2018年05月04日

奥越観城

恐竜博物館と恐竜の足跡形案内標示

「勝山」の由来地へ

越前勝山(福井県)2日目。

昨夜は当地の従兄宅でバーベキューの集いがあり、それを片した後も、居間にて遅くまで飲み語らっていた。

そして今朝は意外にも早くに起床し、折角の休みを有意義に使おうかと思ったが、前夜遅くからの雨が残り、時折強めの雨になるなどの状況となっていた。

仕方なく、親類と話すなどして時を過ごすと、9時過ぎ頃から漸く天気が回復してきた。よって、以前から気になっていた近くの小山「村岡山(むらこやま)」へ独り向かうことにした。

村岡山は集落傍にある里山風情の小山だが、鉄道等から眺めると、勝山平野の中心で結構な存在感を放つ存在であった。

それもそのはず、実はこの山、勝山の名の由来になったという由緒深い山だったのである。


上掲写真: 村岡山への途上に見た歩道の足跡標示。点々と続くその先には、白く大きな恐竜オブジェと白銀色のドーム建造物から成る恐竜博物館があった。つまりそこへの道標か。なかなか遊び心のある試み。


恐竜博物館と村岡山(御立山)
恐竜博物館と村岡山。両者は別の丘陵端にあり、間には暮見川が流れる

村岡山は地形図等では「御立山(みたてやま)」との表記がされているが、地元では周辺の地名でもある村岡山が専ら使われているようである。

標高は301m。随分低く見えるが、それは平地の標高が145m程あるため。即ち、比高150m程である。


村岡山西麓の「村岡神社」
村岡神社の鳥居

先ずは登山口がある、村岡山西麓の「村岡神社」に向かう。神社横には清冽な沢水が流れており、手水を兼ねた竹樋の備えがあった。孤立した小さな山にもかかわらず水場を持つことに、城山としての適性をみる。


石段が続く村岡山尾根道への登り
石段と石仏続く村岡山尾根道への登り

神社も本来は城と関連した筈だが、特に痕跡は見られず。登城・登山の道は沢沿いと尾根道の二つがあったが、林道的な前者は避け、風情ある尾根道を採った。

神社横から続く石段の細道を登る。陽が射してきたが、先ほどまでの雨により足下が悪く少々慎重を要す。道沿いには四国霊場を模した石仏が続いていた。


村岡山尾根道に現れたカモシカ

石段道を登りきると、明るく広い尾根道に出た。そして、そこを暫く進むと写真の如く獣を発見。

毛の色からするとカモシカか。関西では珍しい動物なので少々驚く。というより、こんな孤立した山にどうやって入ってきたのか。

まあ、従兄の話ではこの近辺では街場近くでも熊が出るらしいので、珍しいことではないか。しかし、この鹿は人慣れしているのか、こちらをじっと見たまま立ち去ろうとしない。先を塞がれた形となり困ったが、一旦引き下がるふりをしたら、先へ行ってくれたので、進むことが出来た。


村岡山城址の山上広場

村岡山城址

尾根道の後はまた森なかの登りとなり、間もなく山上にでた。高低差が少ないだけに、あっという間の散策的登山であった。

山上は写真の如く平坦で広く、寛ぎのための椅子やテーブルの備えもあった。


村岡山城跡縄張図
現地の解説板にあった「村岡山城跡縄張図」

実は広場は城跡であり、現地の縄張(なわばり)図にあった最も広い空間に当たる。主郭(本丸)直下なので二ノ丸のような要所か。

城跡は図の如く、山頂とそれに隣接する尾根上に郭が連なる形で残存していた。城は天正2(1574)年に一向一揆勢により構築され、同年攻撃してきた平泉寺勢を大敗させて「勝ち山」の名を得たという、勝山地名由来の城とされる。

その後、一揆を制圧した織田方柴田氏の居城となり、1580年にその後維新まで続く市街中心の城に拠点が移され廃されたという。僅か数年の存在ながら、抜かりない縄張に当時の緊迫した奥越情勢が窺える。


村岡山城址から大野方面の眺めと荒島岳
村岡山城址から南東は大野方面の眺め。左奥には百名山の一つ、荒島岳(1523m)が見える


村岡山城址の土塁と城戸口の遺構
村岡山城址広場と下位の郭を隔てる土塁と城戸口の遺構。土塁は場所により数mの高さを残す。因みにこの城戸は屈曲のない「平入虎口(ひらいりこぐち)」。左の土塁が縦、右が横方向になっており、2面防御が可能なのためと思われる。最下位の郭にある城の東口には喰い違いにされた「喰違虎口」があった。


村岡山城址の広場からみた主郭
広場から主郭方面を見ると、それが一段高い場所に構築されていることがわかる。山頂の一部を掘り残して造られたか


主郭と広場の間にある堀跡
主郭と広場の間にある堀跡。素掘りながら、水や逆茂木があれば主郭への侵入は困難となる。更に堀にも屈曲があり、近世的な垢抜けた縄張法が感じられた。そのようなことから、主郭周辺の城塞東部は、一揆が急造した砦を織田勢が改造したとの見解が示されているという


村岡山城主郭跡からみた堀と土橋と広場
主郭より広場をみる。中央は広場と主郭を繋ぐ唯一の通路「土橋」


主郭広場と忠魂碑
主郭広場と忠魂碑

唯一堀を区切る土橋と急坂を経て主郭に登る。そこもまた広場となっていた。その端には戦没者の慰霊塔があり、城址を示す古い石碑もあった。


村岡山城址主郭内の櫓台跡
主郭広場の西北端にあった「櫓台」とされる場所

主郭広場の端には、他よりまだ少し高い場所があった。「櫓台」即ち、のちの天守に相当する建屋があったのではないかと推察される場所である。確かに、主郭の角に在るところなどは、近世城郭との類似を想わせた。


村岡山城址主郭櫓台跡からみた九頭竜川河谷と福井方面
主郭櫓台跡から九頭竜川河谷と福井方面を見る

城址からは四方の景色がよく見渡せた。麓の勝山は勿論、大野・美濃、福井・沿海、山越え加賀方面等である。正に軍事・交通の要所。そう考えると、一揆以前から城塞が営まれていてもおかしくない立地に思われた。


主郭櫓台跡からみた恐竜博物館と雪残る大日山
主郭櫓台跡からみた恐竜博物館(左下)と未だ雪残る大日山(1368m)

北方には恐竜博物館と大日山(だいにちさん)が見えた。後者はまだ雲が晴れず頂は見えないが、未だ多くの残雪の存在が窺えた。さすがは豪雪地帯。2月の大雪の時はどれほど積ったのであろうか。

因みに、大日山の右側稜線に「大日峠」や「谷峠」等の加賀越えの古道、一向一揆往来の道があった。谷峠付近には現在立派な国道隧道がある。


村岡山城址西部の郭跡平坦地
村岡山城址西部の郭跡平坦地。即ち、一揆勢構築の原形が残るとされる場所。確かに土塁や屈曲部等がなく、原初的に感じられた


IMGP6461.jpg
主郭下広場にまた現れたカモシカ

有意義な村岡山見学終了。整備・公開のお手本に

村岡山城址西部を見学後、また元の広場に戻り、来た道を下山することに。ところが、広場には先ほどのカモシカがまた草をはみに来ており、進めなくなった。向こうもこちらを見ているのだが、逃げようとしない。

下山口前におり、いつまで待っても降りられないため、仕方なく驚かさない程度に近づくことに。すると、漸く広場東側に逃れてくれた。ひょっとすると、餌付けでもされているのであろうか。

下山後は折角なので村岡山を一周観察して帰ることに。村岡山は、東側がその先の高地から伸びる丘陵と接続しているが、その間は微高地程度でやはり孤立した不思議な存在であった。ひょっとすると、防備のため微高地上の寺尾集落辺りの200m四方程が掘り落とされているのかもしれない。

また、北麓の暮見川や南麓の浄土寺川等の河川に守られた堅固な立地であることも確認できた。

昼過ぎに従兄宅に戻ると、なかなか帰らないことに呆れられつつ、従兄手料理のオムソバを頂く。申し訳ない、お待ち遠さまのご馳走様でした(笑)。

とまれ短時間ながら良い歴史地理散策が出来た。村岡山城址は無名の山城にもかかわらず、確りと整備・説明がなされていたことに感心した。著名な如意ケ嶽(大文字山)城址や将軍地蔵山(瓜生山)城址を擁しながら、ほったらかしの荒れ放題にしている京都市も是非見習ってほしいと思う。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行