市街に出た。次は安祥寺下寺の痕跡を探索する予定であったが、元より地上の痕跡はなく、体調不良者もいたので、施設中心地が想定される古道等を自転車で下りつつ観察し、予定を終えた。

その後は左京市街へと戻り、体調不良者を帰宅させ残りの参加者で喫茶休憩と今日のまとめを行った。そして解散。打上げ等々は体調不良者の回復を待った後日としたのであった。

皆さん、御多忙中色々と有難う、お疲れ様でした!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会